[会社法・取締役]法理編 こはるノート
社長が一番偉い。
だから、社長の言うことは絶対。
会社のお金も。
会社の土地も。
取締役の人事も。
社長が自由に決めていい。
……なんて。
もし本当にそんな法律だったら、世の中の会社は大変なことになります。
なぜなら。
会社というものは、社長個人の財布ではないからです。
そして。
取締役とは、社長の家来ではありません。
会社の経営を任された、責任ある立場の人間なのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机の上に、三枚の書類を並べていました。
一枚目。
――取締役解任通知。
二枚目。
――取締役会議事録。
三枚目。
――役員報酬改定議事録。
どれも、東海精機株式会社の事件で使われた書類です。
社長の黒田剛三が、反対する取締役を勝手に解任しようとした。
会社の土地を、自分個人に格安で売ろうとした。
さらに、自分の報酬を勝手に三倍に増やそうとした。
そのうえ。
会社の仕事を、自分の別会社へ流していた疑いまであった。
「……欲張りすぎですよね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「黒田社長です」
「ああ」
「会社の土地も欲しい。会社の仕事も欲しい。報酬も増やしたい。反対する取締役は追い出したい」
「そうだったな」
「もう会社を経営してるのか、会社を食べてるのか分かりません」
相馬先輩が吹き出しました。
「食べてるって何だよ」
「会社を丸ごとです!」
「腹壊すぞ」
「そういう問題じゃありません!」
私はノートを開きました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「今日は、取締役を完全攻略します!」
「また始まったな」
「今回は重要ですよ!」
「いつもそう言ってるだろ」
「だって取締役って、覚えることが多すぎるんです!」
私は指を折りました。
資格。
選任。
解任。
欠員。
員数。
任期。
地位と権限。
義務。
報酬。
「九つもあります!」
「数えられて偉いな」
「子供扱いしないでください!」
そこへ、奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……またですか」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
「まず、取締役って何ですか?」
私はノートに大きく書きました。
――取締役。
会社の経営を担う役員。
「会社の業務について意思決定したり、業務を執行したりする立場ですね」
「そうだ。ただし、会社の機関設計によって権限は違うぞ」
相馬先輩が言いました。
「機関設計?」
「ああ。昭和の株式会社と、お前が夢見ている一人会社じゃ、仕組みが違うだろ」
……。
来ました。
昭和の壁。
「先輩」
「何だ」
「現代なら、取締役一人の株式会社もあるんですよ」
「またその話か」
「あります!」
「昭和六十三年にはねえ!」
「知ってます!」
「だったら今の商法を読め!」
「はい……」
私は六法を開きました。
昭和六十三年。
株式会社は、取締役三人以上。
取締役会も必要。
監査役も置かなければならない。
さらに設立時の発起人は七人以上。
「これ、やっぱり大変ですよね」
「何がだ」
「一人で事業を始めたくても、株式会社を作るには七人集めないといけないんですよ」
「ああ」
「しかも、取締役も三人」
「そうだ」
「だから黒田社長は、弟さんを取締役にしたんですね」
「そういう事情もあったんだろうな」
黒田義男さん。
名前だけの取締役。
兄に頼まれて就任した。
ところが。
会社の土地売却に賛成票を入れてしまった。
「先輩」
「何だ」
「頭数合わせで取締役になっても、責任はあるんですよね」
「当然だ」
相馬先輩は言いました。
「名前を貸しただけだろうが、会社から経営を任された立場だ。何も考えずに兄貴の言うことを聞いていいわけじゃねえ」
私は頷きました。
取締役。
それは、肩書だけの飾りではない。
法律上の地位。
そして、責任。
この二つがセットになっているのです。
「では、取締役の資格です!」
私は次のページを開きました。
――誰が取締役になれるのか。
「現代の会社法三百三十一条ですね」
相馬先輩が顔をしかめました。
「だから、その会社法って何だ」
「あっ」
しまった。
また未来の法律です。
「ええと、将来の法制度を想像しただけです!」
「ずいぶん具体的な想像だな」
「細かいことは気にしないでください!」
私は慌てて話を戻しました。
昭和六十三年にも、取締役になれない人についての規定があります。
商法第二百五十四条ノ二などに、欠格事由が定められていました。
たとえば。
法人は取締役になれません。
会社の取締役は、自然人である必要があります。
「つまり、株式会社そのものが、別の株式会社の取締役にはなれないんですね」
「そうだ」
「会社が会社の取締役になるって、ややこしいですもんね」
「ややこしいから駄目って話じゃねえけどな」
「ですよね!」
それから、一定の犯罪による刑罰なども欠格事由になります。
現代の会社法でも、法人や一定の刑罰を受けた人などについて、取締役になれない場合が定められています。
ただし。
犯罪の種類、刑の内容、欠格期間などは、時代によって規定が異なります。
「ここ、試験では現行法の条文を確認しないと危険ですね」
私は赤線を引きました。
資格。
つまり。
誰でも取締役になれるわけではない。
これが一つ目。
「次は、取締役の選任です!」
私はノートに書きました。
――取締役は誰が選ぶ?
