[商法・商事売買と民事売買の違い]現場編 「腐った商品でも代金を払え」の嘘。検査を怠った買主の絶望と、悪徳問屋を追い詰める一通の内容証明
腐った魚は、二度と新鮮には戻りません。
それは当たり前のことです。
けれど。
腐った魚を売った商人が、必ず責任を負うとは限らない。
逆に。
魚を受け取った商人が、腐っていることに気づいても。
たった一つの手続を怠っただけで、責任を追及できなくなることがある。
……どういうことですか。
お金を払ったのに?
商品が不良品なのに?
売った方が悪いに決まっているのに?
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、商法という法律が、ときに民法よりもずっと厳しい顔をすることを知りました。
商事売買。
民事売買。
買主の検査・通知義務。
そして。
腐った魚を前にして、堂々と笑う悪徳問屋の社長に。
私は、人生で初めてこう言いたくなったのです。
「商法って、悪い人を守る法律なんですか!」
もちろん。
答えは違いました。
商法が守ろうとしているのは。
商売をする人たちが、安心して取引できる仕組みだったのです。
「助けてください! このままじゃ、うちの店が潰れます!」
朝九時。
事務所の扉が勢いよく開きました。
飛び込んできたのは、四十歳くらいの女性でした。
前掛け姿。
手には大きな紙袋。
そして。
ものすごく困った顔。
「どうしました?」
私が立ち上がると、女性は紙袋を机に置きました。
「これを見てください!」
中から出てきたのは、冷凍魚の箱でした。
発泡スチロールの蓋を開けると。
「……うっ!」
私は思わず鼻を押さえました。
何ですか、この臭い!
魚。
それも、明らかに傷んでいる魚。
「冷凍サバなんです」
女性が言いました。
「でも、届いたときからおかしかったんです!」
女性の名前は、田島春江さん。
四十二歳。
駅前商店街で、小さな惣菜店を営んでいます。
店名は、
――おかずの田島。
焼き魚。
煮物。
コロッケ。
地元の人たちに愛される、昔ながらのお惣菜屋さん。
そこへ先週。
県内の大手水産問屋から、冷凍サバ百箱が納品されました。
代金は八十万円。
ところが。
「箱を開けてみたら、魚の色がおかしくて……」
「全部ですか?」
「ええ。少なくとも、確認した箱はどれも使えませんでした」
「百箱で八十万円……」
私は思わず息を呑みました。
小さな惣菜店には、決して軽くない金額です。
「返品をお願いしたんです。でも……」
春江さんが一枚の紙を取り出しました。
請求書。
差出人。
――東海水産株式会社。
そこには、赤い文字でこう書かれていました。
――商品引渡し済み。
――買主による検査・通知が適切になされていないため、返品には応じない。
――代金八十万円は、支払期日までに全額支払われたい。
……。
私は目を疑いました。
「不良品なのに、返品できないんですか?」
「そう言うんです!」
春江さんの目に涙が浮かびました。
「うちは、悪いことなんてしていません。届いた魚を見て、使えないって連絡しただけなんです!」
「いつ連絡しました?」
「届いてから五日後です」
「五日……」
私は首をかしげました。
五日。
そんなに長いでしょうか。
もちろん食品だから、早い方がいい。
でも。
百箱もあるんです。
小さな惣菜屋さんが、全部をすぐ検査するなんて大変です。
「大丈夫です!」
私は勢いよく言いました。
「契約不適合責任がありますから!」
春江さんが顔を上げました。
「けいやく……?」
「契約した内容に合わない商品を渡された場合、売主の責任を追及できるんです!」
よし。
現代の民法です。
不良品が届いた。
約束した品質を満たしていない。
だったら、修補や代替品の引渡し、代金減額、解除、損害賠償などが問題になる。
これは、民法で勉強しました!
