[会社法・新株発行の差止請求・無効の訴え・不存在確認の訴え]現場編 「株を刷れば会社は俺のもの」の罠。払い込みまであと三日、町工場を乗っ取る社長を止めた一通の内容証明
会社を乗っ取るのに、泥棒は必要ありません。
金庫を破る必要も。
社長室に忍び込む必要も。
ただ。
新しい株式を大量に発行すればいい。
しかも、その株を自分の味方だけに渡せば。
昨日まで会社を支えていた人間が、明日には少数派になってしまうことがあります。
恐ろしい話です。
でも。
もっと恐ろしいのは。
そんな乗っ取りを企む社長が、平然とこう言うことです。
「株を発行するのは会社の自由だ。俺が社長なんだから、誰に何株渡そうが勝手だろう」
……勝手ではありません。
少なくとも。
商法を読めば、その笑顔は消えるかもしれません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、たった一つの違いが会社の運命を決めることを知りました。
株式が、まだ発行されていないのか。
既に発行されてしまったのか。
それとも。
最初から、発行された事実すらないのか。
似ているようで、まったく違います。
そして。
その違いに気づくのが三日遅ければ。
一人の社長の野望によって、三十人の職人が働く町工場が、他人の手に渡っていたかもしれないのです。
「会社を……奪われるんです」
月曜日の朝。
事務所を訪れた男性は、震える声でそう言いました。
「会社を?」
私は聞き返しました。
男性の名前は、森田修一さん。
五十二歳。
作業着の袖には、機械油の染みが残っています。
手の甲には細かな傷。
指先は厚い。
長年、旋盤を握ってきた職人の手でした。
「うちは、森田精機という小さな会社です」
「精密機械の会社ですか?」
「はい。自動車部品の加工をやっています」
従業員三十人。
創業二十五年。
父親の代から続く町工場。
修一さんは、その会社の専務取締役でした。
「社長は?」
私が尋ねると、修一さんの表情が曇りました。
「義理の弟です」
「義理の弟?」
「妻の弟で、森田俊郎といいます」
話を聞くと。
五年前、先代社長が亡くなったあと、経営を安定させるため、営業に強い俊郎を社長に据えたそうです。
修一さんは工場を守る。
俊郎は営業を担当する。
それで会社を大きくするつもりでした。
ところが。
「最近、あいつがおかしなことを始めまして」
「おかしなこと?」
「会社の株式を、新しく発行するというんです」
私は頷きました。
新株発行。
会社が資金を調達するため、新しい株式を発行すること。
別に、それ自体が悪いわけではありません。
設備投資。
事業拡大。
借入金の返済。
新株発行が必要になる場面はいくらでもあります。
「資金調達が必要なんですか?」
「いいえ」
修一さんは首を振りました。
「うちは昨年、過去最高の利益を出しました」
「え?」
「新しい旋盤も買えます。銀行からの融資も受けられます。今すぐ増資しなければならない事情なんてないんです」
「では、どうして?」
修一さんは鞄から一枚の紙を取り出しました。
取締役会の開催通知。
そして、新株発行の予定を記した書面。
私は目を通しました。
現在の発行済株式総数。
四千株。
そのうち。
修一さんが二千四百株。
俊郎社長が千六百株。
つまり。
修一さんが六割。
俊郎社長が四割。
「……あれ?」
私は首をかしげました。
「修一さんが過半数の株式を持っているんですね」
「はい」
「それなら、株主総会では修一さんのほうが強い立場ですよね」
「そうなんです」
修一さんが唇を噛みました。
「だから、あいつは新株を発行するんです」
私は書面の続きを読みました。
新たに発行する株式。
六千株。
引受予定者。
東洋開発株式会社。
代表取締役。
森田俊郎。
……。
ん?
「ちょっと待ってください」
私は顔を上げました。
「東洋開発の社長も、俊郎さんなんですか?」
「ええ。あいつが別に作った会社です」
「つまり……」
私は計算しました。
現在。
修一さん、二千四百株。
俊郎社長、千六百株。
合計四千株。
そこへ。
俊郎社長が支配する東洋開発に、六千株を発行する。
発行後の総数は一万株。
修一さんの持株比率は。
二十四パーセント。
一方。
俊郎社長と東洋開発を合わせれば。
七十六パーセント。
「……!」
私は思わず立ち上がりました。
「これ、完全に逆転しますよ!」
「そうなんです!」
修一さんが机に身を乗り出しました。
「今は私が六割を持っています。でも新株が発行されたら、あいつ側が七割以上になる!」
それだけではありません。
七十六パーセント。
議決権の行使が可能な株式がすべて普通株式で、特別な事情がなければ、通常の普通決議だけでなく、特別決議にも大きな影響力を持つ割合です。
社長の選任。
定款変更。
会社の重要事項。
株主総会の力関係が、まるごと変わってしまう。
「私が守ってきた工場が……」
修一さんの声が震えました。
「あいつのものになるんです」
私は紙を握りました。
なるほど。
新株発行。
ただ会社にお金を入れる制度ではない。
誰が会社を支配するか。
そこまで変えてしまう仕組みなんですね。
「でも、大丈夫です!」
私は勢いよく言いました。
「これは募集株式の発行差止請求です!」
修一さんが顔を上げました。
「差止請求?」
「はい! 会社法二百十条です!」
よし。
来ました。
行政書士試験で勉強したところです。
法令や定款に違反する場合。
または、著しく不公正な方法で募集株式を発行しようとする場合。
株主が不利益を受けるおそれがあれば、発行をやめるよう請求できる。
「今回は、支配権を奪うための不公正な発行です!」
私は六法を取り出そうとしました。
その瞬間。
「二百十条?」
相馬先輩の声が飛びました。
……。
あ。
嫌な予感。
「こはる」
「はい」
「お前、またどこの法律を読んでるんだ」
「会社法です!」
「そんな法律はねえ!」
しまったあああ!
