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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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593/701

[商法・商人間の留置権と牽連性]現場編 「別の車だから返せ」の罠。未払い修理代を踏み倒す悪徳社長と、商法五百二十一条が守った職人の意地

挿絵(By みてみん)

 借金を返さない人ほど、自分の物だけは返せと言います。


 たとえば。


 一台目の車を修理してもらった。


 修理代は払わない。


 それなのに。


 二台目の車を持ち込んで、また修理してもらう。


 そして、修理工場が代金の支払いを求めると。


「その車は、前の借金とは関係ないだろ!」


 と怒鳴りつける。


 ……。


 確かに。


 別の車です。


 別の契約です。


 でも。


 だからといって、修理業者は黙って車を返さなければならないのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、法律の世界に存在する、少し不思議な言葉に出会いました。


 ――牽連性(けんれんせい)。


 簡単に言えば、関連性。


 ところが。


 この関連性。


 民法では必要なのに、商法では必要ない場合があるのです。


 しかも。


 その違いを知らなかった悪徳社長は。


 自分の車を取り戻すどころか。


 百二十万円の未払い修理代を、とうとう支払うことになったのでした。


「もう、工場を畳もうかと思っています」


 朝九時。


 事務所を訪れた男性は、油で黒ずんだ帽子を膝の上に置き、そう言いました。


「工場を?」


 私は聞き返しました。


「はい。もう、金が回らなくて……」


 男性の名前は、森田源一さん。


 五十二歳。


 駅から少し離れた工業団地で、自動車修理工場を経営しています。


 従業員は三人。


 奥さんが経理を担当。


 息子さんも整備士として働いているそうです。


「腕には自信があるんです」


 森田さんは、ひび割れた指を見つめました。


「三十年、車を直してきました。エンジンでも、足回りでも、板金でも。お客さんが困っていたら、夜中まで働いてでも直してきた」


「はい」


「でも……」


 森田さんの声が震えました。


「車は直せても、金を払わない人間は直せないんですね」


 私は言葉を失いました。


 相馬先輩が、煙草を灰皿に置きます。


「相手は?」


「東海中古車販売株式会社です」


 私は名前を書きました。


 東海中古車販売。


 駅前と国道沿いに二店舗を持つ、中古車販売会社。


 最近、急に店舗を増やしているという噂があります。


「社長は黒岩剛三。四十八歳です」


「黒岩か」


 相馬先輩の眉が動きました。


「知ってるんですか?」


「派手な奴だ。金の鎖をぶら下げて、真っ赤な外車を乗り回してる」


「……分かりやすいですね」


「分かりやすい悪党とは限らねえが、支払いが悪いって話は聞く」


 森田さんが深く頷きました。


「うちも、その一つです」


 森田さんは鞄から書類を取り出しました。


 修理依頼書。


 納品書。


 請求書。


 部品の仕入伝票。


 そして、入金のない売掛台帳。


「去年の暮れから、何台も直しました」


 私は請求書を数えました。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 ……七枚。


「合計、百二十万円?」


「はい」


「全部、支払期限を過ぎているんですか?」


「一番新しいものでも、二か月前に期限を過ぎています」


 私は思わず顔をしかめました。


 百二十万円。


 個人にとっても大金ですが、小さな修理工場にとっては、もっと深刻です。


 部品代。


 電気代。


 従業員の給料。


 全部、そこから払わなければならない。


「車はもう納めたんですか?」


「はい。全部」


「支払いを求めました?」


「何度も」


「相手は何と?」


 森田さんが、唇を噛みました。


「『来月には払う』と」


 ……。


「それが三か月続きました」


 ……。


「この前は、『うちと取引できるだけありがたいと思え』と」


 私は拳を握りました。


 何ですか、それ。


 修理してもらった側が、どうしてそんなに偉そうなんですか。


「それで、とうとう部品屋への支払いが苦しくなって」


 森田さんは俯きました。