「社長!」
相馬先輩が答えました。
「違います!」
「即答だな」
「だって昨日の事件で勉強しましたから!」
取締役を選ぶのは、株主総会。
昭和六十三年の商法第二百五十四条。
現代の会社法第三百二十九条。
どちらも、基本は株主総会による選任です。
「社長が勝手に決めることはできません」
「そうだ」
「取締役会が勝手に選任することもできません」
「うん」
「株主総会です!」
私は大きく丸をつけました。
ここは絶対に覚えます。
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「株主総会では、どんな決議が必要だ」
「選任は、普通決議が基本です!」
「うん」
「ただし、現代の取締役選任決議には特別の定足数の下限があります」
私はノートに書きました。
現代の会社法第三百四十一条。
取締役の選任決議では、定款によって定足数を引き下げることができます。
ただし。
議決権を行使できる株主の議決権の三分の一未満にはできません。
また、出席株主の議決権の過半数という賛成要件について、定款でさらに高い割合を定めることができます。
「つまり、定款で何でも自由にできるわけじゃないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「定款も法律に従わなきゃならねえ」
私はノートに書きました。
――取締役の選任は株主総会。現代法では定足数を三分の一未満にできない。
「それと、累積投票もありますね!」
私は勢いよく言いました。
「……また面倒なものを持ってきたな」
相馬先輩が苦笑します。
累積投票。
複数の取締役を選任するとき、株主に選任人数分の議決権を与え、特定の候補者に集中させることができる制度です。
たとえば。
三人の取締役を選ぶ。
一株につき三票を持つ。
その三票を、一人の候補者に集中させることができる。
「少数株主が、自分たちの支持する取締役を選びやすくする仕組みですね」
「そうだな」
「昭和の商法にも存在していました」
現代では会社法第三百四十二条。
定款によって累積投票を排除できることにも注意が必要です。
「でも、これってすごいですよね」
「何がだ」
「株式をたくさん持っている大株主だけが、全部の取締役を独占するとは限らなくなるんです」
私は東海精機の事件を思い出しました。
黒田社長。
弟の義男さん。
長谷川さん。
もし株主の意見がきちんと経営に反映されるなら。
会社を社長一人の思いどおりにすることにも、歯止めがかかるかもしれません。
「ただし」
所長が言いました。
「累積投票を使えば必ず少数株主の候補者が当選するわけではない」
「はい」
「議決権の数と、選任人数による」
私は頷きました。
法律の制度は、魔法ではありません。
条件がある。
手続きがある。
そして、使い方があるのです。
「次! 取締役の解任です!」
私は三枚の書類のうち、一枚目を持ち上げました。
黒田社長が長谷川さんに渡した、例の紙。
――長谷川修一を本日付で取締役から解任する。
「たった一行でしたね」
「ああ」
「株主総会も開かず、社長が勝手に解任通知を出した」
「そうだ」
「でも、取締役を解任する権限も株主総会にある!」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
商法第二百五十七条。
取締役は、株主総会決議によって解任することができます。
そして、ここが重要。
「昭和六十三年の商法では、解任に原則として特別決議が必要だったんですよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「普通決議よりも重い決議だ」
特別決議。
原則として、一定以上の株主の出席と、出席株主の議決権の三分の二以上の賛成を要する。
「だから、黒田社長が勝手に書いた解任通知では、まったく足りなかったんですね」
「ああ」
私はそこで、現代の知識を思い出しました。
現代の会社法第三百三十九条。
取締役は、株主総会の決議によって、いつでも解任することができます。
そして、解任決議は原則として普通決議。
ただし。
累積投票で選任された取締役の解任など、特別決議が必要になる場合があります。
「ここ、昭和と令和で違います!」
私は大きく線を引きました。
昭和六十三年。
取締役の解任は、原則として特別決議。
現代。
取締役の解任は、原則として普通決議。
ただし、例外あり。
「先輩!」
「何だ」
「これ、転生者にとって危険すぎます!」
「何がだ」
「現代の会社法を覚えていると、昭和でも普通決議で解任できると思ってしまうんです!」
「じゃあ間違えるな」
「簡単に言わないでください!」