「しかも、今回は売主も買主も商人ですから、会社法の――」
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「お前、また変な法律を持ち出したな」
「え?」
「会社法って何だ?」
……。
しまった。
私は固まりました。
またです。
また未来の法律を口にしてしまいました。
昭和六十三年。
今は、独立した「会社法」なんて存在しません。
株式会社の規律は商法の会社編。
有限会社は有限会社法。
そして、商人同士の売買には商法の商行為に関する規定がある。
「あ、いえ、商法です!」
「そうだろうな」
相馬先輩は古い六法を取り出しました。
「それと、契約不適合責任なんて今の条文の言い方じゃねえぞ」
「あっ……」
「今は瑕疵担保責任だ」
瑕疵。
かし。
欠陥のことです。
現代の民法では、契約内容への不適合という考え方で整理されています。
でも。
昭和六十三年には、その現代的な条文体系はありません。
「未来の法律ばっかり勉強してきたのか?」
「……そんなところです」
「どんなところだよ」
相馬先輩は呆れたように言いました。
「しかも、お前が見落としてるのは、用語だけじゃねえ」
「え?」
「商法五百二十六条だ」
私は六法を開きました。
そして。
そこに書かれた内容を見て、顔色が変わりました。
――商人間の売買において、買主は、目的物を受領したときは、遅滞なく検査しなければならない。
……。
「え?」
さらに。
瑕疵や数量不足を発見した場合には、直ちに売主へ通知する必要がある。
「先輩……」
「何だ」
「これ、春江さんに不利じゃないですか?」
「そうだな」
「そんな!」
私は思わず立ち上がりました。
「魚が腐っていたのに!」
「そうだ」
「売った問屋が悪いのに!」
「それは、まだ調べなきゃ分からねえ」
「でも!」
相馬先輩は六法を閉じました。
「こはる。商売ってのはな、いつまでも返品できるか分からねえ状態じゃ、次の取引に進めねえんだよ」
私は黙りました。
「だから商人同士の売買では、買主に検査と通知を求める」
「……はい」
「だがな」
先輩が、にやりとしました。
「この話、まだ終わっちゃいねえ」
「え?」
「春江さん。荷物が届いたときのことを、最初から全部教えてください」
片桐所長も、静かに顔を上げました。
「特に、納品前のやり取りを」
その一言で。
事件の形が、少しずつ変わり始めました。
春江さんの話によると。
魚が届いたのは、先週の火曜日。
夕方四時。
納品書には、
――冷凍サバ百箱。
――検品済み。
と印刷されていました。
「検品済み?」
私は聞き返しました。
「はい。問屋さんが、出荷前に確認したと言っていました」
「届いたときに、ご自身でも確認しましたか?」
「外箱だけです。店が忙しくて……」
なるほど。
春江さんの店は、夕方が一番忙しい。
仕事帰りのお客さんが、夕飯のおかずを買いに来る。
その時間に百箱の納品。
しかも冷凍品。
「すぐに冷凍庫へ入れたんですね」
「はい」
「最初に中身を開けたのは?」
「翌朝です」
「そこで異常に気づいた?」
「はい。でも、その日は店の仕込みがあって……」
私は嫌な予感がしました。
「問屋へ連絡したのは?」
「日曜日です」
五日後。
つまり。
水曜日には異常に気づいていた。
なのに。
日曜日まで通知しなかった。
……まずい。
これは、相当まずいです。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何が問題だ」
「商法五百二十六条です」
「そうだ」
「買主は、遅滞なく検査する義務があります」
「うん」
「そして、瑕疵を発見した場合には、直ちに通知しなければなりません」
「そうだ」
私は春江さんを見ました。
「……春江さん」
「はい」
「実は、少し難しい問題があります」
春江さんの顔が青くなりました。
「私が悪いんですか?」
「そうではありません。ただ、商人同士の売買には、普通の売買とは違う決まりがあるんです」
一般の消費者が買い物をする場合と。
商売として商品を仕入れる場合。
法律は、同じように扱っていない。
商人なら、商品を受け取ったら確認する。
異常があれば、すぐ知らせる。
そうして取引関係を早く確定させる。
そのためのルール。
でも。
春江さんは唇を噛みました。
「じゃあ、あんな魚でも八十万円払わなきゃいけないんですか……?」
その声が、とても小さく聞こえました。
私は答えられませんでした。
そのとき。
片桐所長が、ぽつりと言いました。
「相馬。納品書を見せろ」
「はい」
所長は納品書を手に取りました。
じっと見ます。
「……検品済み、か」
「はい」
「誰が検品した」
春江さんは首をかしげました。
「そこまでは……」
「この印は?」
所長が指差しました。
納品書の隅。
赤い丸印。
――品質管理課。
その横に、手書きで小さく。
――要再確認。
……。
「え?」
私は身を乗り出しました。
