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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の機関    

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643/701

[会社法・累積投票による取締役の選任]現場編 「六割の株を持つ俺が全部決める」の嘘。百株に隠された逆転の一票と、ワンマン社長を黙らせた投票用紙

挿絵(By みてみん)

 多数決は、いつでも少数派を黙らせてよいという意味ではありません。


 たとえば。


 百株のうち、六十株を持っている社長がいたとします。


 残りの四十株は、二人の株主が持っている。


 社長は言いました。


「俺が六割持っているんだ。取締役なんて、全部俺の好きに決められる」


 普通に考えれば、そうかもしれません。


 六十対四十。


 多数決なら、六十が勝つ。


 何度投票しても、六十が勝つ。


 ところが。


 商法には、その常識をひっくり返す投票方法がありました。


 その名も。


 ――累積投票。


 一株が、二票にも三票にもなる。


 そして、少数派が票を一人に集中させることで、多数派の推薦する候補者を押しのけることがある。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、初めて知ることになります。


 会社を支配する六十株よりも。


 会社を守ろうとする四十株のほうが、強くなる瞬間があることを。


「主人が作った会社を、あの人に乗っ取られそうなんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、そう言いました。


 年齢は四十代半ば。


 紺色の上着。


 膝の上には、使い込まれた革鞄。


 名前は、杉浦和子さん。


 市内で精密機械部品を製造する、株式会社杉浦精機の株主でした。


「乗っ取り、ですか?」


 私が聞くと、和子さんは頷きました。


「主人が亡くなってから、会社がおかしくなってしまって……」


 話を聞けば、杉浦精機は二十年以上続く町工場でした。


 創業者は、和子さんの夫。


 小さな旋盤一台から始まり、今では従業員二十八人。


 地元の自動車部品メーカーから仕事を受ける、堅実な会社だったそうです。


 ところが。


 三年前、創業者が病気で亡くなった。


 その後、代表取締役になったのが、創業者の弟にあたる杉浦剛志。


 五十二歳。


 会社の営業部門を任されていた男です。


「最初は、私も信じていたんです」


 和子さんは言いました。


「主人の弟ですし、会社のこともよく知っていましたから」


「それが、どうして……?」


「会社のお金を、自分のものみたいに使い始めたんです」


 和子さんが鞄から帳簿の写しを取り出しました。


 役員への貸付金。


 高額な交際費。


 社長の知人が経営する会社への不自然な発注。


 さらに。


「先月、古くから働いている工場長が、突然辞めさせられそうになりました」


「工場長まで?」


「社長の支出について、監査役に報告したそうです」


 私は眉をひそめました。


 つまり。


 会社のお金の使い方に疑問を持った人間が、次々と排除されている。


「監査役は何をしているんですか?」


「それが……」


 和子さんは言いにくそうに続けました。


「監査役も、社長の昔からの知り合いで……」


 なるほど。


 会社の中に、社長を止められる人がいない。


「それで、今度の株主総会で、取締役を入れ替えると言い出したんです」


 和子さんは一枚の通知書を差し出しました。


 ――臨時株主総会招集通知。


 議題。


 取締役二名選任の件。


「二名?」


 私は首をかしげました。


「取締役は三名必要ですよね?」


「はい。今は三名います」


 和子さんが説明しました。


 現在の取締役は三名。


 代表取締役の剛志。


 古参の経理担当役員。


 そして、創業時代から働く技術担当役員。


 今回、任期満了となるのは後ろの二名。


 剛志自身は、まだ任期が残っているそうです。


「つまり、社長以外の二名を、自分の息のかかった人間に入れ替えようとしているんですね」


「そうなんです!」


 和子さんは身を乗り出しました。


「今までは、経理担当の方が何とか止めてくれていたんです。でも、その人まで追い出されたら……」


 私は招集通知を見つめました。


 取締役二名選任。


 候補者二名。


 どちらも剛志の推薦。


 しかも、一人は剛志の義弟。


 もう一人は、例の不自然な発注先の社長でした。


 ……。


 これは、まずい。


 かなり、まずい。


「株式は、誰がどのくらい持っているんですか?」


 私が聞くと、和子さんは別の紙を取り出しました。


 杉浦精機の発行済株式。


 百株。


 そのうち。


 剛志が六十株。


 和子さんが三十株。


 創業時からの従業員で、現在は退職している田辺清蔵さんが十株。


 合計百株。


 議決権について特別な制限はなく、今回の総会では一株一議決権とのことでした。


「……六十株」


 私は呟きました。


 社長一人で六割。


 過半数を握っています。


 これは強い。


 普通に投票すれば、剛志が推薦する候補者が二名とも選ばれる可能性が高い。


 和子さんと田辺さんが協力しても、四十株。


 数では勝てません。


「社長は言っていました」


 和子さんが俯きました。


「俺が六割持っている。会社の人事は俺が決める。少数株主は黙って配当を待っていろ、と」


 私は思わず拳を握りました。


 何ですか、その言い方。


 株主って、ただ配当をもらうだけの存在じゃないでしょう。


 会社の重要な意思決定に参加する権利もある。


 でも。


 どうすれば六十株に勝てるのか。


 ……待って。


 私の頭に、ある言葉が浮かびました。


「所長!」


 私は顔を上げました。


「累積投票です!」


 片桐所長が、帳簿から視線を上げました。


「ほう」


