[会社法・自己株式の消却、株式併合、株式分割、株式無償割当て]現場編 「十株を一株にすれば、お前は株主失格だ」の罠。少数株主を消そうとした社長と、消せなかった一枚の株券
紙を十枚重ねても、持ち主の権利が十分の一になるわけではありません。
けれど。
会社の世界には、本当に十株を一株にまとめる仕組みがあります。
株式併合。
反対に、一株を十株に増やす仕組みもあります。
株式分割。
さらに。
会社が持っている自分の株式を消してしまう、自己株式の消却。
株主に新しい株式を無償で与える、株式無償割当て。
どれも、現代の会社法ではおなじみの制度です。
しかし。
これらの仕組みを、社長が気に入らない株主を追い出す道具に使おうとしたら。
どうなるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一枚の株券を握りしめた女性から、恐ろしい言葉を聞くことになります。
「社長に言われたんです。十株を一株にまとめるから、お前の五株は消えるって」
……え?
株が、消える?
しかも。
社長の一存で?
待ってください。
それは、いくら何でも乱暴すぎませんか。
「亡くなった主人が、会社を作ったときから持っていた株なんです」
午前九時。
事務所を訪れた女性は、膝の上に古い封筒を置きました。
名前は、小野寺澄江さん。
四十八歳。
夫を三年前に亡くし、現在は小さな仕出し弁当店を営んでいます。
封筒の中から出てきたのは、少し黄ばんだ紙。
中央に大きく、
――東海精機株式会社。
と印刷されています。
株券でした。
「これが、主人の形見なんです」
私は慎重に受け取りました。
株数。
五株。
名義人。
小野寺修一。
澄江さんの亡くなったご主人です。
「主人は、あの会社の創業に関わっていたんです」
「創業者だったんですか?」
「ええ。社長と一緒に、町工場から始めました」
東海精機株式会社。
自動車部品の加工を行う、小さな株式会社。
従業員は二十七人。
町では、それなりに知られた会社でした。
創業当時。
澄江さんの夫、修一さんは旋盤工として働きながら、わずかな貯金を会社に出資したそうです。
「主人は言っていました。いつかこの会社を大きくして、働く人たちが安心して暮らせる工場にしたいって」
澄江さんは微笑みました。
「でも、病気で亡くなってしまって」
「……そうだったんですね」
「それからは、私が株を相続しました」
私は確認しました。
「株主名簿の名義変更は?」
「済ませました。会社からも、そのとき確認の手紙が届いています」
相馬先輩が顔を上げました。
「その書類、ありますか」
「はい」
澄江さんは、別の封筒から一枚の通知を取り出しました。
――株主名簿名義書換完了通知。
なるほど。
五株。
確かに、澄江さんが株主として登録されています。
「それで、今回何があったんですか?」
私が尋ねると。
澄江さんの表情が曇りました。
「昨日、社長に呼び出されたんです」
「社長に?」
「はい。会社の株式を整理するから、私の株もなくなると言われて……」
「整理?」
私は首をかしげました。
「社長は、何と?」
澄江さんは、震える手でもう一枚の紙を取り出しました。
そこには。
――株式併合及び株式整理のお知らせ。
と書かれていました。
そして。
その下の一文を読んで、私は固まりました。
――当社は、株式十株を一株とする併合を実施する。
――十株未満の株主については、併合後に一株に満たない端数となるため、株主資格を喪失する。
――なお、端数については会社が無償で消却する。
……。
無償で。
消却。
「は?」
思わず声が出ました。
相馬先輩がこちらを見ます。
「どうした」
「先輩。これ、すごいこと書いてあります」
「どれ」
先輩は紙を受け取りました。
読みます。
そして。
「……馬鹿か、こいつ」
低く呟きました。
ええ。
私も同感です。
「澄江さん、確認させてください」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「この株式併合について、株主総会の案内は届きましたか」
「いいえ」
「株主総会で賛成した覚えは?」
「ありません」
「会社から、手続について説明を受けたことは?」
「昨日、社長に言われただけです」
「なるほど」
相馬先輩は通知を机に置きました。
「社長の名前は?」
「黒岩剛三です」
黒岩剛三。
五十九歳。
東海精機の代表取締役社長。
創業時から会社を取り仕切る、典型的なワンマン経営者だそうです。
「黒岩社長は、こう言いました」
澄江さんの声が震えました。
「五株程度の小株主なんか、会社には必要ないって」
私は眉をひそめました。
「そんな……」
「株式併合をすれば、十株が一株になる。だから私の五株は一株にもならない。そうなったら株主じゃなくなるんだ、と」
「……」
「主人が何十年も持っていた株なのに、紙くずになるって」
澄江さんは、株券を見つめました。
「それだけじゃありません」
「まだあるんですか?」
「主人が会社に貸していたお金も、もう返さないと」
「え?」
私は顔を上げました。
借金?