「所長、これ!」
「見えるな」
「要再確認って書いてあります!」
相馬先輩が納品書を覗き込みました。
「おいおい。出荷前に何かあったんじゃねえのか」
春江さんも驚いています。
「そんな文字、気づきませんでした……」
片桐所長は静かに言いました。
「調べる価値がある」
「はい!」
私は頷きました。
商法五百二十六条。
買主の検査・通知義務。
確かに厳しい。
しかし。
そこには、見逃してはいけない例外があるのです。
翌日。
東海水産株式会社。
港に近い、大きな倉庫街。
私たちは、春江さんに同行して会社を訪れました。
もちろん。
行政書士が、依頼人の代理人として法律紛争の交渉を行うわけにはいきません。
今回は、春江さん自身が先方へ事情を尋ねることになり、私たちは事実関係の確認と資料整理をお手伝いする立場です。
会議室。
そこに現れたのは、五十代の男でした。
恰幅のいい体。
金色の腕時計。
派手なネクタイ。
東海水産の社長。
大沢源造。
「何だ。まだ返品の話か」
大沢は椅子に深く腰掛けました。
「もう説明しただろう」
春江さんが頭を下げました。
「社長さん、お願いします。あの魚では商品を作れないんです」
「だから?」
「返品だけでも……」
「無理だな」
大沢は鼻で笑いました。
「うちは商売でやってるんだ。慈善事業じゃねえ」
……。
何ですか、その言い方。
「商法って法律があるの、知ってるか?」
大沢は得意げに言いました。
「商人同士の売買じゃ、商品が届いたらすぐ検査するんだよ」
私は目を細めました。
知っています。
昨日、勉強しましたから。
「瑕疵があったら、すぐ通知する。それが商法五百二十六条だ」
大沢は机を叩きました。
「五日も放っておいて、あとから腐ってたなんて言われても困るんだよ!」
……。
悔しい。
言い方は最低です。
でも、条文の指摘そのものは無視できません。
法律は、嫌な人が言ったからといって間違いになるわけではないのです。
「分かりましたか、奥さん」
大沢が笑います。
「八十万円。きっちり払ってもらいますからね」
春江さんの肩が震えました。
そのとき。
「社長さん」
相馬先輩が口を開きました。
「一つ、事実の確認をさせてください」
「あ?」
「この納品書です」
先輩は紙を机に置きました。
「品質管理課の印がありますね」
「それがどうした」
「要再確認、と書かれています」
大沢の顔が、一瞬止まりました。
「……それが?」
「どういう意味でしょう」
「ただの社内メモだ」
「品質に問題があったんですか?」
「問題なんかねえよ」
「では、確認した結果が分かる記録はありますか」
大沢は舌打ちしました。
「そんなもの、あんたらに見せる義務はねえだろ」
「承知しました」
相馬先輩はあっさり引きました。
……え?
もう終わり?
私が驚いていると。
先輩は続けました。
「では、もう一点。今回の冷凍サバは、どの冷凍庫で保管されていたのでしょう」
「何でそんなこと聞くんだ」
「出荷前の温度管理について、確認が必要だからです」
「問題ねえって言ってるだろ!」
大沢の声が大きくなりました。
その瞬間。
会議室の扉が少し開きました。
「あの、社長……」
若い従業員です。
大沢が振り向きました。
「何だ!」
「例の第三冷凍庫の件で……」
「今じゃねえ!」
従業員は慌てて扉を閉めました。
……。
私は、相馬先輩を見ました。
先輩も私を見ました。
第三冷凍庫。
今の反応。
これは。
何かあります。
大沢は咳払いしました。
「とにかく、話は終わりだ」
そして、勝ち誇ったように言いました。
「検査しなかった方が悪い。商法がそう決めてるんだ!」
片桐所長は静かに立ち上がりました。
「春江さん」
「はい……」
「今日は、ここまでにしましょう」
私たちは会議室を出ました。
港の風が、少し冷たく感じられました。
「先輩!」
帰り道。
私は我慢できずに言いました。
「あの社長、絶対に何か隠してます!」
「だろうな」
「だったら、もっと追及すればよかったじゃないですか!」
「俺たちは何屋だ?」
「行政書士です」
「そうだ」
相馬先輩は歩きながら言いました。
「依頼人の代わりに、相手と法律紛争の交渉をする仕事じゃねえ」
「はい……」
「事実を確認して、資料を整理する。通知書を作る。それが俺たちの仕事だ」
「でも、相手が隠していたら?」
「証拠を探す」
「証拠……」
「こはる。商法五百二十六条の最後を、もう一度読め」
私は鞄から六法を取り出しました。
ページをめくります。
買主の検査義務。
通知義務。
そして。
第三項。
そこに書かれていたのは。
――前項の規定は、売主がその瑕疵又は数量の不足につき悪意であった場合には、適用しない。
……!
「先輩!」
「気づいたか」
「売主が瑕疵を知っていた場合!」
「そうだ」
「検査・通知を怠った買主に対しても、その特則を盾に責任を免れることはできない!」
「そこだ」
私は思わず拳を握りました。
なるほど!
