[会社法・株式の譲渡]現場編 「株券がないから株主じゃない」の嘘。十年間発行されなかった紙と、会社を私物化した社長の誤算
株は、売れる。
けれど。
株を売ったのに、株主になれないことがあります。
契約書があっても。
代金を払っていても。
会社の社長から、
「お前は株主じゃない」
と言われてしまう。
そんなことが、本当にあるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一つの厄介な法律問題にぶつかることになります。
株式譲渡自由の原則。
株式譲渡の制限。
そして。
株券発行前の株式譲渡。
現代なら、株券を発行しない株式会社も珍しくありません。
でも、この時代は違います。
紙があるか。
紙がないか。
たったそれだけで。
会社を長年支えてきた人間が、株主として扱われなくなることがあるのです。
「私、三百万円を騙し取られたんでしょうか」
朝一番。
事務所を訪れた女性は、震える声でそう言いました。
「三百万円……?」
私は思わず聞き返しました。
女性の名前は、藤井千鶴さん。
三十八歳。
町外れで小さな部品加工所を営んでいます。
彼女の手には、茶色い封筒が握られていました。
「株を買ったんです」
「株ですか?」
「はい。主人の兄から」
千鶴さんは封筒を開きました。
中から出てきたのは、一通の契約書。
――株式譲渡契約書。
私は目を通しました。
譲渡人。
藤井正一。
譲受人。
藤井千鶴。
対象。
東海精密工業株式会社の普通株式三百株。
譲渡代金。
三百万円。
日付。
昭和六十三年六月十日。
双方の署名押印。
さらに、銀行振込の控え。
「ちゃんと契約書がありますね」
「はい」
「代金も払っています」
「はい。でも……」
千鶴さんは唇を噛みました。
「会社の社長が、私を株主として認めないと言うんです」
私は顔を上げました。
「……どういうことですか?」
「株券がないから、だそうです」
「株券?」
「はい」
千鶴さんは困ったように笑いました。
「私、株券なんて見たことがないんです」
なるほど。
これは。
嫌な予感がします。
東海精密工業株式会社。
昭和五十三年設立。
自動車部品の加工を行う、従業員三十名ほどの町工場。
創業者は、藤井正一さんと、その友人だった大沢義雄という男。
設立当時。
正一さんは技術を担当し、大沢が営業と経営を担当していたそうです。
ところが、昨年。
正一さんが病気で倒れました。
今は長時間の仕事が難しく、療養生活を送っています。
「主人の兄は、会社を離れることにしたんです」
千鶴さんが説明しました。
「でも、会社そのものは大切に思っていて……」
「はい」
「私のところで保有してくれないかって」
千鶴さんは自分の加工所を経営しています。
東海精密工業とも取引があるそうです。
「兄は、会社に口を出してほしいわけじゃなかったと思います。ただ、株を持っていれば、長年働いた人たちの様子も分かるんじゃないかって」
私は頷きました。
三百株。
東海精密工業の発行済株式は千株。
つまり。
三十パーセント。
……。
私は少し驚きました。
「千鶴さん」
「はい」
「それ、結構大きな持分ですよ」
「え?」
「三百株って、全体の三割ですよね」
「そうみたいです」
大株主です。
過半数ではない。
会社を自由に動かせるわけでもない。
でも、決して無視できる数字ではありません。
「それで、大沢社長は何と?」
千鶴さんが、もう一枚の紙を差し出しました。
会社から届いた通知書です。
そこには、こう書かれていました。
――貴殿の申し出に係る株式譲渡については、当社が株券を発行していないため、会社に対してその効力を主張することはできない。
――従って、株主名簿の名義書換には応じない。
――今後、株主としての議決権その他の権利行使を認めない。
そして最後に。
――なお、当社株式の譲渡は会社の承認を要するものとする。
……。
私は紙を見つめました。
株券がない。
会社の承認もない。
だから株主ではない。
なるほど。
論点が二つあります。
でも。
「先輩!」
私は振り返りました。
「何だ」
「株式って、原則として自由に譲渡できますよね!」
「ああ」
「だったら、会社が勝手に拒否できないんじゃないですか?」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「定款は?」
「え?」
「その会社の定款だ」
「あ……」
「株式の譲渡に制限を付けてるかもしれねえだろ」
そうでした。
株式譲渡自由の原則。
その名のとおり、株式は原則として自由に譲渡できます。