「主人は昔、会社の機械を買うために百万円を貸していたんです」
「借用書は?」
「あります」
「返済は?」
「まだです」
相馬先輩が眉を寄せました。
「株式と貸付金は別の問題ですよ」
「私もそう言ったんです」
澄江さんは唇を噛みました。
「でも社長は、株がなくなるんだから、会社との関係も全部終わりだって」
……。
私は思いました。
この社長。
株式併合を、何かの魔法だと思っていませんか?
十株を一株にする。
それだけで。
気に入らない株主を追い出し。
過去の借金まで消せる。
そんな都合のよい仕組みが、本当にあるのでしょうか。
「所長!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「これは会社法違反です!」
その瞬間。
事務所が静かになりました。
……あ。
しまった。
相馬先輩が、ゆっくりこちらを見ました。
「何法?」
「……会社法です」
「何だ、その法律は」
「ええと」
「商法だろ」
「ですよね!」
「お前、またか」
そうでした。
昭和六十三年。
会社法は、まだ存在しません。
株式会社のルールは商法第二編。
有限会社については有限会社法。
現代のように、会社に関する制度が一つの法律として整理されていない時代です。
私は心の中で頭を抱えました。
また未来の法律を口走ってしまいました。
「と、とにかく!」
私は誤魔化しました。
「株式併合は、社長が勝手に決めていいものではありません!」
「そりゃそうだ」
「しかも、端数を無償で消却するなんて!」
そこで、相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「今回の問題は、それだけじゃねえ」
「え?」
「昭和の商法では、株式併合そのものにも、今より厳しい制約がある」
……。
私は止まりました。
そうか。
現代の会社法では、株式併合のための株主総会特別決議という制度がある。
だから私は、まず決議の有無を考えた。
でも。
ここは昭和六十三年。
株式併合を、単に株主管理を楽にするというだけで自由に行える制度ではありません。
「今の商法を開け」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私は六法を開きました。
商法第二編。
株式会社。
株式。
そこに並んでいる、古めかしい条文。
現代の会社法とは、構成も用語も違います。
そして。
株式併合に関する規定を確認した私は、小さく声を上げました。
「あ……」
「気づいたか」
「今回の社長、手続だけじゃなくて、株式併合をする前提から問題がありますね」
「そういうことだ」
片桐所長が、初めて口を開きました。
「こはる」
「はい」
「社長が『株を消す』と言ったからといって、本当に消えるのか」
「……消えません」
「なら、何を調べる」
私は通知書を見ました。
株式併合。
端数。
無償消却。
そして、株主資格の喪失。
「定款と、株主総会の議事録です」
所長が頷きました。
「それから、株主名簿と株式の異動記録だ」
「はい!」
「まず、会社が何をしたつもりなのかを確かめろ」
なるほど。
相手が勝手な理屈で株主を追い出そうとしている。
だからこそ。
実際に何を決議し、どんな書類を残したのか。
そこを見なければなりません。
私たちの仕事は、社長の大声に大声で対抗することではない。
書類から、社長の嘘を見つけることなのです。
翌日。
澄江さんは、会社から渡されていた資料を持って再び事務所を訪れました。
古い定款の写し。
株主総会議事録の写し。
株式の整理に関する社内通知。
そして。
一枚の取締役会議事録。
「これ、会社で経理をしている方が、社長から配られた資料の中にあったものを見せてくれたんです」
相馬先輩が受け取りました。
「確認しますね」
議事録の題名。
――臨時取締役会議事録。
議題。
第一号議案。
株式併合に関する件。
第二号議案。
少数株主の株式消却に関する件。
第三号議案。
株式分割及び新株式無償交付に関する件。
私は目を丸くしました。
「……全部入りですか」
「何がだ」
「株式の整理、全部入りです」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「欲張りな社長だな」
私は議事録を読み進めました。
第一号議案。
――当社株式について十株を一株に併合することを決定した。
第二号議案。
――併合後に一株に満たない株式については、会社が自己株式として取得したものとみなし、消却する。
第三号議案。
――株式整理完了後、必要に応じて株式の分割及び役員に対する新株式の無償交付を実施する。
……。
私は紙を置きました。
「先輩」
「何だ」
「これ、社長に都合のいいことしか書いてありません」
「そうだな」
「少数株主の株は消す。でも、そのあと役員には新しい株を配る?」
