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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式

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638/701

[会社法・社債]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 会社にお金を出したからといって、会社の持ち主になるわけではありません。


 お金を出す。


 会社を応援する。


 利益が出ることを願う。


 そこまでは同じでも。


 株式と社債では、法律上の立場が違います。


 株式は、会社の持ち主としての地位。


 社債は、会社に対する金銭債権。


 そして。


 この違いを間違えると。


 三百万円の借金を、社長の一言で出資金に変えられてしまうかもしれません。


 もちろん。


 そんなことが簡単に認められるはずはありません。


 でも、実際にそれをやろうとした社長がいました。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……社債って、借金なんですよね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「今さら何だ」


「いや、分かってるんですけど」


「けど?」


「名前が紛らわしいんです!」


 私は鉛筆を握りました。


「株式も社債も、会社が発行する証券じゃないですか!」


「そうだな」


「どっちもお金を集めるために使う!」


「うん」


「なのに、一方は会社の持ち主で、もう一方は債権者!」


「そうだ」


「だったら最初から、もっと分かりやすい名前にしてほしいです!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「法律に名前の変更を要求するな」


「受験生の切実な願いです!」


「知らねえよ」


 私はため息をつきました。


 でも。


 今回の事件を思い出すと、この違いは絶対に忘れられません。


 東海精密工業株式会社。


 その社債を三百万円分購入した、村瀬清一さん。


 三十五年間勤めた会社を応援するため、退職金の一部を貸した職人です。


 ところが。


 償還期限が来ても、会社は元金を返さなかった。


 しかも社長は、


『会社が赤字だから、社債の償還もしない』


『株式に切り替えればいい』


 などと言い出したのです。


 ……。


 今思い出しても、ひどい話です。


「先輩」


「何だ」


「今日の法理編は、あの社長が間違えたところを全部整理します!」


「ほう」


「株式と社債の違い!」


「うん」


「社債の発行手続!」


「うん」


「株式を取得する権利が付いた社債!」


「うん」


「それから、社債権者を守る制度です!」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「ずいぶん欲張ったな」


