[会社法・株券と株主名簿]現場編 「株主名簿に名前がないから、お前は株主じゃない」の嘘。金庫に眠る百枚の株券と、父の会社を奪おうとした社長の誤算
名前が消えたからといって、その人の権利まで消えるとは限りません。
たとえば。
あなたが、ある会社の株式を正当に買い取ったとします。
代金も支払いました。
株券も受け取りました。
ところが。
会社の社長が、こう言ったらどうでしょう。
「株主名簿にお前の名前はない。だから、お前は株主じゃない」
……え?
お金を払ったのに?
株券も持っているのに?
それでも株主じゃない?
しかも、その社長がわざと株主名簿を書き換えなかったとしたら。
そんな理屈が通るのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
この日、私は一冊の古びた帳簿をめぐって、とんでもない会社乗っ取り騒動に巻き込まれることになります。
武器は、百枚の株券。
敵は、強欲なワンマン社長。
そして、最後に勝敗を分けたのは。
株主名簿の、たった一行でした。
「父の会社から、追い出されそうなんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、そう言いました。
三十歳くらいでしょうか。
紺色のスーツ。
きちんと結ばれた髪。
けれど、目の下には濃い隈があります。
「会社から、ですか?」
私は相談票を取りました。
「はい。正確には、父が残した株式を認めてもらえないんです」
女性の名前は、杉浦真理子さん。
三十一歳。
地元の機械部品メーカー、杉浦精機株式会社の創業者の娘さんでした。
杉浦精機。
従業員四十二名。
自動車工場向けの精密部品を製造する、町ではよく知られた会社です。
ところが。
「父が、半年前に亡くなりまして」
「……お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
真理子さんは、小さく頭を下げました。
亡くなった父親の名前は、杉浦清一。
杉浦精機を一代で築いた創業者。
生前は取締役会長を務めていました。
「父は、生きているうちに私へ株式を譲ってくれたんです」
「生前贈与ですか?」
「はい。三年前です」
真理子さんが鞄から封筒を取り出しました。
中には、株式贈与契約書。
日付。
当事者双方の署名押印。
そして。
株式百株を真理子さんへ贈与する旨が記載されていました。
「株券も受け取っています」
次に取り出されたのは、厚い紙の束でした。
薄い緑色。
中央には大きく、
――杉浦精機株式会社 株券。
と印刷されています。
「わあ……!」
私は思わず声を上げました。
本物の株券!
現代でも古い株券を見る機会はありますが、日常生活でそうそう触れるものではありません。
しかも百枚。
証券番号が一枚ずつ振られています。
会社の印章もある。
「これ、全部お父様から?」
「はい」
「百株ですか」
「そうです」
真理子さんは頷きました。
「父が、私に会社を守ってほしいと言って……」
その目が潤みました。
「でも、今の社長が」
「社長?」
「大久保重雄という人です」
名前が出た瞬間。
相馬先輩の眉が動きました。
「大久保?」
「ご存じなんですか?」
「名前だけな。杉浦精機の社長になった男だろ」
「はい」
真理子さんは唇を噛みました。
「父が亡くなってから、急に態度が変わったんです」
そして。
一枚の通知書を差し出しました。
私は読みました。
――杉浦真理子殿。
――貴殿は当社株主名簿に記載されていないため、当社の株主としての地位を認めることはできません。
――したがって、今後開催される株主総会への出席及び議決権行使を認めません。
――なお、貴殿が保管する株券についても、当社はその権利関係を承認しておりません。
……。
私は顔を上げました。
「え?」
株券はある。
贈与契約書もある。
それなのに。
会社は株主として認めない?
「父から受け取ったあと、株主名簿を書き換えてほしいと頼んだんです」
真理子さんが言いました。
「会社には、何度も」
「いつですか?」
「最初は三年前です」
「三年前?」
「はい」
私は驚きました。
「そんなに前から?」
「父がまだ生きていた頃です」
真理子さんは別の書類を取り出しました。
名義書換請求書。
受付日付印。
そして。
大久保社長の署名がある受領確認書。
「そのとき、社長は言いました」
真理子さんは、悔しそうに続けました。
「忙しいから、あとで名簿を書き換えておくって」
「……それで?」
「何度催促しても、やってくれませんでした」
私は紙を見つめました。
嫌な予感がします。
「お父様は?」
「父も催促していました。でも、体調を崩してからは、社長に任せきりで……」
なるほど。
つまり。
父親の存命中に、株式の贈与があった。
株券も渡された。
名義書換も請求した。
それなのに会社が手続きを放置した。
そして父親が亡くなると。
「名簿に名前がないから株主じゃない」
そう言い出した。
……。
ちょっと待ってください。
これ。
完全に、社長の都合じゃないですか。
「株主名簿ですね!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「大丈夫です! 会社法で解決できます!」
相馬先輩が、新聞から顔を上げました。
「……何法?」
「あ」
しまった。
私は固まりました。
会社法。
令和の日本では、株式会社の基本的なルールを定める独立した法律。
