[会社法・社債]現場編 「会社が赤字だから借金は返さない」の嘘。株主にされた町工場の職人と、社長が踏み倒そうとした三百万円の社債
会社にお金を出した人が、必ず会社の持ち主になるとは限りません。
お金を出して。
会社を応援して。
会社が大きくなるのを願う。
そこまでは同じです。
けれど。
株式を買った人と、社債を買った人では。
法律上の立場が、まるで違います。
一方は、会社の持ち主。
もう一方は、会社にお金を貸した人。
そして。
この違いを知らなかったばかりに、三百万円を失いかけた職人がいました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一人の社長が書いた、恐ろしい一文を目にすることになります。
――当社の経営状況により、社債の償還は行わないものとする。
……。
え?
それって。
借りたお金を返さない宣言ですよね?
ところが、もっと驚いたのは。
その社長が、自信満々にこう言ったことでした。
「会社が儲からなかったんだから、出した奴が損するのは当たり前だろ?」
……。
いいえ。
当たり前ではありません。
だって。
社債は、株式ではないのですから。
「三百万円が、紙くずになったんです」
朝一番。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
五十八歳。
名前は、村瀬清一さん。
町の金属加工工場で、三十五年間働いてきた職人です。
油の染み込んだ作業服。
節くれだった指。
爪の間には、落としきれない黒い汚れ。
その手が、大切そうに一枚の証券を握っていました。
「紙くず……ですか?」
私が尋ねると、村瀬さんは頷きました。
「社長に言われたんです。もう価値がないって」
「社長?」
「東海精密工業の社長です」
聞けば、村瀬さんはその会社の元従業員。
現在は退職して、町で小さな修理工場を営んでいるそうです。
三年前。
勤務していた会社が、新しい工作機械を導入するため、資金を集めていた。
そのとき社長から声をかけられたのです。
『銀行から借りるより、社員や昔からの取引先に協力してもらいたい』
『会社が発行する社債を買ってくれ』
『三年後には元金を返す。利息も払う』
村瀬さんは、自分の退職金の一部を使いました。
三百万円。
老後のために残していた、大切なお金です。
「会社には世話になりましたから」
村瀬さんは言いました。
「若い頃から働かせてもらって、腕も磨かせてもらった。だから困っているなら力になろうと思ったんです」
「それで社債を?」
「はい」
村瀬さんは証券を差し出しました。
そこには、
――東海精密工業株式会社 第一回社債。
と書かれていました。
額面。
三百万円。
年利。
六パーセント。
償還期限。
昭和六十三年九月三十日。
私は日付を確認しました。
今日は十月。
つまり。
もう償還期限を過ぎています。
「利息は?」
「最初の二年は払ってくれました」
「今年は?」
「払われていません」
「元金は?」
「一円も」
私は顔を上げました。
「社長は何と?」
村瀬さんは、もう一枚の紙を取り出しました。
会社から送られてきた通知書です。
そこには、こう書かれていました。
――当社は現在、営業利益が減少しており、株主への配当を実施できない状況にある。
――ついては、社債権者に対する償還及び利息の支払も行わない。
――なお、既発行社債については、今後、当社株式への切替えを検討する。
……。
私は三回読みました。
そして。
「ちょっと待ってください!」
思わず声を上げました。
「どうした?」
新聞を読んでいた相馬先輩が顔を上げます。
「この会社、社債と株式を一緒にしてませんか?」
「ああ?」
「だって、配当できないから利息を払わないって!」
私は通知書を指差しました。
「それ、別の話ですよね!?」
相馬先輩は紙を受け取りました。
数秒。
沈黙。
それから。
「……なるほどな」
嫌な笑い方をしました。
「先輩?」
「こいつ、借金を出資にすり替える気だ」
「え?」
「株式に切り替えれば、元金を返さずに済むと思ってやがる」
私はもう一度、通知書を見ました。
株式への切替え。
……あ。
そういうことですか。
株式なら。
会社が存続している間、株主は原則として出資金の返還を請求できません。
配当だって、必ずもらえるわけではない。
だから。
社債を勝手に株式へ変えてしまえば。
三百万円の償還義務を消せる。
社長は、そう考えているのです。
「そんなの、認められるんですか?」
私が聞くと、相馬先輩は鼻で笑いました。
「認められると思うか?」
「思いません!」
「だろうな」
片桐所長が、奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「まず、その証券の発行条件を確認しろ」
「はい!」
「株式に転換できる社債なのか。それとも普通の社債なのか」
私は証券を裏返しました。
発行条件が記されています。
利率。
利払日。
償還方法。
償還期限。
そして。
株式への転換に関する記載はありません。
「普通の社債です!」
「なら、そこから始めろ」
所長は短く言いました。
「社長の都合で、債権者を株主に変えることはできん」
私は頷きました。
なるほど。
これが、今回の事件の急所です。
株式と社債。
似ているようで。
法律上は、まったく違うのです。
「村瀬さん」
私は確認しました。
「この三百万円は、会社に出資したつもりだったんですか?」
「いいえ」
「では?」
「三年後に返してもらう約束で、貸したつもりです」
「そうですよね」
「社長もそう説明しました」
村瀬さんは、小さく息を吐きました。
「株主になった覚えなんかありません」
