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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の機関    

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659/701

[会社法・監査役]現場編 「監査役は黙ってハンコを押せ」の罠。会社の金を私物化したワンマン社長と、たった一人の監査役が突きつけた商法の刃

挿絵(By みてみん)

 会社の金庫に鍵をかけるのは、泥棒を防ぐためです。


 では。


 その鍵を持っている社長自身が、会社の金を盗もうとしたら。


 誰が止めるのでしょうか。


 取締役?


 その取締役が、社長の言いなりだったら?


 株主?


 その株主が、会社の内情を知らなかったら?


 実は。


 株式会社には、そんなときのために用意された役職があります。


 監査役。


 会社の経営を監視し、不正を見つけ、必要なら取締役の行為に待ったをかける存在です。


 ただし。


 昭和六十三年。


 その役職は、ときとして社長の親戚や知人に押しつけられる、名前だけの肩書でもありました。


 そして、その日。


 片桐行政書士事務所を訪れた老人は、震える手で一枚の紙を差し出したのです。


「わしは……社長の言うとおりにハンコを押さなかっただけなんです」


 紙には、こう書かれていました。


 ――監査役解任通知書。


 私は思わず眉をひそめました。


 解任。


 それも、会社の不正を調べようとした監査役の解任。


 嫌な予感しかしません。


 ◇


「監査役なんて、ただの名前貸しだと思っていたんです」


 老人は、申し訳なさそうに言いました。


 名前は、村瀬清一さん。


 六十二歳。


 地元の工作機械メーカー、東海精機株式会社の監査役を務めています。


 東海精機は、資本金二億円。


 従業員八十人ほどの中堅企業です。


 町工場から出発し、今では自動車部品メーカーへ機械を納めるまでに成長した会社でした。


「社長の大黒とは、三十年来の付き合いでしてな」


「大黒さん?」


「大黒剛造。東海精機の社長です」


 村瀬さんは、膝の上で手を握りました。


「会社を大きくするとき、監査役になってくれと頼まれました。難しい仕事はない。決算書を見て、ハンコを押してくれればいいと」


 ……。


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も、嫌そうな顔をしています。


「で、本当にハンコだけ押してたのか?」


「最初の頃は……」


 村瀬さんはうつむきました。


「でも、去年から帳簿がおかしくなりまして」


「どこが?」


「会社のお金が、妙なところへ流れているんです」


 村瀬さんは鞄から帳簿の写しを取り出しました。


 私は覗き込みます。


 ――経営指導料 三百万円。


 ――業務委託費 五百万円。


 ――設備購入前払金 八百万円。


「……合計千六百万円?」


「はい」


「相手先は?」


「大黒商事という会社です」


 相馬先輩が眉を上げました。


「大黒?」


「社長の息子が経営している会社です」


 あ。


 出ました。


 親族会社。


 しかも、金額が大きい。


「その会社は、東海精機に何をしてくれたんですか?」


 私が尋ねると、村瀬さんは首を横に振りました。


「それが、分からないんです」


「分からない?」


「経営指導の報告書もありません。設備も納入されていません。契約書を見せてほしいと言ったら、社長が怒鳴りまして」


 老人の声が震えました。


「監査役のくせに、余計なことをするな、と」


 ……。


 私は帳簿を見直しました。


 千六百万円。


 もし実体のない取引なら、会社財産の流出です。


 しかも、相手は社長の息子の会社。


 利益相反や取締役の責任まで問題になる可能性があります。


「それで解任通知が届いたんですか?」


「はい。昨日、会社の使いの者が持ってきました」


 私は紙を受け取りました。


 ――村瀬清一殿。


 ――貴殿は監査役としての適性を欠くため、本日付をもって解任する。


 ――代表取締役 大黒剛造。


 社長の名前。


 会社の角印。


 立派な書式。


 ですが。


「……株主総会は?」


 私が尋ねると、村瀬さんは首をかしげました。


「ありませんでした」


「監査役の解任について、株主が集まって決めたんですか?」


「いいえ。社長が一人で決めたそうです」


 私は紙を机に置きました。


 なるほど。


 これは。


 かなり面白い事件になりそうです。


 もちろん。


 被害を受けた村瀬さんには、面白がっている場合ではありません。


 でも。


 行政書士受験生としての私の頭には、ある条文が浮かんでいました。


 会社法。


 監査役。


 選任と解任。


 そして、監査権限。


「村瀬さん!」


「は、はい」


「監査役は、社長の部下ではありません!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「監査役を選ぶのは株主総会です! 社長が勝手に解任するなんて、おかしいです!」


