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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の機関    

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652/701

[会社法・取締役会の権限と専決事項]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 社長は、会社の代表です。


 でも。


 会社の王様ではありません。


 会社の土地を売る。


 二億円の借金をする。


 支店を閉鎖する。


 重要な社員を解任する。


 そんな重大なことまで、社長一人の判断で決められるとしたら。


 取締役会は、何のために存在しているのでしょうか。


 そして。


 もし社長自身が暴走したら。


 いったい誰が、その社長を止めるのでしょうか。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……社長って、意外と弱いんですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何だ、いきなり」


「だって、考えてみてくださいよ」


 私は鉛筆を握りました。


「昨日まで『俺が法律だ!』って怒鳴っていた社長が、取締役会の決議で代表取締役を解職されたんですよ?」


「ああ」


「しかも、自分を解職する決議には投票できない!」


「特別利害関係人だからな」


「社長なのに!」


「社長だからこそ、だろ」


 なるほど。


 相馬先輩は、今日も容赦がありません。


 私はノートの一番上に書きました。


 ――取締役会の三つの権限。


 その瞬間。


 数日前の事件が、頭の中によみがえりました。


 株式会社杉浦精機。


 従業員二十八人の金属加工会社。


 代表取締役の杉浦源蔵は、バブル景気に浮かれ、リゾート開発へ進出しようとしていました。


 そのために計画したのが。


 本社工場の土地建物を九千万円で売却すること。


 さらに、銀行から二億円を借り入れること。


 どちらも、会社の命運を左右する重大な取引です。


 ところが源蔵社長は、取締役会を開こうとしませんでした。


『俺が代表取締役だ!』


『会社のことは俺が決める!』


『取締役会なんか必要ない!』


 ……。


 思い出しただけで、頭が痛くなります。


「先輩」


「何だ」


「あの人、本当に代表取締役と会社を同じものだと思ってましたよね」


「そうだな」


「でも、違うんですよね」


「ああ」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「株式会社は法人だ。社長個人とは別の存在だ」


「はい」


「代表取締役は、会社を代表する立場にある。だが、会社そのものじゃねえ」


 私は頷きました。


 今回、源蔵社長が見落としていたのは、そこです。


 代表取締役には、会社を代表して取引する権限がある。


 しかし。


 会社の内部で、どのような業務執行を決定できるのか。


 それは、別の問題です。


「つまり、会社の代表権と、業務執行を決定する権限を混同してはいけないんですね」


「そういうことだ」


 私は赤鉛筆を取りました。


 ここ。


 試験でも実務でも、絶対に間違えてはいけません。


「よし!」


 私はノートを開き直しました。


「今日は取締役会の権限を、完全攻略します!」


「また大げさなことを言い出したな」


「だって、今回は本当に会社が一つ救われたんです!」


 相馬先輩が少し笑いました。


「じゃあ、その理由を説明してみろ」


「望むところです!」


 そこへ。


 片桐所長が、奥から声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「最初に、何を確認する」


 私は考えました。


 取締役会の権限。


 業務執行。


 監督。


 代表取締役の解職。


 ……。


「あっ」


 私は顔を上げました。


「その会社に、取締役会があるかどうかです!」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 相馬先輩が笑います。


「今の時代なら、そこを迷うことは少ねえけどな」


 私は苦笑しました。


 そうなんです。


 昭和六十三年と現代では。


 株式会社の仕組みそのものが、大きく違うのです。


「まず、取締役会の設置から整理します!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――昭和六十三年の株式会社。


 発起人七人以上。


 取締役三人以上。


 監査役一人以上。


 取締役会が存在する。


「……改めて見ると、すごい人数ですね」


 私が言うと、相馬先輩が眉を上げました。


「何がだ」


「株式会社を作るだけで、これだけ人を集める必要があるんですよ?」


「そういう制度だろ」


「でも、一人で事業を始めたい人だっているじゃないですか」


「だったら別の事業形態を考えろ」


「ですよね……」


 この時代には、有限会社という選択肢もありました。


 しかし、現代のように、一人で取締役を務める小さな株式会社を自由に設立する制度ではありません。


 株式会社を作るなら、原則として複数の人間を揃えなければならなかったのです。


「だから、杉浦精機でも、名前だけの取締役が生まれたんですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「兄貴が経営を全部決める。弟と経理担当は名前だけ貸す。よくある話だ」