相馬先輩が笑いました。
でも。
ここは本当に重要です。
法律は、改正によって決議要件が変わることがあります。
そのため。
昔の知識を、そのまま現代の試験に使ってはいけない。
逆に。
現代の条文を、昭和の事件にそのまま持ち込んでもいけないのです。
「ところで、こはる」
所長が言いました。
「適法に株主総会で解任された場合、取締役は必ず何も請求できなくなるのか」
「いいえ!」
私は答えました。
「正当な理由なく任期途中で解任された場合、会社に損害賠償を請求できることがあります!」
現代では会社法第三百三十九条第二項。
昭和の商法にも、同じ方向の規定がありました。
「つまり、解任決議が有効でも、損害賠償の問題は別なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「解任が有効かどうかと、解任に正当な理由があったかは、分けて考えろ」
私は書きました。
解任の効力。
損害賠償。
別問題。
「それから、解任の訴えもありますね」
私はページをめくりました。
重大な不正行為などをした取締役がいる。
ところが、株主総会で解任議案が否決された。
そんな場合。
一定の要件を満たす株主は、裁判所に解任の訴えを提起できます。
現代の会社法では第八百五十四条など。
昭和の商法にも、少数株主による解任請求の制度が存在していました。
「つまり、悪い社長が株主総会を支配していたとしても、完全に逃げ切れるわけじゃないんですね」
「そういうことだ」
所長が頷きました。
私は、黒田社長を思い出しました。
もしあの社長が、株主総会でも圧倒的な力を持っていたら。
誰も反対できなかったかもしれません。
でも。
法律は、そんな場合に備えた仕組みも用意している。
取締役の解任。
それは単なる社内人事ではありません。
会社の経営を誰に任せるのか。
そして、不適切な経営者をどう排除するのか。
そのための重要な制度なのです。
「次は、欠員です!」
私は勢いよくページをめくりました。
――取締役が足りなくなったらどうなる?
「東海精機には、取締役が三人いました」
「そうだな」
「黒田社長、義男さん、長谷川さん」
「うん」
「もし長谷川さんが辞任したら、二人になります」
「そうだ」
「昭和の株式会社では、三人必要です!」
私は大きく丸をつけました。
だから。
任期満了や辞任によって必要な員数を欠く場合、退任した取締役は、後任者が就任するまで引き続き取締役としての権利義務を持つことがあります。
昭和の商法第二百五十八条。
現代の会社法第三百四十六条。
「これ、最初は変だと思ったんです」
私は言いました。
「辞めたのに、まだ取締役として仕事をするなんて」
相馬先輩が頷きました。
「会社の運営を止めないためだ」
「そうなんですよね」
取締役がいなくなる。
必要な人数が足りなくなる。
会社の意思決定に支障が出る。
それでは、従業員や取引先が困ってしまいます。
だから法律は、一定の場合に退任者の権利義務を継続させる。
「ただし!」
私は鉛筆を立てました。
「ここに、試験のひっかけがあります!」
「何だ」
「辞任と解任は違います!」
辞任。
自分の意思で辞めること。
解任。
会社が役職を解くこと。
任期満了や辞任の場合には、必要な員数を欠けば権利義務が継続することがあります。
一方、解任された取締役については、その規定が当然に適用されるわけではありません。
「つまり、長谷川さんが適法に解任されていたら、後任がいないからといって、当然に取締役の地位が続くわけではないんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「ただし、今回の問題は、その前の段階だった」
「はい」
そもそも、適法な解任決議が存在しなかった。
だから。
解任によって退任したと扱えるかどうか自体が問題だったのです。
私はノートに書きました。
――任期満了・辞任による欠員と、解任は混同しない。
「よし!」
私は顔を上げました。
「これなら、ひっかけ問題も大丈夫です!」
「本当か?」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「じゃあ、取締役が死亡した場合は?」
「……え?」
「死亡した取締役が、後任者が決まるまで仕事を続けるのか?」
「そんなわけありません!」
「だろ」
私は慌てて書き足しました。
死亡の場合は、当然ながら本人が権利義務を継続することはできません。
「先輩!」
「何だ」
「変な問題を出さないでください!」
「お前が全部大丈夫って言ったんだろ!」
……。
確かに。
法律の勉強では、例外を忘れた瞬間に点数が逃げていくのです。
「さて、取締役の員数です!」
