[会社法・株主総会の普通決議・特別決議・特殊決議]現場編 「過半数を握れば会社は俺のもの」の嘘。六十五%の株を持つ独裁社長が、たった五人の反対株主に敗れた日
多数決で勝てるからといって、何でも決められるわけではありません。
たとえば。
会社の株式を六十五%持っている社長がいたら。
その社長は、会社の決定を自由にできるのでしょうか。
普通の決議なら、勝てるかもしれません。
でも。
会社の根本を変えるような重大な決定まで、同じ多数決で押し切れるとは限りません。
まして。
たった一人の社長が、何人もの株主の人生を勝手に決めようとしたら。
法律は、もう一つの数字を要求することがあります。
株式の数だけではありません。
株主の人数です。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、三つの決議を巡って頭を抱えることになります。
普通決議。
特別決議。
特殊決議。
どれも多数決です。
でも。
必要な数字が、少しずつ違う。
そして、その違いを知らなければ。
会社を育てた人たちが、ある日突然、自分たちの会社から締め出されてしまうのです。
「会社を、乗っ取られそうなんです」
朝一番。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
「……乗っ取り、ですか?」
私は思わず聞き返しました。
男性の名前は、藤井正一さん。
五十八歳。
町工場を営んできた職人です。
作業着の袖には、油染みが残っていました。
「会社の名前は、浜名精密工業株式会社といいます」
藤井さんは、膝の上に置いた古い鞄を開きました。
中から出てきたのは、会社の定款。
株主名簿。
そして、一通の通知書でした。
「二十年前、仲間と一緒に作った会社なんです」
「二十年前……」
「最初は、旋盤が二台しかありませんでした」
藤井さんは、少し笑いました。
「雨が降ると屋根から水が漏れるような工場でね。みんなで金を出し合って、ようやく始めたんです」
私は定款を開きました。
会社の目的。
金属部品の製造。
精密機械部品の加工。
本店所在地。
見慣れない古い形式の定款です。
でも。
株式会社という言葉は、現代と同じ。
「それで、今はどうなっているんですか?」
私が尋ねると、藤井さんの表情が曇りました。
「五年前に、新しい社長を迎えたんです」
「新しい社長?」
「資金繰りが苦しくなって、銀行から紹介された男です」
名前は、黒田剛三。
五十二歳。
不動産業と機械販売業を手広く経営している実業家。
黒田は会社に資金を入れ、第三者からも株式を買い集めました。
その結果。
現在の持株比率は、こうなっていました。
黒田社長と、その一族。
六十五%。
藤井さんたち創業仲間。
三十五%。
「六十五%……」
私は呟きました。
かなりの支配力です。
「黒田さんは、会社を立て直してくれたんですか?」
「最初は、そうでした」
藤井さんは頷きました。
「新しい機械も入れてくれました。仕事も持ってきてくれました」
「それなら……」
「でも、去年からおかしくなったんです」
藤井さんの声が沈みました。
「会社の土地を、黒田さんの別会社に売ると言い出したんです」
「土地を?」
「工場が建っている土地です」
私は顔を上げました。
「それを売ったら、工場はどうなるんですか?」
「移転するそうです」
「移転先は?」
「ありません」
……。
ありません?