商法は、買主に厳しい義務を課している。
でも。
売主が欠陥を知っていた場合まで、その厳しいルールで守るわけではない。
「つまり!」
私は言いました。
「大沢社長が、魚の異常を知りながら出荷したと証明できれば!」
「話は変わる」
「やっぱり商法、悪い人の味方じゃなかったんですね!」
「当たり前だろ」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「商法は、真面目に商売してる奴のための法律だ」
そして。
低い声で続けました。
「知ってて腐った魚を売りつける奴に、検査義務を盾にした逃げ道まで用意してるわけじゃねえよ」
私は大きく頷きました。
よし。
ここからです。
今度こそ。
商法で反撃です。
その日の午後。
私たちは、春江さんから追加の資料を預かりました。
納品された商品の写真。
冷凍庫の温度記録。
仕入伝票。
そして。
魚の一部を確認した地元の鮮魚店主の意見書。
私は書類を並べました。
「所長。商品が腐っていたことは、これで証明できそうですね」
「品質に異常があったことを裏付ける資料にはなる」
「はい」
「だが、足りん」
「え?」
「売主が、その瑕疵を知っていたかだ」
そうでした。
商法五百二十六条第三項。
売主の悪意。
ここでいう悪意とは、性格が悪いという意味ではありません。
欠陥を知っていたこと。
そこが重要です。
「納品書の『要再確認』だけでは?」
「疑いを生む資料にはなる。だが、それだけで欠陥を知っていたと断定はできん」
「……はい」
私は唇を噛みました。
大沢社長の態度が悪い。
だから隠しているに違いない。
そんな推測だけでは、書類には書けません。
事実。
証拠。
そして法律。
順番を間違えてはいけないのです。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あの……田島さんの件で……』
若い男性の声でした。
「どちら様でしょうか?」
『東海水産の、倉庫担当だった者です』
私は背筋を伸ばしました。
「東海水産の?」
『はい。昨日、社長の会議室に顔を出した者です』
……!
あの従業員!
『あの魚のこと、ずっと気になっていて……』
男性は、少しためらいました。
『実は、第三冷凍庫が故障していたんです』
私は受話器を握り直しました。
「故障?」
『はい。出荷の三日前です』
「三日前……」
『温度が上がって、一部の商品が解けかけました』
私は息を呑みました。
『品質管理の担当が、出荷を止めるよう報告したんです』
「その報告は、誰に?」
『社長です』
……。
来ました。
『でも社長は、こう言いました』
男性の声が震えました。
『もう注文が入ってる。捨てたら損だ。再冷凍して出せ、と』
私は、しばらく何も言えませんでした。
それから。
「その話を裏付ける資料はありますか?」
慎重に尋ねました。
『あります。温度記録と、品質管理課の報告書の控えです』
……!
『私が担当した分を保管していました。ただ、会社の資料なので、どう扱っていいか分からなくて……』
私は片桐所長を見ました。
所長は電話を代わりました。
「片桐です。お話は伺いました」
『はい……』
「資料を無断で持ち出したり、機密を外部に広めたりすることは避けてください。まず、その資料がどのような性質のものか確認しましょう」
『分かりました』
「ご自身が直接経験した事実について、任意に説明していただくことはできますか」
『はい。それなら……』
所長は静かに頷きました。
「では、日時と状況を整理しましょう」
電話を切ったあと。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい!」
「これで勝ちだと思うか?」
「……まだです」
「よし」
「従業員の証言を、事実確認書として残す必要があります」
「そうだ」
「それから、会社が保管している原記録との整合性も確認したいです」
「うん」
「あと、実際に納品された百箱が、その故障した冷凍庫にあった商品なのかも」
先輩が頷きました。
「いいじゃねえか」
私は少し嬉しくなりました。
でも。
ここからが大変でした。
出荷日。
冷凍庫の故障日。
温度上昇の時間。
商品の保管場所。
品質管理課の報告。
社長への伝達。
再冷凍の指示。
そして実際の出荷。
すべてを、一つの時系列につなぐ。
昭和六十三年。
スマートフォンなんてありません。
メールもありません。
監視カメラの映像が簡単に手に入る時代でもありません。
あるのは。
紙の記録。
手書きの伝票。
そして人の証言。
でも。
だからこそ。
一枚の紙に残された文字が、重いのです。
三日後。
片桐行政書士事務所。
机の上には、厚い資料の束が置かれていました。
倉庫担当者から任意に聴取した事実確認書。
春江さんの保管記録。
商品写真。
納品書。
そして、品質異常を裏付ける複数の資料。
会社側で保管している原記録については、後日確認が必要です。
けれど。
売主側が出荷前の異常を把握していた可能性は、相当に具体的になっていました。
「所長」
私は言いました。
「内容証明を作ります!」
「ああ」
「商法五百二十六条第三項ですね!」
「それだけではない」
「え?」