私は次のページを開きました。
昭和六十三年。
株式会社は取締役三人以上。
これが基本。
でも。
現代では、会社の仕組みによって違います。
取締役会を設置しない株式会社。
取締役一人以上。
取締役会を設置する株式会社。
取締役三人以上。
「つまり、現代では一人会社が可能なんですね!」
「また未来の話か」
「これは大事なんです!」
私は力説しました。
昔の株式会社は、人数を集めなければならなかった。
でも、現代では小規模な会社も株式会社を利用しやすくなっています。
平成十七年に会社法が成立し、平成十八年に施行されました。
それまで商法などに分かれていた会社のルールが整理され、会社法という独立した法律になったのです。
設立制度も簡素化されました。
最低資本金制度も廃止されました。
株式会社の機関設計も柔軟になりました。
「だから、現代では取締役一人でも株式会社が作れるんですね」
私は言いました。
相馬先輩が苦笑しました。
「便利な世の中を夢見てるんだな」
「そうなんです!」
……本当は、未来で知っているだけですが。
「ただし」
所長が言いました。
「人が少なくて済むことと、責任が軽くなることは違う」
私は顔を上げました。
「はい」
「取締役が一人でも、会社の財産を勝手に自分のものにはできない」
「そうですね」
そうです。
一人会社。
取締役一人。
株主一人。
でも。
会社と個人が、同じ存在になるわけではありません。
会社には、会社の財産がある。
会社には、会社の権利義務がある。
そこは、昭和でも現代でも変わらないのです。
「次は、任期です!」
私はノートに書きました。
――取締役はいつまで取締役なのか。
「現代の会社法では、原則として、選任後二年以内に終了する事業年度のうち、最後のものに関する定時株主総会の終結時までです」
相馬先輩が顔をしかめました。
「長いな」
「ですよね!」
「もっと簡単に言え」
「原則二年です!」
「最初からそう言え」
「でも、正確には定時株主総会の終結時までなんです!」
私は赤線を引きました。
ここは試験で注意。
単純に、選任日から二年たった瞬間に必ず任期が終わるわけではありません。
事業年度と定時株主総会が関係します。
「それから、定款や株主総会決議で任期を短縮できます」
「うん」
「さらに、現代の非公開会社で一定の機関設計の場合には、定款で最長十年まで伸ばせます」
私は大きく書きました。
原則二年。
一定の非公開会社では、定款で最長十年。
「十年って、長いですよね」
「長いな」
「でも、役員変更の手間が少なくなるので、小さな会社には便利なんです」
私は頷きました。
ただし。
任期を長くすれば、途中で辞めさせる必要が生じた場合の問題も大きくなり得ます。
正当な理由のない解任で、残任期に関する損害賠償が問題になることもあるからです。
「便利だからといって、何でも十年にすればいいわけではないんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が頷きました。
「会社の事情を考えろ」
私は書きました。
――任期は長ければよいわけではない。
「ちなみに、現代には監査等委員会設置会社や指名委員会等設置会社という仕組みもあります」
「何だそれ」
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
……来ました。
昭和には存在しない、未来の機関設計。
「ええと、その……未来の会社にはいろいろな形があるんです!」
「また未来か!」
「夢です! 夢の中で見たんです!」
「どんな夢だよ!」
私は慌ててノートに書きました。
現代の監査等委員会設置会社。
監査等委員である取締役は、原則二年。
監査等委員でない取締役は、原則一年。
指名委員会等設置会社の取締役。
原則一年。
「ここは、機関設計によって任期が違うと覚えます!」
相馬先輩は、もう何も言いませんでした。
……たぶん、諦めたのでしょう。
「次は、取締役の地位と権限です!」
私は机の上に、三つの言葉を書きました。
意思決定。
業務執行。
代表。
「これ、混同しやすいんですよね」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
「現代の取締役会を設置しない株式会社なら、取締役が会社の業務を決めて、執行するのが基本です」
取締役が二人以上いる場合は、定款に別段の定めがなければ、業務に関する決定は取締役の過半数で行います。
そして。
代表についても、原則として各取締役が会社を代表する。
ただし、代表取締役を定めた場合などは、その仕組みに従います。
「一方、取締役会設置会社では違います」