「黒田さんは、工場を閉めて、土地を不動産開発に使いたいんです」
藤井さんは拳を握りました。
「従業員は三十人います。みんな、この町で暮らしているんです」
私は通知書を手に取りました。
そこには、大きな文字でこう書かれていました。
――臨時株主総会開催通知。
議案。
第一号議案。
取締役の改選。
第二号議案。
定款変更。
第三号議案。
株式譲渡制限規定の新設。
私は目を細めました。
「……株式譲渡制限?」
「はい」
「今は、自由に株式を売れる会社なんですか?」
「そうです」
藤井さんが頷きました。
「創業仲間の一人が、息子に株を譲ろうとしているんです。それを黒田さんが嫌がって」
「なるほど……」
私は通知書を見つめました。
株式の譲渡を制限する。
つまり、誰に株式を譲るかについて、会社の承認が必要になる仕組みを設けるということです。
創業仲間が、次の世代に株式を渡す。
それを黒田が妨害したい。
嫌な予感がしました。
「それで黒田さんは、何と言っているんですか?」
藤井さんは、一枚の紙を差し出しました。
黒田社長から届いた手紙です。
そこには。
――当方は発行済株式の六十五%を保有している。
――したがって、株主総会における議案はすべて当方の意思で決定できる。
――反対する少数株主には、経営方針に従っていただく。
最後に。
――会社の経営権は、株式の過半数を保有する者にある。
と書かれていました。
私は紙を置きました。
「先輩」
「何だ」
「この社長、すごいこと言ってます」
「どれだ」
「株を過半数持っていれば、何でも決められるって」
相馬先輩が手紙を読みました。
そして。
鼻で笑いました。
「馬鹿だな」
「え?」
「六十五%で王様になったつもりか」
その瞬間。
私は気づきました。
あ。
これ。
株主総会の決議要件です。
「藤井さん!」
私は勢いよく顔を上げました。
「大丈夫です!」
藤井さんが驚きます。
「本当ですか?」
「はい!」
私は六法を開こうとして、手を止めました。
「普通決議なら、過半数で決まります。でも、特別決議は三分の二以上必要なんです!」
藤井さんが首をかしげました。
「三分の二?」
「はい!」
私は紙に数字を書きました。
六十五%。
三分の二は、約六十六・七%。
「つまり!」
私は得意になって言いました。
「黒田社長は、三分の二に届いていません!」
「……一・七%ほど足りない?」
「そうです!」
藤井さんの顔に、少し希望が戻りました。
「では、定款を勝手に変えることはできないんですね?」
「はい!」
よし。
会社法。
現代の受験知識が役に立ちました。
「しかも、株式全部に譲渡制限をつけるなら、特殊決議です!」
私は続けました。
「会社法三百九条第三項で、議決権を行使できる株主の半数以上と、その議決権の三分の二以上が必要で――」
「こはる」
相馬先輩が低い声で遮りました。
「はい?」
「今、何法って言った?」
「会社法です」
「……会社法?」
先輩が怪訝な顔をしました。
しまった。
私は固まりました。
会社法。
平成十七年に成立し、翌年施行された法律。
でも。
今は昭和六十三年。
まだ独立した会社法なんてありません。
「お前、また妙な本を読んでるな」
「あ、いえ、その……」
「会社の決まりは商法だろ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ」
やってしまいました。
未来人。
また法律の時代を間違えました。
「会社法三百九条なんて言われても、今の六法には載ってねえぞ」
「はい……」
「会社の規定は商法第二編だ」
相馬先輩は棚から分厚い六法を取り出しました。
机に置きます。
「昭和六十三年の法律で考えろ」
「はい……」
私は慌ててページをめくりました。
商法。
第二編。
会社。
なるほど。
現代とは条文体系が違います。
しかも。
「先輩」
「何だ」
「株式会社って、発起人が七人必要なんですよね」
「当たり前だろ」
「現代なら、一人でも作れるのに……」
「何?」
「いえ、何でもありません!」
危ない。
また未来の常識を口走りました。
昭和六十三年。
株式会社には、発起人が七人以上必要。
取締役も三人以上。
監査役も必要。
一人で会社を作って、一人で取締役になって経営する。
そんな現代の感覚は、この時代には通じません。
「一人で商売を始めたいなら、合同会社という手も――」
