[会社法・新株発行の差止請求・無効の訴え・不存在確認の訴え]法理編 こはるノート
株式は、発行される前なら止められます。
でも。
発行されたあとでは、同じ方法で止めることはできません。
そして。
そもそも株式が発行されていないのなら。
無効にする以前に、存在しているのかを問わなければなりません。
発行前。
発行後。
不存在。
たった三つの違いです。
しかし、この違いを間違えると。
会社を守るための権利が、使えなくなることがあります。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「新株発行って、恐ろしいですね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「今度は何だ」
「株を増やすだけで、会社を乗っ取れるんですよ」
「場合によってはな」
「しかも、発行前と発行後で救済方法が違う!」
「ああ」
「さらに、最初から発行されていない場合もある!」
「そうだな」
私は机を叩きました。
「どうして同じ新株発行なのに、三種類もあるんですか!」
「法律に文句を言うな」
「だって、試験で間違えそうなんです!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「じゃあ、森田精機の事件を思い出せ」
私は手を止めました。
森田修一さん。
五十二歳。
町工場を守ってきた専務取締役。
四千株のうち二千四百株を持つ、六割の株主。
ところが。
義弟の俊郎社長が、自分の支配する東洋開発に六千株を発行しようとした。
新株発行が実施されれば。
修一さんの持株比率は六十パーセントから二十四パーセントに転落。
俊郎社長側は七十六パーセント。
会社の支配権が、逆転してしまう。
「それで私たちは、内容証明を作りました」
「そうだ」
「新株発行差止請求通知書です」
商法二百八十条ノ十。
そして、発行を強行する姿勢を見せた社長に対し、修一さんは弁護士を通じて仮処分を申し立てました。
結果。
払込期日の前に、新株発行は中止。
町工場は守られました。
「でも、先輩」
「何だ」
「もし、あと三日遅かったら?」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「そのときは、別の戦いだ」
「ですよね!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、その違いを完全に覚えます!」
「また始まったな」
そこへ。
奥から片桐所長の声がしました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会。
開催です。
「まず、新株発行の差止請求です!」
私はノートに大きく書きました。
――新株発行差止請求。
「これは、発行前に使う武器ですね」
「そうだ」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の商法。
第二百八十条ノ十。
新株発行について、法令もしくは定款に違反し、または著しく不公正な方法による場合。
株主が不利益を受けるおそれがあるときは、会社に対して発行をやめるよう請求できる。
「ここで大事なのは、二つの原因ですね」
私は指を二本立てました。
「一つ目。法令または定款に違反する場合」
「うん」
「二つ目。著しく不公正な方法による場合」
「そうだ」
そして。
どちらの場合も。
株主に不利益が生じるおそれが必要です。
「先輩、質問です!」
「何だ」
「新株を発行すると、普通は既存株主の持株比率が下がることがありますよね?」
「ああ」
「じゃあ、持株比率が下がるなら、いつでも差止請求できるんですか?」
「できねえ」
「ですよね!」
私は頷きました。
ここが重要です。
新株発行は、会社の資金調達手段。
設備投資。
事業拡大。
新規事業。
資金繰りの改善。
正当な目的で株式を発行すれば、既存株主の持株比率が下がることもあります。
それだけで、全部止められるわけではありません。
「じゃあ、森田精機は?」
相馬先輩が聞きました。
「支配権を奪う目的が強く疑われました!」
「具体的には?」
「設備投資の計画が示されていませんでした」
「うん」
「会社は利益を出していて、緊急の資金需要も確認できませんでした」
「うん」
「それなのに、社長が支配する別会社だけに大量の新株を割り当てようとした」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――資金調達という名目で、実際には経営支配権を奪おうとする。
「これが、不公正発行の問題になるんですね」
「ああ。ただし、支配権に影響する発行が全部違法というわけじゃねえ。資金調達の必要性や発行目的、具体的な事情を見るんだ」
なるほど。
大事なのは。
数字だけではありません。
その数字を、なぜ変えようとしたのか。
