[会社法・種類株式と特別の定めのある株式]現場編 「社長の持つ一株だけが絶対」の嘘。黄金株をでっち上げた二代目社長と、百二十株に刻まれた亡き職人の約束
同じ一株でも、同じ価値とは限りません。
たくさん配当をもらえる株。
経営に口を出せない株。
勝手に他人へ譲れない株。
そして。
たった一株で、会社の重要な決定に待ったをかけられる株。
現代の株式会社には、そんな特別な株式が存在します。
ところが。
その特別さを、社長が好き勝手に決められると思ったら大間違いです。
会社の株式は、社長のおもちゃではありません。
まして。
昭和六十三年。
まだ現在の「会社法」という法律すら存在しない時代に。
未来の制度を都合よく持ち出して、他人の財産を奪おうとした男がいました。
そして、その男は知ることになります。
自分が偉いと思っていた会社には。
自分よりも強い、一冊の定款が存在することを。
「主人が残してくれた株を、紙切れにすると言われたんです」
その日の午後。
片桐行政書士事務所を訪れた女性は、そう言いました。
「紙切れ、ですか?」
私は思わず聞き返しました。
女性の名前は、村瀬文子さん。
五十四歳。
手には古びた風呂敷包み。
その中から、何枚もの株券が現れました。
株式会社村瀬精機。
町外れの工業団地にある、小さな金属加工会社です。
従業員三十二人。
旋盤やフライス盤を使い、自動車部品や農機具の精密部品を製造している会社。
「主人が、二十年前に作った会社なんです」
「ご主人は?」
「三年前に亡くなりました」
文子さんは、静かに答えました。
「創業したときは、工場の屋根も雨漏りしていたそうです。お金が足りなくて、従業員のお給料を払うために、自分の時計を質に入れたこともあったって」
私は黙って聞きました。
「でも、少しずつ注文が増えて。やっと会社が軌道に乗ったころ、主人は私に株を持たせてくれたんです」
文子さんは、一枚の株券を私に見せました。
そこには。
――優先株式。
と書かれていました。
「……優先株?」
私は目を瞬かせました。
株式。
普通株式。
優先株式。
種類株式!
来ました。
商法・会社法の重要論点です。
「文子さん。この株は何株ありますか?」
「百二十株です」
「ほかの株は?」
「会社全体では、普通株式が八百株あります」
私はノートを開きました。
普通株式、八百株。
優先株式、百二十株。
合わせて九百二十株。
「現在の社長は?」
「主人の弟です」
「弟さん?」
「村瀬剛志。五十八歳です」
文子さんの顔が曇りました。
「主人が亡くなってから、会社を継いだんです。でも、最近になって……」
そこで彼女は、もう一枚の紙を取り出しました。
――株式整理に関する通知。
差出人。
株式会社村瀬精機。
代表取締役 村瀬剛志。
私は読み始めました。
そして。
途中で手が止まりました。
――当社は経営合理化のため、優先株式の特別な権利を廃止する。
――今後、優先株式に対する優先配当は実施しない。
――また、代表取締役保有の株式一株について、会社の重要事項に対する特別拒否権を付与する。
――当該株式の保有者は、会社の株式取得及び株主構成の変更について、最終的な決定権を有する。
……。
私は読み直しました。
「先輩」
「何だ」
「すごいものが来ました」
相馬先輩が顔を上げました。
「何が」
「黄金株です!」
「何だそりゃ」
「拒否権付種類株式です! 社長の持っているたった一株に、特別な拒否権を――」
「待て」
先輩が私の手から通知を取りました。
「お前、また妙なことを言い出したな」
「あれ?」
「黄金株?」
「はい」
「そんな名前の株が、この商法のどこにある」
……。
私は固まりました。
しまった。
未来の会社法です。
現代の会社法第百八条。
そこには、内容の異なる種類株式が列挙されています。
剰余金の配当。
残余財産の分配。
議決権の制限。
譲渡制限。
取得請求権。
取得条項。
全部取得条項。
拒否権。
取締役や監査役の選任。
全部で九つの類型。
ところが。
今は昭和六十三年。
まだ会社法は存在しません。
しかも、現在のような幅広い種類株式制度も整備されていないのです。
「……先輩」
「何だ」
「もしかして」
「ああ」
「この時代に、現在の黄金株って……」
「そのまま持ち込めるわけねえだろ」
ぐはっ。
またやりました。
転生者の時代錯誤。
便利な現代知識が、昭和では使えない。
「じゃあ、この社長は……」