意味が分かりません。
いえ。
意味は分かります。
分かるからこそ、腹が立つのです。
少数株主を追い出す。
そのあと。
自分たちに都合よく株式を増やす。
会社を完全に支配する。
そういう計画なのでしょう。
「所長!」
私は振り向きました。
「これ、会社乗っ取りですよ!」
片桐所長は議事録を受け取りました。
黙って読みます。
一枚目。
二枚目。
そして。
ある一行で、指を止めました。
「相馬」
「はい」
「ここだ」
所長が指差したのは、第二号議案。
――会社が自己株式として取得したものとみなし、消却する。
その一文でした。
「……ああ」
相馬先輩が低く笑いました。
「自分で墓穴を掘ってますね」
「え?」
私は二人を見ました。
「どういうことですか?」
所長が私に尋ねました。
「こはる。自己株式とは何だ」
「会社が保有している、自社の株式です」
「そうだ」
「現代では、会社が保有する自己株式を、所定の決議で消却できます」
「では」
所長が続けます。
「澄江さんの五株は、誰のものだ」
「澄江さんのものです」
「会社のものか」
「違います」
「なのに、なぜ自己株式と書いてある」
……。
あ。
私は、もう一度議事録を見ました。
――自己株式として取得したものとみなし。
取得したものとみなし。
みなし。
「……勝手に?」
「そうだ」
所長が言いました。
「会社が持っていない株を、紙の上で勝手に会社のものにしている」
私は息を呑みました。
「それで消却しようとしたんですか!」
「そういう書き方だ」
相馬先輩が続けました。
「しかも昭和六十三年の商法じゃ、自己株式の取得は原則禁止だ。例外的に認められる場合にも、厳しい条件がある」
「はい」
「現在のように、会社が自己株式を保有して、取締役会決議で気軽に消却する制度をそのまま持ち込める時代じゃねえ」
私は頷きました。
現代の会社法。
自己株式の消却。
会社法第百七十八条。
取締役会設置会社なら、取締役会の決議で消却する自己株式の数を決める。
そう覚えていました。
けれど。
それは、現代の話。
昭和六十三年には、自己株式取得の自由そのものが大きく制限されています。
しかも。
いずれの時代でも。
他人の持っている株式を、社長が勝手に自己株式扱いして消却できるわけではありません。
「所長」
「何だ」
「社長は、株式併合と自己株式の消却を、ごちゃ混ぜにしているんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「言葉を混ぜれば、権利を消せると思っている」
……なるほど。
十株を一株にまとめる。
それによって生じる端数の問題と。
会社自身の保有する株式を消却する問題。
両者は、同じではありません。
そこを混同させて。
澄江さんの五株を、何も支払わずに消そうとした。
「相馬」
所長が言いました。
「社長に書面で資料の説明を求める準備をしろ」
「はい」
「こはる」
「はい!」
「澄江さんの株主としての地位と、貸付金の資料を分けて整理しろ」
「分かりました!」
私は、二つの封筒を机に並べました。
株式関係。
貸付金関係。
株主であることと。
会社にお金を貸していること。
それは、まったく別の法律関係です。
株がどうなろうと。
借金が勝手に消えるわけではありません。
三日後。
黒岩社長から、事務所に電話が入りました。
『行政書士ごときが、うちの会社に何の用だ!』
受話器から怒鳴り声が響きました。
私は反射的に耳を離しました。
……うわ。
声が大きい。
『株式併合は経営判断だ! 部外者が口を挟むな!』
相馬先輩が受話器を取りました。
「片桐事務所の相馬です」
『お前か!』
「弊所では、小野寺澄江様から、ご本人名義の通知書作成について依頼を受けています」
『弁護士でもないくせに!』
「当事者の代理人として交渉する立場ではありません。会社から送られた書類について、ご本人が説明を求めておられるのです」
『だったら直接来い!』
相馬先輩は所長を見ました。
所長が短く頷きます。
「事情の確認であれば、資料を拝見します」
『来れば分かる! 俺が直接教えてやる!』
がちゃん。
電話が切れました。
……。
相馬先輩は受話器を置きました。
「面倒くせえ社長だな」
「先輩、大丈夫ですか?」
「何がだ」
「すごく怒ってましたけど」
「怒鳴れば法律が変わるなら、毎日怒鳴ってりゃいい」
……。
それはそうですね。
翌日。
私たちは東海精機を訪れました。
工場の奥にある社長室。
壁には大きな達磨。
ガラスケースにはゴルフの優勝カップ。
そして。
革張りの椅子に座っていたのが、黒岩剛三でした。
大柄な男です。
太い指には金色の指輪。
灰皿には、吸い殻が山になっています。
「お前らが行政書士か」
黒岩社長は、私たちを見下ろしました。
「はい。片桐事務所の相馬です」
「で?」
