[会社法・株主総会の権限と招集]現場編 「社長が呼ばなければ総会は開けない」の嘘。消された招集通知と、三%の株主が暴いた乗っ取り議事録
会社の社長は、会社の王様ではありません。
どれだけ偉そうでも。
どれだけ大きな机に座っていても。
どれだけ社員に頭を下げさせていても。
会社のすべてを、一人で決められるわけではないのです。
なぜなら。
株式会社には、社長よりも上に立つ意思決定の仕組みがあるからです。
その名も。
――株主総会。
ところが、世の中には困った社長がいます。
「俺が呼ばなければ、株主総会なんか開けねえ!」
「俺が決めたことは、全部会社の決定だ!」
「株を持っているだけの奴は、黙って配当を待ってろ!」
……はい。
法律の勉強をしている人なら、この時点で嫌な予感がしますよね。
でも。
本当に恐ろしいのは、その先です。
社長が株主総会を開かないだけなら、まだ問題は分かりやすい。
ところが。
開いてもいない株主総会を、開いたことにしてしまったら?
しかも、その議事録を使って、会社の大切な工場を売り飛ばそうとしていたら?
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は学ぶことになります。
株主総会の招集通知は、ただのお知らせではない。
株主の権利を守るための、法律上の扉なのだと。
「株主総会に、呼んでもらえなかったんです」
朝九時。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
「……呼んでもらえなかった?」
私は聞き返しました。
男性の名前は、村瀬修一さん。
四十二歳。
町外れにある金属加工会社、東海精機株式会社の創業時からの株主です。
油染みの残る作業服。
ひび割れた指先。
その手には、使い古された封筒が握られていました。
「私は、あの会社の株を持っているんです」
「何株ですか?」
「百株です。会社の発行済株式は二千株ですから、五%になります」
「五%……」
私は顔を上げました。
五%。
この数字。
あとで重要になりそうです。
「それで、何があったんですか?」
「先週、社長から突然言われたんです」
村瀬さんは、唇を噛みました。
「来月から、お前の働いている工場はなくなるって」
「工場が?」
「はい。別の会社に売るそうです」
私は眉をひそめました。
「工場を売却するんですか?」
「土地も建物も、機械もです。会社の営業も、ほとんどそっちへ移すらしくて」
なるほど。
単なる機械の売却ではありません。
会社の主要な事業を、まとめて他社へ移そうとしている。
「従業員はどうなるんですか?」
「分かりません」
村瀬さんは俯きました。
「三十人近くいるんです。長く勤めた職人も、若い子も……」
その声が震えました。
「みんな、突然仕事を失うかもしれないんです」
私は思わず拳を握りました。
ひどい。
でも。
社長が会社の事業を売ること自体が、直ちに違法とは限りません。
問題は。
誰が、どんな手続で、それを決めたのか。
「株主総会では、説明があったんですか?」
私が聞くと、村瀬さんは首を振りました。
「それが……」
封筒から、一枚の紙を取り出しました。
私は受け取りました。
そこには、こう書かれていました。
――東海精機株式会社。
――臨時株主総会決議通知。
――昭和六十三年九月二十日開催の臨時株主総会において、当社主要営業部門の譲渡を承認した。
――賛成多数により可決。
代表取締役。
黒田源蔵。
私は目を丸くしました。
「臨時株主総会、開いてるじゃないですか!」
「ええ」
「九月二十日ですね」
「はい」
「村瀬さんは?」
「呼ばれていません」
「招集通知は?」
「届いていません」
「本当に?」
「はい。家族にも確認しました」
私は紙を見直しました。
臨時株主総会。
賛成多数。
営業譲渡承認。
……あれ?
「村瀬さん」
「はい」
「株主総会が開かれたって、いつ知ったんですか?」
「先週です。この通知が届いて、初めて知りました」
「九月二十日の総会なのに?」
「そうです」
私は黙りました。
これ。
かなり問題では?
「所長!」
私は奥へ声をかけました。
「何だ」
「株主総会の招集通知が届かないまま、会社の営業譲渡が決議されたそうです!」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
そして。
「相馬」
「はい」
「定款を見ろ」
たった一言。
……定款?
私は首をかしげました。
株主総会の問題なら、招集通知を調べればいいのでは?