相馬先輩は通知を机に置きました。
「未来の制度を知ってるかどうかは知らねえが、とんでもねえ勘違いをしてやがる」
そこへ。
片桐所長が奥から出てきました。
「相馬」
「はい」
「定款はあるか」
「これから確認します」
文子さんが風呂敷を開きました。
「主人が残していたものなら、あります」
出てきたのは。
表紙が少し色あせた、一冊の冊子。
――株式会社村瀬精機 定款。
所長の目が、わずかに細くなりました。
「これだ」
「え?」
「株券より先に、これを見る」
私は首をかしげました。
「所長、株券も大事ですよね?」
「大事だ」
「でも?」
「株式にどんな権利があるか。そこを確かめるには、まず定款だ」
所長は静かにページをめくりました。
そして。
ある条文で、指を止めました。
「……見つけた」
その一言で。
事務所の空気が変わりました。
定款には、こう書かれていました。
――当会社は、普通株式及び優先株式を発行する。
――優先株式に対しては、普通株式に先立ち、一株につき年額金二千円を限度として、所定の優先配当を行う。
――優先株式に対する配当は、法令に従い配当し得る利益の範囲内において行う。
私は思わず声を上げました。
「これです!」
文子さんが驚きました。
「何でしょう?」
「文子さんの株には、普通株式より優先して配当を受けられる内容が定款に書かれているんです!」
つまり。
優先株式。
同じ会社の株でも、利益配当について特別な扱いを受ける株式。
これが今回の事件の出発点でした。
「ご主人は、どうしてこの株を文子さんに?」
私が尋ねると、文子さんは少し笑いました。
「主人は職人一筋でしたから、難しい法律は分からなかったと思います。でも、こう言っていたんです」
「何と?」
「お前には苦労をかけた。会社が利益を出せるようになったら、その一部はちゃんとお前に渡したい、って」
文子さんの目が潤みました。
「最初の十年間、私は工場の経理も掃除も、お茶くみも、全部やっていました」
「……」
「お給料なんて、まともにもらっていませんでした。だから主人は、株に特別な権利をつけてくれたんです」
私は定款を見つめました。
優先配当。
試験のテキストでは、たった四文字。
でも。
この人にとっては。
二十年分の苦労を認めてもらった証拠なのです。
「それを、社長が廃止すると?」
「はい」
「理由は?」
「今後は会社の資金を、全部、経営陣の判断で使うからだそうです」
……。
私は眉をひそめました。
会社のお金を経営判断で使うこと自体は、当然あり得ます。
利益がなければ、配当できないこともある。
会社の債権者を無視して、株主にお金を配ることもできません。
でも。
だからといって。
定款に書かれた株主の権利を、社長が勝手に消していいわけではありません。
「それで、優先株式をどうするつもりなんですか?」
文子さんは、最後の一枚を差し出しました。
――優先株式買取申出書。
記載された金額。
一株、千円。
百二十株。
合計十二万円。
「……十二万円?」
「はい」
「ご主人が残した百二十株を、全部?」
「そうです」
私はさらに読みました。
――本申出に応じない場合、今後の株式に関する取扱いについて、一切の保証をしない。
……。
何でしょう。
この、妙な威圧感。
「社長は、株を全部渡せと言っているんですね」
「はい」
文子さんは俯きました。
「主人との思い出を、お金に換えたいわけじゃないんです。ただ……」
「はい」
「主人が約束してくれたことを、なかったことにされたくないんです」
私は株券を見ました。
百二十株。
紙にすれば、ほんの数枚。
でも。
その裏には、一人の職人が妻に残した約束がある。
それを。
現社長が、十二万円で消そうとしている。
「所長!」
私は顔を上げました。
「この件、種類株主総会で守れるんじゃないですか!」
「ほう」
「現代の会社法では、種類株式の権利を害する定款変更などについて、種類株主総会の決議が必要になる場合があります!」
「そうだな」
「だから――」
「こはる」
相馬先輩が口を挟みました。
「また現代の会社法に戻ってるぞ」
「あっ!」
「今は昭和六十三年だ」
「はい……」
先輩は古い六法を開きました。
「だがな」
「はい?」
「昔の商法にも、種類株主を守る仕組みはある」
私は顔を上げました。
「本当ですか?」
「ああ」
片桐所長が言いました。
「種類株式という考え方そのものは、新しいものではない」