「でも、その名前には責任がある」


「そうだ」


 私は、ここに大きな丸をつけました。


 取締役は、飾りではない。


 人数合わせで就任したとしても、当然に責任を免れるわけではない。


 今回、杉浦正一さんと村田久雄さんが気づいたことも、まさにそこでした。


 名前だけのつもりだった。


 でも、会社が危機に陥った。


 そこで初めて。


 自分たちが取締役会の構成員であることを思い出したのです。


「じゃあ、現代ではどうなんですか?」


 私は思わず言いました。


 相馬先輩が顔をしかめます。


「現代?」


「あっ……いえ、これからの会社制度の研究です!」


「また未来の話か」


「比較すると覚えやすいんです!」


 私は心の中で、令和の会社法を開きました。


 現代では、取締役会を設置しない株式会社も認められています。


 その場合、取締役一人で会社を運営することもできます。


 一方。


 取締役会を設置する株式会社では、取締役三人以上が必要です。


 つまり。


 現代の株式会社は、必ず取締役三人が必要というわけではありません。


 取締役会を置くかどうかによって、必要な機関構成が変わる。


 これが大切なのです。


 さらに現代では、公開会社など、取締役会の設置が義務づけられる会社もあります。


「所長!」


「何だ」


「会社の仕組みって、時代が進むと、会社の実情に合わせて柔軟に選べる方向に変わっていくんですね!」


 所長は少し考えて言いました。


「法律は、商売の実態に合っていなければならん」


 私は頷きました。


 なるほど。


 小さな会社にまで、大きな会社と同じ人数や機関を必ず要求する。


 それでは、起業の負担が大きくなります。


 一方で。


 多くの株主や利害関係者を抱える会社なら、経営者を監督する仕組みが重要になる。


 だから現代では、会社の規模や性質に応じて、機関設計を柔軟に選択できるよう整理されていったのです。


 ただし。


 取締役会を置いたなら、その権限を無視していいわけではありません。


 ここは、昭和でも令和でも変わらない大切な考え方でした。


「では本題です!」


 私はノートの中央に、大きく三つ書きました。


 第一。


 業務執行の意思決定。


 第二。


 取締役の職務執行の監督。


 第三。


 代表取締役の選定と解職。


「この三つが、取締役会の基本的な権限ですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、一つ目から説明しろ」


「はい!」


 私は鉛筆を持ち直しました。


 ――業務執行の意思決定。


 会社は毎日、いろいろなことを決めています。


 材料を買う。


 商品を売る。


 機械を修理する。


 社員を採用する。


 銀行から金を借りる。


 工場を建てる。


 支店を閉鎖する。


 でも。


 そのすべてを、毎回取締役会で決めなければならないとしたら。


「先輩、どうなります?」


「会議ばっかりで仕事にならねえな」


「ですよね!」


 会社の経営には、迅速さも必要です。


 だから、日常的な業務執行については、代表取締役などに任せることができます。


 ただし。


「重要なことまで、全部任せてはいけないんですよね」


「そうだ」


 相馬先輩が、杉浦精機の資料を取り出しました。


「たとえば、これだ」


 そこには。


 ――本社工場売却予定価格 九千万円。


 と書かれていました。


「普通の事務用品を買うのとは、わけが違うだろ」


「はい」


「会社の生命線を売るんだ。社長一人で決めていいような話じゃねえ」


 私は大きく頷きました。


 取締役会には、他の取締役に決定を任せることのできない重要事項があります。


 これが。


 取締役会の専決事項。


 つまり、取締役会自身が決定しなければならない事項です。


「所長」


 私は尋ねました。


「専決事項って、どうしてわざわざ法律で決めてあるんですか?」


 所長は短く答えました。


「一人で決めさせるには、重すぎるからだ」


 ……。


 なるほど。


 これ以上分かりやすい答えはありません。


 日常的な仕事なら、担当者や代表取締役に任せればいい。


 でも。


 会社全体の運命を変えるような決定まで、一人に任せるのは危険です。


 だから取締役会という合議体で判断する。


「よし!」


 私は赤鉛筆を持ちました。


「では、その重要事項を一つずつ確認します!」


 相馬先輩が笑いました。


「まだまだ長くなりそうだな」


「今日は試験範囲が広いんです!」


「一つ目は、重要な財産の処分及び譲受けです!」


 私はノートに書きました。


 ――重要な財産の処分・譲受け。


「杉浦精機の工場ですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「会社の財産を売ったり買ったりする話だな」