「試験範囲ですから!」


 そこへ、片桐所長が奥から顔を出しました。


「こはる」


「はい!」


「昨日の事件で、一番大事だったことは何だ」


 私は少し考えました。


 そして答えました。


「会社にお金を出した人の法律上の地位を、社長が勝手に変えられないことです」


 所長が頷きました。


「それを忘れるな」


「はい!」


 こうして。


 社債をめぐる、私の第二回戦が始まりました。


 まず、私はノートに二つの言葉を書きました。


 ――株式。


 ――社債。


「先輩。株式って、何でしたっけ?」


「会社の社員としての地位だ」


「そうです!」


 私は勢いよく頷きました。


 株式会社の株式。


 それを持っている人は、株主です。


 株主は、株式会社の構成員。


 つまり、会社の持ち主としての地位を持っています。


「じゃあ、社債は?」


 先輩が聞き返しました。


「会社に対する金銭債権です!」


「そうだ」


 社債は、会社が資金調達のために発行するもの。


 社債を取得した人は、会社に対して、発行条件に従った利息や償還金の支払を求める権利を持ちます。


「つまり」


 私は言いました。


「株式は、会社の一員になる仕組み」


「うん」


「社債は、会社にお金を貸す仕組み」


「そうだ」


 ここで、私は村瀬さんの顔を思い出しました。


 三百万円。


 会社に貸したお金。


 社債の償還期限は、昭和六十三年九月三十日。


 年利六パーセント。


 最初の二年間は利息が支払われていました。


 でも、三年目。


 会社は元金も利息も払わなくなった。


「社長は、株主への配当を停止したから、社債の利息も払わないと言っていました」


「ああ」


「でも、それは間違いなんですよね」


「そうだ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――配当と利息は違う。


 株主が受け取る配当は、会社の利益や財産の状況、必要な決議などに左右されます。


 配当されない年もあります。


 一方。


 社債の利息は、発行条件に従って支払われるもの。


 会社の利益が減ったからといって、当然に支払義務が消えるわけではありません。


「つまり」


 私は言いました。


「株主は、利益が出たときに配当を受けられることがある」


「うん」


「社債権者は、約束された利息の支払を請求できる」


「そうだ」


「ただし、実際に支払ってもらえるかは、会社の支払能力にもよる」


 相馬先輩が頷きました。


「そこまで言えれば合格だ」


「やった!」


 私は小さく拳を握りました。


 でも。


 すぐに、もう一つ疑問が浮かびました。


「先輩」


「何だ」


「株主って、会社の持ち主なんですよね?」


「そうだ」


「だったら、会社にお金を返してもらえばいいじゃないですか」


「……お前な」


 相馬先輩が呆れました。


「会社の持ち主だからって、会社の金庫を自由に開けられるわけじゃねえぞ」


「ですよね!」


「分かってて聞いただろ」


「復習です!」


 私はノートに書きました。


 株式と社債の違い。


 次は、お金を返してもらえるかどうかです。


 株主は、原則として、会社に出資金の払戻しを請求できません。


 なぜなら。


 株主が会社へ出資したお金は、会社の財産になるからです。


「たとえば」


 私は言いました。


「十万円を出資して、株式会社の株主になったとします」


「うん」


「半年後に、お金が必要になりました」


「うん」


「だから社長に、『十万円返してください』って言ったら?」


「原則として、そんな請求はできねえ」


「ですよね!」


 株主は、出資金を自由に引き出せるわけではありません。


 株式を売却してお金に換える方法はあります。


 ただし、株式を買ってくれる相手が必要ですし、譲渡制限などがある場合には、所定の手続も問題になります。


 会社の利益や将来性によっては、株式の価値が下がっていることもある。


 十万円で取得した株式が、十万円で売れる保証はありません。


「じゃあ社債は?」


 相馬先輩が聞きました。


「発行条件に従って償還されます!」


「そうだ」


 社債の場合。


 たとえば。


 三年後に償還するという条件なら、会社は原則として、その期限に元金を支払う義務を負います。


 村瀬さんの三百万円が、まさにそうでした。


「会社が赤字だから返さない、では済まないんですね」


「そうだ」


「社長が勝手に株主へ変更することもできない」


「そういうことだ」


 私は鉛筆で大きな丸を描きました。


 ――株式は出資。社債は債権。


「これだけでも、かなり違いますね」


「ああ」


「じゃあ、株主と社債権者では、会社が倒産した場合も違うんですか?」


 相馬先輩が頷きました。


「違う」


 会社が倒産した場合。


 社債権者は、会社に対する債権者として扱われます。


 一方、株主は、債権者への弁済などが済んだ後に残余財産があれば、法律上の条件に従って分配を受ける立場です。


「つまり、社債権者のほうが、株主より先に回収の対象になるんですね」


「基本的にはな」


「でも、社債だから絶対に全額返ってくるわけではない」


「そこが重要だ」


 相馬先輩は机を軽く叩きました。


「借金には、返す義務がある」


「はい」


「だが、返す金がなけりゃ、回収できねえこともある」


「……はい」


 法律上の権利と、現実の回収可能性。


 そこは、別問題。


 この違いも、村瀬さんの事件で学んだところでした。


 社債は、銀行預金のように安全が保証されたものではありません。


 発行会社の信用状態によっては、元金を失う危険もあります。


「なるほど」


 私はノートに書きました。


 ――社債は返済義務のある資金調達。ただし、元本保証ではない。


 これなら忘れません。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「次は議決権だ」


「はい!」


 私はページをめくりました。


 ――株主総会の議決権。


 株主は、保有する株式に応じて、株主総会で議決権を行使できることがあります。


 取締役を選任したり。


 定款変更について決議したり。


 会社の重要事項について意思決定に参加したり。


 もちろん、株式の種類や法律上の制限によって議決権の扱いは異なります。


 でも、基本的には。


 株主は、会社の経営に関わる立場です。


「では、社債権者は?」


 先輩が聞きました。


「社債を持っているだけでは、株主総会の議決権はありません!」


「そうだ」


「三百万円貸していても?」


「ねえな」


「一千万円でも?」


「同じだ」