「なんだその会社形態は」
「……忘れてください」
「お前、時々本当に意味が分からねえな」
私は苦笑しました。
でも。
片桐所長は、私たちの会話を聞きながら、静かに定款をめくっていました。
そして。
「相馬」
「はい」
「株主名簿を見ろ」
所長が言いました。
「数が合わん」
「……数?」
私は首をかしげました。
株式の数なら、もう分かっています。
黒田側。
六十五%。
藤井さんたち。
三十五%。
でも。
所長が見ていたのは、別の欄でした。
株主の氏名です。
「藤井さん」
片桐所長が尋ねました。
「現在の株主は、全部で何人ですか」
「十人です」
「十人」
「はい」
「そのうち、黒田社長の側についている人は?」
「黒田さん本人と、奥さんと、弟さんです」
「三人ですね」
「はい」
「残りは?」
「私を含めて七人です」
所長が頷きました。
「なるほど」
私は名簿を見ました。
黒田剛三。
黒田富江。
黒田義雄。
この三人で、株式の六十五%。
一方。
藤井さんたち七人で、三十五%。
「所長」
「何だ」
「黒田側は株式の数では圧倒的ですね」
「そうだ」
「でも、人数なら三人しかいません」
「そこだ」
所長が静かに言いました。
私は首をかしげました。
「人数……?」
「こはる」
「はい」
「株式の数だけで決まらない決議があるな」
あ。
私は息を呑みました。
特殊決議。
株主の人数。
そして、議決権の数。
両方が問題になる決議です。
「所長!」
「気づいたか」
「今回の譲渡制限の新設です!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
私は古い商法を開きました。
商法第三百四十八条。
株式の譲渡制限に関する定款変更。
そこには、通常の定款変更より厳しい決議の仕組みがありました。
当時の制度では。
総株主の過半数の賛成。
そして。
発行済株式総数の三分の二以上に当たる賛成。
その両方が必要になります。
「ええっ……!」
私は思わず声を上げました。
「人数も、株式の数も、両方ですか!」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「黒田側は何人だ」
「三人です」
「総株主は?」
「十人です」
「過半数は?」
「六人以上!」
「黒田側は?」
「三人!」
「株式は?」
「六十五%!」
「三分の二に届くか?」
「届きません!」
私は机を叩きました。
「両方足りない!」
藤井さんが目を丸くしました。
「ということは……」
片桐所長が頷きました。
「黒田さんたち三人だけでは、今回の譲渡制限の定款変更を成立させられません」
藤井さんの目に、涙が浮かびました。
「……そんな法律が」
「あります」
所長は静かに言いました。
「株を多く持つことと、会社の根本を何でも自由に変えられることは、同じではありません」
私は、株主名簿を見つめました。
十人。
三人。
七人。
数字だけなら、ただの人数です。
でも。
ここでは。
その人数が、会社の運命を左右するのです。
翌日。
浜名精密工業の事務所。
私と相馬先輩は、藤井さんに同行し、過去の定款や資料の確認をしていました。
会社の資料を適法に確認するための、藤井さんの手伝いです。
そのとき。
「何だ、お前ら」
低い声がしました。
振り向くと。
恰幅のいい男が立っていました。
黒いスーツ。
金色の腕時計。
高そうな革靴。
黒田剛三。
浜名精密工業の社長です。
「藤井さんから相談を受けている片桐事務所の相馬です」
相馬先輩が名乗りました。
「行政書士?」
黒田は鼻で笑いました。
「弁護士じゃねえのか」
「そうです」
「じゃあ、会社の経営に口を出せる立場じゃねえだろ」
うわ。
出ました。
行政書士を見下す悪徳社長。
「株主総会の資料を確認しているだけです」
相馬先輩は淡々と答えました。
「何を確認するんだ?」
黒田が机に腰を下ろしました。
「俺は会社の株を六十五%持ってるんだぞ」
「承知しています」
「なら話は早いだろ」
黒田は笑いました。
「多数決って知ってるか?」
……。
私は思わず口を開きかけました。
知っています。
むしろ。
今、その多数決の種類を調べているところです。
「俺が賛成すれば、会社の決議は通る」
黒田は言いました。
「取締役を選ぶのも、定款を変えるのも、株式の譲渡を制限するのも、全部同じだ」
私は耳を疑いました。
全部同じ?
