[会社法・取締役会の決議・特別取締役]法理編 こはるノート
多数決は、数え始める前に勝負が決まっていることがあります。
五人のうち三人が賛成。
普通なら、可決。
ところが。
その三人の中に、投票してはいけない人がいたら?
欠席した人まで賛成者に数えていたら?
そして、定款に「四分の三以上」という厳しい条件があったら?
答えは、まったく変わります。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……多数決って、こんなに難しかったんですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ、いきなり」
「取締役会です」
「ああ」
「小学校の学級会より難しいです」
「当たり前だろ」
「だって、五人のうち三人が賛成したら普通は可決じゃないですか!」
「その普通で三億円の工場を売ろうとした馬鹿がいたな」
「……黒崎社長ですね」
私は鉛筆を止めました。
東浜精機株式会社。
従業員五十人。
創業三十年の金属加工会社。
その工場を、黒崎社長は自分が所有する不動産会社へ八千万円で売ろうとしていました。
工場の評価額は、約三億円。
しかも。
取締役会で正式に決議したと言い張っていたのです。
でも。
議事録を調べると、次々に問題が出てきました。
社長自身に特別利害関係がある。
取締役の一人は欠席。
別の一人は招集されていない。
定款では、四分の三以上の出席と賛成が必要。
結局。
取締役会の決議が成立したという主張は、大きく崩れました。
「……あの社長、危なかったですね」
私が言うと、相馬先輩は鼻で笑いました。
「会社の工場を、自分の財布みたいに考えてたからな」
「でも、先輩」
「何だ」
「今回、取締役会について、まだ整理しきれていないことがあるんです」
「ほう」
「取締役会の決議方法、特別利害関係、書面決議、特別取締役、議事録……」
私は指を折りました。
「全部、試験に出るんです!」
「何の試験だよ」
「行政書士試験です!」
「だったら今の六法を開け」
「……はい」
そうでした。
私は現代から昭和六十三年へ転生した行政書士受験生。
現代の会社法を知っています。
でも。
この時代には、独立した会社法はありません。
株式会社のルールは、商法第二編などに置かれています。
つまり。
現代の知識をそのまま使うと、条文も制度も間違える。
私は深呼吸しました。
「よし。今日は昭和と令和、両方整理します!」
「また未来の話か」
「比較すると覚えやすいんです!」
そこへ、奥から片桐所長の声。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
「まず、取締役会の決議方法です!」
私はノートに大きく書きました。
――取締役会の決議。
「先輩、取締役会は何をするところですか?」
「会社の重要な業務執行について意思決定するところだな」
「そうです!」
私は頷きました。
株式会社には、株主総会があります。
株主総会は、株主が会社の重要事項について意思決定する機関です。
一方、取締役会は、会社の業務執行について重要な意思決定を行い、取締役の職務執行を監督する機関です。
「つまり、社長一人が何でも決めていいわけではありません」
「そうだ」
「今回の工場売却も、その典型でした」
重要な財産の処分。
これは取締役会での意思決定が問題となる事項です。
昭和の商法でも。
現代の会社法でも。
その重要性は変わりません。
「じゃあ、どうやって決議するんですか?」
私は鉛筆を握りました。
現代の会社法第三百六十九条第一項。
原則として、
議決に加わることができる取締役の過半数が出席し、その出席した取締役の過半数が賛成する。
これが基本です。
「先輩、ここで大事なのが二段階なんです!」
「二段階?」
「まず、出席者数」
「うん」
「次に、賛成者数」
私はノートに書きました。
第一段階。
会議を成立させるための出席者数。
第二段階。
決議を成立させるための賛成者数。
「この二つ、似ていますけど違うんです」
たとえば。
議決に加わることができる取締役が五人。
定款に特別な定めがない場合。
過半数の出席が必要です。
五人の過半数。
三人。
したがって、最低三人の出席が必要になります。
「では、三人出席したら?」
相馬先輩が聞きました。
「その三人の過半数ですから、二人の賛成で可決です!」
「正解」
私は嬉しくなりました。
でも。
「ここで注意です!」
「何だ」
「過半数は、半数以上じゃありません!」
私はノートに大きく書きました。
過半数。
半分を超えること。
だから。
四人の過半数は三人。
六人の過半数は四人。
八人の過半数は五人。
