[会社法・取締役会の権限と専決事項]現場編 「社長の俺が決めたから有効だ」の嘘。工場を売り飛ばすワンマン社長と、たった二人の取締役が突きつけた解職決議
社長だからといって、会社のすべてを自由にできるわけではありません。
会社の金。
会社の土地。
会社の工場。
そして、そこで働く人たちの未来。
そのすべてを、社長一人の気分で決められるとしたら。
いったい、何のために取締役が何人もいるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一つの恐ろしい事実を知ることになります。
株式会社の代表取締役は。
取締役会によって、社長の座から引きずり下ろされることがある。
しかも。
その決議に、解職される本人が反対票を投じることさえ許されない場合があるのです。
……怖い。
会社法。
いや、この時代では商法。
思っていた以上に、容赦がありません。
「工場が、売られてしまうんです!」
朝九時。
事務所に飛び込んできた男性は、開口一番そう叫びました。
「工場……ですか?」
私は相談票を手に取りました。
男性の名前は、杉浦正一さん。
五十二歳。
地元の金属加工会社、株式会社杉浦精機の取締役です。
作業着の袖には、油の染み。
手のひらには、長年機械を扱ってきた人特有の傷がありました。
「うちは、旋盤と金型加工で三十年やってきました」
「はい」
「従業員は二十八人。大きな会社じゃありません。でも、親父の代から続いている工場なんです」
杉浦さんは、膝の上で拳を握りました。
「それを、兄が勝手に売ろうとしているんです」
「お兄さん?」
「代表取締役の杉浦源蔵です」
なるほど。
兄が社長。
弟が取締役。
いかにも昭和の同族会社です。
「会社の業績が悪いんですか?」
「いいえ。決して楽ではありませんが、注文はあります。銀行への返済も続けています」
「では、なぜ工場を?」
杉浦さんは唇を噛みました。
「兄が、別の事業に手を出したんです」
別の事業。
その言葉だけで、嫌な予感がしました。
「リゾート開発です」
……出ました。
昭和六十三年。
バブル景気。
土地の値段が上がり続けると、多くの人が信じていた時代です。
「山を買って、別荘地を造るんだそうです」
「山を?」
「ええ。それで銀行から二億円借りると言い出して」
「二億円!?」
私は思わず声を上げました。
杉浦さんが頷きます。
「うちのような会社には、とんでもない金額です。しかも、その借入れの話と一緒に、工場の土地と建物を不動産会社に売却しようとしているんです」
「ちょ、ちょっと待ってください」
私は慌ててメモを取りました。
二億円の借入れ。
工場の売却。
リゾート開発。
……。
これ。
どう考えても。
「取締役会の決議が必要ですよね?」
私が言うと、杉浦さんが顔を上げました。
「そうなんですか?」
「はい!」
現代の会社法。
取締役会設置会社。
重要な財産の処分。
多額の借財。
どちらも、取締役会の専決事項です。
つまり。
代表取締役一人に決定を任せられない、重要な業務執行の決定。
「取締役会は開かれましたか?」
「いいえ」
「決議も?」
「ありません」
「だったら!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「会社法第三百六十二条第四項違反です!」
……。
沈黙。
相馬先輩が、ゆっくり新聞を下ろしました。
「こはる」
「はい!」
「何法だって?」
「会社法です!」
「……会社法?」
あ。
しまった。
私は固まりました。
「お前、また妙な法律を持ち出したな」
「あ、いえ、その……」
「会社のことなら商法だろ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ」
私は額を押さえました。
そうでした。
ここは昭和六十三年。
まだ、独立した「会社法」という法律は存在しません。
株式会社については、商法第二編。
有限会社については、有限会社法。
現代のように、会社法という一つの法律に整理されていないのです。
「ちなみに先輩」
「何だ」
「今って、取締役会を置かない株式会社は……」
「何を言ってる?」
先輩が怪訝な顔をしました。
「株式会社には取締役が三人以上必要だろ。取締役会を置かねえ株式会社なんぞ、何の話だ」
「……ですよね」
現代なら、取締役一人の株式会社もあります。
でも、この時代は違う。
発起人だって七人以上必要。
設立も運営も、今よりずっと堅苦しい。
「じゃあ、合同会社にして柔軟に……」
「合同会社?」
「……何でもありません」
「お前、どこの国の会社を勉強してるんだ?」
未来の日本です。
もちろん、言えません。
でも。
今はそんなことより。
目の前の工場です。
「所長!」
私は片桐所長を見ました。
「取締役会の専決事項について、この時代でも規定がありますよね!」
