[会社法・株主総会の普通決議・特別決議・特殊決議]法理編 こはるノート
多数決には、実は何種類もあります。
半分を超えれば勝ち。
三分の二以上なら勝ち。
株主の人数まで数えなければ勝てない。
そして。
四分の三以上という、さらに厳しい条件まで。
……もう、いい加減にしてください!
行政書士試験の受験生だった私は、何度そう叫びたくなったことでしょう。
でも。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は、その数字が人を守る場面を実際に見てしまいました。
浜名精密工業株式会社。
株式の六十五%を握る黒田社長。
株式の三十五%を持つ、藤井さんたち創業仲間。
黒田社長は言いました。
「株の過半数を持っているんだから、会社は俺の好きにできる」
けれど。
株式全部に譲渡制限を設けようとしたとき、その理屈は通用しませんでした。
なぜなら。
その決定には、普通の多数決とは違う、厳しい要件が必要だったからです。
私は机の上にノートを広げました。
表紙には、大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「株主総会って、数字の迷路ですよね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「普通決議、特別決議、特殊決議ですよ!」
「ああ」
「過半数、三分の二、四分の三!」
「そうだな」
「しかも、出席した人の議決権なのか、株主全員の議決権なのか、株主の人数なのか!」
私は鉛筆を握り締めました。
「全部違うじゃないですか!」
「違うから区別するんだろ」
「その区別が難しいんです!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「だったら、浜名精密工業の事件を思い出せ」
私は手を止めました。
六十五%の株式。
三人の黒田一族。
残り三十五%。
七人の創業仲間。
そして。
社長の思いどおりにはならなかった、株式譲渡制限の定款変更。
「……そうですね」
私はノートを開き直しました。
「今日は、普通決議・特別決議・特殊決議を完全に覚えます!」
「昨日も似たようなこと言ってなかったか」
「昨日は現場です。今日は復習です!」
「お前、勉強になると元気だな」
そのとき。
奥の机から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
「まず、普通決議です!」
私はノートに大きく書きました。
――普通決議。
株主総会で、通常の事項を決めるための決議。
「先輩。普通決議って、何を決めるときに使うんですか?」
「たとえば取締役の選任だな」
「はい!」
私は浜名精密工業の議案を思い出しました。
第一号議案。
取締役の改選。
あれが普通決議の代表例です。
普通決議は、会社法や定款に特別な定めがない場合の基本的な決議方法です。
「では、現代の会社法で考えます!」
「また未来の話か」
「試験勉強ですから!」
私は鉛筆を走らせました。
現代の会社法第三百九条第一項。
原則として、議決権を行使できる株主の議決権の過半数を有する株主が出席。
そして。
出席した株主の議決権の過半数で決議する。
「……長い!」
私は頭を抱えました。
「何で過半数が二回も出てくるんですか!」
相馬先輩が笑いました。
「別のことを数えてるからだろ」
「別のこと?」
「ああ」
先輩は紙に千株と書きました。
「議決権が全部で千個あるとする」
「はい」
「そのうち六百個分の議決権を持つ株主が出席した」
「はい」
「総会を開いて決議するための出席要件は満たしてるか?」
「満たしています!」
「じゃあ、賛成が三百個だったら?」
「……足りません!」
「三百一個なら?」
「出席議決権の過半数なので、可決です!」
私は手を叩きました。
「なるほど!」
最初の過半数は、総会に必要な出席議決権。
次の過半数は、出席議決権に対する賛成議決権。
「これ、分母が違うんですね!」
「そういうことだ」
私はノートに二つの丸を描きました。
一つ目。
――定足数。
二つ目。
――可決に必要な賛成数。
「定足数って、単に出席する株主の人数じゃないんですね」
「そうだ。普通決議では、原則として出席株主が持つ議決権の割合を見る」