でも。
例外がある。
現代の会社法では、定款で株式の譲渡による取得に会社の承認を必要とすることができます。
「それなら、承認機関を確認して……」
「待て」
先輩が遮りました。
「はい?」
「今、何て言った」
「承認機関です」
「どこの法律だ」
「会社法です!」
……。
沈黙。
しまった。
またです。
私は自分の口を押さえました。
昭和六十三年。
会社法という独立した法律は、まだ存在しません。
株式会社の規律は、商法第二編。
いわゆる会社編にあります。
「お前な」
相馬先輩がため息をつきました。
「また妙なこと言ってるぞ」
「すみません……」
「今は商法だ。株式の譲渡制限なら、定款で取締役会の承認を必要とする仕組みだ」
「取締役会……」
「そうだ」
私は慌てて六法を開きました。
旧商法第二百四条。
株式は他人に譲渡できる。
ただし、定款で取締役会の承認を要すると定めることができる。
なるほど。
現代の会社法第百二十七条とは、条文番号が違います。
「先輩、現代なら株式会社って取締役一人でも――」
「何だって?」
「いえ!」
危ない。
設立制度まで未来の知識を混ぜるところでした。
「株式会社は取締役三人以上だろ。監査役も必要だ。そもそも設立には発起人七人以上いる時代なんだぞ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ」
私は六法を閉じかけて、慌てて開き直しました。
現代の感覚。
完全に封印。
今は昭和六十三年なのです。
「所長」
相馬先輩が言いました。
「定款を取り寄せています」
「うん」
片桐所長は、千鶴さんの契約書を静かに読んでいました。
「それより」
所長が口を開きました。
「株券は、本当に一枚も発行されていないのか」
千鶴さんが頷きました。
「はい。兄も、会社から受け取ったことがないそうです」
「会社設立は十年前ですね」
「そうです」
「十年間、一枚も?」
「……はい」
所長の目が、わずかに細くなりました。
「なるほど」
私は首をかしげました。
「所長?」
「相馬」
「はい」
「昭和四十七年の判例を確認しておけ」
「……ああ」
相馬先輩がにやりとしました。
「そこですか」
「そこだ」
私は二人を見比べました。
何ですか。
この、二人だけ分かっている感じ。
「所長!」
「何だ」
「私にも教えてください!」
「まず事実を集めろ」
「え?」
「株券がなぜ発行されていないのか」
「はい」
「誰が、いつ、発行を求めたのか」
「はい」
「会社は、どう答えてきたのか」
所長は契約書を机に置きました。
「その三つで、結論が変わる」
……。
なるほど。
法律は条文だけでは決まらない。
その条文が、どんな事実に適用されるか。
そこが重要なのです。
二日後。
私たちは東海精密工業の事務所を訪れました。
工場の奥にある、立派な社長室。
革張りの椅子。
大きな灰皿。
壁には、創業十周年の記念写真。
その中央に立っているのが、大沢義雄社長。
五十四歳。
太い眉。
高そうな腕時計。
そして。
いかにも、自分がこの会社の王様だと思っていそうな顔です。
「行政書士?」
大沢社長は、私たちを見るなり鼻で笑いました。
「株の話か」
「はい。定款と株券の発行状況について、事実を確認させていただきたいんですが」
相馬先輩が言いました。
「何で?」
「関係する書類を確認するためです」
「弁護士でもないのに?」
出ました。
この台詞。
この時代の悪徳経営者って、行政書士を舐める研修でも受けているんでしょうか。
「会社のことは、俺が決めるんだ」
大沢社長は椅子に深く腰を下ろしました。
「株券なんか、発行する必要がない」
「必要がない?」
私は思わず聞き返しました。
「そうだ」
「でも、株式会社ですよね」
「だから何だ」
「株券は?」
「ねえよ」
大沢は平然と言いました。
「十年間、誰にも渡してねえ」
「……どうしてですか?」
「面倒だからだよ」
……。
面倒。
その一言。
私は固まりました。
「発行事務だって金がかかるしな。それに、株主が勝手に株を売ったら困るだろ」
大沢は煙草に火をつけました。
「だから、俺が管理してる」
私は相馬先輩を見ました。
先輩は表情を変えません。
「これまで、株券の発行を求められたことは?」
「ああ、あるよ」
大沢が笑いました。
「藤井の奴が、何度か言ってきた」
「正一さんが?」
「そうだ。株券をくれってな」
「それに対して、どう回答されたんですか?」
「そのうち作るって言った」
「いつ頃ですか」
「知らねえよ」
大沢は煙を吐きました。
