[会社法・取締役]現場編 「社長が決めたから合法」の嘘。勝手な役員解任、消えた会社の土地、そしてワンマン社長を追い詰めた一枚の議事録
社長だからといって、会社のすべてが自分のものになるわけではありません。
会社の金。
会社の土地。
会社の仕事。
そして。
そこで働く人間の人生。
たとえ社長でも、勝手に奪ってよいものではないのです。
ところが。
「俺が社長だ。俺が決めれば、それが会社の決定だ!」
そう本気で信じている人間がいます。
しかも、困ったことに。
そんな人間ほど、立派な社長室に座っていたりするのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一人の取締役が会社から追い出される事件に遭遇しました。
取締役。
会社の経営を担う重要な役職です。
でも、会社の社長から、
「明日からお前は取締役じゃない」
と言われたら。
本当に、それだけで辞めさせられてしまうのでしょうか。
そして。
社長が自分の会社の土地を、自分個人に格安で売ってしまったら。
それは許されるのでしょうか。
今回の事件。
相手は、なかなかの強敵でした。
なぜなら。
自分が法律より偉いと思っている社長ほど。
六法全書を見せても、なかなか黙ってくれないからです。
「私、昨日まで取締役だったんです」
朝九時。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
「昨日まで?」
私は聞き返しました。
「はい。今日からは、ただの社員に戻れと言われまして」
男性の名前は、長谷川修一さん。
四十二歳。
地元の金属加工会社、東海精機株式会社の取締役です。
いや。
本人の言葉を借りれば、元取締役。
「会社の業績が悪かったんですか?」
「いいえ。むしろ、ここ数年で持ち直しています」
「では、何か不祥事を?」
「ありません」
「じゃあ、どうして……」
長谷川さんは、膝の上で拳を握りました。
「社長に逆らったからです」
……。
嫌な予感がしました。
相馬先輩が煙草を置きます。
「詳しく聞かせてください」
長谷川さんは、鞄から一枚の紙を取り出しました。
会社の便箋。
社長の署名。
代表取締役社長。
黒田剛三。
そして、その下には。
――長谷川修一を本日付で取締役から解任する。
たった一行。
「……これだけですか?」
私が聞くと、長谷川さんは頷きました。
「社長から直接渡されました」
「株主総会は?」
「開かれていません」
「取締役会は?」
「それもありません」
私は紙を見つめました。
解任通知。
しかも、社長の独断。
……あれ?
これ、かなり問題があるのでは?
「長谷川さん。取締役は、どうやって選ばれたんですか?」
「二年前の株主総会です」
「株主総会で選任されたんですよね?」
「はい」
「なのに、解任は社長が一人で?」
「そうなんです」
私は思わず立ち上がりました。
「おかしいです!」
長谷川さんが驚きます。
「え?」
「取締役は株主総会で選任するんです! 社長が気に入らないからって、一人で解任できません!」
よし。
会社法。
行政書士試験の知識です。
取締役の選任。
株主総会の決議。
取締役の解任。
こちらも株主総会。
しかも。
正当な理由なく任期途中で解任された場合には、損害賠償の問題も生じます。
「大丈夫です! 会社法三百二十九条と三百三十九条で――」
「こはる」
相馬先輩が低い声で呼びました。
「はい?」
「今、何法って言った?」
「会社法です」
「……会社法?」
あ。
しまった。
相馬先輩の目が細くなります。
「お前、また妙な法律を持ち出してるな」
「い、いえ、その……」
「会社のことなら商法だろ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ」
そうでした。
昭和六十三年。
まだ、独立した会社法はありません。
株式会社の基本的なルールは、商法第二編。
有限会社については、有限会社法。
現代のように、会社法という一つの法律にまとめられていないのです。
「こはる」
片桐所長が奥から言いました。
「六法を開け」
「はい!」
「商法第二編だ」
「はい!」
私は慌てて六法を開きました。
古い商法。
漢字が多い。
片仮名だらけ。
そして。
条文が、ものすごく読みにくい。
「……先輩」
「何だ」
「昭和の商法って、どうしてこんなに威圧感があるんですか?」
「法律に愛想を求めるな」
「でも!」
「読め」
「はい……」
私はページをめくりました。
商法第二百五十四条。
取締役の選任。
株主総会。
続いて。
商法第二百五十七条。
取締役の解任。
「……ありました!」
私は顔を上げました。
「所長! 取締役は株主総会で選任され、解任も株主総会の決議が必要です!」
「そうだ」
「社長一人の通知では、解任できません!」
相馬先輩が頷きました。
「しかもな」
「はい?」
「この時代の取締役解任決議は、今のお前が覚えている普通決議とは違う」
「……え?」
「特別決議だ」
私は固まりました。
現代の会社法では、取締役の解任は原則として株主総会の普通決議。
累積投票で選任された取締役など、例外的に特別決議が必要な場合があります。
でも。
昭和六十三年の商法では。
取締役の解任そのものに、原則として特別決議が必要だったのです。
「……そんな!」
「何がそんな、だ」
「解任するだけでも特別決議なんですか!」
「ああ」
「社長が一人で解任なんて、ますます無理じゃないですか!」
「そういうことだ」
私は長谷川さんを見ました。
長谷川さんは、初めて少しだけ表情を緩めました。
「では、私はまだ……」
「少なくとも、この通知だけで適法に解任されたとはいえません」
私は言いました。
けれど。
片桐所長は、まだ笑っていませんでした。
「長谷川さん」
「はい」
「社長に逆らった理由は何ですか」
長谷川さんの顔が、再び曇りました。
「……会社の土地です」
「土地?」
「工場の隣に、会社名義の土地があるんです」
私は相談票に書き込みました。
工場隣接地。
約二百坪。
会社所有。
「その土地を社長が売ろうとしていたんです」
「どこへ?」
「……社長自身に」
私は鉛筆を止めました。
「え?」
「黒田社長が、会社の土地を、自分個人の名義に移そうとしていました」
「価格は?」
相馬先輩が聞きます。
「三百万円です」
「時価は?」
「不動産業者の査定では、二千万円前後だと……」
……。
三百万円?