でも。
ここは昭和六十三年。
まだ、会社法という単独の法律は存在しません。
「あ、いえ!」
私は慌てて言い直しました。
「商法です! 商法第二編!」
「最初からそう言え」
「はい……」
危ない。
未来人。
またやりました。
「それにしても」
私は株券を持ち上げました。
「今の株式会社って、原則として株券を発行しないんですよね」
「……今の?」
相馬先輩が目を細めました。
「あっ」
「こはる」
「はい」
「株式会社が株券を発行するのは、普通のことだろ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ」
そうでした。
現代では、会社法第二百十四条により、株券は原則不発行。
定款に定めがある場合だけ、株券を発行できます。
でも昭和六十三年は違います。
株券の発行を前提にした商法の時代。
現代のように、株券不発行を原則とする制度ではありません。
「まったく……」
相馬先輩が頭を掻きました。
「お前、たまに妙な常識を持ち出すよな」
「すみません……」
「それより、今ある株券を見ろ」
「はい」
「これは何だ」
「株式についての権利を表す有価証券です」
「そうだ」
先輩は頷きました。
「ただの記念品じゃねえ」
「はい」
「株式を譲り受けるときに、株券がどういう役割をするのか。そこが大事だ」
私は手元の株券を見直しました。
百枚。
百株。
証券番号は連続。
贈与契約書もある。
父親から娘へ、株券が交付されている。
そして。
株主名簿の名義書換が、されていない。
……あ。
「先輩」
「何だ」
「これ、名義書換の対抗要件が問題になりますね」
「ようやく来たか」
そうです。
株式を譲り受けた人が、会社に対して株主としての権利を主張するためには、株主名簿への記載が重要になります。
でも。
そこで終わりではありません。
会社自身が、わざと名義書換を拒否していたとしたら?
「所長!」
私は奥を振り向きました。
「何だ」
「昭和四十一年の最高裁判例、使えませんか!」
片桐所長が、ゆっくり顔を上げました。
「……何についての判例だ」
「株主名簿の名義書換を、会社が不当に拒絶した場合です!」
所長は少しだけ目を細めました。
そして。
「相馬」
「はい」
「定款を確認しろ」
「了解です」
「こはる」
「はい!」
「株券の番号と取得経緯を整理しろ」
「分かりました!」
「その前に」
所長は真理子さんを見ました。
「株主総会は、いつですか」
「十日後です」
「議題は?」
真理子さんは、もう一枚の通知書を差し出しました。
そこには。
――取締役選任の件。
――重要な工場設備の処分に関する報告。
と書かれていました。
「社長は、工場を売るつもりなんです」
「……工場を?」
「はい。古い工場を売却して、別の事業を始めると言っています」
真理子さんの声が震えました。
「でも、あそこには父が買った旋盤があるんです。四十二人の従業員も働いています」
私は息を呑みました。
「社長は、株主総会から私を締め出して、自分の言うことを聞く取締役だけにするつもりなんです」
……。
なるほど。
これは単に名前を書き換えるかどうかの問題ではありません。
会社の支配権。
株主総会の議決権。
そして。
四十二人の生活。
株主名簿の一行が、その全部につながっているのです。
翌日。
私と相馬先輩は、杉浦精機株式会社へ向かいました。
もちろん。
法律紛争の代理交渉をするためではありません。
真理子さんの依頼で、書類作成に必要な資料を確認するためです。
会社側には、事前に目的を伝えています。
工場の前には、古いトラックが停まっていました。
建物の中から聞こえる機械音。
油の匂い。
作業服の従業員。
私は少し懐かしくなりました。
こういう工場。
昭和の町には、まだたくさんあります。
受付を通り、応接室へ案内されました。
そこにいたのは。
「……行政書士?」
大きな革張りの椅子に座った、五十代半ばの男でした。
太い指。
金色の腕時計。
灰皿には、吸い殻が山になっています。
大久保重雄。
杉浦精機株式会社の代表取締役社長です。
「はい。片桐行政書士事務所の相馬です」
「で?」
大久保は、鼻で笑いました。
「何の用だ」
「株式の取得関係と名義書換請求について、資料確認のため伺いました」
「真理子の件か」
「はい」
大久保は、ゆっくり煙草をくわえました。
「無駄だよ」
「無駄?」
「あいつは株主じゃない」
出ました。
いきなりです。
「名簿に名前がないんだからな」
大久保は机を指で叩きました。
「会社ってのはな、株主名簿で株主を決めるんだよ」
「……」
「俺が社長だ。俺が管理している名簿に名前がなければ、それまでだ」
私は思わず聞き返しました。
「でも、株券は真理子さんが持っていますよね?」
「ああ?」
「お父様から譲り受けた株券です」
「知ってるよ」
「名義書換の請求書も、三年前に受け取っていますよね?」
大久保は一瞬、目を細めました。
「……だったら何だ」
「どうして名義書換をしなかったんですか?」
「忙しかったんだよ」
「三年間も?」
「会社の仕事ってのはな、お嬢ちゃん」
大久保は笑いました。
「試験勉強みたいに簡単じゃねえんだ」
……。
うわ。
妙に腹が立ちます。
「それにな」
大久保は続けました。
「株券なんて、ただの紙だろ」
「……ただの紙?」
「あいつが持っていようが、名簿を書き換えなければ会社では通用しねえ」
