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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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594/701

[商法・商人間の留置権と牽連性]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 関係のない物だから、返さなければならない。


 普通に考えれば、そう思います。


 ところが。


 商売の世界では、その常識が通用しないことがあります。


 一台目の車を修理した。


 修理代金は、まだ払ってもらっていない。


 その後、別の車を修理するために預かった。


 さて。


 修理業者は、最初の車の未払い修理代金を受け取るまで、二台目の車を返さずにいられるのでしょうか。


 答えは。


 条件を満たせば、できる。


 しかも。


 二つの車の修理が、まったく別の契約であってもです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……商法って、ずるくないですか?」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何だ」


「民法で覚えたことが、商法でひっくり返るんですよ」


「何の話だ」


「留置権です!」


 私は鉛筆を握りました。


「民法では牽連性が必要なのに、商法では不要なんです!」


「そうだな」


「せっかく牽連性って難しい言葉を覚えたのに!」


「覚えたんならいいだろ」


「よくありません!」


 私はノートを開きました。


 昨日の事件。


 森田自動車修理工場。


 経営者は、森田源一さん。


 相手は、東海中古車販売株式会社。


 黒岩剛三社長。


 未払い修理代金。


 百二十万円。


 既に修理した七件の車は、すべて引渡し済み。


 ところが、その後。


 別のクラウンが修理のために持ち込まれた。


 修理は完了。


 しかし、森田さんは、前の百二十万円を受け取るまでクラウンを留置した。


 黒岩社長は怒鳴りました。


「前の修理代と、この車は関係ないだろ!」


 でも。


 商法第五百二十一条。


 その条文が、森田さんを守った。


 結局、黒岩社長は百二十万円を支払い、クラウンも返還された。


「あの事件ですね」


 私は言いました。


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「今日は、何を整理するんだ?」


「民法の留置権と、商法の留置権の違いです!」


「それだけか?」


「もちろん違います!」


 私は勢いよく言いました。


「商人間の留置権が成立する条件と、牽連性がいらない理由。それから、昭和と未来の商法の違いも整理します!」


 相馬先輩は、嫌そうな顔をしました。


「長くなりそうだな」


「試験に出ますから!」


「お前の試験に、俺を巻き込むな」


 そのとき。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


「まず、留置権って何ですか?」


 私はノートに書きました。


 ――留置権。


 相馬先輩が答えます。


「金を払ってもらうまで、預かっている物を返さずにいられる権利だ」


「そうです!」


 私は頷きました。


 ただし、正確には、法律上の要件があります。


 例えば。


 自動車修理工場に、お客さんが車を持ち込んだ。


 修理代金は十万円。


 修理は完了。


 でも。


 お客さんが言いました。


「金は払わない。でも車は返せ」


 ……。


 そんなことを許したら。


 修理業者は困ります。


 車を返してしまえば、修理代金を回収できないかもしれません。


「だから、一定の条件で車を留め置けるんですね」


「そうだ」


「これが留置権です」


 私は大きく丸をつけました。


 留置権は、担保物権の一つ。


 担保物権。


 これも難しい言葉です。


 でも、考え方は単純。


 お金を支払ってもらうための、法律上の支え。


 土地に抵当権を設定する。


 物を質に取る。


 そうした担保の仲間に、留置権があります。


「ただし、留置権は少し変わっています」


「何がだ?」


「原則として、契約で設定しなくても、法律上の条件を満たせば成立するんです」