私は言いました。
意思決定。
取締役会。
業務執行。
基本的には代表取締役など。
代表。
代表取締役。
「つまり、取締役会設置会社の取締役だからといって、一人で何でも決められるわけではないんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
「東海精機の土地売却も、取締役会の問題だったな」
「はい!」
私は例の議事録を取りました。
――賛成二名、反対一名。
これです。
あの事件の決定的な一行。
取締役三人。
社長。
弟。
長谷川さん。
社長は、自分への土地売却議案に賛成した。
弟も賛成した。
長谷川さんは反対した。
それで二対一。
可決したつもりだった。
「でも!」
私は鉛筆を立てました。
「社長自身は、特別利害関係人でした!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
特別の利害関係を有する取締役は、その議案について議決に参加できません。
昭和の商法第二百六十条ノ二。
現代の会社法第三百六十九条第二項。
「だから、社長の一票を除外するんですね!」
「ああ」
私は書きました。
議決に参加できる取締役。
義男さん。
長谷川さん。
賛成一名。
反対一名。
これでは、必要な過半数に達しません。
「……本当に、一票で変わったんですね」
私は呟きました。
相馬先輩が笑いました。
「議事録ってのは、そういうもんだ」
ただし。
重要なのは、単純に社長の票を消すことだけではありません。
取締役会の定足数も、議決に参加できる取締役を基準に考える必要があります。
「つまり、議決権を行使できない取締役を、人数の計算にそのまま入れてはいけないんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
私は書きました。
――取締役会では、特別利害関係人の議決権と定足数の計算に注意。
よし。
これは忘れません。
だって。
あの黒田社長の青ざめた顔を思い出せばいいのです。
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「いよいよ一番大事なところだな」
「はい!」
私はノートを開きました。
――取締役の義務。
善管注意義務。
忠実義務。
競業取引。
利益相反取引。
「この四つが、東海精機の事件で全部出てきたんですよね」
「ああ」
まず。
善管注意義務。
「会社と取締役の関係は、委任の規定に従うんですよね」
「そうだ」
昭和の商法第二百五十四条第三項。
現代の会社法第三百三十条。
会社と取締役の関係には、委任に関する規定が適用されます。
そして。
民法第六百四十四条。
受任者は、善良な管理者の注意をもって委任事務を処理しなければならない。
「つまり、会社から仕事を任された取締役には、善管注意義務があるんですね」
私は書きました。
善管注意義務。
その立場にある者に通常要求される注意を払う義務。
「黒田義男さんも、名前だけの取締役だから責任がないとは言えませんでした」
「そうだ」
「何も考えずに議事録に署名したら、問題になる可能性があります」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、署名しただけで必ず損害賠償責任が成立するわけじゃねえぞ」
「はい」
取締役に任務違反があったか。
会社に損害が生じたか。
その損害と任務違反に因果関係があるか。
そうした要件が問題になります。
「つまり、取締役としてきちんと判断したかどうかが重要なんですね」
「そうだ」
次。
忠実義務。
「取締役は、法令や定款、株主総会決議を守り、会社のため忠実に職務を行う義務があります」
昭和の商法第二百五十四条ノ三。
現代の会社法第三百五十五条。
ここで私は、思い出しました。
「先輩、忠実義務って、善管注意義務よりも高度な義務なんですか?」
「どう思う?」
「名前だけ見ると、忠実義務のほうが重そうです」
「だが?」
「判例では、別個の高度な義務を課したものではないとされています!」
最高裁昭和四十五年六月二十四日大法廷判決。
忠実義務は、善管注意義務をより明確にしたものと理解されています。
「つまり、二つは同質の義務なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「会社のために、きちんと仕事をしろってことだ」
私は赤線を引きました。
――善管注意義務と忠実義務は同質の義務。
これ、試験に出たら間違えません。
「次は、競業取引です!」
私は、黒田工業の見積書を取り出しました。
黒田社長が別に営んでいた事業。
東海精機と同じ金属加工。