「……!」
「利益配当や残余財産の分配について、内容の異なる株式を認める仕組みは、昔からある」
「はい!」
「そして、その種類の株主に損害を及ぼすおそれがある定款変更について、種類株主総会の決議が必要となる場合がある」
所長は定款を閉じました。
「相馬」
「はい」
「株主総会の議事録を取り寄せろ」
「承知しました」
私は思いました。
なるほど。
現代の会社法ほど、株式の種類は豊富ではない。
でも。
昔の商法にも、守るべき株主の権利は存在する。
そして。
それを破ろうとする社長には、必ず確認すべき手続があるのです。
翌日。
私たちは、村瀬精機の事務所を訪れました。
目的は、文子さんの依頼に基づく資料の確認と、会社に残る書類の状況を把握すること。
紛争について代理交渉するためではありません。
社長との法律上の争いになれば、弁護士の領域です。
相馬先輩も、出発前に言っていました。
「いいか、こはる。俺たちは相手と示談するために行くんじゃねえ」
「はい」
「事実と資料を確認する。それ以上の法律交渉は引き受けない」
「分かりました」
「それなら行くぞ」
工場に入ると、金属を削る音が響いていました。
油の匂い。
旋盤の回転音。
作業服姿の職人たち。
その奥にある、ガラス張りの社長室。
そこに。
村瀬剛志がいました。
「何だ、行政書士?」
剛志は革張りの椅子にもたれかかっていました。
金色の腕時計。
派手なネクタイ。
机には、高級そうなゴルフクラブのカタログ。
「兄貴の女房が、そんなところに相談したのか」
……。
その言い方。
嫌な予感しかしません。
「株式に関する資料の確認で参りました」
相馬先輩が言いました。
「資料?」
「優先株式の権利変更について、決議の経過を確認したいと考えています」
「はっ」
剛志は鼻で笑いました。
「そんなもの、社長の俺が決めたんだよ」
来ました。
ワンマン社長。
このシリーズで、もっとも危険な一言。
――俺が決めた。
「株式の内容は定款に定められています」
私が言いました。
「だから?」
「社長が一人で変更できるとは限りません」
剛志は机を叩きました。
「嬢ちゃん、会社ってものが分かってねえな」
「……?」
「社長が責任を取るんだ。だったら社長が決めるのが当たり前だろ」
「でも、株主の権利は――」
「株主?」
剛志は笑いました。
「会社のことも分からねえ女房に、いつまでも特別配当なんか出せるかよ」
私は奥歯を噛みました。
文子さんは。
会社のことを分からない人ではありません。
工場が苦しかった時代を、経営者の妻として支えた人です。
それを。
「それにな」
剛志は引き出しから一枚の紙を出しました。
「これからは俺の一株に、特別な権限をつける」
そこには大きく、
――特別拒否権株式。
と書かれていました。
「この株を持っている俺が、会社の重要事項を全部決める。ほかの株主が何を言おうが関係ねえ」
私は目を見開きました。
そして。
思わず聞き返しました。
「社長、それ、定款で定めたんですか?」
「当然だ」
「いつですか?」
「この前の株主総会だ」
「適法な決議と必要な手続を経ているんですか?」
「当たり前だろ」
剛志は立ち上がりました。
「俺が社長だぞ!」
……。
また、その理屈ですか。
「嬢ちゃん」
剛志がにやりと笑いました。
「法律ってのは、会社を動かす人間のためにあるんだよ」
私は言葉を失いました。
そのとき。
相馬先輩が低い声で言いました。
「社長」
「何だ」
「その特別拒否権とやら、昭和六十三年の商法のどの規定を根拠にしてるんです?」
「……は?」
「条文を聞いてるんですよ」
剛志の笑みが止まりました。
「定款に書けば何でもできると思ってるなら、大間違いですよ」
「何だと?」
「定款は法律の上にあるわけじゃねえ」
先輩は静かに続けました。
「社長が一番偉いんじゃねえ。商法に従って会社を動かす人間が、社長なんだよ」
剛志の顔が赤くなりました。
「何だ、貴様!」
相馬先輩はそれ以上、言い返しませんでした。
資料の任意の提示を求めましたが、剛志は拒否しました。
そこで先輩は、確認できた事実だけを記録し、私を連れて社長室を出ました。
廊下へ出たところで。
「先輩!」
「何だ」
「あの社長、すごいですね!」
「何が」
「法律を自分の部下だと思ってます!」
「いるんだよ、ああいう奴」
先輩は苦笑しました。
「で、お前は何に気づいた?」
「え?」
「今の話で、何がおかしい」