「そうだな」


「だから法定担保物権なんですね」


 私は書きました。


 ――留置権=法律の要件を満たすことで成立する法定担保物権。


「森田さんも、最初からクラウンを担保として預かったわけではありませんでした」


「ああ」


「修理を頼まれて預かっただけです」


「そうだ」


「でも、商法の条件を満たしたことで、留置権を主張できた」


 相馬先輩が頷きました。


「そこが大事だ」


 私は少し考えました。


 契約書に、


 ――この車を担保にします。


 と書いていなくても。


 法律が一定の場合に、物を留め置く権利を認める。


 だからこそ。


 条件を正確に知っておく必要があるのです。


「では、民法から整理します!」


 私はページをめくりました。


 ――民法第二百九十五条。


 他人の物を占有する者は、その物に関して生じた債権が弁済期にあるとき、原則として、その弁済を受けるまで物を留置できる。


「ここで大切なのが、何でしょう?」


 私は相馬先輩を見ました。


「……何だよ」


「問題です!」


「俺に聞くな」


「いいから!」


 相馬先輩は溜息をつきました。


「その物に関して生じた債権、だろ」


「正解!」


 私は赤鉛筆を取りました。


 ――その物に関して生じた債権。


 ここに二重線を引きます。


「これが、牽連性につながるんです」


 牽連性。


 読み方は、けんれんせい。


 意味は、関連性。


 もっと分かりやすく言えば。


 その物と、そのお金の請求が、きちんと結びついているか。


 ということです。


「例えば、クラウンを修理した」


「うん」


「クラウンの修理代が未払い」


「うん」


「だから、そのクラウンを留置する」


「民法の留置権の典型だな」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 クラウンを修理。


 ↓


 クラウンの修理代金債権。


 ↓


 クラウンを留置。


「同じクラウンでつながっています!」


「そうだな」


「だから、牽連性があります」


 私は頷きました。


 ここまでは、非常に分かりやすい。


 ところが。


 今回の森田さんの事件は違いました。


「前の七件の車は、もう引き渡していました」


「ああ」


「修理代金百二十万円だけが残っていました」


「うん」


「その後、別のクラウンを預かった」


 私はノートに二台の車を描きました。


 一台目には、


 ――修理済み・引渡し済み・代金未払い。


 二台目には、


 ――修理済み・現在占有中。


 と書きます。


「百二十万円の修理代金は、クラウンを修理したことによって生じたものではありません」


「そうだ」


「つまり、前の修理代金債権とクラウンには、直接の牽連性がないんです」


 私は赤線を引きました。


 ――民法の留置権では、原則として牽連性が必要。


「だから最初、私はクラウンを留置できないと思ったんです」


「そうだったな」


「でも、間違っていました」


 相馬先輩が笑いました。


「民法しか見てなかったからな」


「はい……」


 ここで。


 私は、商法のページを開きました。


「商法第五百二十一条です!」


 私は大きく書きました。


 ――商人間の留置権。


「この条文が、今回の主役です!」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「じゃあ、読んでみろ」


「はい!」


 私は条文を読みました。


 商人間において、その双方のために商行為となる行為によって生じた債権が弁済期にあるとき。


 債権者は、その債権の弁済を受けるまで。


 債務者との間における商行為によって自己の占有に属した、債務者所有の物または有価証券を留置することができる。


 ただし。


 当事者に別段の意思表示があるときは、この限りではない。


「……長い!」


 私は思わず叫びました。


「法律なんだから読め」


「一文に条件を詰め込みすぎです!」


「文句は立法者に言え」


「明治時代の立法者にですか!?」


 相馬先輩は煙草に火をつけました。


「で、何が分かった?」


 私は条文をもう一度見ました。


「民法とは、書き方が違います」


「どこがだ?」


「商法五百二十一条には、民法のような『その物に関して生じた債権』という要件がありません」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


