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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の機関    

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655/701

[会社法・取締役会の決議・特別取締役]現場編 「社長が賛成したから決議成立」の嘘。たった一票を数え間違えたワンマン社長と、議事録に隠された三億円の罠

挿絵(By みてみん)

 会議で多数決を取ったからといって、何でも決められるわけではありません。


 五人のうち、三人が賛成した。


 だから可決。


 普通なら、そう考えますよね。


 でも。


 もし、その三人の中に、そもそも投票してはいけない人がいたら?


 もし、会社の定款に、もっと厳しい決議のルールが書かれていたら?


 そして。


 出席していない人の名前まで、勝手に賛成票へ数えられていたら?


 その決議は、本当に成立しているのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は一枚の取締役会議事録を見て、背筋が冷たくなりました。


 なぜなら。


 三億円もの会社財産を売り飛ばす決議が、たった一行の嘘で成立したことにされていたからです。


 しかも、その財産を買おうとしていたのは。


 決議に賛成した社長自身だったのです。


「会社の工場が、社長のものにされそうなんです!」


 朝一番。


 事務所の扉を勢いよく開けた男性が、そう叫びました。


「……工場が?」


 私は顔を上げました。


 男性は四十代半ば。


 作業服の袖には、油の染み。


 日に焼けた手には、分厚い封筒を握っています。


「助けてください。あの工場がなくなったら、従業員五十人が路頭に迷います!」


 男性の名前は、村瀬修一さん。


 四十六歳。


 地元の金属加工会社、東浜精機株式会社の取締役兼工場長です。


 東浜精機。


 この町では、それなりに有名な会社でした。


 自動車部品や産業機械の部品を加工する中堅企業。


 従業員五十人。


 創業三十年。


 ところが。


 最近就任した二代目社長、黒崎剛三が、とんでもないことを始めたそうです。


「工場を売るって言い出したんです」


「どなたにですか?」


「社長が個人で経営している、不動産会社です」


 ……。


 私は鉛筆を止めました。


「社長自身の会社に?」


「はい」


「いくらで?」


「八千万円です」


「工場の価値は?」


 村瀬さんは、封筒から不動産業者の査定書を取り出しました。


 そこには。


 土地建物の評価額。


 三億円前後。


「……え?」


 私は見比べました。


 三億円。


 八千万円。


 差額。


 二億二千万円。


「安すぎませんか!?」


「そうなんです!」


 村瀬さんは机を叩きました。


「しかも、売却後は工場を閉鎖して、物流倉庫にするそうです!」


「従業員は?」


「解雇すると……」


 私は言葉を失いました。


 三十年間、町を支えてきた工場。


 五十人の従業員。


 その家族。


 そして。


 社長が、自分の不動産会社へ工場を安く売る。


 あまりにも露骨です。


「でも!」


 私は顔を上げました。


「そんな重要な財産の処分、社長一人では決められませんよね!」


 村瀬さんが頷きました。


「取締役会で決議したと言っています」


「それなら、その決議を確認しましょう!」


「ところが……」


 村瀬さんは、もう一枚の紙を取り出しました。


「これが、昨日渡された議事録です」


 私は受け取りました。


 表題。


 ――東浜精機株式会社 取締役会議事録。


 議題。


 ――本社工場の土地及び建物の譲渡について。


 出席取締役。


 黒崎剛三。


 村瀬修一。


 井上武男。


 田辺信夫。


 議決結果。


 賛成三名。


 反対一名。


 よって可決。


 ……。


 私は首をかしげました。


「村瀬さんは反対されたんですか?」


「はい」


「ほかの方は?」


「社長と井上さんは賛成しました」


「田辺さんは?」


 村瀬さんは、首を振りました。


「田辺さんは、その日、病院に入院していました」


「……はい?」


「会議には来ていません」


 私は議事録を見直しました。


 出席取締役。


 田辺信夫。


 議決結果。


 賛成三名。


「ちょっと待ってください」


 私は顔を上げました。


「いない人が、賛成したことになってるんですか!?」


「社長は、田辺さんから事前に賛成の手紙をもらったと言っています」


 なるほど。


 書面による意思表示。


 現代の会社法では、一定の条件を満たせば取締役会の決議を省略できる制度があります。


 私は思わず立ち上がりました。


「分かりました!」


「本当ですか!?」


「取締役会の書面決議です!」


 よし。


 会社法第三百七十条。


 定款の定めがあり、議決に加わることのできる取締役全員が書面または電磁的記録で同意し、監査役が異議を述べないことなどを条件に、取締役会の決議があったものとみなす制度。