「はい。でも、すべての売買に取締役会決議が必要なわけじゃありません」


 たとえば。


 会社が事務机を一台買う。


 コピー用紙を購入する。


 古くなった工具を買い替える。


 そんな取引まで、全部取締役会で決めていたら仕事になりません。


 問題になるのは、重要な財産です。


「ところで先輩」


「何だ」


「いくら以上なら重要な財産なんですか?」


「一律に決まってるわけじゃねえ」


「ですよね!」


 ここは試験でも注意したいところです。


 金額だけで機械的に判断するわけではありません。


 会社の総資産。


 その財産の価値。


 事業における重要性。


 処分する目的。


 会社に与える影響。


 こうした事情を総合的に考えます。


「今回の杉浦精機は、総資産が約一億五千万円でした」


「そうだな」


「そこから、九千万円の本社工場を売ろうとした」


「ああ」


「しかも、その工場がないと、製造事業を続けることが難しい」


「そうだ」


 私は鉛筆を置きました。


「金額も大きいし、事業への影響も重大だったんですね」


 片桐所長が頷きました。


「会社にとって何を意味する財産なのか。それを見ろ」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。


 単に高いか安いかではない。


 会社にとって、どれほど大切なのか。


 そう考えると、工場の売却が取締役会で判断すべき重大事項だった理由が、よく分かります。


「じゃあ二つ目です!」


 私は大きく書きました。


 ――多額の借財。


「これは分かりやすいですね!」


「本当に分かってるのか?」


「もちろんです!」


 私は得意になって説明しました。


「会社が多額の借金をする場合です!」


「それだけか?」


「……え?」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、一千万円の借金は多額か?」


「多額です!」


「資産が百億円ある会社でもか?」


「……あっ」


「逆に、百万円なら少額か?」


「小さな会社にとっては、大金かもしれません」


「そうだ」


 私は頷きました。


 多額の借財。


 これも、全国共通の絶対的な金額で決まるわけではありません。


 会社の資産。


 経営規模。


 借入額。


 借入れの目的。


 財務状況への影響。


 そうした事情を見て判断する必要があります。


「杉浦精機の二億円は?」


「総資産約一億五千万円の会社が、別事業のために借りようとしていた金だ」


「しかも、返済計画にも無理があった」


「そうだ」


 なるほど。


 これを社長一人で決めてしまったら、他の取締役が会社の危機を知ったときには、もう手遅れかもしれません。


「先輩」


「何だ」


「借金って、契約書に社長のハンコがあれば、それだけで絶対に有効なんですか?」


 相馬先輩は首を振りました。


「そこは別の問題だ」


「別?」


「取締役会決議が必要なのに、それを欠いて取引した場合の効力だ」


 私は手を止めました。


 そうでした。


 社内で必要な決議を経ていないことと、取引相手との契約が当然に無効になることは、同じではありません。


 代表取締役には、会社を代表する権限があります。


 そのため、取締役会決議を欠いた取引の対外的な効力については、相手方が決議の欠缺を知っていたかなど、判例法理を踏まえた検討が必要になります。


「つまり、取締役会を開いていないから契約は全部無効! とは言えないんですね」


「そういうことだ」


「危なかった……」


 私は胸を撫で下ろしました。


 もし杉浦精機が、工場の売買契約を既に締結していたら。


 話はもっと複雑になっていたかもしれません。


 でも今回は、契約締結前でした。


 だからこそ。


 社内の手続きで止めることができたのです。


「所長」


「何だ」


「契約する前に相談に来てくれたことが、大きかったんですね」


「ああ」


 所長が静かに答えました。


「書類は、問題が起きてから作るだけのものではない」


 私は顔を上げました。


「問題を起こさないためにも、作るんですね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 ……。


 行政書士の仕事って、思っていたより奥が深いです。


「三つ目!」


 私はページをめくりました。


 ――支配人その他の重要な使用人の選任及び解任。


「これって、普通の従業員を採用するときにも取締役会が必要なんですか?」


「そんなわけねえだろ」


 相馬先輩が即答しました。


「ですよね!」


「重要な使用人だ」


 支配人。


 会社の営業に関して広い代理権を持つ、重要な立場です。


 そのほか、会社の経営に大きな影響を及ぼす重要な使用人の選任や解任も、取締役会の判断事項になります。


「たとえば、重要な事業部門の責任者を選任するような場合ですね」


「そういうことだ」


「でも、すべての社員の採用を決議する必要はない」


「ああ」


 私は頷きました。


 大事なのは、会社の業務や経営に与える重要性です。


「四つ目!」


 ――支店その他の重要な組織の設置、変更及び廃止。


「これは支店を作ったり、閉鎖したりする話ですね!」


「そうだ」


 たとえば。


 名古屋支店を新設する。


 大阪支店を廃止する。


 重要な営業拠点を統合する。


 こうした決定です。


「所長、工場の移転も関係しますか?」


「会社の重要な組織の変更に当たるなら、問題になる」


「なるほど」


 私は杉浦精機の事件を思い出しました。


 源蔵社長は、


『工場なんか、どこかに借りればいい!』


 と簡単に言っていました。


 でも。


 本社工場を移転するということは、単なる机の移動ではありません。


 生産設備。


 従業員。


 納期。


 取引先。


 会社の組織全体に影響します。


「やっぱり、社長一人の気分で決める話じゃないんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「重要な組織を変えるなら、取締役会で判断する必要があるってことだ」


 私は赤線を引きました。


 重要な財産。


 多額の借財。


 重要な使用人。


 重要な組織。


 ここまで整理すると、共通点が見えてきました。


 どれも、会社にとって重要な意思決定です。


 つまり。


 一人の判断では危険なものを、合議によって決める。


 これが、専決事項の基本的な考え方なのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前の言う未来の法律には、ほかにも専決事項があるのか?」