私は頷きました。
「そこが大事です」
株式。
会社の社員、つまり構成員としての地位です。
株式会社の株主になれば、持っている株式に応じて株主総会の議決権などを持ちます。
会社の経営に関わることもできる。
でも。
出資金を自由に返してもらえるわけではありません。
一方。
社債。
こちらは、会社に対する金銭債権。
会社が社債を発行して資金を集める。
社債を取得した人は、会社に対して利息や元金の支払を求める立場になる。
「つまり、村瀬さんは会社のオーナーではなく、債権者です」
「債権者……」
「はい。会社にお金を返してもらう権利を持っている人です」
村瀬さんは証券を見つめました。
「じゃあ、会社が赤字でも?」
「赤字だからという理由だけで、返済義務が消えるわけではありません」
「本当ですか!」
「はい!」
私は力強く答えました。
「ただし、会社が実際に支払えない状態なら、回収できるかどうかは別問題です」
片桐所長が頷きました。
「そこを忘れるな」
「はい」
法律上、返してもらう権利がある。
それと。
実際にお金が戻ってくる。
この二つは、同じではありません。
でも。
少なくとも。
社長が一方的に、
『赤字だから返さない』
と決めてよい話ではないのです。
「ところで」
村瀬さんが聞きました。
「社長は、株に切り替えればいいと言っていましたが……」
「それも確認が必要です」
私は答えました。
「社債には、株式と結びついた特別な種類もあります。でも、村瀬さんの証券は普通の社債です」
「はい」
「会社の一方的な通知だけで、当然に株式へ変更されるわけではありません」
すると。
相馬先輩が横から口を挟みました。
「こはる」
「はい?」
「今、何を考えた?」
「新株予約権付社債です!」
「……何だと?」
あ。
しまった。
またです。
私は固まりました。
新株予約権付社債。
現代の会社法で勉強した、株式を取得する権利が付いた社債です。
でも。
ここは昭和六十三年。
「新株予約権って何だ?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「あ、いえ、その……」
「転換社債や新株引受権付社債の話か?」
「そ、そうです!」
危ない。
未来の法律用語を、また口走りました。
昭和六十三年には、現在の会社法でいう新株予約権制度はまだありません。
この時代には、転換社債や新株引受権付社債という仕組みがあります。
株式と結びついた社債という発想自体は、存在しているのです。
でも。
現在の新株予約権付社債と、当時の制度をそのまま同じものとして扱うわけにはいきません。
「お前、また変な六法でも読んでるんじゃねえだろうな」
「い、いえ!」
「今の商法で考えろ」
「はい……」
私は反省しました。
昭和の商法。
本当に油断できません。
しかも。
現代の会社法なら社債の発行限度に一律の法定上限はない。
そんな知識まで頭に浮かんでいました。
でも。
昭和六十三年は違います。
この時代には、旧商法による社債発行限度の規制があり、一定の社債には特例も設けられています。
会社が好きなだけ社債を発行できる時代ではないのです。
「……昭和の会社制度、厳しいですね」
私が呟くと、相馬先輩が言いました。
「会社の借金で泣く奴を減らすための決まりでもあるからな」
なるほど。
株主を守る。
債権者を守る。
会社の資金調達には、いろいろな利害が絡みます。
だから法律は、簡単ではないのです。
翌日。
事件は、さらに悪い方向へ進みました。
「俺が法律だ!」
……。
いきなりです。
場所は、東海精密工業株式会社。
社長室。
机の向こうで怒鳴っているのは、社長の黒田剛三。
五十二歳。
腹の出た体格。
高そうな腕時計。
太い金の指輪。
そして。
やたら大きな声。
「行政書士なんぞ連れてきて、何のつもりだ!」
黒田社長は、村瀬さんに向かって怒鳴りました。
私と相馬先輩は、資料の確認のため、村瀬さんに同行していました。
もっとも。
私たちは弁護士ではありません。
代理人として、社債の返済交渉をすることはできません。
今日は、村瀬さん自身が説明を求める場に、書類作成のための事実確認として同席しているだけです。
それでも。
黒田社長の態度は、ひどいものでした。
「村瀬! お前、誰のおかげで飯が食えたと思ってる!」
「……会社には感謝しています」
「だったら、三百万くらい我慢しろ!」
「それは……」
「会社が苦しいんだよ!」
黒田社長は机を叩きました。
「株主だって配当を我慢してる! 社債を持ってる奴だけ金を返せなんて、不公平だろうが!」
……。
出ました。
不公平。
でも。
私は思いました。
それは、不公平ではありません。
立場が違うのです。
「社長」
村瀬さんが、震える声で言いました。
「私は、会社の株を買ったつもりはありません」
「ああ?」
「三年後に返すと約束していただいたから……」
「同じことだ!」
黒田社長が遮りました。
「会社に金を出したんだろ! だったら運命共同体だ!」
……。
違います。
まったく違います。
会社を応援する気持ちと、法律上の地位は別です。
「それにな」
黒田社長は、にやりと笑いました。
「うちは株式会社だ」
「はい」
「会社の借金は会社の借金。俺個人の借金じゃねえ」
……。
それは、そのとおりです。
株式会社の債務は、原則として会社自身が負います。
社長だからというだけで、当然に個人が弁済義務を負うわけではありません。
でも。
「だから何をしてもいい」
そういう話ではありません。
「俺の個人財産には手を出せねえ。分かったか!」
黒田社長は勝ち誇った顔をしました。
相馬先輩が静かに言いました。
「社長」
「ああ?」
