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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式

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635/701

[会社法・新株予約権]現場編 「金を払ったから株主だ」の嘘。二度目の払込みを隠した社長と、未来の株式を奪われかけた町工場

挿絵(By みてみん)

 株を買う権利と、株そのものは違います。


 たとえば。


「将来、この会社の株を一株千円で買っていいですよ」


 そう約束された人がいたとします。


 会社が大きくなって、株の価値が一株一万円になったら。


 千円で買える権利は、とても魅力的です。


 でも。


 ここに落とし穴があります。


 株を買える権利を持っていることと。


 実際に株主になっていることは、同じではないのです。


 しかも。


 権利を手に入れるためのお金と、株を手に入れるためのお金。


 この二つまで混同したら。


 悪い社長に、大切な財産を丸ごと奪われるかもしれません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、未来の会社法にある一つの制度を思い出していました。


 ――新株予約権。


 ところが。


 この昭和の世界には、まだその名前の制度がありません。


 代わりに登場したのは。


 いかにも古めかしい名前の、別の仕組みでした。


「二百万円を出したのに、株は一株も渡せないと言われたんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた男性は、そう言いました。


「……二百万円?」


 私は思わず聞き返しました。


 男性の名前は、森田修一さん。


 四十八歳。


 町外れで、小さな金属加工工場を営んでいます。


 油の染みついた作業服。


 指には、小さな切り傷がいくつもありました。


「うちはね、従業員が六人しかいない工場なんです」


 森田さんは言いました。


「でも、旋盤の腕には自信があります。大きい会社の下請けも、ずっとやってきました」


「それで、株というのは?」


「取引先の社長に勧められたんです」


 森田さんが鞄から取り出したのは、厚い封筒でした。


 中には、印刷された書類。


 そこに大きく、


 ――新株引受権付社債。


 と書かれています。


「……しんかぶ、ひきうけけん、つき、しゃさい?」


 私は読み上げました。


 そして。


 固まりました。


 あれ?


 新株予約権じゃない?


 森田さんは不安そうに私を見ました。


「難しい名前でしょう。私もよく分からなくて」


「え、ええ……」


 私は書類を見つめました。


 新株引受権付社債。


 ワラント債。


 そうだ。


 昭和六十三年。


 この時代には、現在の会社法第二条第二十一号にいう新株予約権という制度は、まだ存在しません。


 でも。


 将来、一定の条件で新株を引き受けることのできる仕組みなら、既にあります。


 昭和五十六年の商法改正で認められた、新株引受権付社債です。


 私は内心で拳を握りました。


 なるほど!


 新株予約権の原型!


 これは、未来の知識が使えるかもしれません!