所長は、春江さんの発注書を指差しました。
「納期を見ろ」
私は読みました。
――納品期限、昭和六十三年六月七日。
――六月十日開催の港祭り向け特別販売用。
「港祭り?」
「そうだ」
春江さんが説明しました。
「あの魚は、港祭りの特売用だったんです」
「なるほど……」
祭りに合わせた仕入れ。
焼きサバ弁当。
限定販売。
そのための冷凍サバ百箱。
でも、品質の悪い魚では商品を作れません。
代わりの商品を手配する時間も必要だった。
私は、はっとしました。
「所長。これ、定期売買も問題になりませんか?」
片桐所長が頷きました。
「検討する価値はある」
定期売買。
決まった日時や期間内に履行しなければ、契約の目的を達成できない売買。
たとえば。
祭りの当日までに必要な食品。
その後に届いても、意味がない。
「商法五百二十五条ですね!」
「そうだ」
私は六法を開きました。
商人間の定期売買。
決められた時期までに履行がなされなかった場合。
相手方が直ちに履行を請求した場合を除いて、解除したものとみなされる。
「民法より、ずっと厳しい……」
私は呟きました。
ただし。
今回、魚そのものは納期までに届いています。
ですから、単に品質不良だったというだけで、直ちに商法五百二十五条による解除が成立すると決めつけることはできません。
約束した履行が、期限までになされたと評価できるのか。
その性質。
契約の内容。
引き渡された商品の状態。
それらを確認する必要があります。
「所長、今回の主軸は五百二十六条第三項ですね」
「そうだ」
「定期売買の事情は、商品の用途と納期が重要だったことを示す資料として整理します」
「それでいい」
私は頷きました。
そして。
一枚の内容証明郵便の原案を書き始めました。
宛先。
東海水産株式会社。
代表取締役 大沢源造。
差出人。
田島春江。
表題。
――売買目的物の瑕疵に関する通知及び代金請求への異議通知書。
私は一文字ずつ、丁寧に書きました。
第一。
本件売買の目的物である冷凍サバ百箱について、受領後に著しい品質異常が確認されたこと。
第二。
本件商品は、港祭りで販売する惣菜の材料として発注したものであり、正常な食品としての使用ができない状態であったこと。
第三。
出荷前の冷凍設備の異常及び品質管理上の問題について、貴社側が認識していたことをうかがわせる具体的事情が存在すること。
第四。
商法第五百二十六条第三項は、売主が瑕疵について悪意であった場合、同条第二項の検査・通知に関する制限を適用しない旨を定めていること。
第五。
よって、貴社が単に通知の遅れのみを理由として瑕疵に関する責任を否定することには、重大な疑義があること。
第六。
通知人は、本件商品の品質異常を理由として、法令上認められる契約解除及び代金支払義務の不存在を主張するものであり、貴社の八十万円の請求には応じられないこと。
最後に。
――貴社において出荷前の品質確認記録、保管温度記録及び出荷判断に関する資料を確認し、本通知に対する回答を書面にて行われたい。
――なお、見解が対立し解決に至らない場合には、弁護士に相談のうえ、適切な法的措置を検討する。
……。
私は鉛筆を置きました。
「できました!」
相馬先輩が受け取りました。
読みます。
そして。
「……一か所、直せ」
「えっ!」
「ここだ」
先輩は第四項を指差しました。
「『貴社側が認識していたことをうかがわせる』。これはいい」
「はい」
「でも、別紙の説明書には『社長が故意に腐った魚を売ったことは完全に証明された』って書いてる」
「あっ……」
「断定するな」
私は慌てて赤鉛筆を取りました。
「資料には、まだ確認できていない部分があるんですね」
「そうだ」
「従業員の証言も、裏付けを検討する必要があります」
「うん」
「だから、確実に言える事実と、証拠から推認される事情を分ける」
「それだ」
先輩は書面を机に置きました。
「法律の通知書はな、勢いで相手を脅すための紙じゃねえ」
「はい」
「書いてある事実と法的根拠を、相手が無視できなくするための紙だ」
片桐所長も頷きました。
「それと、もう一つ」
「はい?」
「品物はどうしている」
私は春江さんを見ました。
「まだ、店の冷凍庫にあります」
「全部か」
「はい。廃棄していません」
所長は頷きました。
「それなら、保管状態の記録を続けてもらえ」
「はい」
「契約を解除した場合でも、商人間の売買には、買主側の保管や供託に関する特則がある」
「……え?」
私は六法をめくりました。
商法五百二十七条。
買主による目的物の保管及び供託。
……。
またです。
また、商法の落とし穴。
「先輩!」
「何だ」
「不良品を返品したいのに、買主が保管しないといけないんですか!?」
「原則はな。解除したからって、相手の品物を勝手に捨てていいわけじゃねえ」
「そんな……」
「ただし、保管費用は原則として売主負担だ。それに例外もある」
「例外?」
「売主と買主の営業所が、同じ市町村にある場合だ」
私は春江さんの店と東海水産の所在地を確認しました。
春江さんの店。
湖西市。
東海水産の営業所。
隣の市。
「違う市です!」
「だったら、同一市町村の例外には当たらねえな」
……。
何でしょう。
この法律。
細かい!