そこです。
「それから、差止請求は裁判外でもできますよね」
「そうだ」
私は内容証明郵便の控えを取り出しました。
宛先。
株式会社森田精機。
差出人。
株主、森田修一。
そして。
――商法第二百八十条ノ十に基づき、本件新株発行の差止めを請求する。
「これですね!」
「ああ」
「内容証明で、株主本人の差止請求の意思を通知したんです」
もちろん。
内容証明を送っただけで、株式の発行が自動的に止まるわけではありません。
会社が従わなければ、裁判所の力が必要になることがあります。
「だから、弁護士に引き継いだんですね」
「そうだ」
行政書士は、法律紛争について代理人として交渉したり、裁判手続を代理したりすることはできません。
でも。
本人の意思に基づく通知書。
事実関係を整理する書類。
定款。
議事録。
証拠資料の整理。
そうした仕事には、重要な意味があります。
「所長」
「何だ」
「もし、内容証明を作るのに一週間かかっていたら?」
「発行が済んでいたかもしれんな」
「……ですよね」
私は頷きました。
法律には、使うべき時期があります。
発行前に使える武器を。
発行後に持ち出しても、もう間に合わない。
「だから先輩は、払込期日を真っ先に確認したんですね」
「ようやく気づいたか」
「はい!」
私はノートに赤線を引きました。
――発行前は、差止め。
まず一つ。
覚えました。
「次!」
私はページをめくりました。
――新株発行の無効の訴え。
「これは、発行後の救済方法です!」
「そうだ」
「ただし、ここから急に厳しくなるんですよね」
相馬先輩が頷きました。
「もう発行されてるからな」
そうです。
株式が発行されると。
株主が生まれます。
議決権が発生します。
会社の資本関係が変わります。
さらに。
新しく発行された株式を前提に、第三者が取引をするかもしれません。
「だから、後から簡単に『やっぱり無効でした』とはできないんですね」
「そうだ」
片桐所長が口を開きました。
「新株発行の無効は、会社だけの問題ではない」
「はい」
「その株式が存在することを前提に、さまざまな法律関係が生じる」
私は頷きました。
会社の内部だけでなく。
株主。
取引先。
投資した人。
多くの人に影響する。
だからこそ。
新株発行後の効力を争う方法には、特別なルールがあるのです。
「では、先輩!」
「何だ」
「新株発行の無効は、内容証明で主張できますか?」
「できねえ」
「そうです!」
私は大きく書きました。
――無効の訴えは、訴えをもってのみ主張できる。
「ここ、差止請求との決定的な違いですね」
「ああ」
発行前の差止請求。
裁判外でも可能。
発行後の新株発行無効。
訴訟が必要。
相手に手紙を送って、
「新株発行は無効です!」
と宣言するだけでは、法律上の無効を実現できません。
「もし、森田精機の新株が既に発行されていたら?」
相馬先輩が聞きました。
「弁護士に相談し、新株発行無効の訴えを検討します!」
「よし」
「ただし、先輩」
「何だ」
「不公正な発行だったら、必ず無効になるんですか?」
相馬先輩が、にやりとしました。
「いい質問だ」
「褒めましたね!」
「まだだ」
「何でですか!」
先輩は六法を閉じました。
「差止めの原因になることと、発行後の無効原因になることは、必ずしも同じじゃねえ」
私は手を止めました。
「……え?」
「発行前に止められる理由があったからといって、発行後に必ず無効になるとは限らねえんだ」
……。
何ですか、それ。
かなり重要じゃないですか!
「じゃあ、発行前に止めるほうが有利なんですね!」
「そういうことだ」
特に。
支配権争いを目的とする著しく不公正な新株発行。
発行前なら差止めの理由となり得ます。
しかし、いったん発行の効力が生じた後は、取引の安全にも配慮しなければならない。
単に発行方法が不公正だったというだけでは、当然に無効になるとはいえません。
「……怖い」
私は呟きました。
「何がだ」
「発行前に動く重要性が、思った以上に大きいです」
相馬先輩が頷きました。
「だから、あの三日間が勝負だったんだよ」
私は、森田精機の写真を見ました。
三十人の職人。
あの人たちが働く場所を守れたのは。
発行前に、問題に気づけたからでもあったのです。
「では、無効原因です!」
私はノートの中央に書きました。
――どんな新株発行が無効になるのか。
「これ、会社法に全部書いてあるわけじゃないんですよね」
「ん?」
相馬先輩が顔を上げました。
「……会社法?」
しまった。
「商法です!」
「また未来の法律か」
「すみません!」
昭和六十三年。
会社法という独立した法律はありません。
商法第二編。
株式会社に関する規定。
そこを開かなければなりません。
「でも先輩」
「何だ」
「将来、新株発行の無効原因についても、判例が重要になるんですよ」
「将来?」
「あ、いえ、その……」
危ない。
未来人。
また余計なことを言いそうになりました。
私は慌てて言い直しました。