「ちょうど半分では足りないんです!」
「当たり前だろ」
「試験では、こういうところを狙われるんです!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「受験生って大変だな」
「本当に大変なんです!」
私は続けました。
「ただし、この過半数という原則は、定款で厳しくできます」
ここが重要です。
現代の会社法第三百六十九条第一項では、定款によって、出席要件や決議要件を法律の原則より加重できます。
しかし。
法律の原則より軽くすることはできません。
「たとえば?」
相馬先輩が聞きました。
「定款で、取締役の三分の二以上の出席が必要、とすることはできます」
「うん」
「出席者の三分の二以上が賛成しなければならない、とすることもできます」
「そうだな」
「でも、定款で『一人出席すれば決議できる』なんて、法定の過半数を下回るようにはできません」
私は丸をつけました。
定款で加重できる。
定款で軽減できない。
「これ、絶対に覚えます!」
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「今回の東浜精機の定款は、どうなっていた」
「四分の三以上でした!」
「何が四分の三だ」
「議決に加われる取締役の四分の三以上が出席し、出席した取締役の四分の三以上の賛成で決議する、という定めでした」
「そうだ」
私は事件を思い出しました。
普通の会社より厳しい条件。
しかも、今回の社長は、その定款を見落としていた。
「定款って、本当に怖いですね」
「怖いのは、読まない奴だ」
相馬先輩が言いました。
確かに。
会社の基本ルールを書いた書類なのに。
社長が確認していなかった。
その結果。
三億円の工場を売る計画が、足元から崩れたのです。
「次は、今回の事件の最大の論点です!」
私はノートをめくりました。
――特別の利害関係を有する取締役。
「名前が長いですね」
「法律なんてそんなもんだ」
「でも、意味は分かりやすいです」
私は言いました。
「取締役会で決めることについて、会社全体の利益とは別に、その取締役自身の特別な利益が問題になる場合です」
「今回の黒崎社長だな」
「はい!」
黒崎社長は、東浜精機の代表取締役。
同時に。
工場の買主となる不動産会社を、個人で所有していました。
つまり。
東浜精機にとっては、三億円程度の工場を八千万円で売る取引。
一方。
黒崎社長側にとっては、高額な財産を安く手に入れられる取引。
「会社の利益と、社長個人の利益が衝突していました」
「そういうことだ」
ここで登場するのが。
現代の会社法第三百六十九条第二項。
取締役会の決議について、特別の利害関係を有する取締役は、議決に加わることができません。
「昭和六十三年の商法にも、同じ趣旨のルールがあります」
私は六法を開きました。
商法第二百六十条ノ二。
昭和の商法では、特別利害関係取締役の議決参加が制限され、その人数も決議の定足数の計算から除外されます。
「つまり」
私は言いました。
「社長だから一票ある、とは限らないんです!」
「そうだ」
「取締役会の決議ごとに、特別利害関係があるかどうかを確認しなければならない」
私は事件の数字を書きました。
東浜精機。
取締役五人。
黒崎社長。
村瀬さん。
井上さん。
田辺さん。
佐伯さん。
このうち。
黒崎社長は、本件工場譲渡について特別利害関係が認められる立場です。
したがって。
議決に加わることができる取締役は、残り四人。
「じゃあ、定款の四分の三以上の出席って、何人だ?」
相馬先輩が聞きました。
「四人の四分の三なので、三人です!」
「実際には?」
「村瀬さんと井上さんの二人だけ」
「田辺は?」
「欠席していました」
「佐伯は?」
「招集されていませんでした」
「で?」
「必要な三人に対して、実際は二人。出席要件を満たしません!」
私は勢いよく答えました。
相馬先輩が頷きます。
「そういうことだ」
しかし。
ここには、さらに問題があります。
「先輩、佐伯さんを呼ばなかったこと自体も問題ですよね」
「ああ」
取締役会は、適法な招集手続きによって開かなければなりません。
一部の取締役を勝手に除外してしまえば、決議の効力に重大な問題が生じます。
ただし、招集通知漏れがあれば、あらゆる場合に機械的に無効となるとまではいえません。
欠席した取締役が参加しても結果に影響しなかったと認められる特段の事情などが、判例上問題になります。
「でも、今回の場合は?」
私は言いました。
「そもそも出席要件を満たしていないうえに、決議に加われる取締役を招集していない」
「そうだ」
「重大な問題が重なっていたんですね」
私は赤線を引きました。
そして。
