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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の機関    

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657/701

[会社法・会計参与]現場編 「帳簿に判を押せば共犯だ」の罠。存在しない役員の肩書と、消された三百万円を暴く一枚の決算書

挿絵(By みてみん)

 会社の帳簿には、二種類の数字があります。


 本当の数字。


 そして。


 社長が、そうであってほしいと願う数字。


 困ったことに。


 後者を本物にしてしまおうとする人間が、ときどきいるのです。


 売上は増やせ。


 借金は隠せ。


 赤字は消せ。


 そして最後に。


「専門家が確認したことにしておけ」


 ……。


 いやいやいや。


 それ、完全に駄目でしょう。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、現代の会社法で学んだ、ある役員の名前を思い出していました。


 会計参与。


 取締役と共同して計算書類を作成する、会計の専門家。


 会社の数字を守る役員です。


 ところが。


 この昭和の世界には。


 そもそも、そんな役員が存在しなかったのです。


「先生! 私、会社の金を盗んだことにされるんです!」


 午前九時。


 事務所の扉が勢いよく開きました。


 飛び込んできたのは、四十代半ばの女性でした。


 紺色のスーツ。


 使い込まれた革の鞄。


 そして、真っ青な顔。


「落ち着いてください」


 私は椅子を勧めました。


「まず、お名前を」


「森下澄江と申します」


 女性は震える声で答えました。


「私、東海精密部品株式会社で、経理を担当しているんです」


 東海精密部品株式会社。


 市内の工業団地にある、小さな金属加工会社です。


 従業員は二十八人。


 自動車部品の下請け加工をしているそうです。


「経理のお仕事を?」


「はい。もう十五年になります」


 十五年。


 それは相当なベテランです。


「では、何があったんでしょう」


 森下さんは鞄から、一冊の帳簿を取り出しました。


「これを見てください」


 私は開きました。


 現金出納帳。


 売掛金台帳。


 仕入帳。


 整った数字が並んでいます。


「きれいな帳簿ですね」


「毎日、欠かさず記入してきました」


 森下さんは小さく頷きました。


「でも、社長が……」


 そこで声が詰まりました。


「社長が、この数字を書き換えろって」


「書き換える?」


「はい」


 森下さんは一枚の紙を差し出しました。


 そこには。


 ――売上高 三千二百万円。


 と記されています。


「これが、実際の売上です」


「はい」


「でも社長は、三千八百万円にしろって」


「……六百万円も?」


「まだあります」


 森下さんは別の紙を出しました。


 ――社長仮払金 三百万円。


「これは?」


「社長が会社から持ち出したお金です」


 私は目を瞬かせました。


「三百万円?」


「はい。会社の口座から、何度も引き出されていて」


「何に使ったんですか?」


「分かりません。領収書もないんです」


 相馬先輩が、新聞から顔を上げました。


「社長に使途を聞いたか?」


「聞きました」


「何て?」


「会社の金は俺の金だ、って」


 ……。


 出ました。


 この時代のワンマン社長。


 会社の財布と自分の財布を、同じものだと思っている人です。


「それで?」


 先輩が聞きました。


「社長は、その三百万円も帳簿から消せと言いました」


「消す?」


「はい。架空の経費で処理するか、ほかの勘定に紛れ込ませろって」


 私は帳簿を見つめました。


 売上を六百万円水増し。


 社長の使途不明金三百万円を隠蔽。


 合計九百万円分の数字が、実態と違うものになる。


「そんなことをしたら……」


「はい」


 森下さんは唇を噛みました。


「銀行に嘘の決算書を見せることになります」


 なるほど。


 銀行融資。


 社長は、会社の経営状態をよく見せたいのでしょう。


「でも私、断ったんです」


「当然です!」


「そしたら……」


 森下さんは、もう一枚の紙を出しました。


 社長の署名が入った通知書。


 そこには、信じられないことが書かれていました。


 ――経理担当森下澄江は、会計責任者として計算書類の作成に関与したものであり、その内容について一切の責任を負う。


 ――決算内容に問題が生じた場合、森下澄江の責任として処理する。