「一億円でも?」


「しつこい!」


 私は笑いました。


 そうです。


 会社にいくらお金を貸していても。


 それだけで、株主になるわけではありません。


「でも先輩」


「何だ」


「社債権者には、社債権者集会というものがありますよね?」


「ある」


「株主総会とは違うんですよね?」


「当たり前だ」


 私はノートに書きました。


 株主総会。


 会社の構成員である株主が、会社の重要事項について意思決定する場。


 社債権者集会。


 社債権者が、社債に関する共通の利害を調整するための場。


 同じ「集会」という名前でも、役割が違います。


「たとえば、会社から償還期限を延ばしてほしいと申し出があった場合などですね」


「そうだな」


「社債権者に共通する事項について、法律や発行条件に従って判断する仕組みがある」


 私は頷きました。


 なるほど。


 社債権者には株主総会の議決権はない。


 でも。


 自分たちの債権を守るための集団的な仕組みはある。


「社債権者は会社の経営者を選ぶために集まるんじゃなくて、自分たちの債権を守るために集まるんですね」


「そういうことだ」


 私は、また一つ理解できました。


 ここまでを整理すると。


 株式と社債の違いは、ずいぶんはっきりしてきます。


 私はノートに、二つの欄を作りました。


 株式。


 社債。


 まず、法律上の地位。


 株式は、株主。


 社債は、債権者。


 次に、議決権。


 株主は、株主総会で議決権を行使できる場合がある。


 社債権者は、社債を持っているだけでは株主総会の議決権を持たない。


 次に、お金の返還。


 株主は、原則として出資金の払戻しを請求できない。


 社債権者は、発行条件に従って償還を受ける権利を持つ。


 次に、配当と利息。


 株主は、条件を満たした配当を受ける。


 社債権者は、約束された利息を請求できる。


「……よし!」


 私は鉛筆を置きました。


「何だ」


「かなり整理できました!」


「まだ終わりじゃねえぞ」


「え?」


「発行手続が残ってるだろ」


「……あ」


 そうでした。


 社債は、ただの借用書とは違います。


 会社が一定の仕組みに従って発行するもの。


 だから、発行する際の手続も問題になります。


 そして。


 ここからが、昭和と現代の違いが特に大きい部分なのです。


「では、発行手続です!」


 私は新しいページを開きました。


 ――社債の発行。


 社債を発行するということは、会社が多くの人からお金を借りることです。


 だから。


 何も決めずに、


『お金を貸してください!』


 と宣伝すればよいわけではありません。


 いくら集めるのか。


 一口いくらなのか。


 利息はいくらか。


 いつ返すのか。


 どうやって返すのか。


 そうした条件を、あらかじめ決める必要があります。


「村瀬さんの社債では、どうだった?」


 相馬先輩が聞きました。


「発行総額三千万円です!」


「うん」


「村瀬さんは、そのうち三百万円を取得しました!」


「うん」


「年利六パーセント!」


「そうだ」


「償還期限は昭和六十三年九月三十日!」


「そこだ」


 相馬先輩が頷きました。


「社債は、会社が勝手に都合を変えていいものじゃねえ」


「はい」


「特に償還期限は重要だ」


 私は頷きました。


 黒田社長は、会社の経営が苦しくなったことを理由に、償還を停止しました。


 でも。


 発行時に三年後に返すと決めていた以上、その約束には法的な意味があります。


 会社が資金繰りに困ったからといって、社長が一人で約束を消すことはできないのです。


「ここで、現代の会社法です!」


 私は勢いよく言いました。


 相馬先輩が眉をひそめました。


「また未来か」


「今回は比較です!」


「……まあ、聞いてやる」


 よし。


 私はノートに書きました。


 ――現代・会社法第六百七十六条。


 募集社債に関する事項の決定。


「現代の会社法では、社債を募集するとき、会社は募集事項を定めなければなりません」


「ほう」


「募集社債の総額、各社債の金額、利率、償還方法、償還期限などです」


「基本的な考え方は同じだな」


「はい!」


 ただし。


 現代の制度を、そのまま昭和六十三年に持ち込んではいけません。


 当時は、まだ独立した会社法がない。


 会社のルールは、商法第二編などに定められています。


「所長」


 私は聞きました。


「昭和六十三年の株式会社では、誰が社債の発行を決めるんですか?」


 片桐所長が答えました。


「法律と定款に従って、必要な機関の決定を行う」


「取締役会ですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 昭和六十三年の株式会社には、取締役が三人以上必要です。


 取締役会は、会社の業務執行について重要な決定を行います。


 だから。


 黒田社長が、


『俺が社長だから、俺が全部決める!』


 と言っていたのは、非常に危険な考え方でした。


「でも先輩」


「何だ」


「現代の会社法だと、取締役会がない株式会社も作れますよね」


「……何?」


「い、いえ。未来の話です!」


 私は慌てて手を振りました。


 現代の株式会社では。


 発起人一人。


 取締役一人。


 資本金一円。


 そんな会社も作れます。


 取締役会を設置しない会社では、業務執行の決定方法も取締役会設置会社とは異なります。


 一方、取締役会設置会社では、重要な財産の処分や多額の借財などについて、取締役会が決定すべき事項があります。


 社債の募集についても、現代の会社法第三百六十二条第四項第五号と法務省令による規律が関係します。


「でも」


 私は言いました。


「現代でも、会社の借金を社長が何でも独断で決めてよいわけではありません」


「当然だ」


 相馬先輩が頷きました。


「会社には会社の意思決定手続がある」


「はい」


「それを無視したから、あの社長は痛い目を見たんだろ」


 私は思い出しました。


 東海精密工業の取締役会議事録。


 出席したはずの取締役。


 でも、実際には会議が開かれていなかった。


 社長が後から作らせた議事録。


「所長」


「何だ」


「取締役会の議事録って、本当に重要なんですね」


「そうだ」


「単に書類があればいいわけじゃない」


「うん」


「実際に適法な決議が行われている必要がある」


 所長が頷きました。


「議事録は、存在しない決議を生み出す魔法の紙じゃない」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 なるほど。