 村瀬さんが目を丸くしました。


「そうなんですか?」


「はい!」


 よし。


 今回こそ、現代の会社法が役に立ちそうです。


「それに、監査役には取締役の業務執行を監査する権限があります。会社法三百八十一条で――」


「こはる」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「会社法?」


 ……。


 しまった。


 私は固まりました。


 会社法。


 平成十七年に成立し、平成十八年に施行された法律。


 今は。


 昭和六十三年。


 まだ存在しません。


「……商法です」


「何?」


「商法第二編です!」


「最初からそう言え」


 相馬先輩が机の六法を叩きました。


「お前、また知らねえ法律を作ったのか?」


「ち、違います!」


「じゃあ何だ」


「未来の……じゃなくて、別の教材で……」


「訳の分からんこと言ってねえで、今の条文を見ろ」


「はい……」


 危ない。


 また未来人の知識が暴走しました。


 しかし。


 ここから、私はもっと大きな時代の壁にぶつかることになるのです。


 ◇


「まず、会社の規模を確認しろ」


 片桐所長が口を開きました。


「規模、ですか?」


「ああ」


「資本金二億円、従業員八十人です」


「負債は?」


「こちらの資料では、十億円ほどです」


 所長が頷きました。


「商法特例法上の小会社ではないな」


「……商法特例法?」


 私は聞き返しました。


 所長は本棚から一冊の六法を取り出しました。


 ――株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律。


 長い!


 法律の名前が長い!


「何ですか、この法律!」


「株式会社の監査に関する特例を定めた法律だ」


「会社法じゃないんですか?」


「またそれか」


 相馬先輩が呆れました。


「昭和六十三年の会社のルールは、商法だけじゃねえ。有限会社法もあるし、監査については商法特例法もある」


「うう……」


「会社を作るのにも、発起人は七人以上必要だ。取締役は三人以上、監査役も必要になる」


「ですよね……」


「何が『ですよね』だ」


 現代なら、発起人一人、取締役一人でも株式会社を設立できます。


 資本金一円からでも可能です。


 でも、この時代は違う。


 会社を作るために必要な人数が多い。


 だからこそ。


 親戚。


 友人。


 知人。


 そうした人たちが、名ばかりの役員として集められることがあった。


 村瀬さんも、その一人だったのでしょう。


 ただし。


 片桐所長は、静かに言いました。


「名前だけで引き受けたつもりでも、法律上の役職は消えん」


 村瀬さんが顔を上げました。


「それは……」


「監査役として選任され、就任しているなら、監査役としての職務がある」


「はい……」


「ただし、その権限は会社の規模によっても違う」


 所長が六法のページを開きます。


「昭和六十三年の商法特例法では、小会社の監査役は、原則として会計監査に権限が限られる。一方、中会社や大会社の監査役には、取締役の業務執行を監査する権限がある」


「えっ」


 私は思わず声を上げました。


「現代の非公開会社なら、定款で監査役の権限を会計監査に限定できることがありますけど……」


「だから、その現代とかいう話は何だ」


「あっ」


 危ない危ない。


 また口が滑りました。


 所長は続けます。


「東海精機は資本金二億円。現状の資料では中会社だ。村瀬さんには、会計だけでなく業務を監査する権限もある」


「つまり!」


 私は村瀬さんを見ました。


「社長が不正なお金の使い方をしていないか、調べることができるんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「取締役から報告を求めることも、会社の業務や財産の状況を調べることもできる。必要な範囲で使用人への報告請求だってできる」