二千万円の土地を?
「それって!」
私は思わず声を上げました。
「会社の財産を、社長が自分に安く売ろうとしているんですか!」
「はい」
長谷川さんは俯きました。
「私が反対したんです。そうしたら……」
例の解任通知。
たった一行。
――長谷川修一を取締役から解任する。
なるほど。
私は、ようやく理解しました。
単なる人事争いではありません。
会社の土地を奪おうとする社長。
それに反対した取締役。
そして。
邪魔者を、勝手に解任しようとした。
「所長」
私は顔を上げました。
「これは、利益相反取引です!」
片桐所長が、静かに頷きました。
「そうだ」
利益相反。
会社と取締役の利益が衝突する取引。
会社は土地を安く売れば損をする。
一方、社長個人は格安で土地を手に入れられる。
まさに。
会社の利益と、社長個人の利益が、真っ向からぶつかっているのです。
「相馬」
所長が言いました。
「定款と議事録を確認しろ」
「はい」
「こはる」
「はい!」
「まだ結論を急ぐな」
「え?」
「その社長が、どういう手続きを踏んだのか。それを確かめてからだ」
私は頷きました。
社長が悪い。
そう叫ぶだけなら簡単です。
でも。
法律で追い詰めるなら。
何が違法で。
どの手続きが欠けていて。
誰に、どんな責任が生じるのか。
そこまで調べなければなりません。
翌日。
長谷川さんが持参した会社資料を、机いっぱいに広げました。
定款。
株主名簿。
過去の株主総会議事録。
取締役会議事録。
そして。
土地の売買契約書の写し。
まず、東海精機株式会社の会社構成です。
代表取締役社長。
黒田剛三。
取締役。
長谷川修一。
取締役。
黒田義男。
監査役。
黒田の親戚。
「……三人ですね」
私は言いました。
「取締役が三人」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「昭和の株式会社は、取締役が三人以上必要だ」
「現代なら、取締役一人の株式会社も作れるのに……」
「何?」
「あっ」
また余計なことを。
「その、もし一人で経営できる会社なら、こんな頭数合わせも必要ないのかなって」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「株式会社を一人で作れると思ってるのか?」
「ええと……」
「発起人は七人以上必要だ」
「……ですよね」
「取締役三人以上、監査役も必要だ」
「はい……」
これが昭和の壁。
現代なら、株式会社は発起人一人でも設立できます。
取締役も、取締役会を設置しない会社なら一人で足ります。
でも。
昭和六十三年には、まだそんな制度はありません。
株式会社を作ろうとすれば、何人もの人間を集めなければならない。
結果。
名前だけの取締役。
親戚の監査役。
実際には社長一人で何もかも決めている会社。
そんなものが、生まれやすかったのです。
「でも先輩」
「何だ」
「名前だけの取締役でも、法律上は取締役ですよね?」
「ああ」
「責任もあるんですよね?」
「当然だ」
私は、もう一度名簿を見ました。
黒田義男。
社長の弟。
もう一人の取締役。
つまり。
社長と弟で、三人の取締役のうち二人。
長谷川さんは一人だけ反対。
「……これ、取締役会では多数決で押し切られるんじゃないですか?」
「そういうこともある」
相馬先輩が言いました。
「だが、何でも多数決で決めていいわけじゃねえ」
「え?」
先輩は、一枚の議事録を指差しました。
「ここを見ろ」
私は覗き込みました。
――取締役会議事録。
議案。
工場隣接地売却の件。
出席取締役。
黒田剛三。
黒田義男。
長谷川修一。
決議内容。
――賛成二名、反対一名により可決。
……。
あれ?
「長谷川さん」
私は尋ねました。
「この会議、本当に開かれたんですか?」
「はい」
「社長と弟さんが賛成して、長谷川さんが反対したんですね」
「そうです」
「では……」
私は議事録を見つめました。
賛成二名。
反対一名。
普通に考えれば、二対一。
過半数です。
でも。
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「こはる」
「はい?」
「その二票、本当に二票として数えていいのか?」
……え?
