[会社法・単元株]現場編 「千株なければ売れません」の嘘。三百株を紙くずにしようとした社長と、株主を守る最後の出口
株は、たった一株でも財産です。
けれど。
百株なければ売れない。
千株なければ議決権もない。
そんな決まりがあったら、どうでしょう。
九十九株しか持っていない人は。
九百九十九株しか持っていない人は。
自分のお金を、取り戻せなくなってしまうのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一つの数字に頭を抱えることになります。
――千株。
たった一株足りなくても、株主総会で議決権を行使できない。
通常の市場取引でも、自由に売却できない。
そんな制度が、昔の商法の世界にはありました。
もっとも。
現代の私も、似たような制度を知っています。
単元株制度。
単元未満株式の買取請求。
単元未満株式の売渡請求。
行政書士試験で勉強した、あの制度です。
ところが。
昭和六十三年には、まだ「単元株制度」という名前の制度は存在しません。
代わりにあったのは。
――単位株制度。
似ています。
非常に似ています。
でも、同じではありません。
そして、その違いを知らなかった私は。
もう少しで、相談者を存在しない法律に頼らせるところだったのです。
「主人が残した株を、売らせてもらえないんです」
午前九時。
事務所の引き戸が開きました。
入ってきたのは、五十代半ばの女性でした。
紺色のカーディガン。
使い込まれた革の鞄。
その手には、古い株券が大切そうに握られています。
「売らせてもらえない?」
私は首をかしげました。
女性は、遠慮がちに頷きました。
「はい。会社の社長さんに、そう言われてしまって……」
女性の名前は、小野寺澄江さん。
五十六歳。
夫は三年前に亡くなっています。
生前、夫は地元の機械部品メーカーで働いていました。
会社の名前は、東海精工株式会社。
地元では、それなりに知られた企業です。
名古屋の証券取引所にも株式を上場しているといいます。
「主人は、若い頃から少しずつ会社の株を持っていたんです」
澄江さんは、株券を机に並べました。
「最初はもっとあったんですけど、家を建てるときに大半を売りまして……」
「今は何株あるんですか?」
「三百株です」
三百株。
私は頷きました。
「それで、何が問題になっているんでしょう」
「会社から、売れないと言われたんです」
「え?」
澄江さんは封筒から一枚の通知書を取り出しました。
私は読みました。
――当社株式の売買単位は千株である。
――貴殿の所有する三百株は単位未満株式に該当する。
――したがって、証券市場における通常の売却はできない。
ここまでは、理解できます。
けれど。
次の一文で、私は手を止めました。
――単位未満株式については議決権が認められず、会社として買取りに応じる義務もない。
……ん?
私はもう一度読みました。
――買取りに応じる義務もない。
「これ、会社が送ってきたんですか?」
「はい」
「社長さんの名前で?」
「そうです」
差出人。
東海精工株式会社。
代表取締役社長。
黒岩剛造。
私は眉をひそめました。
「ちなみに、この三百株、今いくらくらいの価値があるんですか?」
「証券会社で聞いたら、一株千二百円くらいだそうです」
私は暗算しました。
三百株。
一株千二百円。
三十六万円。
昭和六十三年。
三十六万円は、決して小さなお金ではありません。
「それで……」
澄江さんは、膝の上で手を握りました。
「娘が、看護学校へ進学することになったんです」
「あ……」
「入学金や教材費が必要で。主人の残した株を使わせてもらおうと思って……」
声が、少し震えました。
「でも、社長さんは売れないって」
私は通知書を見つめました。
千株ないから。
売れない。
会社にも買い取ってもらえない。
つまり。
三十六万円相当の財産があるのに、現金化する出口がない。
そんな話です。
「それは、おかしいです!」
私は思わず立ち上がりました。
「単元未満株式には、買取請求権があります!」
澄江さんが顔を上げました。
「買い取ってもらえるんですか?」
「はい!」
よし。
会社法です。
現代の会社法百九十二条。
単元未満株主は、会社に対して、保有する単元未満株式の買取りを請求できる。
しかも。
この権利は、定款によっても奪えません。
「大丈夫です! 会社法百九十二条に基づいて――」