そうでした。
ここは昭和六十三年。
まだ独立した会社法は存在しません。
会社のルールは商法第二編。
株式会社の設立には発起人が七人以上必要で、取締役も三人以上。
現代のように、一人で株式会社を簡単に設立できる時代ではありません。
合同会社なんて、もちろんありません。
「……商法でした」
「そうだ」
「新株発行の差止請求は……」
「商法二百八十条ノ十だ」
私は固まりました。
「ノ十?」
「ああ」
「二百八十条の十、ですか?」
「そうだ」
「何で普通に二百八十条の十って書かないんですか!」
「俺に聞くな!」
また出ました。
昭和の商法。
条文番号にまで歴史を感じます。
でも。
相馬先輩は笑っていませんでした。
「こはる」
「はい」
「大事なのは条文番号じゃねえ」
「え?」
「その新株、いつ発行される?」
私は書面を見直しました。
払込期日。
木曜日。
つまり。
三日後。
「……三日後です」
先輩の顔が険しくなりました。
「所長!」
片桐所長が奥から出てきました。
「何だ」
「急ぎです」
先輩は書面を差し出しました。
「三日後に払込期日が設定されています。支配権争いに絡む新株発行です」
所長は書面を読みました。
しばらく沈黙。
そして。
「まだ間に合う」
短く言いました。
その声で、私は理解しました。
今回の敵は。
社長だけではありません。
時間です。
「修一さん」
片桐所長が静かに尋ねました。
「御社の定款を見せていただけますか」
「あります」
修一さんは古い冊子を取り出しました。
表紙。
株式会社森田精機定款。
昭和三十八年作成。
長い年月で、紙の端が黄ばんでいます。
所長は丁寧にめくりました。
そして、ある条文で指を止めました。
「株式の譲渡には、取締役会の承認を要する」
「はい」
「株主は、お二人だけですか」
「はい」
「取締役は?」
「私と俊郎、それに経理部長の三人です」
あ。
三人。
昭和六十三年の株式会社で必要な取締役の人数です。
現代なら一人取締役の株式会社も珍しくありません。
でも、この時代は違う。
「経理部長は、どちらの味方ですか」
相馬先輩が聞きました。
「……俊郎です」
「なるほど」
先輩は顔をしかめました。
「取締役会では二対一か」
修一さんが頷きました。
「昨日、私は反対しました。でも俊郎と経理部長が賛成して、新株発行を決めてしまったんです」
「議事録はありますか」
「これです」
私は受け取りました。
取締役会議事録。
議案。
新株六千株の発行。
引受先は東洋開発。
目的は設備投資資金の調達。
決議結果。
賛成二名。
反対一名。
可決。
「……形式だけ見ると、取締役会で決まってますね」
私が言うと、所長は頷きました。
「そうだ」
「では、どうすれば……」
所長は、議事録の一行を指しました。
――設備投資資金の調達を目的とする。
「この設備投資とは何ですか」
「……分かりません」
修一さんが答えました。
「俊郎に聞いても、具体的な計画を見せないんです」
「設備の見積書は?」
「ありません」
「導入予定の機械は?」
「聞いていません」
「工場側からの購入申請は?」
「一件もありません」
片桐所長は頷きました。
そして。
「相馬」
「はい」
「議事録だけでなく、事業計画と資金繰り表も確認しろ」
「分かりました」
「こはる」
「はい!」
「今、この新株発行を急ぐ理由は何だと思う」
私は考えました。
利益は出ている。
銀行融資も可能。
設備投資計画もない。
なのに。
社長自身の会社に六千株。
既存株主の持株比率を、六割から二十四パーセントに落とす。
「……資金調達ではありません」
「うん」
「修一さんの支配権を奪うためです」
所長が頷きました。
「その疑いが濃い」
そして、こう言いました。
「ただし、疑いだけで断定するな」
「はい」
「証拠を集めろ」
そうでした。
新株発行には、本来の資金調達という目的があります。
結果として持株比率が変わるだけで、すべて違法になるわけではありません。
問題は。
何のために発行するのか。
どういう方法で発行するのか。
その実態です。
「所長」
修一さんが尋ねました。
「まだ止められるんでしょうか」
片桐所長は書面を揃えました。
「止めるための手段はあります」
「本当ですか!」
「ただし、時間がありません」
所長はカレンダーを見ました。
月曜日。
払込期日は木曜日。
「今日中に資料を固めます」
そして。
「まず、会社に対する差止請求の通知書を作ります」
私は鉛筆を握り直しました。
いよいよ。
昭和の商法が、牙をむく瞬間です。
翌日。
私と相馬先輩は、修一さんから依頼された資料整理のため、森田精機の工場を訪れました。
工場の中には、金属を削る音が響いています。
旋盤。
フライス盤。
ボール盤。
油の匂い。
機械の振動。
職人たちは、黙々と作業していました。