「昔の話だ」
そのとき。
相馬先輩が、机の上の書類に目を向けました。
「社長」
「何だ」
「この会社、設立から十年経っていますよね」
「ああ」
「その間、株券を一枚も発行していない」
「そうだ」
「発行を求められても、放置していた」
「だから何だ!」
大沢が机を叩きました。
「株券がなきゃ、会社に対して株の譲渡は主張できねえんだろ!」
……。
なるほど。
この人。
法律を知らないわけではありません。
むしろ。
法律の一部分だけを知っている。
そして、その一部分を利用している。
「それにな」
大沢が続けました。
「うちの株は、俺の承認がなきゃ売れないことになってる」
「定款に、その定めがありますか?」
私が聞きました。
「あるに決まってるだろ」
「見せていただけますか?」
「……何?」
「定款です」
大沢の眉が動きました。
「会社の内部資料だぞ」
「はい」
「お前らに見せる必要があるのか?」
私は言い返しかけました。
でも。
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい」
「もういい」
「でも!」
「確認したいことは分かった」
先輩は大沢を見ました。
「株券の発行を長期間していないことと、社長が譲渡を認めないという立場は確認できました」
「ああ」
「分かりました」
相馬先輩は、それ以上争いませんでした。
社長室を出ます。
私は我慢できませんでした。
「先輩!」
「何だ」
「絶対おかしいですよ!」
「何が」
「会社が株券を発行していないのに、その株券がないことを理由に譲渡を拒否するなんて!」
「そうだな」
「だったら、何で言い返さないんですか!」
先輩は煙草を取り出しました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは、千鶴さんの代理人として紛争の示談交渉をするために来たんじゃねえ」
「……はい」
「相手が何を言ってるか確認するために来たんだ」
「はい」
「会社の譲渡制限が本当に定款にあるかも、まだ確定してねえ」
「……そうでした」
「先に事実を固める。争いになれば弁護士の仕事だ」
相馬先輩は工場を振り返りました。
「ただな」
「はい?」
「あの社長、余計なことまで喋ってくれた」
「余計なこと?」
「株券を出さなかった理由だ」
先輩が笑いました。
「十年間、面倒だから出さなかった、だとよ」
私は立ち止まりました。
……あ。
株券を発行していない。
その原因が。
会社自身にある。
「先輩!」
「何だ」
「もしかして!」
「気づいたか」
「会社が発行を怠っていた場合の例外……!」
先輩は頷きました。
「そうだ」
なるほど。
今回の事件。
鍵は株券そのものではありません。
株券を発行しなかった会社が。
その不発行を、株主を締め出す理由にしてよいのか。
そこなのです。
事務所へ戻ると。
待っていたのは、分厚い封筒でした。
「届いたぞ」
片桐所長が言いました。
「何ですか?」
「東海精密工業の定款の写しだ」
私は目を輝かせました。
来ました。
会社の憲法。
定款です。
正一さんが創業時から保管していたものを、千鶴さんが持参してくださったそうです。
「見てみろ」
「はい!」
私は一ページずつめくりました。
商号。
目的。
本店所在地。
資本に関する事項。
株式に関する事項。
そして。
「……あれ?」
私は手を止めました。
「先輩」
「何だ」
「譲渡制限が……」
「どうした」
「ありません!」
私はもう一度確認しました。
定款に、取締役会の承認を要する旨の規定がない。
少なくとも、この創業時の定款には。
「所長!」
「うん」
「これなら自由に譲渡できますよね!」
「その定款が現在も有効ならな」
「あ……」
そうでした。
途中で定款変更されている可能性があります。
片桐所長は、別の書類を差し出しました。
「こちらも見ろ」
株主総会議事録。
過去十年間の定款変更に関する記録。
正一さんが保管していた株主総会の通知や資料。
さらに、会社の登記事項を確認するための資料。
「変更履歴を追え」
「はい!」
私は一枚ずつ調べました。
会社目的の変更。
本店移転。
役員の変更。
そして。
株式譲渡制限を新たに設けたことを示す記録は、見当たりません。
「……ない」
私は顔を上げました。
「所長、譲渡制限を設けた記録がありません!」
「うん」
「社長は、承認が必要だって言っていたのに」
「社長が言うことと、定款に書いてあることは別だ」
所長が静かに言いました。
私は思わず頷きました。
そうです。
株式会社には、定款があります。