ところが。
相馬先輩は、すぐに村瀬さんへ尋ねました。
「会社の定款はありますか?」
「古いものなら」
「持ってきていますか?」
「はい」
村瀬さんは鞄から、厚い紙の束を取り出しました。
東海精機株式会社定款。
昭和四十七年作成。
黄ばんだ表紙。
私は、それを見て思いました。
……またです。
昭和の会社。
何かあると、すぐ定款。
令和の会社法を勉強していた頃より、ずっと紙が重い気がします。
そして。
この定款には、社長が絶対に見られたくない一行が隠れていたのです。
「まず確認するぞ」
相馬先輩が六法を机に置きました。
「こはる。株式会社の最高意思決定機関は?」
「株主総会です!」
「よし」
「会社の組織や運営の根本に関する重要事項を決めます!」
「そうだ」
私は得意になって続けました。
「現代の会社法では、取締役会設置会社の場合、株主総会で決議できるのは会社法で定めた事項と定款で定めた事項です!」
「……現代?」
しまった。
相馬先輩の目が細くなりました。
「お前、また妙な言い方したな」
「あ、いえ!」
私は慌てました。
そうでした。
ここは昭和六十三年。
会社法という独立した法律は、まだありません。
今、私が開いているのは。
商法。
しかも、第二編の会社に関する規定です。
「先輩!」
「何だ」
「この会社、取締役会設置会社ですよね!」
「……何を当たり前のこと言ってる」
「え?」
「株式会社だぞ」
「あ」
私は固まりました。
昭和六十三年。
この時代の株式会社は、取締役を三人以上置き、取締役会を構成する仕組みです。
現代のように。
取締役一人だけの株式会社。
取締役会を置かない株式会社。
そんな自由な設計は、できません。
「じゃあ、現代の非取締役会設置会社みたいに、株主総会が広く業務上の事項まで決められる仕組みは……」
「何だそれ」
相馬先輩が即答しました。
「……ありませんよね」
「当たり前だ」
ぐぬぬ。
また未来の会社法が邪魔をしました。
「株式会社を作るだけでも、発起人は七人以上必要だったんですよね」
「そうだ」
「取締役は三人以上」
「ああ」
「監査役も必要」
「当然だ」
「現代なら発起人一人、取締役一人でも作れるのに……」
「お前はいつの話をしてるんだ」
「心の中の話です!」
「声に出てるぞ」
危ない。
転生者、また一歩で正体がばれるところでした。
でも。
片桐所長は、そんな私たちの会話には加わりませんでした。
定款のある箇所を、じっと見ています。
「こはる」
「はい」
「そこは後だ」
「はい」
「まず、今回の総会で何を決めたかを見ろ」
私は決議通知に目を戻しました。
――主要営業部門の譲渡。
あ。
「会社の大切な事業を譲るなら、株主総会の承認が問題になります!」
「そうだ」
「単に社長が売ると決めただけでは、足りない場合がある!」
相馬先輩が頷きました。
「営業の全部、あるいは重要な一部の譲渡は、旧商法でも株主総会の特別決議が必要になる場合がある」
「特別決議……!」
私は村瀬さんを見ました。
「ということは、社長は株主総会を開いたことにして、営業譲渡の承認を取ったんですね」
「そういうことになります」
村瀬さんが言いました。
でも。
そこで所長が口を開きました。
「まだ決めつけるな」
「え?」
「実際に総会が開かれたかどうかも、確認できていない」
……そうでした。
議事録や通知があるからといって。
本当に総会が開かれたとは限らない。
「相馬」
「はい」
「議事録を確認する」
「分かりました」
所長は定款を閉じました。
「そして、招集手続だ」
私は頷きました。
株主総会。
重要なのは、何を決めたかだけではない。
どうやって株主を集めたか。
そこにも、法律のルールがあるのです。
翌日。
村瀬さんの案内で、私たちは東海精機株式会社へ向かいました。
昭和六十三年の工業団地。
工場の煙突。
トラックの排気音。
鉄板を切断する甲高い機械音。
その奥に、二階建ての事務所がありました。
社長室の扉には、
――代表取締役社長 黒田源蔵。
と書かれた立派な札。
そして。
「何だ、お前ら」
中から現れたのは、五十代後半の男でした。
太い眉。
金色の腕時計。
革張りの椅子にふんぞり返っています。
「村瀬か。今さら何の用だ」
村瀬さんが頭を下げました。
「社長。営業譲渡の件で、確認したいことがあります」
「まだ言ってるのか!」
黒田社長は机を叩きました。
「もう株主総会で決めたんだ! 今さら覆せるか!」
「ですが、私は総会に呼ばれていません」
「だから何だ!」
……だから何だ?
私は思わず目を見開きました。
株主に対して。
総会に呼ばれなかったことを指摘されて。
だから何だ。
すごいですね。
この社長。
商法に喧嘩を売る才能があります。
「社長」
相馬先輩が言いました。
「株主総会の招集通知は、いつ発送されましたか?」
「知らん!」
「会社として発送記録はありますか?」
「総務に任せている!」
「では、取締役会で総会招集を決定した記録は?」
黒田社長の眉が動きました。
「……何?」
「取締役会議事録です」
「そんなもの、いちいち確認する必要があるのか?」
「あります」
相馬先輩は静かに言いました。
「株主総会は、社長の思いつきで好き勝手に招集するものじゃありません」
「俺が社長だぞ!」
「存じています」
「この会社は俺が大きくしたんだ!」
「そうでしょうね」
「だったら、俺が決める!」
相馬先輩は、少しも動じません。
「会社を育てたことと、商法の手続を守らなくていいことは、別問題です」
黒田社長の顔が赤くなりました。
「何だと!」
「社長が一番偉いんじゃねえ」
相馬先輩の声が低くなりました。
「商法を守った奴が勝つんだよ」
……出ました。
相馬先輩の決め台詞。
私は心の中で拍手しました。
でも。
黒田社長は鼻で笑いました。
「たかが五%の株主だろうが!」
村瀬さんが顔を上げました。
「五%でも、株主です」
「うるさい!」
黒田社長は言いました。
「会社の九割近い株は、俺と俺の家族、俺に賛成する連中が持ってるんだ!」
「……」
「五%の奴が来ようが来まいが、決議は変わらん!」
私は唇を噛みました。
なるほど。
この社長の理屈は、こうです。
多数派が賛成している。
だから少数派の株主は無視していい。
どうせ決議は通る。
だから呼ぶ必要もない。
……いやいや。
違います。
「社長」
私は思わず口を開きました。
「株主総会の招集通知は、決議結果を変えられる人だけに送るものじゃありません」
「あ?」
「少数株主にも、出席して、議案を知って、意見を述べる機会があります」
「そんなことは知らん!」
「知らないから守らなくていい、とはなりません!」
黒田社長が立ち上がりました。
「小娘が!」
相馬先輩が私の前に出ました。
「こはる」
「……はい」
「もういい」
先輩は黒田社長に向き直りました。
「本日は、村瀬さんの同席のもとで、総会招集に関する事実を確認しました。あとは本人名義の書面で対応します」
「書面?」
黒田社長が笑いました。
「行政書士が紙切れ一枚出して、何ができる!」
片桐所長は、黙って立ち上がりました。
そして。
「黒田社長」
「何だ!」
「その株主総会」
所長は、静かに尋ねました。
「本当に開かれたんですか」
一瞬。
黒田社長の表情が止まりました。
ほんの一瞬です。
でも。
私は見逃しませんでした。
……あれ?