私は考えました。
社長の一株。
特別拒否権。
定款変更。
優先株式の権利廃止。
株主総会。
そして。
「あ!」
「何だ」
「社長は、株主総会で決めたと言っていました!」
「そうだな」
「でも、文子さんたち優先株主の権利を害する変更なら、それだけでは足りない場合があります!」
先輩が頷きました。
「そうだ」
「種類株主総会!」
「ああ」
「それに、現代の拒否権付種類株式みたいな制度を、この時代に自由に作れるわけでもありません!」
「やっと分かったか」
私は拳を握りました。
よし。
今度こそ。
昭和の商法で勝負です。
その日の夕方。
決定的な資料が届きました。
村瀬精機の古株の監査役が、文子さん本人に渡したという、株主総会関係書類の写しです。
もちろん、その写しだけで適法性のすべてが確定するわけではありません。
でも。
そこには、見逃せない一行がありました。
「所長!」
私は叫びました。
「これ、見てください!」
株主総会議事録。
議案。
――優先株式の配当に関する定款規定を削除する件。
決議。
――出席株主の賛成により、原案どおり可決した。
その次。
――種類株主総会の開催は、必要ないものとする。
……。
私は絶句しました。
「先輩」
「何だ」
「これ、ひどくないですか?」
「ひでえな」
「自分たちで必要ないって決めてます!」
「ああ」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「法律上必要な手続が、普通株主の多数決だけで消せるなら苦労しねえよ」
片桐所長が議事録を受け取りました。
そして、定款と照らし合わせました。
「文子さんの株は、配当について普通株式より優先する」
「はい」
「その優先的な権利を、定款変更で消そうとしている」
「はい」
「その変更によって、優先株主が損害を受けるおそれがある」
「はい!」
「では、商法上必要な種類株主総会の決議は、どうなっている」
私は議事録を見ました。
添付資料。
株主名簿。
普通株主の出席状況。
議決結果。
でも。
ありません。
肝心の書類が。
「……種類株主総会の議事録がありません」
「そうだ」
「開催した形跡もない!」
所長は静かに言いました。
「文子さん本人にも確認しろ」
すぐに電話しました。
結果は。
文子さんは、種類株主総会の招集通知を受け取っていませんでした。
出席もしていない。
書面で賛成もしていない。
ほかの優先株主についても、開催を裏付ける資料が確認できません。
「所長!」
私は声を上げました。
「これ、定款変更の効力に重大な問題がありますよね!」
「そうだ」
「普通株主の総会だけで決めても、種類株主を守るための必要な決議を欠いている可能性がある!」
「うん」
相馬先輩が腕を組みました。
「しかも、まだあるぞ」
「え?」
「例の黄金株だ」
そうでした。
社長の一株だけに、特別な拒否権。
現代の会社法では、一定の事項について種類株主総会の決議を必要とする拒否権付種類株式が認められています。
でも。
昭和六十三年の商法は、現在のように種類株式の内容を広く認めているわけではありません。
「所長。この時代の種類株式って、何が認められているんですか?」
私は尋ねました。
「まず、利益配当や残余財産分配について異なる内容を持たせる仕組みがある」
「はい」
「利益配当を優先する株式について、議決権を持たせない仕組みもある。ただし、当時の法定の条件や制限に従う必要がある」
「なるほど」
「一方で、現代の拒否権付種類株式と同じ仕組みを、自由に設けられるわけではない」
私は大きく頷きました。
つまり。
種類株式という名前さえ付ければ。
何でもできるわけではない。
たとえば。
社長の一株だけに、会社のあらゆる決定を支配する権限を与える。
そんなことが、定款の一行で無制限に認められるはずがない。
「先輩」
「何だ」
「この社長、もしかして」
「何だよ」
「株式を魔法の道具だと思ってません?」
先輩は吹き出しました。
「そうかもな」
でも。
片桐所長は笑いませんでした。
じっと議事録を見ています。
「相馬」
「はい」
「もう一つ、確認しろ」
「何でしょう」
「優先配当の実績だ」
「……ああ」
先輩の目が鋭くなりました。
「そこですか」
「そうだ」
私は首をかしげました。
「どういうことですか?」
片桐所長は言いました。
「権利をなくす話と、既に発生した権利をどう扱ったかは別だ」
……!