株式譲渡を制限するには、法律で認められた方法に従う必要があります。
社長が気に入らない。
そんな理由だけで、自由な株式譲渡を一方的に止められるわけではありません。
「でも所長」
「何だ」
「会社の資料が全部そろっているとは限りませんよね」
「そのとおりだ」
所長が頷きました。
「だから、ないと断定する前に、適法な定款変更の有無を確認する」
「はい」
「現在の定款と変更の経緯。そこを押さえる」
私は赤鉛筆を取りました。
――社長の承認がないから無効。
その主張を崩すには、まず定款の確認。
なるほど。
法律の世界では。
「俺が決めた」
という言葉より。
正式な手続を経て作られた書類のほうが、ずっと重いのです。
「さて」
相馬先輩が、別の資料を机に置きました。
「本命はこっちだ」
「本命?」
「ああ」
そこには、古い判例の写しがありました。
昭和四十七年十一月八日。
最高裁判所大法廷判決。
「……最高裁!」
私は思わず声を上げました。
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「株券発行前の株式譲渡についての重要な判例だ」
私は資料を読み始めました。
旧商法第二百四条第二項。
株券の発行前にした株式の譲渡は、会社に対して効力を生じない。
なるほど。
原則は厳しい。
株券が発行される前に株式を譲渡しても、会社に対してはその効力を主張できない。
「じゃあ、大沢社長の言ってることは正しいんですか?」
「原則だけならな」
「原則だけ……?」
「その先を読め」
私は判例を読み進めました。
会社が、株券の発行を不当に遅らせていた場合。
しかも、信義則に照らして、株券発行前の譲渡の効力を否定することが相当でない状況に至っている場合。
会社は、株券が発行されていないことだけを理由に、譲渡の効力を否定できない。
……。
私は顔を上げました。
「所長!」
「何だ」
「これです!」
十年間。
株券を発行していない。
発行を求められても放置していた。
しかも社長自身が、
「面倒だから発行していない」
と認めている。
その会社が、今度は、
「株券がないから、譲渡は認めない」
と言っている。
……おかしい。
やっぱり、おかしいです!
「ただし」
所長が言いました。
「判例の例外は、株券が未発行なら何でも適用されるわけではない」
「はい」
「会社の不当な遅滞と、信義則上の事情を具体的に見なければならない」
私は頷きました。
「今回は、発行を求めた記録が重要なんですね」
「そうだ」
そこで千鶴さんが持参した、正一さんの古い書類を調べました。
昭和五十八年。
株券発行を求める手紙。
昭和六十年。
再度の請求書。
昭和六十二年。
株券の交付予定を問い合わせた書面。
そして。
会社からの回答。
――株券については、事務手続の都合により、後日発行予定です。
……。
私は思わず息を呑みました。
「先輩」
「何だ」
「これ……」
「ああ」
「会社が発行を先延ばしにしていた証拠ですね」
「そういうことだ」
相馬先輩は、古い手紙を机に並べました。
「十年前の会社設立」
一枚。
「五年前の発行請求」
二枚。
「三年前の再請求」
三枚。
「去年の問い合わせ」
四枚。
そして最後に。
千鶴さんへ届いた通知書。
――株券未発行のため、譲渡の効力を認めない。
私は、その五枚を見つめました。
……すごい。
会社自身が。
五年かけて。
自分の逃げ道を塞いでいる。
「所長」
「何だ」
「これ、かなり強い資料ですよね」
「そうだな」
所長は短く答えました。
「ただし、まだ終わりではない」
「え?」
「譲渡制限の有無を確定しろ」
「はい」
「株式の譲渡が、当事者間でどう行われたかも確認しろ」
「はい」
「株主名簿の記載もだ」
私は深く頷きました。
株式の譲渡。
それは、株という紙を売ることだけではありません。
株主という地位を移転すること。
でも。
売主と買主の間で譲渡が成立すること。
会社に対して株主だと主張できること。
この二つは、必ずしも同じではない。
今回の事件で、その違いが目の前に現れていたのです。
三日後。
資料は、ほぼそろいました。
正一さんが保管していた株主名簿の写しには、三百株が正一さんの保有として記載されています。
株式譲渡契約書もある。
代金支払の記録もある。
そして。
会社が長期間、株券を発行していなかった証拠。
さらに、現在の定款についても、正一さんを通じて確認が進みました。
会社側が示した定款の写しにも、譲渡に取締役会の承認を要する旨の規定は見当たりませんでした。