「取締役の選任で、累積投票を使えばいいんです!」


 そうです。


 行政書士試験で勉強しました。


 会社法。


 取締役の選任。


 累積投票。


 確か、会社法第三百四十二条。


「今回、二名選任ですよね!」


「そうだな」


「だったら、一株につき二票を持てるんです!」


 私は勢いよく説明しました。


「四十株あれば、八十票になります! その八十票を一人の候補者に集中させれば――」


「こはる」


 相馬先輩が遮りました。


「はい!」


「会社法って言ったか?」


「え?」


「今、会社法って言ったよな」


 ……。


 しまった。


 私は固まりました。


 会社法。


 現代では、株式会社の仕組みを定める独立した法律。


 でも。


 昭和六十三年には。


 まだ、ありません。


「あ、あの……」


「何だその顔」


「商法です!」


「そうだろうな」


「商法第二編です!」


「最初からそう言え」


 危ない。


 またやりました。


 未来の法律を、そのまま使おうとするところでした。


「累積投票の考え方は、この時代にもありますよね?」


「ある」


 相馬先輩は棚から六法を取り出しました。


「旧商法二百五十六条ノ三だ」


「ノ三……」


 出ました。


 昭和の条文番号。


 現代の会社法第三百四十二条とは違います。


「ただし、こはる」


 片桐所長が言いました。


「計算する前に、確認することがある」


「何ですか?」


「定款だ」


 私は目を瞬きました。


「定款?」


「累積投票を排除する定めがないか、確認しろ」


 あ。


 そうでした。


 累積投票は、どんな会社でも無条件に使えるわけではありません。


 定款の定め。


 請求の手続。


 そこを見なければならない。


「和子さん」


 私は尋ねました。


「会社の定款は、お持ちですか?」


「はい。主人が会社を作ったときのものを、ずっと保管しています」


 和子さんは鞄から、古い冊子を取り出しました。


 表紙には。


 ――株式会社杉浦精機 定款。


 とあります。


 昭和の古い紙。


 ところどころ黄ばんでいます。


 私はページをめくりました。


 目的。


 商号。


 本店所在地。


 株式。


 株主総会。


 取締役。


 監査役。


 そして。


「……あれ?」


 私は顔を上げました。


「所長」


「何だ」


「累積投票を排除する規定が、見当たりません」


 片桐所長は、静かに頷きました。


「続けろ」


「取締役の選任についての規定はあります。でも、累積投票によらないという定めがありません」


「そうか」


 所長は定款を受け取り、一条ずつ確認しました。


 しばらくして。


「相馬」


「はい」


「当時の定款変更の議事録も確認しろ」


「分かりました」


 相馬先輩は和子さんに尋ねました。


「これまで、定款を変更したことは?」


「事業目的を追加したときに、一度だけ」


「その議事録は?」


「あります」


 和子さんが別の書類を出しました。


 私は思わず感心しました。


 すごい。


 この人。


 書類をきちんと保管している。


 定款。


 議事録。


 株主名簿の写し。


 どれも、会社の権利関係を確かめるための重要な資料です。


 そして。


 確認した範囲では、累積投票の排除規定はありませんでした。


「所長!」


 私は目を輝かせました。


「使えますよね!」


「適法に請求できればな」


「やった!」


「まだ喜ぶな」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「投票の前に、きちんと請求する必要がある」


「……あ」


「総会当日に、いきなり『累積投票をやれ』と言えば何でも通るわけじゃねえ」


 私は慌てて六法を見ました。


 旧商法二百五十六条ノ三。


 定款の確認。


 株主からの請求。


 期限。


 手続。


 なるほど。


 法律上の権利があることと。


 その権利を適切に行使することは、別問題なのです。


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「まず、その百株で何が起こるか計算してみろ」


 私は頷きました。


 そして。


 白い紙を一枚取り出しました。


 私は紙の上に、大きく数字を書きました。


 百株。


 取締役二名選任。


 株主は三人。


 剛志。


 六十株。


 和子さん。


 三十株。


 田辺さん。


 十株。


「普通の投票だと、社長が強いですね」


「ああ」


「剛志さんが推す候補者は、それぞれ六十株分の賛成を得られる」


「そうだ」


「和子さんと田辺さんが反対しても、四十株分」


 私はため息をつきました。


 六十対四十。


 これでは、社長の推薦する二人が選ばれてしまう。


「でも!」


 私は赤鉛筆を取りました。


「累積投票なら違います!」


 今回、選ぶ取締役は二名。


 つまり。


 一株につき二票。


 剛志の六十株は。


 六十掛ける二。


 百二十票。


 和子さんの三十株は。


 三十掛ける二。


 六十票。


 田辺さんの十株は。


 十掛ける二。


 二十票。


 私は数字を並べました。


「全部で二百票です!」


 相馬先輩が頷きます。


「それで?」


「社長は百二十票を持っています。でも、二人を当選させたい」


「うん」


「一方、和子さんと田辺さんは、合わせて八十票を持っています」


「そうだ」


「この八十票を、一人に集中させます!」


 私は赤鉛筆で、大きく丸を描きました。


 ――八十票。


「すると?」


 相馬先輩が聞きました。


「社長が自分の候補者二人を当選させようとしても、八十票を超える票を二人に与えることはできません!」


 私は立ち上がりました。


「だって、社長の持ち票は全部で百二十票ですから!」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「分かったか」