私は言葉を返そうとしました。
でも。
「こはる」
相馬先輩が制しました。
「はい」
「聞くだけでいい」
先輩は、大久保に向き直りました。
「つまり、名義書換請求を受けたこと自体は認めるんですね」
「ああ」
「株券が真理子さんへ渡っていることも?」
「そうだよ」
「そのうえで、会社として名義書換をしていない」
「そういうことだ」
相馬先輩は頷きました。
「分かりました」
「何が分かったんだ?」
「必要なことは確認できました」
大久保は、勝ち誇ったように笑いました。
「言っとくがな」
その声が低くなりました。
「会社は俺のものだ」
……。
私は思わず顔を上げました。
「俺が社長だ。俺が認めない株主なんぞ、存在しねえんだよ」
相馬先輩は何も言いませんでした。
ただ。
机の上の書類を、静かに揃えました。
「社長」
「何だ」
「会社は、社長個人の所有物じゃありませんよ」
「は?」
「株式会社ですから」
大久保の顔が引きつりました。
「何だと?」
「それでは、失礼します」
先輩は立ち上がりました。
私も慌てて続きます。
応接室を出る直前。
大久保の声が飛んできました。
「十日後の総会には、真理子を入れねえからな!」
私は振り向きそうになりました。
でも。
相馬先輩が小さく言いました。
「振り向くな」
「……はい」
廊下を歩きます。
工場の機械音が響いていました。
「先輩」
「何だ」
「腹が立ちます」
「ああ」
「あの社長、株主名簿を私物化してますよ!」
「そうだな」
「だったら、何で言い返さなかったんですか!」
先輩は立ち止まりました。
「こはる」
「はい」
「名義書換しなかった理由、聞けただろ」
「はい」
「株券が渡ってることも認めたな」
「はい」
「請求書を受け取ったことも認めた」
「はい」
「十分だ」
私は首をかしげました。
「……十分?」
相馬先輩は、にやりとしました。
「自分で逃げ道を減らしてくれたんだよ」
……。
なるほど。
あの男。
自分が有利だと思って、全部しゃべったんですね。
「でも、先輩」
「何だ」
「どうやってひっくり返すんですか?」
相馬先輩は、鞄を軽く叩きました。
「六法と、昭和四十一年の最高裁判例だ」
私は思わず笑いました。
来ました。
昭和の商法。
そして、最高裁判例。
あの社長の自信満々な理屈を。
今から、紙の上で崩します。
事務所に戻ると。
片桐所長が、古い定款の写しを広げていました。
「相馬」
「はい」
「確認できたか」
「ええ。社長は、三年前の名義書換請求を受けたことを認めました」
「理由は?」
「忙しかったそうです」
所長は黙りました。
そして。
「三年もか」
「そうです」
私は思わず言いました。
「忙しいにも限度がありますよね!」
所長は答えませんでした。
代わりに、定款の一か所を指差しました。
「ここを読め」
「はい」
私は読み上げました。
――当会社の株式を譲渡するには、取締役会の承認を要する。
……あ。
「株式譲渡制限!」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
まずい。
私は株券を見ました。
株式の譲渡が制限されている会社では、ただ株券を渡せば無条件に会社へ対抗できるとは限りません。
定款で必要とされた承認。
それが問題になります。
「所長!」
「何だ」
「取締役会の承認は取っていたんでしょうか?」
「これを見ろ」
所長が差し出したのは、三年前の取締役会議事録でした。
私は読みました。
――議案第一号。
――杉浦清一所有の当会社普通株式百株を、杉浦真理子へ譲渡する件。
――審議の結果、出席取締役全員異議なく承認した。
……。
ありました。
承認。
しかも。
私は署名欄を見て、目を丸くしました。
「所長!」
「何だ」
「大久保社長の署名押印があります!」
「そうだ」
「本人が承認してるじゃないですか!」
相馬先輩が笑いました。
「見事にな」
私はもう一度、議事録を見ました。
大久保重雄。
確かに名前があります。
押印もあります。
取締役会で、株式譲渡を承認していた。
なのに。
三年後には、
「株主とは認めない」
ですか。
……。
これは。
「所長」
「何だ」
「ひどくないですか?」
「ひどいな」
所長が、あっさり答えました。
「ただし」
「はい」
「ひどいだけでは、書面にならん」
所長は資料を並べました。
株式贈与契約書。
株券百枚。
取締役会議事録。
名義書換請求書。
受領確認書。
そして。
株主名簿。
「まず、事実を整理しろ」
「はい!」
私はノートを開きました。
第一。
父親は株式百株を娘へ贈与した。
第二。
株券百枚が娘へ交付された。
第三。
定款上必要な取締役会の承認があった。
第四。
娘は会社へ名義書換を請求した。
第五。
会社は三年間、書換に応じなかった。
第六。
会社はその未了を理由に、娘の株主権を否認している。
「……あれ?」
私は鉛筆を止めました。
「先輩」
「何だ」
「これ、完全に会社側が原因ですよね」
「そういうことだ」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の商法。
株主名簿。
名義書換。
株式譲渡。
そして。
最高裁判所。
昭和四十一年七月二十八日。
「ありました!」
私は判例集を机に置きました。
「株式の名義書換を、会社が正当な理由なく拒絶した事件です!」
相馬先輩が頷きました。
「読んでみろ」
私は判例の要旨を追いました。