 村瀬さんが、震える声で尋ねました。


「じゃあ、わしが帳簿を見せてくれと言ったのは……」


「監査役として、当然に認められる職務の範囲だ」


 片桐所長が答えました。


 老人の目が潤みました。


「わしは……間違っていなかったんですね」


「少なくとも、調査を求めたこと自体は間違いではありません」


 所長はそう答えました。


 ただし。


「取引が違法かどうかは、まだ決めつけられん」


 所長が帳簿を指差します。


「息子の会社への支払だから、すべて不正というわけではない。契約の内容、実際の業務、支払の根拠を確認する必要がある」


「はい!」


「疑いと証明は違う」


 私は頷きました。


 そうです。


 相手が悪そうだからといって、いきなり横領と断定してはいけません。


 まず、事実。


 次に、法律。


 その順番です。


 でも。


 社長が帳簿を見せず、監査役を追い出そうとしている。


 その事実だけでも。


 相当、きな臭い話なのでした。


 ◇


 翌日。


 村瀬さんから、一本の電話が入りました。


『大黒社長が、そちらに行くと言っています』


「えっ」


『行政書士ごときが何を言えるんだ、と……』


 ……。


 来ますか。


 悪役社長。


 しかも、ずいぶん強気です。


 午後二時。


 事務所の引き戸が、勢いよく開きました。


「片桐というのは誰だ!」


 現れたのは、五十代半ばの男。


 高そうな背広。


 金色の腕時計。


 手には革の鞄。


 目つきだけで、部下を三人くらい辞めさせていそうな人物です。


「私です」


 片桐所長が答えました。


「東海精機の大黒だ」


「承知しました」


「村瀬がここに相談したそうだな」


「相談を受けたことについて、本人の了解なくお話しすることはできません」


「ふん」


 大黒社長は鼻を鳴らしました。


「監査役なんて、ただの飾りだろうが!」


 ……。


 私は目を細めました。


 来ました。


 典型的なワンマン社長の発言です。


「会社を大きくしたのは俺だ!」


 大黒社長が机を叩きました。


「工場を建てたのも俺! 取引先を増やしたのも俺! 銀行から金を借りたのも俺だ!」


 相馬先輩は黙って聞いています。


「それを、名前だけ貸した年寄りが、帳簿を見せろだと?」


 大黒社長は笑いました。


「会社は俺のものだ!」


 ……。


 私は思いました。


 違いますよね。


 会社は法人です。


 社長個人とは別の権利主体です。


 たとえ大株主でも、会社の財産を自分の財布のように扱ってよいわけではありません。


「社長」


 私は口を開きました。


「監査役には、法律上の権限があります」


「あ?」


「社長が嫌がっているからといって、その権限が消えるわけではありません」


「小娘が!」


 大黒社長が睨みました。


「会社のことを何も知らんくせに!」


 むっ。


 言いましたね。


「それに村瀬は、もう解任した!」


 大黒社長は胸を張りました。


「俺が解任通知を出したんだ!」


 私は聞きました。


「株主総会は開いたんですか?」


「必要あるか!」


「……必要です」


「俺は社長だぞ!」


「社長でも、株主総会の決議を一人で勝手に作ることはできません」


 大黒社長の眉が動きました。


「何だと?」


 私は続けようとしました。


 そのとき。


「こはる」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「はい」


「もういい」


「でも!」


「相手の考えは分かった」


 先輩は大黒社長を見ました。


「社長は、ご自身の判断だけで監査役を解任できると考えているんですね」


「当然だ!」


「承知しました」


「何だ、その言い方は!」


「確認しただけです」


 相馬先輩は、それ以上言いませんでした。


 片桐所長も静かに告げます。


「本日は、お話を伺いました」


「ふん。最初からそうしていればいいんだ!」


 大黒社長は得意げに笑いました。


「俺が法律だ!」


 そして、事務所を出ていきました。


 引き戸が閉まります。


 私は我慢できませんでした。


「先輩!」


「何だ」


「何で言い返さないんですか!」


「何を?」


「監査役の解任は株主総会の決議が必要だって!」


「言っただろ、お前が」


「でも、全然聞いてませんでした!」


「なら、もう一回言っても同じだ」


 先輩は煙草を一本取り出しました。


「それに、俺たちは弁護士じゃねえ。依頼人の代理人として争いを引き受け、相手と示談交渉することはできねえ」


「はい……」


「だが」


 先輩は机の解任通知を指差しました。


「書面なら作れる」


「……書面?」


「本人の意思と事実を、法的に正確な形にするんだ」


 片桐所長も頷きました。


「こはる」


「はい!」


「定款を確認しろ」


「定款?」


「それから、監査役の選任時の株主総会議事録。今回の解任に関する資料もだ」


「はい!」


「社長の言葉ではなく、正式な手続きを確認する」


 なるほど。


 会社の役職。


 選任。


 解任。


 権限。


 これらは、社長の気分だけでは決まりません。


 法律と定款。


 そして、適法な決議。


 その積み重ねで決まるのです。


「所長!」


「何だ」


「商法の反撃ですね!」


「まず書類を読め」


「はいっ!」


 こうして。


 たった一人の監査役を守るための、書面による反撃が始まりました。


 ◇


 翌朝。


 村瀬さんが保管していた書類と、会社から正式に交付を受けた資料が机に並びました。


 東海精機株式会社定款。


 監査役選任時の株主総会議事録。


 株主名簿の写し。


 そして。


 今回の解任通知書。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「監査役の選任は、誰がする?」


「株主総会です!」


「じゃあ、社長が勝手に解任できるか?」


「できません!」


「どうしてだ?」


「代表取締役であることと、株主総会の決議に代わる権限があることは別だからです!」


「よし」


 私は少し得意になりました。


 そして、株主名簿を見ました。


 大黒剛造。


 五十五パーセント。


 その他の株主。


 四十五パーセント。


「社長、大株主ですね」


「ああ」


「でも、五十五パーセントだからといって、実際に開いてもいない株主総会の決議を、勝手にあったことにはできないんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「それに、監査役の解任を巡る手続には、監査役自身の意見を述べる機会も関わる」


「意見?」


「ああ。監査役は、自分の解任について株主総会で意見を述べることができる」


 私は顔を上げました。


「つまり……」


「取締役の不正を調べた途端、社長が邪魔だから追い出す。そんな場合に、監査役が株主に事情を伝える道も用意されているんだ」


 なるほど。


 監査役が社長を監視する。


 その監査役を社長が自由に追い出せたら。


 監査なんて成り立ちません。


「ところで、先輩」


「何だ」


「監査役の任期は、現代だと原則四年ですよね」


 相馬先輩の手が止まりました。


「……四年?」


「あっ」


「お前、また何の話をしてる」


「いえ、その……」


 しまった!


 また現代知識!