「はい!」


 分かりました。


 これは。


 ただ票が二倍になる制度ではありません。


 票を集中させられる制度なのです。


 そして。


 集中するからこそ。


 少数派にも、勝機が生まれる。


「でも、先輩」


「何だ」


「社長も百二十票を一人に集中させたら?」


「当然、一人は当選できる可能性が高いな」


「じゃあ……」


「残りの一人は?」


 私は紙を見ました。


 社長が百二十票を一人に集中。


 少数派が八十票を一人に集中。


 取締役二名選任。


 候補者がその二人なら。


「……二人とも当選します」


「そうだ」


「社長は、一人は確保できる。でも、二人とも独占することはできない!」


 私は声を上げました。


「すごい!」


 和子さんが、驚いた顔をしていました。


「本当に……?」


「はい!」


「私たちの四十株で、取締役を一人選べるんですか?」


「今回の条件なら、適法な累積投票が行われ、票を適切に集中させれば、その可能性があります!」


 和子さんの目に、涙が浮かびました。


「主人の会社に……私たちの声を残せるんですね」


 片桐所長は定款を閉じました。


「まだ、仕事は残っている」


 私は頷きました。


 そうです。


 計算ができただけ。


 敵はまだ、何も知らない。


 そして。


 その敵は、自分が負ける可能性など、夢にも思っていませんでした。


 三日後。


 株式会社杉浦精機の応接室。


 私たちは、和子さんから依頼された書類の記載事項を確認するため、会社を訪れていました。


 もっとも、私たちは代理人として経営権争いの交渉をするわけではありません。


 会社の資料や手続について、必要な事実を確認するためです。


 相馬先輩は、私に念を押していました。


「いいか。相手と示談交渉するなよ」


「分かっています」


「会社の支配権を巡る紛争になれば、弁護士の仕事だ」


「はい」


「俺たちは、依頼された適法な書類を作る。そのための事実確認だ」


 私は頷きました。


 ところが。


 応接室に入るなり、相手の社長が笑いました。


「何だ、行政書士か」


 杉浦剛志。


 五十二歳。


 濃紺の背広。


 金色の腕時計。


 ふんぞり返った姿勢。


 いかにも。


 自分が会社そのものだと思っているタイプです。


「叔母さんも、余計なことをするなあ」


 剛志は和子さんを見て言いました。


「株主総会で負けるのが嫌だからって、代書屋まで連れてきたのか」


 和子さんは唇を噛みました。


「剛志さん。私は、会社が心配で……」


「心配?」


 剛志は笑いました。


「だったら、俺に任せておけよ。株の六割は俺が持っているんだ」


 出ました。


 六割。


 今日の敵の必殺技。


 ……というより。


 本人は、それしか言っていない気がします。


「会社は民主主義だろ?」


 剛志が続けました。


「多数決だ。俺が六割持っている。だから俺が決める。それだけの話だ」


 私は口を開きかけました。


 でも。


 相馬先輩が先に言いました。


「取締役の選任について、定款の規定を確認させていただきたい」


「定款?」


「はい」


「そんなもの、何の関係がある」


 ……関係。


 大ありです。


「会社の決まりでしょう?」


 私が思わず言うと、剛志がこちらを見ました。


「嬢ちゃん、会社を経営したことがあるのか?」


「いえ」


「だったら黙ってろ」


 むっ。


「会社はな、経営者が決めるんだ。教科書どおりじゃ回らねえんだよ」


 剛志は机を叩きました。


「取締役は俺が選ぶ。監査役も俺の知り合いだ。俺が責任を持って動かしてる会社なんだ!」


 ……。


 私は思いました。


 その責任。


 本当に取っていますか?