 会社の意思決定は、書類を作れば完成するというものではありません。


 適法な手続で決める。


 そして、その内容を正確に記録する。


 順番が大切なのです。


「ところで」


 私は思い出しました。


「社債の発行限度も、昭和と現代で違いますよね」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


 私は六法を開きました。


 ――旧商法第二百九十七条。


 昭和六十三年には、社債の発行総額について規制がありました。


 会社が無制限に社債を発行してよいわけではなかったのです。


 さらに、昭和五十二年には社債発行限度暫定措置法が設けられ、一定の種類の社債については、旧商法の限度を超える発行も認められていました。


 ただし、それにも上限がある。


「つまり」


 私は言いました。


「社債の発行限度は、昔は法律で厳しく管理されていたんですね」


「そうだ」


「会社が借金を増やしすぎないように?」


「債権者保護という考え方がある」


 私は頷きました。


 会社が大量の社債を発行する。


 多くの人から資金を集める。


 でも、返済する能力がなければ。


 困るのは社債を買った人たちです。


「それを防ぐための制限だったんですね」


「そういう面がある」


 ところが。


 現代の会社法では、社債の発行総額について、一律の法定上限は設けられていません。


「えっ、じゃあ現代は好きなだけ借金できるんですか?」


 私は自分で問いかけました。


 相馬先輩が笑いました。


「お前、自分で答えてみろ」


「……発行限度がないことと、無制限に安全に借りられることは違います!」


「そうだ」


 会社法上、一律の発行限度がなくても。


 会社の信用力。


 資金繰り。


 投資家の判断。


 発行条件。


 適用される金融商品取引法などの規制。


 そうしたものが問題になります。


 社債を発行できるからといって、必ず買い手が現れるわけでもありません。


「現代は、発行額を一律に制限する方式から、開示や市場の判断なども重視する制度へ変わってきたんですね」


 私はノートに書きました。


 ――昭和六十三年には社債発行限度の規制あり。現代の会社法には一律の発行限度なし。


「これ、試験では間違えそうです」


「何でだ?」


「昔の商法を覚えすぎると、現代の会社法でも発行限度があると思っちゃうからです!」


「お前は本当に面倒な勉強の仕方をしてるな」


「時代を二つ覚えなきゃいけないんです!」


「誰に頼まれたんだよ」


 ……転生したからです。


 もちろん、言えません。


「次は、払込みです」


 私はページをめくりました。


 ――株式と社債の払込み。


「株式を引き受ける場合、払込期日や払込期間など、法律の定めに従って払込みをします」


「うん」


「現代の募集株式について、引受人が勝手に分割払いにしていいわけではありません」


「そうだな」


「一方、社債では、発行条件によって数回に分けて払込みをさせる仕組みを定めることもできます」


 相馬先輩が首をかしげました。


「分割か」


「はい」


 現代の会社法施行規則には、募集社債の払込みを数回に分ける場合についての規定があります。


 つまり。


 株式の払込みと、社債の払込みは、同じように扱えるわけではありません。


「でも、村瀬さんの事件では?」


「三百万円をまとめて払い込んでいます!」


「そうだ」


 私は頷きました。


 今回の事件の決定打ではありませんでしたが、株式と社債を区別するうえで覚えておきたいところです。


「先輩」


「何だ」


「社債って、株式と比べると自由な部分もあるんですね」


「会社が資金を集めるための仕組みだからな」


「でもその代わり、返済義務がある」


「そこだ」


 私は大きく丸をつけました。


 資金を集める方法が違えば。


 会社に生じる義務も違う。


 この違いが、社債を理解するうえで大切なのです。


「さて」


 相馬先輩が煙草に火をつけました。


「次は、昨日の電話の話だな」


「新株引受権付社債ですね!」


「ああ」


 私は目を輝かせました。


「これ、面白いですよね!」


「何がだ」


「社債なのに、株式と結びついているところです!」


 私はノートに書きました。


 ――転換社債。


 ――新株引受権付社債。


 昭和六十三年。


 株式に関連する権利が組み込まれた社債には、こうした種類があります。


 ただし。


 現代の会社法でいう新株予約権付社債という制度を、そのまま昭和の制度に置き換えることはできません。


「先輩」


「何だ」


「転換社債って、どういうものですか?」


「決められた条件に従って、社債を株式に転換できるものだ」


「そうです!」


 社債として持っていたものを、条件に従って株式へ転換する。


 これにより、債権者だった人が株主になる。


 でも。


 大切なのは、最初からそのような仕組みが発行条件に組み込まれていることです。


「だから、黒田社長のやり方は違うんですよね」


「そうだ」


「普通社債だったのに、社長が勝手に株式へ変えようとした」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 発行時から株式への転換条件が付いている社債と。