「従業員の給料だけは、遅らせたくないんです」


 私は森田さんの手を見ました。


 爪の間に残った黒い油。


 何度洗っても、落ちないのでしょう。


 その手で。


 何台もの車を直した。


 誰かが買う車を、安全に走れるようにした。


 それなのに。


 働いた人間だけが、苦しんでいる。


「何とかしましょう!」


 私は思わず言いました。


「請求書もあります! 納品書もあります! 内容証明で支払いを求めましょう!」


 相馬先輩が頷きました。


「まあ、それも必要だな」


「ですよね!」


「だが、森田さん」


 先輩は資料を見つめました。


「さっき電話で、もう一台車を預かっていると言ってましたね」


「あ……はい」


「詳しく聞かせてください」


 森田さんは少し迷いました。


 それから、こう言いました。


「実は、今、黒岩社長の会社の車が一台、うちにあるんです」


 私は顔を上げました。


「え?」


「三日前に持ち込まれた車で……」


 その瞬間。


 相馬先輩の目が、変わりました。


「どんな車ですか?」


「昭和五十九年式のクラウンです」


「クラウン!」


 私は思わず声を上げました。


 昭和のクラウン。


 高級車です。


「中古車販売店の在庫車で、東海中古車販売の所有です。車検証も確認しました」


 森田さんが言いました。


「エンジンの調子が悪くて、整備を頼まれたんです」


「修理は?」


「終わっています」


「代金は?」


「今回の分は八万円です。ただ、こちらは支払期限がまだ来ていません」


 なるほど。


 私は頭の中で整理しました。


 前の七件。


 百二十万円。


 未払い。


 既に納車済み。


 今回のクラウン。


 修理済み。


 現在、森田さんの工場にある。


 今回の八万円については、まだ支払期限前。


「つまり」


 私は言いました。


「百二十万円の修理代は、前の車の分なんですね」


「はい」


「今預かっているクラウンとは、別の取引」


「そうです」


 私は少し考えました。


「……だったら、難しいですね」


 森田さんの顔が曇ります。


「やっぱり、そうですか」


「だって、前の修理代と、今のクラウンは直接関係ありませんから」


 私は六法を手に取りました。


 留置権。


 民法第二百九十五条。


 他人の物を占有する者が、その物に関して生じた債権を有するとき、弁済を受けるまでその物を留置できる。


 つまり。


 ある車を修理した。


 その車の修理代が払われない。


 だから、その車を返さずに留め置く。


 これは分かります。


 修理代と車。


 直接つながっています。


「でも今回は……」


 私は首をかしげました。


「別の車です」


「そうだな」


 相馬先輩が言いました。


「民法の留置権なら、そこで問題になる」


「ですよね!」


 私は勢いよく頷きました。


「牽連性がありません!」


「ほう」


「修理代金債権と、現在預かっているクラウンとの間に関連性がないんです!」


 私は六法を閉じかけました。


 これでは。


 百二十万円の支払いを求めることはできても。


 その担保として、別のクラウンを留置するのは難しい。


 そう思ったのです。


 ところが。


「こはる」


 片桐所長が、奥から声をかけました。


「はい!」


「誰と誰の取引だ」


「森田さんと、東海中古車販売です」


「どちらも?」


「……事業者です」


「商人か」


「あ」


 私は止まりました。


 商人。


 商法。


 まさか。


「民法だけを見て、終わるな」


 所長は静かに言いました。


「商法を開け」


 私は慌てて六法をめくりました。


 商法。


 商行為。


 そして。


 留置権。


「……あっ!」


 そこに。


 とんでもない条文がありました。


 商法第五百二十一条。


 ――商人間の留置権。


 私は条文を読み進めました。


 双方のために商行為となる行為によって生じた債権。


 弁済期。


 債務者所有の物。


 商行為による占有。


 そして。


 私は顔を上げました。


「先輩!」


「何だ」


「これ……!」


「気づいたか」


「同じ車じゃなくても、いいんですか!?」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「そういうことだ」


 ……。


 えええっ!?


 民法では、関連性が必要なのに。


 商法では。


 関連性がなくても、留置できる場合がある!?