「会社の債務と、取締役自身の責任は、別の問題ですよ」
「何?」
「会社の金を好き勝手に動かして、債権者に損害を与えていいわけじゃありません」
黒田社長の顔が険しくなりました。
「脅してるのか?」
「事実を確認してるだけです」
相馬先輩は淡々と答えました。
「償還期限を過ぎた社債がある。利息も未払い。にもかかわらず、会社は一方的に株式への切替えを通知している」
「だから何だ!」
「その決定をした書類を確認したいんです」
「書類?」
「取締役会の議事録です」
黒田社長が黙りました。
……あ。
私は先輩を見ました。
なるほど。
そこですか。
昭和六十三年。
株式会社には、取締役が少なくとも三人。
そして、監査役も必要です。
現代のような取締役一人だけの株式会社とは違います。
取締役会を設置し、会社の重要な業務執行について決定する。
その仕組みを、社長の独断で無視してよいわけではありません。
「何でそんなものを見せる必要がある!」
黒田社長が怒鳴りました。
相馬先輩は答えました。
「資料を任意に見せていただけるか伺っています。見せないというなら、それはそれで結構です」
「……」
「ただし、村瀬さんが今後どのような手段を取るか判断するうえで、会社の正式な決定だったのかは重要です」
黒田社長はしばらく黙っていました。
そして。
机の引き出しから、一冊の議事録綴りを取り出しました。
「ほらよ!」
乱暴に机へ投げ出します。
「ちゃんと決めてる!」
私はページを開きました。
昭和六十三年九月二十日。
取締役会議事録。
議題。
――社債償還に関する件。
決議内容。
――当社の経営状況を考慮し、第一回社債の償還を当面停止する。
――社債権者については、今後、株主として取り扱うことを検討する。
……。
私は眉をひそめました。
ひどい。
しかも。
議事録を最後まで読むと。
「あれ?」
小さな違和感がありました。
出席取締役。
黒田剛三。
そして、もう一人。
黒田修一。
二人だけ。
「社長」
私は思わず聞きました。
「この会社、取締役は三人ですよね?」
「そうだが?」
「三人目の方は?」
「病気で休んでる」
「欠席されたんですね」
「そうだ」
なるほど。
なら、二人の出席だけで直ちに無効とは限りません。
取締役会の定足数や決議要件を確認する必要があります。
……が。
問題は、そこだけではありませんでした。
議事録の署名欄。
そこには。
――出席取締役 黒田剛三。
――出席取締役 黒田修一。
二つの署名押印。
しかし。
議事録の端に、小さな付箋が残っていました。
私は読みました。
――社長指示により後日作成。修一取締役、出張中につき押印待ち。
……。
え?
私は付箋を見つめました。
後日作成?
押印待ち?
でも、署名押印はある。
どういうことですか?
相馬先輩も付箋を見ました。
表情が変わりました。
「社長」
「何だ!」
「この取締役会、本当に開催されたんですか?」
「当然だ!」
「では、黒田修一取締役は出席していたんですね」
「そうだ!」
「……この付箋には、当日出張中だったとありますが」
沈黙。
黒田社長の顔が、わずかに引きつりました。
「そ、それは事務員の間違いだ!」
「そうですか」
相馬先輩は、それ以上追及しませんでした。
私は少し拍子抜けしました。
もっと詰めるのかと思ったのに。
でも。
先輩は静かに言いました。
「村瀬さん。今日のところは、帰りましょう」
「え?」
「確認したいことは分かりました」
先輩は私を見ました。
「こはる」
「はい」
「戻るぞ」
「……はい!」
社長室を出る直前。
黒田社長が笑いました。
「おい、行政書士!」
相馬先輩が振り返ります。
「何でしょう」
「会社の社債をどう扱うかなんて、社長の俺が決めることなんだよ!」
相馬先輩は、ほんの少し笑いました。
「そうですか」
「ああ!」
「だったら、その決定の責任も、きちんと考えたほうがいいですね」
「……何?」
「社長が一番偉いんじゃねえ」
先輩の声が低くなりました。
「商法を守った奴が勝つんですよ」
それだけ言って、部屋を出ました。
事務所へ戻ると。
私は机に向かって、頭を抱えていました。
「……社債って、怖いですね」
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「会社が返してくれなかったら、どうしようもないんですか?」
「そんなわけねえだろ」
「でも、会社にお金がなかったら……」
「だから調べるんだ」
先輩は資料を机に置きました。
会社の貸借対照表。
損益計算書。
社債発行時の資料。
それから、村瀬さんが持参した社債募集の案内書。
「これを見ろ」
「はい」
「会社は、本当に金がないのか?」
私は決算書を確認しました。
売上高。
営業利益。
現金預金。
借入金。
確かに、業績は悪化しています。
でも。
「あれ?」
私は手を止めました。
「先輩」
「何だ」
「固定資産が、ずいぶん減っています」
「そうだな」
「工作機械を売却したんでしょうか?」
「その可能性がある」
そこで私は、村瀬さんの話を思い出しました。
新しい工作機械を買うために社債を発行した。
ところが。
その工作機械が、決算書上では見当たりません。
「……先輩」
「何だ」
「機械は、どうなったんですか?」
相馬先輩は一枚の資料を取り出しました。
会社の元経理担当者から、村瀬さんが入手したという売却明細です。
そこには。
――精密旋盤二台売却。
――売却代金 一千二百万円。
――買主 黒田機械商会。
と書かれていました。
「黒田機械商会?」
私は首をかしげました。
「社長と同じ名字ですね」
「ああ」
「偶然ですか?」
「調べてみろ」
私は資料を確認しました。
代表者。
黒田修一。
……。
あ。