 普通社債を後から社長の都合で株式に変えようとすること。


 それは、まったく違います。


「では、新株引受権付社債は?」


 相馬先輩が聞きました。


 私は答えました。


「一定の条件で新株を引き受ける権利が付いた社債です!」


「そうだ」


 この仕組みでは、社債の権利と新株を引き受ける権利の関係が重要になります。


 社債自体が株式へ転換される場合とは、法律上の構造が違うのです。


「つまり、株式と結びついている社債にも、種類があるんですね」


「そうだ」


 ここで私は、現代の制度を思い出しました。


 ――新株予約権付社債。


 現代の会社法では、新株予約権が付いた社債です。


 新株予約権とは、株式会社に対して行使することで、その会社の株式の交付を受けられる権利。


 社債による債権者としての地位と、株式を取得する機会が組み合わされています。


「これって」


 私は言いました。


「社債の堅実性と、株式の値上がりによる利益の可能性を併せ持っているんですよね」


「ほう」


 例えば。


 会社の業績が悪いときは、社債を保有し続ける。


 その後、業績が改善して株価が上がったら。


 新株予約権を行使して株式を取得する。


 そして、その株式を高い価格で売却できれば、売却益を得られる可能性があります。


「すごいですよね!」


 私は言いました。


「社債として利息を受け取りながら、株価上昇の利益も狙える!」


 しかし。


 相馬先輩が言いました。


「うまい話ばかりじゃねえぞ」


「……ですよね」


 そうです。


 社債としての信用リスクは残ります。


 会社が倒産すれば、元金が戻らない可能性もあります。


 株価が上がらなければ、新株予約権を行使しても利益にならないことがある。


 権利を行使するための条件や必要な払込みも、確認しなければなりません。


 そして。


 ここからが、現代の行政書士試験で重要なところです。


「所長!」


 私は声を上げました。


「何だ」


「新株予約権付社債って、社債と新株予約権をバラバラに売れるんですか?」


 片桐所長は少し考えました。


「今の商法の話ではないな」


「……はい!」


 私は苦笑しました。


 これは未来の会社法。


 正確には、現代の会社法第二百五十四条の問題です。


 原則として、新株予約権付社債の新株予約権と社債を分離して、その一方だけを譲渡することはできません。


「つまり」


 私は言いました。


「社債だけ友達に売って、新株予約権だけ自分が持ち続ける、ということは原則できないんです」


「なるほどな」


「逆に、新株予約権だけ売って、社債は手元に残すことも原則できません」


 私は二つを丸で囲みました。


 ――新株予約権。


 ――社債。


 そして、その間に一本の線を引きました。


「セットなんです!」


「分かったから大声を出すな」


「でも、例外があります!」


 私は続けました。


「その新株予約権付社債について、社債が消滅した場合には、新株予約権だけを譲渡できることがあります」


「ほう」


「だから、絶対に分離できないと覚えるのも間違いなんです」


 相馬先輩が頷きました。


「原則と例外を分けろってことか」


「そうです!」


 さらに。


 新株予約権付社債の発行には、現代の会社法第二百四十八条により、募集新株予約権に関する規定が適用されます。


「ここも、普通社債とは違うんですよね」


 私は言いました。


 公開会社では、原則として取締役会決議によって募集事項を決定する。


 非公開会社では、原則として株主総会の特別決議が必要になる。


 ただし、法律上の例外や委任の仕組みもあります。


「普通の社債と、新株予約権付社債では、発行のルールも違うことがあるんですね」


「そうだな」


 相馬先輩が言いました。


「株式を取得する権利が付けば、既存の株主にも影響があるからな」


 私ははっとしました。


 そうです。


 新しい株式が発行されれば、既存株主の持株比率が下がることがあります。


 だから、単なる借金の発行と同じようには扱えない。


「社債と株式の両方の性質を持つから、両方のルールが関係してくるんですね」


 私は頷きました。


 なるほど。


 新株予約権付社債。


 名前は長い。


 仕組みも複雑。


 でも。


 理由が分かれば、ただの暗記ではなくなります。


「さて、最後だ」


 片桐所長が言いました。


「社債権者を守る仕組みを整理しろ」


「はい!」


 私は新しいページを開きました。


 ――社債権者の保護。


 今回の東海精密工業の社債。


 発行総額は三千万円。


 村瀬さんが保有していたのは、そのうち三百万円です。


 つまり。


 ほかにも社債権者がいる可能性が高い。


「先輩」


「何だ」


「もし社債権者が百人いたら、どうなるんでしょう?」


「何がだ」


「全員が会社に電話するんですか?」


「……まあ、それじゃ収拾がつかねえな」


「ですよね!」


 百人の社債権者。


 百人の利害。


 百人の請求。


 会社が返済できなくなったとき。


 全員がばらばらに行動すれば、問題が複雑になることがあります。


 だから。


 社債権者を集団として保護し、管理する制度が必要になります。


「そこで現代の会社法では、社債管理者です!」


 私は言いました。


 ――会社法第七百二条。


 会社は、社債を発行する場合、原則として社債管理者を定め、社債権者のために社債の管理を委託しなければなりません。