「森田さん!」


「は、はい」


「お話、詳しく聞かせてください!」


 私は相談票を引き寄せました。


 問題の会社は、東海精機株式会社。


 自動車部品を扱う中堅の製造会社です。


 社長は、黒岩剛造。


 五十三歳。


 地元では、強引な商売で有名な人物でした。


「五年前、黒岩社長から出資の話を持ちかけられまして」


 森田さんは説明しました。


「新しい工場を建てるので、資金を集めたいと」


「はい」


「でも、私は大きな会社の株なんて買ったことがありません」


「それで?」


「社長が言ったんです」


 森田さんは、そのときの言葉を思い出すように続けました。


「今すぐ株を買わなくてもいい。まず会社に金を貸してくれ。そうすれば、将来、決められた値段で株を引き受けられる権利も付けてやる、と」


 私は頷きました。


 社債。


 つまり、会社が資金を借り入れるために発行する債券です。


 そして新株引受権。


 決められた条件で、将来、会社の新株を引き受ける権利。


 この二つを組み合わせたものが、新株引受権付社債。


「森田さん、二百万円は社債の購入代金として払い込んだんですね?」


「そうです」


「株を取得するための払込みは?」


「……え?」


 森田さんが首をかしげました。


「株を取得するためのお金?」


「はい」


「二百万円を払いましたよ」


 私は慎重に聞きました。


「その二百万円とは別に、新株を引き受けるためのお金を払い込んだことはありますか?」


「いえ……」


 森田さんは困惑しました。


「社長には、最初に金を出せば、会社が大きくなったときに株主になれると言われました」


 あ。


 嫌な予感。


 非常に嫌な予感です。


「森田さん」


「はい」


「その後、株を引き受けたいと会社に申し出たことは?」


「あります」


「いつですか?」


「先月です」


「それで?」


「社長が言ったんです」


 森田さんは唇を噛みました。


「お前が持っているのは、ただの紙切れだ。株主なんかじゃない、って」


 私は眉をひそめました。


 ……。


 いや。


 株主ではないという部分だけなら、正しい可能性があります。


 でも。


 だからといって、権利そのものが紙切れになるわけではありません。


 これは。


 少し厄介な事件です。


「なるほどな」


 相馬先輩が書類を受け取りました。


「分離型のワラント債か」


「ワラント?」


 森田さんが聞き返します。


「新株引受権のことです。株を引き受ける権利ですね」


「そうです。それです!」


 森田さんが頷きました。


「私はその権利も付くと聞いて、二百万円を出しました」


「証券はありますか?」


「はい」


 森田さんは封筒から二種類の証券を取り出しました。


 一つは、社債券。


 もう一つは、新株引受権証券。


 私は目を丸くしました。


「分かれているんですね」


「分離型だからな」


 相馬先輩が言いました。


「社債と新株引受権を別々に譲渡できる仕組みだ」


「なるほど……」


 社債。


 会社に対して元本の償還などを求める権利。


 新株引受権。


 所定の条件に従って新株を引き受ける権利。


 どちらも財産的な価値を持ちます。


 けれど、性質は違う。


「先輩!」


「何だ」


「つまり、現代の新株予約権と同じように、権利を取得する段階と、株を取得する段階を分けて考えるわけですね!」


「……現代?」


「あっ」


 しまった。


「い、いえ、その、理論的に!」


「お前、また妙な本を読んだな」


「勉強熱心なんです!」


「なら、今の商法を読め」


 先輩は分厚い六法を机に置きました。


 私は開きました。


 商法第二編。


 会社。


 そして、社債に関する規定。


 現代の会社法とは、条文の並び方も用語も違います。


「あの……」


 私は恐る恐る言いました。


「これって、会社法の新株予約権として処理できませんか?」


「会社法?」


 相馬先輩の眉が動きました。


「何だ、その法律は」


「……ですよね」


「何が『ですよね』だ」


 またやってしまいました。


 昭和六十三年。


 まだ独立した会社法はありません。


 まして、現代のように新株予約権を単独で広く発行できる制度もありません。


「じゃあ、ストックオプションとして――」


「何だそれは」


「あ、いえ!」


 私は慌てて口を閉じました。


 現代の会社では、従業員や役員に新株予約権を与えることがあります。


 でも、この時代には、現在のような一般的なストックオプション制度はまだありません。


 時代錯誤。


 今日も絶好調です。


 片桐所長が静かに書類を受け取りました。


「こはる」


「はい」


「名前に惑わされるな」


「え?」


「会社が何を約束し、その権利がいつ発生し、何をすれば株式を取得できるのか」


 所長は新株引受権証券を指で叩きました。


「そこを調べろ」


「……はい!」


 私は証券を覗き込みました。


 すると。


 一つの数字が目に入りました。


 ――新株引受価額 一株一千円。


 そして。


 ――新株引受権行使期間 昭和六十二年四月一日から昭和六十四年三月三十一日まで。


「……あれ?」


 私は日付を見直しました。


 昭和六十三年。


 今は、まだ期間内です。


「先輩!」


「何だ」


「権利、まだ行使できます!」


「そうだな」


「じゃあ、会社は拒否できないんじゃないですか?」


「待て」


 先輩が私の頭を六法で軽く小突きました。


「痛っ!」


「行使の手続を確認したか」


「……まだです」


「必要な金額は?」


「まだです」


「新株を引き受けるための払込みは?」


「……まだです」


「だったら、いきなり株主だとは言えねえだろ」


 私は口を閉じました。


 確かに。


 権利を持っている。


 だから、今すぐ株主。