「ここが、父の代から続く工場です」
修一さんが言いました。
「若い頃は、私も毎日ここで機械を回していました」
私は工場を見渡しました。
古い設備。
でも、きれいに整備されています。
作業台には、寸法を何度も確認したメモ。
壁には、安全第一の標語。
その一つ一つに、働く人の時間が染み込んでいるようでした。
「この工場を……」
修一さんが小さく言いました。
「株の数だけで奪われるなんて、悔しくて」
私は何も言えませんでした。
株式。
受験勉強では、ただの数字でした。
発行済株式総数。
議決権。
持株比率。
でも。
その数字の裏には。
三十人の生活があります。
家族があります。
長年積み上げた技術があります。
それを。
社長の都合だけで動かしていいのでしょうか。
「おやおや」
突然、背後から声がしました。
「兄さん。まだ諦めてなかったんですか」
振り向くと。
高そうな背広を着た男性が立っていました。
四十代後半。
金色の腕時計。
磨かれた革靴。
森田俊郎社長です。
「俊郎……!」
修一さんの顔が険しくなりました。
「何しに来た」
「自分の会社ですよ。社長が来て何が悪いんですか」
俊郎は笑いました。
そして、私たちを見ました。
「そちらは?」
「片桐行政書士事務所の相馬です」
「行政書士?」
俊郎の口元が歪みました。
「何だ。弁護士じゃないのか」
……。
出ました。
悪徳社長お約束の台詞。
「行政書士なんか呼んで、何ができるんです?」
俊郎は鼻で笑いました。
「会社のことは、社長が決めるんですよ」
相馬先輩は何も言いません。
「取締役会で決めた。議事録もある。新株発行は合法だ」
俊郎は修一さんを見ました。
「兄さんには六割の株があるからって、ずいぶん偉そうにされましたからね」
「お前……」
「でも、もう終わりですよ」
俊郎は指を鳴らしました。
「木曜日には東洋開発が六千株を引き受ける。そうすれば、私の側が七割以上だ」
私は唇を噛みました。
本人が。
支配権を奪う目的を隠そうともしていません。
「それで?」
相馬先輩が静かに聞きました。
「何がです?」
「設備投資計画は?」
俊郎の笑みが止まりました。
「……は?」
「新株発行の目的が設備投資だと、議事録に書いてありましたが」
「ああ、それね」
「具体的には、どの設備を購入するんですか」
「これから決めるんですよ」
「見積書は?」
「これからです」
「購入予定先は?」
「だから、これから!」
俊郎は苛立ったように声を荒らげました。
「何なんですか、あんた!」
相馬先輩は表情を変えません。
「確認しただけです」
「会社の経営に口を出すな!」
「出していません」
「じゃあ帰れ!」
俊郎は胸を張りました。
「それに、たとえ株を発行したとしても、金を払って引き受けるんだから問題ないでしょう」
私は思わず言いました。
「でも、修一さんの持株比率が大幅に下がります!」
「当たり前だろ!」
俊郎は笑いました。
「株が増えるんだから!」
「それを利用して、支配権を奪おうとしているんですよね!」
「だったら何だ!」
俊郎は私を睨みました。
「株式会社は多数決だ! 株を持っている奴が勝つ! それが資本主義だろう!」
……。
私は言葉を失いました。
確かに。
株式会社では、議決権が重要です。
でも。
その議決権を不当に作り出していいわけではない。
「こはる」
相馬先輩が制しました。
「はい」
「もういい」
またです。
口で言い負かそうとしても、先輩は止める。
先輩は俊郎を見ました。
「新株発行の予定は、変更ありませんね」
「もちろんだ」
「払込期日も木曜日ですね」
「そうだよ」
「分かりました」
相馬先輩は一礼しました。
「失礼します」
俊郎は勝ち誇ったように笑いました。
「帰れ帰れ。木曜日になったら、兄さんには工場から出ていってもらいますからね」
修一さんの拳が震えました。
でも。
相馬先輩は振り返りませんでした。
工場を出てから、私は聞きました。
「先輩!」
「何だ」
「今の、聞きましたよね!」
「ああ」
「完全に乗っ取り目的じゃないですか!」
「そうだな」
「何で言い返さなかったんですか!」
先輩は煙草を取り出しました。
「こはる」
「はい」
「社長が勝つと思っているうちに、書類を作るんだよ」
「……書類?」
「そうだ」
先輩は低い声で言いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
そして。
「商法を守った奴が勝つんだよ」
私は息を呑みました。
さあ。
反撃開始です。
事務所へ戻ると。
片桐所長は既に、資料を机に並べていました。
定款。
株主名簿。
取締役会議事録。
会社の決算書。
銀行借入の資料。
設備投資計画に関する社内文書。
そして。
修一さんが作成した事実確認書。
「相馬」
「はい」
「本人は何と言った」