「売買契約の買主は誰だ?」
「黒田社長です」
「その社長が、自分に会社の土地を売る議案に賛成してるんだろ?」
「はい」
「そいつの票はどうなる?」
私は固まりました。
そして。
頭の中で、何かがつながりました。
「……特別利害関係人!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
会社から自分個人へ土地を売る取引。
その買主である社長は、会社と利害が衝突します。
こうした特別の利害関係を持つ取締役は、その議案について取締役会の議決に加わることができません。
「じゃあ……!」
私は指を折りました。
三人の取締役。
黒田社長。
黒田義男。
長谷川修一。
そのうち黒田社長は、この議案では議決権を行使できない。
残る二人。
義男さんが賛成。
長谷川さんが反対。
一対一。
「……可決していない!」
私は叫びました。
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「社長の一票を抜いたら、過半数にならねえ」
私は議事録を見ました。
賛成二名。
反対一名。
たったそれだけの数字。
でも。
その二票のうち、一票は数えてはいけない票だったのです。
「すごい……」
私は呟きました。
「一票消えただけで、決議がひっくり返りました……」
相馬先輩が言いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
「はい」
「商法を守った奴が勝つんだよ」
……格好いい。
今の台詞。
ちょっと格好よすぎませんか。
でも。
片桐所長は、さらに別の紙を見ていました。
「相馬」
「はい」
「これもだ」
所長が指差したのは、別の取締役会議事録でした。
議題。
――代表取締役の役員報酬改定の件。
決議。
――黒田剛三の月額報酬を五十万円から百五十万円に増額する。
私は目を丸くしました。
「……三倍?」
月額五十万円。
それが百五十万円。
差額は、毎月百万円。
一年で千二百万円。
「これ、社長の報酬ですよね?」
「そうだ」
「誰が決めたんですか?」
「社長と弟さんです」
長谷川さんが答えました。
「私は反対しました」
「株主総会では?」
「決議していません」
私は思わず額を押さえました。
またです。
また社長。
今度は自分の給料。
「所長!」
「何だ」
「取締役の報酬は、定款か株主総会の決議で決めるんですよね!」
「そうだ」
「取締役会だけで、自分たちの好きな金額にできませんよね!」
「定款と総会の決議内容を確認しろ」
私は慌てて定款を開きました。
報酬額の直接の定めはありません。
そこで過去の株主総会議事録を確認すると。
取締役全員の報酬総額について、年額の上限が定められていました。
しかし。
社長の増額後の報酬を含めると、その上限を大きく超えてしまいます。
「……完全に上限超過です」
私は呟きました。
社長の土地取引。
自分への報酬増額。
そして、反対した取締役の解任。
だんだん見えてきました。
この社長。
会社を、自分の財布か何かだと思っているのでは?
「片桐先生」
長谷川さんが不安そうに尋ねました。
「私は、会社に戻れるんでしょうか」
所長は、少し考えてから答えました。
「まず、解任の効力について整理しましょう」
「はい」
「それと、会社の財産を守る問題は別です」
所長は二枚の議事録を並べました。
一枚は、土地売却。
もう一枚は、役員報酬。
「この二つには、共通点があります」
「何でしょう」
「会社のための決定であるべきものが、社長個人の利益のために使われていることです」
私は頷きました。
会社の利益。
社長個人の利益。
似ているようで。
まったく違うものなのです。
その日の午後。
事務所に一本の電話が入りました。
「片桐か!」
いきなり大声。
私は受話器を耳から離しました。
「はい、片桐行政書士事務所ですが……」
「長谷川がそっちに相談したそうだな!」
……来ました。
黒田社長。
本人です。
「俺は東海精機の社長だ!」
「はい」
「うちの人事に口を挟むな!」
私は固まりました。
どうして悪徳社長というのは、電話でも社長と名乗りたがるのでしょうか。
「所長に代わります」
片桐所長が受話器を取りました。
「片桐です」
『長谷川の解任通知を問題にしてるそうじゃねえか!』
「当事務所では、依頼者から提出された資料について確認しております」
『余計なことをするな!』
「何かご用件でしょうか」
『いいか! 俺が社長だ! 取締役なんぞ、俺が任命して俺が首にするんだ!』
所長は静かに言いました。
「取締役の選任は、株主総会の事項です」
『知るか!』
「解任についても、商法に定めがあります」
『俺が法律だ!』
……。
言いました。
本当に言いました。
私は思わず相馬先輩を見ました。
先輩は、呆れた顔で煙草を消しました。
受話器の向こうで、黒田社長が続けます。
『それにな! 会社の土地を誰に売ろうが、社長の自由だろうが!』
「会社所有の土地ですね」
『そうだ!』
「会社と取締役との取引については、商法上の規制があります」
『だったら取締役会で決めた! 二対一だ!』
所長は答えませんでした。
『文句あるか!』
「議事録は確認しました」
『なら分かるだろ!』
「承知しました」
『何だと?』
「ご主張は確認しました」
それだけ言って、所長は電話を切りました。
私は思わず立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「あんなこと言われて、いいんですか!」
「何がだ」
「俺が法律だ、ですよ!」
「そうだな」
「そうだな、じゃないですよ!」
相馬先輩が笑いました。
「こはる」
「はい!」
「相手が自分から証拠になる発言をしてくれたんだ。ありがたいと思え」
「え?」
「社長が自分への土地売却を主導した。取締役会で決まったと思っている。それが確認できただろ」
私は口を閉じました。
確かに。
黒田社長は、自分で認めています。
会社の土地を、自分に売ろうとしたこと。
その根拠が、取締役会の二対一の決議だということ。
そして。
その決議に、自分自身が加わっていたこと。
「……なるほど」
私は呟きました。
相手が怒鳴れば怒鳴るほど。