しかも、東海精機の取引先に、黒田工業への発注を勧めていた。
「これが競業取引ですね」
「ああ」
競業取引。
取締役が、自分や第三者のために、会社の事業と競合する取引を行うこと。
現代では会社法第三百五十六条第一項第一号。
取締役会設置会社では、同法第三百六十五条により取締役会の承認が必要になります。
「昭和の商法でも、競業取引に関する規制がありました」
商法第二百六十四条。
「でも先輩」
「何だ」
「取締役が別の会社を経営しているだけで、全部違法になるんですか?」
「そんな単純な話じゃねえ」
相馬先輩が言いました。
「会社の事業と競合する、どんな取引をしているかを見ろ」
私は頷きました。
単に別会社の株式を持っている。
それだけで、必ず禁止される競業取引になるわけではありません。
事業の種類。
取引の内容。
取締役が誰のために取引しているのか。
そうした事情が重要です。
「そして、必要な承認を得ずに競業取引をして、会社に損害を与えたら?」
所長が聞きました。
「取締役の損害賠償責任が問題になります!」
私は答えました。
現代の会社法では、競業取引により取締役や第三者が得た利益の額が、一定の場合に会社の損害額と推定されます。
「つまり、黒田社長が別会社で儲けた利益が、損害額を考えるうえで重要になるんですね」
「そうだ」
ただし。
承認がない競業取引だからといって、その取引自体が当然に無効になるわけではありません。
「ここも大事です!」
私は書きました。
――競業取引は、承認を欠いても取引自体が当然無効になるわけではなく、会社に対する損害賠償責任が問題となる。
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は拳を握りました。
やった。
競業取引、攻略です。
「そして!」
私は、例の土地売買契約書を取りました。
「利益相反取引です!」
黒田社長。
会社の土地を、自分個人に三百万円で買おうとした。
時価は約二千万円。
会社は安く売って損をする。
社長個人は安く買って得をする。
まさに。
会社と取締役の利益が衝突しています。
「これは、直接取引による利益相反の典型例ですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
現代では会社法第三百五十六条第一項第二号。
取締役が、自分や第三者のために会社と取引する場合などには、必要な承認が問題になります。
さらに第三号には、会社が取締役の債務を保証する場合など、会社と取締役の利益が相反する間接取引についての規定もあります。
「たとえば、会社が社長個人の借金を保証する場合も問題になるんですね」
「そうだ」
私は書きました。
直接取引。
会社が取締役本人に財産を売る。
間接取引。
会社が取締役個人の借金を保証する。
「それから、承認する機関も重要です!」
私は鉛筆を立てました。
現代の取締役会非設置会社。
原則として株主総会の承認。
取締役会設置会社。
取締役会の承認。
「昭和の株式会社では、取締役会が必要だったので、今回も取締役会の承認が問題になったんですね」
「そのとおり」
そして。
利益相反取引は、競業取引とは効果の考え方も違います。
必要な承認を欠いた場合、会社と取締役本人との取引では、会社がその効力を否定できる場面があります。
一方で、事情を知らない第三者との関係では、取引の安全を守る必要があります。
「つまり、競業取引と利益相反取引は、どちらも承認が必要だからといって、効果まで同じではないんですね」
「そうだ」
私は大きく丸をつけました。
競業取引。
損害賠償責任が中心。
利益相反取引。
取引の効力自体も問題になる。
そして、どちらも任務違反による責任が問題になり得る。
「……先輩」
「何だ」
「これ、すごく大事ですね」
「ああ」
「名前が似てるから、ごちゃごちゃになりそうでした」
相馬先輩が笑いました。
「事件を思い出せばいいだろ」
「はい!」
競業取引。
黒田社長が、別会社へ仕事を回した。
利益相反取引。
黒田社長が、会社の土地を自分に安く売ろうとした。
この二つ。
もう間違えません。
「さて、最後です!」
私は机の上に、三枚目の議事録を置きました。
――役員報酬改定議事録。
黒田社長。
月額五十万円から百五十万円。
三倍。
「……やっぱりすごいですね」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「自分の給料を、自分で三倍にしたかったんだろ」
「羨ましいというより、怖いです」
「だろうな」
取締役の報酬。
現代では会社法第三百六十一条。
原則として、定款または株主総会の決議によって定めます。
昭和の商法では第二百六十九条。