株式の名義書換を正当な理由なく拒んだ会社は。
その書換がされていないことを理由に、株式の譲渡を否認できない。
そして。
会社の過失によって名義書換がされなかった場合にも、同じ考え方が及ぶ。
……。
私は顔を上げました。
「先輩!」
「何だ」
「これです!」
「そうだ」
「会社が自分で書換を拒んでおいて、書換がないから株主じゃないって……」
「通用しねえってことだ」
私は息を吸いました。
なるほど。
株主名簿への記載は、確かに重要です。
会社に対する権利の主張に関わる。
でも。
その名簿を管理している会社自身が、理由もなく書換を拒んだら。
会社は、その不備を盾にできない。
「つまり」
私は言いました。
「株主名簿は、会社が好き勝手に株主を決めるためのものじゃないんですね」
「そうだ」
片桐所長が短く答えました。
「名簿は権利関係を明確にするためのものだ」
「はい」
「権利を消すための帳簿ではない」
……。
その言葉。
私は、しばらく忘れられそうにありませんでした。
「でも、一つ疑問があります」
私は手を挙げました。
「何だ」
相馬先輩が聞きます。
「株券を持っていることと、株主名簿に名前があることって、どう違うんでしょう?」
「いい質問だな」
「褒めました?」
「まだだ」
「……またですか」
先輩は株券を一枚取りました。
「こはる。お前がこの株券を、正当に譲り受けたとする」
「はい」
「でも、会社の株主名簿には前の持ち主の名前がある」
「はい」
「そこで第三者が現れた」
「第三者?」
「たとえば、前の持ち主から株式を譲り受けたと主張する別の人間だ」
私は少し考えました。
「……株券が重要になりますね」
「そうだ」
昭和のこの会社は、株券を発行している株式会社です。
株式の権利関係を判断するうえで、株券の交付や所持が大きな意味を持ちます。
「一方で」
相馬先輩が続けました。
「会社に対して議決権などを行使するには、株主名簿の名義書換が問題になる」
「なるほど」
「第三者との関係と、会社との関係を一緒くたにするな」
私は頷きました。
現代の教材では。
株券発行会社。
株券不発行会社。
その違いを勉強しました。
現代の株券発行会社では、株券の所持が第三者との関係で重要になる。
一方、株券不発行会社では、株主名簿の名義書換が会社だけでなく第三者に対する対抗要件にもなる。
でも。
今は昭和六十三年。
現代の株券不発行を原則とする制度を、そのまま持ち込んではいけません。
「先輩」
「何だ」
「株券と株主名簿、どっちか一つだけ見ても駄目なんですね」
「そのとおりだ」
そして。
今回の事件では、さらに特殊な事情があります。
会社が名義書換を不当に拒絶した。
つまり。
原則だけでなく、最高裁判例による例外が問題になる。
「……すごい」
私は思わず呟きました。
「何がだ」
「会社が名簿を握っていても、何でもできるわけじゃないんですね」
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
そして。
「商法を守った奴が勝つんだよ」
……出ました。
先輩の決め台詞。
でも。
今日は、ものすごく格好よく聞こえました。
「もう一つ、調べることがあります」
私は言いました。
「何だ」
「株主名簿そのものです」
所長が頷きました。
「そうだな」
「真理子さんは、実際の名簿を確認していないんですよね」
「ああ」
「だったら、閲覧を求められないでしょうか?」
相馬先輩が、こちらを見ました。
「どういう目的で?」
「父親から譲り受けた百株が、現在誰の名義で記載されているか確かめるためです」
「それだけか?」
「ほかにも、会社の株式数や株主構成を確認したいです」
私は資料を見ました。
杉浦精機の発行済株式総数は、三百株。
真理子さんが譲り受けたのは、百株。
全体の三分の一です。
決して、小さな持分ではありません。
「社長が、ほかの株式をどう扱っているのかも確認したいです」
所長が頷きました。
「理由を明らかにして、閲覧と謄写を求める書面を作れ」
「はい!」
私は新しい紙を取りました。
株主名簿の閲覧。
そして、謄写。
謄写というのは、書き写したり、複写したりすること。
現代ならコピー機を使うのが普通ですが。
この時代でも、適切な方法による記録が問題になります。
「先輩」
「何だ」
「株主や会社債権者には、株主名簿を確認する権利があるんですよね」
「ああ」
「でも、何でも無条件というわけではない」
「そうだ」
相馬先輩は頷きました。
「会社を困らせるためとか、株主の情報を売り飛ばすためとか、そういう目的まで守られるわけじゃねえ」
なるほど。
株主名簿には、人の名前や住所など、大切な情報が載っています。
だから。
権利行使のための正当な調査と、嫌がらせや情報の悪用は違う。
「今回の目的は?」
相馬先輩が聞きました。
「自分が取得した株式の記載状況を確認し、株主としての権利を守るためです!」
「よし」
私は嬉しくなりました。
そして。
書類に、はっきり記しました。
――本件請求は、株式取得に伴う株主としての権利の確保及び行使に必要な調査を目的とするものである。
片桐所長が、その一文を見ました。
「悪くない」
「本当ですか!」
「ああ」
やった。
所長からの珍しい高評価。
……と思ったら。
「ただし」
「はい」
「相手が拒絶する可能性も考えておけ」
「え?」
「請求者の地位そのものを争っているからな」
私は黙りました。
確かに。