そうです。
これまで適法に決定され、支払われるべき配当が存在していたなら。
それを新しい経営方針の一言で、なかったことにできるわけではありません。
「こはる」
「はい」
「帳簿と過去の配当決議を調べる。配当可能な利益があったかも含めてだ」
「はい!」
「ただし、利益が出たから当然に毎年一定額を請求できる、と決めつけるな」
「……あっ」
「定款の内容、配当決議、当時の商法の規制。すべて確認する」
私は頷きました。
種類株式の権利があること。
実際に配当金を受け取れること。
この二つも、きちんと区別しなければならないのです。
翌朝。
新たな資料がそろいました。
そして。
村瀬剛志が、なぜそこまで急いでいたのか。
その理由も分かりました。
「……設備投資?」
私は資料を読みました。
村瀬精機は、新しい大型工作機械を導入する計画を立てていました。
予定額。
三千万円。
その資金調達のために、地元の信用金庫と融資の相談を進めていたのです。
しかし。
問題がありました。
優先株式に関する配当条件。
会社の利益状況。
今後の資金繰り。
さらに、株主構成の整理。
剛志は、融資の審査で説明する前に、これらを一気に片付けようとしていたのです。
「なるほど……」
私は呟きました。
「それで、文子さんの株を安く買い取ろうとしたんですね」
「そうだろうな」
相馬先輩が頷きました。
「でも、社長は普通株式をたくさん持っていますよね?」
「ああ」
「だったら、わざわざ黄金株なんて作らなくても……」
「そこだ」
先輩が言いました。
「こいつは、今の経営権だけじゃ満足できねえんだ」
「え?」
「将来、ほかの株主が増えたり、資本が入ったりしても、自分の一株だけは絶対にしたい」
私は息を呑みました。
なるほど。
経営権を握るだけではない。
将来にわたって、ほかの株主に邪魔されたくない。
そんな欲望。
だから。
特別拒否権。
そして。
文子さんの優先株式の排除。
「……会社を自分のものにしたいんですね」
私が言うと、相馬先輩は首を振りました。
「違う」
「え?」
「自分のものだと思い込んでるんだ」
私は黙りました。
先輩は続けました。
「会社は法人だ。社長個人とは別の存在だ」
「はい」
「株主にも権利がある。債権者もいる。従業員だって生活を預けてる」
「はい」
「それを全部、社長の好き嫌いで動かせると思ったら、大間違いだ」
片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「書面を作れ」
私は背筋を伸ばしました。
「内容証明ですね!」
「そうだ」
「何を中心に書きますか?」
所長は三つの資料を机に並べました。
定款。
株主総会議事録。
株券。
「この三つだ」
そして。
短く言いました。
「会社が自分で決めた規則を、会社自身が守っていない」
私は、その言葉をノートに書きました。
これです。
今回の事件の急所。
会社が発行した株式。
会社が定款で約束した権利。
会社が開くべき種類株主総会。
それらを。
会社の社長が、一方的に無視している。
「所長」
「何だ」
「これ、強いですね」
「そうか」
「社長の言い訳が、全部、会社自身の書類で崩れていきます」
所長は静かに頷きました。
「書面は、嘘をつかない」
私は鉛筆を握りました。
いよいよ。
昭和の商法による反撃が始まります。
三時間後。
机の上には、内容証明郵便の原案が完成していました。
差出人。
村瀬文子。
宛先。
株式会社村瀬精機。
代表取締役 村瀬剛志。
私は読み上げました。
「第一。通知人は、貴社発行の優先株式百二十株を適法に保有する株主である」
「うん」
「第二。貴社定款には、当該優先株式につき普通株式に先立つ利益配当の内容が定められている」
「うん」
「第三。貴社は、右優先配当の定めを廃止する旨の定款変更を決議したとしている」
「続けろ」
「第四。当該定款変更は、優先株主に損害を及ぼすおそれがある内容であり、商法上、必要な種類株主総会の決議を欠いている疑いがある」
相馬先輩が頷きました。
「いいぞ」
「第五。通知人は、当該種類株主総会の招集通知を受領しておらず、決議に参加した事実もない」
「うん」
「第六。貴社代表取締役の保有する一株に特別拒否権を付与するとの取扱いについても、昭和六十三年当時の商法上、適法な株式の内容として認められる根拠及び手続を明らかにされたい」
私は一度、息を吸いました。
「第七。通知人は、本書面をもって、優先配当の定款規定を廃止する変更の効力について異議を述べるとともに、株式買取申出への承諾をしていないことを明確にする」
ここまで読んだところで。
相馬先輩が言いました。
「最後は?」
「はい」
私は続けました。