社長は腕を組みました。
「株の件か?」
「まず、いただいた資料の内容について確認したいと思います」
「何を確認する必要がある」
黒岩は鼻で笑いました。
「俺が会社を作ったんだ。株をどうするかも、俺が決める」
……。
出ました。
俺が法律だ。
というタイプの社長です。
「うちは小さな会社だ。株主なんぞ、少ない方がいい」
「そうですね。株主管理の負担という問題はあります」
私が言うと、黒岩は得意そうに頷きました。
「そうだろう!」
「ただし、方法には法律上の制約があります」
「何?」
「株式併合は、社長が宣言すれば自由にできるものではありません」
黒岩の眉が動きました。
「十株を一株にするだけだぞ」
「はい」
「だったら、五株しか持ってない奴はどうなる?」
「仮に適法な十株を一株とする併合が実施されれば、五株は一株未満の端数になります」
「ほら見ろ!」
社長は机を叩きました。
「だから株主じゃなくなるんだ!」
「でも」
私は言いました。
「端数になったからといって、財産的価値を無視していいわけではありません」
「はあ?」
「まして、昭和六十三年の商法では、そもそも株式併合を行える場合が限られています」
黒岩が黙りました。
「それに」
私は続けました。
「株式の整理に伴う端数の処理と、自己株式の消却は別の話です」
「同じようなもんだろ」
「違います」
私ははっきり言いました。
「株式併合は、複数の株式を少ない数にまとめる仕組みです」
「だから?」
「自己株式の消却は、会社が適法に取得した自己株式などについて、法律の定める手続で株式を消滅させるものです」
「……」
「小野寺さんの株式は、小野寺さんのものです」
黒岩は顔をしかめました。
「そんなもん、会社が回収すればいい」
「回収するための法律上の根拠と手続は、どこにあるんですか?」
「俺が決めた!」
社長室に怒鳴り声が響きました。
「この会社じゃ、俺の言うことが法律なんだよ!」
……。
私は、思わず言い返しそうになりました。
けれど。
相馬先輩が手を上げました。
「こはる」
「……はい」
「確認は終わりだ」
先輩は、静かに言いました。
「社長。いただいた資料と、本日のお話は、書類作成にあたっての参考にさせていただきます」
「何?」
「それでは」
私たちは席を立ちました。
黒岩社長は最後まで笑っていました。
「せいぜい紙でも書いてろ! 株はもう消すって決めたんだ!」
社長室の扉が閉まります。
私は廊下で立ち止まりました。
「先輩!」
「何だ」
「あの社長、ひどすぎます!」
「そうだな」
「絶対に分かってませんよ!」
「分かってねえだろうな」
「じゃあ、どうするんですか!」
相馬先輩は、鞄を持ち直しました。
「紙を書くんだよ」
「……紙?」
「あいつが馬鹿にした、紙だ」
そう言って。
先輩は、にやりと笑いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ。商法を守った奴が勝つんだよ」
事務所へ戻ると。
片桐所長が、静かに机を片付けていました。
「どうだった」
「黒岩社長は、株式併合を自分の判断で実施できると考えています」
相馬先輩が報告しました。
「自己株式の消却についても、株主の持ち株を勝手に回収できると思っているようです」
「そうか」
所長は頷きました。
「こはる」
「はい」
「株式併合と株式分割の違いを言ってみろ」
「はい!」
私は紙に丸を十個描きました。
○○○○○○○○○○
「十株あります」
「うん」
「十株を一株にまとめるのが、株式併合です」
私は、十個の丸から一本の矢印を引きました。
○○○○○○○○○○
↓
○
「反対に、一株を十株に増やすのが株式分割です」
○
↓
○○○○○○○○○○
「株式分割の場合、元の一株が十株になっても、それだけで会社の価値が十倍になるわけではありません」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
「たとえば、一株百万円の株式を百株に分割すれば、理屈の上では一株一万円相当になります」
「うん」
「百万円分の持分が、百万円分のまま細かくなるんです」
「そうだ」
「でも、株式併合では、一株に満たない端数が生じる場合があります」
私は、五つの丸を描きました。
○○○○○
↓
〇・五株相当
「十株を一株にまとめた場合、五株しか持っていない人は、〇・五株に相当する端数になります」
「うん」
「だから、少数株主の地位に大きな影響が生じる可能性があります」
所長が言いました。
「では、昭和六十三年に、十株を一株にしたいというだけで自由に併合できるか」
「……いいえ」
私は六法を見ました。
「当時の商法では、資本の減少など、法律が認める場合との関係で考えなければなりません」
「そうだ」
「現在の会社法では、株主総会の特別決議を基本とする株式併合の制度が整備されていますが……」