今。
何か、まずいことを聞かれた顔をしましたよね?
「当たり前だ!」
黒田社長は怒鳴りました。
「議事録がある!」
所長が頷きました。
「そうですか」
「あるんだから、それで終わりだ!」
「分かりました」
所長は、それ以上何も言いませんでした。
社長室を出ます。
私は我慢できずに尋ねました。
「所長!」
「何だ」
「さっき、何に気づいたんですか?」
所長は歩きながら答えました。
「議事録があることと、総会が開かれたことは同じではない」
「……!」
「そして」
所長は振り返りました。
「社長が持っていたあの紙には、もう一つ妙なところがあった」
「何ですか?」
「招集日だ」
私は首をかしげました。
招集日?
「相馬」
「はい」
「事務所に戻って、日付を調べるぞ」
所長の声は、いつもどおり静かでした。
でも。
私は知っています。
この人が日付を気にし始めたとき。
誰かの嘘が、もうすぐ暴かれるのです。
事務所に戻ると、相馬先輩は机に三枚の紙を並べました。
一枚目。
株主総会決議通知。
二枚目。
村瀬さんが入手した株主総会議事録の写し。
三枚目。
東海精機株式会社の定款。
「こはる」
「はい!」
「この総会は、いつ開かれたことになっている?」
「九月二十日です」
「招集通知の発送日は?」
私は議事録の添付資料を見ました。
「……九月十六日?」
「そうだ」
「四日前ですね」
「ああ」
私は首をかしげました。
「でも、現代の会社法なら、非公開会社は原則一週間前までに通知して……」
「待て」
先輩が止めました。
「また未来の話か」
「すみません!」
私は慌てて昭和六十三年の商法を開きました。
商法第二百三十二条。
株主総会の招集通知。
原則として、会日の二週間前まで。
ただし、株式譲渡制限のある会社については、定款で一週間を限度として短縮できる仕組みがある。
「なるほど!」
私は定款を開きました。
東海精機には、株式譲渡制限があります。
そして、そこには。
――株主総会の招集通知は、会日の一週間前までに発する。
と書かれていました。
「あっ!」
私は指差しました。
「一週間前!」
「そうだ」
「九月二十日の総会なのに、発送したとされるのは九月十六日!」
「四日前だな」
「定款で短縮しても、一週間必要なのに!」
相馬先輩が頷きました。
「そのとおり」
私は思わず立ち上がりました。
「じゃあ、招集手続に問題があります!」
「それだけじゃねえ」
「え?」
「村瀬さんには、その通知自体が届いていない」
そうでした。
通知の発送時期がおかしい。
しかも、株主の一人には通知が届いていない。
私は議事録を見ました。
そこには。
――出席株主の議決権数、千八百。
と記されています。
総議決権数は二千。
九割。
つまり。
村瀬さんが出席していなくても、決議成立に必要な賛成を集めたと主張しているのです。
「でも先輩」
「何だ」
「九割が本当に出席して、必要な特別決議をしたなら、村瀬さんが呼ばれなかっただけで、必ず決議が無効になるんですか?」
相馬先輩は、にやりとしました。
「ようやく、まともな質問をしたな」
「今までの質問は何だったんですか!」
「勢いだ」
「ひどい!」
片桐所長が口を開きました。
「招集手続に瑕疵があれば、決議取消しの問題になる」
「はい」
「ただし、違反があるからといって、すべての決議が当然に無効になるわけではない」
「……はい」
「瑕疵の内容や重大性、決議への影響なども問題になる」
私は頷きました。
そうです。
法律は、単純に、
通知が一日遅れた!
全部無効!