「法律に無効原因が細かく列挙されているわけではなく、具体的な違法の内容や程度が問題になるんですよね」
「そうだ」
私は一つずつ書きました。
まず。
定款で定められた発行可能株式総数を超えて、新株を発行した場合。
「例えば、会社が発行できる株式の上限が一万株なのに、一万二千株まで増やしてしまったら?」
相馬先輩が尋ねました。
「定款で定めた枠を超えています!」
「そうだ」
「重大な無効原因になり得ます!」
次。
新株発行について必要な公告や通知を欠いた場合。
「これは、株主に発行を知る機会を与えない問題ですね」
「ああ」
株主が新株発行を知らなければ。
そもそも差止請求を検討する機会すら失ってしまいます。
必要な公告や通知を欠くことは、重大な問題となります。
ただし、具体的に無効と評価されるかは、発行の事情や違法の内容を検討する必要があります。
そして。
裁判所の新株発行差止めの仮処分を無視し、新株を発行した場合。
「……これ!」
私は声を上げました。
「森田精機で、もし俊郎社長が強行していたら問題になったところですね!」
「そうだな」
裁判所が発行を差し止める仮処分を出した。
それなのに。
社長が無視して株式を発行した。
そのような場合には、発行後の効力にも重大な問題が生じます。
「でも、今回は中止されました」
「ああ」
「だから、無効の訴えまでは進まなかった」
「そうだ」
私は頷きました。
なお。
私の知っている未来では、募集事項の公告・通知を欠いた場合について平成九年一月二十八日の最高裁判決があり、差止めの仮処分に違反する発行についても平成五年十二月十六日の最高裁判決があります。
でも。
ここは昭和六十三年。
まだ、そんな未来の判決を持ち出すことはできません。
私は慌ててノートの欄外に書きました。
――未来の判例を、昭和の事件で引用しない!
「こはる」
「はい!」
「何を書いてる」
「自分への戒めです!」
「何のだ」
「時代錯誤防止です!」
「……変な奴だな」
相馬先輩は呆れていました。
でも。
未来の判例を知っているからこそ。
今、何が確実に使えるのか。
そこを区別しなければならないのです。
「さて」
片桐所長が口を開きました。
「無効の訴えには、期限があるな」
「はい!」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
商法二百八十条ノ十五。
新株発行の日から六か月以内。
「六か月です!」
「そうだ」
「現代では、非公開会社の場合は一年以内という違いがありますが……」
相馬先輩が首をかしげました。
「非公開会社?」
……あ。
またやりました。
「ええと、現代では、すべての株式に譲渡制限がある株式会社のことを……」
「今の商法の話をしろ」
「はい!」
私は慌ててノートを二つに分けました。
昭和六十三年。
新株発行無効の訴えは、発行の日から六か月以内。
現代。
公開会社では六か月以内。
非公開会社では一年以内。
「ここ、大事ですね」
「ああ」
「昭和では、現代の非公開会社の一年という期間を持ち込んではいけない」
「そうだ」
そして。
期間が経過すれば、原則として新株発行無効の訴えを提起することはできなくなります。
「半年なんて、あっという間ですよね」
「そうだな」
私は考えました。
会社の経営が忙しくて。
新株発行の詳しい事情を確認できない。
資料を集めているうちに時間が過ぎる。
弁護士に相談するか悩んでいるうちに、さらに時間が過ぎる。
そうして。
気づいたときには、提訴期間が終わってしまう。
「……怖いですね」
「だから期限を確認するんだ」
相馬先輩が言いました。
「法律を知っていても、期限を忘れれば使えねえ」
私は大きく頷きました。
なるほど。
試験では数字を覚えるだけ。
でも実務では。
その数字が、権利を守れる最後の日を意味するのです。
「次は、誰が訴えられるかです!」
私は書きました。
――提訴権者。
株主。
取締役。
監査役。
「昭和の新株発行無効の訴えは、これらの人に限られるんですね」
「そうだ」
私は考えました。
森田修一さん。
株主です。
取締役でもあります。
だから、提訴権者に該当します。
「では、会社にお金を貸している銀行は?」
相馬先輩が聞きました。
「……会社の債権者ですね」
「ああ」
「新株発行無効の訴えは、提起できません!」
「正解」
私は頷きました。
会社の債権者。
たとえば銀行。
仕入先。
代金を受け取っていない取引先。
これらの人は、会社と利害関係があります。
でも。
利害関係があるからといって、誰でも新株発行無効の訴えを起こせるわけではない。
「先輩、ここも試験の罠ですね」
「そうだな」
「債権者も困ることがあるのに、無効の訴えの原告にはなれない」
「そのとおりだ」
私は大きく赤線を引きました。
――無効の訴えは、誰でも提起できるわけではない。
期間。
提訴権者。
訴訟という方法。
三つの制限です。
「なるほど……」