「新株発行によって自分の側が七割以上になり、修一さんを追い出せる、と」
所長の目が細くなりました。
「設備投資は?」
「具体的な計画を答えませんでした」
「そうか」
所長は資料に目を落としました。
「こはる」
「はい!」
「新株発行が、どんな場合に止められるか」
私は答えました。
「法令や定款に違反している場合です!」
「ほかには」
「著しく不公正な方法による場合です!」
「その結果、誰に何が起こる必要がある」
「株主に不利益が生じるおそれです!」
所長が頷きました。
「よし」
私は六法を開きました。
商法二百八十条ノ十。
読んでみると。
そこには、現代の会社法二百十条につながる考え方が、既に存在していました。
「所長!」
「何だ」
「昭和にもあるんですね!」
「何がだ」
「新株発行の差止請求!」
所長は不思議そうな顔をしました。
「当たり前だ」
……ですよね。
未来人の感想です。
でも。
私は嬉しかったのです。
会社法という独立した法律がなくても。
古い商法の中に、株主を守る仕組みがある。
しかも。
今回のような、社長による支配権争いにも使える可能性がある。
「ただし」
所長が言いました。
「気をつけろ」
「はい」
「株主の持株比率が下がる。それだけで差止めが認められるわけではない」
「……はい」
「会社に本当に資金が必要なら、新株発行には正当な理由があり得る」
「そうですね」
「問題は、その発行が著しく不公正な方法によるものかどうかだ」
私は頷きました。
今回。
設備投資の必要性が具体的に説明されていない。
資金繰りにも差し迫った問題は見当たらない。
なのに。
社長が支配する別会社だけに大量の新株を割り当てる。
その結果。
既存の多数派株主が、一気に少数派になる。
さらに。
社長自身が、その目的を口にしている。
「所長」
「何だ」
「これは、相当危ない発行ですね」
「ああ」
「では、内容証明を作ります!」
私は原稿用紙を取り出しました。
そして。
勢いよく書き始めました。
三十分後。
片桐所長は私の原案を読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『本件新株発行は、当然に無効である』」
「はい!」
赤線。
「まだ発行されていない」
「……あ」
「今の段階で、何を求める」
「差止めです」
「そうだ」
私は慌てて消しました。
「次」
「はい」
「『社長個人に対し、新株発行を禁止する』」
赤線。
「相手を間違えるな」
「え?」
「差止請求の相手は、会社だ」
「あっ!」
確かに。
商法二百八十条ノ十。
株主は、会社に対して、新株発行をやめるよう請求する。
社長個人に対する単なる抗議文ではありません。
「それから」
所長は続けました。
「修一さんの持株比率が下がるだけでは、足りない」
「はい」
「不公正な方法であることを、具体的な事実で示せ」
私は頷きました。
法律の書面。
怒りを文章にする場所ではありません。
証拠を整理し。
適用される法律を示し。
何を求めるのか、明確にする。
それが必要です。
私は原稿を作り直しました。
二時間後。
机の上に、一通の内容証明郵便の原案が完成しました。
表題。
――新株発行差止請求通知書。
宛先。
株式会社森田精機。
代表取締役 森田俊郎。
差出人。
株主 森田修一。
私は読み上げました。
「第一。本通知人は、貴社の発行済株式総数四千株のうち、二千四百株を保有する株主である」
「うん」
「第二。貴社は、昭和六十三年某月某日開催の取締役会において、東洋開発株式会社を引受先とする新株六千株の発行を決議した」
「続けろ」
「第三。本件新株発行が実施された場合、通知人の持株比率は六十パーセントから二十四パーセントに低下する」
所長が頷きました。
「第四。東洋開発株式会社は、貴社代表取締役森田俊郎が支配する会社であり、本件発行により同人側の議決権割合は合計七十六パーセントとなる」
「うん」
「第五。本件新株発行につき、具体的な設備投資計画、購入対象設備及び資金需要について、合理的な説明が示されていない」
相馬先輩が腕を組みました。
「よし」
「第六。以上の事情から、本件新株発行は、資金調達を主要な目的とするものではなく、現経営陣の支配権確保を主要な目的とする、著しく不公正な方法による発行であると考えられる」
私は息を吸いました。
「第七。よって通知人は、商法第二百八十条ノ十に基づき、本件新株発行の差止めを請求する」
そして。
最後。
「第八。貴社が本件発行を強行する場合には、通知人は弁護士に委任のうえ、裁判所に対する差止めの仮処分申立てその他必要な法的手段を検討する」
読み終えました。
しん。
と、事務所が静かになりました。
「……どうでしょうか」
片桐所長は原案を見つめました。
そして。
「いい」
短く言いました。
やった!