「先輩!」


「何だよ」


「商法って、そんなに強いんですか!」


「商売の世界だからな」


 相馬先輩は、机を指で叩きました。


「信用で取引して、代金を後払いにする。商人同士じゃ、そんなことが毎日のようにある」


「はい」


「だから、条件を満たせば、同じ取引の物じゃなくても留置できる」


 私は条文を見つめました。


 なるほど。


 民法の留置権は、基本的に、その物と債権のつながりを要求する。


 でも商法の留置権は、商人間の取引関係を重視する。


 だから。


 前の修理代が未払いでも。


 後から別の車を、商取引によって預かった場合。


 その車が債務者自身の所有物であるなど、条件が揃えば。


 支払いを受けるまで留置できる。


「所長!」


「何だ」


「今回のクラウン、使えます!」


「物は道具じゃない」


「あっ」


「法律上、留置できるかを調べるんだ」


「はい!」


 私は慌ててノートを開きました。


 でも。


 興奮は収まりませんでした。


 だって。


 さっきまで、何もできないと思っていたのに。


 商法を一つ開いただけで。


 森田さんの立場が、まるで変わってしまったのです。


 その日の午後。


 私たちは森田さんの修理工場を訪れました。


 工場の中には、エンジンオイルの匂いが漂っています。


 ジャッキ。


 工具箱。


 溶接機。


 使い込まれた作業台。


 そして。


 奥の整備スペースには、紺色のクラウンが停まっていました。


「これです」


 森田さんが言いました。


 私は車を見つめました。


 光沢のあるボディー。


 磨かれたホイール。


 内装もきれいです。


「高そう……」


「販売予定価格は二百万円ほどだそうです」


「二百万円!」


 私は目を丸くしました。


 百二十万円の未払い修理代。


 そして、現在預かっている二百万円ほどの車。


 ……。


 これは、黒岩社長が必死に取り戻そうとするわけです。


「ところで、森田さん」


 相馬先輩が言いました。


「この車、どういう経緯で預かったんですか?」


「黒岩社長の会社から、いつものように修理依頼が来ました」


「依頼書は?」


「あります」


「引渡しの記録は?」


「あります」


「車検証は?」


「コピーを取ってあります」


「所有者は?」


「東海中古車販売株式会社です」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は気づきました。


 先輩は、単に車があることを確認しているわけではない。


 どうして森田さんが、その車を占有することになったのか。


 誰の車なのか。


 どういう契約で預かったのか。


 それを、一つずつ確かめているのです。


「先輩」


「何だ」


「商法五百二十一条の条件ですね」


「そうだ」


「修理代金債権は、双方の商行為によって生じています」


「うん」


「もう弁済期を過ぎています」


「うん」


「クラウンは、債務者である東海中古車販売の所有です」


「そうだ」


「そして、修理契約という商行為によって、森田さんが占有しています」


 私は顔を上げました。


「揃ってます!」


「まだ一つある」


「え?」


「契約書を全部見ろ」


 私は修理依頼書を確認しました。


 そして。


 相馬先輩が言いました。


「留置権を行使しないという特約がないか、確認しろ」


「あっ!」


 そうでした。


 商法五百二十一条には、ただし書があります。


 当事者が別の意思表示をしている場合は、その定めが優先されることがある。


 つまり。


 商法の留置権も、いつでも絶対に使えるわけではありません。


 私たちは基本契約書と修理依頼書を確認しました。


 納期。


 修理内容。


 修理代金。


 支払条件。


 でも。


 留置権を行使しないという特約は、見当たりません。


「……ありません」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「よし。少なくとも今確認できた書類にはないな」


「はい!」


「あと、これから余計な約束をするなよ」


 相馬先輩は森田さんに言いました。


「たとえば、古い未払い代金とは関係なく、今回の修理が終わったら必ず車を返す、なんて約束だ」


「分かりました」


 森田さんが頷きます。


 私はクラウンを見ました。


 こんな高級車が。


 百二十万円の未払い代金を回収するための、法律上の支えになるかもしれない。


「ただし」


 相馬先輩が続けました。


「勘違いしちゃいけません」


「はい?」


「留置するのと、売るのは違います」


 私ははっとしました。


「勝手に売っちゃ駄目なんですね」


「当たり前だ」


 商事留置権が認められるとしても。


 森田さんがクラウンの所有者になるわけではありません。


 勝手に乗り回していいわけでもありません。


 勝手に中古車市場へ売り飛ばして、百二十万円を回収していいわけでもありません。


 留置権は、あくまで支払いを受けるまで引渡しを拒める権利。


 適法な換価を望むなら、別の法的手続が必要になります。


「車は大切に保管してください」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「鍵も管理して、余計な使用はしない。傷がついたら面倒ですから」