基本的な考え方は共通しています。
「なぜ、取締役会だけで自由に決められないんでしょう?」
私は問いかけました。
相馬先輩が言いました。
「自分で自分の給料を決めたら、どうなる?」
「……たくさん欲しくなります」
「そうだろ」
「私なら、毎月百万円くらい欲しいです!」
「お前にはまだ早い」
「ひどい!」
でも。
まさに、それが問題なのです。
取締役が、自分たちの報酬を好き勝手に決められたら。
会社の財産が、役員の報酬として流れ出してしまうかもしれません。
だから。
報酬を決める基本的な権限は、株主総会にある。
「ただし!」
私は言いました。
「ここも単純に、取締役会が報酬の話を一切できないというわけではないんですよね」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
たとえば。
株主総会が取締役全員の報酬総額の上限を決め、その範囲内で個々の取締役への配分を取締役会などに委ねることは認められます。
「でも、黒田社長の場合は違いました」
「ああ」
「株主総会で決めた上限を超えていたんです」
だから問題になった。
取締役会で決めたから大丈夫。
そんな理屈は通りません。
「つまり、報酬については、誰がどこまで決める権限を持っているかが重要なんですね」
「そういうことだ」
私はノートに書きました。
――取締役の報酬は、定款または株主総会決議が基本。取締役会が勝手に上限を超えて決めることはできない。
「よし!」
私は鉛筆を置きました。
「九つ、終わりました!」
相馬先輩が大きく伸びをしました。
「やっとか」
「長かったですね!」
「お前がしゃべりすぎなんだよ!」
「だって、取締役は重要なんです!」
私は笑いました。
でも。
ノートを見返すと、不思議なことに気づきました。
九つの論点。
一見、ばらばらです。
資格。
選任。
解任。
欠員。
員数。
任期。
権限。
義務。
報酬。
でも。
全部、同じ問題につながっています。
会社の経営を。
誰に。
どれだけ。
いつまで。
何のために任せるのか。
そして。
その人が権限を乱用したとき、どう責任を取らせるのか。
「……なるほど」
私は呟きました。
片桐所長が顔を上げました。
「何だ」
「取締役のルールって、全部つながってるんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「会社は人間が動かす」
「はい」
「人間には欲がある」
「……はい」
「だから、権限を与えるだけでは足りん」
私は息を呑みました。
「責任も必要なんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
その一言が、今日の勉強で一番大切な答えに思えました。
窓の外は、もう夕暮れでした。
私はノートの最後のページを開きました。
そこに。
今日の一行を書きます。
ゆっくり。
丁寧に。
――取締役は「株主総会で選ばれ、会社に忠実に働き、権限の乱用には責任を負う」経営の受任者である。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
黒田社長。
会社の土地を自分のものにしようとした。
自分の報酬を勝手に増やそうとした。
会社の仕事を別会社に回していた。
反対した長谷川さんを追い出そうとした。
でも。
商法は、そんな社長を許さなかった。
議事録の一行。
特別利害関係人の一票。
株主総会の決議。
取締役の忠実義務。
そうした仕組みが、一つずつ社長の独断を止めていったのです。
法律は。
社長を偉くするためだけにあるのではありません。
社長の権限を制限するためにもある。
会社の財産を守るためにもある。
真面目な取締役を守るためにもある。
そして。
その会社で働く人たちの生活を守ることにもつながっているのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「書類を棚に戻せ」
「はい」
「それから、床も掃け」
……。
またです。
また掃除です。
「先輩」
「何だ」
「私、今日これだけ勉強したんですよ」
「ああ」
「取締役の義務も覚えました」
「そうだな」
「だったら、私にも善管注意義務があります!」
相馬先輩が首をかしげました。
「何の話だ」
「事務所の仕事を、善良な管理者の注意をもって行う義務です!」
「……で?」
「だから、掃除よりも法律の勉強を優先すべきだと思います!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「なるほどな」
「はい!」
「じゃあ、所長に聞いてみろ」
私は奥を見ました。