「ただし」
「はい!」
「株主名簿の写し、決算資料、取締役会議事録を整理し、通知の根拠となる事実確認書も残しておけ」
「はい!」
「それから、本人の意思を確認する」
所長は修一さんを見ました。
「この内容で、会社に差止めを請求されますか」
修一さんは、しばらく書面を見つめていました。
そして。
「お願いします」
深く頭を下げました。
「父が作った会社なんです」
その声は、少し震えていました。
「工場のみんなが、一生懸命働いてくれた会社なんです」
私は黙って聞いていました。
「株の数を操作して、あいつの道具にされるわけにはいきません」
片桐所長が頷きました。
「分かりました」
そして。
「今日中に発送します」
こうして。
森田俊郎社長に向けて。
法的な刃が放たれました。
ただし。
それは怒鳴り声でも。
脅迫でもありません。
事実と法律を並べた、一通の書面でした。
翌日。
水曜日。
午前十時。
片桐行政書士事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……森田だ』
低い声。
俊郎社長です。
『片桐という行政書士はいるか』
「所長ですね。少々お待ちください」
私は受話器を渡しました。
「片桐です」
『あんた、ふざけた書面を送ってきたな』
「差止請求通知書の件ですね」
『そうだ!』
電話の向こうで、俊郎が怒鳴りました。
『取締役会で決めたんだぞ! 正式な決議だ!』
「その点は承知しています」
『だったら何が問題なんだ!』
所長は静かに答えました。
「通知書に記載された事実と法的な問題点を、ご確認ください」
『……!』
「当事務所は、ご依頼人の意思に基づき通知書を作成したものです。発行の是非について代理人として交渉する立場ではありません」
『じゃあ、あんたらには何もできないだろ!』
「差止請求は既に、ご本人の意思表示として会社へ通知されています」
俊郎は黙りました。
所長が続けます。
「通知を受けた事実は、会社に残ります」
『……何?』
「以上です」
電話が切れました。
私は所長を見ました。
「所長」
「何だ」
「……それだけですか?」
「ああ」
「もっと、こう、商法で叩きのめすような……」
相馬先輩が横から言いました。
「馬鹿」
「何ですか!」
「俺たちは代理人として示談交渉するんじゃねえ。本人の通知を、法律に沿った書面にする仕事だ」
「はい……」
「それに、相手にはもう届いてる」
先輩は机の上の控えを指しました。
「言い逃れできない事実がな」
私は内容証明の控えを見ました。
確かに。
そこには、社長が答えたくないことが並んでいます。
なぜ資金が必要なのか。
なぜ自分の会社にだけ株を渡すのか。
なぜ既存の多数派株主が二十四パーセントになるのか。
そして。
なぜ、そこまで急いでいるのか。
……。
怖い。
これは本当に怖い。
怒鳴り合いなら、ごまかせるかもしれません。
でも。
書面に残された事実は、ごまかしにくいのです。
ところが。
問題は、まだ終わっていませんでした。
午後一時。
修一さんが、青ざめた顔で事務所に駆け込んできました。
「大変です!」
「どうしました!」
「俊郎が……」
修一さんは息を切らしています。
「通知書を受け取っても、新株発行をやめないと言っています!」
私は立ち上がりました。
「ええっ!」
「明日、予定どおり払い込ませるそうです!」
相馬先輩の顔が険しくなりました。
「……そう来たか」
私は焦りました。
「先輩! 内容証明を送ったのに!」
「内容証明を送っただけで、発行が自動的に止まるわけじゃねえ」
「じゃあ、どうするんですか!」
相馬先輩は修一さんを見ました。
「もう、裁判所の力が必要になる段階です」
私は息を呑みました。
そうです。
商法上の差止請求は、裁判外でもできます。
でも。
相手が従わず、強行しようとするなら。
裁判所による保全処分を求める必要が生じます。
「所長!」
私が叫ぶと、片桐所長は既に電話帳を開いていました。
「相馬」
「はい」
「弁護士に連絡しろ」
「分かりました」
「資料は揃っているな」
「はい。定款、株主名簿、決算書、取締役会議事録、発行条件、事実確認書、内容証明の控えです」
「よし」
所長は修一さんを見ました。
「裁判所への申立てについては、弁護士に依頼していただきます」
「……はい」
「今日中に相談できるよう、連絡を取ります」
修一さんは深く頷きました。
私は思いました。
そうか。
行政書士の書面は、戦いの終わりではありません。
場合によっては。
裁判所で権利を守るための、最初の一手にもなる。
事実を整理し。
証拠を揃え。
本人の意思を明確にする。
そこまでが、私たちの大事な仕事なのです。
その日の夕方。
修一さんは、紹介された弁護士と面談しました。
書類はすべて揃っています。
弁護士は、資料を確認したうえで、発行差止めの仮処分を申し立てる方針を決めました。
払込期日は翌日。
時間は、ほとんどありません。
そして。
翌朝。
森田精機の新株発行を差し止める仮処分命令が発せられたとの連絡が、弁護士から入りました。
「……!」
私は受話器を置きました。
「先輩!」
「何だ!」
「出ました!」
「何が!」
「仮処分です!」