「あります!」


 私は勢いよく答えました。


「現代の会社法第三百六十二条第四項では、さらに細かく整理されています!」


「……また未来の条文番号か」


「比較です! 比較!」


 私はノートの右側に、現代の会社法の内容を書きました。


 五つ目。


 社債を引き受ける者の募集に関する重要な事項。


 六つ目。


 内部統制体制の整備。


 七つ目。


 一定の要件の下での、役員の任務懈怠責任の免除。


「……待て」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「ずいぶん複雑だな」


「そうなんです!」


 私は頷きました。


「でも、昭和六十三年の商法に、この現代の七項目をそのまま持ち込んではいけません」


 そう。


 これが重要です。


 昭和六十三年の商法第二百六十条に規定されていた重要事項と、現代の会社法第三百六十二条第四項に列挙されている重要事項は、完全に同じではありません。


 特に、現在の内部統制体制や役員責任免除についての制度を、昭和六十三年の会社にそのまま適用するのは時代錯誤です。


「先輩、内部統制って聞いたことあります?」


「何だ、その言葉」


「会社の業務が適正に行われるための仕組みです」


 私は説明しました。


 たとえば。


 会社の金を勝手に使えないようにする。


 不正な取引を発見できるようにする。


 法令違反を防止する。


 重要な情報を適切に管理する。


 こうした仕組みを整えることです。


「なるほどな」


 相馬先輩が頷きました。


「社長が悪いことをしたら、その場で止めるだけじゃなくて、悪いことをしにくい仕組みを作るわけか」


「そうです!」


 私は嬉しくなりました。


 内部統制。


 言葉だけ聞くと難しい。


 でも。


 杉浦精機の事件を思い出せば、よく分かります。


 源蔵社長は、工場売却と巨額の借入れを、自分だけで進めようとしていました。


 もし社内に、重要取引について事前に取締役会へ報告する仕組みが整っていたら。


 もっと早く、問題を発見できたかもしれません。


「ただし、所長」


「何だ」


「現代でも、内部統制体制の整備については、大会社かどうかなどによって、法的な義務の扱いが違うんですよね」


「制度を論じるなら、会社の種類と適用される法律を確認しろ」


「はい!」


 現代の会社法では、大会社である取締役会設置会社などには、内部統制体制について決定する義務があります。


 一方、すべての小さな会社に、まったく同じ体制を作る義務があるわけではありません。


「そして、最後の責任免除!」


 私は書きました。


 役員等が任務を怠って会社に損害を与えた場合、一定の条件の下で、その責任の一部を免除する制度があります。


 ただし、無条件に免除できるわけではありません。


 定款の定め。


 法律上の要件。


 責任の内容。


 こうした制限があります。


「それに、これも取締役会で何でも決められるわけじゃありません」


「そりゃそうだろ」


 相馬先輩が言いました。


「自分たちが悪いことをして、勝手に責任を帳消しにできたら困る」


「まさにそれです!」


 私は笑いました。


 会社法の条文は、ただ項目を並べているわけではありません。


 会社の意思決定を効率よく進めること。


 同時に、経営者の暴走を防ぐこと。


 その両方を考えているのです。


「さて、次は取締役会決議そのものです!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――取締役会の決議。


「ここ、人数計算で間違えやすいんですよね」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ、問題を出すぞ」


「はい!」


「取締役が五人いる会社だ」


「はい」


「特別利害関係人はいない。定款に特別な定めもない。取締役会の決議には、何人の出席が必要だ?」


 私は考えました。


 現代の会社法第三百六十九条第一項。


 取締役会決議は、原則として、議決に加わることができる取締役の過半数が出席し、その出席取締役の過半数で決議する。


「五人の過半数ですから、三人以上です!」


「正解」


「では、三人が出席した場合、何人が賛成すれば可決ですか?」


 私は自分で問いかけました。


 そして即答しました。


「二人以上!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 私はノートに数字を書きました。


 取締役五人。


 出席三人。


 賛成二人。


 原則として、可決。


「でも、先輩」


「何だ」


「取締役が五人いるなら、五人全員の過半数、つまり三人の賛成が必要だと思ってしまいそうですね」


「そこが引っかけだな」


 そうです。


 原則として必要なのは、議決に加われる取締役の過半数の出席。


 そのうえで、出席した議決権のある取締役の過半数の賛成です。


 そして、定款でこれより厳しい割合を定めることもできます。


「それに、特別利害関係人は議決に加われないんですよね」


「ああ」


 ここで私は、杉浦精機の源蔵社長を思い出しました。


 取締役は三人。


 源蔵。


 正一。


 村田。


 源蔵自身の代表取締役解職決議。


 源蔵は特別利害関係人。


 だから、その議決には参加できませんでした。


「つまり、議決に加われるのは二人」


「そうだ」


「正一さんと村田さんが出席して、二人とも賛成した」


「ああ」


「だから決議が成立したんですね!」


 私は大きく丸をつけました。


 でも。


 ここで、もう一つ大切な違いがあります。


「所長」


「何だ」


「普通の取締役会決議と、代表取締役の解職決議では、議決に加われる人の範囲が違うことがあるんですね」


「そうだ」


 特別利害関係人に当たるかどうかは、決議事項ごとに判断する必要があります。


 社長だからいつでも投票できないわけではありません。


 また、解職の対象者だからといって、当然に取締役会の構成員でなくなるわけでもありません。


 この区別。


 かなり重要です。


「ところで先輩」


「何だ」


「現代には、特別取締役という制度もあります」


「……何だそれ」


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「また未来の制度か」


「はい!」


 私は嬉しそうに頷きました。


「でも、これも試験で注意するところなんです!」


 現代の会社法では、一定の要件を満たす取締役会設置会社について、特別取締役による議決の制度があります。


 重要な財産の処分及び譲受け。


 多額の借財。


 この二つについて、一定の場合に特別取締役による決議が認められる仕組みです。


「つまり、取締役会の専決事項なのに、特別な仕組みで迅速に決められるんですね」


「そういう制度を作る理由は分かるな」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


 会社の経営では、大きな取引について素早い判断が必要になることもあります。


 ただし。


 この制度は、どんな会社でも自由に使えるわけではありません。


 取締役の人数など、法律上の要件があります。


 特別取締役は三人以上。


 そして、指名委員会等設置会社では、この制度を利用できません。


「なるほど……」


 私はノートに書きました。


 特別取締役による議決。


 対象となるのは、重要な財産の処分・譲受けと、多額の借財。


 ただし、利用できる会社や手続きには制限がある。


「あと、所長」


「何だ」


「これも昭和六十三年の商法には、現代の制度として持ち込めませんね」


「ああ」


 私は頷きました。


 古い時代の事件を考えるときは、古い時代の法律を使う。


 現代の試験を解くときは、現行法を使う。


 当たり前のことですが、転生者にとっては最も危険な落とし穴なのです。


「次は、取締役会の二つ目の権限です!」


 私はページをめくりました。


 ――取締役の職務執行の監督。


「今回の杉浦精機では、これも重要でしたね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「源蔵社長の暴走を、ほかの取締役が止めようとしたわけだからな」