 ――本通知に従わない場合、懲戒処分を検討する。


 ……。


 私は紙を握りしめました。


「何ですか、これ!」


「社長は、私が経理の責任者だから、決算書の責任も全部私にあるって……」


「そんな無茶な!」


 すると。


 奥で帳簿を読んでいた片桐所長が、静かに顔を上げました。


「森下さん」


「はい」


「あなたは取締役ですか」


「いいえ」


「監査役ですか」


「違います」


「では、会社の役員として選任されたことは?」


「ありません。ただの従業員です」


 所長は頷きました。


「分かりました」


 そして私に言いました。


「こはる」


「はい!」


「今の話で、何が問題だ」


 私は勢いよく答えました。


「会計参与です!」


 ……。


 沈黙。


 相馬先輩が、ゆっくりこちらを見ました。


「……何だって?」


「会計参与です!」


「何だそりゃ」


「会社の役員です!」


「取締役か?」


「違います!」


「監査役か?」


「違います!」


「じゃあ何なんだよ!」


 私は胸を張りました。


「取締役と共同して計算書類を作成する、会計の専門家です! 公認会計士や税理士などが就任できて、不正を発見したら報告義務もあるんです!」


 完璧。


 行政書士試験の知識です。


 これなら社長の嘘を暴ける。


 そう思ったのですが。


 相馬先輩は、机の六法を開きました。


「こはる」


「はい」


「何条だ」


「会社法三百七十四条です!」


「……会社法?」


 しまった。


 私は固まりました。


 先輩が低い声で言います。


「お前、また妙な法律を持ち出したな」


「あ……」


「ここは昭和六十三年だ」


「はい……」


「会社の規定は商法第二編だろうが」


「ですよね!」


「何が『ですよね』だ!」


 やってしまいました。


 未来の法律。


 またしても。


 昭和の事務所に持ち込んでしまったのです。


 そうです。


 現在の会社法は、平成十八年に施行された法律。


 そして会計参与は、その会社法によって新しく設けられた会社の機関です。


 昭和六十三年には、まだ存在しません。


「会計参与……」


 片桐所長が小さく繰り返しました。


「面白い名前だな」


「所長?」


「だが、今はない」


「……はい」


「存在しない役員の権限で、事件を解決することはできん」


 ぐうの音も出ません。


 未来人の最大の弱点。


 知識がありすぎて。


 今の法律に、ないものまで見えてしまうのです。


「じゃあ、どうするんですか?」


 私は聞きました。


「このままじゃ森下さんが責任を押しつけられます!」


 相馬先輩は六法を机に置きました。


「会社法なんぞ持ち出さなくても、商法で考えりゃいい」


「商法で?」


「ああ」


 先輩は森下さんの通知書を指差しました。


「まず、会社の計算書類を作る責任は誰にある?」


「……取締役です」


「そうだ」


 昭和六十三年。


 商法第二百八十一条。


 取締役には、貸借対照表や損益計算書など、計算書類を作成する義務があります。


 もちろん、実際の帳簿作成や計算作業を経理担当者に任せることはあります。


 でも。


 任せたからといって。


 取締役自身の法的責任まで消えるわけではありません。


「あっ!」


 私は顔を上げました。


「社長が経理担当者に全部責任を押しつけることはできない!」


「そうだ」


「しかも、社長本人が数字を書き換えろと命じている!」


「そこだよ」


 先輩が笑いました。


「社長は、自分で不正を命じておいて、最後の責任だけ従業員に背負わせようとしている」


 ……なるほど。


 会計参与がいなくても。


 商法には、会社の数字について責任を負うべき人間が、きちんと定められています。


「では、監査役は?」


 片桐所長が聞きました。


「監査役?」


「東海精密部品には、監査役がいるか」


 森下さんは頷きました。


「はい。山根さんという方です」


「どんな方ですか」


「先代社長の頃からお世話になっている方で……」


「会計の専門家ですか」


「いいえ。昔、工場長をされていた方です」


 所長は少し考えました。


「会社の資本金は?」


「三千万円です」


「なるほど」


 昭和六十三年。


 資本金一億円以下の株式会社。


 このような小会社では、監査役の職務について、商法だけでなく監査特例法の規定も問題になります。


 会計に関する書類を調査し、株主総会に意見を報告する。


 帳簿や書類を調べる。


 必要な報告を求める。


 監査役には、そうした役割がありました。


「森下さん」


 所長が言いました。


「その山根さんは、今回のことを知っていますか」