 現代の会社法では、監査役の任期は原則四年。


 非公開会社では、一定の場合に定款で十年まで伸長できます。


 しかも、監査役の任期は、取締役のように自由に短縮できません。


 でも。


 昭和六十三年では違います。


「今は商法二百七十三条だ」


 相馬先輩が六法を開きました。


「この時代の監査役の任期は、原則として就任後二年以内の最終の決算期に関する定時総会の終結時までだ」


「二年……!」


「四年じゃねえ」


「はい……」


「そのうえ、監査役の地位を守るために、任期や解任の仕組みがどう定められているか、きちんと見ろ」


 私は頷きました。


 時代が違う。


 条文も違う。


 でも。


 共通する考え方があります。


 監査する人間が、監査される人間の顔色をうかがっていたら、制度が機能しない。


 だから。


 監査役の独立性が重要なのです。


「村瀬さんの就任は?」


 所長が尋ねました。


「昨年の定時株主総会で再任されています」


「なら、今回の通知の時点では任期途中だな」


「はい!」


「解任決議もない」


「はい!」


 私は書類を見ました。


 社長の署名。


 会社の角印。


 立派な解任通知。


 でも。


 肝心の株主総会決議がありません。


「所長」


「何だ」


「これ、見た目だけ立派な紙ですね」


 所長が頷きました。


「書面は、権限のない者が作ったからといって、権限まで生まれるわけではない」


 私は思わず笑いました。


 そうです。


 どんなに偉そうな社長でも。


 ハンコ一つで、会社の法律を消すことはできません。


 ◇


 問題は、それだけではありませんでした。


「所長、こちらを見てください!」


 私は定款の写しを差し出しました。


 そこには、取締役会についての規定がありました。


 そして、村瀬さんが保管していた昨年の取締役会議事録。


 私は記載を追いました。


 ――取締役三名出席。


 ――大黒商事に対する設備購入前払金の支出を承認。


「……あれ?」


 私は首をかしげました。


「議事録には承認したと書いてありますね」


 相馬先輩が覗き込みました。


「そうだな」


「じゃあ、適法な支出だったんでしょうか?」


「早い」


「え?」


「議事録に承認と書いてあるだけで、全部適法になるわけじゃねえ」


 先輩は資料を並べました。


 大黒商事。


 社長の息子の会社。


 設備購入前払金。


 八百万円。


 ところが。


 納入予定日を過ぎても、設備は届いていない。


 さらに、村瀬さんが入手していた取引先からの回答には、


 ――当該設備の注文は受けていない。


 と書かれていました。


「……注文すらしてない?」


「その可能性がある」


「でも、前払金は支払われている」


「ああ」


「じゃあ、何のために八百万円を……」


 私は途中で口を閉じました。


 嫌な答えが浮かんだからです。


 相馬先輩が頷きました。


「だから調べるんだよ」


「はい」


「取締役会で形式上承認されていても、必要な事実が隠されていたらどうなる?」


「……正しい判断ができません」


「そうだ」


 片桐所長が口を開きました。


「そもそも、実体のない取引を承認することが、取締役の責任を免れさせるわけではない」


「はい」


「監査役は、そうした職務執行の問題を調べる立場だ」


 私は頷きました。


 会計監査。


 お金の流れや計算書類を調べる。


 業務監査。


 取締役の職務執行が、法令や定款に違反していないかなどを調べる。


 今回の東海精機では。


 その両方が問題になっているのです。


「所長、もし社長が、このまま追加でお金を送ろうとしたら?」


 私は尋ねました。


「いくらだ」


「例えば、二千万円」


 村瀬さんが差し出した新しい資料に、ちょうどその数字がありました。


 ――設備更新準備金。


 ――大黒商事への追加支払予定額 二千万円。


 私は息を呑みました。


「まだ払うつもりなんですか!」


 相馬先輩の表情が険しくなりました。


「しかも、来週の月曜日だ」


 片桐所長はしばらく考えました。


 そして。


「村瀬さんに、すぐ確認してもらう必要がある」


「何をですか?」


「この支払について、誰が、どのような決定をしたのか」


「はい」


「取締役会に、どんな資料が示されたのか」


「はい」


「実際に発注する設備は存在するのか」


 所長は資料を指差しました。


「そして、違法な行為によって会社に著しい損害が生じるおそれがあるなら、監査役による差止請求も問題になる」


 私は目を見開きました。


「差止請求!」


「そうだ」


 監査役には、一定の要件のもとで、取締役の違法な行為などをやめるよう請求する権限がある。


 昭和六十三年にも、旧商法にはその仕組みが置かれていました。


 現代の会社法三百八十五条につながる考え方です。


「でも所長」


「何だ」


「私たちが社長に、支払をやめろって交渉するんですか?」


「違う」


 所長が即答しました。


「監査役本人が、法律上の権限に基づいて判断し、行動する」


「はい」


「われわれは、必要な事実を整理し、本人が出す書面の作成を補助する。訴訟や仮処分などが必要なら、弁護士につなぐ」


「分かりました!」


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「いいか、こはる」


「はい」