「これで、社長の言い分はかなり苦しいですね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「定款に譲渡制限がない」
「うん」
「株券が発行されていない原因は会社側にある」
「そうだ」
「その会社が、株券未発行を理由に株主として認めないと言っている」
「そのとおりだ」
片桐所長が、机の上に一枚の原稿用紙を置きました。
「こはる」
「はい!」
「内容証明の原案を書け」
「任せてください!」
「ただし」
「はい」
「会社が不当な発行遅滞をしていたという事情と、定款による譲渡制限の問題は、分けて書け」
「……はい!」
なるほど。
どちらも株式譲渡の制限に関係します。
でも、根拠が違う。
混ぜたら駄目です。
私は鉛筆を握りました。
そして。
一気に書き始めました。
一時間後。
私は原案を所長に提出しました。
所長は黙って読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『株式は自由に譲渡できるため、会社は一切拒否できない』」
「はい」
「違う」
赤線。
「ええっ!」
「定款で譲渡制限を定めることはできる」
「あ……」
「それに、株券発行前の譲渡については、会社に対する効力が問題になる」
「はい……」
「原則だけ書いて、例外を消すな」
私は慌てて訂正しました。
次。
「『株券が発行されていないから、譲渡は当然に無効』」
所長は赤線を引きました。
「これも違う」
「はい」
分かっています。
もう分かっています。
「当事者間の効力と、会社に対する効力を区別するんですね」
「そうだ」
私は書き直しました。
株券発行前の譲渡。
当事者間では効力が認められる場面がある。
ただし、原則として会社に対しては効力を生じない。
しかし。
会社が株券の発行を不当に遅滞し、信義則上その未発行を理由に譲渡を否定できない場合は、例外がある。
「所長」
「何だ」
「これ、難しいですね」
「そうか」
「はい。株を売ったからって、すぐ会社に対して株主だと言えるわけじゃないんですね」
「そうだ」
「でも会社も、自分の落ち度を利用して、いつまでも拒絶できるわけじゃない」
所長が頷きました。
「そこだ」
そして。
所長は静かに言いました。
「法律は、怠けた者の逃げ道を用意するためにあるんじゃない」
……。
私は、その言葉をノートに書きました。
何だか。
今日の事件の全部が、その一言に詰まっている気がしたのです。
最終的な内容証明郵便は、千鶴さん本人の意思を確認したうえで作成されました。
宛先。
東海精密工業株式会社。
代表取締役 大沢義雄。
差出人。
藤井千鶴。
私は文案を読み上げました。
「第一。通知人は、昭和六十三年六月十日、藤井正一との間で、貴社普通株式三百株の譲渡契約を締結し、譲渡代金三百万円を支払った」
「うん」
「第二。貴社定款には、本件株式の譲渡について取締役会の承認を要する旨の定めが確認されない」
「うん」
「第三。貴社は設立以来、長期間にわたり株券を発行しておらず、従前の株主から複数回にわたり株券発行を求められながら、これを実施していない」
「続けろ」
「第四。株券発行前の株式譲渡は、原則として会社に対して効力を生じないとされるものの、会社が株券の発行を不当に遅滞し、信義則に照らして譲渡の効力を否定することが相当でない場合には、その限りではないと解される」
私は、一度息を吸いました。
「第五。最高裁判所昭和四十七年十一月八日大法廷判決の趣旨に照らし、貴社が自らの株券発行の不当な遅滞を理由として、本件株式譲渡の効力を否定することには重大な疑義がある」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
「第六。通知人は、貴社に対し、本件株式譲渡の効力を認め、株主名簿の名義書換に応ずるよう求める」
そして最後。
「本通知に対する回答を、書面にて求める。なお、貴社が正当な理由なく対応を拒む場合には、弁護士への相談のうえ、株主たる地位の確認その他の法的措置を検討する」
読み終えると。
部屋が静かになりました。
私は原稿を見つめました。
大沢社長を罵倒する言葉はありません。
会社を潰すという脅しもありません。
ただ。
契約。
代金支払。
定款。
株券発行の経緯。
最高裁判例。
必要なことだけが、並んでいます。
「所長」
「何だ」
「これ、怖いですね」
「そうか」
「はい」
私は言いました。
「社長、反論しようと思ったら、十年間株券を発行しなかった理由を説明しないといけませんよね」