「つまり、被担保債権と留置物に、直接の牽連性がなくてもいいんです!」


「正解」


 私は思わず拳を握りました。


 ついに。


 核心です。


 民法の留置権。


 その物と債権との関連性が必要。


 商法の商人間の留置権。


 同じ取引の物である必要はない。


「でも先輩」


「何だ」


「どうして商法だけ、こんなに強いんですか?」


 先輩は少し考えました。


「商人同士の取引だからだ」


「商人同士?」


「ああ」


 相馬先輩は、机の上の請求書を指差しました。


「森田さんの工場は、毎日何台も車を直してる」


「はい」


「中古車販売店は、車を仕入れて、整備して、売ってる」


「はい」


「いちいち現金払いとは限らねえ。月末締めの翌月払いなんて取引もある」


「そうですね」


「だったら、どうなる?」


 私は少し考えました。


「修理業者は、代金を受け取る前に車を返すことが多くなります」


「そうだ」


「何度も取引するうちに、未払い代金が積み重なることもあります」


「そういうことだ」


 なるほど。


 商売は、一回限りの取引とは限りません。


 何度も注文する。


 何度も納品する。


 代金は後払い。


 そして、また次の仕事を頼む。


 それが普通に行われています。


「だから」


 相馬先輩が言いました。


「商人間では、取引関係全体の信用を支える仕組みが必要になる」


 私は頷きました。


 前の修理代が払われていない。


 でも、別の車が持ち込まれた。


 そこで。


 その車が債務者の所有物であるなど、商法の条件を満たしていれば。


 前の未払い代金の支払いを受けるまで、留置できる。


「つまり、商法は、個々の物とのつながりより、商人間の継続的な取引関係を重視しているんですね」


「そうだな」


 私はノートに書きました。


 ――商事留置権は、商取引の信用を支えるため、牽連性を必要としない。


 これです。


 これが、民法と商法の決定的な違いなのです。


「さて」


 片桐所長が、奥から出てきました。


「こはる」


「はい!」


「牽連性が不要だからといって、どんな物でも留置できるのか」


「できません!」


「では、条件を言ってみろ」


 私は背筋を伸ばしました。


 来ました。


 所長の確認問題。


「まず、双方が商人であることです!」


「うん」


「次に、双方のために商行為となる取引によって債権が生じていること!」


「うん」


「その債権が弁済期にあること!」


「うん」


「さらに、債務者との商行為によって、債権者が物または有価証券を占有していること!」


「うん」


「そして、それが債務者自身の所有物であること!」


 所長が頷きました。


「ほかには?」


「当事者の別段の意思表示、つまり留置権を排除する特約などがないことも確認します!」


「よし」


 私は大きく息を吐きました。


 全部言えました。


「じゃあ、一つずつ森田さんの事件に当てはめます!」


 私はノートを開きました。


「第一の条件。双方が商人であること!」


 私は書きました。


 森田自動車修理工場。


 経営者、森田源一。


 自動車修理を営業として行う商人。


 東海中古車販売株式会社。


 中古車販売を行う会社。


 こちらも商人です。


「二人とも商人ですね」


「ああ」


「会社と個人事業主でも、商人同士になりますか?」


 相馬先輩が頷きました。


「なる。個人で商売しているからといって、商人じゃないわけじゃねえ」


「なるほど!」


 私は書きました。


 ――商人は会社だけではない。個人事業主も商人になり得る。


 ここ、重要です。


 商人間の留置権。


 名前だけ見ると、会社同士の取引に限定されそうです。


 でも違います。


 商人である個人事業主と、商人である会社。


 その取引でも、条件を満たせば適用されます。


「つまり、森田さんが小さな修理工場だからといって、商法の保護から外れるわけじゃないんですね」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 会社の規模は関係ありません。


 資本金の額でもありません。


 大きな会社と、小さな工場。


 その間の取引にも、商法は適用されるのです。


「第二の条件。双方のために商行為となる行為から、債権が生じていること!」


 私は書きました。


 ここは、少し難しいです。


「双方のために、という言葉が大事なんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「片方が商人なら、どんな債権でもいいわけじゃねえ」


「はい」


 例えば。


 森田さんが、黒岩社長個人に百二十万円を貸した。


 ただし、それは営業とは無関係な私的な貸付けだった。


 この場合。


 森田さんが自動車修理業を営んでいるからといって、その貸付けが当然に双方の商行為になるわけではありません。


「だから、債権が何から生じたのかを調べるんですね」


「そうだ」


 今回の百二十万円は。


 森田さんが、営業として修理を行った。


 東海中古車販売が、販売用の中古車を整備するために修理を依頼した。


 つまり、双方の営業上の取引。


「双方にとって商行為です!」


「正解」


 私は赤線を引きました。


 ――単に商人同士であるだけでは足りない。債権の発生原因が双方の商行為であること。


 ここを間違えると。


 商事留置権を使えると思っていたのに、使えない。


 ということになりかねません。


「第三の条件。債権が弁済期にあること!」


 私は書きました。


 弁済期。


 これも難しい言葉です。


 でも意味は簡単。


 支払うべき時期。


 つまり、支払期限が来ていることです。


「森田さんの百二十万円は?」


 相馬先輩が尋ねました。


「全部、期限を過ぎています!」


「そうだな」


「だから、弁済期の条件を満たしています」


 私は頷きました。


 では。


 まだ支払期限が来ていなかったら?