「こはる」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい?」
「今、何法って言った」
「会社法です!」
「……会社法?」
しまった。
私は固まりました。
またです。
昭和六十三年。
この時代には、独立した会社法が存在しません。
「お前、また妙な法律を作ったのか」
「作ってません!」
「じゃあ、六法のどこに載ってる」
「……未来です」
「は?」
「いえ! 商法です!」
相馬先輩は額を押さえました。
「お前なあ……」
奥で帳簿を見ていた片桐所長が、静かに口を開きました。
「相馬」
「はい」
「昭和五十六年の改正法を持ってこい」
先輩が棚へ向かいました。
私は首をかしげます。
「昭和五十六年?」
「単位株制度だ」
所長が言いました。
「お前の言った単元株とやらは知らん。だが、今の法律にも、単位未満の株主を守る仕組みはある」
私は息を呑みました。
ある。
この時代にも、ちゃんとあるんです。
「こはる」
「はい!」
「未来の条文番号じゃなく、今使える法律を探せ」
「はい!」
こうして。
私たちの、三百株を取り戻す戦いが始まりました。
「まず確認だ」
相馬先輩が机に資料を広げました。
「東海精工は、額面五十円の株式を発行している」
「はい」
「そして、この会社の一単位は千株だ」
私は頷きました。
昭和の単位株制度。
原則として、株式の額面金額の合計が五万円となる株数を、一単位としていました。
額面五十円なら。
五万円を五十円で割る。
千株。
「つまり、この会社では千株で一単位なんですね」
「そうだ」
「三百株だと、一単位に足りない」
「そういうことだ」
私は納得しました。
現代の単元株制度に似ています。
株式を一定数でまとめる。
売買や議決権行使の単位にする。
会社にとっては、多数の小口株主に関する事務負担を減らせる。
「でも先輩」
「何だ」
「それって、少数の株主には不利ですよね」
「ああ」
「議決権もなくなるんですよね」
「単位未満株式には、原則として議決権が認められねえ」
「じゃあ三百株持っていても、社長に文句を言えないんですか?」
「株主総会で議決権を行使することはできねえ。だが、株主じゃなくなるわけじゃねえぞ」
私は、はっとしました。
そこです。
議決権がない。
だからといって。
株式が消滅するわけではありません。
株主としての財産的な利益が、全部なくなるわけでもありません。
配当を受ける権利などは、なお問題になります。
そして。
「……買取請求権!」
私は声を上げました。
片桐所長が頷きました。
「昭和五十六年の商法改正法にある、単位未満株式の買取請求だ」
相馬先輩が条文を指で叩きました。
「商法等の一部を改正する法律。附則第十九条」
私は目を見開きました。
そこには。
株主は、会社に対して、自己の有する単位未満株式を買い取るべきことを請求できる。
そう定められていたのです。
「ある!」
「あるな」
「ちゃんとあるじゃないですか!」
「だから言っただろ」
私は胸が熱くなりました。
会社の事務負担を軽くする。
そのために、株主の権利に一定の制約を設ける。
でも。
会社の都合だけで、株主の財産を閉じ込めてよいわけではない。
制度を作るなら。
そこから抜け出す出口も必要です。
「つまり、澄江さんは……」
私は所長を見ました。
「会社に三百株を買い取るよう請求できるんですね!」
「そうだ。ただし、名義と株数を確認してからだ」
所長は株券を手に取りました。
「相続による取得か」
「はい。主人から相続しました」
「株主名簿の名義は?」
「私に変更されています」
「その資料は?」
「こちらに……」
澄江さんが別の封筒を取り出しました。
株主名簿の記載を確認できる資料。
証券会社から受け取った書面。
夫の相続時に作成した遺産分割協議書の控え。
必要な資料が、順番に並んでいきます。
片桐所長は、一枚ずつ目を通しました。
「よし」
短く言いました。
「まず、権利関係は整理できそうだ」
私は安心しました。
けれど。
相馬先輩が、通知書の最後を指差しました。
「まだ続きがあるぞ」
「え?」
私は読みました。
そこには、小さな文字でこう書かれていました。
――なお、当社代表取締役黒岩剛造は、株主の便宜を図るため、単位未満株式を一株百円にて任意に譲り受ける用意がある。
……。
百円?