「分かりました」


 森田さんがクラウンを見つめました。


「この車を預かっていることに、そんな意味があったんですね……」


 私は頷きました。


「はい」


 ただの預かり物。


 そう思っていた車が。


 商法を通して見ると、別の意味を持つ。


 それが、留置権なのです。


 ところが。


 そのときでした。


 工場の入口から、怒鳴り声が響きました。


「おい、森田!」


 私たちは振り返りました。


 大柄な男が、革靴を鳴らして入ってきます。


 金色の腕時計。


 派手な背広。


 指には大きな指輪。


 そして。


 いかにも自分が世界の中心だと言わんばかりの顔。


 東海中古車販売株式会社。


 代表取締役。


 黒岩剛三。


 本人の登場です。


「何をぐずぐずしてやがる!」


 黒岩社長は、開口一番そう怒鳴りました。


「車は直ったんだろ!」


 森田さんが頷きます。


「はい。整備は完了しています」


「だったら引き渡せ!」


「その前に、以前の修理代金を……」


「はあ?」


 黒岩社長の顔が歪みました。


「前の修理代?」


「百二十万円です」


「ああ、あれか」


 ……。


 あれか。


 軽い。


 百二十万円が、「あれか」で済んでしまいました。


「金ができたら払うって言ってるだろ」


「もう何か月も待っています」


「だから待てって言ってるんだ!」


 黒岩社長は、クラウンを指差しました。


「だいたい、その車は別の仕事だろうが!」


 来ました。


 まさに。


 今回の争点。


「前の修理と、このクラウンに何の関係がある!」


 私は思わず六法を握りしめました。


 あります。


 ……いえ。


 正確には。


 直接の関係がなくても、いいんです!