 つまり。


 社長が勝手に一人の賛成書面を持ってきたところで、成立するものではありません。


「定款に書面決議の規定があるか確認しましょう!」


 私は言いました。


「それに、全員の同意も必要です!」


 すると。


「おい」


 背後から、低い声。


 相馬先輩でした。


「はい?」


「今、何条って言おうとした?」


「会社法三百七十条です!」


「……会社法?」


 あ。


 しまった。


 先輩が、ものすごく嫌な顔をしました。


「こはる」


「はい」


「この事務所の六法に、会社法なんて法律があるか?」


「……ありません」


「何年だ、今」


「昭和六十三年です」


「じゃあ?」


「……商法第二編です」


「分かってるなら、最初からそっちを開け!」


 私は慌てて六法を取りました。


 そうでした。


 昭和六十三年。


 まだ、独立した会社法は存在しません。


 株式会社の基本的なルールは、商法第二編。


 しかも。


 現代の会社法第三百七十条にあるような、取締役会決議の省略制度は、この時代にはまだ存在していないのです。


「……先輩」


「何だ」


「未来の制度を使おうとしてました」


「お前、時々、本当に何言ってるか分からねえな」


「すみません……」


 危ない。


 転生者。


 会社法改正の地雷を踏みました。


 相馬先輩は六法を開きました。


「昭和の取締役会は、今の商法に従って決議する。欠席した取締役から賛成の手紙が届いたからって、勝手に出席扱いにはできねえ」


「はい!」


「それに」


 先輩は議事録を指差しました。


「もっと大事な問題がある」


「何ですか?」


「この社長、本当に議決に参加できるのか?」


 私は固まりました。


 ……あ。


 そうでした。


 工場を売る相手は。


 社長が個人で経営する会社。


 つまり。


「特別利害関係!」


 私は思わず叫びました。


 相馬先輩が頷きました。


「ようやく気づいたか」


 取締役会の決議には。


 投票できる人と、できない人がいる。


 今回。


 その違いが、三億円の工場の運命を左右することになるのです。


「まず、取締役は何人いる?」


 相馬先輩が尋ねました。


「五人です」


 村瀬さんが答えました。


「社長の黒崎、私、井上、田辺、それから経理担当の佐伯です」


「五人か」


「はい」


「佐伯さんは、今回の会議には?」


「呼ばれていません」


「……呼ばれていない?」


「社長が『忙しいから来なくていい』と」


 相馬先輩の眉が動きました。


「なるほどな」


 私はノートに書きました。


 取締役。


 一、黒崎社長。


 二、村瀬さん。


 三、井上さん。


 四、田辺さん。


 五、佐伯さん。


 合計五名。


 そのうち。


 社長は特別利害関係が問題となる立場。


 田辺さんは欠席。


 佐伯さんは招集されていない。


 実際に会議へ出たのは。


 黒崎社長。


 村瀬さん。


 井上さん。


 三人だけ。


 しかも、そのうち一人は社長自身。


「……これ」


 私は呟きました。


「決議の成立、かなり怪しくありませんか?」


「ああ」


 相馬先輩が答えました。


「だが、もう一つ見るものがある」


「何ですか?」


「定款だ」


 そのとき。


 奥の机から、片桐所長が顔を上げました。


「相馬」


「はい」


「定款の写しは?」


「まだです」


「相談者に確認しろ」


 村瀬さんは封筒を探りました。


「あ、あります」


 取り出されたのは、分厚い冊子。


 東浜精機株式会社定款。


 昭和三十年代に作られ、その後何度か変更されたものです。


 片桐所長がページをめくりました。


 そして。


 ある条文で、指を止めました。


「……ここだ」


 私は覗き込みました。


 取締役会の決議方法。


 そこには、こう書かれていました。


 ――取締役会の決議は、議決に加わることができる取締役の四分の三以上が出席し、その四分の三以上の多数をもって行う。


 ……。


 私は目を丸くしました。


「四分の三!?」


「ああ」


「普通の過半数じゃないんですか!?」


「定款で、より厳しい要件を置いている」


 相馬先輩が言いました。


 なるほど。


 取締役会の決議は、単純な多数決だけではありません。


 法律上の原則があります。