 でも、口には出しません。


 相馬先輩が静かに尋ねました。


「今回、二名の取締役を選任する予定ですね」


「ああ」


「候補者は、お二人」


「そうだ」


「それぞれ、剛志社長の推薦ですね」


「当たり前だ」


 剛志は鼻で笑いました。


「六十株あるんだからな。二人とも通るに決まってる」


 その言葉を聞いたとき。


 私は、少しだけ笑いそうになりました。


 だって。


 それこそが。


 今回の落とし穴だったからです。


「そうですか」


 相馬先輩は、それ以上何も言いませんでした。


「何だ、もう終わりか?」


 剛志が笑います。


「結局、何もできねえんだろ」


 相馬先輩は立ち上がりました。


「必要な確認はできました」


「だったら帰ってくれ」


「失礼します」


 応接室を出ます。


 私は廊下で、思わず先輩の袖を引きました。


「先輩!」


「何だ」


「言い返さなくていいんですか!」


「何をだ」


「六割あるから全部決められるって!」


「別にいい」


「でも!」


 相馬先輩は足を止めました。


「こはる」


「はい」


「勝つ前に、勝ち方を教えてどうする」


 ……。


 私は口を閉じました。


「相手は、自分が何を知らねえのかも知らねえ」


「はい」


「なら、俺たちは書類を整えるだけだ」


 相馬先輩は、鞄を軽く叩きました。


「商法ってのは、怒鳴った奴が勝つ法律じゃねえ」


 そして。


 いつもの、少し意地悪な笑みを浮かべました。


「数え方を間違えた奴が負けることもあるんだよ」


 ……。


 格好いい。


 ちょっと悔しいけど、格好いい。


 私は思いました。


 今回の武器は。


 内容証明郵便。


 そして。


 百株の計算です。


 事務所へ戻ると、片桐所長が待っていました。


「どうだった」


「社長は、自分の六十株があれば取締役を二人とも選べると思っています」


 私が答えると、所長は頷きました。


「定款は?」


「確認できた資料では、累積投票の排除規定はありません」


「うん」


「今回の総会で選ぶ取締役は二名です」


「そうか」


 所長は机に一枚の紙を置きました。


「では、通知書を作れ」


「はい!」


 私は椅子に座りました。


 まず。


 差出人。


 杉浦和子。


 株主。


 三十株。


 さらに。


 田辺清蔵。


 株主。


 十株。


 二人は、既に共同で累積投票を求める方針を決めていました。


 選任させたい候補者も、一人に絞っています。


 創業当時から会社を知り、現在も工場の技術顧問を務める人物。


 名前は、長谷川修一。


 四十七歳。


 現場を熟知した技術者でした。


 和子さんたちは、この人を取締役として会社に残したかったのです。


「よし」


 私は鉛筆を握りました。


 ――取締役選任に係る累積投票請求通知書。


 書き始めます。


 第一。


 通知人らは、株式会社杉浦精機の株主である。


 第二。


 同社の臨時株主総会において、取締役二名の選任が予定されている。


 第三。


 通知人らは、旧商法第二百五十六条ノ三に基づき、当該取締役の選任を累積投票によって行うことを請求する。


 第四。


 本請求は、法定の期限内に行うものである。


 私は顔を上げました。


「これでどうですか!」


 所長は黙って読みました。


 そして。


 赤鉛筆を取りました。


 嫌な予感。


「こはる」


「はい」


「ここ」


「はい」


「『累積投票によれば、通知人らの候補者が必ず選任される』」


「……はい」


「消せ」


 赤線。


「ええっ!」


「まだ投票していない」


「でも、計算上は……」


「計算上、何が起きる可能性があるかと、現実の選任結果は別だ」


 ……。


 確かに。


 ほかの候補者が出る可能性。


 票の配分。


 請求手続の適法性。


 総会での実際の投票。


 確認することは、いくつもあります。


「断定は駄目ですね」


「そうだ」


 所長は続けました。


「それから、今回の通知は、会社に対して手続を求める書面だ。取締役選任の結論を通知で決めるものではない」


「はい」


「法定期限も、日付で確認しろ」


 私は招集通知を見ました。


 総会の日。


 通知の発送予定日。


 到達の見込み。


 昭和の郵便事情も考える必要があります。


「余裕を持って出します!」


「そうしろ」


 相馬先輩が横から口を挟みました。


「それとな」


「はい」


「内容証明を出しただけで、会社が法律どおり動くと決まったわけじゃねえぞ」


「……はい」


「証拠を残すための書面だ」


 私は頷きました。


 内容証明郵便。


 それは、相手を自動的に従わせる魔法ではありません。


 どんな内容の通知を、いつ、誰から誰へ送ったか。


 そこを証拠として残すための手段です。


 そして。


 もし会社が適法な請求を無視して選任を進めれば。


 株主総会決議の取消しなどが問題になり得る。


 そのときは、弁護士による法的対応が必要になるでしょう。


「先輩」


「何だ」


「これ、社長が無視したら大変ですね」


「そうだな」


「総会で二人を選んでも、あとから決議の適法性を争われる可能性があります」


「そういうことだ」


 私は、書面の最後に必要な事実を整理しました。


 取締役二名。


 累積投票の請求。


 旧商法の根拠。


 会社定款の確認。


 法定期限内の通知。


 そして。


 会社に対し、累積投票による選任手続を求める旨。


 所長が最後まで読みました。


「よし」


「本当ですか!」


「これで、本人たちに確認してもらえ」


「はい!」


 私は思わず拳を握りました。


 定款の確認から始まった仕事。


 たった一枚の通知書にするために、ここまで確認が必要なのです。


 でも。


 だからこそ。


 この一枚が、社長の思い込みを崩すことになる。


 私は完成した原案を見つめました。


 そこには、怒りの言葉も、脅しの言葉もありません。


 ただ。


 商法の規定に基づいて、取締役の選任方法を求めているだけ。


 それでも。


 十分に鋭い書面でした。


 通知が会社に届いた翌日。


 片桐事務所の電話が鳴りました。


「もしもし! 杉浦精機の杉浦だ!」


 怒鳴り声。


 受話器を取った私の耳が、痛くなりそうです。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『おい! 何だ、あの内容証明は!』