と機械的に決めるものではありません。
裁判で決議の効力を争うなら、必要な手続や期間もあります。
でも。
今回の問題は、それだけではなさそうです。
「こはる」
所長が議事録を指差しました。
「ここを見ろ」
私は覗き込みました。
――議長 代表取締役黒田源蔵。
――出席取締役 黒田源蔵、藤田清、黒田康夫。
――出席監査役 大野重吉。
そして。
――本議案は、出席株主の賛成多数により承認可決された。
「……普通に見えますけど」
「議決権の数字を見ろ」
私はもう一度、確認しました。
千八百。
そして、その内訳。
黒田源蔵。
九百株。
黒田康夫。
四百株。
藤田清。
二百株。
大野重吉。
三百株。
「……あれ?」
私は目を瞬かせました。
「監査役の大野さんも株主なんですね」
「そうだ」
「三百株持っている」
「ああ」
所長は一枚のメモを取り出しました。
「村瀬さんに確認してもらった。大野氏は九月二十日、入院していたそうだ」
「え?」
「九月十八日から二十五日まで、市民病院にいた」
私は固まりました。
「……じゃあ、株主総会には?」
「少なくとも、本人は出席していないと言っている」
「代理人が出た可能性は?」
相馬先輩が答えました。
「委任状も出していないそうだ」
……。
私は議事録を見ました。
出席株主。
大野重吉。
三百株。
そして。
監査役としても出席したことになっている。
「先輩」
「何だ」
「これって……」
「ああ」
相馬先輩が笑いました。
「面白くなってきただろ」
私は首を振りました。
「面白いというより、怖いです」
「そうだな」
所長は静かに言いました。
「議事録が、事実と違う可能性がある」
そこへ。
電話が鳴りました。
村瀬さんからでした。
『片桐先生、大変です!』
「どうしました」
『黒田社長が、今週中に営業譲渡契約を進めるって……!』
私は息を呑みました。
今週中。
時間がありません。
片桐所長は、受話器を置くと、短く言いました。
「相馬」
「はい」
「書類を作るぞ」
いよいよ。
昭和の商法による反撃が始まりました。
「まず、五%だ」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「村瀬さんの持株比率だよ」
「あっ!」
私は顔を上げました。
五%。
ここで、最初に気になった数字がつながりました。
「少数株主による株主総会の招集請求!」
「そうだ」
私は六法を開きました。
旧商法第二百三十七条。
一定割合以上の議決権を持つ株主には、株主総会の招集を請求する制度があります。
この時代の規定では、原則として六か月前から引き続き、総株主の議決権の百分の三以上を有することが必要です。
「三%……!」
私は村瀬さんの株式数を見ました。
二千株のうち百株。
五%。
そして。
創業以来、十年以上保有。
「条件を満たしています!」
「そのとおり」
「じゃあ村瀬さんは、総会を開くよう請求できるんですね!」
「ああ」
私は嬉しくなりました。
社長が、
「株主総会は俺が呼ぶものだ!」
と威張っていても。
法律は、少数株主のために別の道を残している。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「五%持っているからといって、勝手に会場を借りて総会を開けばいいわけじゃねえぞ」
「はい」
「まず、法律に従って招集を請求する」
「はい」
「取締役会が適切に対応しない場合には、裁判所の許可による招集という手段もある」
「なるほど……!」
私は深く頷きました。
つまり。
社長が呼ばなければ終わり。
ではない。
少数株主にも、法律上の手続があるのです。
「でも、先輩」
「何だ」
「今回は、もう決議したことにされていますよね」
「そうだ」
「今から臨時株主総会を請求しても、間に合うんでしょうか?」
相馬先輩は頷きました。
「だから、二本立てだ」
「二本立て?」
片桐所長が紙を二枚、机に置きました。
「一つは、先日の総会決議についての事実確認と異議の通知」
「はい」
「もう一つは、臨時株主総会の招集請求書だ」
私は息を吸いました。
なるほど。
過去の決議の問題を指摘する。
それと同時に。
適法な株主総会を開くよう求める。
「ただし、こはる」
所長が言いました。
「営業譲渡の効力を争う訴訟や、差止めが必要になるなら弁護士の仕事だ」
「はい」
「我々は、代理人として相手と争うわけじゃない」
「本人名義の書類を整えるんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
私たち行政書士は、裁判所で戦う人間ではありません。
紛争の示談交渉を、代理して引き受けることもできません。
でも。
依頼人が自分の権利を行使するために、必要な書類を正確に作ることはできる。
そして。
事実の食い違いや法律上の問題を、書面として整理できる。
「所長」
「何だ」
「書類の原案、私に書かせてください!」
「いいだろう」
私は拳を握りました。
「やります!」
「ただし」
「はい」
「『社長が悪いから全部無効』などと書くなよ」
「……先に考えていた文章が読まれました!」
相馬先輩が吹き出しました。
「お前は本当に分かりやすいな」
「先輩!」
「何だ」
「悪いことした人が悪いって、はっきり書いた方が!」
「法律の書面は感想文じゃねえ」
「ぐっ……!」
正論。
今回も先輩の勝ちです。
私は鉛筆を握り直しました。
三時間後。
机の上には、一通の内容証明郵便の原案ができていました。
宛先。
東海精機株式会社。
代表取締役黒田源蔵。
差出人。
株主 村瀬修一。
私は読み上げました。
「第一。本通知人は、貴社発行済株式二千株のうち百株を、昭和四十七年以来継続して保有する株主である」
「うん」
「第二。貴社は、昭和六十三年九月二十日に臨時株主総会を開催し、主要営業部門の譲渡を承認した旨を通知した」
「うん」
「第三。しかし、本通知人は、当該臨時株主総会につき、招集通知を受けておらず、出席の機会を与えられていない」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。貴社定款は、株主総会の招集通知を会日の一週間前までに発する旨を定めているところ、確認された招集通知の発送日付は同年九月十六日であり、会日まで四日しかない」
「よし」
「第五。したがって、当該株主総会の招集手続には、商法及び定款に照らして重大な疑義がある」
私は一度、息を吸いました。
「第六。当該議事録に記載された出席者についても、実際の出席状況との不一致が指摘されているため、招集通知の発送記録、議決権行使に関する資料及び議事録の内容について確認を求める」
相馬先輩が頷きました。
「いいぞ」
私は最後の部分を読みました。
「第七。本通知人は、当該株主総会決議の適法性について異議を留め、主要営業部門の譲渡につき、必要な機関決定及び適法な手続が確認されるまで、慎重な対応を求める」
所長が目を閉じました。
「……うん」
「どうでしょう!」
「悪くない」
やった!