 そのうえで。


 定款がもっと厳しい決議要件を設けている場合、そのルールにも従わなければならない。


 ちなみに、現代の会社法でも基本的な考え方は同じです。


 ただし、定款で決議要件を自由に引き下げられるわけではありません。


「つまり……」


 私は指を折りました。


「まず、社長が特別利害関係を持っているなら、議決に加われません」


「うん」


「残る取締役は四人」


「そうだ」


「定款では、その四分の三以上が出席しなければならない」


「何人だ?」


「三人です!」


「実際には?」


「村瀬さんと井上さんの二人しか……」


 私は止まりました。


「あっ!」


 相馬先輩がにやりと笑います。


「そういうことだ」


 取締役会の決議に必要な出席者数。


 三人。


 実際に議決へ参加できる出席者。


 二人。


 足りない。


 しかも。


 佐伯さんを呼んですらいない。


「じゃあ!」


 私は声を上げました。


「最初から決議の成立要件を満たしていないじゃないですか!」


「その可能性が高い」


 片桐所長が静かに言いました。


「ただし、社長が特別利害関係を持つことを、資料で確認する必要がある」


「はい!」


「そして、会議の実態も確かめる」


 私は頷きました。


 法律は、思い込みで使ってはいけない。


 どんなに怪しくても。


 必要な事実を確認しなければならないのです。


 その日の午後。


 私と相馬先輩は、東浜精機の本社へ向かいました。


 工場の隣に建つ二階建ての事務所。


 壁には、創業者が掲げたという額。


 ――信用第一。


 私はそれを見て、少し複雑な気持ちになりました。


 信用第一。


 なのに。


 会社の工場を、社長自身の不動産会社に格安で売ろうとしている。


 信用は、いったいどこへ行ったのでしょう。


「何だ、あんたら」


 社長室。


 大きな革張りの椅子に座った男が、私たちを見下ろしていました。


 黒崎剛三。


 五十二歳。


 金色の腕時計。


 高そうな背広。


 机には高級な万年筆。


 いかにも。


 俺が社長だ。


 という雰囲気の人です。


「片桐行政書士事務所の相馬です」


「行政書士?」


 黒崎社長が笑いました。


「弁護士じゃないのか」


「そうです」


「じゃあ、何しに来た」


 相馬先輩は、落ち着いた声で言いました。


「村瀬さんから依頼を受け、議事録作成の経緯について、事実の確認をお願いしています」


「議事録?」


「本社工場の譲渡に関するものです」


 黒崎社長は、鼻で笑いました。


「ああ、あれか」


「はい」


「もう決まったことだ」


「決議が成立したという認識ですか?」


「当たり前だろ」


 社長は机を叩きました。


「俺が社長だぞ!」


 ……出ました。


 俺が社長。


 法律トラブルで、あまり頼りにならない言葉ランキングがあれば、かなり上位に入りそうです。


「取締役会で多数決を取ったんだ」


 黒崎社長が言いました。


「俺と井上と田辺。三人が賛成した」


「田辺さんは欠席されていたと聞いています」


「ああ。だが手紙がある」


「手紙ですか」


「賛成すると書いてある。何が問題だ?」


 社長は引き出しから一枚の便箋を出しました。


 そこには。


 ――工場売却の件、社長に一任いたします。


 田辺信夫。


 と書かれていました。


「これだ!」


 社長は得意そうに笑いました。


「本人が賛成してるんだ。文句ねえだろ!」


 私は口を開きかけました。


 でも。


 相馬先輩が先に言いました。


「この手紙を、出席取締役の一票として扱ったわけですね」


「そうだ」


「分かりました」


「何が分かった」


「社長の考えです」


 先輩は淡々と答えました。


 黒崎社長が顔をしかめました。


「おい。何を言いたい」


 相馬先輩は、そこで一つだけ質問しました。


「ところで、工場の買主である黒崎不動産は、社長ご自身が経営されている会社ですね」


「ああ」


「その会社の株式も、社長が全部持っている?」


「そうだが?」


「工場を安く取得すれば、社長の個人的な利益につながる?」


 黒崎社長の表情が変わりました。


「……何だと?」


「確認です」


「当たり前だろ。俺の会社なんだから」


 私は心の中で叫びました。


 言った!


 自分で言った!