「累積投票の請求についてでしょうか」


『そうだ!』


 剛志は怒鳴りました。


『取締役の選任は、俺が決めるんだ!』


 ……。


 また六割ですか。


『株を六割持ってるんだぞ!』


 やっぱり。


『何で三割と一割の奴らに、取締役を選ばせなきゃならねえんだ!』


 私は落ち着いて答えました。


「通知書の法的根拠は、記載のとおりです。具体的な手続については、御社でも専門家に確認いただくのがよいかと思います」


『ふざけるな!』


 剛志は電話を切りました。


 私は受話器を置きました。


「……すごい怒ってます」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「だろうな」


「どうします?」


「どうもしねえ」


「え?」


「正式な請求は出した。次は会社側がどうするかだ」


 私は少し不安になりました。


 社長が無視して、普通の多数決で進めたら?


 せっかくの通知が、何の意味もなくなってしまうのでは?


 でも。


 片桐所長は、静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「相手が怒っていることと、相手の主張が正しいことは別だ」


 ……。


 なるほど。


 怒鳴り声の大きさは、議決権の数には入りません。


 六十株は、六十株。


 百株にはなりません。


 その日の夕方。


 和子さんから電話がありました。


『剛志さんが、会社の顧問弁護士に相談したそうです』


「はい」


『そうしたら……累積投票の請求を無視して進めるのは問題があると言われたそうで』


 私は顔を上げました。


『定款にも、排除する規定がないんですよね』


「確認した資料では、そうでした」


『それで、累積投票で選任する準備を始めたと、会社から連絡がありました』


 私は思わず笑顔になりました。


 よかった。


 少なくとも。


 総会を開く前に、正しい手続が確認された。


 でも。


 勝負は、これからです。


 株主総会当日。


 株式会社杉浦精機の会議室。


 私は和子さんから後日聞いた話と、総会の記録をもとに、その様子を思い浮かべました。


 窓際に、長い机。


 壁には、創業者が工場の前で撮った古い写真。


 集まった株主は三人。


 剛志。


 和子さん。


 田辺さん。


 そして、総会の運営に関わる会社の担当者たち。


 議題は。


 取締役二名選任の件。


 候補者は三名。


 剛志の推薦する二名。


 それから。


 和子さんたちが推薦する、長谷川修一。


 剛志は、まだ余裕を見せていたそうです。


「累積投票だか何だか知らんが、俺のほうが株は多いんだ」


 その言葉に、和子さんは何も答えなかった。


 ただ、投票用紙を見つめていたそうです。


 そして。


 投票が始まりました。


 一株につき、選任する取締役二名分の票。


 剛志。


 六十株。


 百二十票。


 和子さん。


 三十株。


 六十票。


 田辺さん。


 十株。


 二十票。


 剛志は、自分の候補者二名に票を分けました。


 ところが。


 その配分が。


 百票。


 二十票。


 だったのです。


 剛志は、自分が最も信頼する義弟に百票を集中させました。


 もう一人には二十票。


「百票あれば絶対に通る。もう一人だって、俺の候補なんだから問題ない」


 そう考えていたのでしょう。


 けれど。


 和子さんは、六十票すべてを長谷川に投じました。


 田辺さんも、二十票すべてを長谷川に投じました。


 合計。


 八十票。


 集計が終わります。


 得票数。


 第一位。


 剛志の義弟。


 百票。


 第二位。


 長谷川修一。


 八十票。


 第三位。


 剛志のもう一人の推薦候補。


 二十票。


 選任する取締役は二名。


 最多得票者から順に当選。


 結果。


 百票の候補者。


 そして。


 八十票の長谷川が、取締役に選任されました。


「……は?」


 剛志は、そう言ったそうです。


「何でだ?」


 会議室が静まり返ります。


「何で、長谷川が当選するんだ!」


 剛志は立ち上がりました。


「俺は六十株持ってるんだぞ!」


 ……。


 やっぱり。


 六割です。


 最後まで、それです。


 しかし。


 累積投票では、持っている株数だけでなく。


 持ち票を、どの候補者へ何票ずつ配分したかが重要です。


 百二十票を持つ剛志。


 そのうち百票を一人に投じた。


 残りは二十票。


 一方。


 四十株を持つ少数派は、合計八十票を一人に集中させた。


 だから。


 八十票が、二十票を上回った。


 それだけです。


「おかしいだろ!」


 剛志は怒鳴りました。


「普通の多数決なら、俺の候補が二人とも通るはずだ!」


 会社側の担当者が、静かに説明したそうです。


「今回は、適法な請求に基づく累積投票でございます」