 取締役会は、会社の重要事項を決定するだけの機関ではありません。


 取締役の職務執行を監督する機関でもあります。


「ここで大切なのは、違法性と妥当性の違いです!」


 私はノートに二つの言葉を書きました。


 違法性。


 妥当性。


「違法性っていうのは、法律や定款に違反しているかどうかですよね」


「そうだ」


「でも、法律に違反していなければ、どんな経営判断でも許されるんですか?」


 相馬先輩が首を振りました。


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


 たとえば。


 社長が、法律に違反しない範囲で新しい事業を始めようとした。


 でも、その事業は、会社の資金力や技術力から考えてあまりにも危険だった。


 この場合。


 ただちに違法だと断定できなくても、経営判断として妥当なのか、取締役会で検討する必要があります。


「つまり、取締役会は『違法じゃないから放っておこう』では駄目なんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「経営者が会社を潰しかねない判断をしているなら、監督する立場として問題にしなきゃならねえ」


 私は頷きました。


 ただし、経営判断には不確実性があります。


 事業が失敗したからといって、それだけで直ちに取締役の責任が認められるわけではありません。


 判断した当時、必要な情報を集めたか。


 判断の過程や内容が著しく不合理でなかったか。


 そうした事情も重要になります。


「杉浦精機のリゾート開発計画は、そこが問題だったんですね」


「ああ」


 相馬先輩が資料を見ました。


「リゾート事業を始めること自体が、常に違法なわけじゃねえ」


「はい」


「だが、返済の見通しも十分でないのに、会社の工場まで売って突っ込もうとする」


「しかも、取締役会で説明もしない」


「そういう経営判断を監督するのが、ほかの取締役の仕事だ」


 私は深く頷きました。


 取締役会は、単なる形式ではない。


 社長の経営判断を、ほかの目で確認する。


 会社を守るための、重要な仕組みなのです。


「さらに現代では、報告義務があります!」


 私はノートに書きました。


 ――三か月に一回以上。


 相馬先輩が顔を上げました。


「何の回数だ?」


「代表取締役や業務執行取締役が、取締役会に職務執行の状況を報告する回数です!」


 現代の会社法第三百六十三条第二項。


 代表取締役など、同条に定める業務執行を行う取締役は、原則として三か月に一回以上、自己の職務執行の状況を取締役会に報告しなければなりません。


「つまり、三か月に一回以上、取締役会で報告する必要があるんですね」


「ほう」


 相馬先輩が腕を組みました。


「社長が何をしているか、定期的に確認する仕組みか」


「そうです!」


 私は続けました。


「しかも、この報告には重要な特徴があります」


「何だ?」


「通常の報告事項なら、取締役全員などに通知することで、取締役会での報告を省略できる場合があります」


「便利だな」


「でも!」


 私は人差し指を立てました。


「三か月に一回以上必要な職務執行状況の報告については、その省略が認められません!」


 会社法第三百七十二条第二項。


 私はノートに二重線を引きました。


「つまり、紙を配っただけで終わりにはできないんです」


「なるほどな」


 相馬先輩が頷きました。


「監督する側が、きちんと報告を受ける必要があるわけだ」


「そうです!」


 もっとも、現代法には、法定の要件を満たす場合に報告の間隔を変更できる特則もあります。


 それでも原則は、三か月に一回以上の報告。


 ここは押さえておきたいところです。


「所長」


「何だ」


「昭和六十三年の会社では、この現代の条文をそのまま使えないんですよね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「だが、経営者の仕事を監督しなければならんという基本は変わらん」


 私は納得しました。


 昭和の商法にも、取締役会による業務執行の監督という考え方はありました。


 ただし、現代の三か月に一回以上という報告制度を、そのまま昭和六十三年の義務として説明してはいけません。


 ここが時代の違いです。


 そして。


 現代法が定期的な報告を重視している理由も分かります。


 会社が大損害を出してから、


『そんな話は聞いていなかった』


 では遅いのです。


「取締役会は、問題が大きくなる前に監督するんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私は鉛筆を置きました。