 相馬先輩は頷きました。


「承知しました」


「それがどうした!」


 黒崎社長は腕を組みました。


「俺は社長だ! 会社の財産をどうするかは、俺が決める!」


 その瞬間。


 相馬先輩の目が、冷たくなりました。


「社長」


「何だ!」


「会社の財産は、社長個人の財布じゃありません」


 黒崎社長が黙りました。


「株式会社の財産は、会社のものです」


「……」


「そして、取締役は、会社の利益を考えて職務を行う立場です」


「何が言いたい!」


「ご自身の利益と会社の利益が衝突する取引について、社長が当然に議決権を行使できると思わないことです」


 黒崎社長の顔が赤くなりました。


「ふざけるな!」


 机が、どん、と鳴りました。


「俺が社長だぞ!」


 相馬先輩は動じません。


「社長が一番偉いんじゃねえ」


 低い声。


「商法を守った奴が勝つんですよ」


 ……。


 私は思わず、先輩を見ました。


 格好いい。


 ただし、口が悪い。


 いつものことです。


「帰れ!」


 黒崎社長が怒鳴りました。


「行政書士なんかに、会社の経営をどうこう言われる筋合いはねえ!」


 相馬先輩は、ゆっくり立ち上がりました。


「分かりました」


「二度と来るな!」


「こちらも、必要な確認はできました」


 先輩は一礼しました。


 私も慌てて頭を下げます。


 そして。


 社長室を出たところで、私は我慢できずに言いました。


「先輩!」


「何だ」


「あの社長、最悪です!」


「だな」


「完全に会社を私物化してます!」


「そうだな」


「だったら、もっと言ってやればよかったのに!」


 先輩は足を止めました。


「こはる」


「はい」


「俺たちは何屋だ?」


「行政書士です」


「そうだ」


「……」


「依頼人の代理人として、紛争の示談交渉をする仕事じゃねえ」


「はい」


「事実を確かめた。相手の認識も聞いた」


「はい」


「なら、次は書面だ」


 なるほど。


 口で争うのではない。


 事実を集める。


 法律を確認する。


 そして。


 相手が説明できない矛盾を、書面に残す。


 それが、片桐事務所の戦い方なのです。


 翌朝。


 事務所の机には、六つの資料が並んでいました。


 東浜精機の定款。


 取締役会議事録。


 田辺さんの入院を示す資料。


 佐伯さんの事実確認書。


 工場の不動産査定書。


 黒崎不動産の会社登記簿謄本。


「……すごい」


 私は呟きました。


 相馬先輩が腕を組みます。


「これで大筋は見えたな」


「はい!」


 佐伯取締役は、招集の連絡を一切受けていませんでした。


 田辺取締役は入院中。


 しかも。


 田辺さんの手紙に書かれていたのは、


 ――社長に一任する。


 という言葉だけ。


 特定の取締役会の議案について、実際に出席して議決権を行使した事実はありません。


 さらに。


 黒崎社長は、工場を自分の不動産会社へ譲渡する取引について、個人的な利益を持っています。


「所長」


 私は尋ねました。


「これ、特別利害関係のある取締役として、社長は決議に参加できませんよね」


「その取引については、そう判断する根拠が十分にある」


「じゃあ、五人の取締役のうち、議決に加われるのは四人」


「うん」


「定款は四分の三以上の出席を要求しています」


「そうだ」


「必要な出席者は三人」


「うん」


「でも、実際に議決に加われる出席者は村瀬さんと井上さんの二人だけ」


 私は鉛筆で大きく書きました。


 必要三人。


 実際二人。


 出席要件を満たさない。


「これだけでも、決議成立という主張は崩れます!」


 相馬先輩が頷きました。


「だが、仮に佐伯さんが来ていたとしても、まだ問題がある」


「え?」


「賛成票だ」


 私は考えました。


 仮に。


 議決に加われる取締役が三人出席したとします。


 定款では。


 出席した取締役の四分の三以上が賛成しなければならない。


 三人の四分の三。


 二・二五人。


 人間は端数で投票できません。


 つまり。


 三人なら三人全員の賛成が必要になる。


「……!」


 私は声を上げました。


「出席者が三人なら、二人賛成でも足りないんですね!」


「そうだ」


「単純な過半数とは、全然違います!」


「定款を読まずに数だけ数えると、こういうことになる」


 なるほど。


 取締役会の決議は。


 誰が投票できるか。


 何人出席すればよいか。


 何人賛成すればよいか。


 この三つを順番に確認しなければならない。


 社長が大声を出したかどうかなんて、関係ありません。


「でも先輩」


「何だ」


「現代なら、特別取締役による取締役会決議って制度がありますよね」


「……特別取締役?」


 しまった。


 またです。


「取締役が六人以上いて、社外取締役が一人以上いる会社で、一定の要件を満たせば……」


「おい」


「重要な財産の処分や、多額の借財について、あらかじめ選んだ三人以上の特別取締役で……」


「こはる」


「はい!」


「何の話だ」


 私は固まりました。


 現代の会社法第三百七十三条。


 特別取締役による取締役会決議。


 大勢の取締役がいる会社で、重要な財産の処分や多額の借財について、一定の要件のもとで迅速に決議できる制度。


 でも。


 昭和六十三年には、まだありません。


「……未来の会社制度です」


「何だそりゃ」


「いえ、何でもありません!」


 相馬先輩が額を押さえました。


「お前、本当に時々おかしいぞ」


「すみません!」


 ただ。


 私は思いました。


 現代の制度は、昔の不便さを改善しようとして作られている。


 取締役が多い会社では、全員の日程を合わせるだけでも大変です。


 だから、迅速に意思決定できる仕組みが整えられてきた。


 でも。


 その便利さと、社長の好き勝手を許すことは、まったく別問題です。


 しかも。


 今回の東浜精機は取締役五人。


 仮に現代の法律を適用したとしても、特別取締役制度の取締役六人以上という要件を満たしません。


 つまり。


 昭和でも。


 令和でも。


 黒崎社長の理屈は、そんなに簡単には通らないのです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「議事録の最後を見ろ」