たとえば。
一人で六百株を持つ株主が出席した場合。
その株式にそれぞれ一個の議決権があれば、六百個分です。
一方。
百人が出席していても、持っている議決権の合計が少なければ、必要な定足数に達しないことがあります。
「人数が多ければいい、というわけではないんですね」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
そして、次の注意点です。
「先輩。普通決議の定足数って、定款で引き下げたり、なくしたりできるんですよね」
「現代の一般的な普通決議の話なら、そういう仕組みだな」
「はい!」
ただし。
ここに例外があります。
役員の選任・解任決議。
会社法第三百四十一条。
「取締役や監査役などの選任・解任では、定足数を三分の一未満にできません!」
私は赤線を引きました。
「普通決議だから、どこまでも定足数を下げられるわけじゃないんですね」
相馬先輩が頷きました。
「会社の役員を決めるのに、あまりに少ない議決権だけで決められたら困るからな」
なるほど。
会社を動かしやすくすること。
少数の出席者だけで重要な人事を決めさせないこと。
その両方を考えているのです。
「よし!」
私は書きました。
普通決議。
原則、議決権の過半数が出席。
出席議決権の過半数で可決。
定足数は定款で緩和可能。
ただし、役員選任・解任には特則あり。
「これで普通決議は完璧です!」
「まだ一つしか終わってねえぞ」
「……先が長い!」
私は机に突っ伏しました。
「次は、特別決議です!」
私は新しいページを開きました。
――特別決議。
「普通決議より重要なことを決める場合ですね」
「ああ」
「たとえば、定款変更!」
浜名精密工業の第二号議案です。
会社の基本規則を変更する。
それは、単なる日常の意思決定とは違います。
「現代の会社法では、第三百九条第二項ですね」
私はノートに書きました。
原則。
議決権の過半数を有する株主が出席。
出席株主の議決権の三分の二以上で可決。
「普通決議との違いは、最後の数字です!」
「そうだな」
普通決議。
過半数。
特別決議。
三分の二以上。
「先輩。千個の議決権が全部出席した場合、六百五十個の賛成だとどうなります?」
「お前が答えろ」
「特別決議は否決です!」
「理由は?」
「三分の二に届かないからです!」
私は計算しました。
千の三分の二。
六百六十六・六六……。
したがって、最低六百六十七個の賛成が必要です。
「黒田社長の六百五十株では、十七株足りません!」
「全員が出席して、その三百五十株が反対した場合はな」
「……え?」
私は顔を上げました。
相馬先輩は、紙を指差しました。
「今お前が説明したのは、出席議決権の三分の二だろ」
「はい」
「だったら、出席する株主が変われば、計算も変わる」
……あ。
私は固まりました。
そうでした。
全部で千株ある。
黒田側が六百五十株持っている。
でも。
藤井さんたちが総会に出席しなければ。
出席議決権は、黒田側の六百五十株だけになることもある。
その場合、六百五十株がすべて賛成すれば。
出席議決権の百%が賛成です。
「……可決できる場合がありますね」
「そうだ」
私は額を押さえました。
「危ない!」
「何がだ」
「私、六十五%だから特別決議は絶対に無理だと思い込んでました!」
そこへ。
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい!」
「それは現代の話だけではない。前の事件の書面も、そこは正確に整理しておけ」
「……はい」
所長は古い六法を開きました。
昭和六十三年。
旧商法第三百四十三条。
当時の特別決議では、原則として発行済株式総数の過半数に当たる株式を持つ株主が出席し、出席株主の議決権の三分の二以上の賛成を必要としていました。
「つまり」
私は呟きました。
「旧商法でも、通常の特別決議について、発行済株式総数の三分の二の賛成が常に必要だったわけではない……」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「特別決議と、株式譲渡制限の新設に必要な決議を混同するな」
私はノートに大きく書きました。
――注意! 三分の二の分母を間違えない!