こちらは、事実を整理できる。
「所長」
「何だ」
「書類ですね」
「ああ」
「反撃の時間ですね!」
所長は、静かに頷きました。
「まず、事実を一つずつ固める」
こうして。
私たちは、黒田社長の独裁経営に対する、書面による反撃を始めたのです。
その前に。
私は、もう一つ気になることがありました。
「先輩」
「何だ」
「長谷川さんが辞任したら、どうなるんですか?」
「辞任?」
「はい。もう会社にいたくないから、自分から取締役を辞める、と言った場合です」
相馬先輩は、少し考えました。
「それは簡単じゃねえぞ」
「え?」
「今、取締役が何人いる?」
「三人です」
「長谷川さんが辞めたら?」
「二人」
「昭和の株式会社に必要な人数は?」
「……三人」
あ。
私は固まりました。
「足りなくなる!」
「そうだ」
昭和六十三年。
株式会社には、原則として取締役が三人以上必要です。
長谷川さんが辞任すると、法定の員数を欠いてしまいます。
「そういう場合、辞任したからといって、すぐに全部の責任から離れられるとは限らねえ」
相馬先輩は六法を開きました。
商法第二百五十八条。
取締役が欠けた場合の処置。
任期満了や辞任により退任した取締役について、必要な員数を欠くときは、後任者が就任するまで引き続き権利義務を有する。
私は目を丸くしました。
「……辞めたのに?」
「ああ」
「辞めたのに、まだ取締役として仕事をしないといけないことがあるんですか?」
「会社の機関を空っぽにするわけにはいかねえからな」
なるほど。
会社は、社長の都合だけで動くものではない。
従業員。
取引先。
債権者。
株主。
いろいろな人が関わっています。
必要な役員が足りなくなったから、会社の業務が全部止まる。
そんなことになれば、困る人がたくさんいるのです。
「でも先輩」
「何だ」
「解任された場合は、同じなんですか?」
「そこは違う」
相馬先輩が言いました。
「任期満了や辞任の場合と、解任の場合を一緒にするな」
私は頷きました。
解任によって退任した取締役に、同じ権利義務の継続を当然に認めるわけではありません。
だからこそ。
社長が勝手に解任した、という問題。
仮に適法に解任された後、取締役が足りなくなる問題。
この二つは、分けて考える必要があります。
「……先輩」
「何だ」
「取締役って、辞めるだけでも難しいんですね」
「名前を貸すだけの役職じゃねえからな」
その言葉が、妙に重く感じられました。
長谷川さんは、真面目に会社のことを考えていた。
だから社長に反対した。
でも。
名前だけの取締役だった義男さんは。
社長の言うことに、ただ賛成していた。
それで本当に、責任を免れるのでしょうか。
私は、もう一度議事録を見ました。
黒田義男。
取締役。
賛成。
赤い印鑑。
……。
嫌な予感がしました。
翌朝。
事務所に、一人の男性が訪れました。
「……兄貴のことで、相談があるんですが」
男性は、帽子を脱ぎました。
四十代後半。
どこか疲れた顔。
黒田義男さん。
黒田社長の弟です。
「私は、名前だけの取締役なんです」
義男さんは、開口一番そう言いました。
……。
出ました。
名前だけ。
昭和の株式会社で、何度も聞く言葉です。
「兄が会社を作るとき、人数が足りないから取締役になってくれと言われたんです」
「はい」
「私は工場のことなんて分かりません。普段は別の仕事をしています」
相馬先輩が聞きました。
「取締役会には出席していますか?」
「呼ばれたときだけです」
「議事録には署名押印されていますね」
「兄に言われたので……」
「土地の売却にも賛成されています」
「……はい」
義男さんは、うつむきました。
「でも、兄が大丈夫だって言ったんです」
「何をですか」
「会社の土地を安く売っても、社長なんだから問題ないって」
私は言いました。
「義男さん」
「はい」
「取締役は、社長の部下というだけではありません」
「え?」
「会社に対して、責任を負う立場なんです」
義男さんの顔が強張りました。
相馬先輩が続けます。
「取締役には、善管注意義務がある」
「ぜんかん……?」
「善良な管理者の注意義務だ」
先輩は机を指で叩きました。
「会社から経営を任されている以上、取締役として求められる注意を払わなきゃならねえ」
「……はい」
「それに、会社のために忠実に職務を行う義務もある」
「……」
「兄貴に頼まれたから、何も考えずに会社の財産を安売りしていい。そんな理屈は通らねえぞ」
義男さんの顔が青ざめました。
「で、でも私は!」
「名前だけだった?」
「はい!」
「その名前で議事録に署名してるだろ」
相馬先輩の声が低くなりました。
「名前を貸しただけで、責任まで消えると思うな」
……。
厳しい。
でも、正しい。
私は思いました。
株式会社。
株主は、原則として出資した範囲で責任を負う。
でも。
取締役は、株主とは違います。
会社の経営を任された人間です。
会社に損害を与える任務違反があれば、個人として損害賠償責任を負うことがある。
ただの飾りではないのです。
「義男さん」
片桐所長が静かに言いました。
「土地の売買契約は、もう実行されましたか」
「いいえ」
「代金は?」
「まだ払われていません」
「登記は?」
「まだです」
所長が頷きました。
「では、今の段階で確認すべきことがあります」
「何でしょう」
「あなた自身が、何を知り、何を承認したのかです」
義男さんは唇を噛みました。
そして。
「……兄が、土地を転売するつもりだと聞きました」
私は顔を上げました。
「転売?」
「会社から三百万円で買って、不動産会社に二千万円近くで売るつもりらしいんです」
……。
なるほど。
だから。
会社の土地を、自分に安く売ろうとした。
差額。
約千七百万円。
それを、社長個人が手に入れるつもりだったのです。
「……ひどい」
私は呟きました。
義男さんの声が震えました。
「私、そんなことまで知らなかったんです」
相馬先輩が言いました。
「だったら、今から事実をきちんと書き残せ」
「え?」
「議事録に何が書かれているか。実際にどんな説明を受けたか。自分が何を承知していたか」
所長が頷きました。
「事実と違う議事録を、後から勝手に書き換えてはいけません。しかし、当時の経緯を正確に記録することはできます」