私は目を疑いました。
「一株百円!?」
市場での参考価格は、千二百円。
それを。
百円で買う?
三百株なら三万円です。
三十六万円相当のものを。
三万円で取り上げようとしている。
「ちょっと待ってください!」
私は声を上げました。
「これ、買取請求じゃなくて、社長個人への安値売却じゃないですか!」
「そうだ」
相馬先輩の目が細くなりました。
「会社が義務を否定しておきながら、社長個人が安値で買おうとしてやがる」
澄江さんは、うつむきました。
「社長さんは、親切で言っているんだと思いました……」
「違います」
私は思わず言いました。
「少なくとも、この通知書は、法律上の権利を正しく説明していません」
片桐所長が、静かに口を開きました。
「相馬」
「はい」
「まずは会社に、事実確認の書面を出す」
「分かりました」
「こはる」
「はい!」
「相手の言い分を、正確に記録しろ」
私は鉛筆を握りました。
あの社長。
千株という数字を盾にして。
三百株を、紙くず同然に扱っている。
でも。
法律は、そんな簡単に株主を切り捨てないはずです。
翌日。
東海精工株式会社の本社。
私たちは、澄江さん自身が申入れを行うに当たり、事実確認の補助として同行することになりました。
灰色の鉄筋コンクリートの建物。
正面には、大きな会社名。
受付には、立派な観葉植物。
そして。
応接室に現れた男は、いかにも自分が一番偉いと言いたげな顔をしていました。
「黒岩剛造だ」
六十歳前後。
太い眉。
高価そうな背広。
金色の腕時計。
東海精工の代表取締役社長です。
「それで?」
黒岩は、どっかりとソファに座りました。
「三百株の件か」
「はい」
澄江さんが答えました。
「主人が残してくれた株を、会社に買い取っていただけないかと思いまして……」
黒岩は鼻で笑いました。
「だから、千株なきゃ駄目だって言ったろ」
「でも……」
「三百株なんて、売買単位にも満たねえんだ」
私は黙って聞いていました。
黒岩は続けます。
「議決権もねえ。株主総会で票も入れられねえ。そんな半端な株を会社が買い取る義務なんかあるわけねえだろ」
……。
出ました。
自信満々の法律解説。
ただし、間違っています。
「それに」
黒岩は机を指で叩きました。
「俺が一株百円で買ってやるって言ってるんだ。三万円になる。ありがたく思えよ」
澄江さんの肩が震えました。
「主人が、何十年も大事にしていた株なんです」
「だから何だ」
「娘の進学費用に使いたくて……」
「こっちは商売なんだよ!」
黒岩の声が大きくなりました。
「会社ってのは、株主一人ひとりの都合で動くもんじゃねえ!」
私は唇を噛みました。
言い返したい。
ものすごく言い返したい。
でも。
相馬先輩が、私の袖を軽く引きました。
「こはる」
「……はい」
「目的を忘れるな」
そうでした。
私たちは弁護士ではありません。
紛争の代理交渉をするために来たわけではない。
まず必要なのは、会社の主張と資料を正確に確認することです。
澄江さんが、用意してきた申入書を机に置きました。
「私は、法律に基づく買取請求をしたいんです」
黒岩は、その紙をちらりと見ました。
「法律?」
「はい」
「俺に法律を教える気か?」
黒岩は笑いました。
「こっちは発起人七人集めて、取締役も三人そろえて、株式会社を動かしてきたんだぞ」
私は、思わず反応しました。
七人。
三人。
そうです。
昭和六十三年の株式会社。
発起人は七人以上。
取締役は三人以上。
監査役も必要。
現代のように、一人で簡単に株式会社を設立できる時代ではありません。
合同会社だって存在しません。
会社を作ること自体が、今よりずっと大変だったのです。
「俺はな」
黒岩は胸を張りました。
「この会社を大きくしてきたんだ。株主の面倒な要求をいちいち聞いてたら、経営なんかできねえよ」
相馬先輩が、静かに口を開きました。
「会社の経営が大変なのは分かります」
「ほう」
「ですが、株式の財産的な権利まで社長の一存で消せるわけではありません」
黒岩の眉が動きました。
「何?」
「こちらは会社に対する法定の買取請求について、書面で確認しています」