 そんな単純な話ではありません。


 そして、その区別こそが。


 黒岩社長に利用されている気がしたのです。


「この会社、妙だな」


 相馬先輩が別の書類をめくりました。


「何がですか?」


「見ろ」


 そこには、東海精機株式会社の定款の写しがありました。


 さらに。


 株主名簿。


 取締役会議事録。


 社債発行に関する書類。


「社長が会社の株をほとんど握っている」


「ワンマン会社ですね」


「ああ」


 そして、取締役は三名。


 監査役一名。


 創業時の発起人は七名。


 私は思わず言いました。


「こういう会社なら、社長一人が株主兼取締役になればいいのに……」


「何だと?」


 相馬先輩が顔を上げました。


「一人会社ですよ。今なら発起人一人、取締役一人でも株式会社を作れるじゃないですか」


 ……。


 しまった。


 本日二回目。


 未来の会社法です。


「発起人は七人以上必要だ」


 相馬先輩が即答しました。


「取締役も三人以上。監査役も必要だ。株式会社ってのは、そういうものだ」


「はい……」


「一人で気軽に株式会社なんぞ作れねえ」


 ですよね。


 昭和六十三年ですから。


 現代なら。


 発起人一人。


 取締役一人。


 最低資本金制度もなく、資本金一円での設立も可能。


 合同会社という選択肢まであります。


 でも。


 この昭和では。


 まだ、その仕組みがありません。


「しかし……」


 私は登記関係の資料を見ました。


「取締役が三人いても、実際には社長一人が全部決めているんですね」


「頭数だけ揃えた会社は珍しくねえ」


 相馬先輩が吐き捨てるように言いました。


「法律で役員の数を決めても、名前だけ借りてれば意味がねえ」


 片桐所長が一枚の議事録を抜き出しました。


「相馬」


「はい」


「社債発行のときの議事録だ」


 私は覗き込みました。


 取締役会議事録。


 新株引受権付社債の発行。


 発行総額。


 新株引受権の内容。


 行使期間。


 行使価額。


 発行決議の記載。


 どれも、細かい。


 でも。


「……所長」


「何だ」


「これ、会社が正式に発行したことを示す重要な資料ですよね」


「そうだ」


「じゃあ、社長が後から『ただの紙切れ』と言ったところで……」


「発行した事実は消えん」


 所長が答えました。


 私は思わず笑みを浮かべました。


 見つけた。


 最初の糸口です。


 翌日。


 森田さんが、もう一通の手紙を持ってきました。


「これが、黒岩社長から届いたんです」


 封筒を開きます。


 そこには、こう書かれていました。


 ――貴殿が取得したのは新株引受権付社債であって、当社株式そのものではない。


 ――したがって、貴殿には現在、株主としての権利は存在しない。


 ――また、当社は経営方針を変更したため、今後、貴殿に対する新株の発行を予定していない。


 ――新株引受権は既に実質的価値を失っているため、これ以上の請求には応じない。


 私は読み終えました。


 ……。


「先輩」


「何だ」


「最初の二行だけ、正しいことを言ってません?」


「そうだな」


「でも、その次が変です」


「どこだ」


「会社が新株を発行する予定をなくしたから、権利もなくなるって……」


 私は証券を指差しました。


「そんなこと、勝手に決められるんですか?」


 相馬先輩はにやりと笑いました。


「ようやく急所が見えたか」


 そうです。


 森田さんは、まだ株主ではない。


 これは事実。


 でも。


 だからといって、適法に取得した新株引受権まで無視していいわけではありません。


 決められた期間内に。


 決められた手続で。


 決められた金額を払い込む。


 そうすれば、新株の引受けが問題になる。


 その権利を、社長の気分で消してしまうことはできないはずです。


「所長!」


 私は言いました。


「黒岩社長は、二つの話を混ぜています!」


「続けろ」


「森田さんが、今は株主ではないという話」


「うん」


「そして、将来株式を引き受ける権利があるという話!」


 所長が頷きました。


「そこだ」


 私は拳を握りました。


 新株予約権。


 いや、この時代では新株引受権。


 名前は違っても。


 権利の取得と、株式の取得を区別することが大切なのです。


 数日後。


 私と相馬先輩は、森田さんの依頼を受けて資料を確認するため、東海精機株式会社を訪れました。


 応接室には、大きな革張りのソファ。


 ガラスの灰皿。


 壁には、黒岩社長が地元の名士と握手している写真。


 いかにも。


 昭和のワンマン社長の部屋です。


「何だ、行政書士か」


 黒岩剛造は、私たちを見るなり笑いました。


「森田の奴、弁護士を雇う金もないのか」


 ……。


 初対面から、その態度ですか。


 相馬先輩は表情を変えません。


「森田さんから、書類の確認を依頼されています」


「書類?」


「新株引受権付社債の発行関係です」


 黒岩社長は鼻を鳴らしました。


「そんなもの、とうの昔に終わった話だ」


「証券に記載された行使期間は、まだ残っています」


「だから何だ」


「発行当時の条件と、その後の変更の有無を確認したいのです」


 黒岩社長は机を指で叩きました。


「お前ら、勘違いしてないか」


「何をでしょう」


「会社は俺のものなんだよ」


 来ました。


 全国の商法が、六法の中で身構える発言です。


「俺が会社を作った。俺が資金を集めた。俺が取引先を増やした」


 黒岩社長は胸を張りました。


「森田みたいな下請けが、株主になりたいからって簡単に認められると思うな」


 私は思わず言いました。


「でも、御社が発行した新株引受権ですよね?」


「だから?」


「会社が約束した権利ですよ」


「そんなもの、経営事情が変わればどうにでもなる」


 ……。


 どうにでも?