「監査役の仕事は、社長に嫌われないことじゃねえ」


「はい」


「会社を守ることだ」


 その言葉に。


 私は、ようやく気づきました。


 この事件。


 村瀬さんを守るだけの話ではない。


 東海精機の八十人の従業員。


 下請けの工場。


 材料を納めている会社。


 そして、株主。


 会社のお金が失われれば、その人たちにも影響が及びます。


 監査役は。


 そうした会社の財産を守るために、存在しているのです。


 ◇


 その日の夕方。


 村瀬さんは、監査役として会社に調査を求める書面を提出しました。


 取締役からの報告。


 契約書。


 支払の根拠資料。


 設備の発注状況。


 追加支払の決裁資料。


 その結果。


 翌日には、重大な事実が明らかになりました。


 大黒商事への八百万円の前払金について。


 正式な設備発注書が存在しなかったのです。


 さらに。


 経営指導料三百万円についても、業務報告書がない。


 業務委託費五百万円についても、具体的な成果物が確認できない。


「……全部で千六百万円」


 私は書類を見つめました。


 現段階では、支払のすべてが違法と確定したわけではありません。


 しかし。


 社長の息子の会社へ多額の資金が流れ、その対価を裏づける資料が乏しい。


 しかも、さらに二千万円を送ろうとしている。


 これは。


 放置できる話ではありません。


「村瀬さんは?」


 所長が尋ねました。


「ご本人が、改めて監査役としての報告をまとめたいとおっしゃっています」


 相馬先輩が答えました。


「取締役会にも、資料を示して正式に報告するそうです」


「そうか」


 所長が頷きます。


 私は尋ねました。


「でも、社長が取締役会を開かなかったら?」


「旧商法上、監査役には、必要な場合に取締役会の招集を請求する仕組みもある」


 相馬先輩が答えました。


「しかも、不正が疑われる事情を把握したなら、報告の義務も問題になる」


「なるほど……」


 監査役は、ただ帳簿を眺めているだけの役職ではありません。


 問題を見つけたら、適切な機関に報告する。


 違法な行為が会社に著しい損害をもたらすおそれがあれば、差止めを求める。


 そのための権限と責任がある。


 私は思いました。


 これは、社長にとって。


 相当、厄介な存在でしょうね。


 そして。


 片桐所長が、私に言いました。


「こはる。通知書の原案を書け」


「はい!」


 私は鉛筆を握りました。


「まず、解任通知についてですね!」


「そうだ」


 私は勢いよく書き始めました。


 ――貴殿による監査役解任は違法であり、絶対に無効である。


「待て」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「勢いで書くな」


「……はい」


「何が問題か、正確に書け」


 私は原案を見直しました。


 今回の問題は。


 社長が、株主総会決議なしに監査役を解任したと通知してきたこと。


 だから。


 株主総会決議による解任の事実が確認できない以上、この通知だけでは監査役の地位は失われない。


 そう整理するべきです。


「書き直します!」


 所長が頷きました。


「次に、監査権限についてだ」


「はい」


「取締役に対する報告請求、業務及び財産の調査権限を明確にする」


「はい」


「そのうえで、監査役本人が作成する報告書と、必要な請求書を分ける」


 私は鉛筆を走らせました。


 今回の書類。


 全部を一枚に詰め込めばよいわけではありません。


 監査役の地位についての通知。


 資料提出の要求。


 取締役会への報告。


 そして、違法行為が具体的に認められる場合の差止請求。


 それぞれ、目的が違います。


 所長は言いました。


「相手を怒鳴りつける書面はいらん」


「はい」


「相手が、何を根拠に反論すればよいか分かる書面を作れ」


「……はい!」


「そして、その根拠がないなら、相手は自分の行動を見直すしかなくなる」


 私は頷きました。


 これです。


 片桐事務所の戦い方。


 声で勝たない。


 書類で事実を固定する。


 法律で、逃げ道を狭める。


 ◇


 三時間後。


 机の上には、村瀬清一さん名義の通知書の原案が完成していました。


 表題。


 ――監査役の地位及び監査権限に関する通知書。


 私は読み上げました。


「第一。通知人村瀬清一は、東海精機株式会社の株主総会において適法に選任され、現在もその任期中にある監査役である」


「うん」


「第二。貴殿名義の監査役解任通知書には、解任の根拠となる株主総会決議が示されておらず、現にそのような決議がされた事実も確認されていない」


「続けろ」


「第三。代表取締役の一方的な通知のみをもって、通知人の監査役としての地位を失わせることはできない」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


「第四。通知人は、旧商法の規定に基づき、取締役の職務執行について監査し、必要な事業報告及び資料の提出を求める」


「うん」


「第五。大黒商事への支払について、契約の実体及び対価関係を裏づける資料の提出を求める」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。追加支払二千万円については、取引の適法性及び会社に生じ得る損害を確認するため、決裁資料と支払予定に関する説明を求める」