「そうだ」
「しかも、何度も発行を求められていた」
「うん」
「なのに、自分が発行しなかった株券を理由に、株主として認めないと言っている」
所長が頷きました。
「その矛盾を、書面に残すんだ」
私は息を呑みました。
なるほど。
内容証明郵便。
魔法ではありません。
送っただけで勝てるわけではない。
相手を強制的に従わせる力があるわけでもない。
でも。
事実と法律を整理して、正式に意思を通知する。
そして、相手が何を知り、何を求められたのかを記録に残す。
それが、後の紛争を防ぐこともあります。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「はい」
「裁判で争うなら、弁護士に引き継ぐ」
「はい」
「だが、そこへ行く前に整理できる書類はある」
先輩は完成した原案を指で叩きました。
「これが、俺たちの仕事だ」
私は深く頷きました。
法律の刃。
それは必ずしも、法廷で振るうものばかりではないのです。
内容証明郵便を発送した翌週。
大沢社長から、千鶴さん宛てに回答が届きました。
私は、その写しを受け取りました。
封を開きます。
そこには。
――貴殿の通知内容について、当社顧問弁護士に確認した結果、株券発行の経緯及び定款の内容につき、従前の当社見解に再検討を要する点があると判断した。
……。
私は目を丸くしました。
「先輩!」
「何だ」
「見解を再検討するって!」
「ああ」
「社長、折れたんですか!」
「まだ途中だ」
相馬先輩は慎重でした。
続きがあります。
――当社は、従前の株券未発行のみを理由とする拒絶を撤回し、本件株式譲渡に関する株主名簿の名義書換手続を進める。
……!
私は思わず立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「名義書換に応じるって!」
「ああ」
「やりましたね!」
片桐所長は、静かに頷きました。
相馬先輩が笑いました。
「顧問弁護士に見せたんだろうな」
「はい!」
「十年間株券を出さず、発行請求を放置しておいて、今さら未発行だから譲渡無効だなんて主張したら、相当厳しいってな」
私は笑いました。
でも。
その直後。
一本の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……片桐さんか』
低い声。
大沢社長でした。
「あ、少々お待ちください!」
所長に代わります。
「片桐です」
『あの通知書の件だが……』
「はい」
『うちの弁護士に見せた』
「そうですか」
『……株券のことで、俺がまずかったらしいな』
大沢の声には、以前の余裕がありませんでした。
『でもな、俺だって会社を守ろうとしたんだ』
「はい」
『株主が勝手に入れ替わったら困るだろ』
所長は落ち着いた声で答えました。
「会社にとって、株主構成が重要なことは理解できます」
『だったら!』
「ただし、そのための法律上の制度があります」
所長は続けました。
「譲渡制限を設けるなら、定款と適法な手続が必要です」
『……』
「社長の判断だけで、既に行われた譲渡をなかったことにはできません」
沈黙。
そして。
『……分かったよ』
大沢が小さな声で言いました。
『名義書換には応じる』
所長は短く答えました。
「その旨、ご本人へ書面でお知らせください」
『ああ』
電話が切れました。
私は、しばらく受話器を見つめていました。
あの。
「会社は俺のものだ」
と言っていた社長が。
最後には。
「名義書換に応じる」
と言ったのです。
声を荒らげることなく。
机を叩くこともなく。
ただ、書類で。
それから数日後。
千鶴さんが、事務所を訪れました。
手には、一通の封筒。
「会社から、届きました」
私は受け取りました。
株主名簿の記載内容を証明する書面。
そこには。
――株主 藤井千鶴。
――所有株式数 普通株式三百株。
と記されています。
「……よかった!」
私は思わず声を上げました。
千鶴さんは、目元を押さえました。
「ありがとうございます」
「いえ、そんな!」
「私、本当に……」
千鶴さんは、しばらく言葉を探していました。
「三百万円がなくなったことも怖かったんです。でも、それ以上に……」
「はい」
「兄が、あの会社で働いてきた十年間まで、なかったことにされる気がして」
私は黙りました。
千鶴さんは続けました。
「兄は、会社を大きくしたいって、ずっと頑張ってきたんです」
「はい」
「会社が苦しいときは、自分の給料も後回しにして」
彼女は書面を握りしめました。
「その兄の株を、ちゃんと引き継げたんですね」