違います。
決議する内容によって、必要な多数が変わるんです。
「黒田社長」
私が言いました。
「普通決議と、特別決議は違います」
「は?」
「重要な決定には、通常の多数決より厳しい条件が必要になることがあります」
黒田は笑いました。
「法律の試験問題か?」
「いえ、実際の会社の話です」
「六十五%持ってるんだぞ?」
「それだけでは足りない決議もあります」
黒田の笑みが消えました。
「……何?」
私は続けようとしました。
でも。
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい」
「ここまでだ」
「でも!」
「今日は資料を確認しに来ただけだ」
先輩は黒田を見ました。
「総会の招集通知、定款、株主名簿を確認しました。必要な資料は揃いました」
「だから何だ?」
「それ以上は、こちらから申し上げることはありません」
相馬先輩は書類を鞄に収めました。
黒田が鼻で笑いました。
「逃げるのか?」
「いいえ」
先輩は短く答えました。
「事実が確認できましたので」
「……ふん」
黒田は椅子に座り直しました。
「総会で決めりゃ終わりだ」
その声には、まだ余裕がありました。
私は悔しくなりました。
事務所へ戻る途中。
「先輩!」
「何だ」
「どうして、あそこで反論しなかったんですか!」
「必要ねえからだ」
「でも、あの社長、完全に勘違いしてましたよ!」
「だからだよ」
相馬先輩は足を止めました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは、依頼人の代理人として紛争相手と法律交渉をする立場じゃねえ」
「……はい」
「しかも、あの男を口論で負かして何になる」
「それは……」
「必要なのは、議決の条件を正確に確認することだ」
先輩は鞄を軽く叩きました。
「総会の決議が成立するかどうかは、怒鳴り声の大きさで決まるもんじゃねえ」
私は黙りました。
「法律と、定款と、実際の票数だ」
なるほど。
今回の武器は。
書類です。
そして。
数字です。
事務所に戻ると、片桐所長が待っていました。
「どうだった」
「黒田社長は、過半数を持てば何でも決められると思っています」
私が答えると、所長は頷きました。
「そうか」
「所長!」
「何だ」
「内容証明を作りましょう!」
「作る」
「やっぱり!」
「ただし」
所長は一枚の紙を差し出しました。
「先に、三つの議案を分けろ」
「三つ?」
「普通決議で足りるもの。特別決議が必要なもの。そして、それ以上の要件があるものだ」
私は鉛筆を取りました。
まず。
取締役の選任。
普通決議。
通常の多数決で決める事項です。
次。
通常の定款変更。
特別決議。
会社の基本規則を書き換えるため、より厳しい多数が必要です。
そして。
株式全部に譲渡制限を新設する定款変更。
当時の商法では、さらに厳しい決議要件があります。
「なるほど……」
私はノートに線を引きました。
普通。
特別。
特殊。
三段階です。
もっとも。
昭和六十三年の商法と、現代の会社法では、決議要件の細かな定めも、適用される事項も同じではありません。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「今の法律に、未来の条文番号を混ぜるなよ」
「分かっています!」
「本当か?」
「今回は絶対に間違えません!」
「さっき会社法三百九条って言ってただろ」
「それは忘れてください!」
「忘れられるか」
私は顔を赤くしました。
でも。
この時代の商法を読むほど、法律の仕組みが見えてきます。
会社の役員を選ぶ決議。
会社の基本ルールを変える決議。
株主が持っている株式の自由を制限する決議。
全部を同じ多数決で処理するわけにはいかない。
重要な決定ほど、慎重な手続が求められる。
その発想自体は、昭和でも現代でも通じています。
「さて」
所長が言いました。
「こはる。総会の資料を見ろ」
「はい」
「第三号議案の説明書だ」
私は書類をめくりました。
そこには。
――当社の株式については、今後、譲渡に際して取締役会の承認を要するものとする。
と書かれていました。
その下に。
――本件は、過半数の株式を有する株主の承認により可決される予定である。
……。
「所長!」
「何だ」
「これ、決議要件が間違っています!」
「そうだ」
「普通決議みたいに書いてあります!」
所長が頷きました。
「もう一枚見ろ」
私は次の紙を取りました。
株主総会議事録。
ただし。
まだ総会は開催されていません。
なのに。
書類には既に、
――第三号議案は、賛成多数により可決承認された。
と印字されていました。
「……え?」
私は固まりました。
「これ……」
相馬先輩が言いました。
「総会前に用意した議事録案だ」
「いや、それは分かりますけど」
「何だ」