私は呟きました。
「何だ」
「発行後になると、法律が慎重になる理由が分かってきました」
片桐所長が頷きました。
「会社の法律関係を、いつまでも不安定にしておくわけにはいかんからな」
そうです。
不正を正すこと。
取引の安全を守ること。
その両方が必要なのです。
「それから、判決の効果です!」
私は次のページを開きました。
「先輩、もし新株発行無効の訴えで、無効判決が確定したら?」
「新株発行の効力が失われるな」
「はい!」
「ただし、どういう効力かが大事だ」
私は頷きました。
まず。
無効判決には、第三者に対しても効力が及びます。
「これを、対世効と呼ぶんですよね」
「そうだ」
例えば。
ある株主が新株発行無効の訴えを起こした。
そして、無効判決が確定した。
その効力が訴えた株主と会社の間だけにしか及ばないとしたら。
別の株主との間では新株発行が有効。
別の人との間では無効。
そんな状態になりかねません。
「それじゃ会社の株式数が、人によって違うことになっちゃいますね!」
「困るだろ」
「困ります!」
だから。
無効判決には、第三者に対しても効力が及ぶ。
でも。
それだけではありません。
「所長」
「何だ」
「無効判決が出たら、発行した日にさかのぼって全部なかったことになるんですか?」
「ならん」
「ですよね!」
私は書きました。
――無効判決は、将来に向かって効力を失わせる。
「ここ、民法の無効と混同しそうです」
民法の一般的な無効。
初めから効力が認められない。
そんなイメージがあります。
でも。
新株発行無効の判決では、将来効が原則。
無効判決の確定によって、将来に向かって新株の効力が失われる。
過去にさかのぼって、すべての法律関係を白紙にするわけではありません。
「なぜですか?」
私は尋ねました。
片桐所長が答えました。
「株式が発行されたあと、その存在を前提に取引が行われるからだ」
「……はい」
「そのすべてを過去にさかのぼって覆せば、関係者に大きな混乱が生じる」
なるほど。
不正な発行を正す。
でも。
過去の法律関係まで無制限に壊さない。
そこに、会社法制の考え方があるのです。
「つまり!」
私はノートに書きました。
――無効判決は、第三者にも効く。しかし、原則として過去にはさかのぼらない。
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「ここまで覚えたら、次だ」
「はい!」
私は鉛筆を握り直しました。
いよいよ。
三つ目。
今回、一番気になっていた問題です。
「新株発行の不存在確認です!」
私は大きく書きました。
――新株発行の不存在。
相馬先輩が聞きました。
「じゃあ、昨日の電話相談を思い出せ」
「はい!」
あの相談。
会社の登記では、株式が増えている。
でも。
株式を引き受けた人が見当たらない。
払込みをした人もいない。
新株発行の手続が、本当に行われたのか分からない。
「……不思議な事件でした」
「そうだな」
「株式を発行したことになっているのに、実際に発行された形跡がない」
私は首をかしげました。
「でも先輩」
「何だ」
「手続に違反があるだけなら、無効の問題ですよね」
「そうだ」
「じゃあ、何が違うんですか?」
相馬先輩は机から白紙を二枚取り出しました。
一枚目に、こう書きました。
――違法な手続で新株を発行した。
二枚目。
――新株を発行したという実体がない。
「この二つは同じか?」
「……違います」
「何が違う」
私は考えました。
一枚目。
新株発行という行為自体は存在する。
ただし、その発行に重大な違法がある。
二枚目。
そもそも新株発行という行為が、実際には存在していない。
「あっ!」
私は顔を上げました。
「無効は、発行された株式の効力を争う話!」
「うん」
「不存在は、株式が発行されたという事実自体を問題にする話!」
「そうだ」
なるほど。
全然違います。
「例えば、先輩!」
「何だ」
「社長が勝手に『株を一万株発行した』という書類を作った。でも、株式の引受けも払込みもなく、発行の実体がまったくない」
「うん」
「そういう場合は、新株発行の不存在が問題になるんですね!」
「そうだ」
ただし。
払込みの記録が見つからない。
議事録がない。
そんな事情が一つあるだけで、当然に不存在と決まるわけではありません。
実際にどんな手続が行われたか。
株式引受けの実態があるか。
資金や財産の給付があったか。
全体を調べる必要があります。
私は頷きました。
「所長が昨日、払込みだけでなく、引受けの事実も調べろと言ったのは、そのためですね」
「そうだ」
片桐所長が答えました。
「登記があることと、その登記に対応する実体があることは、同じではない」
私は息を呑みました。
登記。
株主名簿。
議事録。
どれも重要です。
でも。
書類に書かれているからといって、必ず実際の法律行為があったとは限らない。
「……怖いですね」
「何がだ」