「だから何だ!」


「候補者ごとの得票数に従って、選任されます」


「俺の株のほうが多いんだぞ!」


「その株式数に応じた百二十票を、社長は行使されています」


 ……。


 そう。


 剛志の権利は、奪われていません。


 六十株に応じて、百二十票を与えられています。


 その票をどう使うかは、自分で決めた。


 そして、その結果が。


 百票。


 八十票。


 二十票。


 という数字になった。


 剛志は、椅子に座り込んだそうです。


「……そんな馬鹿な」


 和子さんは、その姿を見つめていました。


 勝ち誇ることは、しなかった。


 ただ。


 静かに言ったそうです。


「剛志さん」


「……何だ」


「私は、あなたを会社から追い出したかったわけじゃありません」


「……」


「ただ、主人が作った工場に、誰も意見を言えなくなるのが怖かったんです」


 剛志は何も言いませんでした。


「これからは、ちゃんと話し合ってください」


 壁には、創業者の写真。


 旋盤の前で、油まみれになって笑っている男。


 その写真を見て。


 剛志は、初めて目を逸らしたそうです。


 株主総会の翌日。


 和子さんが、片桐事務所に来ました。


「ありがとうございました!」


 私は思わず立ち上がりました。


「どうでしたか!」


「長谷川さんが、取締役に選ばれました」


「やった!」


 私は両手を握りました。


 でも。


 相馬先輩は、すぐに聞きました。


「議事録は?」


「こちらです」


 和子さんが、会社で作成された株主総会議事録の写しを差し出しました。


 相馬先輩が内容を確認します。


 開催日時。


 場所。


 出席株主。


 選任する取締役の人数。


 累積投票によること。


 候補者。


 得票数。


 選任結果。


 議事の経過。


「うん」


 先輩が頷きました。


「得票数も、ちゃんと記載されていますね」


「はい」


「選任された方の就任承諾は?」


「確認しています」


 片桐所長も資料を受け取りました。


「これなら、今回の選任結果は書面上も確認できる」


 和子さんは、ほっと息をつきました。


「よかった……」


 そのとき。


 私は一つ、気になりました。


「所長」


「何だ」


「これで社長は、会社のお金を好き勝手に使えなくなるんですか?」


 片桐所長は、首を横に振りました。


「それは別問題だ」


「え?」


「取締役を一人選任できたからといって、それだけですべてが解決するわけではない」


 ……。


 確かに。


 取締役は、まだ三名。


 剛志。


 今回選ばれた義弟。


 そして長谷川。


 長谷川は、一人です。


 取締役会で、必ず自分の意見を通せるわけではありません。


 まして。


 社長の過去の支出が、これで自動的に帳消しになるわけでもない。


「でも」


 所長は続けました。


「これからは、社長と違う立場の取締役が、会社の業務を確認し、意見を述べられる」


「はい」


「会社の利益に反する行為があれば、必要な対応を検討できる」


 相馬先輩も言いました。


「少数株主が取締役を一人送り込めたからって、会社を乗っ取ったわけじゃねえ」


「……はい」


「会社の中に、別の目を一つ置けたんだ」


 なるほど。


 別の目。


 その言葉が、胸に残りました。


「和子さん」


 私は言いました。


「これからが大事ですね」


「はい」


「長谷川さんにも、取締役として会社の利益のために仕事をしてもらわないと」


 和子さんは頷きました。


「主人は、いつも言っていました」


「何をですか?」


「会社は、社長一人のものじゃないって」


 私は黙って聞きました。


「従業員がいて、お客さんがいて、取引先がいて……それで初めて、会社が続いていくんだって」


 和子さんの目に、涙が浮かびました。


「だから、主人が亡くなったあとも、その考えだけは残したかったんです」


 私は胸が熱くなりました。


 六十株。


 四十株。


 百二十票。


 八十票。


 数字だけなら、ただの計算問題です。


 でも。


 その数字の向こうには。


 二十八人の従業員。


 町工場の設備。


 創業者が残した技術。


 そして。


 明日も働こうとしている人たちの生活がある。


 累積投票は、単なる選挙の工夫ではありません。


 多数派がすべての役員を独占することを防ぎ、少数派の意見を経営に反映させる可能性を作る制度なのです。


 和子さんが帰ったあと。


 私はノートを開きました。


「相馬先輩!」


「何だ」


「累積投票、すごいですね!」


「急にどうした」


「最初、私、勘違いしていました」


「何をだ」


「一株につき二票になるなら、みんな同じように票が増えるだけじゃないかって」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「でも違いました」