片桐所長の「悪くない」。
これは、かなり高い評価です。
でも。
「こはる」
「はい」
「最後の一文を直せ」
「えっ!」
所長が赤鉛筆を取りました。
「『本通知をもって営業譲渡は無効となる』」
……。
「あ」
「内容証明に、そんな効力はない」
「ですよね……」
「書いたからといって、営業譲渡が自動的に無効になるわけではない」
「はい」
所長は、そこに赤線を引きました。
「内容証明は、意思表示や通知の内容を証拠として残すための手段だ」
私は頷きました。
そして。
書き直しました。
――本件につき法的手続を要する場合には、弁護士への相談のうえ、決議の効力を争う訴訟その他の適切な措置を検討する。
「これなら?」
「よし」
私は胸を撫で下ろしました。
よかった。
危うく内容証明郵便を、魔法の無効化呪文にしてしまうところでした。
「次だ」
相馬先輩が二枚目の紙を渡しました。
「臨時株主総会招集請求書」
「はい!」
私は原案を書き始めました。
請求者。
村瀬修一。
保有議決権割合。
五%。
保有期間。
昭和四十七年以来。
招集を求める理由。
主要営業部門の譲渡について、株主に十分な説明がなく、先日の臨時株主総会の招集手続及び決議内容にも重大な疑義があること。
株主総会の目的事項。
――主要営業部門の譲渡に関する件。
――取締役の選任及び解任に関する件。
私は手を止めました。
「所長」
「何だ」
「取締役の解任も、株主総会で決めるんですよね」
「そうだ」
「社長だからといって、勝手に役員の地位を守れるわけじゃない」
「ああ」
私は少し笑いました。
なるほど。
黒田社長は、
「俺が社長だから会社のことは全部俺が決める」
と主張していました。
でも。
取締役を選任し、解任する権限は、株主総会にある。
社長が、自分の地位を永遠に保証できるわけではありません。
「もっとも」
相馬先輩が言いました。
「村瀬さんの五%だけで、社長を解任できるわけじゃねえぞ」
「はい」
「他の株主にも賛成してもらう必要がある」
「そうですよね」
私は頷きました。
少数株主に、総会を開かせるための道がある。
それは。
少数株主が何でも決められるという意味ではありません。
決めるのは、適法に成立した株主総会。
そこで必要な多数を得られるかどうか。
それは、また別の話なのです。
「でも先輩」
「何だ」
「社長は九割が自分の味方だって言ってましたよね」
「ああ」
「それなら、総会を開き直しても社長が勝つんじゃ……」
相馬先輩は、定款を指差しました。
「本当に九割が味方なら、な」
「え?」
そこで、片桐所長が口を開きました。
「村瀬さんから、もう一枚資料が届いている」
所長は封筒を開きました。
中には、大野重吉さんの署名押印がある確認書。
あの、入院していた監査役です。
そこには。
――私は九月二十日の臨時株主総会に出席していない。
――代理人を選任した事実もない。
――営業譲渡議案に賛成した事実はない。
さらに。
もう一枚。
黒田社長の古くからの協力者、藤田清さんの確認書。
――当日、株主総会には出席していない。
――営業譲渡についての説明を受けておらず、賛成もしていない。
私は目を見開きました。
「……えっ」
相馬先輩が言いました。
「黒田が主張する九割のうち、五百株分が怪しくなった」
私は計算しました。
九百。
四百。
二百。
三百。
合計千八百株。
でも。
藤田さんの二百株。
大野さんの三百株。
この五百株分の出席と賛成には、重大な疑義があります。
「ということは……」
私は息を呑みました。
「黒田社長側の賛成は、確実に確認できる範囲では千三百株?」
「そうだ」
「二千株の三分の二に届かない!」
「そのとおり」
私は固まりました。
千三百株。
二千株の三分の二は、およそ千三百三十三・三株。
つまり。
仮に総議決権二千を基準に三分の二の賛成が必要となる場面なら、千三百では足りない。
もっとも、実際の特別決議は、総議決権と出席議決権に関する要件を正確に確認する必要があります。
でも。
ここで問題なのは、もっと根本的なことでした。
議事録に書かれた出席者と賛成者。
それ自体が、事実と違う可能性がある。
「所長!」
「何だ」
「これ、招集通知の問題だけじゃありません!」
「そうだ」
「決議が本当に成立したのかまで、疑わしくなります!」
所長が頷きました。
「そこだ」
相馬先輩が笑いました。
「最初は、五%の株主なんか無視してもいいと思っていたんだろうな」
「はい」
「ところが、その五%の株主が調べ始めた」
「はい」
「そしたら、出席したことになっている連中まで、出ていないと言い始めた」
私は、議事録を見ました。
紙には。
賛成多数。
と書かれている。
でも。
実際の株主の意思は、違うかもしれない。
「……怖いですね」
私が呟くと、片桐所長が言いました。
「怖いのは、紙じゃない」
「え?」
「書いてもいない人間の意思を、書いたことにした人間だ」
私は、しばらく黙りました。
そして。
改めて思ったのです。
株主総会の議事録は、社長の願望を書く紙ではない。
実際に何が行われ、何が決議されたかを記録するもの。
そこに嘘を書けば。
紙は、会社を守る証拠ではなく。
嘘を暴く証拠に変わるのです。