所長が六法を開きました。
「商法二百六十条だ」
「はい!」
「昭和五十六年の商法改正で、重要な業務執行を取締役個人に任せられないことが明確になっている」
所長は指で条文を示しました。
「重要な財産の処分及び譲受け」
「はい」
「多額の借財」
「はい!」
「支配人その他の重要な使用人の選任及び解任」
「はい!」
「支店その他の重要な組織の設置、変更及び廃止」
私は頷きました。
これです。
取締役会の専決事項。
現代の会社法にも引き継がれている、重要な仕組みです。
「杉浦さん」
所長が静かに尋ねました。
「御社の取締役は、何人ですか」
「三人です」
「お名前は?」
「兄の源蔵。私。それと、経理を担当している村田久雄です」
「監査役は?」
「父の代からの知り合いで、田辺という者が一人」
所長が頷きました。
「定款と、これまでの取締役会議事録をお持ちですか」
「はい」
杉浦さんは鞄から、分厚い書類の束を取り出しました。
定款。
取締役名簿。
過去の議事録。
そして。
一枚の売買契約書案。
そこには、こう書かれていました。
――売主 株式会社杉浦精機。
――代表取締役 杉浦源蔵。
――売買対象 工場用地及び建物一式。
――売買代金 九千万円。
「九千万円……」
私は息を呑みました。
杉浦さんが言います。
「うちの会社の総資産は、帳簿上で一億五千万円ほどです」
「そのうち九千万円の工場を売るんですか!?」
「そうです」
しかも。
売却対象は、本社工場。
機械を動かす場所。
従業員が働く場所。
会社の製造事業そのものを支える設備です。
「売ったら、仕事はどうなるんです?」
「兄は、どこかに工場を借りればいいと言っています」
「そんな簡単に!」
私は思わず机を叩きそうになりました。
大型旋盤。
加工機械。
電源設備。
搬入経路。
取引先への納期。
工場というのは、引っ越し屋に頼めば明日から同じ仕事ができる、というものではありません。
杉浦さんが俯きました。
「社員には、何も説明していません」
その声が震えました。
「二十八人いるんです。みんな、家族を養っているんです」
私は売買契約書案を見ました。
九千万円。
たった数字一つで。
二十八人の生活を動かそうとしている。
しかも。
取締役会を開かずに。
「所長」
私は言いました。
「これは、重要な財産の処分ですよね」
「その可能性が極めて高い」
「多額の借財もあります」
「ああ」
「だったら、社長一人では決められません!」
所長が頷きました。
「まず、社長が何を決め、どこまで手続きを進めたのかを確かめよう」
私は鉛筆を握り直しました。
なるほど。
売買契約書があるだけでは、まだ何が起きたか分からない。
契約済みなのか。
単なる案なのか。
銀行の融資は実行されたのか。
それとも、申し込んだだけなのか。
決議がなかったことと、取引そのものの効力の問題も、分けて考える必要があります。
ここを間違えれば、法律の刃が鈍る。
私は相談票に大きく書きました。
――まず、事実確認。
翌日。
杉浦さんは、さらに一通の書類を持って事務所を訪れました。
差出人は、代表取締役の杉浦源蔵。
弟である杉浦さんに宛てた通知です。
――工場売却及び新規借入れについては、代表取締役の経営判断により実行する。
――取締役会の承認は不要である。
――異議のある取締役は、自主的に辞任されたい。
私は読みました。
そして。
「……すごいですね」
思わず呟きました。
相馬先輩が聞きます。
「何がだ」
「自分が法律だって、本気で思ってそうです」
「そういう社長、いるんだよ」
杉浦さんが言いました。
「兄は昔から、会社は自分が作ったものだと言っていました」
「でも株式会社ですよね?」
「はい」
「個人商店じゃないですよね?」
「そうです」
「なのに……」
私は通知をもう一度見ました。
――代表取締役の経営判断。
この言葉。
便利です。
とても便利。
ですが。
代表取締役が経営判断をするからといって。
法律が取締役会に任せた判断まで、全部奪えるわけではありません。
「杉浦さん」
片桐所長が言いました。
「お兄さんは、あなた方を取締役にしたとき、何と言いましたか」
「……名前だけでいい、と」
私は顔を上げました。
「名前だけ?」
「兄は、昔から会社の経営は自分一人で決めると言っていました。私は工場長として働いていましたし、村田も経理担当ですから」
「取締役会は?」
「年に何度か開いていました。でも大抵は、兄が決めたことを聞くだけでした」
なるほど。
名ばかりの取締役。
昭和の株式会社。
最低三人の取締役。
人数を揃えることが、会社の運営を監督する仕組みより先に来てしまった。
そんな歪みが、ここにもあったのです。
「所長」
相馬先輩が言いました。
「源蔵社長には、会社を私物化している自覚がなさそうですね」
「ああ」
「どうします?」
所長は、定款を開きました。