「社長の息子!」
「そうだ」
「しかも取締役!」
「そういうことだ」
私は息を呑みました。
社債で集めた資金を使って、会社が導入した工作機械。
その機械を。
社長の息子が経営する別会社へ売却していた。
しかも。
村瀬さんによれば、その機械は現在も東海精密工業の工場で使われているらしいのです。
「どういうことですか?」
私が聞くと、相馬先輩は答えました。
「売却して、借りて使ってる可能性がある」
「リースバックみたいな?」
「そういう仕組みだな」
なるほど。
売却代金を得ながら、機械は使い続けられる。
それ自体が、直ちに違法というわけではありません。
でも。
取引相手が社長の息子の会社。
価格は適正か。
必要な承認は得ているか。
会社に不利益は生じていないか。
確認すべきことが増えました。
「所長!」
私は奥へ声をかけました。
「何だ」
「これ、取締役の利益相反取引になりませんか?」
片桐所長が顔を上げました。
「可能性はある」
「ですよね!」
「だが、相手が息子の会社というだけで、すべて利益相反取引だと断定するな」
「……はい」
「契約の当事者、利益の帰属、役員の関与を確認しろ」
所長は続けました。
「問題は、社債だけではないかもしれん」
私は頷きました。
社債の償還を拒む。
会社の機械を身内の会社へ売る。
取締役会の議事録にも疑問が残る。
一つずつ見れば、説明できる事情があるかもしれません。
でも。
全部がつながったとき。
社長が何をしようとしているのか。
恐ろしい輪郭が見え始めていました。
「まず、社債の発行条件を整理するぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私はノートを開きました。
「第一回社債。三百万円。年利六パーセント。三年後償還」
「うん」
「村瀬さんが保有しているのは、普通社債」
「そうだ」
「償還期限は既に到来しています」
「うん」
「それなのに、会社は株式への切替えを一方的に通知している」
「そうだ」
先輩は頷きました。
「じゃあ、社長の一番大きな勘違いは何だ?」
私は答えました。
「株主と社債権者を同じものだと考えていることです」
「そうだ」
「株主は、会社に出資した人」
「うん」
「社債権者は、会社にお金を返してもらう権利を持つ人」
「そうだ」
「利益が出なければ株主に配当しないことはあります。でも社債の利息や償還は、発行条件に従って支払う義務があります」
「そこだ」
私は大きく頷きました。
会社の利益に左右される株式の配当。
契約で決まった社債の利息。
似ているようで、性質が違います。
「じゃあ、会社が赤字なら?」
「社債の支払義務が当然になくなるわけではありません!」
「会社が倒産したら?」
「回収できない可能性があります!」
「株主と社債権者では?」
「倒産手続では原則として債権者への弁済が、株主への残余財産の分配より先に問題になります!」
先輩が頷きました。
「よし」
私は少し嬉しくなりました。
でも。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「社債権者も、株主総会に出られるんですか?」
「社債を持ってるだけじゃ議決権はねえ」
「ですよね」
「会社の借金の持ち主だからって、経営の持ち主になるわけじゃねえ」
なるほど。
会社の財布にお金を入れた。
それだけでは同じ。
でも、そのお金が。
出資なのか。
貸付けなのか。
それによって、権利が変わる。
社債。
やっと、その正体が見えてきました。
片桐所長が、資料を手に取りました。
「相馬」
「はい」
「社債の募集手続は?」
「当時の議事録と発行条件を確認しました。発行そのものについては、今のところ大きな問題は見当たりません」
「発行限度は?」
「当時の規制と会社の財務資料を照合中です」
「うん」
所長が頷きました。
私は思わず口を開きました。
「でも所長。現代の会社法なら、社債の発行限度は……」
「現代?」
「……あ」
しまった。
所長が静かに六法を指差しました。
「今は昭和六十三年だ」
「はい……」
「商法第二百九十七条を見ろ」
私は慌ててページをめくりました。
そこには、社債発行限度に関する規定がありました。
さらに、特定の社債については特別法による扱いもあります。
「……本当に違うんですね」
私は呟きました。
現代では、社債発行限度について、会社法上の一律の上限はありません。
でも昭和六十三年には、まだ規制がある。
社債を発行して資金を集めることは、会社にとって便利です。
けれど。
借金を増やしすぎれば、返済できなくなる危険がある。
その危険から、社債権者をどう守るのか。
昔の法律は、発行額そのものにも制限をかけていたのです。
「所長」
「何だ」
「会社が社債を発行するときって、決めなきゃいけないことが多いんですね」
「そうだ」
「総額、利率、償還方法、期限……」
「それだけじゃない」
所長は言いました。
「誰が、どう決めたかも重要だ」
私は頷きました。
社債は、社長が口約束でお金を集めれば何でも成立する、というものではありません。
発行条件を定め。
必要な会社の意思決定を行い。
法令に従って発行する。
そして。
発行した以上、会社はその条件に拘束される。
「こはる」
所長が言いました。
「一度決めた約束を、社長の都合で消せると思うな」
「はい!」
「議事録にそう書いてあってもだ」
私ははっとしました。
そうです。
あの取締役会議事録。
たとえ適法に決議されていたとしても。
それだけで、社債権者の権利を一方的に消せるわけではない。
しかも。
今回は、その議事録の成立自体に疑問が残っている。
……。
これ。
相手、相当まずいのでは?