「俺が買わねえと言ったら終わりだ!」
相馬先輩は、それ以上言い争いませんでした。
「会社としての回答は、書面でお願いいたします」
黒岩は舌打ちしました。
「好きにしろ」
そして、立ち上がりました。
「どうせ三百株じゃ何もできねえよ」
扉が閉まりました。
私は拳を握りました。
「先輩……!」
「ああ」
「腹が立ちます!」
「俺もだ」
「だったら!」
「書類だ」
相馬先輩は短く言いました。
「社長の大声じゃ、法律は変わらねえ」
私は顔を上げました。
「事務所に戻るぞ」
「はい!」
そうです。
黒岩社長が何を言おうと。
法律上の買取請求権が消えるわけではないのです。
事務所へ戻ると、片桐所長が待っていました。
「どうだった」
「最悪です!」
私は答えました。
「千株なきゃ株主扱いしないって!」
「そうか」
「会社には買取義務がないって!」
「うん」
「しかも、一株百円で社長個人に売れって!」
所長は黙って聞いています。
それから。
「通知書を見せろ」
私は机に置きました。
片桐所長は、しばらく文字を追っていました。
そして、赤鉛筆を取りました。
「こはる」
「はい」
「ここだ」
所長が指差したのは、黒岩社長の通知書の一文でした。
――単位未満株式については、会社として買取りに応じる義務もない。
「この一行が間違っている」
「はい!」
「ただし、会社が好きな金額で買い取ればよいわけでもない」
所長は六法と改正法の資料を開きました。
「上場株式についての買取価格の定めを確認しろ」
「はい」
私は条文を追いました。
昭和五十六年の改正法附則第十九条。
単位未満株式の買取請求。
そして、その価格についての規定。
「……あ!」
私は声を上げました。
「証券取引所に上場されている株式なら、市場価格を基準に決めるんですね!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「社長が気分で百円に決める話じゃねえ」
その日の終値。
取引がなければ、その後最初に成立した取引の価格。
法定の仕組みに従って、買取価格が定まります。
市場で一株千二百円ほどの株式を。
社長の個人的な都合で、一株百円にする。
そんな理屈は通りません。
もっとも、実際の請求日や市場価格、所定の手数料については確認が必要です。
「所長」
「何だ」
「今回、会社の定款には何が書いてあるんですか?」
所長は、取り寄せた定款の写しを机に置きました。
「見てみろ」
私は読みました。
商号。
目的。
本店所在地。
発行する株式に関する事項。
そこには、当時の商法に基づく会社の基本的な決まりが並んでいました。
でも。
「……あれ?」
「どうした」
「私、百株とか千株とか、単元株数が定款に書かれていると思っていました」
相馬先輩が首をかしげました。
「単元株?」
「あっ」
しまった。
また未来の制度です。
「い、いえ! 単位株です!」
片桐所長が言いました。
「この時代の単位株制度は、後の制度とは仕組みが違う。法律上の基準も確認しなければならん」
「はい……」
私は額を押さえました。
現代では、会社法百八十八条。
一単元の株式数は、定款で定める。
定款変更には、原則として株主総会の特別決議が必要。
そう覚えています。
でも。
昭和六十三年の単位株制度を、現代の条文どおりに説明してはいけません。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「今ある制度を使え」
「はい」
「ない制度を持ち込むな」
「はい……」
私は小さく頷きました。
けれど。
今回の問題を解くために必要なことは、もう見えています。
澄江さんには三百株がある。
株主名簿上の地位も確認できる。
単位未満株式に該当する。
そして。
法律上の買取請求権がある。
ここまで確認できれば。
あとは、本人の意思を正確に書面にするだけです。
「でも、所長」
私は鉛筆を止めました。
「一つ、気になることがあります」
「何だ」
「三百株しかないなら、逆に七百株を買い足せばいいんじゃないですか?」