「いいえ……」


「なぜです?」


「社長が、絶対に知らせるなって」


 私は目を見開きました。


 ……。


 それ。


 もう答えが出ているようなものではありませんか。


 社長は、自分の不正を見つけられたくない。


 だから監査役に知らせない。


 そして、経理担当者には責任を押しつける。


 なんという都合のよさ。


「所長!」


「何だ」


「監査役に事実を伝えれば!」


「まず本人の意思と資料を確認する」


 所長が静かに言いました。


「そして、取締役が作成すべき書類と、監査役が調査すべき書類を分けて考える」


 私は頷きました。


 ここが。


 今回の事件の急所なのです。


 翌日。


 東海精密部品株式会社。


 私と相馬先輩は、森下さんの依頼を受け、会計資料の確認に訪れました。


 工場の奥にある事務棟。


 壁には、


 ――品質第一。


 という大きな標語。


 その下には。


 真っ黒な高級車の写真。


 社長の愛車でしょうか。


「おい。何だ、あんたら」


 応接室に現れたのは、五十代の男でした。


 高そうな腕時計。


 派手なネクタイ。


 そして。


 人を見下すような目。


 東海精密部品株式会社。


 代表取締役社長。


 黒崎剛造。


「片桐行政書士事務所の相馬です」


「行政書士?」


 黒崎社長は鼻で笑いました。


「税理士でも弁護士でもねえのか」


「はい」


「じゃあ、何しに来た」


 相馬先輩は落ち着いて答えました。


「森下さんのご依頼で、資料の所在と記載内容を確認しています」


「余計なことを」


 黒崎社長は椅子にふんぞり返りました。


「会社の帳簿は俺が決めるんだ」


「そうですか」


「数字なんてな、銀行が喜ぶように作りゃいいんだよ」


 ……。


 私は耳を疑いました。


「銀行が喜ぶように?」


「そうだ」


「実際の売上と違っても?」


「多少の調整だろうが」


 多少。


 六百万円が、多少。


 すごい金銭感覚です。


「それに、会社の経理は森下が全部やってる」


 黒崎社長はにやりと笑いました。


「問題があったら、あいつの責任だ」


「森下さんは役員ではありません」


 私が言うと、社長は笑いました。


「肩書なんぞ関係ねえよ」


「関係あります」


「何?」


「取締役には、商法上の責任があります」


 黒崎社長の眉が動きました。


「知ったことか」


「決算書の作成に関する責任も、従業員に押しつければ消えるわけではありません」


「小娘が!」


 社長は机を叩きました。


「俺がこの会社を作ったんだぞ!」


 ……。


 来ました。


 会社を作った人間は、何でも自由にできる。


 そう勘違いしている社長です。


「会社は俺のものだ!」


 私は、思わず言い返しました。


「会社は、社長個人とは別の法人です!」


「何だと!」


「社長が株主でも、会社の財産を好き勝手に私物化できるわけではありません!」


「俺が株を全部持ってるんだぞ!」


「それでもです!」


 相馬先輩が、私の肩を軽く叩きました。


「こはる」


「はい」


「そこまでだ」


「でも!」


「口論しても数字は変わらねえ」


 先輩は黒崎社長を見ました。


「資料について、確認できることは分かりました」


「何だ。もう帰るのか?」


「はい」


 黒崎社長は勝ち誇ったように笑いました。


「行政書士なんざ、たいしたことねえな!」


 ……。


 私は悔しくなりました。


 でも。


 相馬先輩は、まったく動じません。


 会社を出たところで、私に言いました。


「こはる」


「はい」


「今の社長、致命的なことを言ったぞ」


「え?」


「自分が帳簿を決める、ってな」


「……はい」


「しかも銀行が喜ぶ数字にするとも言った」


「そうですね」


「森下さんの責任にするつもりだとも」


 私は息を呑みました。


 そうか。


 社長は、自分の言葉で。


 不正な決算書の作成を指示した事情を、認めるような発言をしたのです。


「ただし」


 先輩が言いました。


「口で言っただけじゃ、あとから知らねえと言われる」


「はい」


「だから書面で固める」


 なるほど。


 また。


 書面です。


 行政書士の戦い方。


 声の大きさではなく。


 記録の正確さで勝負するのです。


 事務所に戻った私たちは、森下さんから預かった資料を並べました。


 現金出納帳。


 銀行の入出金記録。


 売掛金台帳。


 社長から渡された修正指示書。


 そして。


 会計年度末の計算書類の原案。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「どれが一番重要だ?」