相馬先輩が顔を上げました。
「本当か」
「はい!」
私は思わず拳を握りました。
「これで新株発行は止まります!」
「会社が命令を守ればな」
「……あ」
相馬先輩は真剣な顔でした。
「いいか、こはる」
「はい」
「命令が出たことと、相手が必ず従うことは別だ」
「はい」
「強行すれば、さらに重大な法的問題になる」
私は頷きました。
そうでした。
社長が自分の立場を守るため、裁判所の命令すら無視する可能性。
それも、考えなければなりません。
でも。
そのとき。
再び電話が鳴りました。
相馬先輩が出ました。
「片桐行政書士事務所です」
『……森田俊郎です』
今度の声は。
昨日とは、まるで違いました。
小さい。
かすれている。
『片桐先生は……』
「所長ですね」
相馬先輩は受話器を渡しました。
「片桐です」
『……あの』
俊郎は、しばらく黙りました。
『新株発行の件ですが……』
「はい」
『……中止します』
私は目を見開きました。
『東洋開発にも、払い込みを行わないよう連絡しました』
所長は静かに聞いていました。
『弁護士にも相談したんです』
「そうですか」
『このまま強行すれば、新株発行の効力まで争われる可能性があると……』
俊郎の声が震えました。
『それに、取締役としての責任も問題になるって……』
私は息を呑みました。
そうです。
会社の支配権を奪うため、著しく不公正な方法で新株を発行する。
しかも、裁判所の差止めの仮処分まで無視する。
そんな行為が、会社に対する取締役の責任問題を生まないとは限りません。
『……取り返しがつかなくなる前に、やめます』
俊郎はそう言いました。
所長は短く答えました。
「中止の意思は、会社として正式な書面に残してください」
『分かりました』
「それを、ご本人に直接通知してください」
『……はい』
電話は切れました。
私は、しばらく動けませんでした。
そして。
「……やった」
小さく呟きました。
相馬先輩が笑いました。
「まだだ」
「ええっ!」
「正式な中止の書面を確認してからだ」
「またそれですか!」
「当たり前だろ」
先輩はにやりとしました。
「書面で始まった話だ。書面で終わらせろ」
……。
確かに。
今回は。
社長の「俺が法律だ」という思い込みを。
商法と書面が、止めたのです。
その日の午後。
森田精機から、正式な書面が届きました。
――新株発行中止通知書。
取締役会で新株発行中止の決議がなされた旨。
東洋開発に対する新株発行を取りやめる旨。
払込みを受け付けない旨。
そして。
新株発行の計画を撤回する旨。
私は、その書面を何度も読みました。
「本当に……止まったんですね」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「今回は、発行される前に止められた」
その言葉に、私は引っかかりました。
「……今回は?」
先輩は私を見ました。
「何だ」
「もし、もう発行されていたら?」
相馬先輩は煙草を灰皿に置きました。
「差止めでは間に合わねえ」
「……え?」
「発行される前だから、やめろと言えるんだ」
私は固まりました。
「じゃあ、発行後は……」
相馬先輩が六法を開きました。
「新株発行の無効の訴えだ」
私は目を見開きました。
無効の訴え。
聞いたことがあります。
でも。
「それなら、内容証明で『無効だ!』と通知すれば……」
「駄目だ」
「ええっ!」
「無効の訴えは、訴えをもってのみ主張するんだ」
私は口を開けました。
「差止めは裁判外でもできるのに?」
「そうだ」
「無効は裁判が必要?」
「そうだ」
「……何でそんなに違うんですか!」
相馬先輩は言いました。
「もう発行された株式には、引き受けた奴の権利がある。会社の登記も関係する。取引先やほかの株主にも影響する」
「……はい」
「だから、後から簡単にひっくり返せる話じゃねえ」
なるほど。
発行前なら、止める。
発行後なら、効力を争う。
しかも。
発行後は、関係者の法律関係を安定させる必要がある。
「それで、無効の訴えには期間制限があるんですね」
私は言いました。
「そのとおりだ」
先輩は商法二百八十条ノ十五を示しました。
新株発行の無効は、発行の日から六か月以内に訴えをもってのみ主張できる。
「六か月……」
私は呟きました。
短い。
気づいたときには、もう手遅れになる可能性があります。
「それに、誰でも訴えられるわけじゃねえ」
先輩は続けました。
「株主、取締役、監査役に限られる」
「会社の債権者は?」
「この無効の訴えの原告にはなれねえ」
私は頷きました。
怖い。
法律には、権利を守るための方法がある。
でも。
その方法をいつでも、誰でも、自由に使えるわけではない。
しかも、判決によって新株発行が無効とされても、その株式は将来に向かって効力を失う。
過去のすべてが、初めからなかったことになるわけではありません。
「所長」
私は尋ねました。
「もし、そもそも株式が発行されていないのに、発行したことになっていたら?」
片桐所長が顔を上げました。
「どういう意味だ」
「例えば……」
私は考えました。
「株式の引受けも、払込みも、実際には何もない。それなのに、帳簿や登記の上では大量の新株を発行したことになっている場合です」