「はい?」


 私はもう一度、議事録を開きました。


 出席取締役。


 黒崎剛三。


 村瀬修一。


 井上武男。


 田辺信夫。


 その下に、署名押印欄があります。


 黒崎剛三。


 印。


 井上武男。


 印。


 田辺信夫。


 印。


 そして。


 村瀬修一。


 ……空欄。


「村瀬さんは押印していませんね」


「ああ」


 相馬先輩が答えました。


「本人は、決議に反対している。しかも、この議事録は実際の会議と違うから、押印を拒否したそうだ」


「なるほど」


 私は頷きました。


 ここも重要です。


 取締役会議事録には、会議の経過や結果を記録する役割があります。


 昭和六十三年の商法でも、取締役会議事録の作成と、出席者による署名などが問題になります。


 そして。


 議事録に異議をとどめなかった取締役については、その決議に賛成したものと推定される場面がある。


「じゃあ!」


 私は言いました。


「村瀬さんが反対したなら、その事実を議事録に残しておく必要がありますね!」


「そうだ」


「もし、勝手に賛成扱いされたら大変です!」


「ああ」


 相馬先輩は頷きました。


「違法な決議に関わったとされれば、後で取締役としての責任を問われる問題にもつながる」


 私は背筋を伸ばしました。


 怖い。


 取締役会の議事録。


 ただの会議メモではありません。


 誰がいたのか。


 何を決めたのか。


 誰が賛成したのか。


 誰が反対したのか。


 その記録が、後で会社の損害や取締役の責任を考える重要な証拠になる。


「所長」


「何だ」


「議事録って、怖いですね」


 片桐所長は静かに答えました。


「怖いのは、書いてあることじゃない」


「え?」


「書かなかったことだ」


 私は黙りました。


 なるほど。


 実際には反対した。


 でも、議事録には異議が残っていない。


 そんな状態を放置すれば。


 後になって、誰が何を主張したのか分からなくなる。


 会社の意思決定は。


 声の大きさではなく。


 正確な記録で守られるべきなのです。


 その日の午後。


 私たちは書面を作り始めました。


 村瀬さん本人の名義で発送する内容証明郵便です。


 宛先は、東浜精機株式会社。


 代表取締役、黒崎剛三。


 私は原案を読み上げました。


「第一。本件工場譲渡に係る取締役会決議について、議事録記載の出席状況及び議決結果には、事実と異なる点が存在する」


「うん」


「第二。田辺取締役は、当該取締役会に出席しておらず、事前の書面をもって出席及び議決権行使があったものと扱うことはできない」


「うん」


「第三。佐伯取締役は、招集通知を受けておらず、会議に出席する機会を与えられていない」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。本件工場譲渡の相手方は、黒崎代表取締役が実質的に所有、支配する会社である」


「うん」


「第五。本件取引については、黒崎代表取締役に特別利害関係が認められ、商法第二百六十条ノ二により、当該決議に参加することができない」


 私は息を吸いました。


 ここが、急所です。


「第六。議決に参加することができる取締役は四名であり、定款所定の四分の三以上の出席要件を満たすには、三名以上の出席を要する」


「うん」


「第七。しかし、実際に議決に加わることのできる出席取締役は、村瀬及び井上の二名にとどまる」


「そのとおり」


「第八。よって、本件について適法な取締役会決議が成立したとすることには、重大な疑義がある」


 私は一度、所長を見ました。


 所長は頷きました。


「続けろ」


「第九。さらに、本件議事録には、実際に出席していない取締役の出席及び賛成が記載されており、その正確性についても疑義がある」


「よし」


「第十。通知人村瀬修一は、本件工場譲渡に反対しており、当該決議に賛成した事実はない」


 相馬先輩が頷きました。


「最後だ」


 私はゆっくり読みました。


「本件譲渡契約の締結及び履行を進める前に、取締役会決議の成立に関する問題点を精査し、議事録の事実と異なる記載を訂正するとともに、会社及び株主の利益を害する処分を行わないよう求める」