細かすぎます!
「じゃあ、魚が傷みそうな場合は?」
私が聞くと、所長が答えました。
「買主側から競売するには、裁判所の許可が必要になる」
「裁判所!」
「そうだ。勝手にはできん」
私は頭を抱えました。
売主側が、受領を拒まれた品物を処理する場合。
商法五百二十四条には、供託や競売に関する特別な規定がある。
一定の場合には、売主は裁判所の許可を得ずに競売へ進める。
一方で。
瑕疵のある商品を受け取って契約解除した買主が、商法五百二十七条に基づいて競売する場合には、裁判所の許可が必要。
「売主と買主で、違うんですね……」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「売買だからって、全部同じルールで片付くと思うなよ」
私は深く頷きました。
なるほど。
商法は。
商品を売った人。
商品を買った人。
受け取られなかった商品。
返品される商品。
それぞれの場面について、違う責任を定めているのです。
片桐所長は書面を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今回の魚は、腐敗のおそれもある。むやみに移動させたり処分したりせず、衛生上必要な措置も含めて専門家に確認する」
「はい」
「保管費用や損害の問題も、記録を残せ」
「分かりました!」
「そして、紛争が続く場合には弁護士へ渡す」
「はい!」
こうして。
春江さんご本人の意思を確認し、署名押印をいただいた内容証明郵便が完成しました。
たった数枚の紙。
でも。
そこには。
納品書の一行。
温度管理の異常。
商品の品質。
売主の認識。
商法五百二十六条第三項。
そして、春江さんが失いかけていた八十万円。
すべてが詰まっていたのです。
内容証明を発送してから四日後。
東海水産の大沢社長から、電話がありました。
『……片桐さんはいるか』
私は受話器を持ったまま驚きました。
あの偉そうな声ではありません。
妙に低い。
「少々お待ちください」
所長が電話に出ました。
「片桐です」
『あんたのところで作った通知書を受け取った』
「はい」
『……よく調べたな』
所長は何も言いません。
『うちの顧問弁護士にも見せた』
「そうですか」
『あの……』
大沢は言いにくそうに続けました。
『冷凍庫の件は、社内で確認した』
「はい」
『品質管理課から報告が上がっていたのは事実だ』
私は息を呑みました。
『それで……』
声が小さくなります。
『今回の代金請求は、取り下げる方向で考えている』
……!
私は思わず立ち上がりました。
相馬先輩が私の肩を押さえます。
静かにしろ、ということですね。
『ただ、魚の処分と費用については……』
「その点は、春江さんご本人と確認していただくことになります」
『……分かった』
所長は淡々と言いました。
「当事務所では通知書の作成と事実関係の整理をお手伝いしています。紛争に関する法律上の交渉が必要な場合には、弁護士にご相談ください」
『承知した』
電話が切れました。
「所長!」
「何だ」
「請求を取り下げるって!」
「ああ」
「やりましたね!」
相馬先輩が言いました。
「まだだ」
「またそれですか!」
「方向で考えてる、だぞ。決まったわけじゃねえ」
「あ……」
「商売の話は、口約束だけで安心するな」
そうでした。
法律の世界。
相手が少し弱気になっただけでは、問題は解決していません。
その後。
東海水産側は、社内の品質記録を再確認しました。
出荷前に第三冷凍庫の温度異常が報告されていたこと。
品質管理担当が、その商品の出荷を止めるよう求めていたこと。
そして、社長がその報告を受けながら、十分な確認をせずに出荷を指示していたこと。
これらが会社内部で確認されたそうです。
東海水産は、春江さんに対する八十万円の請求を正式に撤回。
問題の魚の処理費用についても、会社側が負担する旨の書面を提出しました。
双方が内容を確認し、書面を取り交わす段階では、それぞれ必要な専門家の助言も受けました。
商品は衛生面に配慮して適切に処理されました。
そして。
春江さんの店は、八十万円の支払いを免れたのです。
一週間後。
春江さんが、事務所へやって来ました。
今度は、泣いていません。
手には小さな紙袋。
「これ、よかったら皆さんで」
中には。
コロッケ。
卵焼き。
煮物。
そして、焼き魚。
「魚は大丈夫ですよ!」
春江さんが笑いました。
「今度は、ちゃんと検品した仕入れ先から買いましたから!」
私は思わず笑ってしまいました。
「それなら安心ですね!」
「ええ」
春江さんは少し照れくさそうに言いました。
「今回、本当に勉強になりました」
「勉強?」
「私、商売してるくせに、知らなかったんです」
春江さんは続けました。
「商品を受け取ったら、ちゃんと確認しないといけないって」