「可決したことになってますよ!」
「そうだな」
「まだ採決してないのに!」
片桐所長が静かに言いました。
「議事録案を事前に準備すること自体はおかしくない」
「はい」
「だが、実際の採決結果と違う内容を、確定した議事録として使うことは許されん」
私は紙を見つめました。
この社長。
総会の前から。
結果を決めている。
株主の意見を聞くつもりなど、最初からないのです。
「相馬」
所長が言いました。
「数字を入れろ」
「はい」
相馬先輩が、株主名簿を机に広げました。
総株主。
十人。
発行済株式。
千株。
黒田側。
三人。
六百五十株。
藤井さんたち。
七人。
三百五十株。
「こはる」
「はい」
「普通決議なら、黒田側の票で通せる場合がある」
「はい」
「では、通常の定款変更は?」
「特別決議です!」
「黒田側だけでは?」
「六百五十株なので、三分の二に届きません!」
「そうだ」
相馬先輩は赤鉛筆で数字を囲みました。
「そして、株式全部の譲渡制限の新設」
「当時の商法では、総株主の過半数と、発行済株式総数の三分の二以上の賛成が必要です!」
「黒田側は?」
「三人で六十五%!」
「足りるか?」
「どちらも足りません!」
私は思わず拳を握りました。
でも。
所長は首を横に振りました。
「まだ終わりじゃない」
「え?」
「黒田側以外の株主が賛成すれば、成立する可能性はある」
「あ……」
「だから、現時点で絶対に可決できないとは書くな」
なるほど。
数字だけ見て安心してはいけません。
藤井さんたちの中から賛成者が出れば、結果は変わる。
でも。
黒田社長が主張する、
――俺の持株だけで何でも決められる。
という理屈は、明らかに間違っています。
「所長」
「何だ」
「内容証明には、そこを書くんですね」
「そうだ」
片桐所長は頷きました。
「相手の人格を責めるな。決議要件を示せ」
私は背筋を伸ばしました。
「はい!」
三時間後。
机の上には、内容証明郵便の原案がありました。
差出人。
藤井正一。
宛先。
浜名精密工業株式会社。
代表取締役。
黒田剛三。
私は書面を読み上げました。
「第一。本通知人は、貴社の株主として、臨時株主総会に上程された議案の決議要件について確認を求める」
相馬先輩が頷きます。
「続けろ」
「第二。貴社の発行済株式総数は千株であり、黒田剛三氏及び同氏の親族二名の保有株式は合計六百五十株である」
「うん」
「第三。通常の定款変更については、商法上の特別決議の要件を満たす必要があり、右六百五十株のみの賛成では必要数に達しない」
「よし」
「第四。株式譲渡制限の新設に係る定款変更については、商法第三百四十八条に定める特別の要件が適用される」
私は一度、息を吸いました。
「第五。右決議には、総株主の過半数の賛成及び発行済株式総数の三分の二以上の賛成を要するところ、黒田氏ら三名、六百五十株のみの賛成では、いずれの要件も満たさない」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第六。よって、各議案について法令及び定款に従った適正な採決を行い、出席状況、賛否、議決結果を正確に議事録へ記載されたい」
私は最後を読み上げました。
「第七。決議要件を欠くにもかかわらず可決したものとして取り扱う場合には、株主として弁護士に相談のうえ、株主総会決議の効力を争う法的手続その他の適切な措置を検討する」
読み終わりました。
私は所長を見ました。
「どうでしょう!」
所長は黙って読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
「ここ」
「はい」
「『違法な決議はすべて無効』と書きかけた跡がある」
「……はい」
「決議の瑕疵にも種類がある。何でも一律に無効と断定するな」
「はい……」
「それと、通常の定款変更の定足数も当時の商法と定款で確認しろ」
「はい!」
私は慌てて六法を開き直しました。
片桐所長は、書類の余白に小さく数字を書き込みました。
六百五十。
六百六十七。
三。
六。
私はそれを見つめました。
株式千株に対する三分の二。
最低でも六百六十七株。
総株主十人の過半数。
最低でも六人。
黒田側は。
六百五十株。
三人。
どちらも届かない。
法律の条文が、数字になって現れています。
「所長」
「何だ」
「たった十七株でも、足りなければ足りないんですね」
「そうだ」
「株主も、三人では足りない」
「そうだ」
「六十五%も持っているのに……」
所長は静かに答えました。
「数字を満たさないことに、社長の肩書は関係ない」
私は、しばらく黙りました。
これです。
法律が、権力者に対して持っている強さ。
お金持ちだから。
社長だから。
大株主だから。
そんな理由で、決議要件が勝手に変わることはないのです。
内容証明郵便を発送して、二日後。