 読み終わりました。


 私は少し満足しました。


 ところが。


「まだ足りん」


 片桐所長が言いました。


「ええっ!」


「取引の問題を分けろ」


「取引の問題?」


「取締役会の決議が成立していないことと、社長個人の会社へ利益を移そうとしていることは、別の問題だ」


「あ……」


「利益相反取引として必要な承認があるか、会社に損害が生じるか。そこも確認する」


 所長は不動産査定書を指差しました。


 三億円。


 売却予定価格、八千万円。


「価格差だけで直ちに違法とは決められん。査定の根拠、工場の状態、会社の資金事情も必要だ」


「はい」


「だが、合理的な説明もなく、代表取締役が支配する会社へ著しく安く処分しようとしているなら、重大な問題だ」


「はい!」


「適法な取締役会決議があったとしても、それだけで取締役の責任が消えるわけではない」


 私は鉛筆を握り直しました。


 なるほど。


 取締役会の決議。


 その成立要件。


 利益相反取引。


 取締役の責任。


 全部、つながっています。


 ただし。


 同じ問題ではありません。


「所長」


「何だ」


「もし、会社が二億円以上の損害を受けたら……」


「取締役の会社に対する損害賠償責任が問題になる」


「社長個人も?」


「要件を満たせば、そうだ」


 私は息を呑みました。


 会社の財産だから。


 社長の個人財産とは関係ない。


 そう簡単には逃げられない。


 そして。


 株主による責任追及の制度もあります。


 現代でいう株主代表訴訟。


 昭和の商法にも、取締役の責任を株主が追及するための制度がありました。


 もちろん、訴訟を起こせば必ず勝てるわけではありません。


 損害。


 任務違反。


 因果関係。


 必要な要件を満たすことが前提です。


 でも。


 黒崎社長が、


「会社の工場だから、俺の好きにしていい」


 と思っているなら。


 大きな間違いです。


「最後に、これも入れろ」


 片桐所長が言いました。


 私は鉛筆を構えました。


「本件について是正がなされず、会社に損害が生じるおそれがある場合には、株主その他の関係者による適切な法的措置が検討され得る」


 ……。


 私はその一文を見つめました。


 脅しているわけではありません。


 事実と法律を示しているだけです。


 でも。


 社長がこの書面を読めば。


 自分が何をしようとしていたのか。


 その結果、どんな責任が問題になり得るのか。


 嫌でも考えることになる。


「……所長」


「何だ」


「これ、社長、青ざめませんか?」


「さあな」


「え?」


「青ざめるかどうかは、相手の問題だ」


 所長は書面を整えました。


「俺たちの仕事は、正確に書くことだ」


 私は頷きました。


 行政書士。


 裁判官ではありません。


 弁護士でもありません。


 相手に判決を下すことはできません。


 でも。


 事実と法律を、紙の上で逃げられない形にする。


 それが、この仕事の強さなのです。


 内容証明郵便を発送してから、三日後。


 黒崎社長が、片桐事務所へ電話をかけてきました。


 私は受話器を取りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……片桐さんを頼む』


 低い声。


 でも。


 あの威圧的な響きがありません。


「少々お待ちください」


 所長が電話に出ました。


「片桐です」


『……書面を受け取った』


「はい」


『あれは、どういう意味だ』


「通知人の意思と、確認された事実を記載したものです」


『俺の決議は無効だというのか』


「決議が成立したとするには、重大な問題があると指摘しています」


 黒崎社長は黙りました。


 しばらくして。


『弁護士に見せた』


「そうですか」


『……定款の四分の三という規定を、完全に見落としていたと言われた』


 私は思わず、相馬先輩を見ました。


 先輩は黙って新聞を読んでいます。


『それに……』


 黒崎社長の声が小さくなりました。


『俺は、この決議には参加できなかった可能性が高い、と』


「特別利害関係の問題ですね」


『ああ……』


 長い沈黙。


 そして。


『佐伯にも確認した』


「はい」


『招集されていないと言っていた』


「通知書に記載したとおりです」


『田辺も、会議に出たことになっているのはおかしいと……』


 社長の声が震えました。


『議事録の押印についても、事情を調べなきゃならなくなった』


 私は息を呑みました。


 田辺さんの印鑑。


 誰が押したのでしょう。


 本人が会議に出ていないことを知りながら、誰が議事録を作ったのでしょう。


 まだ確定していないことはあります。


 でも。


 少なくとも。


 取締役会が正式に決議したという社長の主張は、大きく揺らいでいました。


『……工場の売却は、やめる』


 黒崎社長が言いました。


 私は思わず立ち上がりました。


『黒崎不動産との契約も、まだ結んでいない。白紙に戻す』


 所長は静かに答えました。


「そうですか」


『あの……』


「はい」


『株主が訴訟を起こしたら、俺個人にも責任が来るのか?』


 所長は少し間を置きました。


「具体的な責任の有無は、事実関係と法律上の要件によって判断される問題です」


『……』


「会社に損害を与える任務違反があれば、取締役個人の責任が問われる場合があります」


『そうか……』


「詳細については、顧問弁護士と十分にご相談ください」


『……分かった』


 電話が切れました。


 私は所長を見ました。


「所長!」


「何だ」


「売却をやめるって!」


「ああ」


「工場、守れましたね!」


 相馬先輩が新聞を下ろしました。


「まだ確認が必要だ」


「え?」


「社長の口約束だけじゃ足りねえ」


 ……。


 またです。


 でも。


 今回は分かります。


 電話で白紙にすると言った。


 それだけでは、後になって話が変わるかもしれません。


「じゃあ、書面ですね!」


「そうだ」


 先輩が頷きました。


「会社の内部手続きとして、何が決まって、何が撤回されたか。その記録を整える必要がある」


 私は勢いよくノートを開きました。


 そして。


 後日、黒崎社長は弁護士の助言を受け、本件譲渡を進めない方針を取締役全員へ通知しました。


 問題の議事録についても、事実関係の調査と訂正の手続きを進めることになりました。


 正式に招集された取締役会では、社長による説明の後、工場譲渡計画を取りやめることが確認されたそうです。


 今度は。


 誰が出席したのか。


 誰が議決に加われるのか。


 誰が賛成したのか。


 誰が反対したのか。


 そこを一つずつ確認して。


 正確な議事録が作られました。


 なお、この一件をきっかけに、株主の間では黒崎社長の経営責任を問う声も上がったそうです。


 社長の地位が、この先どうなるか。


 それは、また別の手続きの問題です。


 ただ。


 三億円の工場を、八千万円で自分の会社へ移す計画だけは。


 そこで止まりました。


 一週間後。