義男さんは、長く息を吐きました。
「……分かりました」
そして、震える手で紙を取りました。
この人も。
兄の言いなりになってきたのかもしれません。
でも。
取締役という肩書を受けた以上。
自分の署名から、逃げ続けることはできないのです。
午後。
片桐所長は、書類を三つに分けました。
一つ目。
長谷川さんの取締役解任。
二つ目。
会社所有地の利益相反取引。
三つ目。
社長の役員報酬。
「こはる」
「はい!」
「まず、長谷川さんの件だ」
「はい」
私は原案を読み上げました。
――取締役の解任については、商法第二百五十七条に基づく株主総会決議を要する。
――本件では、株主総会の決議が存在しない。
――したがって、代表取締役による一方的な解任通知のみをもって、取締役の地位が失われたものとは認められない。
相馬先輩が頷きました。
「いいな」
「はい!」
「ただし、仮に正式な株主総会で解任される場合も考えておけ」
「はい」
「昭和の商法では、解任に特別決議が必要だ」
「そうでした!」
「それと、正当な理由なく任期満了前に解任された場合の損害賠償の問題もある」
私は頷きました。
社長が一方的に解任通知を出した。
それだけで終わる問題ではありません。
「次」
所長が言いました。
「土地だ」
私は資料を取りました。
――本件土地売買は、会社と取締役個人との取引である。
――商法第二百六十五条に基づく取締役会の承認が問題となる。
――本件取締役会において、買主である代表取締役黒田剛三は、当該議案につき特別の利害関係を有する。
――よって、同人は当該決議に参加することができない。
――同人の賛成票を除いた場合、承認決議が成立したとは認められない。
私は、そこで顔を上げました。
「……所長」
「何だ」
「これ、社長の一票が全部の原因ですね」
「そうだな」
「二対一で勝ったつもりが、実は一対一」
「うん」
「しかも自分に土地を売る取引」
「そうだ」
片桐所長は、議事録の写しを指差しました。
「この一行だ」
――賛成二名、反対一名。
「はい」
「ここに、数えてはならない一票が入っている」
私は息を呑みました。
定款。
議事録。
法律の条文。
全部を照らし合わせると。
普通なら見逃してしまう小さな一行が、決定的な意味を持つ。
「すごい……」
私は呟きました。
所長は言いました。
「書類を読むときは、書いてあることだけを見るな」
「え?」
「書いてはいけないことが、書かれていないかも見ろ」
……。
なるほど。
法律の書類。
怖すぎませんか。
「第三」
相馬先輩が言いました。
「報酬だ」
私は最後の資料を取りました。
――取締役の報酬については、商法第二百六十九条により、定款または株主総会の決議による定めが必要である。
――本件報酬増額は、既存の株主総会決議で定められた報酬総額の上限を超える。
――取締役会の決議のみをもって、当該上限を超える報酬を適法に決定することはできない。
「よし」
相馬先輩が言いました。
「これで三つだ」
「はい!」
社長による勝手な解任。
適法な承認を欠く土地売却。
株主総会の承認枠を超える報酬増額。
三つ。
全部、会社のルールを無視しています。
でも。
片桐所長は、もう一枚の紙を取り出しました。
「所長?」
「長谷川さんには、もう一つ確認することがある」
「何でしょう」
「社長が、同じ仕事をする別会社を持っていないか」
……え?
私は顔を上げました。
「別会社?」
所長が頷きます。
「競業取引だ」
取締役の義務。
善管注意義務。
忠実義務。
利益相反取引。
そして。
競業取引。
私は、思わず六法に手を伸ばしました。
取締役が、自分や第三者のために、会社と競合する取引をする場合には、商法上の承認が問題になります。
「でも所長」
「何だ」
「黒田社長は、別会社も?」
「まだ分からん」
所長は言いました。
「だから調べる」
さすが。
決めつけない。
事実を確認する。
そのうえで、法律を使う。
この事務所の戦い方です。
二日後。
長谷川さんから、追加の資料が届きました。
そして。
私は、思わず叫びました。
「所長! ありました!」
相馬先輩が顔を上げます。
「何が」
「黒田社長、別会社を持ってます!」
資料には、取引先から長谷川さんに届いた見積書の写し。
会社名。
黒田工業。
代表者。
黒田剛三。
「……社長本人じゃねえか」
相馬先輩が呟きました。
東海精機株式会社。
金属部品の加工。
黒田工業。
同じく金属部品の加工。
しかも。
東海精機に発注される予定だった仕事が、黒田工業に回されていたというのです。
「これ……!」
私は資料を読みました。
「会社の仕事まで自分の別会社に回してるんですか!」
長谷川さんの説明によれば、東海精機で長年付き合ってきた取引先に対し、黒田社長が別会社への発注を勧めていたとのこと。
しかも、その取引で利益を得ていたのは、黒田社長個人の事業。
東海精機には、売上減少の影響が出ていました。
「先輩!」
「何だ」
「競業取引ですよね!」
「ああ。内容を精査する必要はあるが、商法第二百六十四条の問題だ」
私は頷きました。
取締役が、会社と同じ種類の営業取引を自分のために行う。
それには、取締役会の承認が問題になります。
ところが。
黒田社長は、そんな承認を得ていませんでした。
「会社の土地」
私は指を折りました。
「会社の報酬」
「うん」
「会社の仕事」
「うん」
「全部、自分に持っていこうとしてる……」
相馬先輩が吐き捨てるように言いました。
「会社を経営してるんじゃねえ」
「……」
「会社を食い物にしてるんだ」
その一言が、胸に刺さりました。
取締役。
会社を守る立場。
会社のために働く立場。
なのに。
自分の利益のために、会社の財産や仕事を利用している。
そんな人間が。
真面目に反対した取締役を、追い出そうとしていたのです。
「所長」
私は言いました。
「もう、全部書きます」
「何をだ」
「内容証明です!」
片桐所長が頷きました。
「ただし、こはる」
「はい」
「怒りを書くな」
「……はい」
「事実を書け」
「はい!」
「法律を書け」
「はい!」
「相手が何を説明しなければならないか。それを明確にしろ」
私は、鉛筆を握り直しました。
さあ。
昭和の商法。