 例えば。


 修理代金百二十万円。


 支払期限は来月末。


 今日はまだ今月の十五日。


 この場合。


「期限がまだ来ていない以上、その債権を理由に商法五百二十一条の留置権を行使することは、原則としてできません」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「いくら払ってもらえるはずのお金でも、支払期限は重要なんですね」


「当然だ」


 相馬先輩が言いました。


「まだ払わなくていい金を、今すぐ払えとは言えねえからな」


 私は赤線を引きました。


 ――弁済期未到来なら、原則として商事留置権は成立しない。


 これも忘れてはいけません。


「第四の条件。債務者との商行為によって占有を取得していること!」


 私はノートをめくりました。


「森田さんは、どうしてクラウンを預かったんでしたっけ?」


 相馬先輩が聞きました。


「東海中古車販売から、修理を依頼されたからです!」


「そうだ」


「修理契約に基づいて、車を預かったんです」


 つまり。


 商行為によって占有を取得した。


 この条件も満たしています。


「では先輩」


「何だ」


「もし黒岩社長が、休日に個人的な用事で森田さんの家へ行って、私物の腕時計を預けたら?」


「ほう」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「どうなると思う?」


「商行為によって預かった物ではありませんから、今回の商事留置権の条件を満たしません」


「正解」


 私は頷きました。


 商人同士なら、相手の物を何でも留置できる。


 そんな話ではありません。


 占有することになった原因も、重要なのです。


「第五の条件。債務者自身が所有する物であること!」


 私は書きました。


 ここ。


 ものすごく重要です。


 今回の事件では。


 クラウンは、東海中古車販売株式会社の所有物でした。


 修理を依頼した会社。


 百二十万円を支払う義務がある会社。


 その会社自身が所有する車です。


「だから、条件を満たしたんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、もし別の人の車だったら?」


 私は考えました。


 例えば。


 東海中古車販売が、お客さんから車を預かった。


 その車を、森田さんの工場へ修理に出した。


 でも。


 本当の所有者は、東海中古車販売ではなく、別のお客さんだった。


「その場合、商法五百二十一条の債務者所有という条件を満たしません!」


「そうだ」


「つまり、東海中古車販売が代金を払わないからといって、第三者所有の車を、当然に商事留置権で留置できるわけではない」


 私は大きく丸をつけました。


 ――商事留置権では、留置物は債務者所有であることが必要。


「でも先輩」


「何だ」


「民法の留置権では、条文上は『他人の物』ですよね」


「ああ」


「こちらは必ずしも債務者本人の所有物とは限らないんですよね」


「そうだ」


 私は驚きました。


 民法と商法。


 また違いが出ました。


 民法の留置権は、債権と物との牽連性が必要。


 一方、物の所有者については、条文上、債務者自身に限定していない。


 対して。


 商法の留置権は、牽連性が不要。


 でも、債務者所有という条件がある。


「面白いですね!」


「何がだ」


「商法の方が、全部の条件で緩いわけじゃないんです!」


「そういうことだ」


 私は書きました。


 ――商法は牽連性について緩やかだが、債務者所有という要件がある。


 ここを間違えたら。


 試験で簡単に引っかかりそうです。


「最後に、特約です!」


 私はノートを開きました。


 商法第五百二十一条ただし書。


 当事者の別段の意思表示があるときは、この限りでない。


「つまり、契約で商事留置権を排除することもできるんですね」


「そうだ」


 例えば。


 修理工場と中古車販売店との間で、


 ――修理完了後は、他の取引に係る未払代金の有無にかかわらず、車両を引き渡す。


 という合意をしていた場合。


 その合意内容によっては、商事留置権の行使が制限されることがあります。


「だから所長は、契約書を全部調べたんですね」


「ああ」


「留置権を排除する特約がないかどうか」


「そうだ」


 私は頷きました。


 法律に権利が書いてある。


 だから、絶対に使える。


 そんな単純な話ではありません。


 当事者が何を約束したのか。


 それも確認しなければならない。


 だから。


 定款。


 契約書。


 議事録。


 通知書。


 行政書士が扱う書類には、意味があるのです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「条文を覚えるだけでは足りん」