「いいぞ」


「第七。法令又は定款に違反する行為により会社に著しい損害が生じるおそれがあると認められる場合には、監査役として必要な差止請求その他の法的措置を検討する」


 読み終わりました。


 相馬先輩は、しばらく黙っていました。


 それから。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ああ」


 私は嬉しくなりました。


 でも。


 所長が、最後の一文を指差しました。


「ここは、実際に差止めを求める段階ではないな」


「はい。今は事実確認を進めています」


「そうだ。調査した結果、具体的な違法行為と著しい損害のおそれが認められたなら、監査役本人が権限を行使することになる」


「分かりました」


「そのときは、何をやめるよう求めるのか、対象の行為を具体的に特定する」


「はい!」


 さらに所長は、別紙を取り上げました。


 監査報告に関する資料。


 取締役会への報告事項。


 私は見ました。


 そこには、村瀬さんが確認した事実と、なお調査が必要な事項が区別して書かれていました。


「所長」


「何だ」


「すごく、慎重ですね」


「当たり前だ」


「もっと『社長は会社の金を横領した』って書きたくなります」


「証明できるのか」


「……まだです」


「なら書くな」


「はい」


 所長は静かに言いました。


「事実より先に断定した言葉は、相手に反撃の材料を与える」


 私は頷きました。


 たしかに。


 不正を追及する側こそ、冷静でなければならない。


 監査役の報告は、社長への悪口ではありません。


 会社の財産を守るための、正式な職務なのです。


 書面は村瀬さん本人が内容を確認し、必要な修正を加えたうえで署名押印しました。


 そして。


 内容証明郵便で発送されました。


 差出人。


 村瀬清一。


 監査役。


 今度は。


 ただの名前貸しではありません。


 法律上の権限を持つ、正式な監査役としての通知です。


 ◇


 翌々日。


 東海精機の社長室。


 大黒剛造は、届いた内容証明郵便を読みながら鼻で笑いました。


「ふん。村瀬の奴、行政書士に入れ知恵されたか」


 しかし。


 二枚目。


 三枚目。


 読み進めるうちに、笑みが消えました。


 監査役の解任には株主総会決議が必要。


 解任通知だけでは監査役の地位は失われない。


 取締役の職務執行に対する監査権限。


 帳簿及び取引資料の調査。


 そして。


 違法行為によって会社に著しい損害が生じるおそれがある場合の差止請求。


「……何だ、これは」


 社長の額に汗が浮かびました。


 書面の別紙には、具体的な取引が並んでいました。


 経営指導料。


 三百万円。


 業務委託費。


 五百万円。


 設備購入前払金。


 八百万円。


 追加支払予定額。


 二千万円。


 合計。


 三千六百万円。


 もちろん、支払予定額を含む数字です。


 すべてが損失と確定したわけではありません。


 しかし。


 支払の根拠を説明できなければならない。


 それは明白でした。


「くそっ……」


 大黒社長は電話を取りました。


「おい、経理!」


『はい』


「大黒商事への二千万円、まだ送ってないな!」


『はい。来週の予定です』


「……ひとまず止めろ!」


『えっ?』


「いいから止めろ!」


 受話器を叩きつけます。


 そこへ。


 専務取締役が入ってきました。


「社長、村瀬さんの監査報告の件ですが」


「何だ!」


「他の取締役も資料を確認したいと言っています」


「なっ……」


「それから、取締役会で説明を求められています」


 大黒社長の顔色が変わりました。


 これまで。


 社長が決めたと言えば、誰も逆らわなかった。


 しかし、今回は違います。


 監査役が、正式な権限に基づいて資料を要求している。


 取締役会でも報告が問題になっている。


 そして。


 もし会社に損害が生じ、それが取締役の義務違反によるものなら。


 取締役個人の損害賠償責任が問題になります。


 会社が責任を追及しない場合には、要件を満たした株主による代表訴訟という道もあります。


 株式会社だから。


 社長個人は何をしても安全。


 そんな話ではありません。


「……冗談じゃない」


 大黒社長は呟きました。


 会社の金なら、自由に使えると思っていた。


 監査役なんて、ハンコを押すだけの老人だと思っていた。


 邪魔になれば、クビにすればいいと思っていた。


 でも。


 その老人には。


 商法が与えた権限があったのです。


 ◇


 数日後。


 片桐行政書士事務所に、村瀬さんが駆け込んできました。


「先生!」


「どうしました」


「社長が……!」


 私は立ち上がりました。


「何かされたんですか!」


「違います!」


 村瀬さんは、息を整えました。


「追加の二千万円の支払が、止まりました!」


「……本当ですか!」


「はい!」


 私は思わず拳を握りました。


 でも。


 相馬先輩が言いました。


「それで終わりじゃねえだろ」


「はい……」


 村瀬さんが頷きました。


「実は、その後、取締役会が開かれまして」


 そこで大黒社長は、初めて他の取締役から厳しい質問を受けたそうです。


 大黒商事との契約は実在するのか。


 なぜ正式な発注書がないのか。


 なぜ設備が納入されていないのか。


 追加支払を決めた根拠は何か。


 そして。


 大黒社長は、十分に答えられなかった。


「専務さんが、こう言ったんです」


 村瀬さんが続けました。


「社長。会社のお金は、社長個人のお金ではありません、と」


 私は息を呑みました。


 あのワンマン社長に。


 そんなことを言える人がいたんですね。


「それで、どうなったんですか?」


「調査が終わるまで、大黒商事への追加支払を行わない方針が確認されました」


「よかった……!」


「さらに、既に支払った千六百万円についても、資料を精査することになりました」


 相馬先輩が頷きました。


「そこまで進んだか」


「はい」


 村瀬さんは、少しだけ笑いました。


「社長からも電話がありました」


「何て?」


「解任通知は撤回する、と」


 ……。


 私は目を丸くしました。


「あの社長が?」


「はい」


「自分から?」


「はい」


 すごい。


 あの、


 ――俺が法律だ!