そして。
一行を指差しました。
――代表取締役は、取締役会の決議によって選定する。
「……!」
私は息を止めました。
代表取締役。
取締役会で選ぶ。
ということは。
「所長!」
「気づいたか」
「取締役会は、代表取締役を解職することもできます!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「ようやく気づいたか」
私は六法を見ました。
そうです。
取締役会の権限は、単なる業務執行の決定だけではありません。
取締役の職務執行を監督する。
そして。
代表取締役を選定し、解職する。
社長を監督するために、会社が用意した仕組み。
そこに。
反撃の道がありました。
三日後。
杉浦精機から、社長の源蔵が事務所にやって来ました。
杉浦さんから渡された照会書の写しを見て、直接文句を言いに来たのです。
「おい!」
扉が乱暴に開きました。
「ここが片桐って行政書士の事務所か!」
五十代後半。
大柄な男。
高そうな背広。
金色の腕時計。
いかにも景気のいい昭和の社長です。
「片桐です」
所長が静かに答えました。
「何だ、この書類は!」
源蔵は一枚の紙を机に叩きつけました。
杉浦さんの名前で作成した事実照会書。
工場売却。
二億円の借入れ。
取締役会決議の有無。
それらについて回答を求める内容でした。
「俺が会社の社長なんだぞ!」
源蔵が怒鳴りました。
「はい」
所長は動じません。
「工場を売ろうが、銀行から金を借りようが、俺の判断だ!」
「そうですか」
「取締役会なんか、いちいち開いていられるか!」
……。
私は思いました。
あ。
この人。
本当に知らないんだ。
相馬先輩が口を開きます。
「社長さん」
「何だ!」
「取締役会の決議は、なぜ必要だと思います?」
「面倒な手続きだろ!」
「違います」
先輩の声が低くなりました。
「社長が会社を私物化しないためです」
「何だと!」
「重要な財産の処分や多額の借財は、取締役会が決める事項です」
「俺が代表取締役だぞ!」
「だから何だってんです?」
「……!」
相馬先輩は机に置かれた六法を開きました。
「代表取締役は、会社を代表する権限を持つ。だが、何でも一人で決定できるわけじゃねえ」
「馬鹿な!」
「商法二百六十条です」
先輩は条文を示しました。
「重要な業務執行については、取締役会が決める。特に法律が挙げた重要事項は、個々の取締役に決定を任せられない」
源蔵の眉が動きました。
「うちは小さな会社だ!」
「小さい会社なら、二億円の借金を社長一人で決めていいんですか?」
「経営判断だ!」
「じゃあ、失敗したら誰が責任を取るんです?」
「会社だろ!」
私は思わず顔を上げました。
会社。
そうです。
会社は法人です。
代表取締役とは別の存在。
でも。
だからといって。
代表取締役が会社に損害を与えても、個人として一切責任を負わないわけではありません。
「社長さん」
私は思わず言いました。
「会社に損害を与えた取締役には、任務懈怠による損害賠償責任が問題になります」
「……何?」
「取締役は、何でも好き勝手にできる立場じゃありません」
源蔵の表情が険しくなりました。
「小娘が、経営に口を出すな!」
「す、すみません!」
私は思わず背筋を伸ばしました。
怖い。
声が大きい。
でも。
言っていることまで正しくなるわけではありません。
所長が静かに口を開きました。
「杉浦社長」
「何だ」
「工場の売買契約は、既に締結されましたか」
「……まだだ」
「借入契約は?」
「それも、まだだ」
「では、取締役会の決議を経てから判断する余地がありますね」
「そんなものは必要ない!」
源蔵が机を叩きました。
「俺が社長だ! 俺が法律だ!」
……出ました。
本日の最悪発言。
相馬先輩が、冷たく笑いました。
「そうですか」
「何だ!」
「なら、商法を一度読んだ方がいい」
「……!」
「会社で一番偉いのは、声のでかい社長じゃねえ」
先輩は六法を閉じました。
「ルールを守った奴が勝つんだよ」
源蔵はしばらく睨んでいました。
そして、鼻で笑いました。
「くだらん!」
踵を返します。
「弟と経理の村田なんぞ、俺に逆らえるわけがない!」
扉が閉まりました。
私はため息をつきました。
「……すごい人でしたね」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「だが、今ので分かった」
「何がです?」
「あいつは、まだ契約を締結していない」
「はい」
「つまり、止める時間がある」
所長が頷きました。
「こはる」
「はい!」
「取締役会を開く準備だ」
私は目を丸くしました。
「取締役会?」
「ああ」
「社長が開かないって言ってるのに?」
相馬先輩が笑いました。
「社長が拒否したら、一生取締役会を開けねえ会社なんぞ、会社じゃねえよ」
私は六法を見ました。