「今は昭和六十三年だ」
「はい!」
また未来に引っ張られました。
「ところで」
相馬先輩が別の資料を持ってきました。
「黒岩の第三号議案も問題だな」
――株式分割及び新株式無償交付。
私は頷きました。
「社長は、少数株主の株式を消したあと、役員に新しい株を配るつもりなんですよね」
「ああ」
「でも、既存の株式を分割することと、新しい株式を発行して割り当てることは、別ですよね」
「そこだ」
私は思い出しました。
現代の会社法には、株式無償割当てという制度があります。
既存株主に、払込みをさせずに株式を割り当てる仕組みです。
株式分割とは異なり、種類株式の仕組みがある場合には、保有している株式と異なる種類の株式を割り当てることもできます。
それに。
自己株式に対する扱いも違います。
株式分割では、会社が保有する自己株式も分割の対象になります。
一方、株式無償割当てでは、自己株式に割当てはできません。
ただし。
これは現代の会社法の整理。
昭和六十三年には、現在の株式無償割当てと同じ制度が、そのまま存在するわけではありません。
当時は、準備金の資本組入れに伴う無償交付など、旧商法の別の仕組みで考える必要があります。
「……所長」
「何だ」
「黒岩社長は、四つの制度を一つの便利な道具だと思っているんですね」
「そうだ」
「株式併合で少数株主を消す」
「うん」
「自己株式の消却という言葉で、その株を無償でなくす」
「うん」
「そのあと、株式分割や無償交付という言葉を使って、自分たちの支配を固める」
「そうだ」
所長は静かに言いました。
「制度には、それぞれ目的と条件がある」
「はい」
「それを無視して、言葉だけ都合よく組み合わせても、法律上の効果は生じない」
私は、頷きました。
株式。
たった一文字で表されることもある、会社への出資者の権利。
それを。
社長の好き嫌いで消していいはずがありません。
午後。
私たちは、澄江さんに事情を説明しました。
「では……」
澄江さんが不安そうに尋ねます。
「主人の株は、まだ残っているんでしょうか」
「少なくとも、会社からいただいた資料だけでは、適法に消滅したとは認められません」
相馬先輩が言いました。
「株主名簿にも、澄江さんのお名前が残っています」
「本当ですか」
「はい。ただし、会社側がどのような手続を進めるかは、引き続き注意が必要です」
私は続けました。
「それに、貸付金の問題も別に残っています」
「……百万円ですね」
「はい」
澄江さんは、静かに頷きました。
「主人が働いて貯めたお金なんです」
私は胸が痛くなりました。
その百万円は。
ただの数字ではありません。
夫婦で節約し。
将来のために蓄え。
それでも会社のために使ったお金。
「黒岩社長は、会社は自分のものだって言います」
澄江さんは言いました。
「でも、主人はいつも言っていました」
「何と?」
「会社は、一人で大きくするものじゃないって」
……。
私は、少し黙りました。
会社には、社長がいる。
取締役がいる。
従業員がいる。
そして。
お金を出して支える株主がいる。
会社の財産と社長個人の財産は、同じではありません。
株主の権利も、社長の私物ではない。
当たり前のことです。
けれど。
当たり前のことほど、権力を持った人間は忘れてしまうのでしょう。
「こはる。内容証明の原案を作れ」
片桐所長が言いました。
「はい!」
私は机に向かいました。
宛先。
東海精機株式会社。
代表取締役 黒岩剛三。
差出人。
小野寺澄江。
本人の意思を確認しながら、通知書を整えます。
まず、株主としての地位。
次に、株式併合の手続上の問題。
そして、自己株式の消却に関する誤り。
最後に、貸付金債務。
私は、順番に書きました。
――通知書。
第一。
通知人は、亡小野寺修一より東海精機株式会社の株式五株を相続し、株主名簿上もその名義人として登録されている。
第二。
貴社作成の「株式併合及び株式整理のお知らせ」においては、十株を一株とする株式併合及び一株未満の端数の無償消却を行う旨が記載されている。
第三。
しかし、株式併合は、昭和六十三年現在の商法における法定の要件及び手続を離れて、代表取締役の判断のみで自由に実施できるものではない。
第四。
通知人は、当該株式の譲渡又は会社による取得について合意しておらず、貴社が当該株式を自己株式とみなして無償消却する法律上の根拠は認められない。
第五。
よって、通知人は、貴社による一方的な株主資格喪失の取扱いを承認しない。
第六。
併せて、亡小野寺修一が貴社に対して有していた貸付金百万円については、株式の保有及びその変動とは別個の債権債務関係であり、株式整理を理由として当然に消滅するものではない。
私は、ここで手を止めました。
「所長」
「何だ」
「最後は、どうしますか?」
「本人が何を求めるかだ」