 ただし、一定の場合には、社債管理者を置かなくてもよい例外があります。


「社債管理者って、何をするんですか?」


 私は自分で問いかけました。


 すると。


 相馬先輩が言いました。


「名前から考えりゃ、社債を管理するんだろ」


「それはそうなんですけど!」


 私は笑いました。


 社債管理者は、社債権者のために、弁済の受領や債権の保全などを行います。


 さらに、会社法第七百五条第一項では、社債に係る債権の弁済を受け、またはその実現を保全するために必要な裁判上・裁判外の行為を行う権限が認められています。


「つまり」


 私は言いました。


「社債管理者は、多数の社債権者の利益を守るために、法律上の権限を持っているんです」


「なるほどな」


「弁済を受けたり、債権を保全したり、必要な法的手続を行ったりするんです」


 私は頷きました。


 ただし。


 社債管理者なら何でも自由に決められる、というわけではありません。


 社債権者集会の決議が必要となる事項もあり、社債管理者には社債権者のために公平かつ誠実に職務を行う義務があります。


「ここも、会社を信用した人たちを守る仕組みなんですね」


 私は呟きました。


 すると。


 片桐所長が静かに言いました。


「大勢から金を集めるなら、大勢の権利を考えなければならん」


 私は、その言葉に頷きました。


 でも。


 また時代の違いがあります。


 昭和六十三年には、現代の社債管理者制度はまだ存在しません。


 当時は社債募集の受託会社など、旧商法や関連法令による仕組みがありました。


 その後。


 平成五年の商法改正によって、社債管理会社制度が導入されます。


 そして。


 平成十七年に制定された会社法が、翌平成十八年に施行され、社債管理者の制度として整理されていく。


「つまり」


 私は言いました。


「昭和六十三年から現代まで、社債権者を守る仕組みも変わってきたんですね」


「そういうことだな」


 相馬先輩が頷きました。


「でも、守ろうとしているものは同じです」


「何だ?」


「会社を信じて、お金を貸した人の権利です」


 片桐所長が静かに頷きました。


 私は、村瀬さんの顔を思い出しました。


 三百万円。


 三十五年間働いた職人の退職金。


 会社を応援するために出したお金。


 その約束が、社長の一言で消えてしまうようでは、誰も安心して会社に資金を貸せません。


 だから。


 法律は、社債権者を守る仕組みを整えているのです。


 窓の外は、もう暗くなり始めていました。


 私はノートを見直しました。


 株式。


 社債。


 発行手続。


 新株予約権付社債。


 社債管理者。


 ずいぶん勉強しました。


 でも。


「所長」


「何だ」


「ちょっと気になったことがあるんです」


「言ってみろ」


 私は鉛筆を置きました。


「現代では、どうして会社法が独立したんでしょう?」


 片桐所長は少し首をかしげました。


「会社法?」


「あっ……」


 しまった。


 昭和六十三年には、まだ存在しない法律です。


 私は慌てて言い直しました。


「いえ、将来、会社の法律が整理されるとしたら、どうしてだろうって」


 相馬先輩が呆れました。


「また変なこと考えてるな」


「でも、気になるんです!」


 私はノートを見つめました。


 昭和六十三年。


 会社のルールは商法第二編などにあります。


 株式会社。


 有限会社。


 取締役。


 株主。


 社債。


 それぞれの規定が、複数の法律に分かれている。


 一方。


 現代では、会社法という独立した法律に整理されています。


 株式会社や持分会社などの基本的な仕組みが、体系的に定められている。


「昔の商法は、ずいぶん複雑だったんですね」


 私が言うと、相馬先輩が答えました。


「会社ってのは、もともと複雑なもんだ」


「はい」


「金を出す奴。経営する奴。金を貸す奴。働く奴」


「はい」


「全員の利害が一致するとは限らねえ」


 私は頷きました。


 そうです。


 会社を経営する人は、自由に事業を進めたい。


 株主は、利益を得たい。


 債権者は、貸したお金を返してほしい。


 従業員は、安心して働きたい。


 その全部を、法律が調整しなければならない。


 しかも、時代が変われば、会社の形も変わります。


 小さな家族会社。


 大企業。


 新しく事業を始める人。


 外国と取引する会社。


 必要な制度も、変わっていく。


「現代の会社法が独立したのは、そうした会社制度を、分かりやすく体系的に整理する意味もあったんですね」


 私は呟きました。


 実際には、それだけではありません。


 平成十七年の会社法制定では、商法や有限会社法などに分散していた規定を整理するとともに、会社設立や機関設計などの制度を見直し、柔軟な会社運営を可能にする改革が行われました。


 だから。


 発起人一人でも株式会社を設立できる。


 取締役一人の会社も認められる。


 最低資本金制度もなくなった。


 合同会社という会社形態もできた。


 もちろん。


 規制をなくしただけではありません。


 必要な債権者保護や株主保護のルールも整えられています。


「昔は会社を作ること自体が大変だったんですね」


 私は言いました。


「発起人七人以上ですから!」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「現代なら一人でも株式会社を作れるのに!」