そうでした。
取締役会には、招集についてもルールがあります。
誰が招集できるのか。
誰に通知するのか。
いつ開催するのか。
そして。
何を決議するのか。
ここを間違えると、せっかくの反撃も無駄になります。
私は鉛筆を握りました。
「所長。何から始めます?」
「定款を読め」
「はい!」
「それから、取締役会の招集手続きだ」
所長は静かに言いました。
「社長の横暴を止めるなら、こちらが手続きを間違えるな」
……。
なるほど。
相手が法律を無視するからといって、こちらまで法律を無視していいわけではない。
むしろ。
相手が強引であるほど。
こちらは一行も間違えられないのです。
翌朝。
杉浦さんと、もう一人の男性が事務所に来ました。
「村田久雄です」
四十八歳。
杉浦精機の取締役で、経理責任者。
細い眼鏡をかけた、真面目そうな男性です。
「社長から、口を出すなと言われていました」
村田さんが言いました。
「でも、もう黙っていられません」
「どうしてです?」
私が尋ねると、村田さんは鞄から書類を取り出しました。
銀行融資の事前相談書。
リゾート開発の収支見通し。
そして。
工場売却予定先の会社案内。
「これを見てください」
私は目を通しました。
不動産会社の名前は、東海開発株式会社。
代表者。
杉浦源蔵の知人。
さらに。
「……あれ?」
私は止まりました。
会社の主要株主欄。
そこには、源蔵の妻の名前がありました。
「社長の奥さん?」
「そうなんです」
村田さんが頷きました。
「しかも、売却予定価格は九千万円。でも別の不動産会社に参考査定を頼んだところ、土地と建物だけでも一億二千万円前後の評価でした」
「三千万円も違うんですか!?」
「もちろん査定は条件次第ですが、それでも説明がつきません」
私は口を閉じました。
安く売る。
相手は、社長の妻が株式を保有する会社。
そして銀行から巨額の借入れ。
単なる事業方針の違いでは済まないかもしれません。
「所長」
私は言いました。
「利益相反も問題になりませんか?」
「調べる必要がある」
所長が頷きました。
「相手会社の株主に妻がいるというだけで、直ちにすべての法的結論が決まるわけではない」
「はい」
「だが、取引条件が不自然なら、その経緯を確認すべきだ」
相馬先輩が書類を指差しました。
「今回の決定打は、そこだけじゃねえ」
「え?」
「工場だよ」
私は顔を上げました。
「工場?」
「会社の製造事業を支える、たった一つの本社工場だ」
「はい」
「それを、会社の総資産の半分以上に相当する価格で売る話だろ」
「そうです」
「取締役会を飛ばしていいような話じゃねえ」
私は大きく頷きました。
重要な財産の処分。
単に価格が高いというだけではありません。
その財産が、会社の事業にとってどれほど重要か。
会社の規模。
取引の目的。
その後の事業への影響。
そういう事情も関わってきます。
杉浦精機にとって、本社工場は単なる不動産ではありません。
会社の心臓です。
「それに」
村田さんが小さな声で言いました。
「二億円の借入れを実行すれば、返済できなくなる可能性があります」
「根拠はありますか?」
「はい」
村田さんは三年分の決算書を出しました。
私は数字を見ました。
売上高。
営業利益。
借入残高。
資金繰り表。
……。
難しい。
法律の六法なら、まだ何とか。
でも、経理の数字がずらっと並ぶと、頭が痛くなります。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何を見てる」
「会社の未来です」
「大げさだな」
「でも、二億円の借金は大きいですよ!」
「そうだ」
先輩は資金繰り表を指差しました。
「だから、社長一人の思いつきじゃなく、取締役会で十分に判断させるんだ」
私は頷きました。
取締役会。
業務執行の意思決定。
取締役の職務執行の監督。
代表取締役の選定と解職。
これらが、ようやく頭の中で一本につながりました。
「所長」
杉浦さんが尋ねました。
「兄を、代表取締役から外すことはできるんでしょうか」
事務所が静かになりました。
所長は少し考えました。
「法律上、取締役会には代表取締役を解職する権限があります」
「……!」
「ただし、適法な招集と決議が必要です」
村田さんが顔を上げます。
「私と正一さんの二人で、決められるんですか?」
私は思わず言いました。
「原則として、取締役会決議は、議決に加われる取締役の過半数が出席し、その過半数で決まります!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな。ただし、定款や決議事項によって確認すべきことがある」
「はい!」
ここで。
私は重要なことに気づきました。
取締役三人。
源蔵。
正一。
村田。
普通に考えれば、二人が賛成すれば過半数です。
でも。