「もう一つ、調べておきたいことがある」
片桐所長が言いました。
「何でしょう?」
「募集の受託会社だ」
「……受託会社?」
私は首をかしげました。
頭に浮かんだのは、現代の会社法です。
社債管理者。
社債権者のために、債権の保全や弁済の受領などを行う存在。
でも。
昭和六十三年には、現在の社債管理者制度はありません。
平成五年の商法改正で社債管理会社制度が導入されるのは、まだ先のこと。
まして、現在の会社法七百二条や七百五条を持ち出すわけにはいきません。
「……また未来の法律でした」
私が小声で呟くと、相馬先輩が眉をひそめました。
「何だ?」
「いえ!」
片桐所長は続けました。
「当時の募集方法、受託会社の有無、社債権者に関する資料を確認しろ」
「はい」
社債を持っている人は、一人とは限りません。
十人。
五十人。
百人。
会社が広く資金を集めれば、たくさんの債権者が生まれます。
その全員が、個別に会社とやり取りするのは大変です。
だから、社債には、社債権者を集団として扱うための仕組みもある。
昭和の制度と、現代の制度では違いがあります。
でも。
多数の債権者を保護するという問題は、共通しているのです。
「所長」
「何だ」
「村瀬さん以外にも、社債を買った人がいるんですよね?」
「おそらくな」
相馬先輩が言いました。
「発行総額は、村瀬さんの三百万円だけじゃねえ」
私は資料を確認しました。
第一回社債。
発行総額。
三千万円。
「三千万円!」
思わず声が出ました。
「村瀬さんの十倍じゃないですか!」
「そうだ」
「ほかにも、同じように困っている人が……」
「いるだろうな」
私は息を呑みました。
三百万円の問題だと思っていた事件。
実際には。
三千万円の社債。
その返済をめぐる問題だったのです。
翌朝。
片桐所長が、書面作成の方針を決めました。
「まずは、村瀬さん本人名義で通知する」
「はい」
「請求する権利と、会社側の説明の問題点を整理しろ」
私は原案を書き始めました。
――社債償還及び利息支払請求通知書。
宛先。
東海精密工業株式会社。
代表取締役 黒田剛三。
差出人。
村瀬清一。
私は鉛筆を握り直しました。
ここからが、行政書士の仕事です。
直接交渉で相手を言い負かすのではありません。
依頼人自身が行う法的な通知を、事実と法律に基づいて正確に書面化する。
それが、私たちの武器です。
「第一」
私は読み上げました。
「通知人は、貴社が発行した第一回社債のうち、額面合計三百万円を保有している」
「うん」
「第二。本件社債の償還期限は昭和六十三年九月三十日であり、既に期限が到来している」
「うん」
「第三。貴社は、経営状況及び株主への配当停止を理由として、本件社債の償還及び利息の支払を行わない旨を通知した」
相馬先輩が頷きます。
「続けろ」
「第四。しかし、社債権者は、株主とは異なり、社債の発行条件に基づく金銭債権を有する者である」
「うん」
「第五。会社の利益減少又は配当停止は、それ自体として、償還期限の到来した本件社債の支払義務を消滅させるものではない」
「よし」
「第六。本件社債は普通社債であり、社債権者の同意なく当然に株式へ転換されるものではない」
私は一度、息を吸いました。
「よって通知人は、貴社に対し、本件社債の元金三百万円及び未払利息について、発行条件に従った支払を求める」
相馬先輩が頷きました。
「いいな」
私はほっとしました。
でも。
所長が言いました。
「もう一つ」
「はい?」
「会社の資産処分についてだ」
私は資料を見ました。
工作機械。
売却代金一千二百万円。
買主は社長の息子が経営する会社。
しかも、取締役会議事録には疑問がある。
「でも所長」
「何だ」
「この取引が違法だと、まだ断定できません」
「そうだ」
「では、内容証明に書いていいんですか?」
所長は頷きました。
「確定している事実と、確認を求める事項を分けろ」
「……なるほど!」
私は書き足しました。
――なお、通知人が確認した資料によれば、貴社は社債償還期限に先立ち、工作機械を関係会社へ売却した事実が認められる。
――当該取引の経緯及び会社の資産状況については、社債権者の権利保全に関わる事項であるため、説明を求める。
――また、社債償還停止に関する取締役会決議の成立及びその法的効力についても疑義がある。
――本通知に対する対応がない場合には、通知人において弁護士への相談その他の法的措置を検討する。
私は書き終えました。
「……できました」
相馬先輩が読みます。
片桐所長も確認します。
そして。
所長が一か所だけ、赤鉛筆で線を引きました。
「ここ」
「はい」
「『取締役の責任は明白である』」
「……あ」
「削れ」
「はい」
私は慌てて消しました。
取締役の責任。
たしかに、会社に損害を与えるような任務違反があれば、個人の責任が問題になることがあります。
第三者に対する責任も、法律上の要件を満たせば生じ得ます。
でも。
疑わしいからといって、直ちに個人財産で社債を返せ、とは言えません。
「こはる」
所長が言いました。
「法律の書面で、分からんことを断定するな」
「はい」