反撃開始です。
三時間後。
机の上には、内容証明郵便の原案が完成していました。
差出人。
長谷川修一。
宛先。
東海精機株式会社。
代表取締役。
黒田剛三。
私は、ゆっくり読み上げました。
「第一。本通知人は、貴社の株主総会において適法に選任された取締役であり、任期中である」
「うん」
「第二。貴殿から交付された解任通知については、商法第二百五十七条に基づく株主総会決議を欠いている」
「うん」
「第三。したがって、本通知人は、当該通知のみをもって取締役の地位を失ったものとは認めず、従前どおり取締役としての権利義務を有する旨を通知する」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。貴社所有の工場隣接地につき、貴殿個人を買主とする売買契約が予定されていることを確認した」
「うん」
「第五。本件取引については、商法第二百六十五条に基づく適法な承認が必要である」
「うん」
「第六。提出された取締役会議事録には、買主本人である貴殿が当該議案の決議に参加した旨が記載されている」
私は、一度息を吸いました。
「第七。貴殿は、本件議案につき特別の利害関係を有する取締役であり、その議決権を行使することができない。したがって、当該議事録の記載をもって適法な承認決議が成立したものとは認められない」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「そこだ」
私は続けました。
「第八。取締役報酬の増額についても、既存の株主総会決議による報酬総額の上限を超えることが確認される」
「うん」
「第九。さらに、貴殿が営む黒田工業と貴社との事業上の競合について、商法第二百六十四条に基づく承認の有無及び取引内容の確認が必要である」
私は原稿を置きました。
「以上より、本通知人は、取締役の地位に関する貴社の見解、土地売買に関する承認手続、報酬増額の根拠及び競業取引の内容について、書面による回答を求める」
最後の一文。
――本通知にかかわらず会社財産の不当な処分等が継続される場合には、弁護士への相談を含め、適切な法的措置を検討する。
読み終わりました。
静寂。
片桐所長が、ゆっくり頷きました。
「よし」
私は拳を握りました。
「やった!」
でも。
「まだだ」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「これを送るだけで、土地の処分を強制的に止められるわけじゃねえ」
「あ……」
「社長が無視すれば、裁判所の手続きが必要になることもある」
そうでした。
行政書士は、弁護士ではありません。
依頼人の代理人として訴訟をしたり、紛争の示談交渉を引き受けたりすることはできません。
内容証明の作成。
事実関係の整理。
適法な議事録の作成。
必要な書類の準備。
それが、私たちの仕事です。
「でもな」
相馬先輩が続けました。
「社長に、自分が何をやったのか理解させることはできる」
「はい」
「しかも、書面でな」
片桐所長が言いました。
「会社の損害については、株主代表訴訟などが問題となる可能性もある」
私は顔を上げました。
株主代表訴訟。
取締役が会社に損害を与えた場合、一定の要件の下で株主が会社のために責任を追及する制度。
これは現代だけの制度ではありません。
昭和の商法にも、取締役の責任を追及する仕組みが存在しています。
「所長」
「何だ」
「黒田社長、自分が会社の土地を安く買って儲けるつもりだったんですよね」
「ああ」
「でも、それで会社に損害を与えたら……」
「個人として責任を問われる可能性がある」
私は息を呑みました。
会社の財産を自分のものにするつもりが。
逆に。
自分個人の財産から、会社に損害賠償をしなければならなくなるかもしれない。
もちろん、実際に責任が認められるかは、事実と法律上の要件によります。
でも。
社長だから責任を免れる。
そんな理屈はありません。
「……怖いですね」
私が呟くと、片桐所長は言いました。
「怖いのは法律じゃない」
「え?」
「会社の財産と、自分の財産を混同することだ」
私は、しばらく黙っていました。
なるほど。
会社は法人。
社長とは別の存在。
会社の財産は、社長個人の財産ではない。
当たり前のこと。
でも。
その当たり前を忘れると。
社長室の椅子は、途端に危険なものになるのです。
内容証明郵便が発送されて、三日後。
東海精機株式会社から、返答が届きました。
封筒を開いた私は、思わず目を疑いました。
「……先輩」
「何だ」
「黒田社長、弁護士に相談したそうです」
「ほう」
書面には、こう記されていました。
――当職は、東海精機株式会社代表取締役黒田剛三より相談を受け、関係資料を確認した。
私は読み進めました。
取締役の解任について。
株主総会決議が存在しないため、解任の効力には重大な問題がある。
土地売却について。
特別利害関係を有する取締役が議決に参加しており、有効な承認決議が成立していない可能性が高い。
報酬について。
株主総会で定められた上限を超える増額は、現状の資料では正当化できない。
競業取引について。
承認の有無及び会社に生じた損害について、追加の確認を要する。
そして。
最後には。
――当面、本件土地売買の実行を見合わせ、関係資料を再調査する。
「……!」
私は顔を上げました。
「所長!」
「何だ」
「土地売却、止めるそうです!」
片桐所長が頷きました。
「そうか」
「長谷川さんの解任も、見直すそうです!」
「うん」
「役員報酬も、再確認するって!」
相馬先輩が笑いました。
「やっと自分の立場が分かったか」
私は思わず笑顔になりました。
でも。
話は、まだ終わっていませんでした。
その翌日。
黒田社長本人が、事務所へやって来たのです。
「……あんたが片桐先生か」
入口に立っていたのは、五十代後半の大柄な男性でした。
高そうな背広。
金色の腕時計。
いかにも社長。
黒田剛三。
ただし。
電話で怒鳴っていたときの勢いは、ありません。
「片桐です」
所長が答えました。
「……例の書面のことでな」
「はい」
「弁護士に見せたんだ」
黒田社長は、苦々しい顔をしました。
「そうしたら……」
少し沈黙。