代表取締役である源蔵自身の解職決議では、もう一つ問題がある。
「所長!」
私は声を上げました。
「解職される本人って、議決に加われるんですか?」
所長が私を見ました。
「いいところに気づいたな」
え。
褒められました。
珍しい。
「相馬」
「はい」
「判例を確認しろ」
「昭和四十四年の最高裁判例ですね」
相馬先輩が資料を取り出しました。
代表取締役の解任に関する取締役会決議。
その代表取締役は、特別利害関係人に当たる。
「……!」
私は目を丸くしました。
つまり。
自分が代表取締役を解職されるかどうか。
その決議について。
本人は、特別の利害関係があるため議決に参加できない。
「ということは……」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「ああ」
先輩は紙に三人の名前を書きました。
杉浦源蔵。
杉浦正一。
村田久雄。
そして。
源蔵の名前に、一本線を引きました。
「解職の議決に加われるのは、正一さんと村田さんだ」
私は息を呑みました。
「二人が出席して、二人とも賛成すれば……」
「適法な手続きを踏むことが前提だが、解職決議を成立させられる」
杉浦さんの顔が変わりました。
「本当に……?」
片桐所長が静かに言いました。
「代表取締役は、会社そのものではありません」
……。
その一言が、事務所に響きました。
それから数日。
私たちは、書類の作成に追われました。
定款確認。
取締役会の招集権者に関する確認。
招集手続き。
決議事項。
そして。
取締役会議事録の原案。
今回、杉浦精機の定款では、取締役会の招集権者は代表取締役とされていました。
そこで正一さんと村田さんは、源蔵に対して、取締役会を招集するよう請求しました。
議題は二つ。
工場売却及び二億円の借入れに関する審議。
代表取締役の職務執行状況の確認。
しかし。
源蔵から返ってきたのは、たった一行。
――取締役会を開催する必要はない。
「……またですか!」
私は頭を抱えました。
相馬先輩が笑いました。
「予想どおりだな」
「でも、これじゃ進まないじゃないですか!」
「進むさ」
「え?」
先輩は商法を開きました。
「正当な手続きで招集を請求して、招集権者が応じない場合にも、法律は道を用意してる」
なるほど。
社長が招集を拒み続ければ、取締役会が永遠に開けなくなる。
そんな制度では、監督機能が意味を失います。
所長は、招集請求の書面とその到達記録を確認しました。
そして。
「次の手続きへ進もう」
短く言いました。
こうして。
商法の規定に従った招集手続きを経て、取締役会の日程が決まりました。
会場。
杉浦精機の本社会議室。
議題には、重要な財産の処分及び多額の借財に関する件のほか、代表取締役解職の件が明示されました。
取締役全員に対し、所定の招集通知が送られました。
手続きは、一つずつ。
そして慎重に。
私は作成した書類を見つめました。
「所長」
「何だ」
「これ、まるで裁判の準備みたいですね」
「裁判ではない」
「はい」
「だが、後から争われても、手続きの経過を説明できる書面にする必要がある」
私は頷きました。
そうです。
取締役会で決議した。
だから絶対に有効。
そんな単純な話ではありません。
適法に招集されたのか。
誰が出席したのか。
誰が議決に参加できたのか。
何を決議したのか。
それらを確認できることが重要です。
「所長」
「何だ」
「私たち行政書士は、取締役会で社長に代わって議決することはできませんよね」
「当然だ」
「取締役の代理人として、解職を決めることも」
「できん」
所長が頷きました。
「決めるのは、会社の機関だ。こちらは、適法な書類を整える」
「はい!」
「登記が必要なら、その申請手続きは司法書士に引き継ぐ」
私は原案をもう一度確認しました。
法律のプロが、会社を乗っ取るわけではありません。
法律が認めた手続きを、会社自身が使えるようにする。
それが、私たちの仕事です。
取締役会の前日。
源蔵の元に、もう一通の内容証明郵便が届きました。
差出人。
杉浦正一。
村田久雄。
本人たちの意思に基づき、片桐事務所が文案を整えた書面です。
そこには、こう記されていました。
――貴殿が計画する本社工場の土地建物の処分及び二億円の借入れについて、当社取締役会による承認決議は存在しない。
――本社工場は当社の製造事業の中核をなす重要な財産であり、その処分は商法第二百六十条第二項に定める取締役会の決定を要する事項に該当すると考えられる。
――また、本件借入れは当社の財産規模及び経営状況に照らし、多額の借財に該当すると考えられる。
――したがって、これらの業務執行について、取締役会の決定を経ることなく独断で実行することを厳に慎まれたい。
――なお、本件各取引の目的、相手方との関係、対価の相当性及び会社に生ずる損害について、取締役会における説明を求める。