私は頷きました。
「商人同士の売買では、とても大事なことです」
「今までは、相手を信用していればいいと思っていました」
春江さんは少し寂しそうに笑いました。
「でも、信用することと、確認しないことは違うんですね」
……。
その言葉に。
私は、はっとしました。
信用する。
でも、確認する。
相手を疑うためではない。
お互いの取引を、きちんと成立させるために。
「春江さん」
「はい?」
「今度から、納品されたらすぐ検査してくださいね」
「もちろんです!」
「異常があったら、すぐ通知です」
「はい!」
「口頭だけで済ませず、いつ、何を伝えたかも記録してください」
「分かりました!」
春江さんは笑いました。
「こはる先生、ずいぶん厳しいですね」
「せ、先生だなんて!」
私は慌てました。
まだ見習いです。
行政書士試験の受験生です。
しかも未来から来た受験生。
昭和の商法には、毎回やられっぱなしです。
でも。
春江さんの笑顔を見ていると。
少しだけ。
この法律が好きになった気がしました。
夕方。
私は事務所の机に向かっていました。
六法を開きます。
商法。
売買。
五百二十四条。
五百二十五条。
五百二十六条。
五百二十七条。
五百二十八条。
……。
「先輩」
「何だ」
「商法の売買って、民法より厳しすぎませんか?」
「そうか?」
「だって、商品が届いたらすぐ検査!」
「うん」
「瑕疵を見つけたら、すぐ通知!」
「うん」
「通知しなかったら、原則として責任追及に制限がかかる!」
「そうだ」
「返品する商品も、場合によっては保管しないといけない!」
「そのとおり」
私は机に突っ伏しました。
「商人って、大変ですね……」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だろ」
「え?」
「商人ってのは、金をもらって取引する専門家だからな」
「……はい」
「物を仕入れて、売って、利益を出す。その代わり、取引をきちんと処理する責任も負う」
「なるほど……」
「だが、勘違いするなよ」
先輩は六法を指差しました。
「買主に厳しいからって、売主が何をしてもいいわけじゃねえ」
「はい!」
「欠陥を知ってて売った奴は、検査・通知義務を盾に逃げられねえ」
「商法五百二十六条第三項ですね!」
「そうだ」
私は頷きました。
そうです。
今回の事件。
春江さんには、検査と通知に関する落ち度がありました。
その点は、きちんと認めなければならない。
でも。
大沢社長も、商品の品質異常を知りながら出荷していた。
その事実が確認されたからこそ、商法の例外が意味を持った。
商法は、片方だけを一方的に守る法律ではなかったのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「もし今回、東海水産が品質異常を知らず、春江さんも通知を怠っていたら?」
「結論は違っていたかもしれねえな」
「ですよね……」
「だから、事件ってのは事実が一つ違えば答えも変わるんだ」
私は深く頷きました。
法律は、魔法ではありません。
困っている人がいたから、必ず助けられるわけでもない。
相手が悪そうな顔をしているから、必ず勝てるわけでもない。
大事なのは。
何が起きたのか。
いつ起きたのか。
誰が何を知っていたのか。
何を確認し、いつ相手に知らせたのか。
そこを見極めることなのです。
「ところで、こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい!」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「商人同士の売買では、民法だけじゃなくて、商法の特別なルールが適用されます」
「うん」
「買主は商品を受け取ったら、遅滞なく検査しないといけない」
「そうだ」
「瑕疵を発見したら、直ちに通知しないと、原則として責任追及が制限される」
「うん」
「でも、売主がその瑕疵を知っていた場合は、その制限を主張できません!」
所長が頷きました。
「よし」
私は続けました。
「あと、売主が商品を受け取ってもらえない場合の供託や競売、定期売買の解除、返品商品の保管義務なんかも、商法には特別なルールがあるんですよね」
「そうだ」
所長は帳簿を閉じました。
「商売は、時間との戦いだからな」
私は、その言葉を噛みしめました。
時間。
そうです。
魚は腐る。
野菜は傷む。
祭りの日は過ぎる。
売れ残った商品は、いつまでも倉庫を占領する。
商人同士が、何か月も何年も、
「返品するかもしれません」
「代金を払うかもしれません」
「まだ確認していません」
そんな状態を続けていたら。
商売そのものが、立ち行かなくなってしまう。
だから。
商法は、早く検査しろと言う。
早く通知しろと言う。