「先輩、ここで間違えやすいことがあります!」
「まだあるのか」
「あります!」
私はノートの端に書きました。
――株主総会との違い。
「現代の会社法では、特別利害関係のある株主は、原則として株主総会で議決権を行使できます」
「ほう」
「でも、取締役会では、特別利害関係のある取締役は、その決議に加われません」
相馬先輩が首をかしげました。
「何で違うんだ?」
「株主と取締役では、立場が違うからです」
株主は、出資者です。
自分の利益を考えて議決権を行使することも、基本的には予定されています。
一方、取締役は。
会社のために職務を行う立場です。
だから。
会社の利益と個人的な利益が特別に衝突する議案については、公正な意思決定を確保するために議決参加が制限されます。
「ただし、株主総会でも何でも許されるわけではありません」
私は付け加えました。
特別利害関係を有する株主が議決権を行使した結果、著しく不当な決議がなされた場合には、決議取消しの問題が生じます。
「つまり、株主総会は議決権行使そのものを原則認める。取締役会は特別利害関係者を議決から外す。この区別ですね!」
「なるほどな」
私は得意になりました。
これなら、試験でひっかけ問題が出ても大丈夫です。
「では、次!」
私はページをめくりました。
――取締役会の書面決議。
「これ、今回の事件で社長が勘違いしていたところです」
黒崎社長は、欠席した田辺取締役の手紙を持ち出しました。
――工場売却の件、社長に一任いたします。
そして。
「本人が賛成しているんだから、一票に数えていいだろう」
と主張していた。
でも。
「それは駄目です!」
私は言いました。
「普通の取締役会で、欠席者の手紙をそのまま出席票として数えることはできません!」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
現代の会社法には、取締役会決議の省略、いわゆる書面決議の制度があります。
会社法第三百七十条。
ただし。
これは、ただ紙を集めれば成立する制度ではありません。
「まず、定款に定めが必要です」
「うん」
「そして、取締役から決議事項について提案があった場合、その事項について議決に加わることができる取締役全員が、書面または電磁的記録で同意する必要があります」
「全員か」
「そうです!」
私は大きく丸をつけました。
全員。
過半数ではありません。
三分の二でもありません。
議決に加わることができる取締役の全員です。
「さらに、監査役設置会社では、監査役がその提案について異議を述べたときは、書面決議は成立しません」
私は続けました。
「つまり、定款に規定があり、議決に加われる取締役全員が同意し、監査役による異議もないことなどが必要なんです」
「なるほど」
相馬先輩が言いました。
「一人の欠席者が手紙を送った程度じゃ駄目ってことか」
「そうです!」
私は頷きました。
「それに、監査役が異議を述べないことと、監査役全員の賛成書面が必要なことは違います」
「ほう」
「監査役は取締役会の議決権を持つわけではありませんから」
ここも大事です。
取締役全員の書面同意。
監査役の異議がないこと。
この二つは、役割が違います。
「でも先輩」
「何だ」
「この制度、昭和六十三年にはまだないんですよね」
「ねえな」
「……便利なのに」
「法律は便利だからって勝手に使えるもんじゃねえ」
「分かってます!」
現代では、全国各地に取締役が散らばっている会社もあります。
全員を同じ場所に集めるのは大変。
そのため、一定の条件で、実際に会議を開かずに決議があったものとみなす制度が用意されています。
ただし。
全員同意などの厳しい条件を置くことで、一部の取締役だけが勝手に決める危険を抑えています。
「便利にするけど、勝手にはさせない」
私は呟きました。
「何だ?」
相馬先輩が聞きました。
「現代の会社法って、そういう方向なんですね」
片桐所長が頷きました。
「手続きを簡単にしても、責任まで軽くしていいわけじゃない」
「はい!」
私はその言葉を、ノートの端に書きました。
「次が、私の好きなところです!」
私は勢いよくページをめくりました。
――特別取締役による取締役会決議。
相馬先輩が顔をしかめました。
「出たな。お前の好きな特別取締役」
「はい!」
「何がそんなにいいんだ」
「制度の仕組みが面白いんです!」
私は鉛筆を構えました。
現代の会社法第三百七十三条。
特別取締役による取締役会決議。
これは、大勢の取締役がいる会社で、一定の重要事項を迅速に決定できるようにする制度です。
「まず、対象となる会社には要件があります」
私は二つ書きました。
取締役が六人以上いること。
取締役のうち、一人以上が社外取締役であること。