 報告。


 監督。


 そして、必要な決定。


 この三つが結びついて、会社の経営は適正に保たれるのです。


「最後は、三つ目の権限です!」


 私はノートの新しいページを開きました。


 ――代表取締役の選定及び解職。


「これが、杉浦精機の事件の決定打でした!」


「そうだな」


 相馬先輩が笑いました。


「社長が取締役会を無視していたら、逆にその取締役会から解職されたわけだからな」


 私は頷きました。


 代表取締役。


 会社を代表する立場です。


 でも、取締役会設置会社では、その代表取締役を選定するのは取締役会です。


 そして。


 必要があれば、取締役会は代表取締役を解職することができます。


「ここで、試験に出る大切な区別があります!」


 私は赤鉛筆を持ちました。


 代表取締役の解職。


 取締役そのものの解任。


「この二つは違うんですよね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


 代表取締役を解職する。


 これは、代表取締役としての地位を失わせることです。


 しかし。


 取締役としての地位まで、当然に失うわけではありません。


「杉浦源蔵さんも、代表取締役は解職されましたけど、取締役としては残りましたよね」


「ああ」


「つまり、代表権を失うことと、取締役そのものを辞めさせることは別です」


「正解」


 私は少し嬉しくなりました。


「では、取締役自体を解任するのは、原則としてどこですか?」


 相馬先輩が聞きました。


「株主総会です!」


「そうだ」


 現代の会社法では、取締役の解任は株主総会の権限です。


 一方、取締役会設置会社における代表取締役の解職は、取締役会の権限です。


 私はノートに大きく書きました。


 ――代表取締役の解職は取締役会。


 ――取締役の解任は株主総会。


「これ、似ているから危険ですね」


「ああ」


 相馬先輩が笑いました。


「解職と解任。試験で混ぜてくるだろうな」


「絶対に間違えません!」


 私は胸を張りました。


 でも。


 ここで思い出したことがあります。


 杉浦精機の取締役会。


 源蔵社長を解職する決議のとき。


 源蔵自身は、議決に参加できませんでした。


「所長!」


「何だ」


「代表取締役の解職決議で、本人が特別利害関係人になるのは、なぜですか?」


 所長は少し考えました。


「自分の地位を守ることと、会社の利益を考えることが衝突しやすいからだ」


 私は頷きました。


 たとえば。


 社長が会社に大きな損害を与えている。


 ほかの取締役が、その社長を解職しようとしている。


 でも、社長自身が自分の解職について議決できるなら。


 会社の利益より、自分の地位を守ろうとするかもしれません。


「だから、決議の公正を守る必要があるんですね」


「そうだ」


 昭和四十四年三月二十八日。


 最高裁判所は、代表取締役の解任に関する取締役会決議について、その代表取締役本人が特別利害関係人に当たると判断しています。


 これは、昭和六十三年には既に存在していた判例です。


 つまり。


 杉浦精機で、源蔵社長が自分の解職決議に参加できなかったことには、当時から存在する判例上の根拠があったのです。


「未来の判例じゃなかったんですね!」


 私が喜ぶと、相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「未来の判例って何だ」


「あっ」


 しまった。


「い、いえ! ちゃんと昔からある判例だったんですね!」


「当たり前だろ」


 危ない。


 また転生者の秘密が漏れるところでした。


 私は慌ててノートに書き込みました。


 ――代表取締役本人の解職決議では、特別利害関係人に注意。


 これなら忘れません。


「さて、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「今回、代表取締役を解職したことで、すべての問題が解決したか」


 私は少し考えました。


「……いいえ」


「なぜだ」


「源蔵さんが取締役として残っているからです」


 所長が頷きました。


「それだけではない」


「え?」


「会社の運営を変えなければ、また同じことが起きる」


 私は手を止めました。


 ああ。


 そうでした。


 人を替えるだけでは、仕組みは変わりません。


 新しい代表取締役が、また同じように独断で経営を始めたら。


 会社は再び危機に陥るかもしれません。


「だから杉浦精機では、定期的に取締役会を開くことにしたんですね」


「そうだ」


「重要事項を報告して、審議して、決議する」


「ああ」


「それを議事録に残す」


 私は頷きました。


 ここで、行政書士の仕事がつながります。


 定款を作る。


 議事録を整える。


 会社の意思決定の経過を、書面で明らかにする。


 ただし。


 議事録に書いてあるからといって、実際には存在しなかった決議を作り出せるわけではありません。


 重要なのは、適法な決議が実際に行われたこと。


 その事実を、正確に記録することです。


「所長」


「何だ」


「議事録って、会社の記憶なんですね」


 所長が顔を上げました。


「ほう」


「誰が出席して、何を話して、どう決めたのか。それを残しておく」


「そうだ」


「後から問題が起きても、どうしてその判断をしたのか確認できる」


 所長は静かに頷きました。


「議事録は、形式だけの紙ではない」


 私はその言葉を、ノートの端に書きました。


 議事録。


 会社の意思決定を証明する、大切な記録。


 行政書士が作る書類には、人や会社の未来を守る力がある。


 改めて、そう感じました。


「ところで、先輩」


「何だ」


「もし、社長が取締役会の決議を無視して会社に損害を与えたら、どうなるんですか?」


 相馬先輩は、六法を開きました。


「取締役の責任の問題になるな」


「はい」


 取締役は、会社に対して善管注意義務などを負っています。


 会社のために、必要な注意を尽くして職務を行わなければなりません。


 その義務を怠り、会社に損害を与えた場合。


 取締役個人の損害賠償責任が問題になります。


「源蔵さんが恐れたのも、そこでしたね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「会社に損害を与えても、株式会社だから自分の財産は絶対に安全だと思っていた」


「でも違う」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 株主の有限責任。


 取締役の任務懈怠責任。


 この二つは別。


 株主としての責任が出資額を限度とすることと、取締役として義務違反による責任を負うことは、同じではありません。


「しかも、株主代表訴訟という仕組みもありますね」


「ああ」


 会社に対する取締役の責任を、一定の要件の下で株主が追及する制度です。


 もっとも、株主代表訴訟によって認められる会社に対する損害賠償は、原則として会社に帰属するものであり、訴えた株主が賠償金をそのまま受け取る仕組みではありません。


 また。


 義務違反があるから、直ちに個人財産が差し押さえられるわけでもありません。


 責任の成立。


 損害の発生。


 因果関係。


 裁判などの手続き。


 こうしたものが必要になります。


「つまり、内容証明を送っただけで社長の預金を差し押さえられるわけじゃないんですよね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が答えました。