相馬先輩がこちらを見ました。
「七百株?」
「はい!」
私は紙に大きく書きました。
三百株。
足りないのは七百株。
合わせて千株。
「これなら一単位になります!」
「だから?」
「会社に七百株を売ってくださいって請求すれば、議決権のある株主になれるじゃないですか!」
よし。
現代の会社法百九十四条。
単元未満株式の売渡請求。
いわゆる買増請求です。
定款に定めがあれば、単元株に達するまでの不足分について、会社に売渡しを請求できる。
「それなら澄江さんは、株を売るか、買い増すか選べます!」
私は得意になって言いました。
ところが。
相馬先輩は無言でした。
片桐所長も、こちらを見ています。
……。
嫌な予感。
「こはる」
「はい」
「その請求権は、どこに書いてある」
「会社法百九十四条です!」
「だから、その会社法はどこにある」
……。
私は固まりました。
またやりました。
昭和六十三年に、現代の制度を持ち込んでしまいました。
「先輩……」
「何だ」
「未来では、そういう制度があるんです」
「未来?」
「いえ、夢で見た法律です!」
「お前の夢は、どれだけ条文が細かいんだよ!」
相馬先輩が呆れました。
片桐所長は、静かに言いました。
「今の単位株制度について、法定の買取請求と同じような買増請求権があると考えてはいかん」
「はい……」
「株式を買い足す方法がないとは言わん。だが、会社に不足分を売るよう当然に請求できるかは、別の問題だ」
「分かりました」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
単位未満株式の買取請求制度は存在する。
ただし。
現代の会社法百九十四条に基づく売渡請求を、そのまま使うことはできない。
そしてもう一つ。
現代でも。
売渡請求は、定款に定めがある場合に限られます。
買取請求とは、扱いが違うのです。
「所長」
「何だ」
「じゃあ、今回の澄江さんには、まず買取請求ですね」
「そうだ」
「七百株を買い足すお金も必要になりますし」
「うん」
「娘さんの進学費用を作るために、株を現金化したいんですから」
所長が頷きました。
「そのとおりだ」
法律上できること。
相談者が本当に望んでいること。
この二つは、必ずしも同じではありません。
知っている制度を全部使えばいい、というわけではないんですね。
今回、澄江さんが必要としているのは。
株を増やすことではなく。
夫が残した株を、適正な価格で現金に換えることです。
「さて」
相馬先輩が原稿用紙を置きました。
「内容証明だ」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
差出人。
小野寺澄江。
宛先。
東海精工株式会社。
代表取締役黒岩剛造。
そして。
私は書き始めました。
――単位未満株式買取請求通知書。
第一。
通知人は、貴社の株式三百株を適法に取得し、保有している。
第二。
貴社株式の一単位は千株であり、通知人の保有株式三百株は、単位未満株式に該当する。
第三。
商法等の一部を改正する法律附則第十九条により、通知人は、貴社に対して、右三百株の買取りを請求する。
第四。
買取価格については、同条所定の市場価格に基づく取扱いを求める。
第五。
貴社代表取締役から提示された一株百円での個人的な譲渡申入れについては、通知人は承諾しない。
第六。
本件買取請求について、貴社における必要な手続及び窓口を、書面で明らかにされたい。
私は読み終えました。
「どうでしょう!」
相馬先輩が原稿を取りました。
片桐所長も、目を通します。
そして。
「こはる」
「はい」
「最後に、余計な一文がある」
「え?」
所長が指差しました。
私は、そこにこう書いていました。
――応じない場合には、直ちに貴社の全財産を差し押さえる。
「……あ」
赤鉛筆が入りました。
「差押えは、内容証明を送れば直ちにできるものではない」
「はい……」
「強制執行には、別の法律上の手続が必要だ」
「そうでした」
私は慌てて消しました。
片桐所長は言いました。
「強い言葉はいらん」
「はい」