「それに、あいつは株主じゃない」


 黒岩社長が笑いました。


「株主総会で文句を言う資格もない。帳簿を見せろとも言えない。つまり、何もできん」


 私は唇を噛みました。


 そこが腹立たしい。


 正しい法律知識を、一部分だけ悪用している。


 森田さんがまだ株主ではないことは事実です。


 でも。


 だからといって、別の権利まで消えるわけではない。


「社長」


 相馬先輩が静かに言いました。


「発行時の書類には、社長ご自身の署名押印がありますね」


「ああ」


「行使期間も、行使価額も明記されています」


「そうだ」


「その内容に従って発行したんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩は頷きました。


「分かりました」


「何?」


「確認したい事実は確認できました」


 先輩は立ち上がりました。


 私も慌てて続きます。


「先輩、もう帰るんですか?」


「ああ」


「でも、まだ……!」


「こはる」


 低い声。


「俺たちは、森田さんの代理人として示談交渉に来たわけじゃねえ」


「……はい」


「法律上の争いを口で決着させる仕事は、弁護士の領分だ」


 私は口を閉じました。


 そうでした。


 行政書士は、書類の専門家。


 会社の定款。


 議事録。


 権利関係を明らかにする通知書。


 その作成こそが仕事です。


 相手を怒鳴り負かすことではありません。


 黒岩社長が笑いました。


「何だ、帰るのか?」


 相馬先輩は振り返りました。


「ええ」


「結局、何もできねえじゃないか」


「そう思われるなら、それで結構です」


 先輩は淡々と言いました。


「ただ、社長」


「何だ」


「会社の約束と、社長個人の気分は、別物ですよ」


 黒岩社長の笑みが、一瞬だけ止まりました。


 事務所に戻ると、私は机を叩きました。


「悔しいです!」


「机が壊れる」


「だって!」


 私は言いました。


「あの社長、完全に人を馬鹿にしてます!」


「そうだな」


「法律なんて関係ないって顔してましたよ!」


「そうだな」


「だったら!」


「落ち着け」


 相馬先輩が六法を開きました。


「怒ってる暇があったら、事実を整理しろ」


「……はい」


「まず、森田さんは何を取得した?」


「社債と、新株引受権です」


「株主か?」


「まだ違います」


「じゃあ、株主になるには?」


「新株引受権を適法に行使して、必要な払込みをすることです」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「で、森田さんはいくら払った?」