大久保社長なら、こう言いそうです。
「お前は株主じゃない。だから名簿も見せない」
……。
それ。
ひどい循環論法ですね。
「では、どうしましょう?」
私が聞くと。
所長は、もう一枚の資料を取り出しました。
「会社に対する債権者の立場も確認しておけ」
「……債権者?」
真理子さんは、株式を譲り受けただけではありませんでした。
実は。
父親が会社へ貸し付けていた資金の一部について、別途、真理子さんへの債権譲渡がされていたのです。
その通知資料も残っていました。
「えっ!」
私は驚きました。
「真理子さん、会社に対する債権者でもあるんですか!」
「そうだ」
「だったら……」
所長が頷きました。
「請求資格を、もう一つ持っていることになる」
株主としての地位を争っている。
でも。
債権者としても、会社の資料を確認する利益がある。
もっとも、債権者だからといって無制限に情報を取得できるわけではありません。
請求の目的。
必要性。
権利との関係。
それらを明確にすることが重要です。
「所長」
「何だ」
「これ、すごいですね」
「何がだ」
「社長が『株主じゃない』と言っても、それだけでは閲覧請求の話を終わらせられない」
「そうだ」
私は、思わず笑ってしまいました。
法律。
ちゃんと逃げ道を考えています。
もちろん。
悪い人の逃げ道ではありません。
権利を持つ人が、正当に権利を確かめるための道です。
その日の午後。
私たちは書類を完成させました。
一通目。
株主名簿の名義書換請求に関する通知書。
二通目。
株主名簿の閲覧・謄写請求書。
そして。
三通目。
株主総会における権利行使に関する通知書。
いずれも、真理子さん本人の意思を確認して作成するものです。
私は一通目を読み上げました。
「第一。通知人杉浦真理子は、昭和六十年某月某日、杉浦清一との株式贈与契約により、貴社普通株式百株を取得した」
「うん」
「第二。右株式については、貴社定款に従い、取締役会の承認を得ている」
「うん」
「第三。通知人は当該株式に係る株券百枚の交付を受け、適法に所持している」
「続けろ」
「第四。通知人は同日、貴社に対して株主名簿の名義書換を請求し、貴社はその請求書を受領した」
私は息を吸いました。
「第五。しかるに貴社は、正当な理由を示さないまま、約三年間にわたり名義書換を行っていない」
相馬先輩が頷きました。
「ここからだ」
「はい!」
私は、ゆっくり読みました。
「第六。最高裁判所昭和四十一年七月二十八日判決の趣旨に照らせば、正当な理由なく株主名簿の名義書換を拒絶した会社は、その名義書換未了を理由として株式譲渡を否認することができない」
……。
部屋が静かになりました。
私は続けました。
「よって、通知人は、貴社に対し、速やかな名義書換を求めるとともに、名義書換未了のみを理由として株主権の行使を拒絶しないよう求める」
読み終わりました。
私は顔を上げました。
「……どうでしょう?」
相馬先輩が、にやりとしました。
「悪くねえ」
「やった!」
「だが、まだ足りない」
「ええっ!」
先輩は三通目を指差しました。
「株主総会だ」
「あ」
「十日後だろ」
「はい」
「名義書換のことだけ書いても、総会から締め出されたら意味がねえ」
私は慌てて頷きました。
「そうですね!」
そこで。
三通目には、次の内容を盛り込みました。
真理子さんが取得した百株について、株主としての権利を行使する意思があること。
会社が名義書換を不当に拒絶している事情があること。
株主総会の出席や議決権行使について、適法な取扱いを求めること。
さらに。
会社がなお権利行使を妨げる場合には、弁護士への相談を含め、必要な法的措置を検討すること。
……。
「所長」
「何だ」
「これ、社長が読んだら嫌でしょうね」
「そうだろうな」
「だって、逃げ道が……」
私は書類を見直しました。
贈与契約書がある。
株券がある。
取締役会の承認がある。
名義書換請求書がある。
受領確認書がある。
そして、最高裁判例まである。
「……全部、塞がってます」
所長は、静かに言いました。
「塞いだんじゃない」
「え?」
「最初から、相手が無理をしている」
私は黙りました。
「その無理を、書類で見えるようにしただけだ」
……。
なるほど。
片桐所長らしい言い方です。
相手を怒鳴らない。
脅さない。
ただ。
事実と法律を、正確に並べる。
すると。
どちらが無理なことを言っているのか、誰の目にも分かるようになる。
「こはる」
所長が言いました。
「最後に、定款と議事録の整合をもう一度確認しろ」
「はい!」
「株券番号も、一枚ずつ照合だ」
「百枚全部ですか?」
「全部だ」
「……!」
「一枚でも間違えれば、そこを突かれる」
私は慌てて株券を並べました。
一枚。
二枚。
三枚。
……。
百枚。
確認します。
全部。
こんな細かい作業。
現代のパソコンなら、もっと簡単に管理できるのに。
でも。
昭和六十三年。
ここでは、紙が主役です。
紙に書かれた番号。
紙に押された印鑑。
紙に残された日付。
そして。
紙に書かれていない、一人の株主の名前。
その一つ一つが。
会社の未来を左右するのです。
内容証明郵便を発送して、三日後。
片桐行政書士事務所に、電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……片桐先生は、いるか』
低い声。
どこかで聞いたことがあります。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