「車を人質にする気か!」


 黒岩社長が怒鳴りました。


「商売の邪魔をするな!」


 相馬先輩が、一歩前に出ました。


「黒岩社長」


「何だ、お前」


「片桐行政書士事務所の相馬です。本日は修理契約の書類を確認しています」


「行政書士?」


 黒岩社長が鼻で笑いました。


「弁護士じゃねえのか」


「違います」


「だったら引っ込んでろ!」


 ……。


 この手の社長さん。


 どうしてみんな、行政書士というだけで舐めるのでしょう。


「法律の話なら、俺の方が詳しいぞ」


 黒岩社長は胸を張りました。


「会社を二つも経営してるんだからな!」


 私は思わず口を開きました。


「会社を経営していることと、法律を理解していることは別です」


「何だと?」


「あっ」


 しまった。


 つい言ってしまいました。


 相馬先輩が横目で見ます。


「こはる」


「はい……」


「余計な喧嘩を売るな」


「すみません」


 黒岩社長は鼻を鳴らしました。


「いいか、嬢ちゃん」


「はい」


「修理代を払ってないのは、前の車の話だ」


「はい」


「今ここにあるクラウンは、別の車だ」


「はい」


「だから返すのが当然だろ!」


 私は答えようとしました。


 でも、その前に。


 相馬先輩が、静かに言いました。


「民法の留置権の話なら、そう考えたくなるでしょうね」


「だろ!」


 黒岩社長が得意そうに笑いました。


「ほら見ろ!」


「ですが」


 相馬先輩は続けました。


「今回は、商人間の取引です」


「……何?」


「商法の留置権が問題になります」


 黒岩社長の笑みが止まりました。


「商法?」


「はい」


「何だそりゃ」


 私は内心、頭を抱えました。


 会社を二つも経営しているのに。


 商法を知らない。


 しかも。


 昭和六十三年は、まだ現代の独立した会社法がありません。


 株式会社の基本的なルールも、当時の商法に置かれています。


 この人。


 本当に何を頼りに会社を経営しているのでしょう。


「社長」


 相馬先輩が言いました。


「民法では、留置する物と債権との間に、一定の関連性が必要になります」


「そうだろ!」


「しかし、商人間の留置権は違います」


「……どう違う」


「一定の要件を満たす限り、別の取引で預かった物でも、留置できる場合があるんです」


「は?」


 黒岩社長が固まりました。


「何を言ってる」


「商法五百二十一条です」


 相馬先輩は、淡々と言いました。


「今回の百二十万円は、双方の商行為である修理取引によって生じ、支払期限を過ぎた債権です」


「……」


「そして、このクラウンは、御社所有の車です」


「そうだ!」


「森田さんは、御社との修理契約に基づいて占有しています」


「……」


「別段の特約も、確認した契約書類にはありません」


 黒岩社長の表情が変わりました。


「つまり」


 相馬先輩は言いました。


「森田さんには、百二十万円の支払いを受けるまで、このクラウンを留置できる法的根拠がある、ということです」


 沈黙。


 工場の時計が、カチカチと音を立てています。


 黒岩社長は、しばらく口を開きませんでした。


 それから。


「……ふざけるな!」


 怒鳴りました。


「別の車だぞ!」


「そこが、商事留置権の特徴です」


「関係ない車だろ!」


「直接の牽連性は、要件ではありません」


「けん……?」


 黒岩社長が眉をひそめました。


「何だ、その変な言葉は!」


 私は思わず言いました。


「牽連性です」


「何?」


「債権と物との関連性のことです」


 私は続けました。


「民法の留置権なら、その関連性が重要になります。でも、商法五百二十一条の商人間の留置権では、必ずしも必要ありません」


 黒岩社長は、目を見開きました。


「そんな馬鹿な法律があるか!」


 そのとき。


 相馬先輩が、低い声で言いました。


「ありますよ」


「……!」


「社長が知らなかっただけです」


 ……。


 痛快。


 ものすごく痛快です。


 でも。


 相馬先輩は、それ以上言いませんでした。


「本日のところは、契約関係と車両の保管状況を確認しただけです。森田さんご本人の意思を整理し、必要な書面を作成します」


 黒岩社長が顔を赤くしました。


「勝手にしろ!」


 そう吐き捨てると、工場から出ていきました。


 クラウンを置いたまま。


 私は思わず小さく拳を握りました。


 ……勝った!