「全部です!」


「欲張りだな」


「だって全部おかしいですから!」


「まあ、そうだな」


 片桐所長が、修正指示書を手に取りました。


 赤い文字で。


 ――売上六百万円追加。


 ――仮払金三百万円削除。


 そして、最後に。


 ――森下にて処理すること。


 とあります。


「所長」


 私は言いました。


「これ、社長の筆跡でしょうか」


「森下さんは、本人が書いたと言っている」


「はい」


「だが、その事実も確認書に残す必要がある」


 所長は、ゆっくりと紙を置きました。


「相馬」


「はい」


「二つ作れ」


「承知しました」


「一つは森下さん自身の通知書」


「はい」


「もう一つは、監査役に提出する事実報告書の原案だ」


 私は身を乗り出しました。


「内容証明ですか!」


「そうだ」


 いよいよ。


 反撃です。


 ただし。


 行政書士が相手方との示談交渉を代理するわけではありません。


 依頼人本人の意思を確認し、その名義で出す通知書を作成する。


 そして、争いが訴訟などに発展する場合は、弁護士に引き継ぐ。


 それが私たちの立場です。


「こはる」


 所長が言いました。


「原案を書いてみろ」


「はい!」


 私は鉛筆を握りました。


 そして。


 最初の一行を書きました。


 ――会計参与の報告義務に基づき……。


「待て」


 相馬先輩の声。


「はい?」


「お前、今、何を書いた」


「会計参与の報告義務です!」


「……」


「……」


 先輩は、ゆっくり六法を閉じました。


「こはる」


「はい」


「お前は、何回言えば分かる」


「……すみません」


「昭和六十三年には!」


「会計参与はいません!」


「そうだ!」


 私は原稿を引っ込めました。


 危ない。


 また未来の条文を使うところでした。


「いいか」


 先輩が言いました。


「森下さんは、会計参与でも取締役でも監査役でもない」


「はい」


「従業員だ」


「はい」


「だから、会計参与としての報告義務なんぞ持ち出せねえ」


 なるほど。


 守るべき人の立場を間違えれば。


 使う法律も間違える。


「今、使える制度で考えろ」


「……はい!」


 私は新しい原稿用紙を取り出しました。


 そして。


 今度こそ。


 昭和六十三年の商法で、書き始めたのです。


 三時間後。


 机の上には、内容証明郵便の原案がありました。


 宛先。


 東海精密部品株式会社。


 代表取締役 黒崎剛造。


 差出人。


 森下澄江。


 私は読み上げました。


「第一。通知人は、貴社の経理担当従業員として、日常の会計記録及び帳簿整理の業務を担当してきた」


「うん」


「第二。通知人は、貴社の取締役または監査役として選任された事実はなく、会社の機関として計算書類の作成又は監査を行う地位にはない」


「うん」


「第三。通知人は、昭和六十三年某月某日、代表取締役黒崎剛造より、売上高六百万円の増額及び社長仮払金三百万円の削除を指示された」


 所長が頷きました。


「続けろ」


「第四。右指示は、通知人が保管する原始記録及び会計帳簿と一致せず、通知人は事実に反する記載を行うことを拒否した」


「よし」


「第五。商法上、取締役が負う計算書類作成に関する責任は、経理担当従業員への作業指示のみをもって免れるものではない」


 私は、一度息を吸いました。


「第六。通知人は、事実と異なる会計処理を行わず、従前の原始記録を保全する。また、通知人が不正な計算書類の作成に同意したかのような取扱いをしないよう求める」


 相馬先輩が、机を軽く叩きました。


「いいな」


「本当ですか!」


「ああ」


「やった!」


 ところが。


 片桐所長は、もう一枚の紙を差し出しました。


「まだある」


「え?」


「監査役への報告書だ」


 私は受け取りました。


 宛先。


 東海精密部品株式会社。


 監査役 山根信一。


 そこには、森下さんが確認した事実と、資料の一覧が記されていました。


 所長は言いました。


「会社には、計算書類を調査する監査役がいる」


「はい」


「監査役の調査に必要な資料を、会社の内部で正しく確認してもらう」


「なるほど」


「ただし、事実にないことは書くな」


「はい」


「社長が三百万円を横領した、と断定するな」


 私は顔を上げました。


「え? でも、勝手に使ったんですよね?」


「まだ使途が分からん」


「……あ」


「仮払金が残っていることと、犯罪が成立することは同じではない」


 なるほど。


 法律の書面。


 怒りで書いてはいけない。


 証明できる事実だけを書く。