「また未来か!」


「比較です!」


 私は笑いました。


 でも。


 今回の社債事件を思い出すと、会社法がどんなに便利になっても、なくしてはいけないものがあると分かります。


 約束を守ること。


 会社の意思決定を適法に行うこと。


 会社の財産を私物化しないこと。


 そして。


 会社を信じてお金を貸した人の権利を、勝手に踏みにじらないこと。


 そこは、時代が変わっても大切なのです。


「よし」


 相馬先輩が言いました。


「最後に確認問題だ」


「来ましたね!」


 私は鉛筆を構えました。


「第一問。株式を持ってる奴は何者だ?」


「株主です! 株式会社の構成員です!」


「社債を持ってる奴は?」


「社債権者です! 会社に対する債権者です!」


「第二問。社債権者は、株主総会で議決権を行使できるか?」


「社債を持っているだけではできません!」


「第三問。会社が赤字なら、社債の利息を払わなくてもいいか?」


「原則として駄目です! 赤字だからというだけで、支払義務は消えません!」


「第四問。普通社債を、社長の一存で株式に変えられるか?」


「できません!」


「第五問。社債の発行条件では、何を決める?」


「総額、各社債の金額、利率、償還方法、償還期限などです!」


「第六問。現代の会社法では、社債の発行限度は?」


「一律の法定上限はありません!」


「昭和六十三年は?」


「旧商法などによる発行限度の規制があります!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は嬉しくなりました。


「次!」


「第七問。現代の新株予約権付社債で、新株予約権だけを自由に譲渡できるか?」


「原則としてできません! 社債と新株予約権の分離譲渡は禁止されています!」


「例外は?」


「社債が消滅した場合には、新株予約権だけを譲渡できる場合があります!」


「第八問。現代の会社法で、社債管理者を置くのは?」


「原則として必要です! ただし、法律上の例外があります!」


「社債管理者の役割は?」


「社債権者のために、弁済の受領や債権の保全などを行います!」


「第九問。昭和六十三年に、現在の会社法第七百二条は存在するか?」


「存在しません!」


 私は勢いよく答えました。


「そもそも、独立した会社法がありません!」


 相馬先輩が笑いました。


「そこは完璧だな」


「未来人の意地です!」


「……未来人?」


「あっ」


 私は固まりました。


 相馬先輩が、こちらをじっと見ています。


「お前、今、何て言った?」


「み、未来の行政書士を目指す者の意地です!」


「……そうか?」


「そうです!」


 危ない。


 法律の説明に夢中になると、つい口が滑ります。


 所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「もう一問だ」


「どうぞ!」


「社債権者の権利が法律上認められていれば、必ず全額回収できるか?」


 私は少し考えました。


 そして。


「いいえ」


 と答えました。


「会社に支払能力がなければ、回収できないこともあります」


「そうだ」


「債権が存在することと、実際に弁済を受けられることは違います」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は胸を張りました。


 これが、村瀬さんの事件で一番現実的だったところです。


 法律は、社債権者に権利を与えます。


 でも。


 お金を自動的に生み出してくれるわけではありません。


 だから。


 発行会社の信用を確認する。


 発行条件を読む。


 償還期限を確認する。


 会社の財務状態を把握する。


 必要に応じて、債権保全の手続を検討する。


 その全部が大切なのです。


 私はノートの最後のページを開きました。


 今日の勉強を、一行にまとめる時間です。


 株式。


 社債。


 配当。


 利息。


 議決権。


 償還。


 社債権者保護。


 いろいろな言葉が出てきました。


 でも。


 今回の事件を思い出すと、全部が一つにつながります。


 村瀬さんは、会社を応援するために三百万円を貸した。


 株主になったわけではありません。


 だから、会社が赤字になったという理由だけで、社長が返済義務を消すことはできなかった。


 社債の発行条件に従って、利息や償還金の支払を受ける権利があった。


 そして。


 適法な意思決定を経ずに作られた議事録も、その権利を一方的に奪う根拠にはならなかった。


 私は鉛筆を整えました。


 そして、ゆっくり書きました。


 ――株式は「会社の持ち主」、社債は「会社への貸し手」。配当は利益の分配、利息と償還は約束された債務。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「ええっ!」


「一行にしては長い」


「でも、全部大事なんです!」


 相馬先輩が笑いました。


「まあ、覚えられるならいいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


 またそれです。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 だって。


 社債がただの試験用語ではないことを、知ってしまったからです。


 会社を信じて貸したお金。


 約束された利息。


 決められた償還期限。


 その裏には、人の人生があります。


 村瀬さんの三百万円も、そうでした。


 単なる数字ではありません。


 三十五年間、旋盤の前に立ち続けた職人の努力。


 会社の成長を願った気持ち。


 そして、老後の生活のために残していたお金。


 法律が守ろうとしているのは、そういうものなのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「……またですか」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「私は今日、社債の法律を完璧に覚えました」