所長は頷きました。
「それは、また別の問題だ」
「……別?」
「新株発行の不存在だ」
私は息を呑みました。
不存在。
つまり。
初めから、存在しない。
「発行された株式に重大な違法があるのと、そもそも発行の実体がないのとは違う」
所長が言いました。
「なるほど……」
私はノートを開きました。
新株発行の差止め。
新株発行の無効。
新株発行の不存在。
三つ。
全部違う。
しかも。
昭和六十三年の商法では、新株発行不存在確認の訴えについて、現代の会社法のような明文の規定が整っているわけではありません。
それでも。
実際には存在しない新株発行の外観を、どうやって取り除くか。
そんな問題は、この時代にも起こり得るのです。
「先輩」
「何だ」
「新株発行って、奥が深いですね」
「当たり前だろ」
「発行前と発行後で、武器が変わるんですね」
「そうだ」
「しかも、存在しないものを発行したことにしていたら、また別」
相馬先輩は頷きました。
「覚えとけ」
「はい!」
「株式ってのは、紙切れの問題じゃねえ」
先輩は修一さんの株主名簿を指しました。
「会社を動かす力、そのものなんだよ」
私は、しばらくその言葉を考えていました。
一週間後。
森田修一さんが、事務所を訪れました。
今日は、作業着ではありません。
少し古い背広。
でも、顔つきは明るくなっていました。
「ありがとうございました」
深く頭を下げました。
「新株発行は、正式に中止されました」
「よかったです!」
私は笑いました。
「会社のほうは、大丈夫ですか?」
「ええ。俊郎には今後の経営体制について話をするつもりです」
修一さんは少し苦笑しました。
「実は、私も悪かったのかもしれません」
「え?」
「工場のことばかり考えて、会社の経営をあいつに任せきりにしていました」
私は黙って聞きました。
「社長だから、任せておけばいいと思っていたんです」
修一さんは手を見つめました。
機械油の染みた、厚い手。
「でも、違ったんですね」
「……はい」
「会社は、誰か一人のものじゃない」
私は頷きました。
株式会社は、社長の私物ではありません。
株主が出資し。
取締役が職務を行い。
従業員が働き。
取引先が支え。
多くの人が関わって存在しています。
だからこそ。
一人の欲望だけで、会社の仕組みを好き勝手に使わせないためのルールがある。
「今回のことで、よく分かりました」
修一さんは言いました。
「会社の株って、ただの数字じゃないんですね」
私は笑いました。
「はい」
「父の代から築いたものを守るには、機械だけじゃなく、会社の仕組みも知らないといけない」
「そうですね」
修一さんは鞄から一枚の写真を取り出しました。
「これ、昨日撮ったんです」
写真には、工場の職人たちが写っていました。
古い旋盤。
整備された作業場。
三十人の笑顔。
その中央で。
修一さんが、照れくさそうに笑っています。
「みんな、仕事を続けられるって喜んでくれました」
私は胸が熱くなりました。
たった一通の内容証明。
そこから始まった法的手続。
止めたのは、新株六千株の発行でした。
でも。
守ったのは。
三十人が働く場所。
そして。
その家族の暮らしだったのです。
「ありがとうございました」
修一さんは、もう一度頭を下げました。
片桐所長は静かに頷きました。
「これからは、株主名簿と定款、議事録をきちんと管理してください」
「はい」
「会社を守るのは、機械だけではありません」
修一さんは笑いました。
「よく分かりました」
そして。
春の陽射しの中へ、帰っていきました。
その日の夕方。
私は机に向かっていました。
ノートの表紙。
――こはるノート・商法編。
中には、今回の事件の資料。
新株発行差止請求通知書。
取締役会議事録。
新株発行中止通知書。
そして。
修一さんの工場の写真。
「……危なかったですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「あと三日遅かったら、間に合わなかったかもしれません」
「ああ」
「新株が発行されたあとでは、差止めじゃなくて無効の訴えになりますもんね」
「そうだな」
「しかも、発行後の無効は簡単には認められない」
「そうだ」
「だから、発行前に止めることが大事だったんですね」
先輩は頷きました。
「よく分かってきたじゃねえか」
「褒めました?」
「気のせいだ」
……。
またそれですか。
私はノートに書きました。
――新株発行は、発行前に止めるのが重要。
その下に。
――発行後は、無効の訴え。
そして。
――そもそも発行の実体がなければ、不存在の問題。
私は鉛筆を止めました。
「所長」
「何だ」
「一つ、気になったんですけど」
「何だ」
「新株発行が不存在だった場合って、無効の訴えと同じ六か月で制限されるんですか?」
所長は帳簿を閉じました。
「同じものとして扱うべきか、考えてみろ」
「え?」
「実際に発行された株式の効力を争う話と、そもそも発行されていないという話だ」
「……あ」
私は考えました。
違法だけれど、発行された。
それと。
発行された事実そのものがない。
同じにしていいのでしょうか。
「所長」
「うん」