「紙の上だけで、会社の支配権を奪えてしまう可能性があるんです」
相馬先輩が頷きました。
「だから、事実を調べるんだよ」
私はノートに赤線を引きました。
――登記に書いてあることと、実体が存在することは別。
「では、先輩!」
「何だ」
「不存在確認の訴えには、六か月という期限がありますか?」
「無効の訴えと同じには扱わねえ」
「ですよね!」
私は大きく書きました。
――不存在確認には、無効の訴えのような法定の出訴期間制限がない。
ここが決定的です。
無効の訴え。
昭和六十三年では、新株発行の日から六か月以内。
しかし。
不存在は、そもそも新株発行という行為自体が存在していないという問題。
同じ期間制限をそのまま当てはめることはできません。
「つまり、無効の訴えの期限が過ぎたからといって、実体のない新株発行を当然に本物として扱うわけではないんですね」
「そういうことだ」
ただし。
ここは昭和六十三年です。
現代の会社法には、八百二十九条という明文があります。
新株発行等の不存在確認の訴え。
でも。
昭和六十三年の商法には、現代と同じ形で整えられた明文規定はありません。
それでも、新株発行が存在しないことをめぐる争いは、裁判実務上の問題として扱われてきました。
後の判例法理の発展を経て、現代の会社法では制度が明文化されることになります。
「所長」
「何だ」
「昭和の商法って、まだ整理途中の部分があるんですね」
「法律は、現実の問題に応じて整えられていくものだ」
「……なるほど」
私は少し感動しました。
法律は。
最初から完成していたわけではありません。
問題が起こる。
裁判で争われる。
解釈が積み重なる。
そして、制度が整えられる。
その繰り返しなのです。
「じゃあ、提訴できる人は?」
相馬先輩が聞きました。
「新株発行不存在確認の訴えは、無効の訴えのように株主、取締役、監査役だけに限定されるわけではありません!」
「うん」
「不存在を確認する法律上の利益がある人が、訴えることになります!」
「正解」
私は頷きました。
無効の訴え。
提訴権者が限定される。
不存在確認の訴え。
そのような限定はなく、確認の利益を持つ人が問題にできる。
「つまり、文字どおり誰でも、何の関係もなく訴えられるという意味ではないんですね」
「そうだ」
単なる野次馬が、
「あの会社の新株発行が気に入らない!」
という理由だけで、確認の訴えを起こせるわけではありません。
法律上、確認する利益が必要です。
「ここも覚えます!」
私は書きました。
――不存在確認は、提訴権者の法定限定はない。ただし、確認の利益が必要。
そして。
もう一つ。
「不存在確認の確定判決は、第三者にも効力が及ぶんですよね」
「そうだ」
会社の新株発行が存在したのかどうか。
それについて、人によって結論が違うのでは困ります。
だから、確定した不存在確認判決にも第三者に及ぶ効力があります。
さらに。
「無効判決との違いは?」
相馬先輩が聞きました。
「……将来効か、遡及効かです!」
私は勢いよく答えました。
無効判決。
将来に向かって効力を失う。
不存在確認。
もともと新株発行の実体がないことを確認する。
だから、後から効力を失わせるというより、初めから存在していなかったことを明らかにする。
「つまり!」
私は大きく書きました。
――無効は将来効。不存在は初めから存在しない。
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
私は少し考えました。
「先輩、これ、すごい違いですね」
「何がだ」
「無効は、発行された株式を法律上の手続で将来に向かって失効させる」
「うん」
「不存在は、最初から発行されていないという実態を確認する」
「そうだ」
「だから、効果が違うんですね」
相馬先輩は笑いました。
「ようやく分かってきたな」
「はい!」
私は、ノートを見つめました。
三つの救済方法。
今なら、区別できます。
ところが。
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「今の説明には、注意点が一つある」
「え?」
「不存在の判断は、そう簡単ではない」
私は姿勢を正しました。
「はい」
「例えば、取締役会の決議に不備があった」
「はい」
「それだけで、新株発行が存在しなかったことになるか」
「……なりませんね」
「そうだ」
発行手続に瑕疵がある。
だから無効になるかもしれない。
でも。
それだけで不存在と決まるわけではありません。
「議事録が偽造されていた場合は?」
所長が尋ねました。
「それも……」
私は考えました。
「議事録が偽造されていても、実際に株式の引受けや払込みが行われている可能性があります」
「そうだ」
「だから、偽造された議事録があるというだけで、当然に発行不存在とは言い切れません」
所長が頷きました。
「よし」
私は少し汗をかきました。
危なかった。
書類が不正。
だから不存在。