期限を守れと言う。
そして。
商品を受け取らない相手がいる場合には、供託や競売の仕組みも用意する。
けれど。
その迅速さを悪用して、欠陥を知りながら売りつける商人までは守らない。
なるほど。
ようやく分かりました。
私はノートを開きました。
今日の教訓。
短く。
一行で。
――商事売買は「早く検査、すぐ通知」。ただし、瑕疵を知っていた売主は、その遅れを盾に逃げられない。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
「これなら忘れません!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
すると。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『うちは青果の卸売業者なんですが……』
「はい」
『取引先が、注文した野菜を受け取ってくれなくて……』
私は鉛筆を握り直しました。
野菜。
受領拒絶。
……。
来ました。
今度は、売主側です!
『もう三日も倉庫に置いているんです。このままじゃ腐ってしまうんですが、勝手に売ってもいいんでしょうか?』
私は相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
「先輩!」
「何だ」
「商法五百二十四条です!」
「聞こえてるよ」
「受領拒絶の場合、売主は供託か、一定の手続を経て競売を選べます!」
「そうだ」
「しかも、野菜みたいに価格が下がるおそれのあるものは、競売前の催告を省ける場合があります!」
「そのとおり」
私は勢いよく言いました。
「裁判所の許可も不要なんですよね!」
「売主が商法五百二十四条に基づいて競売する場合はな」
「はい!」
「ただし、何でも好き勝手に売っていいわけじゃねえぞ。競売の手続、代価の処理、相手方への通知もある」
「分かっています!」
「本当か?」
「たぶん!」
「たぶんじゃ困る!」
私は笑いながら相談票を取りました。
商法。
商事売買。
民事売買。
最初は、どちらも同じ売買だと思っていました。
商品を渡す。
代金を払う。
それだけだと。
でも。
商人同士の取引には、商人同士だからこその厳しさがあります。
早く。
正確に。
そして誠実に。
取引を進めるためのルール。
その仕組みを知っているかどうかで。
八十万円を失うこともあれば。
八十万円を守れることもある。
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、野菜の種類と、いつ受け渡す約束だったのかを教えてください」
電話の向こうで、男性が説明を始めました。
窓の外では、夕日が商店街の屋根を赤く染めています。
あのどこかで。
春江さんは、今日もお惣菜を作っているのでしょう。
今度は、きちんと検査した材料で。
お客さんが安心して食べられる料理を。
そして。
東海水産の倉庫でも、きっと誰かが温度計を確認しているはずです。
もう二度と、あんな魚を出荷しないように。
商法は、少し厳しい法律です。
でも。
真面目に商売する人を、理不尽な取引から守る力も持っています。
私は今日、それを知りました。
もっとも。
商法五百二十四条。
五百二十五条。
五百二十六条。
五百二十七条。
五百二十八条。
……。
覚えること、多すぎませんか!?
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「商法の条文って、似たような数字が並びすぎです!」
「法律に文句言うな!」
「しかも売主と買主で競売のルールが違うなんて!」
「だから勉強しろって言ってんだろ!」
「分かりましたよ!」
私は電話の相談票を取りながら、心の中で呟きました。
今日の教訓。
もう一つ。
――商品が腐る前に検査する。法律問題が腐る前に通知する。
……。
うん。
なかなかいい言葉です。
ただし。
「こはる!」
「はい!」
「何を一人でにやにやしてる!」
「商法の語呂合わせを考えてました!」
「電話の相談が先だ!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
商人たちの町では、今日も売買契約が結ばれています。
その一つ一つに。
商品と代金だけではなく。
時間と責任が、くっついているのです。
そして。
取引先を泣かせておきながら、
「商法では俺が正しいんだ!」
と笑う社長がいたなら。
まず確認すべきことがあります。
その社長は。
本当に、商法の最後の一行まで読んでいるのでしょうか。
読んでいないのなら。
次に青ざめるのは。
きっと、その社長の方なのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