「請求権の根拠を示せ」
「はい」
「相手の誤りを、正確に指摘しろ」
「はい!」
所長は、最後の部分を修正しました。
――なお、貴社が法定の買取請求を拒絶し、又は不当に妨げる場合には、通知人は弁護士への相談その他の適切な法的措置を検討する。
私は、その一文を見つめました。
静かです。
怒鳴っていません。
脅してもいません。
けれど。
逃げる余地がありません。
会社は、三百株が単位未満株式であることを認めています。
澄江さんの所有も確認できます。
そして、法律は買取請求を認めています。
相手が何を言おうと。
その事実は変わらないのです。
「所長」
「何だ」
「内容証明って、怖いですね」
「そうか」
「だって、相手が大声で否定しても、法律の根拠が残ります」
所長は静かに答えました。
「大声は、証拠にならん」
私は頷きました。
なるほど。
社長の声量ではなく。
条文と事実。
それが、勝負を決めるのです。
内容証明郵便を発送して、三日後。
東海精工から、事務所に電話が入りました。
「片桐行政書士事務所でしょうか」
電話口は、若い男性の声でした。
「はい」
「東海精工の総務部、長谷川と申します」
私は少し緊張しました。
「黒岩社長の件ですね」
「はい。小野寺様の買取請求についてです」
声が、妙に慎重です。
「当社の顧問弁護士に確認したところ……」
私は受話器を握り直しました。
「……附則第十九条の買取請求権があることを確認しました」
来ました。
「つきましては、当社から小野寺様に必要な手続を案内したいのですが」
私は相馬先輩を見ました。
先輩が頷きます。
「承知しました。ご本人に連絡していただくようお伝えします」
「お願いいたします」
そして。
長谷川さんは、声を小さくしました。
「実は……」
「はい?」
「社長が、かなり慌てておりまして」
「……え?」
「顧問弁護士から、会社には法定の買取請求に応じる必要があると説明されまして……」
なるほど。
法律の専門家に、同じことを言われたわけです。
「それに」
長谷川さんは続けました。
「社長個人が一株百円で買うという通知も、問題になっております」
私は息を呑みました。
「どういうことでしょう」
「法定の買取請求権がないかのように説明して、そのうえで社長個人への安値売却を勧めていましたので……」
そこまで言って、長谷川さんは言葉を濁しました。
「顧問弁護士から、すぐに訂正するよう指摘されたそうです」
私は、静かに受話器を置きました。
「先輩!」
「聞こえてた」
「会社が、買取請求を認めました!」
「ああ」
「やりましたね!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「まだだ」
「え?」
「株の買取手続が終わって、代金が支払われるまでが仕事だ」
そうでした。
内容証明を送っただけで、お金が手に入るわけではありません。
法定の手続。
価格の確定。
株式の処理。
そして、代金の支払。
そこまで確認して、初めて一段落です。
「それにしても……」
私は呟きました。
「社長さん、あんなに偉そうだったのに」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
「はい」
「商法のルールを守らなきゃ、会社は動かせねえんだよ」
私は、その言葉を胸に刻みました。
それから一週間ほどして。
黒岩社長本人から、澄江さんに書面が届きました。
そこには、会社として正式な買取手続を案内すること。
先の通知に誤りがあったこと。
そして。
社長個人への一株百円での譲渡申入れを撤回すること。
それらが記されていました。
私は書面を読んで、思わず笑顔になりました。
「白旗ですね!」
相馬先輩が言いました。
「まだ完全には終わってねえぞ」
「分かってます!」
「本当か?」
「今回は、最後まで確認します!」
その後、澄江さんは会社の案内に従って正式な買取請求の手続を進めました。
手続上必要な確認も終わり。
市場価格に基づく買取代金が支払われました。
三百株。
一株当たりの基準価格は、約千二百円。