私は澄江さんを見ました。
「澄江さんは、会社に何を求めたいですか?」
澄江さんは、少し考えました。
「主人の株を、勝手になかったことにしないでほしいんです」
「はい」
「それと、貸したお金についても、きちんと説明してほしい」
「分かりました」
私は、最後の一文を書きました。
――貴社においては、通知人の株主としての地位を尊重し、株式整理に関する法的根拠、必要な決議及び実施手続について、書面による説明を求める。
――また、貸付金債務についても、その存在及び返済状況を確認し、書面により回答されたい。
――権利侵害が継続する場合には、弁護士への相談を含め、適切な法的措置を検討する。
書き終えました。
「できました!」
相馬先輩が受け取ります。
所長も目を通しました。
しばらく沈黙。
そして。
「こはる」
「はい」
「ここを直せ」
「えっ!」
赤鉛筆。
出ました。
恐怖の赤鉛筆。
「『株式併合は違法で無効である』と断定した部分だ」
「あ……」
「会社側が今後どのような手続をとるか、まだ分からん」
「はい」
「現在の資料から適法な株式併合が成立しているとは認められない、という書き方にしろ」
「……分かりました」
「それから」
「はい」
「会社の財産に対する強制執行を、すぐにできるような書き方もするな」
「はい!」
そうです。
内容証明郵便を送っただけで、財産を差し押さえられるわけではありません。
貸付金の請求についても、証拠や消滅時効などを確認する必要があります。
法的紛争の代理交渉や訴訟は、行政書士の仕事ではありません。
必要なら、弁護士につなぐ。
そこを間違えてはいけないのです。
私は文章を直しました。
すると。
片桐所長が、静かに頷きました。
「それでいい」
私は書面を見つめました。
強い言葉はありません。
怒鳴り声もありません。
でも。
相手が何をしたのか。
法律上、何が問題なのか。
何を説明しなければならないのか。
全部、書いてあります。
「……所長」
「何だ」
「これ、社長は嫌がるでしょうね」
「なぜだ」
「ちゃんと説明しなきゃいけなくなるからです」
所長は、わずかに笑いました。
「そうだ」
そして。
「説明できないことをした人間ほど、書面を嫌う」
そう言いました。
内容証明郵便を発送してから四日後。
東海精機から返事が届きました。
差出人。
東海精機株式会社。
代表取締役 黒岩剛三。
私は封筒を開きました。
中には、会社の顧問弁護士が関与して作成した回答書が入っていました。
私は読み進めます。
そして。
「……あ!」
思わず声を上げました。
「先輩!」
「何だ」
「株式併合、撤回するそうです!」
相馬先輩が受け取りました。
回答書には、こう記載されていました。
――当社が通知した株式併合及び株式整理については、実施を見合わせる。
――小野寺澄江殿の株主としての地位について、現在これを否定する取扱いは行わない。
――少数株主の株式を無償で自己株式とみなして消却する旨の記載については、法律上の根拠を欠くため撤回する。
私は目を丸くしました。
「……認めましたね」
「ああ」
「しかも顧問弁護士が確認したんですよね?」
「そう書いてあるな」
さらに。
貸付金についても。
――亡小野寺修一氏からの借入金百万円については、当社帳簿上の記録を確認した。
――株式整理と貸付金債務は別個の法律関係であることを確認する。
――返済に関する事項については、別途債権者本人と確認する。
と記されていました。
「……やりました!」
私は思わず拳を握りました。
でも。
相馬先輩は、首を振りました。
「まだ全部終わったわけじゃねえぞ」
「はい?」
「貸付金は、実際に返済されるまで残る」
「あ……」
「株式だって、今後会社がどんな手続をとるか分からねえ」
「はい」
「だから、回答書を保管して、必要なことは次に進めるんだ」
私は頷きました。
確かに。
一枚の内容証明だけで、すべてが解決するわけではありません。
でも。
黒岩社長が一方的に進めようとしていた、少数株主の排除。
それは止まりました。
少なくとも、社長の宣言だけで株が消えたことにはならなかったのです。
その日の夕方。
澄江さんが、事務所を訪れました。
私は回答書を渡しました。
「株式併合は、見合わせるそうです」
「……本当ですか」
「はい」
「私の五株は?」
「会社も、今は株主としての地位を否定しないと回答しています」
澄江さんは、しばらく黙っていました。
そして。
鞄から、あの古い株券を取り出しました。
「……よかった」
小さな声。
それだけでした。
でも。
その声には、何十年分もの思いが込められているように感じました。
「主人は、あまり財産を残してくれませんでした」
澄江さんは言いました。
「でも、この株だけは、大事にしてほしいって」
私は黙って聞きました。
「会社を作ったとき、主人はまだ三十歳だったそうです」