「二百万円です」


「その金は何だ」


「社債の購入代金です」


「株式の引受代金か?」


「違います!」


 私は勢いよく答えました。


 そこです。


 二百万円を払った。


 だから株主になった。


 それは間違い。


 でも。


 二百万円を払って、新株引受権も取得した。


 それなら。


 その権利を正しく行使する道が残っている。


「先輩!」


「何だ」


「払込みの意味が違うんですね!」


「そうだ」


「最初のお金は、社債の取得のため」


「うん」


「次のお金は、新株を引き受けるため!」


「そのとおりだ」


 私はノートに二本の矢印を書きました。


 社債の取得。


 新株引受権の保有。


 権利の行使。


 新株引受代金の払込み。


 株式の取得。


 なるほど。


 やっと、つながりました。


 ただし、ここで注意です。


 昭和のワラント債と、現代の新株予約権は、完全に同じ制度ではありません。


 現代の新株予約権には、無償で発行されるものも、有償で発行されるものもあります。


 だから、いつでも必ず二回お金を払うというわけではありません。


 しかし、今回の森田さんの場合は。


 まず社債を購入するために二百万円を払った。


 それとは別に、新株引受権を行使するための払込みが必要になる。


 そこが事件の核心でした。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「この資料を見ろ」


 机に置かれたのは、発行条件を記した書類です。


 私は数字を追いました。


 森田さんに割り当てられた新株引受権によって、引き受けることのできる株式。


 二千株。


 一株当たりの引受価額。


 千円。


「……二千株?」


「そうだ」


「一株千円なら……」


 私は計算しました。


 二千株。


 掛ける千円。


 二百万円。


「先輩!」


「何だ」


「株を引き受けるなら、さらに二百万円必要です!」


「そうだ」


「最初の二百万円とは別に!」


「正解」


 私は思わず頭を抱えました。


「森田さん、そんな説明を受けていたんでしょうか……」


「そこも確認が必要だ」


 相馬先輩が言いました。


「契約の説明に問題があったのか。それとも本人が誤解していたのか」


「はい」


「だが、それと権利行使の条件は、まず分けて考える」


 私は頷きました。


 そして、もう一つ気になりました。


「所長」


「何だ」


「森田さんが、この二百万円を払い込んだら、どうなるんですか?」


「定められた方法で適法に新株引受権を行使すれば、株式を取得することになる」


「じゃあ、黒岩社長が嫌だと言っても?」


「会社が発行した権利だ」


 所長は静かに言いました。


「社長が嫌いな相手だから、という理由だけで、約束をなかったことにはできん」


 私は息を呑みました。


 つまり。


 社長にとって都合が悪い相手でも。


 法律に従って取得した権利は、尊重されなければならない。


 これこそ。


 会社を個人の気分で動かさせないための仕組みです。


「ただし」


 所長が続けました。


「もう一つ確認しておけ」


「はい」


「その新株引受権が、現在も有効に存在しているか」


「行使期間は残っています」


「それだけでは足りん」


 所長は書類を一枚ずつ並べました。


「発行手続に問題がなかったか」


「はい」


「行使条件が変更されていないか」


「はい」


「証券の権利者は誰か」


「森田さんです」


「では、会社はどういう理由で行使を拒もうとしているのか」


 私は黒岩社長の手紙を見ました。


 ――経営方針を変更したため。


 ――新株の発行を予定していない。


 それだけです。


「……会社の都合ですね」


「そうだ」


「正式な条件変更の資料もありません」


「うん」


 所長が頷きました。


「なら、そこを明確にする書面を作れ」


「はい!」


 私は原稿用紙を取り出しました。


 いよいよ。


 内容証明郵便です。


 ただし。


 株主であると偽って主張するのではありません。


 権利者として、何を求めるのか。


 それを正確に書く必要があります。


 まず、森田さんに改めて事情を確認しました。


「二百万円を払い込めば、株を引き受けられるんですね」


 森田さんは静かに言いました。


「はい。ただし、権利行使の手続なども満たす必要があります」


「なるほど……」


 森田さんは、少し考えました。


「私は、最初のお金だけで株主になれると思っていました」


「そうだったんですね」


「でも、そうじゃなかった」


「はい」


 森田さんは苦笑しました。


「難しいものですね、会社の仕組みというのは」


 私は頷きました。


「ええ。でも、株を買う権利までなくなったわけではありません」


 森田さんが顔を上げました。


「本当ですか?」


「現在確認できる書類では、行使期間が残っています」


 私は続けました。


「ただ、正式に株式を取得するには、権利行使と払込みが必要です」


「……分かりました」


 森田さんは膝の上で拳を握りました。


「二百万円なら、何とか用意できます」


「無理はしないでください」


「いえ」


 森田さんは首を振りました。


「あの会社が大きくなると思って、お金を出したんです」


「はい」


「それに、東海精機の仕事で、うちの工場はずいぶん助けられました」


 森田さんの声が少し震えました。


「もちろん、黒岩社長のやり方には腹が立ちます。でも、会社そのものには、まだ期待しているんです」


 私は黙って聞きました。


「現場で働く人たちは、一生懸命なんですよ」


 ……。


 そうか。


 森田さんは、黒岩社長を困らせるために株を欲しがっているのではありません。


 自分が応援してきた会社の未来に、参加したいのです。


 あの工場で働く人たちを信じて。


 その権利を、守りたい。


 私は背筋を伸ばしました。


 翌日。


 片桐所長の監督のもと、通知書の原案が完成しました。


 差出人。


 森田修一。


 宛先。


 東海精機株式会社。


 代表取締役 黒岩剛造。


 私は一文ずつ読み上げました。


「第一。通知人は、貴社が適法な社内手続に基づいて発行した新株引受権付社債を取得し、当該発行条件に基づく新株引受権を有している」


「うん」


「第二。通知人の有する新株引受権については、行使期間が現在も満了していない」


「うん」


「第三。貴社は、経営方針の変更を理由として、通知人に対する新株の発行を拒絶する旨を通知した」


「続けろ」


「第四。しかし、貴社の経営方針の変更のみをもって、既に発行された新株引受権が当然に消滅するものではない」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