浜名精密工業の事件。
黒田社長は、確かに通常の特別決議を成立させられる可能性がありました。
しかし。
株式全部に譲渡制限を新設する第三号議案は、別です。
あの議案には、より厳しい要件があった。
だから、黒田側の三人、六百五十株だけでは足りなかったのです。
「なるほど……」
私は深く息を吐きました。
「法律って、一つ数字を覚えただけで分かった気になると危険ですね」
所長が頷きました。
「決議の種類を確認し、出席状況を確認し、賛成数を確認する」
「はい」
「順番を飛ばすな」
私は背筋を伸ばしました。
これこそ。
現場で必要な考え方です。
「では、特別決議が必要な事項を整理します!」
私はページの中央に大きな丸を描きました。
現代の会社法では、代表的なものとして。
定款変更。
会社の合併などの組織再編。
重要な事業譲渡。
一定の募集株式の発行。
資本金の減少。
株式の併合。
これらが挙げられます。
「先輩」
「何だ」
「どうして、こういうものは普通決議では足りないんでしょう?」
相馬先輩は少し考えました。
「会社の根本に関わるからだろ」
「はい」
「たとえば、会社の事業を丸ごと売る」
「はい」
「それを、その場に来た株主のわずかな過半数だけで簡単に決めていいか?」
「……困りますね」
「だろ」
私は頷きました。
会社の定款を変える。
資本金を減らす。
重要な事業を譲渡する。
どれも会社の財産や株主の利益に大きな影響を与える可能性があります。
だから。
より多くの賛成を要求する。
「特別決議って、会社が暴走しないためのブレーキなんですね」
「そういう面はあるな」
私は、浜名精密工業の工場を思い出しました。
藤井さん。
三十人の従業員。
旋盤の音。
金属の匂い。
会社が重要な決定をするとき。
その影響は、会議室の中だけでは終わりません。
工場で働く人。
取引先。
会社を支えてきた株主。
たくさんの人に広がります。
「だから、重要な決定ほど慎重にするんですね」
私は呟きました。
片桐所長が頷きました。
「ただし、特別決議が必要な事項でも、法律上の例外がある」
「はい」
「資本金の減少なども、すべての場面で一律に特別決議と決めつけるな」
「分かりました!」
私はノートに小さく書き足しました。
――原則と例外を確認する。
これは試験でも実務でも、とても大事です。
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「本命が残ってるな」
「特殊決議ですね!」
「ああ」
私は鉛筆を持ち直しました。
――特殊決議。
その下に。
大きく数字を書きました。
三分の二。
四分の三。
「……また数字が増えた!」
「増えたんじゃねえ。決議の種類が違うんだ」
「それが難しいんです!」
私は頬を膨らませました。
でも。
今回は、浜名精密工業の事件があります。
あの事件で黒田社長が失敗した原因。
株式の数だけでなく、株主の人数まで条件に入っていたこと。
それを思い出せばいいのです。
「まず、特殊決議の一つ目です!」
現代の会社法第三百九条第三項。
原則として。
議決権を行使できる株主の半数以上が賛成。
そして。
その賛成株主が持つ議決権が、議決権を行使できる株主の議決権の三分の二以上。
「両方必要です!」
私は大きく丸をつけました。
人数。
議決権。
どちらかだけでは足りません。
「浜名精密工業なら?」
相馬先輩が聞きました。
「株主が十人です!」
「うん」
「議決権を行使できる株主も全員だとすると、必要な賛成株主は最低五人!」
「うん」
「議決権は千個なので、最低六百六十七個!」
「そうだ」
私は鉛筆で数字を囲みました。
ここで黒田社長。
三人。
六百五十個。
「人数も議決権も足りません!」