所定の費用を差し引いても、三十万円を大きく超えるお金が手元に残りました。
社長が提示した三万円とは、大違いです。
数日後。
澄江さんが、娘さんを連れて事務所を訪れました。
「本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げます。
「おかげさまで、娘の入学に必要なお金を用意できました」
隣には、十八歳くらいの女の子。
少し緊張した様子で、頭を下げました。
「ありがとうございました」
私は笑いました。
「看護学校に行かれるんですよね」
「はい!」
娘さんは、嬉しそうに頷きました。
「お父さんが、ずっと応援してくれていたので」
その言葉に、澄江さんの目が潤みました。
「主人はね」
小さく言いました。
「会社に勤めていた頃、自分の会社が大好きだったんです」
私は黙って聞きました。
「毎月のお給料から、少しずつ株を買って……」
澄江さんは笑いました。
「自分も、この会社を支える一人なんだって」
私は胸が熱くなりました。
三百株。
黒岩社長にとっては、半端な数字だったのでしょう。
千株にも満たない。
議決権もない。
会社に影響を与えるほどの力もない。
だから、軽く扱ってよいと思った。
でも。
その三百株には。
一人の労働者が、何十年も働いてきた歴史がありました。
家族を養い。
家を建て。
子供を育て。
そのうえで、少しずつ残した財産だったのです。
「主人も、喜んでいると思います」
澄江さんが言いました。
「自分の残したものが、娘のために役立ったんですから」
娘さんは、少し照れくさそうに笑いました。
「私、ちゃんと看護師になります」
私は頷きました。
「応援しています!」
二人が帰ったあと。
事務所には、静かな空気が残りました。
「先輩」
「何だ」
「千株って、ずいぶん大きな壁ですね」
「ああ」
「三百株しか持っていない人には、議決権がない」
「そうだ」
「市場でも、普通の売買単位では売れない」
「うん」
「でも、買取請求という出口がある」
相馬先輩は頷きました。
「会社の都合だけで、小口株主の財産を閉じ込めるわけにはいかねえからな」
私は、机の上の株券の控えを見ました。
株式。
たった一枚の紙。
いえ。
そこに記されているのは、数字だけではありません。
財産です。
人が働いて得たお金。
将来のために残したもの。
家族へ引き継いだもの。
そういうものです。
「所長」
「何だ」
「今日、ちょっと分かりました」
「何がだ」
「株主の権利って、議決権だけじゃないんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「会社の経営に参加する権利も大事ですけど、投資した財産を守る権利も大事なんですね」
「ああ」
私は続けました。
「だから、単位未満株式に議決権がなくても、買取請求という仕組みが用意されている」
所長は短く言いました。
「会社の便宜と、株主の保護。その両方を見ろ」
私は頷きました。
現代の単元株制度でも、根底にある問題は似ています。
会社は、多数の株主を管理しなければならない。
その負担を減らす必要がある。
でも。
小口株主にも、財産を守る権利がある。
だから、現代には。
単元未満株式の買取請求。
そして、定款に定めがある場合の売渡請求。
そういう制度が置かれているのです。
もちろん。
昭和六十三年に、未来の会社法を使うことはできません。
それでも。
昔の単位株制度と、後の単元株制度を比べると。
法律がどんな問題と向き合ってきたのか、見えてくる気がしました。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「さっき、お前は七百株買い足せばいいって言ってたな」
「はい!」
「買い足すとしたら、いくら必要だった?」
「え?」
私は考えました。
七百株。
一株千二百円とすると。
八十四万円。
……。
「八十四万円!?」
私は思わず叫びました。
「澄江さん、娘さんの入学金が必要なのに!」
「そうだな」
「そんなお金があったら、わざわざ株を売ろうとしませんよ!」