『杉浦精機の大久保だ』
……。
来ました。
あのワンマン社長。
「少々お待ちください」
私は所長へ受話器を渡しました。
「片桐です」
『……あの書面だが』
「はい」
『弁護士に見せた』
私は耳を澄ませました。
『……名義書換を拒んだ会社が、名義書換未了を理由に株主の権利を否定するのは難しいと言われた』
所長は、静かに聞いています。
『しかも、取締役会議事録がある』
「はい」
『俺のハンコも押してある』
「そのようですね」
電話の向こうで、ため息が聞こえました。
『……あれが残ってるとは思わなかった』
私は思わず顔を上げました。
……何ですか、それ。
残っていなければ、知らんぷりするつもりだったんですか。
『このまま真理子を総会から締め出したら、あとで総会決議を争われるかもしれんと言われた』
「そうですか」
『取締役の責任まで問題になるとも……』
所長は淡々と答えました。
「法的な評価については、貴社の弁護士と十分にご確認ください」
『……分かってる』
大久保の声が、小さくなりました。
『株主名簿は、書き換える』
私は、思わず息を呑みました。
『真理子にも、総会の案内を出す』
「そうですか」
『それから……』
少し、沈黙。
『名簿の閲覧も認める』
私は拳を握りました。
やった。
やりました。
でも。
所長は、まったく喜んだ様子を見せません。
「それらの手続が適法に行われたことを、書面で確認できるようにしてください」
『……分かった』
「当事者間の今後の対応については、ご本人同士、または必要に応じて弁護士を通じてご確認ください」
『ああ』
電話が切れました。
「所長!」
「何だ」
「書き換えるって言いましたよね!」
「ああ」
「総会にも出られるんですよね!」
「適切に手続が進めばな」
「やりましたね!」
相馬先輩が、横から言いました。
「まだだ」
「え?」
「実際に書き換わるまで安心すんな」
……。
あ。
そうでした。
相手は、あの大久保社長。
口約束だけで終わらせるわけにはいきません。
「確認書類が届くまでは、終わりじゃねえ」
「はい!」
私は頷きました。
紙の上で争った以上。
終わりも、紙で確認する。
それが。
行政書士の仕事なのです。
五日後。
真理子さんが、事務所を訪れました。
「名簿が、書き換わりました」
その声は、少し震えていました。
差し出されたのは、会社から送られてきた書面。
株主名簿の該当部分を示す資料。
そこには。
――株主氏名 杉浦真理子。
――所有株式数 百株。
と記載されていました。
「……!」
私は思わず立ち上がりました。
「真理子さん!」
「はい」
「ちゃんと、お名前があります!」
真理子さんは、何度も頷きました。
「はい……!」
目元が潤んでいます。
「父から受け取った株式が、やっと……」
その言葉が、途中で止まりました。
私は、書面を見つめました。
ただの一行です。
名前と株数。
それだけ。
でも。
その一行を書くまでに、三年かかった。
その一行を拒み続けた人がいた。
そして。
その一行によって、失われかけた株主としての地位が、会社の帳簿に正しく反映された。
「真理子さん」
私は言いました。
「よかったですね」
「ありがとうございます」
真理子さんは、深く頭を下げました。
「父が残してくれたものを、守れました」
片桐所長が、静かに言いました。
「まだ、会社そのものを守る仕事は残っています」
「……はい」
「株主総会では、ご自身の意思で判断してください」
「はい」
真理子さんは、しっかり頷きました。
「私は、工場を守りたいんです」
四十二人の従業員。
父親が育てた会社。
古い旋盤。
毎日聞こえる機械音。
「利益が出ない時期もありました。でも父は、一度も簡単に従業員を辞めさせようとはしませんでした」
真理子さんは、微笑みました。
「みんなで働いて、みんなで暮らしていける会社にしたいって」
私は、胸が少し熱くなりました。
株式。
株主名簿。
議決権。
試験のテキストでは、ただの専門用語です。
でも。
その向こうには、人がいる。
働く人。
会社を作った人。
会社を受け継ぐ人。
そして。
自分の利益だけを考える人に、会社を好き勝手にさせたくないと願う人。
株主名簿に名前を書くというのは。
単なる事務処理ではないのです。
その後。
杉浦精機の株主総会は、予定どおり開催されました。
真理子さんも出席できました。
百株に対応する議決権を行使し、工場の将来について、自分の意見を述べたそうです。
大久保社長の提案が、すべて否決されたわけではありません。
百株を持っているからといって、三百株の会社を一人で支配できるわけではないからです。
それでも。
以前のように、真理子さんを最初から数に入れず、意見も聞かずに進めることはできなくなりました。
会社は、工場設備の処分計画について、改めて説明することになったそうです。
そして。
従業員代表も交えた検討の場が設けられることになりました。
すべてが、一度に解決したわけではありません。
でも。
少なくとも。
誰か一人の都合だけで、会社の未来が決められる状況は変わったのです。
一週間後。
真理子さんが、もう一度事務所を訪れました。
今度は、一人ではありません。
隣には、作業服姿の男性がいました。
六十歳くらいでしょうか。
手は油で黒くなっています。
「こちら、父の代から働いてくださっている職人さんです」
男性が頭を下げました。