「はい」
「社長と二人で、工場に寝泊まりして、旋盤を動かしていたって」
澄江さんは、株券を指でなぞりました。
「五株しかないって、社長は笑いました」
……。
「でも、主人にとっては、大切な五株だったんです」
私は、ゆっくり頷きました。
会社の持分。
議決権。
剰余金の配当を受ける権利。
会社が清算するときの残余財産分配を受ける権利。
株式には、さまざまな権利が結びついています。
それは、単なる紙切れではありません。
そして。
株数が少ないからといって、その権利を社長が勝手に奪ってよいわけではない。
「澄江さん」
私は言いました。
「五株は、五株です」
「……はい」
「大株主の何千株と比べれば、小さく見えるかもしれません」
「ええ」
「でも、権利のない五株ではありません」
澄江さんの目に、涙が浮かびました。
「ありがとうございます」
私は、少しだけ胸が熱くなりました。
会社の法律。
難しくて。
数字が多くて。
条文も長い。
でも。
その向こう側には、ちゃんと人がいるのです。
澄江さんが帰ったあと。
私は、机に広げた資料を眺めていました。
株式併合。
株式分割。
自己株式の消却。
株式無償割当て。
現代の行政書士試験では、似たような制度として並べて覚えることがあります。
でも。
今回の事件で、私は思いました。
これらは、同じことをしている制度ではありません。
株式併合は、株式の数を減らす。
株式分割は、株式の数を増やす。
自己株式の消却は、会社が保有する自己株式を消滅させる。
株式無償割当ては、既存株主に無償で株式を割り当てる。
そして。
手続も違う。
株主の権利への影響も違う。
会社が自己株式を保有している場合の扱いも違う。
「先輩」
「何だ」
「会社法って、面白いですね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「また会社法か」
「あっ」
私は口を押さえました。
「商法です! 商法!」
「まったく……」
先輩は呆れた顔をしました。
「お前、何でそんなに会社法って言葉が好きなんだ」
「ええと……」
未来では独立した法律になっているからです。
とは言えません。
「分かりやすい名前だからです!」
「そうか?」
「はい!」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「まあ、会社の法律を整理し直したくなる気持ちは分からんでもねえな」
「そうですよね!」
「今の商法は、会社だけの法律じゃねえからな」
私は頷きました。
そうです。
昭和六十三年。
商法第二編。
そこには、株式会社だけではなく、ほかの会社形態についてのルールも並んでいます。
有限会社には、別に有限会社法。
現代の会社法とは、制度の構成も違う。
「そもそも」
相馬先輩が言いました。
「今の株式会社は、作るだけでも面倒だ」
「そうですね」
「発起人は七人以上必要だし、取締役だって三人以上、監査役も必要だ」
「はい」
私は思い出しました。
現代なら。
発起人一人。
取締役一人。
資本金一円。
そんな株式会社も作ることができます。
でも。
昭和六十三年では違う。
会社を設立するために、多くの人間をそろえる必要がある。
その結果。
名前だけの発起人。
名ばかりの役員。
実際には社長一人で何でも決める会社。
そうした歪みが生まれやすいのです。
「黒岩社長も、会社は自分一人のものだと思っていましたね」
私が言うと、相馬先輩は頷きました。
「ああ」
「でも、株式会社って、そういうものじゃないんですよね」
「そうだ」
相馬先輩は、灰皿に煙草を置きました。
「社長がどれだけ偉そうにしてもな」
「はい」
「会社の株式まで、社長個人の持ち物になるわけじゃねえ」
私は頷きました。
そして。
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「今回、黒岩は何を間違えた」
私は考えました。
社長の権限。
株式併合。
自己株式。
株主の権利。
たくさんあります。
でも。
一番大きな間違いは。
「……会社の株式を、社長が自由に消せると思ったことです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「株式の数を変える制度と、他人の権利を奪うことは、同じではありません」
「うん」
「しかも、昭和六十三年には、現代の会社法とは違う厳格なルールがあります」
「そうだ」
私は、もう一度あの議事録を見ました。
――十株を一株に併合する。
――端数は無償で消却する。
――その後、役員に新株式を交付する。
社長にとっては、便利な三行だったのでしょう。
でも。
その三行を実行するためには。
それぞれに、法律上の根拠が必要だった。
必要な決議もある。
株主の保護もある。