相馬先輩が頷きました。
「それが特殊決議の特徴だ」
「はい!」
私は嬉しくなりました。
この決議では。
いくら一人の株主が大量の株式を持っていても。
必要な株主の人数まで満たさなければ成立しません。
「つまり、大株主の意思だけでは通せない場合があるんですね」
「そうだ」
そこで私は、ある疑問に気づきました。
「先輩」
「何だ」
「昭和六十三年の浜名精密工業では、最低六人必要でしたよね」
「ああ」
「でも、現代の会社法だと、十人の半数だから五人ですよね」
相馬先輩は、古い六法を見ました。
「……そうだな」
「ここ、違うんです!」
私は勢いよく立ち上がりました。
昭和六十三年の旧商法第三百四十八条。
株式譲渡制限の新設に関する定款変更では、総株主の過半数という人数要件がありました。
十人なら。
六人以上です。
一方。
現代の会社法第三百九条第三項では、議決権を行使できる株主の半数以上。
十人全員が議決権を行使できるなら。
五人以上です。
「たった一人の違いなのに、結論が変わることもあるんですね!」
「そうだ」
私はノートに赤線を引きました。
昭和六十三年。
総株主の過半数。
現代。
議決権を行使できる株主の半数以上。
「しかも、昔と今では、数える株主の範囲にも違いがあるんですね」
片桐所長が頷きました。
「同じような制度でも、改正後の要件をそのまま昔に当てはめてはいかん」
「はい!」
私は思いました。
これが、転生者の恐ろしいところです。
現代の条文を完璧に覚えている。
でも。
昭和の制度に持ち込むと、間違えることがある。
法律の世界では。
未来の正解が、過去の正解とは限らないのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「この特殊決議、どんな場合に使う?」
「はい!」
私はノートに書きました。
代表例。
――すべての株式に譲渡制限を設ける定款変更。
浜名精密工業の事件そのものです。
株主は、原則として自分の株式を譲渡できます。
ところが、会社が後から、
――今後、株式を譲るには会社の承認が必要。
というルールを新設したらどうなるでしょうか。
「藤井さんたちが困ります!」
私は答えました。
「どうしてだ?」
「自分たちの株を、息子さんや第三者へ自由に譲りにくくなるからです!」
「そうだな」
会社の承認が必要になれば、株主は希望した相手に当然に株式を移せるわけではありません。
株式という財産の処分に、大きな制約がかかります。
だから。
普通の定款変更より慎重な意思決定が求められる。
「ほかには?」
私は続けました。
現代の会社法では、一定の合併や株式交換、株式移転で、従来の株主が譲渡制限株式などを対価として受け取る場合にも、この類型の特殊決議が問題になります。
「今まで自由に譲渡できる株を持っていたのに、組織再編によって譲渡が制限される株を持つことになる場合ですね」
「そういうことだ」
「それなら、慎重な手続が必要なのも分かります!」
私は頷きました。
法律の数字には、理由がある。
ただ覚えるだけより。
誰のどんな利益を守るためなのか考えた方が、ずっと頭に残ります。
「では、特殊決議の二つ目です!」
私はページをめくりました。
今度は、四分の三。
現代の会社法第三百九条第四項です。
「先輩。これは、さっきより厳しいんですよ」
「どう違うんだ?」
「議決権の四分の三以上が必要なんです!」
私は書きました。
総株主の半数以上。
そして。
総株主の議決権の四分の三以上。
「何を決めるときに必要なんだ?」
「非公開会社で、株主ごとに異なる権利内容を定める場合です!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「株主ごとに違う権利?」