片桐行政書士事務所に電話が入りました。
「片桐先生はいるか!」
怒鳴り声です。
私は受話器を耳から離しました。
「……黒田社長ですか?」
『そうだ!』
「少々お待ちください」
所長に代わります。
「片桐です」
『あんたの事務所から、妙な内容証明が届いたぞ!』
「はい」
『俺は六十五%も株を持ってるんだ!』
「その点は承知しております」
『なのに、何で俺の決議が通らないんだ!』
所長は落ち着いた声で答えました。
「通知書に記載した決議要件をご確認ください」
『……確認したよ!』
黒田の声が、少し弱くなりました。
『顧問の先生にも見せた』
「そうですか」
『普通の決議なら、俺の票で通ることもあるって言われた』
「はい」
『だが、定款変更は違うって……』
「はい」
『それに、株式譲渡制限の新設は、株主の人数まで必要だと……』
電話の向こうが静かになりました。
『……本当なのか?』
所長は短く答えました。
「当時の商法に、その定めがあります」
沈黙。
それから。
『……総会の議事録を、もう作っちまったんだ』
私は顔を上げました。
『第三号議案は可決したって』
所長の表情は変わりません。
「実際の総会は、まだ開催されていませんね」
『ああ』
「では、実際の採決結果に従って記録すべきです」
『……そうだな』
黒田の声は、明らかに変わっていました。
『顧問の先生にも、同じことを言われたよ』
そこへ。
もう一つの声が聞こえました。
誰かが、黒田のそばで話しています。
『社長、それ以上は……』
『分かってる!』
黒田が苛立った声を上げました。
そして。
『……議事録案は、作り直す』
私は思わず拳を握りました。
『第三号議案も、いったん取り下げる』
「その決定については、貴社で適切に手続をしてください」
『ああ……』
黒田は小さく息を吐きました。
『株を六十五%持ってれば、何でもできると思ってたよ』
片桐所長は、静かに言いました。
「株主総会は、一人の株主の意思を確認する場所ではありません」
黒田は答えませんでした。
「会社として、必要な手続を踏んで意思を決定する場所です」
『……分かった』
電話が切れました。
私は所長を見ました。
「所長!」
「何だ」
「黒田社長、第三号議案を取り下げるって!」
「ああ」
「やりましたね!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「まだだ」
「え?」
「実際に総会が開かれて、適正に議事が進むまで分からねえ」
「あ……」
「電話で言っただけで安心すんな」
私は頷きました。
そうでした。
法律の世界。
相手が一度引き下がったからといって、すべて終わったわけではありません。
でも。
確かなことが一つありました。
黒田社長は、初めて理解したのです。
会社の株を過半数持つことと。
会社のすべてを自由にすることは。
同じではないのだと。
一週間後。
浜名精密工業の臨時株主総会が開かれました。
私は相馬先輩と事務所で資料を整理していました。
藤井さんは、自分の意思で総会に出席しています。
夕方。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『藤井です』
「あっ! 藤井さん!」
『終わりました』
「総会ですか?」
『はい』
私は受話器を握り直しました。
「どうなりました?」
『第三号議案は、正式に撤回されました』
「本当ですか!」
『はい』
藤井さんの声が震えています。
『それから、社長が……』
「黒田社長が?」
『みんなの前で言ったんです』
藤井さんは、少し間を置きました。
『会社を自分一人で決められると思っていた。間違っていた、と』
私は黙りました。
あの黒田が。
自分の間違いを認めた。
『それで、工場の土地を売る計画も、いったん白紙に戻して、正式な手続と事業計画を見直すことになりました』
「……よかった」
私は小さく呟きました。
もちろん。
すべての問題が消えたわけではありません。
土地の売却には、会社の意思決定や取引条件など、別の問題もあります。
そして、黒田が多数の株式を持っている事実も変わりません。
でも。
少なくとも。
法律を無視した多数決で、会社の未来を強引に決めることは止まりました。
『朝比奈さん』
「はい」
『ありがとうございました』
「いえ、私は……」
『私は、もう会社には居場所がないと思っていました』
藤井さんの声が、少し震えました。
『黒田さんが六十五%持っている以上、残りの私たちの意見なんて意味がないと思っていたんです』
「……はい」
『でも、違ったんですね』
私は頷きました。
「はい」
『株を少ししか持っていなくても、ちゃんと守られているものがあるんですね』
私は答えました。
「そうです」
その瞬間。
法律の条文が。
少しだけ、温かく感じられました。
数日後。