「事実と評価を分けろ」
「はい!」
「脅し文句を書くな。相手が説明しなければならない事実を書け」
私は頷きました。
これです。
行政書士の書面。
大声で怒鳴る必要はありません。
相手を犯罪者呼ばわりする必要もありません。
ただ。
相手が説明できない事実を、一つずつ並べる。
そのうえで、法的な問題を正確に指摘する。
すると。
何も言い返せなくなることがあるのです。
内容証明郵便を発送してから、三日後。
事務所に電話が入りました。
「……片桐さんは、いらっしゃいますか」
低い声。
私は受話器を握り直しました。
「どちら様でしょうか?」
『東海精密工業の黒田です』
……。
あの社長です。
でも。
声が違いました。
あの大声ではありません。
妙に小さくて。
慎重で。
まるで、誰かに聞かれるのを恐れているようでした。
「少々お待ちください」
私は所長に受話器を渡しました。
「片桐です」
『あの……通知書の件ですが』
「はい」
『顧問弁護士に確認しました』
私は耳を澄ませました。
『社債は、株式とは違うそうですね』
「その点は、通知書に記載したとおりです」
『会社が赤字だからって、返さなくていいわけじゃないと……』
黒田社長の声が、さらに小さくなりました。
『それに、株式に切り替えるという話も……』
所長は黙って聞いています。
『一方的にはできない、と』
「はい」
『……それから』
少し、間がありました。
『工作機械の売却についても、顧問弁護士から説明を求められまして』
私は顔を上げました。
来ました。
工作機械です。
『取締役の利益相反や、会社に対する損害賠償責任が問題になる可能性がある、と……』
所長は短く答えました。
「具体的な事実関係によるでしょう」
『はい……』
『それと、例の取締役会議事録ですが……』
沈黙。
『実は、正式な会議を開いていなかったんです』
……!
私は思わず息を呑みました。
やっぱり!
『社長の私が決めたんだから、それでいいと思って……』
所長は静かに言いました。
「会社の意思決定手続は、法令と定款に従う必要があります」
『はい……』
『顧問弁護士にも、かなり叱られました』
相馬先輩が、隣で小さく鼻を鳴らしました。
それから。
黒田社長は言いました。
『……社債は、返します』
私は目を見開きました。
『村瀬にも、きちんと返すつもりです』
「そうですか」
『ただ、会社にも支払の準備が必要でして……』
所長は答えました。
「返済時期などについては、村瀬さんご本人へ具体的な提案を書面でお伝えください」
『分かりました』
「当事務所は代理交渉を行う立場ではありませんので」
『はい』
電話が切れました。
「所長!」
私は思わず立ち上がりました。
「返すって!」
「ああ」
「やりましたね!」
でも。
相馬先輩が言いました。
「まだだ」
「え?」
「口だけなら、いくらでも返すって言える」
「……あ」
「金が戻るまでは終わりじゃねえ」
そうでした。
債権があること。
返すと約束すること。
実際に返済されること。
全部、違います。
会社に支払能力がなければ、社債権者が損失を被る可能性もあります。
法律が支払義務を認めているからといって、お金が自動的に戻ってくるわけではありません。
「じゃあ、これからどうするんですか?」
私が尋ねると、所長は答えました。
「村瀬さんに、会社からの提案を確認してもらう」
「はい」
「必要なら、返済予定を記した書面を作る」
「はい」
「争いが残るなら、弁護士に引き継ぐ」
私は頷きました。
私たちの仕事は。
勝った気になることではありません。
依頼人の権利が、現実に守られるよう、適切な書類と手続を整えることなのです。
一週間後。
村瀬さんが、事務所を訪れました。
その手には、銀行の振込明細がありました。
「……返ってきました」
小さな声でした。
「え?」
「三百万円です」
私は息を呑みました。
「本当ですか!?」
「はい」
村瀬さんは頷きました。
「元金、全部です」
会社は、保有していた余剰資産の処分代金などから、支払資金を確保したそうです。
未払利息についても、会社から支払額と日程を明記した書面が届いていました。
その後、利息も入金されたと確認できました。
「よかった……!」
私は思わず笑いました。
村瀬さんは、振込明細を見つめていました。
「……三十五年なんです」
「え?」
「私が、あの会社で働いた年数です」
村瀬さんは、少し笑いました。
「高校を出て、すぐに入社して」
「はい」
「旋盤の使い方も、図面の読み方も、全部あそこで覚えました」
節くれだった指が、明細をなぞります。
「会社が大きくなるのが嬉しかったんです」
私は黙って聞いていました。
「だから、三百万円を貸したときも、損得だけじゃなかった」
「……はい」
「会社に、もう一度頑張ってほしかったんです」
村瀬さんは目を伏せました。
「でも、まさか借りた金まで返さないって言われるとは思わなくて」
少し、沈黙がありました。
それから。
「先生方」
村瀬さんが顔を上げました。
「社債って、借金なんですね」
私は頷きました。
「そうです」
「会社が苦しいから、返せないことはあるかもしれない」