 私は続けました。


「第五。通知人は、発行条件に従った新株引受権の行使を希望しており、引受価額の払込みを含む所定の手続を履行する意思を有している」


「うん」


「第六。ついては、貴社に対し、権利行使に必要な手続及び払込先を明示するとともに、行使を拒絶する法的根拠があるとする場合には、その具体的理由を書面で回答するよう求める」


 読み終わりました。


 ……。


 静かです。


 相馬先輩が言いました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし、これだけで株主になったと書くなよ」


「はい!」


「通知人は、現時点では新株引受権者だ」


「そうです!」


 私は力強く答えました。


 ここです。


 株を取得する権利があることと。


 株主であることは違う。


 会社に対して何を求められるかも、違う。


 だからこそ。


 内容証明には、正確な言葉が必要なのです。


 所長が原案を見ました。


「こはる」


「はい」


「一つ、付け加えろ」


「何でしょう」


「行使期間の満了が近い。通知を出して安心するな」


「あっ」


 私は顔を上げました。


「そうでした!」


 権利には期限があります。


 期限を過ぎれば、原則として行使できなくなる。


 特に今回のように、会社が協力しない場合。


 ただ通知を送って待つだけでは危険です。


「森田さんに必要な資金と証券を準備してもらう」


 所長が言いました。


「はい」


「会社が手続を妨げるなら、速やかに弁護士へ相談してもらう。期間が過ぎる前に適切な法的手段を検討する必要がある」


「分かりました」


 相馬先輩が続けました。


「内容証明は、魔法じゃねえ」


「はい」


「送っただけで株が手に入るわけでも、権利行使期間が自動的に延びるわけでもない」


「はい!」


「だが、何を求めたか、いつ通知したか。その証拠は残せる」


 なるほど。


 だから。


 正確な書類が必要なんです。


 片桐所長は、最後に一つだけ言いました。


「社長の言葉を、会社の法律に勝たせるな」


 私は、その言葉を胸に刻みました。


 通知書が黒岩社長のもとへ届いたのは、それから二日後のことでした。


 さらに数日後。


 東海精機株式会社から、事務所へ電話が入りました。


「……片桐先生はいらっしゃいますか」


 低い男性の声。


 黒岩社長です。


 私は受話器を所長に渡しました。


「片桐です」


『あの……例の新株引受権の件だが』


「はい」


『顧問の弁護士に見せた』


 私は思わず耳を澄ませました。


『その……行使期間が残っている以上、会社の都合だけで拒絶するのは難しいと』


 所長は黙って聞いています。


『それに、発行当時の議事録も確認した』


「はい」


『ちゃんと決議していた』


「そうですか」


 黒岩社長の声が沈みました。


『森田がまだ株主じゃないのは、間違いないんだろう?』


「現時点では、株式の取得に至っていないと承知しています」


『そうだろう!』


 少しだけ、声が大きくなりました。


 でも。


 次の瞬間。


『……だが、権利そのものは残っているんだな』


 片桐所長は静かに答えました。


「その点は、発行書類と現在の権利関係を確認して判断することになります」


 沈黙。


 それから。


『……分かった』


 黒岩社長が言いました。


『会社として、必要な手続を案内する』


 私は思わず顔を上げました。


『払込先も、書面で知らせる』


「承知しました」


『ただし、ちゃんと金を払ってもらうぞ』


 所長は答えました。


「その点についても、通知人は発行条件に従う意思を示されています」


 電話が切れました。


「所長!」


「何だ」


「折れましたね!」


「ああ」


「やりました!」


 私は拳を握りました。


 すると。


 相馬先輩が言いました。


「まだだぞ」


「……ですよね」


「株を取得するための手続が終わってねえ」


「はい」


「そこまで確認して、初めて一段落だ」


 私は頷きました。


 そうです。


 新株引受権の存在を確認すること。


 それを行使すること。


 払込みをすること。


 株式を取得すること。


 それぞれ、別の段階なのです。


 一週間後。


 森田さんのもとに、東海精機株式会社から正式な案内が届きました。


 権利行使に関する書類。


 払込先。


 必要な提出物。


 期限。


 私は相馬先輩と一緒に確認しました。


「これで手続ができますね」


「そうだな」


「でも、森田さんに確認しないと」


「何を?」


「本当に二百万円を払い込んで、株式を取得する意思があるかです」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 株式は、預金とは違います。