藤井さんが、事務所を訪れました。
手には、小さな箱を持っています。
「これ、工場で作ったものです」
箱の中には、金属製の小さな歯車が入っていました。
精密に削られています。
表面は銀色に輝いていました。
「綺麗ですね……!」
私が言うと、藤井さんが笑いました。
「機械の中で使う部品です」
「すごいですね」
「でも、これ一つだけでは、機械は動かないんです」
「え?」
「大きな歯車も、小さな歯車も、全部が噛み合って、初めて動くんですよ」
私は歯車を見つめました。
大きな歯車。
小さな歯車。
どれも役割が違う。
でも。
一つでも欠ければ、機械が動かなくなることがある。
「会社も、同じなのかもしれませんね」
私が言うと、藤井さんが頷きました。
「そう思います」
藤井さんは、静かに続けました。
「黒田さんが金を入れてくれたから、会社が続いたのは事実です」
「はい」
「でも、金を持っている人だけで、会社ができているわけじゃありません」
私は頷きました。
「そうですね」
「旋盤を回す職人も、図面を書く人も、部品を運ぶ人もいる」
藤井さんは小さく笑いました。
「それに、昔から会社を支えてきた株主も」
私は、金属の歯車を手に取りました。
冷たい。
でも。
そこには、働く人たちの手の温かさが残っているような気がしました。
「法律も、歯車みたいですね」
私が言うと、藤井さんが首をかしげました。
「法律が?」
「はい」
私は少し考えました。
「普通決議は、会社を日常的に動かすための仕組みです」
「はい」
「特別決議は、大切なことを簡単に変えられないようにする仕組みです」
「なるほど」
「そして、もっと厳しい決議は……」
私は歯車を見つめました。
「会社の根本を変えるときに、少数の人の立場も簡単には無視できないようにする仕組みなんです」
藤井さんは、しばらく黙っていました。
それから。
「法律って、よくできているんですね」
と笑いました。
私は少し照れました。
そうなんです。
法律って。
ただ多数決を否定しているわけではありません。
多数決を認めながら。
何を決めるのかによって、必要な賛成の重さを変えている。
そこが、大事なのです。
藤井さんが帰ったあと。
私は机の上に、三つの言葉を書きました。
普通決議。
特別決議。
特殊決議。
最初は、ただの試験用語でした。
過半数。
三分の二。
株主の人数。
議決権の数。
似たような数字ばかりで、正直、覚えるのが面倒です。
でも。
今日の事件を思い出せば、忘れません。
黒田社長。
株式六十五%。
普通決議なら通せる場合がある。
しかし、通常の定款変更に必要な特別決議には、黒田側の票だけでは届かない。
さらに。
株式全部に譲渡制限を新設するには、昭和の商法が求める厳しい要件を満たさなければならない。
六十五%。
三人。
どちらも足りない。
この違いが。
会社を守ったのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「多数決って、奥が深いですね」
「今さらか」
「だって、過半数を取れば勝ちだと思ってました」
「そういう決議もある」
「でも、そうじゃない決議もある」
「そうだ」
「しかも、株式の数だけじゃなくて、株主の人数まで必要になることがある」
相馬先輩が頷きました。
「だから、最初に確認するんだよ」
「何をですか?」
「何を決めようとしているのか」
私は顔を上げました。
先輩は続けました。
「議題が違えば、決議要件も違う」
「はい」
「普通の議題なのか、会社の基本を変える話なのか」
「はい」
「そこを見ずに票数だけ数えても、意味がねえ」
なるほど。
試験でも。
実務でも。
最初に考えるべきことは、同じです。
何を決議するのか。
その決議には、どの条件が必要なのか。
そして。
実際に、その条件を満たしたのか。
この順番です。
「こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
「会社の決議は、何でも過半数で決まるわけじゃない」
「うん」
「重大なことほど、厳しい決議要件が求められます」
「そうだ」
「そして、株主総会で可決したと書いてあっても、本当に必要な賛成があったか確認しなければならない」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は嬉しくなりました。
すると。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「じゃあ、一問だ」
「はい!」
「株式千株の会社で、六百五十株を持つ社長がいる」
「はい!」
「その社長は、株式の過半数を持っている。だから定款変更は何でもできるか?」
「できません!」
「理由は?」