「俺たちは行政書士だ。裁判や強制執行を勝手に扱えるわけじゃねえ」


「はい!」


「だが、何が問題で、どんな責任が生じ得るのかを、正確に書面へ落とし込むことはできる」


 私は頷きました。


 源蔵さんが受け取った内容証明。


 あの書面には、怒鳴り声はありませんでした。


 脅し文句もありませんでした。


 ただ。


 事実。


 商法の規定。


 取締役会決議が存在しないこと。


 会社に損害が生じた場合の責任。


 それらが、順番に並べられていたのです。


「所長」


「何だ」


「法律の書面って、相手を怖がらせるために作るんじゃないんですね」


「そうだ」


「問題を正しく示して、本人に判断させるためのものなんですね」


 所長が頷きました。


「そのとおりだ」


 私は少し嬉しくなりました。


 行政書士の戦い方。


 ようやく、少しずつ分かってきた気がします。


 窓の外が、赤く染まり始めました。


 私はノートを見直しました。


 取締役会の権限。


 業務執行の決定。


 職務執行の監督。


 代表取締役の選定・解職。


 さらに。


 重要な財産の処分。


 多額の借財。


 重要な使用人。


 重要な組織。


 現代では、社債募集に関する重要事項や内部統制体制などもある。


 そして。


 決議要件。


 特別利害関係人。


 報告義務。


 代表取締役の解職と取締役の解任の違い。


 ……。


「多い!」


 私は思わず叫びました。


 相馬先輩が顔を上げました。


「何がだ」


「覚えることが多すぎます!」


「最初から分かってただろ」


「でも、全部大事なんですよ!」


 私は頭を抱えました。


 法律の勉強って、不思議です。


 最初は、数字や用語の暗記ばかり。


 でも、事件を通して見ると、全部に意味がある。


 取締役会の決議要件も。


 専決事項も。


 報告義務も。


 代表取締役の解職も。


 会社を一人の欲望から守るための仕組みだと分かると、ただの暗記ではなくなるのです。


「所長!」


「何だ」


「確認問題をお願いします!」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「いいだろう」


 よし。


 抜き打ち試験。


 開始です。


「取締役会の基本的な権限は?」


「業務執行の意思決定、取締役の職務執行の監督、代表取締役の選定と解職です!」


「重要な財産の処分は、代表取締役に決定を任せられるか」


「原則として任せられません! 取締役会の専決事項です!」


「多額の借財は?」


「これも専決事項です!」


「取締役会の決議要件は?」


「原則として、議決に加われる取締役の過半数が出席し、その出席取締役の過半数の賛成です!」


「社長が違法行為をしていなければ、取締役会は監督しなくてよいか」


「いいえ! 経営判断の妥当性も監督の対象です!」


「代表取締役を解職したら、当然に取締役の地位も失うか」


「失いません!」


「取締役自体の解任は、原則としてどこの権限だ」


「株主総会です!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


「やった!」


 そのとき。


 相馬先輩が口を挟みました。


「じゃあ、俺からも一問」


「はい!」


「昭和六十三年の会社法第三百六十二条には、何が書いてある?」


「存在しません!」


「正解」


「当時は商法第二編です!」


「よし」


「現代の会社法は、平成十七年に成立して、平成十八年から施行されました!」


「……何?」


 相馬先輩が目を細めました。


 あ。


 しまった。


「何でそんな先のことを知ってるんだ?」


「よ、予想です!」


「十八年も先の法律をか?」


「法改正の方向性を研究していて!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「お前、ほんと変な奴だな」


 危ない。


 今日も未来人の秘密が漏れそうになりました。


 私は慌てて話題を変えました。


「そういえば先輩!」


「何だ」


「現代の会社法では、株式会社の設立がかなり簡単になるんです!」


「また未来かよ!」


「だって大事なんです!」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 株式会社の設立には、発起人七人以上。


 取締役三人以上。


 監査役一人以上。


 一方、現代では。


 発起人一人。


 取締役一人。


 最低資本金の規制もなく、法律上は資本金一円で株式会社を設立することも可能です。


 そして、合同会社という会社形態もあります。


「どうして、そんなに変わるんです?」


 相馬先輩が不思議そうに聞きました。


 私は少し考えました。


「会社って、いろいろな規模がありますよね」


「ああ」


「一人で始める小さな会社もあれば、何万人も働く大企業もある」


「そうだな」


「全部同じ仕組みを要求したら、不便じゃないですか」


 先輩が頷きました。


「まあな」


「だから、会社の実態に合わせて、制度を柔軟に選べるように整理されていくんです」


 現代の会社法。


 独立した一つの法律として整備された背景には、会社制度の利用しやすさを高めることや、従来の複雑な制度を整理することなどがありました。


 もちろん、単に規制を緩めただけではありません。


 会社の規模や性質に応じた機関設計。


 経営の透明性。


 役員の責任。


 株主や債権者の保護。


 そうした問題も含めて、制度が再編されたのです。


「つまり、会社を作りやすくすることと、会社を適正に運営することの両方を考えているんですね」


 私が言うと、片桐所長が頷きました。


「商売をする自由と、他人に損害を与えない責任。その両方だ」


 ……。


 私は、その言葉をしばらく考えました。


 昔の商法が厳格だった理由。


 現代の会社法が柔軟になった理由。


 どちらにも、会社を社会の中でどう扱うかという問題がある。


 法律は、ただ古いものを捨てて新しくしているわけではありません。


 時代の変化に合わせて、守るべきものと、変えるべきものを選んでいるのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、終わりか?」