「それって、かなり大きな違いですね」
「そうだ」
私は頷きました。
その違いは、きっと明日の勉強で整理することになります。
昭和の商法。
現代の会社法。
新株発行差止請求。
無効の訴え。
不存在確認の訴え。
そして。
法律が、それぞれに違う扱いをする理由。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「今回、一番大事だったのは何だ」
私は考えました。
不公正な新株発行。
株主の不利益。
商法二百八十条ノ十。
内容証明。
仮処分。
全部、大事です。
でも。
やっぱり。
「……三日間です」
私は答えました。
相馬先輩が笑いました。
「そうだ」
「法律には、使える時間があるんですね」
「ああ」
「同じ問題でも、いつ気づくかによって、使える手段が変わる」
「そのとおりだ」
私は大きく頷きました。
これなら。
たぶん、忘れません。
試験のテキストでは、ただの区別だったもの。
発行前。
発行後。
不存在。
でも。
今回は、その違いが実際に人を守りました。
新株発行を利用した会社乗っ取り。
それを、発行前に止めた。
だからこそ。
修一さんも。
工場の職人たちも。
昨日と同じ場所で、働き続けられる。
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
――新株は、発行前なら「止める」、発行後なら「無効を争う」、最初からなければ「不存在を確認する」。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「調子に乗るな」
私は笑いました。
でも。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
少し慌てています。
『うちの会社の株のことで、相談があるんですが……』
「はい!」
『実は、社長が勝手に株を増やしたことになっていまして……』
私は鉛筆を止めました。
……。
また。
新株発行?
『でも、変なんです』
「何がですか?」
『株を引き受けた人なんて、誰もいないんです』
……え?
『お金を払い込んだ人もいないのに、会社の登記では株式が増えているらしくて……』
私は固まりました。
相馬先輩を見る。
先輩もこちらを見ました。
『社長は、ちゃんと発行したって言い張ってるんですが……』
私は受話器を握り直しました。
「……先輩」
「何だ」
「今度は、株を発行したことになっているのに……」
「ああ」
「発行した実体がないかもしれません」
相馬先輩は煙草を置きました。
「なるほどな」
私は息を吸いました。
さっき学んだばかりです。
新株発行。
差止め。
無効。
そして。
不存在。
「先輩!」
「何だ!」
「次は、発行されていない株との戦いです!」
「知ってるよ!」
私は受話器に向かって言いました。
「すみません。まず、新株発行をしたという日付と、登記が変更された日付を教えていただけますか?」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
商法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
社長が決めたから。
取締役会で決議したから。
登記に書いてあるから。
それだけで、すべてが正しくなるわけではありません。
法律は。
社長の言葉より。
事実を見ています。
そして。
私は今日、一つだけ確信しました。
会社を乗っ取ろうとする社長が、一番恐れるもの。
それは。
怒鳴り返してくる株主ではありません。
株主が持つ権利を正確に理解し。
発行される前に動き。
不公正な目的を証拠で明らかにすること。
そんな、法律を知った人間です。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「商法って、すごいですね!」
「何がだ!」
「社長の野望を、条文一つで止められるんですよ!」
相馬先輩は笑いました。
「条文一つじゃねえ」
「え?」
「事実を調べて、証拠を揃えて、本人の意思を確認して、それを正しい時期に使ったから止まったんだ」
私は黙りました。
なるほど。
条文だけでは、人は守れない。
その条文を、いつ、どう使うか。
そこまで分かって、初めて法律は武器になる。
「……分かりました!」
私は元気よく答えました。
すると。
奥から片桐所長の声がしました。
「こはる」
「はい!」
「相談票を取れ」
「はい!」
「今度は発行日だけでなく、引受けの事実と払込みの有無も確認しろ」
「分かりました!」
私は受話器を握り直しました。
新株発行。
無効。
不存在。
昨日までは、試験のために覚える言葉でした。
でも、もう違います。
その違いを知らなければ。
守れるはずの会社を、守れないかもしれない。
そして。
会社を私物だと思っている社長ほど。
商法を開いた瞬間、顔色が変わることがあるのです。
ただし。
今回は、払い込みまで三日ありました。
次の事件では。
時計を戻すことは、できないかもしれません。
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