「この二つです!」
「六人以上か」
「はい!」
つまり。
取締役五人の会社では、使えません。
いくら急いでいても。
いくら社長がお願いしても。
五人では駄目です。
「今回の東浜精機は?」
相馬先輩が聞きました。
「五人です!」
「じゃあ?」
「現代でも、この制度の要件を満たしません!」
「そういうことだな」
私は頷きました。
さらに。
要件を満たす会社でも、取締役会であらかじめ三人以上の特別取締役を選定する必要があります。
「ここで注意です!」
「またか」
「特別取締役は、一人でも二人でもいいわけではありません!」
私は大きく書きました。
三人以上。
「では、その特別取締役だけで、どんなことでも決議できるんですか?」
相馬先輩が聞きました。
「いいえ!」
私は勢いよく答えました。
「対象となるのは、重要な財産の処分及び譲受けと、多額の借財です!」
ここが、最大のポイント。
重要な財産の処分及び譲受け。
多額の借財。
この二つです。
「たとえば?」
「工場を売ることです!」
「今回の事件だな」
「はい!」
東浜精機の三億円の工場。
重要な財産の処分に当たる典型的な事例です。
「それから?」
「会社が多額の借金をする場合です!」
たとえば。
二億円の設備投資資金を銀行から借り入れる。
その借入れが会社の規模や財務状況などから多額の借財に当たるなら、取締役会の重要な意思決定事項になります。
ただし、金額だけで機械的に決まるわけではありません。
会社の規模。
財産状況。
借入金額。
取引の内容。
そうした事情から判断します。
「で、その特別取締役はどうやって決議するんだ?」
相馬先輩が聞きました。
「原則として、議決に加わることができる特別取締役の過半数が出席し、その出席した特別取締役の過半数で決議します」
「なるほどな」
私はノートに例を書きました。
特別取締役が三人。
全員が議決に参加できる場合。
最低二人が出席。
その二人がともに賛成すれば、決議成立。
もちろん、特別の利害関係がある場合や、定款で要件を加重している場合などには、別途確認が必要です。
「これなら、取締役が十人以上いても、迅速に決定できますね」
「まあな」
「ただし!」
私は声を上げました。
相馬先輩がため息をつきます。
「まだあるのか」
「あります!」
特別取締役による決議が認められるのは、法律で定められた対象事項についてです。
何でも特別取締役に任せられるわけではありません。
「そして、この制度は、昭和六十三年にはまだ存在しません!」
「それはもう覚えた」
「大事なので何度でも言います!」
昭和と現代。
ここを混同してはいけません。
昔の会社制度では、会社の機関構成や意思決定の仕組みが、今より硬直的でした。
その後。
企業活動の複雑化。
経営判断の迅速化。
そして、企業統治の強化。
そうした必要性を背景として、制度の整備が進んでいきます。
「でも」
私は少し考えました。
「特別取締役制度があっても、黒崎社長のような人が好き勝手できるわけじゃありませんよね」
「当たり前だ」
「特別利害関係があれば、議決参加の制限は問題になりますし」
「そうだ」
「不当な取引で会社に損害を与えれば、責任も問題になります」
「そのとおり」
つまり。
特別取締役制度は、社長の独裁を認める制度ではありません。
必要な範囲で。
法律の条件を満たしたうえで。
迅速な意思決定を可能にする仕組みなのです。
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「決議が終わった後の問題だ」
「議事録ですね!」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――取締役会議事録。
「これ、今回の事件でも重要でした」
東浜精機の議事録。
出席していない田辺さんが、出席したことになっていた。
しかも。
賛成したことにされていた。
「議事録って、ただの会議メモじゃないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「会社の重要な意思決定を記録する書類だ」
現代の会社法第三百六十九条第三項。
取締役会の議事については、法務省令で定めるところにより議事録を作成します。
そして。
議事録を書面で作成した場合には、出席した取締役及び監査役が、署名または記名押印をしなければなりません。
「ここも大事です!」
私は赤線を引きました。
出席した取締役。
出席した監査役。
どちらも対象です。
「監査役も?」
相馬先輩が聞きました。
「はい!」
「でも、監査役は取締役会の議決権を持たないだろ」
「そうです」
私は頷きました。
「議決権を持つことと、出席して議事録に署名することは別なんです」