そして。
最後の一文。
――本件に関連して会社に損害が生じた場合、取締役としての任務懈怠に基づく責任等が問題となり得るため、必要に応じて弁護士への相談その他の法的措置を検討する。
源蔵は、その書面を三度読んだそうです。
最初は怒鳴りながら。
二度目は黙って。
三度目には。
……手が震えていたといいます。
さらに、源蔵が相談した顧問弁護士からも指摘がありました。
取締役会の決定を経ずに重要な取引を進めれば、取締役としての責任が問題になり得ること。
会社に損害を与えれば、個人として損害賠償を請求される可能性があること。
そして。
取締役会には、代表取締役を解職する権限があること。
「何だと……」
源蔵は、そこで初めて気づいたそうです。
自分が社長だから、取締役会を支配できる。
そう信じていた。
しかし。
その取締役会こそが。
自分の代表権を奪うことのできる機関だったのです。
取締役会当日。
杉浦精機の会議室には、三人の取締役が揃っていました。
源蔵。
正一。
村田。
監査役の田辺も、監査役として出席していました。
片桐事務所は、事前の書類整備まで。
決議そのものは、取締役たちの責任で行われます。
最初に、工場売却と二億円の借入れについて審議が行われました。
「俺の事業計画に文句があるのか!」
源蔵が怒鳴りました。
けれど。
正一さんは、もう俯きませんでした。
「あります」
「何だと!」
「工場を売れば、生産を続けられません。移転費用も、従業員への説明も、取引先への影響も、何も検討されていない」
「そんなもの、後から考えればいい!」
「後からでは遅いんです!」
正一さんが声を上げました。
村田さんも続けました。
「二億円を借りても、現在の利益水準では返済計画に無理があります」
「経理屋が偉そうに!」
「私は経理責任者である前に、取締役です」
……。
その言葉に、源蔵が黙りました。
「名前だけでいいと言われました」
村田さんは静かに言いました。
「だから今まで、何も言えませんでした」
「……」
「でも、取締役として名前を載せている以上、会社を守る責任があります」
源蔵は顔を真っ赤にしました。
「誰のおかげで会社がここまで来たと思ってる!」
正一さんが答えました。
「兄さんのおかげでもあります」
源蔵が止まりました。
「でも、それだけじゃない」
「……」
「毎朝、機械の前に立っている社員のおかげです。何十年も注文をくれた取引先のおかげです」
正一さんは続けました。
「兄さん一人の会社じゃないんです」
議場が静まりました。
その後。
本社工場の売却及び二億円の借入れを、現計画のまま承認しない旨の決議がなされました。
正一さん、賛成。
村田さん、賛成。
源蔵、反対。
可決。
そして。
次の議題。
――代表取締役杉浦源蔵の解職に関する件。
「……待て」
源蔵の声が変わりました。
「何だ、それは」
正一さんが、招集通知を示しました。
「通知した議題です」
「俺を解職するだと!?」
「はい」
「馬鹿な!」
源蔵が立ち上がりました。
「俺は反対だ! 俺の票がある!」
正一さんは静かに答えました。
「兄さんは、この決議では議決に参加できません」
「何だと!?」
「代表取締役の解職について、解職の対象となる本人は、特別利害関係人に当たるからです」
「そんな馬鹿な法律があるか!」
「最高裁判所の判例があります」
……。
源蔵は、言葉を失いました。
自分が解職されるかどうか。
その議決に、自分自身は参加できない。
昭和四十四年の最高裁判例。
その法律上の考え方が、今、目の前に立ちはだかっていました。
源蔵を議決から除外したうえで。
正一さんと村田さんが、決議に臨みます。
「代表取締役杉浦源蔵を解職することに、賛成の方」
正一さんが手を挙げました。
村田さんも手を挙げました。
二人。
全員一致。
可決。
続いて。
正一さんを新たな代表取締役に選定する決議も成立しました。
……。
源蔵は、椅子に座り込んだそうです。
「俺が……」
声が掠れました。
「俺が作った会社なのに……」
正一さんが答えました。
「兄さん」
「……」
「会社は、兄さんの私物じゃない」
それが。
決着でした。
翌日。
杉浦さんが、事務所に来ました。
その手には、議事録。
出席取締役。
議事の経過。
決議の結果。
議決に参加できなかった取締役の扱い。
必要な事項を確認した、取締役会議事録です。
所長は慎重に内容を読みました。
「……問題ない」
短く言いました。
私は思わず拳を握りました。
「やりましたね!」
相馬先輩が鼻で笑います。
「まだ登記がある」
「あっ」
そうでした。
代表取締役が変わったなら、必要な変更登記をしなければなりません。
議事録などの関係書類を整え、登記申請については司法書士に引き継ぐことになりました。
「工場の売却は?」
私が尋ねると、杉浦さんが答えました。