 村瀬さんが、再び事務所を訪れました。


 今度は。


 少しだけ、表情が明るくなっていました。


「ありがとうございました」


 深く頭を下げます。


「工場、続けられそうです」


「本当ですか!」


「はい」


 私は思わず笑いました。


 村瀬さんは封筒から、一枚の写真を取り出しました。


 工場の前。


 作業服姿の従業員たちが、ずらりと並んでいます。


 若い人。


 年配の人。


 女性もいます。


 みんな、笑っています。


「昨日、従業員に話しました」


「何をですか?」


「工場は売らない。これからも仕事を続けるって」


 村瀬さんの声が、少し震えました。


「みんな、拍手してくれました」


「……」


「中には、泣いている者もいました」


 私は写真を見つめました。


 五十人。


 五十人の人生。


 その家族。


 工場で作られる部品。


 納品を待つ取引先。


 社長が勝手に売ろうとしていたのは、単なる土地と建物だけではなかったのです。


「実は」


 村瀬さんが言いました。


「私は、取締役なんて肩書き、嫌いだったんです」


「え?」


「現場の人間ですから。工場で部品を作っている方が性に合っている」


 私は頷きました。


「でも、創業者の先代社長から言われたんです」


「何と?」


「お前は現場を知っている。だから取締役になれ、と」


 村瀬さんは、少し笑いました。


「会議では、いつも黒崎社長に怒鳴られていました」


「……」


「お前は経営を分かっていない。現場のことだけ考えていろって」


 私は拳を握りました。


 また、あの社長。


「でも」


 村瀬さんは続けました。


「今回、初めて分かったんです」


「何がですか?」


「取締役って、社長の言うことに従う役目じゃないんですね」


 ……。


 私は顔を上げました。


「会社にとって何が正しいかを考える役目なんですね」


 その言葉に。


 私は、何も言えませんでした。


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことです」


 いつになく丁寧な口調。


「取締役会は、社長の意見にハンコを押す場所じゃありません」


 村瀬さんは、ゆっくり頷きました。


「ありがとうございます」


 そして。


「今度こそ、ちゃんと会社を守ります」


 そう言って、事務所を後にしました。


 村瀬さんが帰ったあと。


 私は窓の外を眺めていました。


 遠くから、工場の機械音が聞こえます。


 がちゃん。


 がちゃん。


 規則正しい音。


 この町の日常を支える音です。


「相馬先輩」


「何だ」


「今回、何が一番大事だったと思います?」


「何だ、急に」


「私、最初は単純な多数決の問題だと思ってました」


「ほう」


「五人の取締役がいて、三人賛成なら可決だって」


「うん」


「でも、全然違いました」


 私はノートを開きました。


 まず。


 議決に加われる取締役は誰か。


 次に。


 定款で必要な出席者数は何人か。


 最後に。


 出席した取締役のうち、何人が賛成したか。


「この順番を間違えると、決議の結果まで変わるんですね」


「そうだな」


「しかも、欠席者の手紙を勝手に賛成票にすることもできない」


「そうだ」


「議事録も、適当に作ってはいけない」


「ああ」


 私は大きく頷きました。


 そして。


「先輩」


「何だ」


「特別取締役の制度って、やっぱり便利だと思うんですよ」


「……またそれか」


「はい!」


 私は勢いよく言いました。


「大勢の取締役がいる会社だと、重要な財産の処分を迅速に決める必要がある場合もありますよね」


「まあな」


「将来は、一定の要件のもとで、あらかじめ選ばれた少数の取締役による決議を認める制度ができるんです」


「未来の話は知らねえが」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「一つだけ言える」


「何ですか?」


「どれだけ便利な制度を作っても、悪党が悪用しようとするのは変わらねえ」


 ……。


 私は黙りました。


 確かに。


 昭和の商法は、現代から見ると堅苦しいところがあります。


 発起人七人。


 取締役三人以上。


 監査役も必要。


 現代なら一人で設立できる株式会社も、この時代ではそうはいきません。


 だから、名義貸しや頭数合わせが生まれやすかった。


 その後、会社制度は大きく変わります。


 会社法として独立し。


 設立や機関設計の自由度が高まり。


 取締役会の決議についても、書面決議や特別取締役といった柔軟な仕組みが整えられていく。


 でも。


 便利になることと。


 無責任になることは違う。


 簡単になることと。


 社長の独裁を認めることも違う。


「つまり」


 私は言いました。


「会社法って、ただ会社を動かしやすくする法律じゃないんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「会社を動かす人に、ちゃんと責任を持たせる法律でもある」


「ああ」


 そこへ。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 取締役会。


 出席要件。


 決議要件。


 特別利害関係。


 書面決議。


 議事録。


 どれも、試験のテキストでは難しい言葉です。


 でも。


 今回の事件を思い出せば。


 五人の取締役。


 社長の個人的な利益。


 欠席者の手紙。


 定款の四分の三。


 そして。


 守られた工場。


 全部、つながっています。


「所長」


「何だ」


「取締役会の多数決は、ただ人数を数えればいいわけじゃありません」


「うん」


「まず、議決に参加できる人を確認する」


「そうだ」


「次に、定款を読む」


「うん」


「そして、正しい出席者数と賛成者数で決議を判断する」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートの最後に、一行を書きました。


 ――取締役会の決議は「誰が投票できるか」を確かめてから、定款に従って数える。


「……できた!」


 私は満足しました。


 これなら、忘れません。


 ところが。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「一つ問題だ」


「問題ですか!」


「取締役が五人いる会社で、三人が会議に出た」


「はい!」


「二人が賛成、一人が反対した」


「はい!」


「決議は成立するか?」


 私は即答しかけました。


 でも。


 止まりました。


 ……待ってください。


 定款は?


 特別利害関係のある取締役は?


 誰が議決に加われる?


「先輩!」


「何だ」


「それだけじゃ分かりません!」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「ほう」


「定款の規定と、誰が議決に参加できるかを確認しないと!」


「正解だ」


 私は思わず拳を握りました。


 やった!