「そうだな」


「大事なのは、票を集中できることなんですね」


「そこだ」


 私はノートに書きました。


 通常の選任。


 六十株の社長が、二人の候補者について過半数を確保できる。


 累積投票。


 六十株の社長は百二十票。


 四十株の少数派は八十票。


 少数派が一人に八十票を集中させれば、社長が二名とも当選させることはできない。


「しかも」


 私は続けました。


「今回は、社長自身が百票と二十票に配分したから、結果がはっきり見えたんですね」


「そうだ」


「百票の人が一位。八十票の人が二位。二十票の人が三位」


「取締役二名なら?」


「上位二名が当選!」


 私は拳を握りました。


「……気持ちいい!」


 相馬先輩が呆れました。


「お前、数字で興奮するなよ」


「しますよ!」


「何でだ」


「だって、六割の社長が『俺が全部決める』って言っていたのに、たった四割の株主が取締役を一人選べたんですよ!」


 相馬先輩は、少し笑いました。


「社長が一番偉いんじゃねえ」


「はい!」


「商法のルールを守って、その範囲で票を使った結果が出た。それだけだ」


 私は頷きました。


 そうです。


 今回、社長の六十株を無効にしたわけではありません。


 少数株主に、特別に八十株を与えたわけでもありません。


 同じルールを、全員に適用した。


 そして。


 少数派が、そのルールを正しく理解して使った。


 それが、逆転につながったのです。


「ところで先輩」


「何だ」


「もし今の時代に、一人で株式会社を作ろうとしたらどうなるんですか?」


「は?」


 相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「一人で?」


「はい!」


「株式会社の発起人は七人以上必要だぞ」


 ……。


 そうでした。


 私は固まりました。


 昭和六十三年。


 株式会社の発起人は七人以上。


 取締役も三名以上。


 監査役も必要。


 現代のように、発起人一人、取締役一人という簡単な仕組みではありません。


「……大変ですね」


「何がだ」


「会社を作るだけで、七人も集めなきゃいけないなんて」


「それが決まりだ」


「じゃあ、人数が足りなくて、名前だけ貸してもらう人も……」


「いるだろうな」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「だからこそ、定款や議事録を適当に作るなって話だ」