 必ず値上がりするわけではありません。


 会社が損失を出せば、株式の価値が下がることもあります。


 だからこそ。


 権利を行使するかどうかは、権利者本人が決めることです。


 森田さんは、その説明を聞いて静かに頷きました。


「分かっています」


 そして言いました。


「私は、この会社を応援したいんです」


 数日後。


 森田さんは必要書類を整え、定められた方法で新株引受権を行使しました。


 新株引受価額。


 二百万円。


 全額の払込みも、確認されました。


 その後、会社から正式な手続完了の連絡が届きました。


 森田修一。


 東海精機株式会社。


 株式二千株。


 その名前が、株主名簿に記載されました。


「……これが、私の株ですか」


 事務所を訪れた森田さんは、会社から受け取った書類を見つめていました。


「はい」


 私は笑顔で答えました。


「正式な手続が済んでいます」


「最初に二百万円を出したときは、まだ株主じゃなかったんですね」


「そうです」


「新株引受権を持っていただけ」


「はい」


「そして、もう一度お金を払い込んで、ようやく株式を取得した」


「そのとおりです!」


 森田さんは苦笑しました。


「ずいぶん遠回りしました」


 私は首を振りました。


「でも、最初に取得した権利があったからこそ、今回、決められた条件で株を引き受けることができたんです」


 森田さんはしばらく黙っていました。


 それから、ぽつりと言いました。


「不思議なものですね」


「何がですか?」


「紙に書かれた約束が、ちゃんと守ってくれるんですね」


 私は微笑みました。


 会社というものは。


 社長一人の持ち物ではありません。


 株主がいて。


 従業員がいて。


 取引先がいて。


 お金を貸している債権者がいる。


 そして。


 将来株式を取得するための権利を持つ人だっている。


 それぞれの立場は違います。


 持っている権利も違います。


 でも。


 誰か一人が偉いからといって、ほかの人の正当な権利を勝手に消していいわけではありません。


「森田さん」


「はい」


「株主になったら、何かしたいことはありますか?」


 森田さんは少し考えました。


「そうですねえ……」


 そして、笑いました。


「まずは、工場の人たちにもっといい仕事をしてもらえるよう、応援したいですね」


 私は思わず笑ってしまいました。


「株主になっても、やっぱり現場のことなんですね」


「そりゃそうですよ」


 森田さんは、油の染みついた自分の手を見ました。


「機械を動かすのも、製品を作るのも、人間ですから」


 その言葉が、胸に残りました。


 森田さんが帰ったあと。


 私はノートを開きました。


 新株引受権。


 新株予約権。


 昭和と現代。


 言葉も制度も違う。


 でも。


 株式を取得できる権利と、株式そのものを区別する。


 その考え方は、つながっています。


「先輩」


「何だ」


「今回、危なかったです」


「何がだ」


「私、最初は現代の新株予約権で考えちゃいました」


「また未来の法律か」


「はい……」


「今の商法で考えろって言ってるだろ」


「でも、そこが面白いんです!」


 私はノートを掲げました。


「昔は、新株引受権付社債という仕組みがあって、社債と株を取得する権利が結びついていた」


「そうだ」


「でも、未来では、新株予約権を単独で発行できるようになるんです!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「何だ、その未来ではってのは」


「あっ」


 しまった。


「ええと、将来、そういう制度になったら便利だろうなって!」


「お前、たまに気味の悪いこと言うよな」


「気にしないでください!」


 私は慌てて続けました。


「たとえば、将来の新株予約権なら、無償発行と有償発行も区別できます」


「ほう」


「無償なら、権利そのものを取得するときにお金を払う必要がない場合があります」


「うん」


「有償なら、権利の取得に対する払込みが問題になる」


「そうだな」


「でも、どちらの場合も、株式を取得するには、原則として権利行使と行使価額の払込みが必要になるんです!」


 相馬先輩は、少し考えました。


「つまり」


「はい!」


「権利を持つのと、株主になるのは別だってことだろ」


 私は目を輝かせました。


「そうです!」


「じゃあ、最初からそう言え」


「それだと試験の知識が全部伝わりません!」


「誰の試験だよ」


 私は笑いました。


 もちろん。


 私の行政書士試験です。


 現代の会社法では、新株予約権について、募集事項の決定。


 割当て。


 無償・有償の別。


 権利行使。


 行使価額の払込み。


 株主となる時点。


 こうした問題が重要になります。


 でも、ここは昭和六十三年。


 まだ、その制度はありません。


 だからこそ。


 今日の事件では、現代の新株予約権の原型に触れることができたのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「森田さんが最初に二百万円を払ったとき、何を取得した?」