内容証明郵便と招集請求書は、村瀬さん本人の意思を確認したうえで整えられました。
発送。
配達証明。
控えの保管。
そして。
争いが裁判に進む可能性に備え、所長は弁護士への相談も勧めました。
その三日後。
東海精機株式会社から、村瀬さんへ連絡がありました。
営業譲渡の手続を、いったん延期する。
そして。
株主総会の招集手続と議事録を再確認する。
そういう内容でした。
「……延期?」
私は電話を受けた村瀬さんの顔を見ました。
「はい」
村瀬さんは、まだ信じられないという表情です。
「社長が、いったん止めると言っています」
「本当ですか!」
「はい」
相馬先輩が横から言いました。
「まだ喜ぶな」
「またですか!」
「当たり前だ」
先輩は書面を指差しました。
「延期は、解決じゃねえ」
「……はい」
「議事録の真偽も、決議の効力も、まだ確認が必要だ」
そうでした。
ただ。
会社の大切な工場が、何も確認されないまま売られる。
その流れには、いったん歯止めがかかったのです。
さらに数日後。
黒田社長は顧問弁護士の指摘を受け、従前の決議を根拠として営業譲渡を進める方針を撤回しました。
議事録の内容に重大な問題があることを認めたのです。
そして。
会社の取締役会は、適切な手続による臨時株主総会の開催を決めました。
今度は。
村瀬さんにも。
藤田さんにも。
大野さんにも。
招集通知が届きました。
定款に従い、必要な期間を確保した通知です。
議題も記されています。
主要営業部門の譲渡について。
経営方針について。
取締役の選任及び解任について。
私は、その写しを見ました。
「……ちゃんと届いてる」
相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「たった一枚の通知なのに」
「そうだな」
「前回と全然違いますね」
相馬先輩は、煙草に火をつけながら言いました。
「紙一枚で、株主の席が用意されるんだ」
私は、その言葉を胸に刻みました。
臨時株主総会の日。
村瀬さんは、会場へ向かいました。
私たちは議決権行使の代理人として同行するわけではありません。
あくまで、事前に書類を整える立場です。
だから。
村瀬さんは、自分の足で会場に入りました。
自分の名前を名簿に記しました。
自分の意思で、議案に向き合いました。
会場には、黒田社長もいました。
しかし。
以前のように、
「俺が法律だ!」
と怒鳴ることはなかったそうです。
議長として説明を始めたものの。
村瀬さんが立ち上がると、黙って発言を認めたといいます。
「私は、会社を潰したいわけではありません」
村瀬さんは言いました。
「この会社には、長く働いてきた職人がいます」
静かな会議室。
窓の外から、工場の機械音が聞こえます。
「創業した頃は、七人の発起人を集めるのも大変でした」
村瀬さんは、昔を思い出したそうです。
会社を作るために。
仲間を集めて。
頭を下げて。
小さなお金を出し合って。
ようやく株式会社を設立した。
「でも、名前を貸しただけの人もいました」
会場に、苦笑が広がりました。
「社長に頼まれたから、よく分からないまま役員になった人もいました」
黒田社長は俯いたそうです。
「それでも、私たちは会社を作ったんです」
村瀬さんの声が震えました。
「この町で、仕事を続けるために」
そして。
「だからこそ、会社の大事なことは、ちゃんとみんなに説明してほしいんです」
会場は静まり返りました。
「株を五%しか持っていないから、黙っていろ。それでは、私たちは何のために出資したんでしょうか」
私は、その話を後から聞きました。
そして、胸が熱くなりました。
そうです。
株主総会は。
社長を困らせるための制度ではありません。
会社の重要な意思決定に、株主が適法な形で参加するための制度なのです。
その日の臨時株主総会では、営業譲渡案について、十分な説明が行われました。
売却先。
譲渡価格。
工場の従業員の処遇。
将来の事業計画。
そして。
会社の再建可能性。
説明を受けた株主たちは、議論しました。
最終的に。
営業譲渡案は、必要な賛成を得られず、承認されませんでした。
代わりに、工場の再建計画を検討する方針が確認されました。
さらに。
取締役の改選が行われ、黒田社長は代表取締役の地位を退くことになりました。
もちろん。
これは、村瀬さんの五%だけで決めたことではありません。
他の株主たちが。
説明を聞き。
考え。
自分の意思で議決権を行使した結果です。
社長一人の会社ではない。
株式会社とは。
そういう仕組みなのです。
数日後。
村瀬さんが、事務所へやってきました。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げます。
「工場、すぐにはなくならずに済みました」
私は笑いました。
「よかったです!」
「若い職人たちも、喜んでいます」
村瀬さんは、小さな封筒を差し出しました。
「これ、写真なんです」
私は受け取りました。
写っていたのは、工場の前に並ぶ従業員たち。
作業服。
油まみれの手。
少し照れくさそうな笑顔。
その真ん中に、村瀬さんが立っています。
「昨日、みんなで撮りました」
「いい写真ですね」
「ええ」
村瀬さんは笑いました。