監査役は、取締役の職務執行を監査する立場です。
取締役会に出席し、必要に応じて意見を述べる役割があります。
だから。
書面の議事録について、出席監査役にも署名または記名押印が求められるのです。
「さらに!」
私は続けました。
「取締役会の決議に参加した取締役が、議事録に異議をとどめなかった場合、その決議に賛成したものと推定されます!」
会社法第三百六十九条第五項。
私は二重線を引きました。
「これ、怖いですよね」
「何がだ」
「本当は反対していたのに、議事録に異議を残さなかったら、賛成したと推定されることがあるんですよ!」
今回の村瀬さんを思い出します。
村瀬さんは、工場の売却に反対していました。
でも。
もし議事録に反対した事実が正確に残っていなければ。
後から、誰が何を主張したのか、争いになるかもしれません。
「だから、議事録には正確に記録する必要があるんですね」
「そうだ」
「ただし」
私は付け加えました。
「異議を残さなかったから、必ず損害賠償責任を負う、というわけではありません」
ここも大切です。
議事録に異議をとどめなかった取締役について、決議への賛成が推定されること。
その取締役が任務を怠ったとして損害賠償責任を負うこと。
この二つは、別の問題です。
責任を問うには、任務違反や損害、因果関係などを検討しなければなりません。
また。
監査役についても、単に異議を記載しなかったことだけから、取締役と同じ賛成推定が働くわけではありません。
監査役自身の責任は、その職務や具体的な任務違反の有無によって判断されます。
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
「ハンコを押したから全部責任を負う、という単純な話じゃないわけだ」
「そうです!」
私は笑いました。
でも。
だからこそ、議事録を軽く扱ってはいけません。
会議で何が起きたのか。
誰が何を発言したのか。
誰が議決に参加したのか。
誰が反対したのか。
そこを正確に記録する。
後から会社を守るためにも。
取締役自身を守るためにも。
大切な仕事なのです。
「では、議事録は作ったら終わりですか?」
私は自分で問いかけました。
相馬先輩が嫌な顔をしました。
「……まだ続くのか」
「続きます!」
私はノートに書きました。
――議事録の備置き。
現代の会社法第三百七十一条第一項。
取締役会設置会社は、取締役会の日から十年間、議事録を本店に備え置かなければなりません。
「十年間です!」
「長いな」
「はい!」
私は指を十本広げました。
「一年前でも、五年前でも、九年前でも、確認が必要になる場合がありますからね」
「そうだな」
「会社が重要な決定をした記録を、すぐに捨ててしまったら困ります」
たとえば。
数年前の大きな借入れ。
重要な財産の売却。
取締役の責任が問題になった取引。
後になって問題が発覚することもあります。
そのとき。
議事録がなければ、どういう手続きで決めたのか確認できません。
「でも、先輩」
「何だ」
「誰でも議事録を見られるわけではないんです」
「そりゃそうだろ」
相馬先輩が頷きました。
「会社の重要な情報が書いてあるからな」
「そうです!」
取締役会議事録には、企業秘密や経営上の重要情報が含まれる場合があります。
だから。
閲覧や謄写にも、ルールがあります。
私はノートを二つに分けました。
まず。
現代の会社法第三百七十一条第二項。
監査役設置会社などに該当しない取締役会設置会社では、株主は、その権利を行使するため必要があるとき、営業時間内に議事録の閲覧や謄写を請求できます。
「つまり、株主なら無条件で何でも見られる、というわけではありません」
「権利行使の必要性があるんだな」
「はい!」
そして。
監査役設置会社。
監査等委員会設置会社。
指名委員会等設置会社。
これらの会社では、株主が議事録を閲覧・謄写するために、裁判所の許可が必要です。
「さらに、会社の債権者も、一定の条件で裁判所の許可を得て閲覧・謄写を請求できます」
私は続けました。
「ここは、株主と会社債権者を混同しないことが大事です」
株主については、会社の機関設計によって、裁判所の許可の要否が異なります。
一方、会社債権者については、役員などの責任を追及するために必要がある場合、裁判所の許可を得る仕組みです。
「なるほど」
相馬先輩が腕を組みました。
「議事録は会社の秘密でもあるが、必要な人が確認できなければ困るわけだ」
「そういうことです!」
私は頷きました。
経営情報の保護。
株主や債権者の権利保護。
この二つの調整。
そこにも、会社法の工夫があります。
「ただし」
私は鉛筆を止めました。