 と。


 思ったのですが。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「まだ勝ってねえぞ」


「え?」


「金を払ってもらって初めて、一段落だ」


「……はい」


「それに、俺たちは相手との紛争交渉を引き受ける弁護士じゃねえ」


 先輩は、森田さんに向き直りました。


「森田さん。まず、ご本人の意思による通知書を作りましょう。争いが深まるようなら、弁護士に引き継ぎます」


 森田さんは深く頭を下げました。


「お願いします」


 相馬先輩が頷きます。


「大事なのは、怒鳴り返すことじゃありません」


 そして。


 いつもの口調で言いました。


「相手が言い逃れできねえように、事実と条文を揃えることです」


 私は頷きました。


 いよいよ。


 書類の出番です。


 事務所に戻ると。


 片桐所長が、私たちの報告を聞いていました。


「黒岩は何と言った」


「別の車だから返せ、と」


 相馬先輩が答えます。


「そうか」


「商法五百二十一条の話は伝えました」


「反応は?」


「怒鳴って帰りました」


 所長は短く頷きました。


「予想どおりだな」


 私は思わず笑いそうになりました。


 でも。


 所長は真剣です。


「こはる」


「はい!」


「通知書を書いてみろ」


「はい!」


 私は原稿用紙を取り出しました。


 まず。


 未払い修理代金。


 百二十万円。


 対象となる七件の修理。


 支払期限。


 現在預かっているクラウン。


 その所有者。


 修理契約による占有。


 そして。


 商法五百二十一条。


 全部、整理します。


 三十分後。


 私は原案を所長に渡しました。


「できました!」


 所長は黙って読みました。


 そして。


 赤鉛筆を取りました。


 ……。


 嫌な予感。


「ここ」


「はい」


「『未払い代金があるため、車を差し押さえる』」


「はい!」


「違う」


 赤線。


「えっ」


「差押えではない」


「あ……」


 しまった。


 差押え。


 裁判所の手続などによって行われる強制執行の一つ。


 それと。


 留置権。


 まったく違います。


「今回は、適法に占有している車について、引渡しを拒む権利を問題にしている」


「はい……」


「勝手に差押えができるわけじゃない」


「そうでした」


 私は書き直しました。


 ――商法第五百二十一条に基づく留置権を行使し、弁済を受けるまで本件車両を留置する。


 所長が頷きました。


「次」


「はい」


「『車を売却して未払い代金に充当する』」


 赤線。


「……これも駄目ですね」


「そうだ」


「留置権だけで自由に売れるわけではありません」


「うん」


 私は消しました。


 そして。


 所長がもう一か所、指を置きました。


「ここもだ」


「えっ、まだあるんですか!」


「『修理代金が未払いである以上、どんな車でも留置できる』」


 ……。


 あ。


「駄目ですね」


「なぜだ」


「債務者所有の物である必要があります」


「それだけか」


 私は考えました。


「商人間の取引であること」


「うん」


「双方にとって商行為となる取引によって生じた債権であること」


「うん」


「弁済期にあること」


「うん」


「債務者との商行為によって占有を取得したこと」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「条文の条件を飛ばすな」


「はい」


「牽連性がいらないからといって、何でも留置できるわけじゃない」


 その言葉で。


 私はようやく、今回の問題の本質が分かった気がしました。


 商法の留置権は、確かに強力です。


 でも。


 無制限ではない。


 例えば。


 東海中古車販売が修理を依頼してきた車でも、実は第三者が所有する車だったら。


 商法五百二十一条の留置権を、そのまま成立させることはできません。


 また。


 商行為とは無関係に、たまたま預かった物だったら。


 要件を改めて確認しなければならない。


 関連性が不要。


 だからこそ。


 それ以外の条件を、一つずつ厳密に見る必要があるのです。


「所長」


「何だ」


「強い権利ほど、条件を雑にしてはいけないんですね」


 所長が短く頷きました。


「そうだ」


 そして。


 いつものように言いました。


「一行で勝てる書面もある」


「はい」


「一行で負ける書面もある」


 私は原案を見つめました。


 なるほど。


 これは、赤鉛筆が怖くなるわけです。


 翌朝。


 完成した通知書が、森田さんの前に置かれました。


 差出人。


 森田源一。


 宛先。


 東海中古車販売株式会社。


 代表取締役 黒岩剛三。


 私は内容を読み上げました。


「第一。通知人は、貴社から依頼を受けた自動車修理業務を履行し、既に修理を完了して車両を引き渡した」


「うん」


「第二。右修理業務に係る未払代金は、合計金百二十万円であり、いずれも約定の支払期限を経過している」


 相馬先輩が頷きます。


「続けろ」


「第三。通知人は、貴社との別件修理契約に基づき、貴社所有のクラウン一台を適法に占有している」


「うん」


「第四。通知人及び貴社はいずれも商人であり、前記未払代金債権は双方の商行為によって生じたものである」


 私は息を吸いました。


 ここからです。


「第五。よって通知人は、商法第五百二十一条に基づき、右未払代金の弁済を受けるまで、本件クラウンにつき留置権を行使する旨通知する」


 所長が頷きました。


「続けろ」


「第六。商人間の留置権については、被担保債権と留置物との間に、民法第二百九十五条にいうような直接の牽連性は要しない。したがって、前記未払代金債権と本件車両が別個の修理取引に係るものであることは、当然には留置権の成立を妨げない」