「はい」
「でも、返さなくていいってことじゃない」
「そのとおりです」
村瀬さんは、ほっとしたように笑いました。
「そこが分かっただけでも、救われました」
私は胸が熱くなりました。
社債。
行政書士試験のテキストでは、ただの資金調達手段でした。
株式との違い。
利息。
償還。
社債権者。
そんな言葉を覚えるだけ。
でも。
その向こうには。
三十五年間働いてきた職人の退職金がある。
会社を信じて貸した三百万円がある。
そして。
借りたお金は返さなければならないという、当たり前の約束がある。
法律は、その約束を支えているのです。
「ところで、村瀬さん」
私は聞きました。
「社長は、その後どうなったんですか?」
「ああ……」
村瀬さんは、少し困ったように笑いました。
「息子さんの会社との取引について、監査役から詳しい説明を求められているそうです」
「そうなんですか」
「取締役会の議事録も、調べ直すことになったとか」
なるほど。
やはり。
社債の問題だけでは終わりませんでした。
取締役には、会社に対する善管注意義務や忠実義務があります。
そして、法律上の要件を満たせば、任務違反による損害賠償責任が問題になります。
株式会社だから。
有限責任だから。
会社の借金だから。
それだけで、経営者が何をしても責任を免れるわけではありません。
もっとも、今回はまだ調査の途中。
個人責任が成立すると決まったわけではありません。
そこを混同してはいけません。
「社長は……」
村瀬さんが続けました。
「昔は、いい人だったんです」
私は顔を上げました。
「そうなんですか?」
「はい」
「……」
「会社が小さかった頃は、従業員と一緒に油まみれになって働いていました」
村瀬さんは、少し懐かしそうに笑いました。
「でも、会社が大きくなると、自分の会社だから何でも決めていいと思うようになったんでしょうね」
私は何も言えませんでした。
会社。
法人。
法律上は、人とは別の存在です。
でも。
実際に会社を動かしているのは、人間。
その人間が。
欲を出すこともある。
約束を忘れることもある。
力を持ちすぎることもある。
だから。
商法は、会社の経営者にもルールを課しているのです。
「これからは」
村瀬さんが言いました。
「自分の小さな修理工場を、大事にやっていこうと思います」
「はい!」
「借りたお金は返す。約束した仕事はする」
村瀬さんは笑いました。
「それだけは、守りたいです」
私は大きく頷きました。
「それが一番大切だと思います!」
村瀬さんの笑顔を見て。
社債という硬い法律用語が、少しだけ温かく感じられました。
夕方。
事務所に戻ると、相馬先輩が帳簿を閉じていました。
「こはる」
「はい!」
「社債、分かったか?」
「はい!」
「じゃあ言ってみろ」
私は背筋を伸ばしました。
「社債は、会社が資金を調達するために発行する、金銭債権です!」
「うん」
「株式とは違って、社債権者は会社の債権者です!」
「そうだ」
「原則として、社債を持っているだけでは株主総会の議決権はありません!」
「うん」
「そして、発行条件に従って利息や償還金の支払を受ける権利があります!」
先輩が頷きました。
「よし」
私は得意になりました。
「それから、現代の会社法では、社債の発行限度はありません!」
「……おい」
「あっ」
「昭和六十三年の話をしろ」
「はい……」
また怒られました。
「昭和六十三年には、社債発行限度の規制があります!」
「そうだ」
「それから、現代の社債管理者制度も、まだありません!」
「うん」
「この時代には、社債募集の受託会社などの制度があります!」
「そうだな」
「それから、新株予約権付社債という現代の制度を、そのまま持ち込んではいけません!」
「……お前、本当にどこで勉強してきたんだ?」
「内緒です!」
「怪しい奴だな」
私は笑いました。
でも。
本当に不思議です。
昭和の商法は、現代から見ると、ずいぶん古臭く感じられます。
株式会社を設立するにも、発起人は七人以上。
取締役も三人以上。
監査役も必要。
会社を作ること自体が、現代よりずっと大変。
資金調達についても、社債発行限度などの規制がある。
一方。
現代では。
発起人一人。
取締役一人。
資本金一円。
そんな株式会社も設立できます。
社債制度も、会社法の中で整理されています。
でも。
昔の規制が、ただ無意味だったわけではありません。
会社を作る人。
会社に出資する人。
会社にお金を貸す人。
その全員を、どう守るのか。
昔の制度も、現代の制度も。
その難しい問題に向き合っているのです。
「所長」
私は聞きました。
「どうして社債って、必要なんでしょう?」
片桐所長が顔を上げました。
「銀行から借りればいいって話ではないんですか?」
所長は少し考えてから答えました。
「会社には、資金が必要だ」
「はい」
「設備を買う。工場を建てる。新しい仕事を始める」
「はい」
「その金を、どう集めるか。方法は一つではない」
私は頷きました。
株式を発行する。
銀行から借りる。
社債を発行する。
どれも、会社が資金を調達する方法です。
でも。