 そうしなければ、こちらの信用まで失ってしまう。


「だから」


 所長が言いました。


「社長仮払金三百万円について、使途を裏付ける資料が確認できない、と記載する」


「はい」


「そして、監査役に調査を求める」


 私は頷きました。


 さらに所長は、会社の定款と、過去の議事録を確認し始めました。


「森下さん」


「はい」


「社長が、自分の報酬を増やしたことはありますか」


「あります」


「いつです?」


「昨年、月額を二十万円増やしたと聞いています」


「株主総会の決議は?」


「分かりません」


 所長は議事録をめくりました。


 そして。


 あるページで手を止めました。


「……ないな」


「何がですか?」


「報酬増額に関する決議の記録だ」


 私は目を見開きました。


 取締役の報酬。


 定款に定めがなければ、株主総会の決議によって定める。


 昭和の商法でも、その基本的な仕組みがあります。


「社長が勝手に増やせるものじゃないんですね!」


「具体的な決議内容を確認する必要があるがな」


 所長が静かに言いました。


「会社の金を、自分の都合で動かすことはできん」


 そして。


 さらに驚くべきことが分かりました。


 東海精密部品株式会社の発起人は、七人。


 そのうち二人は、黒崎社長の親族でした。


 取締役は三人。


 監査役は一人。


 当時の株式会社に必要な人数を、きっちりそろえています。


「七人……」


 私は呟きました。


 現代なら。


 発起人一人でも株式会社を設立できます。


 取締役一人の会社も作れます。


 資本金一円での設立だって可能です。


 でも。


 昭和六十三年には。


 発起人は七人以上必要でした。


 取締役も三人以上。


 監査役も必要。


「先輩」


「何だ」


「この会社、役員の人数だけは立派ですね」


「そうだな」


「でも、実際には社長一人が全部決めている」


「そういう会社は珍しくねえ」


 相馬先輩は苦笑しました。


「法律に合わせて頭数だけそろえたって、中身まで立派になるとは限らねえんだよ」


 ……なるほど。


 これが。


 昭和の会社制度の難しさ。


 形式的な人数をそろえることと。


 本当に会社を適切に運営することは。


 まったく別なのです。


 数日後。


 内容証明郵便が、黒崎社長のもとへ届きました。


 そして。


 監査役の山根さんにも、森下さん名義の事実報告書が提出されました。


 そこから。


 事態は一気に動き始めました。


 山根さんは、帳簿と銀行記録の照合を始めました。


 売上高。


 仮払金。


 領収書。


 社長からの修正指示。


 そして。


 決算書の原案。


 その結果。


 森下さんが保存していた記録と、社長が要求した修正後の数字が一致しないことが確認されたのです。


 さらに。


 社長の報酬増額についても、過去の株主総会決議の有無や内容を確認する必要が生じました。


 黒崎社長は激怒したそうです。


「山根! お前まで俺に逆らうのか!」


 しかし。


 今度ばかりは、いつもの一喝では済みませんでした。


 監査役が調査した結果。


 計算書類の修正指示を出した本人が、社長であることを示す資料が残っていたからです。


 しかも。


 森下さんは、その処理を拒否していました。


 責任を押しつけるつもりだった従業員が。


 自分の身を守るために、証拠を残していたのです。


 三日後。


 片桐行政書士事務所に、電話が入りました。


『……黒崎です』


 私は受話器を持ったまま固まりました。


 あの黒崎社長。


 昨日まで、


「会社は俺のものだ!」


 と叫んでいた人です。


 ところが。


 今日は声が小さい。


「少々お待ちください」


 私は所長に代わりました。


「片桐です」


『あの……』


「はい」


『森下の通知書の件で……』


「はい」


『弁護士に見せたんだが……』


 私は思わず耳を澄ませました。


『経理担当者に責任を押しつけても、取締役としての責任は消えないと言われまして……』


 所長は黙って聞いています。


『それに、監査役が帳簿を調べ始めて……』


「そうですか」


『いや、その……』


 黒崎社長は言い淀みました。


『これ以上、会社の中を引っかき回されると困るんです』


 所長は落ち着いて答えました。


「調査は、会社の機関がその職務として行っているものです」


『……はい』


「当事務所が調査を止める立場にはありません」


『分かっています』


 長い沈黙。


 それから。


『……森下に、責任を押しつけるつもりはありませんでした』


 私は心の中で叫びました。


 嘘です!


 あんな通知書まで作っておいて!