 今度は引っかかりませんでした。


「じゃあ、次だ」


「はい!」


「取締役が六人いる会社で、三人の特別取締役だけで工場を売ることにした」


「はい!」


「それは有効か?」


 私は勢いよく答えました。


「現代の会社法なら、社外取締役が一人以上いるなどの要件を満たして、特別取締役を適法に選定していれば、重要な財産の処分について決議できる場合があります!」


 相馬先輩が固まりました。


「……」


「どうですか!」


「……」


「完璧でしょう!」


 先輩は、ゆっくり煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる」


「はい!」


「今、何年だ?」


 ……。


 私は止まりました。


「昭和六十三年です」


「そうだな」


「……」


「じゃあ?」


「……特別取締役制度は、まだありません」


 相馬先輩が机を叩きました。


「今の法律で答えろ!」


「すみません!」


 またやってしまいました。


 未来の会社法。


 本当に便利なんです。


 でも。


 便利すぎて、昭和に持ち込もうとすると怒られます。


「ったく」


 先輩は呆れた顔をしました。


「お前、その特別取締役ってのが、そんなに好きか」


「好きというか、試験に出るんです!」


「何の試験だよ!」


「……秘密です!」


「怪しい奴だな!」


 私は笑いました。


 でも。


 今回の事件を通じて、ようやく理解できた気がします。


 なぜ、取締役会に決議のルールがあるのか。


 なぜ、特別利害関係のある取締役を議決から外すのか。


 なぜ、議事録を正確に残す必要があるのか。


 そして。


 なぜ、現代では書面決議や特別取締役のような制度が整えられたのか。


 その答えは。


 会社という大きな組織を。


 誰か一人の欲望だけで動かさないため。


 同時に。


 必要な意思決定は、適切な手続きで迅速に行えるようにするため。


 その両方を実現しようとしているからなのです。


 夕方。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 年配の男性の声でした。


『うちの会社の社長が、取締役会を開かずに、会社の借金を増やしてしまいまして……』


 私は顔を上げました。


「……借金ですか?」


『はい。二億円ほど』


 二億円。


 私は息を呑みました。


『社長は、銀行から借りるだけだから、自分で決めていいと言うんです』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も、こちらを見ました。


『それから……』


「はい」


『取締役は七人いるんですが、社長は、仲のいい三人だけで決めれば十分だと言ってまして……』


 ……。


 来ました。


 今度は。


 多額の借財。


 しかも、取締役七人。


 私は思わず叫びました。


「先輩!」


「何だ!」


「特別取締役です!」


「だから何だそれは!」


「将来の制度なら、重要な財産の処分と多額の借財が対象になるんです!」


「今は昭和だ!」


「分かってます!」


「分かってねえだろ!」


 私は慌てて受話器を握り直しました。


「すみません。まず、会社の定款と、取締役会でどんな手続きが行われたのか、確認させてください」


 電話の向こうで、男性がほっとしたように息をつきました。


『……分かりました』


 私は相談票を取りました。


 昭和六十三年。


 会社を作るのも。


 会社を動かすのも。


 なかなか簡単ではありません。


 現代なら便利な制度があるのに。


 昔は、もっと厳しい手続きを守らなければならない。


 でも。


 その不便さの中に、会社を守る理由が隠れていることもある。


 そして。


 便利な制度が生まれた現代でも。


 社長が好き勝手をしてよいわけではありません。


 私は、今日のノートをもう一度見ました。


 ――取締役会の決議は「誰が投票できるか」を確かめてから、定款に従って数える。


 よし。


 これなら大丈夫です。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「取締役会って、奥が深いですね!」


「深いも何も、まだ入口だ!」


「ええっ!?」


「次は借金だろ!」


「はい!」


「なら、まず契約書を確認しろ!」


「分かりました!」


 私は相談票の一番上に書きました。


 ――多額の借財。


 その文字を見ながら、少しだけ笑いました。


 会社の意思決定は、多数決だけでは決まりません。


 そして。


 社長という肩書きだけで、何でも許されるわけでもありません。


 三億円の工場を守ったのは。


 社長より大きな声でも。


 社長より強い立場でもありませんでした。


 定款に書かれた、四分の三という数字。


 特別利害関係によって数えられない、一人の取締役。


 そして。


 実際には成立していなかった決議の真実です。


 たった一票。


 たった一行。


 でも。


 その違いを見抜けるかどうかで。


 五十人の暮らしが、守られることもある。


 私は、まだ温かい六法の表紙を撫でました。


 法律は。


 社長のためだけにあるのではありません。


 会社で働く人。


 会社にお金を貸す人。


 会社を信じて株を持つ人。


 そして、会社そのもの。


 そのすべてを守るために、ルールがあるのです。


 だから。


 もし、誰かがこう言ったなら。


「俺が社長だ。俺が賛成したんだから決まりだ」


 私は、きっとこう答えます。


 ――では、まず定款と議事録を見せてください。


 だって。


 社長の一票だって。


 商法の前では、数えてはいけないことがあるのです。

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