「はい!」
私は説明しました。
たとえば。
ある非公開会社で、特定の株主について、ほかの株主とは異なる配当の取扱いを定める。
あるいは。
残余財産の分配について違いを設ける。
議決権について、株主ごとに異なる扱いを定める。
現代の会社法第百九条第二項は、非公開会社について、一定の事項に限り、株主ごとに異なる取扱いを定款で定めることを認めています。
「でも、それって……」
相馬先輩が言いました。
「特定の株主だけ有利にできるってことか?」
「そういう定めを設けられる場合があります」
「だったら、大株主が好き勝手に決めたら危ねえな」
「そうなんです!」
私は頷きました。
普通、株主は株主としての資格に基づき、法律に従って平等に扱われます。
ところが。
株主ごとに異なる取扱いを定款で設けるとなれば、会社内部の権利関係が大きく変わります。
だから。
とても厳しい特殊決議が必要になるのです。
「具体例を考えてみろ」
片桐所長が言いました。
「はい!」
私はノートに架空の会社を書きました。
株主。
十人。
議決権。
千個。
社長側の株式。
七百四十株。
「この場合、社長側が何人いるかにもよりますが、たとえ人数要件を満たしても、議決権が七百四十個では足りません!」
「必要なのは?」
「七百五十個以上!」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
四分の三。
七十五%。
過半数でもない。
三分の二でもない。
さらに厳しい数字です。
「これ、試験で三分の二と取り違えそうです!」
相馬先輩が笑いました。
「だったら覚え方を変えろ」
「どうするんですか?」
「何を決めようとしてるか、考えるんだ」
なるほど。
株主全員の株式に譲渡制限をつける。
特殊決議の一つ目。
非公開会社で、株主ごとの権利内容を変える。
特殊決議の二つ目。
決議の内容が違う。
だから数字も違う。
「つまり!」
私は鉛筆を掲げました。
「特殊決議には、三分の二型と四分の三型があるんですね!」
「そうだ」
「ただし、現代会社法の話です!」
「おお。やっと分かってきたな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
またそれですか。
でも。
私はちょっと嬉しくなりました。
「ここで、もう一つ確認です!」
私はノートをめくりました。
「普通決議と特別決議は、定足数が出てきましたよね」
「ああ」
「でも、特殊決議ではどう考えるんですか?」
相馬先輩が答えました。
「条文の条件をそのまま読め」
「はい!」
特殊決議では、必要な賛成株主の人数と、その議決権数の両方が決められています。
つまり。
普通決議や特別決議のように、単純に出席議決権の何割という計算をするのではありません。
「ここが大事なんです!」
私は紙に二つの数字を書きました。
議決権千個。
出席議決権六百個。
「現代の普通決議なら、原則として出席要件を満たして、三百一個の賛成で可決できます」
「そうだな」
「特別決議なら、出席六百個のうち四百個以上の賛成が必要です」
「うん」
「でも、株式全部の譲渡制限を設ける特殊決議なら、議決権六百個の賛成では足りません!」
「そうだ」
総議決権千個のうち、必要なのは三分の二以上。
六百六十七個以上。
出席者の中で全員が賛成しても、条件を満たさない。
「だから、出席者の三分の二と、総議決権の三分の二を混同してはいけないんですね」
片桐所長が頷きました。
「分母を見ろ」
「はい」
「そして、誰の賛成を数えているかを見ろ」
「はい!」
私はノートに大きく書きました。
――数字より先に、分母を確認!