と短絡するところでした。
でも、違います。
新株発行の手続に問題があること。
新株発行という実体そのものが存在しないこと。
この二つは、慎重に分けなければなりません。
「所長」
「何だ」
「だから昨日の相談でも、まず事実を確認したんですね」
「そうだ」
「誰が株式を引き受けたのか」
「うん」
「払込みはあったのか」
「うん」
「どんな手続が行われたのか」
「そうだ」
所長は短く言いました。
「法律の名前を先に決めるな」
「……はい」
「事実を見てから、使う法律を決めろ」
私は、その言葉をノートに書きました。
法律は、事件に合わせるもの。
事件を、覚えた条文に無理やり押し込むものではありません。
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「ここまで来たら、三つまとめてみろ」
「はい!」
私はノートを広げました。
まず。
新株発行差止請求。
発行前の救済。
法令・定款違反。
または著しく不公正な方法。
そして株主の不利益のおそれ。
裁判外でも請求可能。
次。
新株発行無効の訴え。
発行後の救済。
訴えによってのみ主張。
昭和六十三年では発行から六か月以内。
提訴権者は株主、取締役、監査役。
無効判決には対世効。
効力は将来に向かう。
最後。
新株発行不存在確認の訴え。
発行の実体がない場合。
無効の訴えのような出訴期間制限はない。
提訴権者の法定限定はないが、確認の利益が必要。
確定判決には第三者に及ぶ効力。
初めから発行されていなかったことを確認する。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩はじっと見ました。
そして。
「悪くねえ」
「褒めましたね!」
「まだだ」
「またですか!」
所長が言いました。
「もう一つ、昭和と現代の違いを整理しておけ」
私は頷きました。
そうです。
この世界で一番厄介なのは。
私が、未来の法律を知っていること。
でも。
今は昭和六十三年。
会社法という独立した法律はありません。
だからこそ。
時代の違いを、正確に覚える必要があるのです。
「では、昭和と現代の比較です!」
私はノートを二つに分けました。
左側。
昭和六十三年。
右側。
現代。
「まず、会社のルールが書かれている法律です」
昭和六十三年。
商法第二編。
有限会社法。
そのほかの関連法令。
現代。
会社法。
「昔は会社のルールが分かれていたんですね」
「そうだ」
「現代では、それが独立した会社法として整理されている」
私は頷きました。
次。
株式会社の設立。
「昭和六十三年では、発起人が七人以上必要でした」
「そうだ」
「取締役も三人以上、監査役も必要」
「ああ」
「でも現代では、一人で株式会社を設立できるんです」
相馬先輩が顔をしかめました。
「またその話か」
「重要なんです!」
私は続けました。
「取締役一人でもいい。最低資本金の規制もなく、資本金一円で設立することもできる」
「そんな会社で大丈夫なのか?」
「設立できることと、経営がうまくいくことは別ですけどね」
「そりゃそうだ」
私は笑いました。
現代では。
株式会社。
合同会社。
合名会社。
合資会社。
会社の種類が整理されています。
一方。
昭和六十三年には、合同会社はありません。
有限会社はあります。
しかも。
この時代には、株式会社を作るだけでも、多くの人を集めなければならない。
「だから、名義貸しや頭数合わせが問題になりやすかったんですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「名前だけ貸したつもりでも、法律上の立場には責任が伴うことがある」
私は書きました。
――会社の形だけ作っても、責任まで消えるわけではない。
そして。
次が、今回の核心です。
「新株発行の救済制度も、現代では会社法に整理されています!」
私は書きました。
差止請求。
現代の会社法二百十条。
新株発行等の無効の訴え。
会社法八百二十八条。
新株発行等の不存在確認の訴え。
会社法八百二十九条。
「現代では、こうして条文が整理されているんですね」
「なるほどな」
相馬先輩はノートを覗き込みました。
「じゃあ、昭和は?」
「差止請求は商法二百八十条ノ十」
「うん」
「無効の訴えは商法二百八十条ノ十五以下」
「そうだ」
「不存在確認については、現代と同じような明文の制度としては整備されていません」
私は頷きました。
そして。
現代の会社法が成立した理由を考えました。
会社という仕組みは、時代とともに変わってきました。
大企業だけでなく。
小さな会社。
一人で始める事業。
多様な出資形態。
新しい資金調達方法。
そうした現実に対応するため、会社に関する制度が見直され、整理されていった。
ただし。
簡単に会社を作れるようになったからといって。
株主の利益を奪っていいわけではありません。
経営者が好き勝手に株式を発行していいわけでもありません。