「所長!」
「何だ」
「私は、法律の勉強を続けたいと思います!」
「そうか」
「なので、掃除は明日にしてもよろしいでしょうか!」
所長は帳簿から顔を上げずに答えました。
「駄目だ」
「……!」
「事務所の仕事には、掃除も含まれる」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「何ですか!」
「善管注意義務ってのは、自分の好きな仕事だけすればいいって意味じゃねえんだよ」
「ぐっ……」
確かに。
取締役が会社のために働くように。
私も事務所の一員として、任された仕事をしなければならない。
それは分かります。
分かりますけど。
「先輩!」
「何だ!」
「じゃあ、掃除の報酬を決めましょう!」
「は?」
「私は、掃除一回につき千円を希望します!」
相馬先輩が笑いました。
「勝手に報酬を決めるな!」
「でも、取締役の報酬は定款か株主総会決議ですよね!」
「お前は取締役じゃねえだろ!」
「あっ」
そうでした。
私は行政書士事務所の見習い。
株式会社の取締役ではありません。
取締役の報酬規定を持ち出しても、掃除代の請求根拠にはならないのです。
「……残念です」
「何がだ」
「法律を覚えたのに、掃除から逃げられませんでした」
相馬先輩が声を上げて笑いました。
「当たり前だ!」
私は、渋々箒を手に取りました。
窓の外。
昭和の町に、少しずつ明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
長谷川さんは、今日も会社のために働いているのでしょう。
工場の機械が動く音。
従業員たちの笑い声。
金属を削る匂い。
そんな日常を守るために。
取締役は、会社のために判断しなければならない。
自分の利益ではなく。
社長の機嫌でもなく。
会社という法人の利益のために。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――取締役は「株主総会で選ばれ、会社に忠実に働き、権限の乱用には責任を負う」経営の受任者である。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私には、勉強する自由があります!」
「あるな!」
「法律を学ぶ権利もあります!」
「あるだろうな!」
「だったら、掃除を拒否しても!」
「仕事しろ!」
……。
なるほど。
法律を覚えても。
自分の希望が、何でも通るわけではありません。
それは、取締役も同じ。
社長という肩書を持っていても。
会社の財産を自由にできるわけではない。
経営を任されていても。
法律や定款を無視してよいわけではない。
むしろ。
大きな権限を持つからこそ。
大きな責任を負うのです。
私は箒を握り直しました。
「分かりました! 掃除します!」
「よし!」
「でも先輩!」
「今度は何だ!」
「掃除が終わったら、確認問題を出します!」
「は?」
「取締役の選任・解任・欠員・競業取引・利益相反・報酬について、全問正解するまで帰れません!」
「何で俺まで試験を受けるんだよ!」
「勉強会です!」
「勝手に決めるな!」
私は笑いながら床を掃き始めました。
取締役。
ただの肩書ではない。
社長の家来でもない。
会社を任された人間。
そして。
会社に対して、責任を負う人間。
昭和の商法は、人数も多く、手続きも複雑でした。
現代の会社法では、会社の規模や仕組みに応じて、より柔軟な制度が整えられています。
けれど。
根本にある考え方は、変わりません。
会社と個人は別。
権限には責任が伴う。
そして。
どれだけ偉い社長でも、法律の上には立てない。
私は、今日の一行を胸の中で繰り返しました。
――取締役は、会社に忠実であるべき経営の受任者。
これなら、忘れません。
たとえ昭和の商法が、片仮名だらけで読みにくくても。
たとえ現代の会社法が、条文だらけで覚えるのが大変でも。
あの一票を思い出せばいい。
社長が、自分の利益のために投じた一票。
その一票を、法律が数えなかった。
それだけで、会社の土地が守られた。
だから。
取締役の制度を学ぶとき、私はもう単なる役職の暗記だとは思いません。
それは。
会社という組織を、人間の欲望から守るための仕組みなのです。
「こはる!」
「はい!」
「今度こそ掃除を終わらせろ!」
「はいっ!」
……ただし。
私の掃除当番を、相馬先輩の一存で免除する仕組みは、どうやら存在しないようでした。
残念ながら。
取締役の九つの鉄則を覚えたくらいでは。
箒を握る私の手から、掃除の仕事は消えてくれないのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