「昭和六十三年には、監査等委員会設置会社も、指名委員会等設置会社も存在しません」
「また未来の制度か」
「はい……」
相馬先輩は呆れたように笑いました。
「お前の未来には、いろいろあるんだな」
「本当に、いろいろあります」
私は苦笑しました。
昭和の商法と、現代の会社法。
同じ株式会社でも、機関設計は大きく異なります。
だから。
現代の条文に書かれた会社形態を、そのまま昭和に当てはめてはいけない。
法律の考え方を理解することと、当時存在しない制度を使うことは、別なのです。
気がつけば。
窓の外は、すっかり夕暮れでした。
私はここまでのノートを読み返しました。
取締役会の決議方法。
特別利害関係。
書面決議。
特別取締役。
議事録。
備置き。
閲覧・謄写。
「……多いですね」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「最初から分かってただろ」
「でも、全部つながってるんです」
「ほう」
私はノートを指差しました。
「取締役会は、会社の重要な意思決定をする」
「うん」
「だから、誰が議決に参加できるかを決める」
「そうだ」
「決議には出席者数と賛成者数のルールがある」
「うん」
「現代では、条件を満たせば書面決議や特別取締役による決議で迅速化できる」
「そうだな」
「でも、その決定が正しく行われたことを確認するために、議事録が必要になる」
相馬先輩が頷きました。
「なるほどな」
私は続けました。
「そして、後から株主や債権者が問題を確認するために、議事録の保存や閲覧制度がある」
「そういうことだ」
私は嬉しくなりました。
そうです。
バラバラだった条文が、一つの流れになりました。
ただ暗記すると、覚えにくい。
でも。
会社の意思決定を、公正かつ確実に行う仕組みだと考えると、全部つながる。
「所長」
「何だ」
「会社法って、会社を動かすための法律であり、会社の暴走を止める法律でもあるんですね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「早く決めることも大事」
「うん」
「でも、正しく決めることも大事」
「そのとおり」
私は窓の外を見ました。
遠くに、東浜精機の煙突が見えます。
工場は、まだ動いています。
五十人の従業員が働いています。
もし。
黒崎社長の言うことが、そのまま通っていたら。
あの工場は、なくなっていたかもしれません。
でも。
定款の四分の三という一行。
特別利害関係のある取締役を、議決から除外する一つのルール。
そして、正確な議事録。
それらが、会社の運命を変えたのです。
「さて、こはる」
片桐所長が言いました。
「確認問題だ」
「はい!」
私は背筋を伸ばしました。
「取締役が五人。定款に特別な定めがなく、全員が議決に加われる。決議に必要な出席者は?」
「三人です!」
「三人出席した。必要な賛成者は?」
「二人です!」
「では、定款で出席要件を四分の三以上にすることはできるか」
「できます!」
「逆に、三分の一以上へ軽くすることは?」
「できません!」
よし。
順調です。
「次。ある取締役が、その議案について特別利害関係を持っていたら?」
「議決に加われません!」
「その者は、定足数の計算に含めるか?」
「含めません!」
「株主総会で特別利害関係を持つ株主は?」
「原則として議決権を行使できます。ただし、著しく不当な決議となった場合には、取消しが問題になります!」
片桐所長が頷きました。
「よし」
私は拳を握りました。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「現代の会社法で、取締役会の書面決議に定款の定めは必要か?」
「必要です!」
「賛成は何人必要だ?」
「議決に加われる取締役全員です!」
「監査役が異議を述べたら?」
「監査役設置会社では、書面決議は成立しません!」
「じゃあ、昭和六十三年には?」
「現代の会社法第三百七十条に相当する制度は、まだありません!」
「よし」
相馬先輩が笑いました。
私は得意になりました。
「次は特別取締役ですね!」
「自分から問題を要求するな」
「お願いします!」
所長が静かに言いました。
「特別取締役による決議を利用できる会社の要件は?」
「現代では、取締役六人以上、社外取締役一人以上です!」
「選定する特別取締役は?」
「三人以上です!」
「対象事項は?」
「重要な財産の処分及び譲受けと、多額の借財です!」
「それ以外の事項を、何でも任せられるか?」
「いいえ!」
よし。
完璧。
「では、議事録だ」
「はい!」
「書面で作成した議事録には、誰が署名または記名押印する?」
「出席した取締役及び監査役です!」