「はい」


「契約書で、その条文の適用が変わることもある」


「はい!」


「だから、書類を読むんだ」


 私は大きく頷きました。


 法律の条文。


 そして、当事者の合意。


 その両方を確認する。


 それが実務なのです。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「ここまで分かったなら、もう一度、森田さんの事件を整理してみろ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 森田自動車修理工場。


 対する東海中古車販売株式会社。


 双方とも商人。


 自動車修理は双方の商行為。


 未払い修理代金百二十万円。


 弁済期到来済み。


 別のクラウンは、東海中古車販売の所有。


 森田さんは修理契約によって適法に占有。


 留置権を排除する特約も確認されていない。


 そして。


 百二十万円の債権とクラウンには、直接の牽連性がない。


「ですが!」


 私は言いました。


「商法第五百二十一条では、その牽連性は不要!」


 相馬先輩が頷きました。


「つまり?」


「森田さんは、百二十万円の支払いを受けるまで、クラウンを留置できたんです!」


「正解」


 私は思わず笑いました。


 やった。


 ようやく完全に理解できました。


 でも。


 ここで一つ、疑問が浮かびました。


「先輩」


「何だ」


「留置権があると、相手の車を売ってお金にできるんですか?」


「勝手にはできねえ」


「ですよね」


 私は赤鉛筆を取りました。


 留置権。


 物を留め置く権利。


 その物の所有権を取得するわけではありません。


 勝手に売る。


 勝手に使う。


 勝手に自分のものにする。


 そんなことは認められません。


「特に、留置物を勝手に使うのは危険ですね」


「ああ」


「留置権者には、保管について注意義務がありますし」


「そうだ」


 民法第二百九十八条。


 留置権者は、善良な管理者の注意をもって留置物を占有する必要があります。


 いわゆる善管注意義務。


 森田さんの事件で、相馬先輩が、


「車はきちんと保管してください」


 と言ったのは、このためです。


「もし森田さんが、クラウンを毎日通勤に使っていたら?」


 私は尋ねました。


「問題になるな」


「ですよね」


 留置権があるからといって、自由に使えるわけではありません。


 場合によっては、留置権の消滅請求などの問題も生じます。


「つまり」


 私は言いました。


「留置権は、相手を懲らしめる権利ではないんですね」


「そうだ」


「支払いを確保するために、物の引渡しを拒める権利」


 私は二重線を引きました。


 ――留置権は、所有権でも、自由な処分権でもない。


「じゃあ先輩」


「何だ」


「百二十万円が支払われたら?」


「その債権を理由に、いつまでも留置できねえ」


「そうですよね!」


 私は頷きました。


 実際。


 森田さんは百二十万円を受け取った。


 今回の修理代八万円も支払われた。


 だから。


 クラウンを返した。


 そして、車両引渡確認書も残した。


「権利を使うときだけじゃなく、終わるときの書類も大切なんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「商売ってのは、そこまでやって一件落着だ」


 私は頷きました。


 法律上の権利。


 それは、いつまでも相手を縛るための道具ではありません。


 必要な条件があるから成立する。


 その条件がなくなれば、権利の行使も終わる。


 そこまで理解してこそ、法律を正しく使えるのです。


「ところで、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい?」


「留置権と、同時履行の抗弁権は違うぞ」


「あっ!」


 私は顔を上げました。


 同時履行の抗弁権。


 民法第五百三十三条。


 双務契約で、一方の当事者が相手に履行を求めるとき。


 相手方は、原則として、相手が反対給付を提供するまで自分の履行を拒むことができます。


「車の修理でも、問題になる場合がありますね」


「そうだ」


「でも、商事留置権とは別の仕組みです」


 例えば。


 今回のクラウンの修理代八万円。


 それ自体が支払われていない場合。


 修理契約上の代金支払義務と車両引渡義務との関係が問題になります。


 しかし。


 森田さんが留置した本当の理由は、前の七件の百二十万円。


 まったく別の修理契約から生じた債権です。


「なるほど!」


 私は言いました。


「ここが商事留置権ならではの強みなんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「別の取引から生じた未払代金でも、要件が揃えば留置できる」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――同時履行の抗弁権と商事留置権は、根拠も成立要件も異なる。