「所長」
「何だ」
「会社法が独立しても、守ろうとしているものは変わらない部分がありますね」
「そうだな」
「株主の権利」
「うん」
「会社の健全な運営」
「うん」
「それから、取引の安全」
所長が頷きました。
「その三つを忘れるな」
私は大きく書きました。
――株主保護と取引の安全は、両方大切。
なるほど。
だから。
発行前には、違法・不公正な発行を止める。
発行後には、無効を争う方法を限定する。
不存在なら、発行そのものがなかったという事実を確認する。
それぞれ、守ろうとしているものが違うのです。
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートを見直しました。
「……よし」
呟くと。
相馬先輩が言いました。
「何がよし、だ」
「確認問題です!」
「誰が出すんだ」
「先輩です!」
「勝手に決めるな」
片桐所長が口を開きました。
「相馬」
「はい」
「出してやれ」
「……分かりましたよ」
よし。
最終試験です。
相馬先輩が腕を組みました。
「第一問」
「はい!」
「会社が著しく不公正な方法で新株を発行しようとしていて、株主に不利益が生じるおそれがある。まだ発行前だ。どうする?」
「新株発行差止請求です!」
「裁判外でもできるか?」
「できます!」
「第二問」
「はい!」
「既に新株が発行された。重大な無効原因がある。どうする?」
「新株発行無効の訴えを検討します!」
「内容証明だけで無効にできるか?」
「できません! 訴えをもってのみ主張できます!」
「期限は?」
「昭和六十三年では、発行の日から六か月以内です!」
「現代の非公開会社では?」
「一年以内です!」
「よし。第三問」
「はい!」
「会社の債権者が、新株発行無効の訴えを提起できるか?」
「できません!」
「第四問」
「はい!」
「無効判決が確定した。第三者にも効力が及ぶか?」
「及びます!」
「過去にさかのぼるか?」
「いいえ! 将来に向かって効力を失います!」
「第五問」
「はい!」
「新株発行の実体がまったくない。それなのに、登記だけ増えている。何が問題になる?」
「新株発行の不存在です!」
「無効の訴えと同じ六か月の期限があるか?」
「ありません!」
「誰が訴えられる?」
「無効の訴えのような提訴権者の限定はありません。ただし、確認の利益が必要です!」
「判決の効果は?」
「第三者にも効力が及び、初めから新株発行が存在しなかったことを確認します!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は拳を握りました。
やった!
全部正解!
「じゃあ、最後の問題だ」
「はい!」
先輩は少し笑いました。
「取締役会議事録が偽造されていた。新株発行は必ず不存在か?」
……。
私は止まりました。
危ない。
引っかけ問題です。
「いいえ!」
「ほう」
「議事録が偽造されていたからといって、必ず新株発行が不存在になるわけではありません!」
「理由は?」
「実際に株式が引き受けられ、払込みなどが行われている可能性があるからです!」
「そうだ」
「手続の瑕疵と、発行の実体がないことは区別します!」
相馬先輩が笑いました。
「合格だ」
「やったあ!」
私は思わず両手を上げました。
片桐所長も、小さく頷きました。
「よく整理できたな」
「ありがとうございます!」
私は嬉しくなりました。
でも。
今回、一番勉強になったのは。
単に三つの制度を覚えたことではありません。
森田修一さんの顔を思い出すと。
法律が、現実の人の生活につながっていることが分かる。
六十パーセントの株式。
六千株の第三者割当。
二十四パーセントへの低下。
発行まで三日。
すべて。
ただの数字ではありませんでした。
「所長」
「何だ」
「今回、ちょっと分かったことがあります」
「言ってみろ」
「法律って、正しいことを主張するだけじゃ足りないんですね」
「うん」
「いつ主張するかが大事なんです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「新株発行前なら、差止請求」
「うん」
「発行後なら、無効の訴え」
「うん」
「そもそも発行の実体がなければ、不存在確認」
「そのとおりだ」
私は続けました。
「そして、無効と不存在は、判決の効果まで違う」
「そうだ」
所長は静かに言いました。
「法律は、時間を戻す魔法じゃない」
私は手を止めました。
「……はい」
「だからこそ、手遅れになる前に動く必要がある」
その言葉が、胸に残りました。
私たちは、過去を自由に変えられません。
でも。
未来に起こる不正を、止められることはある。
今回のように。
三日後に起こる会社乗っ取りを、発行前に止める。
そのために。
法律があるのです。
私はノートの最後のページを開きました。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり書きました。