 と叫んでいた社長が。


 解任通知を撤回。


 私は思わず笑いそうになりました。


 でも。


 村瀬さんの次の言葉に、笑みが止まりました。


「社長は、こうも言いました」


「何と?」


「……村瀬さん、もう監査役なんて辞めてくれませんか、と」


 私は黙りました。


 なるほど。


 今度は、辞任を求めてきたんですね。


 しかし。


 村瀬さんは、まっすぐ前を見ました。


「わし、断りました」


「えっ」


「今辞めたら、何のために帳簿を調べたのか分からなくなります」


 老人の声は、もう震えていませんでした。


「会社には、八十人の従業員がいます」


「はい」


「みんな、真面目に働いています」


「はい」


「その人たちが稼いだお金を、誰かが勝手に使っていいはずがありません」


 私は、胸の奥が熱くなりました。


 村瀬さんは続けました。


「わしは長い間、監査役を名前だけの役職だと思っていました」


「……はい」


「でも、違ったんですね」


 私は頷きました。


「はい」


「わしにも、会社を守る仕事があったんですね」


 片桐所長が、静かに答えました。


「そうです」


 そして。


「監査役は、社長のためにいるのではありません」


 村瀬さんは、ゆっくりと頷きました。


 ◇


 それから二週間後。


 東海精機では、大黒商事との取引について、改めて調査が行われました。


 調査の結果、一部の支払には契約内容に見合う業務実績が確認できず、会社側は弁護士を通じて返還や損害回復の手続きを進めることになりました。


 大黒社長も、自分の責任を問われ得ることを認識したのでしょう。


 取締役会では、関連会社取引の決裁手順を見直し、社長一人の判断で多額の資金を移せないようにする方針が決まりました。


 監査役の調査に必要な資料も、今後は適切に提出することになりました。


 もちろん。


 これで、すべてが解決したわけではありません。


 既に支払われたお金の回収。


 取締役の責任。


 会社内部の体制改善。


 まだ、やるべきことはあります。


 でも。


 少なくとも。


 追加の二千万円が、何の説明もないまま外部へ流れることは防げました。


 そして。


 村瀬さんは、監査役として会社に残りました。


 その日の夕方。


 事務所に、小さな菓子折りが届きました。


 送り主は、東海精機の従業員有志。


 中には、短い手紙が入っていました。


 ――村瀬監査役が頑張ってくれたおかげで、会社のことを少し安心して考えられるようになりました。


 ――ありがとうございました。


 私は、その手紙を何度も読み返しました。


「先輩」


「何だ」


「監査役って、すごいですね」


「今さらか」


「だって」


 私は手紙を見ました。


「社長より偉いわけじゃないですよね」


「そうだな」


「会社を経営するわけでもない」


「ああ」


「でも、経営者が間違った方向へ行こうとしたら、止めるための権限がある」


 相馬先輩が頷きました。


「それが監査役だ」


 私は考えました。


 取締役は、会社を動かす。


 監査役は、その取締役の仕事を監査する。


 役割が違う。


 だから。


 監査役が社長の言いなりになってしまったら、意味がない。


「ところで先輩」


「何だ」


「もし村瀬さんが、社長の言うとおりにずっとハンコだけ押していたら?」


 相馬先輩の表情が少し真剣になりました。


「監査役自身の責任が問題になることもある」


「……えっ」


「監査すべきことを怠って、会社に損害が生じた場合だ」


 私は息を呑みました。


 そうか。


 監査役には、権限だけではなく、義務もある。


 名前だけだから。


 よく分からなかったから。


 社長に言われたから。


 それだけで、すべての責任を免れるとは限らないのです。


「つまり」


 私は呟きました。


「監査役って、名誉職じゃないんですね」


「当然だ」


 先輩が言いました。


「ハンコを押すためにいるんじゃねえ。必要なら、押すのを拒むためにもいるんだ」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 今回の事件の急所。


 そこだったのです。


 ◇


 帰り支度をしていると、片桐所長が私を呼びました。


「こはる」


「はい!」


「今回、何が一番大事だったと思う」


 私は少し考えました。


「監査役には、取締役の職務執行を監査する権限があることです」


「うん」


「ただし、昭和六十三年では、会社の規模によって監査権限に違いがある」


「そうだ」


「そして、社長が気に入らないという理由だけで、監査役を勝手に解任することはできません」


 所長が頷きました。


「ほかには?」


「監査役は、会社に不利益な行為を見つけたら、適切に調査し、報告する」


「うん」


「必要な場合には、取締役の違法な行為などを差し止めるための権限もある」


「そうだ」


 私は続けました。


「ただし、監査役だからといって、何でも自由に止められるわけではありません」


「ほう」


「法律上の要件が必要です。違法な行為かどうか、会社に著しい損害が生じるおそれがあるかどうか。そこを確認しないといけません」


 所長は、少しだけ笑いました。


「よく見ていたな」


「……!」


 私は固まりました。


 所長が。


 褒めた。


 珍しい!