「杉浦精機の山下です」
「初めまして!」
私も頭を下げました。
山下さんは、照れくさそうに笑いました。
「お嬢さんが、会社を守ってくれたって聞きましてね」
「いえ、私は……」
真理子さんが首を振ります。
「まだ何も守れていません」
「そんなことないですよ」
山下さんは言いました。
「少なくとも、俺たちの声を聞こうとしてくれた」
その手には、小さな紙袋がありました。
「これ、みんなからです」
中身は。
町のお菓子屋さんの、お饅頭でした。
「えっ!」
私は驚きました。
「いただいていいんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます!」
相馬先輩が横から呟きました。
「お前が一番喜んでどうする」
「だって、お饅頭ですよ!」
「見りゃ分かる」
真理子さんが笑いました。
山下さんも笑いました。
私は、その光景を見ながら思いました。
法律の仕事って。
こういう瞬間があるんですね。
誰かの権利を守る。
ただ、それだけ。
でも。
その向こうにある生活まで、少しだけ明るくなることがある。
株主名簿。
たった一冊の帳簿。
その一行を正しく書かせただけで。
会社で働く人たちが、少しだけ未来を信じられるようになった。
私は、なんだか嬉しくなりました。
二人が帰ったあと。
私は机の上に、一枚の株券の写しを置きました。
杉浦精機株式会社。
普通株式。
額面の印字。
会社の印章。
証券番号。
「相馬先輩」
「何だ」
「昔の株券って、格好いいですね」
「そうか?」
「はい。なんというか、会社の歴史が詰まっている感じがします」
「ただの紙切れじゃねえからな」
「そうですよね」
私は頷きました。
でも。
「現代だと、こういう株券を発行しない株式会社が普通なんですよね」
「……また現代?」
相馬先輩が顔をしかめました。
しまった。
また口が滑りました。
「い、いえ! 仮の話です!」
「何の仮だよ」
私は慌てて言いました。
「もし、将来、株券を発行しない会社が普通になったらどうするのかなって!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「そりゃ、そのときの法律次第だろ」
「ですよね」
「株券がなくても、誰が株主か分かる仕組みがあればいいんじゃねえか」
私は目を丸くしました。
「先輩!」
「何だ」
「それです!」
「何がだ」
「今の話、すごく大事です!」
そうです。
現代の会社法では、株券は原則として発行しません。
定款に株券を発行する旨の定めがある場合に発行します。
さらに。
株券発行会社では、原則として株式発行後、遅滞なく株券を発行する必要があります。
ただし、非公開会社である株券発行会社には、株主から請求されるまで株券を発行しないことができる例外があります。
一方。
株券不発行会社では、株主名簿への記載が、会社だけでなく第三者に対する権利の主張にも重要になります。
……。
私は心の中で、急いで整理しました。
でも。
これをそのまま口にしたら。
相馬先輩から、また怒られます。
未来の会社法を、昭和の事務所で説明するわけにはいきません。
「こはる」
片桐所長が、奥から声をかけました。
「はい!」
「何を考えている」
「株券と株主名簿の関係です」
「そうか」
「株券が大事なのも分かります。でも、株主名簿も大事なんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「ただし、今回のことを忘れるな」
「はい」
「帳簿に名前がないからといって、必ずしも権利がないわけではない」
「はい!」
「誰が、どのように株式を取得したか。その事実を見ろ」
私は大きく頷きました。
そうです。
現代でも昭和でも。
株式を取得すること。
会社に対して権利を主張すること。
第三者に対して権利を主張すること。
これらは、きちんと区別して考える必要があります。
そして。
会社が不当に名義書換を拒絶した場合。
その会社が、名義書換未了を理由に株主権を否定することは許されない。
「……面白いですね」
私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「株主名簿って、会社が管理するものなのに」
「うん」
「会社自身が悪いことをした場合には、その名簿を盾にできないんです」
「そうだな」
「自分で名前を書かなかったくせに、名前がないから権利もないっていうのは、おかしいですもんね」
「当たり前だ」
先輩は、にやりと笑いました。
「法律ってのは、そこまで馬鹿じゃねえんだよ」
私は思わず吹き出しました。
……確かに。
そうかもしれません。
夕暮れ。
片桐行政書士事務所。
私は、今日の事件を思い返していました。
杉浦真理子さん。
父親から百株を譲り受けた。
株券も受け取った。
取締役会の承認もあった。
名義書換も請求した。
なのに。
社長が、勝手に放置した。
そして。
「名簿に名前がないから株主じゃない」
そう言って、会社から締め出そうとした。
でも。
昭和四十一年の最高裁判例は、そんな理屈を許さなかった。
大久保社長は、結局、自分が作った名簿の不備を盾にはできなかったのです。
「所長」
「何だ」
「今日、一つ分かりました」
「言ってみろ」
「株券と株主名簿は、どちらも株主の権利に関係する大切なものです」
「うん」
「でも、株券を持つことと、会社に対して株主権を主張できることは、区別して考えないといけません」