――新株発行は「前なら差止め、後なら無効の訴え、そもそもなければ不存在確認」。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
森田精機の工場を思い出せばいい。
長年、旋盤を回してきた修一さん。
三十人の職人。
会社を私物にしようとした俊郎社長。
そして。
発行まで、あと三日。
その三日間に動いたことで、会社の支配権は守られました。
もし発行後だったら。
別の救済方法を考えなければならなかった。
もし最初から発行の実体がなかったら。
また違う問題になっていた。
法律は。
同じように見える事件でも、事実が一つ違えば、結論が変わります。
だからこそ。
まず、事実を調べる。
そして、時期を確認する。
そのうえで、正しい制度を使う。
それが大切なのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も棚に戻せ」
「はい」
「それから、この議事録の整理も頼む」
先輩は書類の束を渡してきました。
私は受け取りました。
……。
多い。
かなり多い。
「先輩」
「何だ」
「この仕事量、著しく不公正じゃありませんか?」
相馬先輩が止まりました。
「は?」
「私だけ、こんなに仕事が増えるなんて!」
「お前、何を言ってるんだ」
「私に不利益が生じるおそれがあります!」
私は胸を張りました。
「よって、商法二百八十条ノ十に基づき、仕事の割当ての差止めを請求します!」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
そして。
「……馬鹿か、お前は」
「何でですか!」
「それは新株発行の差止請求だ!」
「知ってます!」
「仕事の割当てに使えるわけねえだろ!」
「じゃあ、無効の訴えで!」
「だから違う!」
「不存在確認!」
「仕事の山は、目の前に存在してるだろうが!」
……。
確かに。
存在しています。
ものすごく。
「先輩!」
「何だ!」
「じゃあ、せめてこの書類の山、将来に向かって無効になりませんか!」
「ならねえよ!」
そのとき。
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「仕事の割当てについて、何を争っている」
「……不公正です」
「どこに法律違反がある」
「……」
「具体的な事実を示せ」
私は黙りました。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「ほらな」
「……ぐっ」
「不利益があるだけじゃ、差止めはできねえんだよ」
確かに。
新株発行でも、持株比率が下がるだけで、何でも差止めが認められるわけではありません。
法律違反や著しく不公正な方法など、必要な要件があります。
今回の仕事の割当てに。
商法二百八十条ノ十。
当然、使えません。
「……分かりました」
私は書類を抱えました。
「整理します」
「よし」
相馬先輩が笑いました。
悔しい。
でも。
条文の適用を間違えなかっただけ、今日の私は成長しています。
たぶん。
窓の外。
昭和六十三年の夕暮れ。
工場の煙突から、白い煙が上がっています。
あのどこかで。
森田修一さんは、今日も旋盤を回しているのでしょう。
従業員たちと一緒に。
父親の代から続く工場を守りながら。
新株発行差止請求。
新株発行無効の訴え。
新株発行不存在確認の訴え。
名前は長い。
条文も複雑。
昭和の商法は、さらに読みにくい。
でも。
その三つを正確に区別できれば。
守れる会社があります。
守れる仕事があります。
守れる暮らしがあります。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――新株発行は「前なら差止め、後なら無効の訴え、そもそもなければ不存在確認」。
よし。
完璧です。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノートを見てねえで、仕事しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私は今、自分に不利益が生じるおそれを感じています!」
「だから何だ!」
「この仕事量は、私の自由な時間に対する重大な侵害です!」
「うるせえ!」
私は笑いながら、書類の整理を始めました。
残念ながら。
仕事が大量に存在する以上。
不存在確認の訴えを起こしても、仕事の山は消えません。
そして。
仕事を押しつけられたことが不満だからといって。
新株発行無効の訴えで、明日の仕事を消すこともできません。
法律は。
便利な魔法ではないのです。
ただし。
正しい時期に。
正しい相手に。
正しい方法で使えば。
会社を乗っ取ろうとした社長の野望を、止めることはできます。
その違いだけは。
絶対に忘れないことにしました。