これです。
行政書士試験で間違えやすいところ。
ただの過半数。
三分の二以上。
四分の三以上。
それだけを覚えていても足りない。
総株主なのか。
議決権を行使できる株主なのか。
出席株主なのか。
何を基準に計算するのか。
そこまで含めて、一つの決議要件なのです。
「ところで、先輩」
「何だ」
「昭和六十三年には会社法がないんですよね」
「当たり前だろ」
「でも、今の試験では会社法を勉強します」
「そうだな」
「どうして、わざわざ商法から独立したんでしょう?」
相馬先輩は首をかしげました。
「お前、また先の時代の話をしてるな」
「あ、いえ、その……」
私は慌てました。
未来のことを知っている。
なんて、言えるはずがありません。
でも。
受験生だった私には、その変化がよく分かります。
昭和六十三年。
会社の規定は商法第二編。
有限会社については有限会社法。
ほかにも、会社に関係する規定は複数の法律に分かれていました。
一方。
現代では。
平成十七年に会社法が制定され、平成十八年五月に施行されました。
会社に関する制度が大きく整理され、現代的な会社形態や運営方法に対応する体系になったのです。
「先輩、株式会社の発起人って、この時代は何人必要でしたっけ?」
「七人以上だ」
「ですよね!」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
発起人七人以上。
取締役三人以上。
監査役一人以上。
当時は、会社を作るだけでも多くの人が必要でした。
そのため。
実際に事業を始めたい人が、親戚や知人に名義を借りる。
そんな問題も起こりやすかったのです。
「でも、現代なら……」
私は小さく呟きました。
一人の発起人。
一人の取締役。
資本金一円。
法律上は、それでも株式会社を設立できます。
合同会社という選択肢もあります。
「……何をぶつぶつ言ってるんだ?」
相馬先輩が聞きました。
「いえ、何でもありません!」
私は笑ってごまかしました。
でも。
この変化には意味があります。
事業を始める人に、必要以上の人数や資金を要求しない。
会社の規模や実情に合わせた運営を認める。
制度を分かりやすく整理する。
そうした方向へ、会社の法律は変わっていきました。
ただし。
「所長」
「何だ」
「会社を作りやすくなったからって、株主総会の決議要件まで全部なくなるわけではないんですよね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「会社を作ることと、会社の根本を変えることは別だ」
「はい」
「少数株主の利益を守る必要もある」
私は、その言葉に赤線を引きました。
会社法が独立した。
会社設立が簡素化された。
でも。
会社の重大な決定には、なお慎重な手続が必要です。
便利になったからといって。
大株主が何でも自由にできる法律になったわけではありません。
窓の外が、薄暗くなってきました。
私はノートを閉じかけました。
そのとき。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい?」
「もう一つ、忘れるな」
「何でしょう」
「定足数と決議要件を満たしたとしても、それだけで総会のすべてが適法になるわけではない」
私は顔を上げました。
「……招集手続ですか?」
「そうだ」
株主総会は、必要な手続に従って招集されなければなりません。
決議事項によっては、事前の通知や説明も重要です。
そして。
実際に行われた採決結果が、議事録に正確に記載されている必要があります。
「浜名精密工業でも、総会前に可決済みの議事録案がありましたよね」
「ああ」
「それを実際の採決結果と違うまま確定させたら、大問題です」
「そうだ」
所長は頷きました。
「議事録は、会社が決めたことを記録する書類だ」
「はい」
「社長が決めたことに見せかけるための書類じゃない」
私は静かに頷きました。
なるほど。
行政書士が扱う書類には、意味があります。
定款。
議事録。
通知書。
内容証明郵便。
どれも、ただ文字を書けばいいわけではありません。
法律上の要件。
実際の事実。
会社の意思決定。
それらを正確に反映する必要があります。
「先輩」
「何だ」
「もし黒田社長が、存在しない株主総会決議をでっち上げて登記しようとしたら?」
「そりゃ、問題になる」
「ですよね」
もっとも。
行政書士が、会社の登記申請代理や株主総会決議の効力を争う訴訟を担当できるわけではありません。
登記の専門家は司法書士。
訴訟や紛争の法律代理は弁護士。
それぞれ役割があります。
「俺たちは、できる仕事を正確にやる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「定款や議事録の作成を扱うなら、法律と事実を確認する」