 試験では、こういう似た制度が怖いのです。


 意味が似ている。


 働きも似ている。


 でも。


 成立条件が違う。


 だからこそ、事例を通して区別する必要があります。


「さて、ここからが昭和と現代の違いです!」


 私はノートの新しいページを開きました。


 相馬先輩が顔をしかめます。


「また未来の話か」


「大事なんです!」


 昭和六十三年。


 私が今いる時代。


 会社についての基本的な規定は、商法第二編の会社に関する部分などに置かれています。


 有限会社については、有限会社法。


 一方。


 現代には、独立した会社法があります。


「先輩、例えば株式会社を一人で作るとしたら?」


「何言ってる」


 相馬先輩が即答しました。


「発起人が七人以上必要だろ」


「ですよね……」


「取締役だって三人以上必要だ。監査役も置かなきゃならねえ」


「はい……」


 そうです。


 昭和六十三年当時。


 株式会社を設立するには、発起人が七人以上必要でした。


 取締役も三人以上。


 監査役も必要。


 現代のように、一人で会社を作って一人で取締役になる。


 そんな簡単な制度ではありません。


「しかも先輩」


「何だ」


「現代には、合同会社という会社形態もあるんですよ」


「……何だそれ」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「合同会社?」


「はい」


「合名会社や合資会社の仲間か?」


「あっ」


 私は口を押さえました。


 しまった。


 また未来の知識です。


 現代の会社法では、株式会社のほか、合名会社、合資会社、合同会社が規定されています。


 しかし。


 合同会社は、昭和六十三年にはまだありません。


 平成十七年に会社法が成立し、平成十八年に施行されてからの制度です。


「……未来では、そういう制度ができるかもしれないなって」


 私は苦笑しました。


「お前、本当に変なことばかり考えるな」


 相馬先輩が呆れました。


 私は慌てて話を戻しました。


「でも、会社の設立制度が変わっても、商取引の基本的な問題は残りますよね」


「そりゃそうだ」


「例えば、修理代金を踏み倒す会社がある」


「ああ」


「取引相手の物を預かっている」


「うん」


「そこで、商事留置権が問題になる」


 相馬先輩が頷きました。


「会社の作り方が変わっても、金を払わねえ奴はいるからな」


「そうなんです!」


 私は思わず笑いました。


 現代では。


 株式会社の設立に必要な発起人は一人でもよい。


 取締役も、一定の会社では一人でよい。


 最低資本金制度も撤廃され、資本金一円で株式会社を設立することも法律上可能になった。


 昔より、会社を作りやすくなっています。


 でも。


 会社を簡単に作れることと。


 商取引での責任が軽くなることは、別問題です。


「ここ、重要ですね」


 私は書きました。


 ――会社法の独立・制度の簡素化は、商取引上の義務が消えることを意味しない。


 私は少し考えました。


「所長」


「何だ」


「どうして現代では、会社法が独立したんでしょうか」


 所長は少し考えました。


「会社の規模も、経営の仕組みも、時代とともに変わるからな」


「はい」


「会社を作る規則と、商取引をする規則。整理する必要が出てくることもあるだろう」


 私は頷きました。


 現代では、会社の形態や規模に応じて制度が整えられています。


 小さな会社でも利用しやすい仕組み。


 大きな会社に必要な監督の仕組み。


 経営の透明性。


 株主や債権者の保護。


 そうした問題を整理するため、会社に関する法律が独立して体系化されたのです。


 ただし。


 商法そのものがなくなったわけではありません。


 商行為については、現代でも商法が重要です。


 そして。


 商人間の留置権も、その一つ。


「つまり」


 私は言いました。


「昭和六十三年では、会社のルールも商法の中にある。でも、現代では会社法として分かれている」


「未来ではな」


「はい!」


「で、留置権は?」


「現代でも商法五百二十一条です!」


 私は大きく頷きました。


 商人間の留置権について、牽連性を必要としないという基本的な考え方は、現代にも引き継がれています。


 会社を作る制度が変わっても。


 商人間の信用を守る必要性は、なくならないのです。


「じゃあ、確認問題を出すぞ」


 相馬先輩が煙草を消しました。


「はい!」


「森田さんが、前の修理代百二十万円を受け取っていない」


「はい!」


「今、別のクラウンを預かっている」


「はい!」


「クラウンは東海中古車販売の所有。修理契約によって預かった物だ」