 でも。


 所長は感情を出しません。


「そうですか」


『処分の話は撤回します』


「その旨は、ご本人に書面でお伝えください」


『……はい』


『それと、決算書の数字も……』


 黒崎社長は、苦しそうに続けました。


『元の記録に基づいて、作り直すようにします』


 私は思わず拳を握りました。


 やった。


 ついに。


 社長が折れたのです。


 もっとも、これですべてが解決したわけではありません。


 三百万円の使途。


 不適切な報酬増額の有無。


 取締役の責任。


 それらは、会社として引き続き確認する必要があります。


 必要なら、損害賠償や取締役の解任、株主代表訴訟といった問題に発展する可能性もあります。


 しかし。


 少なくとも。


 真面目に経理をしていた森下さんが、社長の不正指示を拒んだことで責任を押しつけられる。


 その筋書きは、崩れ始めたのです。


 一週間後。


 森下さんが事務所を訪れました。


 以前とは違う表情でした。


「先生方、本当にありがとうございました」


 深く頭を下げます。


「社長から、懲戒処分の検討を撤回するという書面を受け取りました」


「よかったです!」


 私は思わず笑顔になりました。


「帳簿も、元の記録をもとに確認し直すことになりました」


「そうですか」


 片桐所長が頷きました。


「監査役の山根さんが、しっかり調べてくださっているそうです」


 森下さんは、少しだけ涙ぐみました。


「私……」


「はい」


「十五年間、毎日数字を合わせてきたんです」


 その声が震えました。


「十円違っても、何度も確認して」


「……はい」


「一円でもおかしかったら、伝票を最初から見直して」


 私は黙って聞いていました。


「なのに社長は、六百万円の売上を簡単に増やせって」


 森下さんは、手元の鞄を握りました。


「三百万円も、なかったことにしろって」


 涙が一滴、膝に落ちました。


「私の十五年って、そんなものだったのかと思って……」


 私は胸が苦しくなりました。


 数字。


 ただの数字です。


 試験のテキストなら。


 売上高。


 利益。


 貸借対照表。


 損益計算書。


 そんな言葉が並ぶだけ。


 でも。


 経理担当者にとって、その数字は仕事そのものです。


 毎日。


 何年も。


 積み上げてきた記録。


 それを、社長の都合だけで書き換える。


 そんなことが許されていいはずがありません。


「森下さん」


 私は言いました。


「十五年間の数字が、森下さんを守ってくれたんですね」


 森下さんが顔を上げました。


「え?」


「毎日きちんと記録していたから、社長の指示がおかしいって証明できたんです」


「……」


「帳簿って、すごいですね」


 森下さんは、しばらく黙っていました。


 それから。


 小さく笑いました。


「そうですね」


 その笑顔は。


 初めて事務所に来た日の、青ざめた顔とは違っていました。


 森下さんが帰ったあと。


 私は机に向かっていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日、ちょっと悔しかったです」


「何がだ」


「会計参与です」


 先輩が眉をひそめました。


「まだ言ってんのか」


「だって!」


 私はノートを開きました。


「現代には、会計参与っていう制度があるんですよ!」


「そうらしいな」


「取締役と共同して計算書類を作るんです!」


「うん」


「しかも、役員なんです!」


「うん」


「ただの経理担当者とは、法律上の立場が違うんです!」