「俺が、自分の会社の土地を買うのに、勝手に決めちゃいけねえって言われた」
私は黙って聞いていました。
「しかも、二対一で決めたはずが、俺の票は数えちゃいけねえって……」
黒田社長は、頭を掻きました。
「何でだよ。俺が社長なのに」
相馬先輩が口を開きました。
「会社と、社長個人は別だからですよ」
黒田社長が顔を上げます。
「……」
「会社の土地を社長個人が安く買えば、社長は得をする。会社は損をする可能性がある」
「……」
「だから、その取引に自分で賛成して決めることはできねえ」
黒田社長は、唇を噛みました。
「それに……」
「はい?」
「弁護士から、会社に損害を出したら、俺個人が賠償しなきゃならねえこともあるって……」
声が小さくなりました。
「株主から訴えられる可能性もあるって……」
私は、静かに頷きました。
株主代表訴訟。
取締役の責任。
会社の損害。
社長の個人財産。
今まで。
会社の金は自分の金だと思っていた人間が。
初めて。
会社の損失が、自分の責任として返ってくることを理解したのです。
「……なあ」
黒田社長が言いました。
「長谷川の解任は、撤回する」
私は息を呑みました。
「土地も、俺個人への売却はやめる」
黒田社長は続けました。
「役員報酬の増額も、取り消す方向で必要な手続きを取る」
そして。
苦しそうに言いました。
「黒田工業の取引も、全部調べ直す」
……。
私は、片桐所長を見ました。
所長は、静かに言いました。
「その内容を、会社として正式な書面に残してください」
黒田社長が頷きました。
「分かった」
「長谷川さんにも、ご自身の言葉で説明してください」
「……ああ」
黒田社長は帽子を取りました。
「俺は、会社を大きくしたんだ」
突然、そう言いました。
「最初は、小さな町工場だった。借金して、機械を買って、仕事を取って……」
私は黙って聞いていました。
「だから、会社は俺のものだと思ってた」
少しの沈黙。
「でも……違うんだな」
片桐所長が答えました。
「会社を育てた功績と、会社の財産を自由に処分できる権限は、別です」
黒田社長は、長く息を吐きました。
「……そうか」
そして。
深く頭を下げました。
「迷惑をかけた」
それが、黒田剛三という男が、初めて社長の肩書を抜きにして発した言葉でした。
一週間後。
東海精機株式会社では、必要な手続きを確認し直したうえで、土地売却計画の撤回、役員報酬の是正、競業取引の調査が進められました。
長谷川さんに対する一方的な解任通知も撤回され、取締役としての地位を前提に、職務への復帰が確認されました。
そして。
会社では、今後の重要な取引について、定款と商法に従って手続きを進めることが確認されました。
もちろん。
過去の問題が、すべて消えたわけではありません。
土地売却の経緯。
既に支払われた報酬。
競業取引によって会社に生じた損害。
それらについては、引き続き調査と適切な処理が必要です。
けれど。
少なくとも。
これ以上、会社の財産が社長個人の財布のように扱われることには、歯止めがかかりました。
その日の夕方。
長谷川さんが、事務所へ挨拶に来ました。
「ありがとうございました」
そう言って、深く頭を下げました。
「私は、もう会社を辞めようかと思っていたんです」
「……そうだったんですか」
私が言うと、長谷川さんは頷きました。
「社長には逆らえない。自分一人が反対しても何も変わらない。そう思っていました」
私は、あの取締役会議事録を思い出しました。
賛成二名。
反対一名。
たった一票。
でも。
その中に、数えてはいけない票があった。
「長谷川さん」
「はい」
「反対してよかったと思います」
長谷川さんは、少し驚いた顔をしました。
「……え?」
「だって、長谷川さんが反対したから、あの議事録が残ったんです」
そうです。
もし。
長谷川さんまで、社長の言うとおりに賛成していたら。
議事録には、別の数字が残っていたでしょう。
もちろん、特別利害関係のある社長が議決に参加できないことは変わりません。
でも。
長谷川さんの反対が、何が問題だったのかを明確にした。
会社の土地を守るために。
自分の立場が危うくなっても。
反対の意思を示した。
それが、今回の事件の出発点でした。
「……ありがとうございます」
長谷川さんは、小さく笑いました。
「実は、工場の若い連中からも言われたんです」
「何て?」
「長谷川さんが戻ってきてくれてよかった、って」
私は嬉しくなりました。
「よかったですね!」
「ええ」
長谷川さんは、少し目を潤ませました。
「会社って、社長だけのものじゃないんですね」
その言葉に。
私は、強く頷きました。
「はい」
会社には、株主がいます。
取締役がいます。
従業員がいます。
取引先がいます。
そして。
その会社が続くことを信じて働いている人たちがいます。
だから。
社長一人の欲望で、全部を壊してはいけないのです。
長谷川さんが帰ったあと。
私は、事務所の机に突っ伏しました。
「……疲れました」
相馬先輩が笑いました。
「何だ、もうへばったのか」
「だって、取締役って論点が多すぎませんか!」
「多いな」
「選任!」
「うん」
「解任!」
「うん」
「員数!」
「うん」
「任期!」
「うん」
「善管注意義務!」
「うん」
「忠実義務!」
「うん」
「競業取引!」
「うん」
「利益相反取引!」
「うん」
「報酬!」
「まだあるぞ」
「もう勘弁してください!」
相馬先輩が吹き出しました。
「行政書士試験の勉強みてえだな」
「……まさにそれです」
私は思わず呟きました。
「何?」
「いえ、何でもありません!」
危ない。
未来の受験生だとばれるところでした。
「でも先輩」
「何だ」
「今回、一番大事だったのって、何だったんでしょう」
相馬先輩は少し考えました。
「そうだな」
そして言いました。
「取締役は、会社のために働く人間だってことだろ」
私は顔を上げました。
「会社のため……」
「ああ」
「社長のためじゃなくて?」
「違う」
「自分のためでもなくて?」
「そうだ」
相馬先輩は、窓の外を見ました。
「会社から経営を任された人間なんだ。だから、会社に対して責任がある」
私は静かに頷きました。
取締役。
社長に褒められるための役職ではありません。
自分が儲けるためだけの役職でもありません。