「まだ会社の経営は厳しいですけどね」
「はい」
「でも、これからは、ちゃんと話し合えます」
私は頷きました。
そうです。
株主総会で決議したからといって、すべてがうまくいくわけではありません。
経営が改善する保証もありません。
でも。
少なくとも、勝手に決められることは防げる。
異議を述べる機会がある。
必要な情報を知る機会がある。
それが、法律の大切な役割なのです。
「朝比奈さん」
村瀬さんが言いました。
「はい」
「私は、たった五%の株主です」
「はい」
「でも、五%でも意味があったんですね」
私は、少し考えました。
そして答えました。
「五%だからこそ、使える権利もあるんです」
村瀬さんは目を細めました。
「そうですね」
その顔は、初めて事務所に来たときとは、まるで違っていました。
村瀬さんが帰ったあと。
私は机の上に、二枚の書類を並べました。
一枚目。
最初に届いた、臨時株主総会決議通知。
二枚目。
適法な手続を経て開催された、臨時株主総会の議事録。
同じ会社。
同じ株主総会。
同じような紙。
でも。
まったく違う。
「相馬先輩」
「何だ」
「株主総会って、会社の頭脳みたいなものなんですね」
「頭脳?」
「はい!」
私は説明しました。
「会社は法人ですけど、人間みたいに自分で考えて動けるわけじゃありません」
「そうだな」
「だから、人間が会社の意思を決めるための機関が必要になる」
「ああ」
「株主総会とか、取締役会とか」
先輩が頷きました。
「そうだ」
私は続けました。
「でも、頭脳が二つあったら、役割分担が必要ですよね」
「ほう」
「株主総会は、会社の根本に関わる重要事項を決める」
「うん」
「取締役会は、日常の経営判断や業務執行に関する重要な意思決定をする」
「そうだ」
「役割が違うんですね」
相馬先輩は笑いました。
「ようやく分かったか」
「はい!」
私は胸を張りました。
「これ、現代の会社法でも基本的な考え方は続いています!」
「また未来か」
「でも、現代では非取締役会設置会社もあるんです!」
「だから何だそれは!」
「取締役会を置かない株式会社です!」
「株式会社なのに取締役会がない?」
「はい!」
「取締役は何人だ」
「一人でも大丈夫です!」
「何だその会社は!」
相馬先輩が本気で驚きました。
私は思わず笑いました。
そう。
昭和六十三年の常識では。
株式会社といえば、複数の取締役がいて、取締役会がある。
ところが現代では。
会社の規模や設計に応じて、もっと柔軟な機関構成を選べるようになります。
だから。
現代の会社法では、取締役会設置会社と非取締役会設置会社とで、株主総会の権限も違ってくる。
「昔の仕組みって、ずいぶん厳格だったんですね」
「そうだな」
「だから名ばかりの取締役とか、頭数合わせとかが起こりやすかったのかも」
片桐所長が、奥から言いました。
「こはる」
「はい」
「制度が厳しいからといって、名義貸しが許されるわけではない」
「もちろんです!」
「名前を引き受けた者には、役職に応じた責任がある」
私は頷きました。
そうでした。
形式的に名前を貸しただけ。
何も知らなかった。
社長に頼まれただけ。
そんな言い訳で、当然に責任を免れられるわけではありません。
会社の機関とは。
会社を動かすための仕組み。
そして。
そこに名を連ねることは、責任を引き受けることでもあるのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、最初に妙なことを言ってたな」
「何でしょう」
「株主全員が同意すれば、招集手続を省略できるとか」
「あっ!」
私は思い出しました。
現代の会社法第三百条。
株主全員の同意があれば、原則として招集手続を省略して株主総会を開催できる制度です。
「そうです!」
私は頷きました。
「現代には、そういう規定があるんです!」
「また未来か」
「はい!」
「今は昭和六十三年だぞ」
「分かってます!」
私は慌てて付け加えました。
「昭和の商法には、現代の会社法三百条と同じ条文はありません。でも、株主全員が開催に同意して出席した総会については、招集手続を欠いていても決議の有効性を認める判例上の考え方があります」
相馬先輩が少し感心した顔をしました。
「ほう」
「だから、すべての株主に実際に参加の機会があった場合と、一部の株主を意図的に排除した場合は、同じに考えられません」
「そうだな」
所長が頷きました。
「形式だけを見るな」
「はい」
「招集手続が何のためにあるのかを考えろ」
私は、最初の決議通知を見つめました。
招集通知。
そこに書かれているのは。
日時。
場所。
議題。
それだけです。
でも。
その紙が届かなければ。
株主は、総会があることすら知らない。
何を決めるのかも知らない。
出席して、意見を述べることもできない。
つまり。
株主としての大切な権利を、行使する機会を失ってしまうのです。
「……なるほど」
私は呟きました。
「招集通知って、株主に席を用意するためのものなんですね」
片桐所長が、短く頷きました。
「そうだ」
その言葉だけで。
今日の事件が、すべてつながった気がしました。
夕方。
私は窓の外を眺めていました。