 私は勢いよく続けました。


「公認会計士や税理士などの専門家が就任するんです。会社の計算書類の信頼性を高めるために!」


 相馬先輩は、少し考えました。


「じゃあ、その会計参与って奴は、社長に命令されたら数字を好きに変えていいのか?」


「駄目です!」


「そうだろうな」


「それに、不正を発見したら報告義務もあります!」


「誰に?」


「原則として株主です!」


 私は答えました。


「ただし、監査役設置会社では監査役に報告します!」


「ほう」


「取締役会設置会社なら、計算書類などの承認をする取締役会に出席しなければなりません!」


「なるほど」


「必要があると認めるときは、意見も述べなければならないんです!」


 相馬先輩は、少し笑いました。


「随分、口うるさい役員だな」


「口うるさくないと、会社のお金を守れません!」


「そりゃそうだ」


 私は勢いづきました。


「しかも、会計参与には、計算書類や会計参与報告の備置き義務まであるんです!」


「備置き?」


「はい!」


 私はノートを指差しました。


「現代の会社法では、原則として、定時株主総会の一週間前から五年間、一定の計算書類などを会計参与が定めた場所に備え置くんです!」


「五年間?」


「そうです!」


「長えな」


「取締役会設置会社では、総会の二週間前からです!」


「何で違うんだ」


「そこは法理編……」


「何編?」


「あっ!」


 しまった。


 口が滑りました。


 私は慌てて咳払いしました。


「と、とにかく! 会計参与は、書類を作って終わりじゃないんです!」


 片桐所長が、奥から顔を上げました。


「報酬はどうする」


「え?」


「その会計参与という役員の報酬だ」


 私は答えました。


「定款で額を定めていなければ、株主総会の決議で決めます!」


「ほう」


「社長が勝手に決められるわけではありません!」


 所長は頷きました。


「なるほど」


 そして。


 静かに言いました。


「会社の数字を扱う者に、独立した立場と責任を与える仕組みか」


「はい!」


「悪くない考え方だな」


 私は思わず嬉しくなりました。


 所長が。


 未来の制度を、少し理解してくれた。


 そんな気がしたのです。


 でも。


 次の一言で、現実に引き戻されました。


「ただし、今は昭和六十三年だ」


「……はい」


「ない制度は使えん」


「ですよね!」


「だから、今ある制度を使った」


 所長は机に置かれた、森下さんの書類を指差しました。


「取締役の責任」


「はい」


「監査役の調査」


「はい」


「そして、従業員が残した正確な記録」


 私は頷きました。


「それで守れたんですね」


「そうだ」


 私は、しばらく考えました。


 現代の会計参与制度。


 それは、昭和六十三年にはない仕組みです。


 でも。


 会社の計算書類に責任を持つ人を明確にすること。


 不正を発見したら、適切な相手に報告すること。


 大切な書類を、後から確認できるように保存すること。


 社長が専門家の報酬を勝手に決めるような状況を防ぐこと。


 そうした考え方には、共通する目的があります。


 会社の数字を。


 社長一人の都合で、ゆがめさせない。


 そして。


 その数字を信用する株主や債権者を守る。


 そういうことなのです。


「そういえば」


 私は、ふと思いました。


「先輩」


「何だ」


「もし、森下さんが本当に会計参与だったら、どうなっていたんでしょう」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「どういう意味だ」