「貴社に対し、関連する議事録、定款変更の経過及び株式の権利内容に関する資料を保全し、通知人の株主としての権利を不当に侵害しないよう求める」
「それから?」
「本件について適切な説明及び対応がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、定款変更の効力を争う手続その他の法的措置を検討する」
読み終わりました。
沈黙。
私は恐る恐る所長を見ました。
「……どうでしょう?」
所長は書面を読みました。
一行ずつ。
ゆっくり。
そして。
「こはる」
「はい!」
「ここを直せ」
赤鉛筆。
来ました。
「『株主総会決議は無効』と断定していた箇所を、原案から消したな」
「はい」
「それでいい。どの決議にどんな瑕疵があり、定款変更の効力にどう影響するか。事実と当時の法令に即して詰める必要がある」
「はい」
「もう一つ」
「はい」
「社長個人の財産を直ちに差し押さえられるような表現も書くな」
「あっ」
私は慌てて頷きました。
そうです。
会社と社長は別人格。
社長が不適切な行為をしたからといって、直ちに社長個人の全財産へ強制執行できるわけではありません。
取締役の責任。
会社に対する責任。
第三者に対する責任。
それぞれ、成立要件がある。
「ただし」
所長は続けました。
「取締役としての任務違反が認められ、損害が生じれば、個人責任が問題となる余地はある」
「はい」
「それを検討するには、さらに資料が必要だ」
相馬先輩がにやりとしました。
「ま、相手が一番嫌がるのはそこだろうな」
「……個人責任ですか?」
「ああ」
先輩は議事録を指差しました。
「社長の地位を使って、会社の手続をねじ曲げた。その結果、会社や株主に損害が出たら、何も責任を負わずに済むとは限らねえ」
私は頷きました。
「株主代表訴訟も、問題になり得ますよね」
「条件を確認したうえでな」
「はい!」
株主代表訴訟。
株主が、一定の要件のもとで、会社のために取締役の責任を追及する制度。
それは社長個人に対して責任を問うための、強力な仕組みです。
ただし。
私たち行政書士が訴訟を代理するわけではありません。
必要になれば、弁護士に引き継ぐ。
今できるのは。
文子さん本人の意思を正確に表した通知書を作り、事実関係を明らかにすること。
それが。
この事務所の仕事です。
「所長」
「何だ」
「書面の最後、もう少し強くできますか?」
「どう強くする」
「社長に、あなたの個人責任も問題になる可能性がありますよ、って」
所長は少し考えました。
そして、短く言いました。
「事実が裏付ける範囲で書け」
相馬先輩が笑いました。
「脅し文句じゃねえ。法律上の問題を正確に知らせるんだ」
なるほど。
私は書き直しました。
――なお、本件に関与した取締役らの行為については、善管注意義務その他商法上の責任の有無も問題となり得るため、関係資料の保全を求める。
それだけ。
たった一文。
でも。
そこには、社長個人の責任を検討する可能性が、明確に示されていました。
「……怖いですね」
私が言うと、相馬先輩が言いました。
「自分のやったことに説明がつくなら、怖くねえよ」
私は思わず笑いました。
確かに。
今回の書面には、怒鳴り声もありません。
社長を馬鹿にする言葉もありません。
ただ。
定款。
株主総会議事録。
種類株主総会。
株主の権利。
取締役の責任。
それらが淡々と並んでいる。
そして。
そのすべてが、剛志の行為を問い直しているのです。
内容証明郵便を発送してから、三日後。
村瀬精機から電話が入りました。
「……片桐行政書士事務所ですか」
受話器の向こう。
聞き覚えのある声。
村瀬剛志でした。
「はい」
『あの、通知書の件なんだが』
妙に声が小さい。
「所長に代わります」
片桐所長が電話を受けました。
「片桐です」
『……あの書類、本当に商法に基づいているんですか』
「昭和六十三年現在の商法を確認して作成しています」
『種類株主総会って……』
「はい」
『普通の株主総会だけじゃ、駄目なんですか』
所長は落ち着いた声で答えました。
「通知書に記載した問題について、会社側で法的な確認をされることをお勧めします」
剛志はしばらく黙っていました。
『実は……』
「はい」
『顧問の弁護士に見せたんです』
私は耳を澄ませました。
『そうしたら、優先株式の権利を削る変更について、種類株主総会の手続を確認しろと言われまして……』
所長は何も言いません。
『それと、俺の一株に拒否権をつけた件も……』
「はい」
『この時代の商法じゃ、そのような内容を定款に書いたからといって有効になるものではない、と』
私は、思わず拳を握りました。
やっぱり!