商店街に、少しずつ明かりが灯っていきます。
遠くの工業団地では、まだ工場の煙突から煙が上がっています。
あの中に。
村瀬さんの工場もあるのでしょう。
会社を作る。
株を発行する。
出資を集める。
取締役を選ぶ。
経営する。
そして。
重要なことは、適切な機関で決める。
株式会社とは、そういう仕組みです。
社長が強いから。
株をたくさん持っているから。
古くから会社を経営しているから。
そんな理由だけで、すべての手続を飛ばせるわけではありません。
たった五%の株主にも。
法律は、声を上げる道を残している。
私は、ノートを開きました。
今日の教訓。
――株主総会は社長の私物ではない。招集通知は、株主が会社の意思決定に参加するための入口である。
「……よし!」
私は満足して、鉛筆を置きました。
そのとき。
「こはる」
相馬先輩が声をかけました。
「はい!」
「明日の予定、分かってるか?」
「明日?」
「ああ」
先輩は机の上に、一枚の紙を置きました。
――片桐行政書士事務所・所内整理日。
――午前八時集合。
「……何ですか、これ」
「大掃除だ」
「ええっ!」
「書庫の整理をする」
「聞いてません!」
「今、通知した」
「ちょっと待ってください!」
私は立ち上がりました。
「先輩!」
「何だ」
「招集通知が遅すぎます!」
「は?」
「株主総会なら、原則二週間前までですよ!」
相馬先輩が、ぽかんとしました。
そして。
笑い出しました。
「馬鹿野郎!」
「何ですか!」
「所内の大掃除と株主総会を一緒にするな!」
「でも、私にも予定が!」
「ただの業務連絡だ!」
「じゃあ私は、臨時株主総会を請求します!」
「誰のだよ!」
「片桐行政書士事務所のです!」
「株式会社じゃねえだろ!」
私は固まりました。
……あ。
そうでした。
ここは行政書士事務所。
株式会社ではありません。
株主総会なんて、ありません。
「じゃあ、所長!」
私は奥へ向き直りました。
「何だ」
「大掃除の件について、所内臨時会議の開催を請求します!」
所長は帳簿から顔を上げました。
「必要ない」
「えっ!」
「明日は八時集合だ」
「所長!」
「何だ」
「私にも意見を述べる機会を!」
「聞こう」
「本当ですか!」
「ああ」
私は嬉しくなりました。
そして、堂々と言いました。
「大掃除は、来週に延期すべきだと思います!」
所長は頷きました。
「意見は聞いた」
「はい!」
「だが、予定どおり明日やる」
「……!」
相馬先輩が大笑いしました。
「ほらな!」
「何でですか!」
「意見を述べる権利と、意見が通ることは別なんだよ!」
「ぐっ……!」
……なるほど。
今日の株主総会の勉強。
まさか、こんな形で復習することになるとは。
でも。
考えてみれば、確かにそうです。
株主総会に出席できることと。
自分の望む決議が成立することは、同じではありません。
少数株主が総会の招集を請求できることと。
自分の好きなように会社を動かせることも、同じではない。
大切なのは。
正しい手続によって。
全員に必要な機会を与え。
法律と定款に従って、会社の意思を決めること。
そして。
その手続を守る限り、社長の意見が通ることもあれば、通らないこともある。
それが株式会社なのです。
「こはる!」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「明日は八時だからな!」
「分かりましたよ!」
「遅れるなよ!」
「はい!」
私はノートを閉じました。
でも。
最後に、もう一度だけ思いました。
社長が王様なら。
株主総会なんて、いらない。
でも、株式会社には株主総会がある。
それは。
会社が社長一人の所有物ではないからです。
五%の株主も。
十%の株主も。
九十%の株主も。
それぞれの権利を持っている。
そして、会社の重要な意思は。
法令と定款に従い、必要な手続を経て決められる。
昭和六十三年。
まだ会社法という独立した法律はありません。
株式会社のルールは、商法第二編の中にあります。
取締役は三人以上。
監査役も必要。
発起人は七人以上。
今の私から見ると、ずいぶん堅苦しい時代です。
けれど。
株主の権利を守る。
経営者の独断を防ぐ。
会社の重要な決定には、適切な手続を要求する。
その基本は。
現代へと続いていくのです。
私は机の上の招集通知を、そっと指でなぞりました。
たった一枚の紙。
でも。
その紙を送らなかったことで、社長の嘘が暴かれた。
そして。
その紙を正しく送ったことで、会社の未来を話し合う機会が生まれた。
法律の書類は、ただの紙ではありません。
そこには。
誰かが意見を述べるための席が、確かに用意されているのです。
「……株主総会って、面白いですね」
私が呟くと、相馬先輩が言いました。
「そうか?」
「はい!」
「じゃあ明日の大掃除も楽しめそうだな」
「それとこれとは別問題です!」
「都合のいい奴だな!」
……。
どうやら。
株主総会の招集通知については、かなり理解できたようです。
ただし。
明日の大掃除については。
私にも、もう少し強力な少数株主権が欲しいと思うのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