「そうだ」
「そして、名義書換を会社が不当に拒んだ場合には、例外がある」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートに、一行を書きました。
――株券は株式の権利を表し、株主名簿は会社との関係を明らかにする。ただし、会社が不当に名義書換を拒んでも、株主の権利までは消せない。
……よし。
覚えました。
これなら、行政書士試験で問題が出ても、もう迷いません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「一つ聞くぞ」
「何でしょう?」
「株式会社の株券って、何のためにある?」
「株式の権利を表し、株式の流通に関わる有価証券です!」
「よし」
「株主名簿は?」
「会社が株主を把握し、株主としての権利行使などを取り扱うための帳簿です!」
「よし」
「名義書換を会社が不当に拒絶したら?」
「会社は、その未了だけを理由に株式譲渡を否認できません!」
「よし」
……。
やった。
三問正解。
「じゃあ最後」
「はい!」
相馬先輩が、にやりとしました。
「昭和六十三年に、会社法第二百十四条って法律はあるか?」
「ありません!」
「おお」
「会社法そのものが、まだ独立していません!」
「よし」
「この時代は商法第二編です!」
「分かってきたじゃねえか」
私は得意になりました。
「ちなみに先輩!」
「何だ」
「現代なら、発起人一人、取締役一人、資本金一円でも株式会社を作れるんですよ!」
「……は?」
しまった。
「何言ってんだお前」
「あ、いえ!」
「発起人は七人以上必要だろ」
「はい!」
「取締役も三人以上だ」
「はい!」
「監査役だって必要だろ」
「そうです!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「お前、どこの国の商法を勉強してきたんだよ」
……。
令和の日本です。
もちろん、言えません。
私は慌ててノートを閉じました。
「すみません! ちょっと夢を見ていました!」
「どんな夢だよ」
「会社がもっと簡単に作れる夢です!」
「寝言は寝て言え!」
また怒られました。
でも。
私は、心の中で笑いました。
昭和の商法。
会社を作るのも大変。
株券も重要。
取締役も、監査役も、頭数が必要。
名義貸しや形式だけの役員が生まれやすい制度。
それでも。
人の権利を守ろうとする原則は、確かに存在しています。
だからこそ。
法律は、時代とともに変わっていくのでしょう。
会社を作りやすくするため。
株式の管理を合理化するため。
そして。
誰がどんな権利を持っているのか、より明確にするために。
でも。
どれほど仕組みが変わっても。
変えてはいけないものがあります。
会社を経営する人が、株主の権利を勝手に消してはいけない。
社長が名簿を管理しているからといって、株主を好きに選べるわけではない。
会社は。
社長個人の持ち物ではないのです。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ぼんやりしてねえで、書類を片付けろ!」
「今、株主名簿について考えていたんです!」
「考えるのはいいから、手も動かせ!」
「はい!」
私は慌てて資料を整理しました。
株券の写し。
贈与契約書。
取締役会議事録。
名義書換請求書。
内容証明郵便の控え。
それらを一冊のファイルにまとめます。
表紙には。
――杉浦精機株式会社 株式名義書換関係。
と書きました。
……。
私は、少しだけ手を止めました。
このファイルには。
百枚の株券と、一人の娘さんの権利を守った記録が詰まっています。
きっと。
父親が娘に託した想いも。
四十二人の従業員の未来も。
ほんの少しだけ。
この紙の束に、守られたのでしょう。
「相馬先輩」
「今度は何だ!」
「私、株主名簿って好きになりました!」
「また変な趣味が増えたな」
「だって、名前が一行あるだけで、こんなに違うんですよ!」
「そうだな」
「法律って、やっぱり面白いです!」
相馬先輩は、煙草を灰皿に押しつけました。
そして。
「こはる」
「はい!」
「覚えとけ」
「何をですか?」
「株主名簿に名前を書くのは、社長の仕事かもしれねえ」
「はい」
「だがな」
先輩は、にやりと笑いました。
「誰が本当の株主かを決めるのは、社長の気分じゃねえんだよ」
私は、大きく頷きました。
「はい!」
窓の外。
夕暮れの町に、工場の終業を知らせるサイレンが響きました。
今日も、どこかで機械が止まる。
作業服の人たちが、家へ帰る。
明日もまた、同じ工場で働く。
そんな当たり前の日常を。
一人の社長の身勝手な理屈で、簡単に壊してはいけない。
株券。
株主名簿。
名義書換。
どれも、試験では覚えるのが面倒な言葉です。
でも。
その一つ一つには、ちゃんと意味がある。
私は最後に、杉浦精機のファイルを棚へ戻しました。
そして、心の中で呟きました。
――名前を書かなかった人間に、その名前がないことを武器にさせてはいけない。
昭和六十三年。
会社法がまだ存在しない時代。
それでも商法は。
社長の金庫に眠る株主名簿よりも、ずっと大切なものを守っていたのです。
それは。
紙の上から消されかけた、一人の株主の権利でした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