「決議に参加した取締役が、議事録に異議をとどめなかった場合は?」
「その決議に賛成したものと推定されます!」
「議事録の本店備置期間は?」
「現代の会社法では十年間です!」
「株主が議事録を閲覧する場合、裁判所の許可が必要になる会社は?」
「監査役設置会社、監査等委員会設置会社、指名委員会等設置会社です!」
所長が頷きました。
「よし」
私は思わず立ち上がりました。
「やりました!」
相馬先輩が笑いました。
「珍しく全部答えたな」
「珍しくって何ですか!」
「いつも未来の条文を持ち出すからな」
「今日は区別しました!」
「そうだな」
私は満足しました。
ただ。
まだ一つ、気になることがあります。
「所長」
「何だ」
「どうして現代では、会社法が商法から独立したんですか?」
片桐所長は、少し考えました。
「今の商法は、長い間の改正で複雑になっている」
「はい」
「会社の規模も、経営の形も、さまざまだ」
私は頷きました。
昭和の株式会社。
発起人七人以上。
取締役三人以上。
監査役も必要。
小さな会社でも、それだけの人をそろえる必要がありました。
だから。
実際には仕事をしない名ばかりの役員。
知り合いに頼んだ名前だけの発起人。
そうした問題が起こりやすかったのです。
やがて時代が進みます。
会社制度の規制が見直され。
株式会社を一人で設立することも可能になり。
平成十八年には、独立した会社法が施行されます。
現代では。
発起人一人。
一定の会社形態なら取締役一人。
資本金一円。
そうした小規模な株式会社も設立できます。
もちろん、現代でも会社の機関設計によって必要な役員構成は異なります。
でも。
昭和六十三年と比べれば、会社設立や運営の自由度は大きく高まっています。
「そして」
私は言いました。
「会社法として独立したことで、会社の設立、機関、株式、計算などのルールが整理されたんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「だが、整理されても、守るべきものは変わらん」
「守るべきもの?」
「会社だ」
私は顔を上げました。
「社長個人ではない」
「……はい」
「会社そのものと、その会社に関わる人間だ」
その言葉に。
私は、東浜精機の工場を思い出しました。
三億円の工場。
五十人の従業員。
取引先。
株主。
債権者。
そのすべてが、会社という一つの法人につながっている。
だから。
社長が勝手に財産を売り飛ばそうとしたとき。
会社法のルールが意味を持つ。
私は頷きました。
「便利になっても、公正さを失ってはいけないんですね」
「そうだ」
所長が短く答えました。
夕暮れの事務所。
私はノートの最後のページを開きました。
今日の一行です。
何を書こうか、少し悩みました。
取締役会の出席要件。
決議要件。
特別利害関係。
書面決議。
特別取締役。
議事録。
全部、大切です。
でも。
事件の核心を一行にするなら。
これしかありません。
私は鉛筆を走らせました。
――取締役会の決議は「誰が投票できるか」を先に確かめ、定款に従って出席者と賛成者を数える。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、もう忘れません。
三億円の工場。
八千万円で買い取ろうとした社長。
欠席者の手紙。
四分の三という定款の規定。
そして。
投票してはいけなかった社長の一票。
その全部を思い出せばいい。
会社の意思決定は。
単なる多数決ではありません。
誰が。
どんな立場で。
どのような手続きに従って。
何を決めたのか。
そこまで確認して、初めて正しい決議になるのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「……はい」
「床も掃け」
私は止まりました。
……。
またです。
「先輩」
「何だ」
「その業務分担、誰が決めたんですか?」
「俺だ」
「勝手に?」
「そうだ」
私は腕を組みました。
「先輩、それは問題です!」
「何がだ」
「重要な意思決定を、先輩一人でしているじゃないですか!」
「ただの掃除だろ!」
「でも、私は反対です!」
「何だと?」
私は堂々と言いました。
「取締役会を開きましょう!」
相馬先輩が固まりました。
「……は?」
「所長、相馬先輩、私の三人で、掃除当番について決議するんです!」
「お前、何言ってるんだ!」
「多数決です!」
「ここは株式会社じゃねえ!」
……。
あ。
そうでした。
片桐行政書士事務所。
株式会社ではありません。
取締役会もありません。
「……そうでした」
「そうでした、じゃねえ!」
相馬先輩が机を叩きました。
「お前、覚えた法律を何でも使おうとするな!」