「今回みたいに、社長から数字を変えろって言われた場合です」


「断るだろうな」


「はい」


「で?」


「もし不正を発見したら、法律上の報告義務も問題になります」


「だろうな」


「しかも、計算書類を共同で作る立場だから、知らないふりでは済まない」


 先輩は頷きました。


「責任が重いな」


「はい」


「でも、その分、会社の中で役割がはっきりしてる」


「そうなんです!」


 私は拳を握りました。


「従業員なのか、取締役なのか、監査役なのか、会計参与なのか!」


「うん」


「立場が違えば、権限も義務も違います!」


 そう。


 今回、黒崎社長がやろうとしたのは。


 森下さんを、都合のいいときだけ責任者にすることでした。


 普段は従業員。


 命令には従え。


 でも。


 問題が起きたら、経理の責任者として全部背負え。


 そんな勝手な理屈です。


 けれど。


 法律は、人の役割をそこまで曖昧にはしていません。


 取締役には、取締役の責任。


 監査役には、監査役の職務。


 従業員には、従業員としての立場。


 そして現代では。


 会計参与には、会計参与としての権限と義務がある。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「役員の名前って、ただの肩書じゃないんですね」


 片桐所長が頷きました。


「名前には、責任がついてくる」


 その言葉が。


 胸に残りました。


 夕方。


 事務所の窓から、赤い夕日が差し込んでいました。


 私は、森下さんが置いていったお菓子の箱を開けました。


「先輩、これ食べます?」


「何だ」


「お礼のお饅頭です」


「一個もらう」


 私は一つ渡しました。


 すると、先輩が言いました。


「こはる」


「はい?」


「お前、今日の事件で何を覚えた」


 私は少し考えました。


「会計参与は、昭和六十三年には存在しない!」


「まずそれかよ」


「大事です!」


「まあな」


 私は続けました。


「それから、会社の決算書は、社長が好き勝手に作っていいものではない」


「うん」


「経理担当者に作業を任せても、取締役の責任は消えない」


「そうだ」


「そして、現代の会計参与は、取締役と共同して計算書類を作成する役員です!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


「やった!」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 男性の声。


『会社の監査役をやっている者なんですが……』


 私は顔を上げました。


 監査役。


 また会社の役員です。


『社長が、会議に出てこなくていいって言うんです』


「……はい?」


『名前だけ貸してくれればいいって』


 ……。


 私は、ゆっくり相馬先輩を見ました。


 先輩も、こちらを見ました。


『でも、会社で何か問題が起きたら、私にも責任があるんでしょうか……』


 私は息を吸いました。


「先輩」


「何だ」


「次、名前貸しの監査役です」


「聞こえてる」


「昭和の株式会社って、本当に大変ですね」


「だから言ったろ」


 相馬先輩は椅子から立ち上がりました。


「頭数だけそろえても、会社はまともに動かねえって」


「……はい」


 私は受話器を握り直しました。


「詳しいお話を伺いたいので、まず、会社の規模と、監査役に選任された経緯を教えていただけますか?」


 昭和六十三年。


 会社の法律は、まだ商法の中にあります。


 会計参与という制度も、存在しません。


 でも。


 会社のお金を守ること。


 役員の責任を明確にすること。


 不正を見逃さないこと。


 その大切さは、昔も今も変わらないのです。


 私は、机の上に置かれた森下さんの帳簿を見ました。


 一円まで合わせた、十五年分の記録。


 社長が、たった一言で書き換えさせようとした数字。


 でも。


 その数字は、最後まで正しく残されました。


 なぜなら。


 正しい帳簿は、会社のためだけにあるのではありません。


 その会社で真面目に働く人の、誠実さを証明することもあるからです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、会計参与っていう制度、好きになりました!」


「まだ存在しねえって言ってるだろ!」


「分かってます!」


「じゃあ今の仕事をしろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、新しい相談票を取り出しました。


 今日の教訓。


 社長が数字を書き換えろと言っても。


 真実まで書き換えられるわけではありません。


 そして。


 会社の金は俺のものだ、と豪語する社長ほど。


 商法を開いた瞬間。


 自分の財布と会社の財布が、別のものだったことを思い知らされるのです。

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