「そうか」


「だから、ご褒美があってもいいと思うんです!」


「何のご褒美だ」


「おやつです!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「子供か」


「勉強には糖分が必要なんです!」


「勝手に買ってこい」


「事務所の経費で!」


「駄目だ」


 私は頬を膨らませました。


 すると。


 片桐所長が、奥から一枚の紙を差し出しました。


「こはる」


「はい?」


「これを見ろ」


 私は受け取りました。


 そこには、


 ――片桐行政書士事務所・職員福利厚生費支出申請書。


 と書かれていました。


「……え?」


 所長が言いました。


「おやつを経費にしたいなら、理由を書け」


「本当ですか!?」


「適切かどうか、こちらで判断する」


 私は目を輝かせました。


「やります!」


 早速、鉛筆を握ります。


 支出目的。


 ――行政書士試験の学習効率向上のため。


 購入予定品。


 ――どら焼き三個。


 予算。


 ――三百円。


「完璧!」


 私は所長に提出しました。


 所長は一読すると。


 赤鉛筆を取りました。


 嫌な予感。


「ここ」


「はい」


「『学習効率向上のため』」


「はい!」


「客観的な根拠は?」


「……え?」


「どら焼きで、どれだけ効率が上がる?」


「そ、それは……」


「書類には、根拠が必要だ」


 ……。


 まさか。


 おやつの申請書にまで、証拠を求められるとは。


「所長!」


「何だ」


「これは厳しすぎます!」


 すると、相馬先輩が笑いました。


「こはる」


「何ですか!」


「社長が勝手に会社の金を使えねえって、今日勉強したばかりだろ」


「……!」


「所長だって、事務所の金を何にでも使っていいわけじゃねえんだよ」


 私は言葉に詰まりました。


 確かに。


 会社の財産。


 個人の財産。


 経費。


 私的な支出。


 それぞれ区別が必要です。


 でも。


「先輩!」


「何だ!」


「どら焼き三百円と、社債三千万円を一緒にしないでください!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「金額の問題だけじゃねえだろ!」


「それはそうですけど!」


 私は抗議しました。


 そのとき。


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる」


「はい……」


「どら焼きは、私費で買ってこい」


「……はい」


「三人分だ」


「え?」


 所長は帳簿に目を落としたまま続けました。


「代金は、あとで俺が払う」


 私は目を丸くしました。


「所長!」


「何だ」


「いいんですか!?」


「個人の金なら問題あるまい」


 相馬先輩が笑いました。


「ほらな。事務所の金と所長個人の金は違うんだよ」


 私は思わず笑いました。


 そうです。


 会社の金と、社長個人の金は違う。


 会社の借金と、社長個人の借金も違う。


 そして。


 株主の出資と、社債権者の貸付けも違う。


 全部。


 法律上の立場を区別することが大切なのです。


「分かりました!」


 私は立ち上がりました。


「どら焼き、買ってきます!」


「おう」


「でも先輩!」


「何だ!」


「私は所長に、どら焼き代を貸すわけじゃありませんからね!」


「は?」


「所長が個人のお金で買ってくださるんです!」


「分かってるよ!」


「だから、これは社債ではありません!」


「当たり前だろ!」


 私は笑いながら、事務所の扉を開けました。


 外には、昭和六十三年の夕暮れ。


 商店街の明かりが、一つずつ灯り始めています。


 あのどこかで。


 村瀬さんは、今日も旋盤を回しているのでしょう。


 三十五年間磨いた腕で。


 小さな修理工場を守りながら。


 会社を応援したことを、後悔しないで済んだ。


 そのことが、私は嬉しかったのです。


 株式と社債。


 言葉は似ています。


 どちらも、会社が資金を集めるために使うもの。


 でも。


 法律上の立場は違う。


 株式は、会社の持ち主になること。


 社債は、会社に対する金銭債権を持つこと。


 そして。


 借りたお金は、約束に従って返す。


 そんな当たり前のことを守るためにも、商法は存在しているのです。


「こはる!」


 事務所の中から、相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「どら焼き、三個だぞ!」


「分かってます!」


「自分の分だけ高い奴を買うなよ!」


「……!」


 私は足を止めました。


 なぜ分かったのでしょう。


 実は。


 自分の分だけ、栗入りの少し高いどら焼きにしようと思っていたのです。


「先輩!」


「何だ!」


「その情報、どこから漏れたんですか!」


「お前の顔に書いてある!」


「ひどい!」


 私は笑いながら、商店街へ走り出しました。


 今日の教訓。


 株式と社債は、絶対に混同しない。


 会社の財産と個人の財産も、混同しない。


 そして。


 社長がどれだけ偉そうにしていても。


 社債の償還期限は、社長の機嫌で変わるものではない。


 これだけは。


 栗入りどら焼きよりも、しっかり覚えておこうと思います。


 ……もっとも。


 どら焼きの代金を所長が払ってくれるという約束だけは。


 絶対に忘れないつもりです。

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