「だって、せっかく覚えたんです!」
「使う場所を考えろ!」
そのとき。
片桐所長が、静かに口を開きました。
「相馬」
「はい」
「掃除当番を決めるなら、三人で話し合えばいい」
「……所長?」
私は顔を上げました。
おお。
所長。
さすがです。
公平な話合い。
これこそ、組織運営の基本。
「では!」
私は勢いよく言いました。
「掃除当番について、決議を行います!」
「まだ言うか!」
「議案第一号!」
「やめろ!」
「本日の掃除担当者を、相馬誠司先輩とする件!」
相馬先輩が立ち上がりました。
「ふざけんな!」
「私は賛成です!」
私は手を挙げました。
「所長はいかがですか!」
片桐所長は、帳簿を閉じました。
「反対だ」
「ええっ!?」
「こはるが掃除をする」
……。
私は固まりました。
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな!」
「所長!」
「何だ」
「私の議案が否決されました!」
「そうだな」
「でも、所長と先輩が同じ意見なのは不公平です!」
「何が不公平だ」
「二対一じゃないですか!」
相馬先輩がにやりと笑いました。
「多数決だろ」
「ぐっ……!」
確かに。
二対一。
私の敗北です。
でも。
ここで、私は閃きました。
「待ってください!」
「今度は何だ!」
「この議案について、相馬先輩には特別利害関係があります!」
相馬先輩の笑顔が止まりました。
「……は?」
「先輩自身が掃除をするかどうかを決める議案です!」
「だから?」
「先輩の個人的な利益に関わります!」
「おい」
「よって、先輩は議決に参加できません!」
「勝手に会社法を持ち込むな!」
私は続けました。
「議決に加われるのは、所長と私!」
「……」
「そして私は賛成!」
「……」
「所長は反対!」
私は指を折りました。
一人。
一人。
同数。
「……あれ?」
相馬先輩が笑いました。
「どうした?」
「過半数になりません」
「そうだな」
「可決できません!」
「じゃあ掃除はどうする?」
……。
私は所長を見ました。
所長は、静かに箒を指差しました。
「こはる」
「はい……」
「掃除を頼む」
……。
相馬先輩が大笑いしました。
「ほらな!」
「何ですか!」
「そもそも特別利害関係の意味から間違ってんだよ!」
「え?」
「議案が自分に関係するってだけで、全部投票できなくなるわけじゃねえ!」
……。
あ。
確かに。
特別利害関係とは、単に本人に関係があるという意味ではありません。
その決議において、公正な判断を妨げるような特別の個人的利害があるかどうかが問題になる。
だから。
何でもかんでも特別利害関係にしてはいけない。
「……なるほど」
私は小さく頷きました。
「そこも大事ですね」
「今さらか!」
相馬先輩が笑いました。
私は箒を手に取りました。
「分かりました!」
「いい返事だ」
「掃除します!」
「最初からそうしろ」
「でも先輩!」
「まだあるのか!」
「今日の掃除について、議事録を作ります!」
「作るな!」
「議案第一号、掃除当番の決定!」
「やめろ!」
「出席者、片桐所長、相馬誠司先輩、朝比奈こはる!」
「書くな!」
「決議結果、こはるが掃除することに決定!」
「それだけ合ってる!」
私は笑いながら床を掃き始めました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
遠くでは、東浜精機の工場が、まだ動いていました。
機械の音。
働く人たちの声。
明日も続く仕事。
その日常を守ったのは。
大声で怒鳴る社長ではありませんでした。
正確な定款。
適法な決議要件。
そして、嘘のない議事録。
たった一票を、正しく数えること。
その積み重ねだったのです。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――取締役会の決議は「誰が投票できるか」を先に確かめ、定款に従って出席者と賛成者を数える。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、決議要件を復習してたんです!」
「復習は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私、今日の掃除について異議をとどめます!」
「だからここは取締役会じゃねえ!」
……なるほど。
法律を覚えることと。
掃除当番から逃れることは。
まったく別の問題のようです。
残念ながら。
会社法第三百六十九条を暗唱できるようになっても。
事務所の掃除は免除されないのでした。
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