「はい」
私は笑いました。
「千鶴さんは、株主です」
その言葉を聞いて。
千鶴さんは、ようやく笑ってくれました。
「ありがとうございます」
そして。
「これからは、会社のことをちゃんと見ていきたいと思います」
そう言いました。
「株主総会にも出てみます」
「はい!」
「兄にも、報告します」
私は頷きました。
株式。
それは単なる紙ではありません。
会社に出資した人間の地位。
議決権。
配当を受ける権利。
会社の一部を、法律上支える立場。
その地位を移すのが、株式譲渡なのです。
もちろん。
株主になったからといって、会社の財産を勝手に持ち出せるわけではありません。
社長を一人で解任できるわけでもありません。
でも。
自分の持つ株式に応じて、法律上認められた権利を行使できます。
三百株。
三十パーセント。
それは。
社長が勝手に消してよい数字ではないのです。
千鶴さんが帰ったあと。
私は机に向かって、ノートを開きました。
「相馬先輩」
「何だ」
「株式って、面白いですね」
「また始まったか」
「だって、売買契約を結んだだけでは終わらないんですよ!」
「そりゃそうだ」
「譲渡人と譲受人の間の効力と、会社に対する効力が違う場合がある」
「ああ」
「定款の譲渡制限もある」
「そうだ」
「株券が発行されているかどうかも問題になる」
「うん」
「しかも、会社が不当に株券発行を遅らせたら、判例上の例外まである!」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「大事なのはな」
「はい」
「株式ってのは、ただの紙切れじゃねえってことだ」
「はい」
「会社に対する権利の束みてえなもんだ」
私は頷きました。
株主たる地位。
それが株式です。
だから。
誰が株主なのか。
どうやってその地位が移ったのか。
会社に対して主張できるのか。
それらを明確にする必要があります。
「でも先輩」
「何だ」
「私、現代の会社法に慣れすぎていました」
「ほう」
「今の時代だと、株券を発行しない株式会社も普通にあるんです」
「……また未来の話か」
「はい!」
「胸を張るな」
私は笑いました。
現代では、株式会社は原則として株券を発行しません。
定款で株券を発行する旨を定めることができますが、昔とは基本的な仕組みが違います。
でも。
昭和六十三年の株式会社では、株券の発行が法律上予定されています。
「それで、株券発行前の譲渡っていう問題が出てくるんですね」
「そうだな」
「法律って、時代によってこんなに違うんですね」
私は鉛筆を止めました。
ふと。
もう一つの疑問が浮かびました。
「先輩」
「今度は何だ」
「株式は自由に譲渡できるのが原則なんですよね」
「ああ」
「でも、定款で譲渡制限できる」
「そうだ」
「じゃあ……」
私は少し考えました。
「株を持っている人が、どうしても売りたいのに、会社が承認してくれなかったらどうなるんですか?」
相馬先輩が、こちらを見ました。
「いいところに気づいたな」
「えっ」
「株主だって、いつまでも株を持ち続けなきゃならねえわけじゃない」
「はい」
「そこで、会社が譲渡を認めない場合の仕組みがある」
「仕組み?」
「別の譲渡相手の指定だ」
私は目を丸くしました。
なるほど。
会社にとって好ましくない人を株主にしたくない。
でも。
株主の投下資本を回収する道まで、すべて塞いでしまうのは困る。
その両方を考える必要があるのですね。
「じゃあ、譲渡制限って、会社が永久に売却を禁止できる制度じゃないんですね!」
「そういうことだ」
先輩が頷きました。
私は大きく丸をつけました。
これは。
法理編でじっくり整理しないといけません。
さらに。
「そういえば先輩」
「何だ」
「権利株ってありますよね」
「あるな」
「会社が成立する前や、新株が発行される前の権利の問題ですよね」
「ああ」
「それも譲渡に制限があるんですよね」
「そうだ」
「それから、子会社が親会社の株式を取得する場合も!」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「お前、今日はやけに勉強熱心だな」
「株式譲渡の四つの制限を、全部整理したくなりました!」
「明日にしろ」
「ええっ!」
「今日はもう夕方だ」
私は窓の外を見ました。
確かに。
昭和の町並みに、夕日が差し込んでいます。
でも。
まだ一つだけ、気になることがありました。
「所長」
「何だ」
「今日の事件で、一番大事だったのは何ですか?」
片桐所長は、少し考えました。