「進めません。売買契約はまだ締結されていませんでしたから」
「二億円の借入れは?」
「銀行には、会社の方針が変わったことを伝えました。契約前だったので、借入れも実行していません」
私は大きく息を吐きました。
よかった。
本当に。
「それで、お兄さんは……?」
杉浦さんは少し表情を曇らせました。
「兄は、取締役としては残っています」
「え?」
「今回、解職したのは代表取締役の地位だけですから」
あ。
私は頷きました。
そうです。
代表取締役の解職。
取締役そのものの解任。
これは別です。
取締役会が代表取締役を解職しても、それだけで取締役の地位まで失うわけではありません。
取締役自体の解任については、株主総会の権限が問題になります。
「兄には、まだ会社に残ってもらうつもりです」
杉浦さんが言いました。
「ただし、これからは取締役会で話し合って決めます」
私は笑いました。
「それが一番ですね」
けれど。
相馬先輩は、もう一つ確認しました。
「源蔵社長……いや、源蔵さんが取締役として残るなら、今後の監督も必要ですよ」
「はい」
「名前だけの取締役会に戻したら、同じことになります」
杉浦さんが頷きました。
「分かっています」
そして。
村田さんが新しい規程案を取り出しました。
取締役会で決議すべき事項。
代表取締役からの業務報告。
一定額以上の借入れや資産処分についての事前審議。
経営状況を定期的に確認する仕組み。
「これからは、きちんと取締役会を開こうと思います」
村田さんが言いました。
「法令違反がないかだけじゃなく、経営判断として妥当なのかも、ちゃんと話し合いたいんです」
私は顔を上げました。
ああ。
これです。
取締役会の監督機能。
ただ違法行為を止めるだけではありません。
会社を危険にさらす経営判断が行われていないか。
取締役が、必要な注意を尽くしているか。
そこまで監督する。
会社を守るための仕組みなのです。
一週間後。
杉浦精機から、一通の手紙が届きました。
差出人は、正一さん。
中には写真が一枚。
工場の前で撮られた集合写真です。
二十八人の従業員。
作業着姿。
油の染みた手。
そして。
中央には、正一さんと村田さん。
端の方には。
少し不機嫌そうな顔をした源蔵の姿もありました。
「……あれ?」
私は思わず笑いました。
「お兄さんも写ってます!」
相馬先輩が覗き込みました。
「本当だな」
「辞めなかったんですね」
「まあ、取締役として残ってるからな」
写真の裏には、短い言葉がありました。
――工場は、今日も動いています。
私は、その一行を見つめました。
工場。
売られずに済んだ。
従業員も、働き続けられる。
会社の看板も、そのまま。
それだけではありません。
今までは、社長が全部決める会社でした。
でも、これからは。
三人の取締役が、それぞれの責任を持つ会社になる。
会社の未来を、一人の欲望だけに預けない。
その仕組みが動き始めたのです。
「所長」
私は写真を眺めながら言いました。
「取締役会って、すごいですね」
「そうか」
「はい」
私は続けました。
「正直、受験生の頃は面倒な機関だと思ってました」
相馬先輩が笑います。
「だろうな」
「取締役が三人以上必要とか、決議の過半数とか、覚えることばっかりで」
「ああ」
「でも、今回分かりました」
私は六法を開きました。
「会社の大切な財産を、一人の思いつきで失わないようにするためなんですね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私は続けました。
「取締役会は、業務執行を決定する」
「うん」
「取締役の職務執行を監督する」
「そうだ」
「そして、代表取締役を選び、必要なら解職する」
相馬先輩が頷きました。
「それが基本だ」
私は大きく息を吐きました。
なるほど。
三つの権限。
教科書では、ただの暗記事項です。
でも。
工場が売り飛ばされそうになったとき。
二億円の借金を勝手に背負わされそうになったとき。
社長が取締役会を無視したとき。
その三つの権限が、会社を守る武器になる。
そして。
取締役会が、社長を監督できる理由も分かりました。
会社は、社長一人のものではない。
社長自身も、会社のルールに従う立場なのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「私、取締役会の見方が変わりました」
「ほう」
「社長を応援する会議じゃないんですね」
「当たり前だろ」
「社長の暴走を止めることもある!」
「ああ」
「しかも、社長を解職できる!」
「そうだ」
「すごい!」
相馬先輩が笑いました。
「ただし、勘違いするなよ」
「え?」
「取締役会が、何でも自由にできるわけじゃねえ」
「……はい」
「株主総会が決めることもある。定款の制限もある。手続きを間違えれば決議そのものが争われる」
私は頷きました。