「はい」


「名前だけのつもりでも、役員になれば責任が問題になることがある」


 私は頷きました。


 なるほど。


 昔の会社制度には、会社を作る段階から高いハードルがあった。


 一方で。


 株式会社が動き始めれば、多数派と少数派の対立が起こる。


 そこで。


 株主総会。


 取締役。


 監査役。


 そして累積投票。


 こうした仕組みが、会社の支配と監督を巡って重要になるのです。


「でも先輩」


「何だ」


「累積投票って、もっと広まればいいのに」


「そう簡単にはいかねえぞ」


「え?」


「定款で排除されている会社もある」


「あ……」


「そもそも、少数派がどれだけ票を集められるかにもよる」


 私は頷きました。


 確かに。


 累積投票なら、少数派が必ず取締役を選べる。


 そんな単純な制度ではありません。


 定款。


 請求手続。


 選任人数。


 株式数。


 候補者への票の配分。


 そのすべてが、結果に影響します。


「だから」


 相馬先輩は言いました。


「株主総会の前に、定款を読め」


「はい」


「株数を数えろ」


「はい」


「それから、ちゃんと計算しろ」


「はい!」


 私は笑いました。


 今回。


 社長は、六十株を持っていることだけを見ていました。


 でも。


 私たちは、百株全体を見た。


 二名選任することを見た。


 累積投票が使えるかを見た。


 そして。


 票の配分まで考えた。


 ただ、それだけの違いでした。


 ……いや。


 それだけだからこそ。


 恐ろしいのかもしれません。


 数日後。


 杉浦精機から、一通の手紙が届きました。


 差出人は、長谷川修一。


 新しく取締役に選任された技術者です。


 私は封筒を開きました。


 そこには、丁寧な文字が並んでいました。


 ――このたび、取締役に選任されました。


 ――私を推薦してくださった株主の皆様の思いを受け止めながら、特定の株主だけでなく、会社全体の利益のために職務を果たす所存です。


 ――工場で働く者たちが、安心して仕事を続けられる会社にしたいと思います。


 私は、しばらく手紙を見つめました。


 特定の株主だけでなく。


 会社全体の利益のために。


 ……そうですよね。


 累積投票で選ばれた取締役だからといって、推薦した少数株主だけの代理人になるわけではありません。


 取締役になった以上。


 会社のために、必要な注意を払って職務を行う。


 それが大切なのです。


「所長」


 私は手紙を持って奥へ行きました。


「何だ」


「長谷川さんからです」


 所長は読みました。


 そして。


 小さく頷きました。


「いい取締役になりそうだな」


「はい!」


 私は嬉しくなりました。


 今回、守れたのは。


 四十株の権利。


 だけではありません。


 会社の中に、異なる意見を持つ人が残れる可能性。


 社長の判断を、別の立場から確認できる可能性。


 従業員の声が、取締役会まで届く可能性。


 そういうものだったのです。


 夕方。


 窓の外には、赤い夕日。


 私は机の上に、あの計算用紙を広げていました。


 六十株。


 三十株。


 十株。


 取締役二名。


 百二十票。


 六十票。


 二十票。


 そして。


 百票。


 八十票。


 二十票。


 この数字を見れば、私はたぶん、もう累積投票を忘れません。


「相馬先輩!」


「また何だ」


「一つ、確認していいですか?」


「言ってみろ」


「普通の選任方法なら、六十株を持つ社長が推薦する二人が選ばれやすい」


「そうだ」


「でも累積投票なら、一株につき選任人数分の票を持つ」


「うん」


「今回は二名だから、二票ずつ」


「そうだ」


「少数派の四十株は、合計八十票になる」


「うん」


「それを一人に集中させれば、社長が推薦する二名を独占的に当選させることを防げる」


「今回の条件ならな」


「はい!」


 私は笑いました。


「完璧です!」


「じゃあ、もういいな」


「はい!」


「掃除しろ」


「……え?」


 相馬先輩は、箒を指差しました。


「床、汚れてるぞ」


 私は眉をひそめました。


「先輩」


「何だ」


「掃除の担当も、累積投票で決めませんか?」


「は?」


「所長、先輩、私の三人で!」


 私は指を立てました。


「一人一票なら、先輩と所長が組んで、私が毎回負けます!」


「当たり前だ」


「だから、累積投票で!」


「掃除当番を何人選ぶつもりだ!」


「二人です!」


「何で二人なんだよ!」


「そうすれば、一人二票になります!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「お前、それで何をする気だ」


「私の二票を、先輩に集中させます!」


「……」


「すると、先輩が掃除当番に選ばれる可能性が高くなります!」


「お前なあ!」


 私は笑いました。


 でも。


 そこで、片桐所長が静かに口を開きました。


「こはる」


「はい!」


「そもそも、掃除当番は株主総会で選ぶ取締役ではない」


「……はい」


「累積投票は使えん」


「……ですよね」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほら見ろ!」


「ちょっと応用してみただけです!」


「応用する場所が違う!」


 私は渋々、箒を手に取りました。


 でも。


 掃除をしながらも、頭の中にはあの数字がありました。


 六十。


 四十。


 百二十。


 八十。


 普通なら負ける。


 でも。


 票を集中させれば、少数派にも道が開ける。


 これが累積投票。


 そして。


 私は、少しだけ思いました。


 法律の勉強って。


 面白い。


 ただの計算問題だったはずなのに。


 その数字が、会社を守る鍵になる。


 社長が知らなかった仕組みを、少数株主が正しく使う。


 その結果。


 町工場に、一人の取締役が残る。


 会社を立て直すための、もう一つの目が生まれる。


 それは。


 小さな逆転かもしれません。


 でも。


 その一票がなければ、会社はもっと大きなものを失っていたかもしれないのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「何をニヤニヤしてる!」


「累積投票の計算を思い出してました!」


「掃除しながらか!」


「はい!」


「変な奴だな!」


 私は笑いました。


 そして、箒を動かしながら呟きました。


「でも先輩」


「何だ」


「六割の株を持っていても、全部思いどおりになるわけじゃないんですね」


 相馬先輩は、少しだけ真面目な顔になりました。


「ああ」


「多数決って、絶対じゃないんですね」


「そうだな」


 先輩は、机に置かれた定款を指差しました。


「だから会社には、いろんな決まりがある」


 私は頷きました。


 多数派には、多数派の力がある。


 少数派には、少数派の権利がある。


 その両方を考えながら、会社を動かしていく。


 それが、株式会社という仕組みなのでしょう。


 私は、あの社長の顔を思い出しました。


「俺が六割持っているんだ!」


 何度もそう叫んでいた男。


 けれど。


 株主総会の結果は、変わりませんでした。


 百票。


 八十票。


 二十票。


 上位二名が当選。


 どれだけ怒鳴っても。


 どれだけ威張っても。


 二十票は、八十票には勝てない。


 そして。


 会社は、社長の私物ではない。


 株式を多く持っている人間にも、守らなければならないルールがある。


 昭和六十三年。


 商法第二編。


 その古めかしい条文の中には。


 今日も、少数派を守るための仕組みが、静かに息づいていました。


 私はノートに、一行だけ書きました。


 ――累積投票は「株数の勝負」を「票の配分の勝負」に変え、少数派にも取締役を選ぶ道を開く。


 よし。


 これなら、忘れません。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、累積投票が好きになりました!」


「そうかよ!」


「でも、定款で排除されていると使えない場合があるんですよね!」


「そうだ!」


「だから、まず定款!」


「そうだ!」


「次に、選任人数!」


「ああ!」


「そして、票の計算!」


「分かったから掃除しろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、箒を動かしました。


 窓の外。


 町工場の煙突から、夕暮れの空へ細い煙が上がっています。


 あの工場では、今日も誰かが働いているのでしょう。


 旋盤を回し。


 金属を削り。


 部品を作り。


 明日の仕事を準備している。


 その人たちの生活を守るために。


 会社には、社長以外の声も必要なのです。


 百株のうち。


 たった四十株。


 でも。


 その四十株には、確かに意味がありました。


 法律は、数の多い人だけに味方するわけではない。


 数の少ない人にも、声を届ける仕組みを用意している。


 だからこそ。


 私はもう、会社の株式を見るとき。


 単純に過半数だけを数えることはしないでしょう。


 まず、定款を開く。


 取締役の選任人数を確認する。


 そして。


 一株に、いくつの票が与えられるのか。


 そこから、考えることにします。


 だって。


 六十株を握って勝ち誇る社長が、知らなかったのですから。


 その日の株主総会では。


 四十株が、一人の取締役を選べることを。

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