「はい!」


「前の百二十万円は支払期限を過ぎている。双方とも商人で、修理は双方の商行為だ。留置権を排除する特約もない」


「はい!」


「留置できるか?」


「できます!」


「なぜだ?」


「商法五百二十一条の要件を満たしていて、債権と物との牽連性は不要だからです!」


「正解」


 私は嬉しくなりました。


「次!」


「まだやるのか」


「もちろんです!」


 相馬先輩は溜息をつきました。


「じゃあ、クラウンが第三者所有だったら?」


「商法五百二十一条の債務者所有という条件を満たしません!」


「そうだ」


「ただし、別途、民法の留置権などが成立するかは、それぞれの要件で検討する必要があります!」


「よし」


「次!」


「……お前、元気だな」


「試験対策です!」


 私は笑いました。


 相馬先輩が続けます。


「修理代の支払期限がまだ来ていなかったら?」


「その債権については、原則として商事留置権は成立しません!」


「よし」


「次!」


「修理契約に、留置権を行使しない特約があったら?」


「その特約の内容によっては、商事留置権を行使できません!」


「よし」


「次!」


 相馬先輩は腕を組みました。


「じゃあ、民法の留置権で必要なものは?」


「牽連性!」


「商法の商人間の留置権では?」


「不要!」


「商事留置権で、留置物の所有者は?」


「債務者本人!」


 相馬先輩が頷きました。


「そこまで覚えれば、試験でも間違えねえだろ」


「はい!」


 私は思わず拳を握りました。


 完璧です。


 これなら、民法と商法を混同しません。


 ……たぶん。


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はノートを見直しました。


 民法第二百九十五条。


 商法第五百二十一条。


 似たような留置権。


 でも、その成立要件には重要な違いがある。


 民法では、原則として債権と物との牽連性が必要。


 商法では、その牽連性は不要。


 ただし。


 双方が商人であること。


 双方の商行為から生じた債権であること。


 弁済期にあること。


 商行為によって占有を取得したこと。


 債務者所有の物または有価証券であること。


 別段の意思表示がないこと。


 これらを確認しなければならない。


「……なるほど」


 私は鉛筆を止めました。


「所長」


「何だ」


「留置権って、ただ物を返さないための権利じゃないんですね」


「そうだ」


「商売をする人が、安心して取引できるようにするための仕組みなんですね」


 片桐所長が頷きました。


「うん」


 私は、森田さんの顔を思い出しました。


 油で荒れた手。


 古い帽子。


 従業員三人。


 百二十万円が入金されたときの、あの嬉しそうな顔。


 あの人は。


 法律を使って、相手から何かを奪おうとしたわけではありません。


 ただ。


 自分が働いた分の代金を受け取ろうとしただけです。


 でも。


 その当たり前のことが、できないときがある。


 そんなとき。


 商法五百二十一条が、一つの支えになる。


「法律って、面白いですね」


 私は小さく言いました。


 相馬先輩が、こちらを見ました。


「またそれか」


「はい」


「毎日言ってるな」


「だって、本当に面白いんです」


 私は笑いました。


 そして。


 ノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 ゆっくり。


 丁寧に。


 ――民事留置権は「物との牽連性」が必要。商事留置権は「牽連性不要」、ただし商人間の商行為・弁済期・債務者所有などの要件を忘れるな。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「えっ!」


「一行の覚え書きにしては長い」


「大事な要件を全部入れたんです!」


「覚えられるのか?」


「もちろんです!」


 私は胸を張りました。


「クラウンを思い出せばいいんです!」


「ほう」


「百二十万円の未払い修理代!」


「うん」


「別のクラウン!」


「うん」


「黒岩社長が『関係ない車だろ!』って怒鳴る!」


「……うん」


「そこで商法五百二十一条!」


 私は勢いよく言いました。


「牽連性は不要!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「お前、それで覚えるのか」


「はい!」


「変な受験勉強だな」


「覚えられれば勝ちです!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 あのクラウンのことを思い出せばいい。