「だから、まず権限の分担を確認するんですね」
「そういうことだ」
所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「今回、会社を守ったのは何だ」
私は考えました。
商法。
取締役会。
専決事項。
解職決議。
どれも正解のような気がします。
でも。
「……取締役が、自分の責任から逃げなかったことです」
私は答えました。
所長が顔を上げました。
「うん」
「正一さんも、村田さんも、最初は名前だけの取締役でした」
「そうだ」
「でも、会社を守ろうと思って、自分たちの権限を使った」
「そのとおりだ」
所長は短く頷きました。
「法律は、使う人間がいて初めて働く」
私は、その言葉を胸に刻みました。
夕方。
事務所の窓から、橙色の光が差し込んでいました。
私は、今日の書類を整理していました。
「先輩」
「何だ」
「ところで、現代の会社法だと、取締役会を置かない株式会社も作れるんですよね」
「……また現代?」
しまった。
私は慌てて口を押さえました。
「いえ! 将来の法改正を想像していただけです!」
「お前、最近そればっかりだな」
「勉強熱心なんです!」
「妙な方向にな」
私は苦笑しました。
でも。
この時代の株式会社には、三人以上の取締役が必要です。
それが将来、会社の規模や形態に応じて、もっと柔軟な制度になっていく。
一人の取締役で運営できる株式会社。
取締役会を設置しない株式会社。
合同会社という新しい選択肢。
現代では、いろいろな会社の形が認められます。
けれど。
取締役会を置いたなら。
その権限と責任を、軽く考えてはいけない。
どれだけ時代が変わっても。
大切な財産を守るため、経営を監督する仕組みには意味があるのです。
「……うん」
私は一人で頷きました。
「何を納得してるんだ?」
相馬先輩が聞きました。
「会社法の進化です!」
「だから何なんだ、その会社法ってのは!」
「いつか分かります!」
「いつだよ!」
私は笑いました。
未来です。
まだ十八年ほど先。
でも、もちろん言えません。
そのとき。
片桐所長が、奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「次の相談だ」
「何でしょう!」
所長は一枚の書類を見せました。
――株式会社山田商事。
相談内容。
――代表取締役が、取締役会に報告せず、会社の金を使っている。
……。
私はゆっくり相馬先輩を見ました。
相馬先輩も、こちらを見ました。
「先輩」
「何だ」
「また社長です」
「そうだな」
「また会社の金です」
「見りゃ分かる」
「それで、今度は何を調べるんです?」
相馬先輩は六法を開きました。
「取締役の職務執行の監督だろ」
私は頷きました。
なるほど。
今回の杉浦精機では、取締役会の業務執行の決定と代表取締役の解職が大きな問題になりました。
でも。
取締役会には、もう一つ大切な仕事があります。
代表取締役が、普段どんな仕事をしているのか。
適正に経営しているのか。
会社の金を勝手に使っていないか。
それを監督すること。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「取締役会って、社長が一番嫌がる機関かもしれませんね!」
「悪い社長にとっては、そうかもな」
私は笑いました。
そして。
今日のノートの端に、短く書きました。
――代表取締役は会社を代表する。だが、会社を支配する法律そのものにはなれない。
よし。
これなら忘れません。
昭和六十三年。
商法第二編。
株式会社の取締役会。
その権限は、決して飾りではありません。
重要な財産の処分。
多額の借財。
業務執行の監督。
代表取締役の選定と解職。
たった一つの決議が。
会社の未来を変えることもある。
そして。
あの工場の機械は、今日も動いています。
二十八人の従業員が、家族のために働きながら。
社長一人の欲望ではなく。
会社のルールによって守られた場所で。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「感傷に浸ってねえで、次の相談票を取れ!」
「はいっ!」
私は慌てて鉛筆を持ち直しました。
株式会社。
社長。
取締役会。
そして商法。
会社の世界は、思っていたよりずっと人間臭い。
でも。
だからこそ。
誰か一人が「俺が法律だ」と言い出したときに。
それを止めるための条文が、ちゃんと用意されているのです。
社長が一番偉い。
そんな思い込みで会社を動かしている人ほど。
取締役会の議事録に自分の名前が載った瞬間。
初めて気づくことがあります。
会社を動かす権限は。
会社を私物にする権利ではないのだと。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