「はい」
「依頼人の意思に基づく通知書を作るなら、書くべきことを明確にする」
「はい」
「紛争が深まって、代理交渉や訴訟が必要なら、弁護士につなぐ」
「はい!」
私は頷きました。
それが、行政書士の立ち位置です。
何でもできるわけではありません。
でも。
書類を正確に作ることで、守れるものがある。
今回の事件が、その証拠でした。
「さて、こはる」
相馬先輩が腕を組みました。
「最後に確認問題だ」
「来ましたね!」
「準備はいいか?」
「完璧です!」
先輩は、にやりと笑いました。
「じゃあ、第一問」
「はい!」
「現代の会社法で、普通決議の原則的な定足数は?」
「議決権を行使できる株主の議決権の過半数です!」
「可決要件は?」
「出席した株主の議決権の過半数です!」
「よし」
先輩が頷きました。
「第二問。特別決議は?」
「原則として議決権の過半数が出席し、出席議決権の三分の二以上で可決です!」
「よし」
「第三問。株式全部に譲渡制限を設ける特殊決議は?」
「議決権を行使できる株主の半数以上、かつ、その株主の議決権の三分の二以上です!」
「よし」
「第四問。非公開会社で株主ごとに異なる権利内容を新たに定める特殊決議は?」
「総株主の半数以上、かつ、総株主の議決権の四分の三以上です!」
私は拳を握りました。
「完璧!」
「まだだ」
「ええっ!」
相馬先輩が笑いました。
「第五問」
「はい!」
「昭和六十三年の商法で、株式会社の株式譲渡制限を新設する場合は?」
「総株主の過半数と、発行済株式総数の三分の二以上に当たる賛成が必要です!」
「よし」
「第六問。黒田社長は六十五%の株式を持っている。これだけで、すべての定款変更を阻止されたと言えるか?」
私は一瞬、止まりました。
さっきの話です。
出席議決権。
定足数。
決議の種類。
「……言えません!」
「理由は?」
「通常の特別決議なら、ほかの株主の出席状況などによって成立する場合があるからです!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は胸を張りました。
「今度こそ完璧ですね!」
「じゃあ最後だ」
「まだあるんですか!」
「浜名精密工業の第三号議案は、どうして黒田側だけでは通せなかった?」
私は即答しました。
「昭和六十三年の旧商法では、株式譲渡制限の新設に、総株主の過半数と発行済株式総数の三分の二以上が必要だったからです!」
「黒田側は?」
「三人、六百五十株!」
「必要なのは?」
「十人中六人以上、千株中六百六十七株以上!」
「だから?」
「どちらも足りません!」
相馬先輩は笑いました。
「正解だ」
私は思わず両手を上げました。
「やった!」
普通決議。
特別決議。
特殊決議。
全部つながりました。
単なる数字の暗記ではありません。
浜名精密工業。
藤井さんたち七人。
黒田社長の六十五%。
あの事件が、全部の数字を教えてくれたのです。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何が一番大事だった?」
私は少し考えました。
過半数。
三分の二。
四分の三。
人数。
議決権。
定足数。
もちろん、どれも大事です。
でも。
一番大切なのは。
「……何を決めるのかによって、必要な賛成が違うことです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「普通の事項なら、普通決議」
「うん」
「重要な事項なら、特別決議」
「うん」
「さらに株主の権利に重大な影響を与える一定の事項なら、特殊決議」
私は続けました。
「そして、分母を間違えないこと」
「そのとおりだ」
私は少し笑いました。
「六十五%持っているから全部勝てるって、黒田社長は思っていました」
「ああ」
「でも、違った」
「そうだ」
「法律は、どれだけ大きな力を持っている人でも、決められた手続を守らなければならないんですね」
所長が静かに頷きました。
「会社は、社長の私物ではない」
私は、その言葉をノートの端に書きました。
そうです。
株式会社は、一人の人間ではありません。
独立した法人です。
株主には株主の権利がある。
取締役には取締役の役割と責任がある。
そして。
株主総会には、株主総会の決議要件がある。
その仕組みを無視すれば。
たとえ社長であっても。
法律上、思いどおりにはならないことがあるのです。
私はノートの最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――普通は「出席議決権の過半数」、特別は「出席議決権の三分の二」、特殊は「人数も必要」。四分の三型も忘れない!