 修理工場。


 未払い代金。


 別の車。


 怒鳴る社長。


 そして。


 法律を知った途端、顔色を変えた社長。


 その全部が。


 牽連性という難しい言葉を、忘れられない知識に変えてくれたのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も戻せ」


「はい……」


「それから、書類棚の整理を頼む」


 私は固まりました。


「先輩」


「何だ」


「私には、留置権があります」


「……は?」


 相馬先輩が、怪訝な顔をしました。


 私は自分のノートを抱きしめました。


「このノートは、私が作った大切な勉強道具です!」


「ああ」


「だから、先輩が私にお茶を奢ってくれるまで、ノートを留置します!」


 ……。


 沈黙。


 相馬先輩が、ゆっくり口を開きました。


「こはる」


「はい!」


「誰の物だ、そのノート」


「私のです!」


「じゃあ、留置権の話じゃねえだろ」


 ……。


 あ。


「留置権は、他人の物を適法に占有している場合の話だ」


「はい……」


「自分のノートを自分で持ってるだけじゃねえか」


 ……。


 完全敗北。


「しかも、俺がお前にお茶を奢る債務なんか負ってねえぞ」


「そこは、これから契約を……」


「しねえよ!」


 相馬先輩が笑いました。


 私はノートを机に置きました。


「……なるほど」


「何がだよ」


「留置権の成立には、ちゃんと条件が必要なんですね」


「今さらか!」


 私は苦笑しました。


 でも。


 これも大事な勉強です。


 商法の留置権は、牽連性が不要。


 だからといって。


 何でも留置できるわけではない。


 自分のノートを抱きしめているだけでは、留置権にはなりません。


 ……当たり前ですが。


 私は六法を書棚に戻しました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、工場の明かりが灯っています。


 あのどこかで。


 森田さんは、今日も車を直しているのでしょう。


 エンジンの音。


 工具の音。


 鉄と油の匂い。


 三十年続けてきた仕事。


 その仕事に、ちゃんと代金が支払われる。


 それは、とても当たり前のことです。


 でも。


 その当たり前を守るために。


 商法には、特別な仕組みが用意されています。


 牽連性。


 難しい言葉です。


 でも。


 その意味を知るだけで、見える世界が変わります。


 関係のある物だから、留置できる。


 これが民法の基本。


 商人間では、直接関係のない物でも、要件を満たせば留置できる。


 これが商法の特則。


 たったそれだけの違い。


 でも。


 百二十万円を回収できるかどうか。


 小さな修理工場が、明日も営業を続けられるかどうか。


 その違いにつながることがあるのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、商法五百二十一条、一生忘れません!」


「そりゃよかったな!」


「牽連性不要!」


「分かった!」


「債務者所有!」


「分かったって!」


「弁済期到来!」


「もういい!」


 私は笑いながら、書類棚の整理を始めました。


 商人間の留置権。


 法律の勉強では、ただの一条文。


 でも。


 昭和六十三年の小さな修理工場では。


 その一条文が、三人の従業員の給料を守る力になりました。


 だから。


 私は忘れません。


 商法五百二十一条。


 商人間の留置権。


 そして。


 その最大の特徴。


 ――牽連性は、不要。


 ただし。


 条件を全部確認すること。


 法律は、都合のいい一部分だけを読むものではありません。


 そこまで覚えて。


 初めて、法律を使える人になれるのです。


「こはる!」


「はい!」


「書類整理、終わったか!」


「もう少しです!」


「だったら手を動かせ!」


「今、商法の知識を整理してたんです!」


「書類を整理しろ!」


「先輩!」


「何だ!」


「商法って、奥が深いですね!」


「お前の話が長いんだよ!」


 ……なるほど。


 残念ながら。


 商人間の留置権を完璧に理解したところで。


 私の書類整理の仕事を、誰かに押しつける権利が生まれるわけではないようです。


 でも。


 それでいいのです。


 法律は、働かないための言い訳ではありません。


 真面目に働いた人が、正当な対価を受け取れるようにするためのものでもあるのですから。

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