「社債と新株引受権です!」


「じゃあ、その時点で株主か?」


「違います!」


「新株引受権を持っていれば、必ず株主になれるか?」


「いいえ。行使期間や行使条件を満たし、必要な手続と払込みをしなければなりません!」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、その権利を行使するかどうかは誰が決める?」


「原則として、権利者本人です!」


「社長が勝手に取り消せるか?」


「経営方針が変わったというだけで、適法に発行された権利を当然に消すことはできません!」


「正解だ」


 やった。


 今回は、かなり理解できています。


 すると。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「もう一つある」


「何でしょう?」


「新株引受権を行使しなかったら、どうなる」


 私は少し考えました。


「行使期間が満了すれば、原則として権利を行使できなくなります」


「そうだ」


「だから、価値がある権利でも、期限を忘れたら意味がなくなることがあります」


「うん」


 所長が頷きました。


「権利は、持っているだけでは守り切れないことがある」


 私は鉛筆を止めました。


 ……なるほど。


 今回、森田さんがもし。


 黒岩社長の言葉を信じて。


 ただの紙切れだと思い込んで。


 行使期間を過ぎるまで何もしなかったら。


 大切な権利を失っていたかもしれないのです。


 法律は、権利を認めてくれる。


 でも。


 権利を行使するためには、守らなければならない条件もある。


 そして。


 それを知らない人ほど、悪い相手に利用されやすい。


 私はノートに大きく書きました。


 ――権利を取得することと、権利を行使して株式を取得することは、別の段階。


 よし。


 これなら忘れません。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あの……会社のことで相談したいんですが』


 若い男性の声。


「はい。どうされましたか?」


『うちの社長が、株を分けてやるって約束してくれたんです』


「株ですか?」


『はい。でも、会社が儲かってきたら、そんな約束はしてないって言い出して……』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩もこちらを見ました。


『しかも、約束したときの書類には、株を買える権利って書いてあるんです』


 ……。


 またですか。


 私は思わず六法を見ました。


 新株引受権。


 株式の引受け。


 発行手続。


 そして、権利行使。


 似たような話に見えても、発行された権利の種類や法的な根拠によって結論は変わります。


「先輩」


「何だ」


「また株を買える権利です」


「聞こえてる」


「今度は従業員さんみたいです」


「そうだな」


「ストックオプションでしょうか!」


「だから、何だその横文字は!」


 私は慌てて受話器を握り直しました。


「すみません。まず、会社から受け取った書類の名前を教えてください」


 法律には。


 約束と、権利と、実際の取得を区別するための仕組みがあります。


 株を買える権利がある。


 だから、もう株主だ。


 それは違う。


 でも。


 まだ株主ではない。


 だから、約束を守らなくてもいい。


 それも違う。


 昭和六十三年。


 会社をめぐる法律は、今日もややこしい。


 会社法という一冊の法律すら、まだ存在しません。


 その代わり。


 分厚い商法の中に、会社と人を守るための仕組みが詰まっています。


 私は相談票に、新しい文字を書き込みました。


 ――新株引受権。


 そして、その横に。


 小さく、未来の言葉を書きました。


 ――新株予約権。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「また存在しねえ法律用語を書いてるんじゃねえだろうな!」


「……!」


 私は慌ててノートを閉じました。


「べ、勉強用の覚え書きです!」


「だったら今の商法を覚えろ!」


「はいっ!」


 まったく。


 昭和の商法は、転生者に厳しい。


 でも。


 今日の私は、ひとつだけ確信していました。


 社長がどれだけ偉そうでも。


 会社がどれだけ大きくても。


 株主ではないという理由だけで、正当な新株引受権まで踏みにじっていいわけではない。


 そして。


 株を買える権利を手に入れたことと、実際に株主になったことは違う。


 その二つを区別できるだけで。


 救える人がいるのです。


 私は受話器の向こうの相談者に、ゆっくり尋ねました。


「その書類には、権利を行使できる期間が書いてありませんか?」


 だって。


 未来の株式を手に入れる権利は。


 今、正しく使わなければ。


 本当に、ただの紙切れになってしまうことがあるのです。

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