未来の黄金株。
昭和六十三年の商法では、そんなに都合よく使えないのです。
『それで……』
剛志は言いました。
『優先株式の権利を廃止する話は、いったん白紙に戻します』
私は息を呑みました。
『それから、俺の特別拒否権も取り下げます』
所長は静かに答えました。
「その方針を、正式な書面にして株主の方へ説明されるのがよいでしょう」
『分かりました』
『あと……』
「はい」
『文子さんの株を十二万円で買い取る話も、撤回します』
私は思わず立ち上がりかけました。
その瞬間。
相馬先輩が私の肩を押さえました。
まだだ。
そういう顔でした。
分かっています。
電話で撤回すると言っただけでは、まだ終わりません。
その後、村瀬精機は弁護士の助言を受けて、正式な対応を進めました。
問題の定款変更については、必要な種類株主総会の決議が欠けていたことを確認し、効力を生じていないものとして取り扱うことを明らかにしました。
社長の一株に付与するとしていた特別拒否権についても、撤回が確認されました。
そして。
文子さんの百二十株は、従来の優先配当の内容を維持したまま、株主名簿に記載され続けることになったのです。
一週間後。
文子さんが、もう一度事務所を訪れました。
「本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げました。
「いえ、私はまだ見習いですから!」
私は慌てました。
文子さんは微笑みました。
「社長から手紙が届いたんです」
取り出したのは、会社の正式な通知書。
そこには。
――優先株式の権利内容については、従前の定款に基づく取扱いを維持する。
と記されていました。
「これで、主人との約束が守られました」
文子さんは株券をそっと撫でました。
「私は、毎年たくさんお金が欲しいわけじゃないんです」
「はい」
「会社が苦しいときにまで、無理をして配当してほしいわけでもありません」
私は頷きました。
配当には、会社の利益や法令上の制限があります。
株式に優先配当の内容があるからといって、会社の経営状態を無視して、必ず毎年現金がもらえるわけではありません。
でも。
文子さんが守りたかったのは、それだけではなかった。
「主人が、私の働いたことを忘れないでいてくれた。その証拠が、この株なんです」
私は胸が熱くなりました。
百二十株。
そこには、数字以上のものがありました。
工場の掃除。
帳簿。
夜遅くまで続く作業。
給料が払えなかった日。
夫婦で食べた、冷めた夕飯。
そんな日々を乗り越えて。
ようやく会社が利益を出せるようになったとき。
夫は妻に、特別な株式を渡した。
それは。
株主としての権利であると同時に。
一人の職人が残した、感謝の形だったのです。
「文子さん」
私は言いました。
「株式って、不思議ですね」
「え?」
「同じ会社の株でも、権利の内容が違うことがあるんです」
「そうなんですね」
「でも、その違いには、ちゃんと理由があるんだと思います」
文子さんは微笑みました。
「主人も、きっとそう思っていたんでしょうね」
私は頷きました。
普通株式。
優先株式。
議決権を持たない株式。
そして、現代に存在するさまざまな種類株式。
法律の教科書では、単なる分類です。
でも、現実には。
誰に利益を分けるのか。
誰に経営を任せるのか。
誰の意思を尊重するのか。
それぞれに、人間の思いがある。
だからこそ。
その内容を、社長の気分一つで変えてはいけないのです。
文子さんが帰ったあと。
私は机の上に六法を置きました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今回の事件、ちょっと意外でした」
「何がだ」
「種類株式って、もっと新しい制度だと思ってたんです」
「ああ」
「現代の会社法では、九つも種類があるじゃないですか」
先輩が怪訝な顔をしました。
「九つ?」
「あっ」
しまった。
未来の知識です。
「ええと、その……いろいろな種類がありまして」
「また未来の話か」
「はい……」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「お前は本当に、どこの六法を読んでるんだ」
未来の六法です。
もちろん言えません。
「でも先輩」
「何だ」
「昔の商法でも、優先株式って認められていたんですね」
「ああ」
「それに、種類株主を守る仕組みもあった」
「そうだ」
「だったら、どうして現代ではもっと種類が増えるんでしょう?」
相馬先輩は少し考えました。
「そりゃ、会社によって欲しい金も、経営のやり方も違うからだろ」
「……!」
「金は出したいが経営に口は出したくねえ奴もいる。逆に、金だけじゃなく経営を守りたい奴もいる」