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「ええっ!」
「一行なのに情報を詰め込みすぎだ」
「大事なところなんです!」
「まあ、覚えられるならいいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
六十五%という、大きな数字。
それでも届かなかった決議。
三人しかいなかった黒田側。
そして。
七人の創業仲間が、会社の未来について声を上げたこと。
あの事件を思い出せばいい。
法律は。
多数決を否定しているわけではありません。
多数決を使いながら。
その内容に応じて、必要な賛成を変えているのです。
だから。
たくさん株を持っているからといって。
何でも思いどおりにできるわけではありません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「勉強会、終わったか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も棚に戻せ」
「はい」
「それから、掃除だ」
……。
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「ちょっと待ってください」
「何をだ」
「この事務所の掃除当番について、決議をしませんか?」
「……は?」
私は立ち上がりました。
「普通決議です!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「何でだよ」
「だって、毎日の事務所運営に関することですから!」
「会社じゃねえだろ、ここは」
「細かいことはいいんです!」
「よくねえよ」
私は指を折りました。
「所長、一人!」
「うん」
「相馬先輩、一人!」
「ああ」
「私、一人!」
全部で三人。
「では、掃除当番を交代制にする案に賛成の方!」
私は勢いよく手を上げました。
一人。
相馬先輩は腕を組んだまま。
所長は帳簿を整理しています。
「……所長?」
「何だ」
「賛成してくれませんか?」
「しない」
「ええっ!」
相馬先輩が吹き出しました。
「一対二だな」
「ちょっと待ってください!」
私は慌てました。
「でも、これって普通決議ですよね!」
「だから何だ」
「過半数が必要だから……」
「負けだな」
「……!」
私は固まりました。
まさか。
ここまで勉強した普通決議に。
自分が負けるとは。
「先輩!」
「何だ」
「特殊決議に変更しましょう!」
「勝手に変えるな!」
「株主の人数も数えます!」
「俺たちは株主じゃねえ!」
「じゃあ、所長!」
私は奥の机を見ました。
「掃除当番について、定款変更を――」
「定款はない」
片桐所長が即答しました。
「……!」
相馬先輩が腹を抱えて笑いました。
「ほらな!」
「何ですか!」
「お前、今日勉強したことを全部間違った場所で使ってるぞ!」
私は口を尖らせました。
「だって、法律って便利じゃないですか!」
「便利だからって何でも当てはめるな!」
……。
確かに。
法律には、適用される場面があります。
株式会社の株主総会と。
行政書士事務所の掃除当番。
それを同じにしてはいけません。
……残念。
「分かりましたよ!」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
相馬先輩が笑いました。
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「今度は何だ!」
「明日の掃除当番は、先輩を推薦します!」
「推薦だけじゃ決まらねえぞ!」
「じゃあ普通決議で!」
「だから株主総会じゃねえって!」
私は笑いながら床を掃き始めました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れの明かりが灯っていきます。
浜名精密工業の工場では。
今日も旋盤が回っているのでしょう。
大きな歯車。
小さな歯車。
それぞれが役割を果たしながら。
一つの機械を動かしている。
会社も、きっと同じです。
株主。
取締役。
従業員。
みんな立場は違う。
持っている権限も違う。
でも。
誰か一人が、すべてを自由に決められるわけではありません。
法律が定めた手続を守り。
必要な賛成を集め。
初めて、会社としての意思が決まる。
それが。
株主総会なのです。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――普通は「出席議決権の過半数」、特別は「出席議決権の三分の二」、特殊は「人数も必要」。四分の三型も忘れない!
よし。
今度こそ完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、決議要件を復習してたんです!」
「復習は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私の掃除免除議案は、継続審議を要求します!」
「却下だ!」
「じゃあ、特別決議で!」
「何の特別決議だ!」
「特殊決議でも構いません!」
「どっちにしても掃除しろ!」
……なるほど。
普通決議。
特別決議。
特殊決議。
どれだけ覚えても。
掃除当番を免れる法律上の権利が生まれるわけではないようです。
残念ながら。
今日の私に必要だったのは。
三分の二の賛成ではなく。
箒を動かす、二本の腕なのでした。
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