会社の利益を考え、法律と定款を守り、経営に責任を持つ。
だからこそ。
善管注意義務がある。
忠実義務がある。
競業取引の規制がある。
利益相反取引の規制がある。
そして。
自分たちの報酬を、取締役だけで好き勝手に決められない仕組みがあるのです。
「……なるほど」
私は呟きました。
教科書では。
ただの暗記事項でした。
でも。
現場では違う。
その一つひとつが。
会社の財産を守り。
真面目な取締役を守り。
従業員の生活を守るための武器になる。
「所長」
私は顔を上げました。
「何だ」
「今日、ちょっとだけ分かった気がします」
「何がだ」
「会社って、社長より大きな存在なんですね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私は、窓の外を見ました。
昭和六十三年。
地方都市の小さな工場。
そこでは今日も。
油まみれの作業着を着た人たちが、機械を動かしています。
その人たちは、取締役会の決議なんて、普段は意識しないかもしれません。
利益相反取引なんて、聞いたこともないかもしれません。
でも。
もし社長が、会社の財産を勝手に持ち出したら。
会社が傾けば。
真っ先に困るのは、そこで働く人たちです。
だから。
商法は、社長にまでルールを課している。
たとえ社長でも。
いや。
社長だからこそ。
守らなければならないものがあるのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「もしお前が社長になったら、どうする?」
「え?」
私は少し考えました。
「そうですね……」
現代なら。
発起人一人。
取締役一人。
資本金一円。
株式会社を作るハードルは、昭和に比べてずっと低い。
取締役会を置かない会社なら、取締役一人で経営できる。
もちろん、会社法を守る必要はありますが。
「私なら、一人で会社を作ります!」
元気よく答えました。
相馬先輩が固まりました。
「……は?」
「一人で経営すれば、社長と他の取締役で揉めることもありません!」
「お前……」
「はい!」
「さっき何を勉強した?」
「取締役です!」
「昭和の株式会社には、取締役が何人必要だ?」
「三人以上です!」
「発起人は?」
「七人以上です!」
「じゃあ、お前一人で作れるか?」
「……」
私は固まりました。
「……作れません」
「そうだろ」
「でも、未来なら……」
「未来?」
「あっ!」
しまった!
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「お前、さっきから未来だの一人会社だの、何を言ってるんだ?」
「い、いえ! 将来の夢です!」
「夢?」
「はい! いつかもっと簡単に会社が作れる時代が来たらいいなって!」
相馬先輩は、呆れた顔で笑いました。
「そんな夢を見る暇があったら、まず今の商法を覚えろ」
「……はい」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「今日、社長の何が間違っていた」
私は少し考えました。
「会社の財産を、自分の財産だと思っていたことです」
「うん」
「取締役を、自分の部下だから自由に解任できると思っていたことです」
「そうだ」
「それから、自分の利益がかかっている取引なのに、自分で賛成票を投じたことです」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は、ノートを開きました。
今日の学習内容。
取締役。
会社の経営を任された人間。
そして。
社長の命令よりも、大切なもの。
商法。
定款。
株主総会。
取締役会。
会社の利益。
私は、最後に一行を書きました。
――取締役は「社長の家来」ではない。会社に忠実であるべき、経営の受任者である。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行。
きっと忘れないと思います。
会社の土地を、自分に三百万円で売ろうとした社長。
その社長に、反対した取締役。
社長の一票を数えたために、可決したように見えた議事録。
そして。
その一票を、商法が取り除いた。
たった一票。
でも。
その一票が、会社の財産を左右していたのです。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
女性の声でした。
『うちの会社の社長が、取締役を全員親戚に入れ替えると言い出して……』
私は止まりました。
『しかも、株主総会を開かずに、役員変更の書類だけ作ればいいって……』
……。
またです。
また社長です。
「先輩」
「何だ」
「次も取締役です」
「聞こえてる」
「しかも、今度は親戚で固めようとしてます!」
「だから聞こえてるって」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、取締役の選任に関する株主総会の有無と、定款の内容を確認させてください」
昭和六十三年。
商法第二編。
株式会社の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
社長だから。
親戚だから。
名前だけだから。
そんな理由で、会社のルールを無視してはいけない。
そして。
私は今日、ひとつだけ確信しました。
「俺が社長だ。俺が法律だ」
そう言う相手ほど。
取締役会議事録を一枚見せてもらえば。
案外、あっさり顔色が変わることがある。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、相談票を取れ!」
「はいっ!」
法律の勉強は、まだまだ続きそうです。
ただし。
次からは、社長という肩書を見る前に。
誰が。
どの機関で。
何を決める権限を持っていて。
誰の利益のために、その決定をしたのか。
そこを確かめることにします。
だって。
立派な社長室に座っているというだけで、会社の財産も、人事も、報酬も、すべて自由にできるほど。
商法は、社長に甘い法律ではないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