「はい」
「会社を立て直すために、新しい出資者を迎えたい場合もあるだろうな」
私は頷きました。
なるほど。
会社の数だけ、事情がある。
だから。
すべての株式に、まったく同じ内容だけを認めるのではなく。
法律の範囲内で、違った権利を設計できるようにする。
それが種類株式の考え方なのです。
「ちなみに先輩」
「何だ」
「現代では、発行する全部の株式に共通して、特別な内容を付けることもできるんですよ」
「ほう」
「譲渡制限とか、取得請求権とか、取得条項とか!」
「……また知らねえ言葉を並べやがって」
「それから種類株式としては、配当、残余財産、議決権制限、譲渡制限、取得請求権、取得条項、全部取得条項、拒否権、役員選任――」
「待て待て待て!」
先輩が両手を上げました。
「一気に言うな!」
「でも、試験に出るんです!」
「何の試験だよ!」
「……行政書士試験です」
「行政書士試験で、そんな細かい未来の株式まで聞かれるのか?」
私は大きく頷きました。
「聞かれるんです!」
「厄介な時代だな……」
本当に。
厄介です。
でも。
今回の事件のおかげで、少し分かった気がします。
種類株式とは。
株主平等の原則を、ただ壊すための制度ではありません。
異なる種類の株式を、法律に従って適切に設計することで。
会社と株主の、多様な必要に応えるための仕組みなのです。
そして。
株主平等の原則も、なくなるわけではありません。
同じ内容の株式を持つ株主を、社長の好き嫌いだけで不当に差別していいわけではない。
株式の内容に違いを設けるなら、法律上の根拠と定款による定めが必要になる。
ここが大切なのです。
「こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい」
「今日の教訓は何だ」
私は少し考えました。
種類株式。
優先配当。
議決権。
定款。
種類株主総会。
そして。
たった一株を絶対の権力に変えようとした、あの社長。
「……株式の権利は、社長の気分で決まらない、です」
所長が頷きました。
「そうだ」
「普通株式と優先株式では、権利の内容が違うことがあります」
「うん」
「でも、それは法律と定款に基づくものです」
「そうだ」
「そして、種類株主の権利を害する変更には、特別な手続が必要になる場合がある」
所長は短く言いました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
やった。
今日も一つ。
商法の重要論点を、現場で覚えることができました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
今度は男性の声。
『私が持っている株を、友人に譲ろうと思ったんですが……』
「はい」
『会社の社長に、勝手に売るなと言われまして』
……。
私は眉を上げました。
『でも、自分の株ですよね? 好きに売っていいんじゃないですか?』
来ました。
今度は。
株式の譲渡制限です。
「先輩!」
「何だ!」
「株式って、原則として自由に譲渡できますよね!」
「ああ」
「でも、定款で譲渡制限がついていたら、会社の承認が必要になる場合がありますよね!」
「そうだな」
「じゃあ、会社の承認がない譲渡は、全部無効なんですか?」
相馬先輩が、ぴたりと動きを止めました。
「……こはる」
「はい?」
「今、何て言った」
「全部無効なんですか?」
「そこが次の問題だろうが」
私は固まりました。
そうでした。
株式譲渡制限。
会社との関係。
譲渡当事者間の効力。
株主名簿。
また、区別しなければならないことがある。
「……先輩」
「何だ」
「商法って、株一枚で何問も作れますね」
「試験問題の数を数えるな!」
「でも!」
「まず相談者の話を聞け!」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、会社の定款には、株式の譲渡について何と書かれていますか?」
昭和六十三年。
商法の世界は、まだまだ奥が深そうです。
普通株式。
優先株式。
種類株主総会。
譲渡制限。
取得に関する特別な定め。
未来の会社法には、さらに多くの仕組みが登場します。
それぞれに。
会社を守る理由があり。
株主を守る理由がある。
でも。
今日の私は、一つだけ確信しました。
たった一株を持っているからといって。
社長が法律より偉くなることはありません。
そして。
百二十株しか持っていないからといって。
その人の権利が、紙切れになることもありません。
株式に刻まれた権利の重さは。
社長の肩書では、決まらないのです。
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