「決議事項に応じた要件を満たす必要があるからです!」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
私は得意になりました。
「もう一問お願いします!」
「じゃあ、総株主十人。譲渡制限のない会社で、株式全部に譲渡制限を設ける。当時の商法で、賛成する株主は何人必要だ?」
「総株主の過半数なので、最低六人!」
「株式の数は?」
「発行済株式総数の三分の二以上です!」
「よし」
「完璧ですね!」
「まだだ」
「え?」
相馬先輩は笑いました。
「今度は、その会社の発行済株式総数が千株だ」
「はい」
「賛成株式が六百六十六株だったら?」
「……足りません!」
「六百六十七株なら?」
「三分の二以上を満たします!」
「ただし、賛成株主が三人だけなら?」
「人数が足りないので駄目です!」
私は拳を握りました。
「先輩!」
「何だ」
「これ、もう絶対に忘れません!」
「そうか」
「六十五%の独裁社長が、三分の二に負けたんですから!」
「正確には、決議要件を満たせなかったんだ」
「そうでした!」
相馬先輩が笑いました。
片桐所長は、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「数字を覚えるだけでは足りんぞ」
「え?」
「なぜ、その数字が必要なのかも考えろ」
私は黙りました。
なぜ。
普通決議。
特別決議。
特殊決議。
三つもあるのでしょうか。
なぜ。
会社の重要なことを決めるときほど、多くの賛成を要求するのでしょうか。
そして。
なぜ。
株式の数だけではなく、株主の人数まで数えることがあるのでしょうか。
……。
それは。
多数決で決めてよいことと。
多数決だけでは簡単に決めさせてはいけないことがあるから。
そういうことなのかもしれません。
私はノートを閉じました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声でした。
『うちの会社の社長が、株主総会を開いたことにして、議事録を作ってしまったんです』
……。
私は固まりました。
「総会を開いたことに?」
『はい』
「実際には開いていないんですか?」
『そうなんです』
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ました。
『それで、会社の資本金を減らす決議が成立したことになっていて……』
……。
またですか。
今度は。
資本金の減少。
これも、会社の重要な決定です。
「先輩」
「何だ」
「また株主総会です」
「聞こえてる」
「しかも資本金の減少です!」
「そうだな」
「特別決議が問題になるやつです!」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「こはる」
「はい!」
「その前に調べることがあるだろ」
「……本当に株主総会が開かれたかどうか」
「そうだ」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、総会の招集通知が届いていたか、出席した人がいたか、詳しく教えてください」
昭和六十三年。
商法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
会社の株をたくさん持っているから。
社長だから。
議事録に可決と書いてあるから。
そんな理由だけで、会社の重大な決定が有効になるわけではありません。
法律には。
普通決議。
特別決議。
そして、さらに厳しい決議の仕組みがあります。
その違いを知っているだけで。
守れる会社がある。
守れる株主がいる。
そして。
守れる仕事と、暮らしがある。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、相談票を取れ!」
「はいっ!」
私は慌てて鉛筆を握りました。
でも。
心の中では、少し笑っていました。
今日、私が覚えたのは。
ただの数字ではありません。
六十五%という大きな数字に。
残り三十五%の人たちが、何も言えなくなるわけではない。
そんな当たり前のようで、忘れられがちなことを。
商法は、きちんと守ろうとしていたのです。
そして。
浜名精密工業の小さな歯車は。
今日も町のどこかで、回り続けています。
大きな歯車と。
小さな歯車が。
きちんと噛み合いながら。
会社という、大きな機械を動かすために。
――多数決は、数の力を認める仕組み。でも、数の力を無制限に認める仕組みではない。
私は、その一行をノートに書きました。
これなら。
もう忘れません。
だって。
たった十七株足りなかったことで、独裁社長の思いどおりにはならなかった。
あの事件を思い出せばいいのですから。
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