「もう少しです!」


「まだあるのかよ」


「最後の一行が残っています!」


 私はノートの最後のページを開きました。


 杉浦精機の事件。


 九千万円の工場。


 二億円の借入れ。


 社長の独断。


 取締役会の招集。


 そして、代表取締役の解職。


 あれほど大きな事件だったのに。


 基本になる考え方は、驚くほどシンプルでした。


 会社の重要なことは、取締役会で決める。


 取締役会は、取締役を監督する。


 そして、代表取締役を選び、必要なら解職する。


 私は鉛筆を握りました。


 ゆっくり。


 一行を書きます。


 ――取締役会は「決める・監督する・社長を選び直す」。重要事項は独断禁止。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「絶対に褒めました!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 あの工場のことを思い出せばいい。


 社長が勝手に売ろうとした工場。


 二億円という巨額の借入れ。


 そして、今まで名前だけだった取締役二人が、自分たちの責任を果たすために立ち上がったこと。


 取締役会。


 難しい制度です。


 数字も多い。


 覚えることも多い。


 でも。


 その制度が守っているものは、案外身近です。


 会社で働く人たち。


 取引先。


 株主。


 債権者。


 そして、会社そのもの。


 経営者が一人で暴走したとき。


 それを止められる仕組みがある。


 だからこそ。


 株式会社は、社長個人とは違う存在として、社会の中で活動できるのです。


「よし!」


 私はノートを閉じました。


「今日の勉強会は終了です!」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「じゃあ、机を片付けろ」


「はい!」


「六法も戻せ」


「はい!」


「ついでに掃除もしろ」


「……え?」


 私は止まりました。


「先輩」


「何だ」


「それ、誰が決めたんですか?」


「俺だ」


「では、片桐事務所の業務執行について、取締役会の決議は?」


「……は?」


 相馬先輩が固まりました。


 私は得意になって続けました。


「重要な業務執行については、取締役会の決議が必要です!」


「待て」


「はい!」


「ここは株式会社じゃねえぞ」


「……あっ」


 しまった。


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「行政書士事務所だ」


「そ、そうでした!」


「それに、掃除の担当を決めることが、何で重要な財産の処分になるんだよ」


「なりません!」


「多額の借財か?」


「違います!」


「重要な組織の廃止か?」


「違います!」


「じゃあ掃除しろ」


「……はい」


 くっ。


 完全敗北。


 私は渋々、箒を手に取りました。


「でも先輩!」


「まだ何かあるのか!」


「今日の私は、取締役会の権限を完璧に理解しました!」


「そうか」


「だから、将来会社を作ったら、ちゃんと取締役会を開きます!」


「まず会社を作れよ」


「はい!」


「それから、ここで仕事を覚えろ」


「はい……」


 相馬先輩が笑いました。


 片桐所長も、帳簿を閉じながら小さく笑っています。


 私は箒を動かし始めました。


 窓の外では、夕暮れの町に明かりが灯り始めています。


 少し離れた工業団地では。


 きっと今日も、杉浦精機の機械が動いているのでしょう。


 旋盤が回る音。


 金属を削る音。


 従業員たちの声。


 そして。


 会社の未来を、一人の社長だけで決めないという新しい約束。


 取締役会の決議。


 たったそれだけで、すべての問題が解決するわけではありません。


 でも。


 その手続きがあったから、守れたものがある。


 私は箒を止めて、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――取締役会は「決める・監督する・社長を選び直す」。重要事項は独断禁止。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、会社のガバナンスについて考えていたんです!」


「がば……何だって?」


「企業統治です!」


「難しい言葉を使って掃除をサボるな!」


「違います!」


 私は慌てて箒を動かしました。


 すると。


 奥から片桐所長が、静かに言いました。


「相馬」


「はい?」


「お前も掃除を手伝え」


「……え?」


 今度は相馬先輩が固まりました。


「所長、俺は……」


「机の下に書類が落ちている」


「……はい」


 私は思わず笑いました。


「先輩!」


「何だよ!」


「監督されましたね!」


「うるせえ!」


「所長の監督権限です!」


「ここは取締役会じゃねえ!」


 ……なるほど。


 取締役会でなくても。


 仕事をする人間には、それぞれ役割と責任があるようです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も、法律の勉強は続きます。


 ただし。


 次からは、社長が偉そうに怒鳴っていても。


 私は、まず取締役会の権限を確認することにします。


 だって。


 会社の財産を売ることも。


 巨額の借金をすることも。


 代表取締役として会社を動かし続けることも。


 決して、社長一人の思いどおりになるとは限らないのですから。


 そして何より。


 会社を本当に守るのは、肩書きの大きさではありません。


 その肩書きに伴う責任を、きちんと果たすことなのです。

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