資金を出す人の立場が違う。
「株式なら、会社の持ち主を増やすことになる」
「はい」
「借金なら、返す義務が生じる」
「はい」
「社債も、その一つだ」
所長は帳簿を閉じました。
「大事なのは、その違いをごまかさないことだ」
私は大きく頷きました。
なるほど。
社債は便利です。
会社は多くの人から資金を集められる。
社債権者は、約束された条件で利息や償還金を受け取る権利を持つ。
ただし、会社が支払不能になれば、元金すら回収できない危険もある。
だからこそ。
発行条件。
意思決定手続。
債権者保護。
そうしたルールが必要なのです。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日、一番大事だったことは何だ?」
私は少し考えました。
村瀬さん。
三十五年働いた職人。
退職金から出した三百万円。
黒田社長。
株式と社債を混同した通知書。
疑わしい議事録。
そして。
ようやく戻ったお金。
私は答えました。
「お金を出したからといって、みんな株主になるわけじゃないことです」
「そうだ」
「社債権者は、会社に対する債権者」
「うん」
「株主とは権利が違う」
「そうだ」
「だから、社長が勝手に株主扱いして、返済義務を消すことはできない」
相馬先輩が頷きました。
「それでいい」
私は嬉しくなりました。
よし。
今回の事件。
ようやく整理できました。
株式と社債。
出資と借金。
配当と利息。
議決権と償還請求権。
似ている言葉を、きちんと区別する。
それだけで、三百万円を守る手がかりになったのです。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声でした。
『会社から、妙な証券を買わされたんですが……』
「証券?」
『はい。社債なんですけど』
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ています。
『普通の社債とは違うらしくて』
「どう違うんでしょう?」
『株価が上がったら、株を買う権利が使えるって説明されまして』
……。
来ました。
これは。
まさか。
『新株引受権付社債とかいう名前なんですが……』
私は目を見開きました。
「先輩!」
「何だ」
「今度は株を買う権利が付いた社債です!」
「聞こえてる」
「普通の社債より複雑です!」
「そうだな」
「でも、会社の株価が上がれば、利益を得られる可能性があるんですよね!」
「その代わり、仕組みを理解しねえと危ねえぞ」
私は受話器を握り直しました。
なるほど。
社債。
ただお金を貸すだけではない。
株式と結びついたものもある。
だから。
社債という名前だけで、全部同じだと思ってはいけない。
私は相談票を開きました。
「すみません。まず、その証券の発行条件が分かる書類をお持ちでしょうか?」
『あります』
「では、どんな権利が付いているのか、一緒に確認しましょう」
電話を切ると、相馬先輩が笑いました。
「こはる」
「はい!」
「また勉強だな」
「はい!」
私は六法を開きました。
昭和六十三年。
商法第二編。
会社の法律。
株式。
社債。
転換社債。
新株引受権付社債。
まだまだ、知らなければならないことがあります。
でも。
今日、一つだけはっきり分かりました。
会社にお金を出すという行為は。
その人の人生を、会社に預けることでもある。
だから。
そのお金が、出資なのか。
借金なのか。
返してもらえる約束なのか。
利益が出たときだけ分配を受ける立場なのか。
法律は、そこを厳密に区別しているのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「私、社債が好きになりました!」
「変な趣味だな!」
「だって、会社を応援しながら、債権者としての権利も持てるんですよ!」
「会社が潰れりゃ返ってこねえこともあるぞ」
「……現実的ですね」
「現実の法律だからな」
私は苦笑しました。
そうです。
社債は、必ず儲かる魔法の証券ではありません。
発行会社の信用に基づく、資金調達の仕組みです。
そして。
その仕組みを悪用して、真面目に働いてきた人の財産を奪おうとする経営者がいるなら。
法律は、黙っていません。
少なくとも。
会社が赤字だから。
社長がそう決めたから。
そんな理由だけで。
三十五年間の汗と努力が詰まった三百万円を、紙くずにしてよいはずがないのです。
私は村瀬さんが置いていった、礼状を見つめました。
そこには、職人らしい力強い字で。
たった一行。
こう書かれていました。
――約束を守る会社でなければ、いい仕事はできません。
私は、その言葉に小さく頷きました。
商法も、きっと同じです。
会社を強くするための法律。
でも同時に。
会社を信じた人を、守るための法律でもある。
そして。
借りた金を返さない社長が、どれだけ偉そうに胸を張っても。
たった一枚の社債には。
社長の言い分より、ずっと重い約束が刻まれているのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