「相馬先輩!」


「何だ」


「所長が褒めてくれました!」


「明日は雪かもな」


「ひどい!」


 相馬先輩が笑います。


 でも。


 片桐所長は、最後にこう言いました。


「会社というものは、人が動かしている」


「はい」


「人には欲がある」


「はい」


「だから、権限を持つ者を監視する仕組みが必要になる」


 私は頷きました。


 会社法。


 現代では、一つの独立した法律として整理されています。


 会社を作る仕組みも、昭和六十三年とは大きく変わりました。


 発起人の人数。


 取締役の人数。


 監査役を置く必要があるかどうか。


 役員の任期。


 監査の範囲。


 さまざまな制度が見直され、会社の規模や形態に応じた選択肢も増えました。


 でも。


 なぜ監査役が必要なのか。


 なぜ経営者を監視する仕組みがあるのか。


 その根本には、変わらない問題があります。


 会社のお金は、社長個人のものではない。


 会社を動かす人間にも、守るべきルールがある。


 そして。


 権力を持つ人間が、必ずしも正しいとは限らない。


 私は、村瀬さんの顔を思い出しました。


 最初は、震えていました。


 監査役なんて、ただの名前貸しだと思っていた。


 社長に逆らえば、追い出されると思っていた。


 でも。


 最後には、自分の意思で監査役として残ることを決めた。


 会社を守るために。


 八十人の従業員を守るために。


 そして、社長一人のものではない会社の財産を守るために。


「所長」


「何だ」


「私、監査役って、会社のお目付け役だと思ってました」


「間違いではない」


「でも、今回分かりました」


「何がだ」


「監査役は、ただ社長を見張る人じゃないんですね」


 私は微笑みました。


「会社が、会社として正しく動くために必要な人なんですね」


 所長は、静かに頷きました。


「そうだ」


 私は机の上の六法を閉じました。


 そして。


 心の中で、今日の教訓を一行にまとめました。


 ――監査役は、社長のハンコ係ではない。会社を守るために、社長にも「待った」をかける監視役だ。


 よし。


 これなら、忘れません。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい! 片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 女性の声。


『うちの会社の監査役のことで、ご相談したいんですが……』


 私は姿勢を正しました。


「はい。どうされましたか?」


『監査役が三人いるんですけど、そのうち二人が社長の親戚で……』


 私は止まりました。


 三人。


 監査役。


 社長の親戚。


『会社が大きくなって、監査の仕組みを見直さないといけないらしいんです。でも、社長は今のままでいいって……』


 ……。


 私は受話器を握ったまま、相馬先輩を見ました。


「先輩」


「何だ」


「今度は監査役が三人です」


「聞こえてる」


「しかも、社長の親戚が二人です」


「だから聞こえてるって」


「これ、会社の規模によって必要な監査体制が変わる話ですよね!」


 相馬先輩が六法を取りました。


「まず、いつの制度が適用される会社なのか確認しろ」


「はい!」


「資本金、負債、監査役の人数、それから会社の状況だ」


「はいっ!」


 私は相談票を引き寄せました。


 昭和六十三年。


 会社のルールは、まだ現代の会社法として整理されていません。


 商法。


 商法特例法。


 そして、会社の規模ごとに異なる監査制度。


 今日もまた、未来の知識だけでは解けない問題がやってきたのです。


 でも。


 私はもう、監査役をただの飾りだとは思いません。


 だって。


 社長がどれほど偉そうにしていても。


 会社の金を自由に使えるわけではない。


 そして。


 社長がどれほど大きな声で怒鳴っても。


 商法が監査役に与えた権限まで、消せるわけではないのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「監査役って、格好いいですね!」


「仕事を増やす前に相談票を取れ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、鉛筆を握りました。


 会社を動かすのは、社長かもしれません。


 でも。


 その社長が間違えたとき。


 静かに六法を開いて、こう言える人がいる。


 ――その支払、本当に会社のためですか。


 たった一言。


 それだけで、三千六百万円の行方が変わることだってある。


 もちろん、法律上の調査権限と、事実を裏づける証拠があってこそです。


 そして、今日の事件で私が一番覚えておきたいこと。


 それは。


 会社の財産を守るための監査役が、社長に嫌われることを恐れて何もしなくなったら。


 監査役という制度そのものが、意味を失ってしまうということです。


 だからこそ。


 監査役には、独立した立場と、職務を果たすための権限が与えられている。


 赤いハンコを押すだけの老人だった村瀬さんが。


 商法という武器を手にした瞬間。


 会社の未来を守る人になれたように。


 法律は。


 肩書の偉い人だけを守るために、存在しているわけではないのです。

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