そして答えました。
「会社と株主は、別だ」
「……はい?」
「会社を経営する者が、株主の権利まで勝手に消せるわけじゃない」
私は黙りました。
「株式譲渡を制限する制度にも理由がある。株券の発行を求める制度にも理由がある」
「はい」
「だが、それを使って人を不当に締め出すことまで許されるわけではない」
所長は帳簿を閉じました。
「会社は、社長の私物じゃない」
……。
私は、その言葉を胸に刻みました。
なるほど。
商法は、会社を作るためだけの法律ではありません。
会社の中にある。
経営者の利益。
株主の利益。
債権者の利益。
それらがぶつかったときに、どこまで許されるのか。
その境界を定めているのです。
「そういえば」
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい?」
「お前、最初に何て言った?」
「何がですか?」
「株式は自由に譲渡できるから、会社は一切拒否できないって」
「あ……」
「間違いだったな」
「はい……」
「じゃあ、覚えたか?」
「はい!」
私は胸を張りました。
「株式は譲渡自由が原則!」
「うん」
「でも、法律や定款による制限がある!」
「うん」
「そして、株券発行前の譲渡では、会社に対する効力に注意!」
「そうだ」
「ただし、会社が株券を不当に発行しなかった場合には、判例上の例外がある!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は思わず笑いました。
「先輩!」
「何だ」
「今日、褒めましたね!」
「気のせいだ」
「絶対褒めました!」
「うるせえ」
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『会社の株を、友人に譲ろうと思っているんですが……』
「はい!」
『社長から、定款で譲渡制限があるから駄目だと言われまして』
……。
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ました。
『でも、私、どうしても株を売りたいんです』
私はゆっくり息を吸いました。
またです。
株式の譲渡。
今度は。
本当に定款に譲渡制限がある会社。
「先輩」
「何だ」
「今度は、会社が承認しない場合です」
「聞こえてる」
「譲渡する相手を指定してもらう仕組みがあるんですよね!」
「ああ」
「私、調べます!」
「まず相談票を取れ!」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、会社の定款と、これまで社長さんと交わした書類について教えていただけますか?」
昭和六十三年。
商法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
株式は自由に譲渡できる。
でも。
どんな場合でも、無条件に自由というわけではない。
会社を守るための制限がある。
株主を守るための仕組みがある。
そのどちらも、きちんと理解しなければならないのです。
私は机の上の六法を見つめました。
旧商法第二百四条。
株式譲渡の原則。
そして例外。
今日まで、ただの暗記項目だった条文が。
今は、少し違って見えます。
十年間、株券を発行しなかった会社。
三百万円を支払った女性。
社長の一言で、消されそうになった三百株。
けれど。
正しい手続と証拠を積み重ねることで。
株主としての地位は、守られました。
紙がなかったから、権利までなかったことにする。
そんな理屈が、いつでも通るわけではありません。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、次の相談を聞け!」
「はいっ!」
私は笑いました。
そして、ノートに一行だけ書きました。
――株式は自由に譲渡できるのが原則。しかし、会社に株主として認めさせるには、定款・株券・対抗関係を見落としてはいけない。
よし。
今日の教訓。
これなら忘れません。
だって。
株主になるということは。
社長に気に入られることでも、社長から許してもらうことでもない。
法律に従って、株主たる地位を取得することなのです。
そして。
十年間、株券を発行しなかった社長が。
最後に法律の前で青ざめた理由。
それはきっと。
株券という紙がなかったからではありません。
自分が発行しなかった紙を、他人の権利を奪う武器にしようとしたからなのです。
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