「そういうことだ」
相馬先輩が笑いました。
「法律上の制度を知ってるだけじゃ足りねえんだよ」
「はい……」
「相談者が何に困ってるのか、ちゃんと見ろ」
私は深く頷きました。
確かに。
現代の制度でも、買増請求は定款に定めがある場合に限られます。
そして、仮に利用できたとしても。
追加で株を買うためのお金が必要です。
今、現金が欲しい人に。
「株を買い増せばいいですよ!」
と言ったところで、解決になりません。
法律の知識と、実際の救済は違う。
それを、今日も思い知らされました。
「先輩」
「何だ」
「私、まだまだですね」
「そうだな」
「そこは否定してくださいよ!」
「事実だろ」
「ひどい!」
相馬先輩は笑いました。
片桐所長も、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「だが、最初に買取請求に気づいたのはよかった」
私は顔を上げました。
「本当ですか!」
「ああ」
所長は静かに言いました。
「依頼人が失ったと思っている権利を、法律の中から見つける。それが書類を作る前の仕事だ」
私は、その言葉を何度も心の中で繰り返しました。
権利を見つける。
事実を確かめる。
書類にする。
そうして初めて。
誰かの財産を守れるのです。
夕方。
窓の外では、工場の終業を知らせるサイレンが鳴っていました。
私はノートを開きました。
――昭和六十三年。
単位株制度。
単位未満株式。
買取請求権。
そして。
現代の単元株制度との違い。
覚えなければならないことが、また増えました。
でも。
不思議と嫌ではありません。
千株。
その数字を見るたびに。
私は、きっと澄江さんを思い出すでしょう。
三百株を握りしめて、事務所に来た女性。
亡くなった夫の財産を、娘の未来につなげようとした母親。
そして。
「千株なければ売れない」
という言葉で、その財産を奪おうとした社長。
会社の効率は、大切です。
経営の自由も、大切です。
でも。
それを理由に、小さな株主の財産を踏みにじってよいはずがない。
私は鉛筆を握りました。
今日の教訓。
――売買単位に満たない株式も財産。議決権がなくても、株主を守る出口はある。
「……よし!」
私はノートを閉じました。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「また始まった」
「だって、千株ないと売れないのに、買取請求はできるんですよ!」
「そうだな」
「会社の都合を認めつつ、株主の財産も守ってるんですよ!」
「ああ」
「しかも現代では、定款に定めがあれば、足りない株を買い増す制度まであるんです!」
「……また未来の話か?」
「あっ」
私は口を押さえました。
相馬先輩がため息をつきます。
「お前なあ」
「はい……」
「昭和六十三年の法律で仕事しろって、何回言わせるんだ」
「すみません!」
片桐所長が、奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「明日は、古い株式会社の設立書類を整理してもらう」
「設立書類ですか?」
「そうだ」
「発起人七人、取締役三人、監査役一人の時代ですね!」
相馬先輩が笑いました。
「珍しく覚えてるじゃねえか」
「もちろんです!」
私は胸を張りました。
「現代なら発起人一人、取締役一人で株式会社を作れるんですけどね!」
「だから未来の話をするな!」
また怒られました。
でも。
私は、ちょっとだけ嬉しくなりました。
昔の商法。
今の会社法。
制度は違う。
名前も違う。
条文番号も違う。
それでも。
会社の都合だけでは、奪えない権利がある。
その考え方は、時代を超えてつながっています。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日、私が守るお手伝いをしたのは。
たった三百株。
けれど。
その三百株は。
一人の父親が娘に残した、かけがえのない未来だったのです。
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