債権者との関係もある。
そして。
何より。
社長が気に入らないというだけで、株主の権利を消してよいわけではありません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、株式分割って聞いて、何を思い浮かべる?」
「株が増えることです!」
「うん」
「一株が十株になります!」
「じゃあ、お前が一株持っていたとして、それを十株に分割したら金持ちになるか?」
「なりません!」
「何でだ」
「株数が十倍になっても、会社の価値が自動的に十倍になるわけじゃないからです!」
「そうだ」
相馬先輩は頷きました。
「じゃあ、株式併合で十株が一株になったら、財産が十分の一になるか?」
「それだけで十分の一にはなりません!」
「そうだな」
私は笑いました。
「数と価値は、別なんですね」
「そういうことだ」
なるほど。
株式の数。
株式の価値。
株主としての割合。
これらは、関係しているけれど、同じではありません。
特に、株式併合では。
株数が少ない株主に端数が生じることがある。
だからこそ、権利保護の仕組みが必要になる。
私は、少し考えました。
「先輩」
「何だ」
「株式分割って、お饅頭みたいですね」
「……は?」
「大きなお饅頭を十個に切り分けても、お饅頭の総量は増えません」
「まあな」
「株式併合は、その逆です!」
「……」
「小さいお饅頭を十個まとめて、大きなお饅頭一個にするんです!」
相馬先輩は、しばらく私を見つめました。
そして。
「お前、腹減ってんのか」
「違います!」
「じゃあ何だ」
「分かりやすい例えです!」
「食い物で会社を説明するな」
「いいじゃないですか!」
私は笑いました。
でも。
そのとき。
片桐所長が、ぽつりと言いました。
「こはる」
「はい」
「饅頭を十個まとめても、ほかの客の饅頭を勝手に取っていいわけではないな」
……。
私は止まりました。
相馬先輩も、所長を見ました。
そして。
「所長……」
「何だ」
「それ、すごく分かりやすいです」
所長は、何も言いませんでした。
ただ、帳簿を開き直しました。
……なるほど。
株式併合。
株式分割。
自己株式の消却。
株式無償割当て。
言葉は難しいけれど。
本質は、意外と単純なのかもしれません。
会社の持分を、どのように扱うのか。
誰の権利に影響するのか。
誰が決める必要があるのか。
そこを間違えてはいけないのです。
窓の外は、もう夕暮れでした。
私は、机の上の六法を閉じました。
今日も。
昭和の商法に振り回されました。
現代の会社法なら、もっと整理された条文があります。
自己株式の消却。
株式併合。
株式分割。
株式無償割当て。
それぞれについて、決議の方法や手続が定められています。
でも。
その便利な制度も。
間違った使い方をすれば、人の権利を傷つけます。
今回の黒岩社長は。
株式の数を操作すれば、株主そのものを消せると思っていました。
けれど。
法律は、そう簡単ではありませんでした。
株式をまとめることと。
他人の権利を奪うことは。
同じではないのです。
私は、澄江さんの顔を思い出しました。
五株。
たった五株。
社長にとっては、小さな数字だったのでしょう。
でも。
澄江さんにとっては、ご主人が働いた証でした。
工場を作った日の思い出。
若いころの夢。
家族の未来。
それらが、一枚の株券に残されていた。
株式の数は、法律で変えられることがあります。
けれど。
その背後にある人間の思いまで、社長の一存で消せるわけではありません。
私は、ノートを開きました。
そして。
今日の教訓を書きました。
――株式の数を変える権限は、他人の株主権を勝手に消す権限ではない。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「今日も、一つ賢くなりました!」
「毎日そう言ってるな」
「成長してるんです!」
「だったら明日は会社法って言うなよ」
「……努力します!」
「努力じゃなくて覚えろ!」
私は笑いました。
昭和六十三年。
商法第二編。
まだ、会社法という独立した法律はありません。
けれど。
会社を動かす人間の欲望と。
その欲望から株主を守ろうとする法律。
その構図は、きっと未来でも変わらないのでしょう。
そして。
私は今日、知りました。
社長がどれだけ強くても。
たった五株の株主にも、守られるべき権利がある。
十株を一株にしても。
一株を百株にしても。
社長が勝手に書類へ「消却」と書いても。
法律上の根拠がなければ、その権利は消えません。
私は、古い六法の背表紙を撫でました。
……本当に。
法律って、不思議です。
数字の話をしているはずなのに。
最後に守るのは。
いつも、人間なのです。
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