 ……。


 私は、そこで少し手を止めました。


 なんて、静かな文章なのでしょう。


 怒鳴っていない。


 脅してもいない。


 でも。


 黒岩社長が繰り返した、


「別の車だから関係ない!」


 という主張を。


 たった一つの条文で、正面から否定している。


「第七。通知人は本件車両を適切に保管し、所有権を主張するものではない。また、本通知は車両を無断で処分する趣旨ではない」


 私は読み進めました。


「第八。ついては、未払修理代金百二十万円を、指定期日までに支払われたい」


 そして最後。


「第九。なお、本通知後も支払いがなされず、紛争が継続する場合には、弁護士への相談を含め、適切な法的措置を検討する」


 読み終えました。


 しん。


 事務所が静かになります。


 森田さんが、書面を見つめました。


「……こんなことが、できるんですね」


「条件を満たしているからです」


 片桐所長が言いました。


「法律が、商人同士の取引を守る仕組みを用意しています」


 森田さんは頷きました。


「でも、私は……」


 声が詰まります。


「ただ、修理した分のお金を払ってほしいだけなんです」


 私は胸が苦しくなりました。


 そうです。


 百二十万円を余計にもらおうとしているわけではありません。


 損をさせようとしているわけでもありません。


 ただ。


 働いた分の代金が欲しい。


 それだけなのです。


「森田さん」


 私は言いました。


「修理した車を返したら、代金がもらえないなんて、おかしいです」


「……はい」


「商法は、そういう取引の危険を少しでも減らすための仕組みを持っているんです」


 森田さんは、長い時間をかけて頷きました。


 そして。


 自分の名前を書きました。


 森田源一。


 その署名は。


 油で荒れた手で書かれた、少し不格好な文字でした。


 でも。


 私は、その文字がとても力強く見えました。


 内容証明郵便を発送した翌々日。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『黒岩だ!』


 ……。


 来ました。


 私は思わず受話器を持ち直しました。


「東海中古車販売の黒岩社長ですね」


『ああ! 片桐先生はいるか!』


 先生。


 ……。


 この前は、行政書士なんか引っ込んでろと言っていたのに。


 今日は先生です。


「少々お待ちください」


 私は所長に代わりました。


 所長は受話器を取りました。


「片桐です」


『あの、先生……』


 先日の怒鳴り声とは違います。


 かなり小さい声。


『例の内容証明なんですが……』


「はい」


『うちの顧問税理士にも見せまして』


「そうですか」


『それで、弁護士にも確認したんです』


 所長は黙って聞いています。


『そしたら……』


 黒岩社長が言いにくそうに続けました。


『商法の留置権っていうのは、本当に別の取引の物でも成立する場合がある、と』


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩は新聞を読みながら、にやりとしています。


『ただし、細かい条件は調べる必要があるそうですが……』


「そのとおりです」


 所長が答えました。


『車検証も修理依頼書も確認しました。うちの会社の車ですし、修理のために預けたことも間違いありません』


「はい」


『留置権を排除する特約も、ないようです』


「そうですか」


 黒岩社長は、しばらく黙りました。


 そして。


『……あのクラウン、買い手が決まってるんです』


 私は息を呑みました。


『来週には引き渡さないといけない。契約の問題になってしまう』


 所長は答えません。


『ですから、その……』


 声がさらに小さくなりました。


『百二十万円、払います』


 ……!


 私は机の下で拳を握りました。


『もう、振込の準備をしています』


「そうですか」


『振り込んだら、車は返してもらえるんですよね』


 所長は落ち着いた声で言いました。


「森田さんご本人に支払いの事実を確認していただくことになります。留置権に係る債権が弁済されれば、その債権を理由に留置を続けることはできません」


『分かりました』


 黒岩社長は、少し黙りました。


 それから。


『……今回の件、裁判にはしたくありません』


「その点は、森田さんご本人のご判断になります」


『はい』


 電話が切れました。


 私は飛び上がりそうになりました。


「所長!」


「何だ」


「払うって!」


「ああ」


「百二十万円!」


「聞こえている」


「やりましたね!」


 その瞬間。


 相馬先輩が新聞を置きました。


「こはる」


「はい!」


「まだだ」


「……またですか!」


「振込の準備をしてるって話だろ」


「はい」


「入金したわけじゃねえ」


 ……。


 確かに。


 法律の世界では。


 払います。


 と。


 払いました。


 は、まったく違います。


「それに」


 相馬先輩が言いました。


「黒岩が態度を変えたのは、書面が届いたからだけじゃねえ」


「え?」


「本当に法律上、引渡しを拒める可能性があると知ったからだ」


 私は頷きました。


 内容証明。


 それ自体に、判決のような強制力があるわけではありません。


 でも。


 正確な事実。


 正確な条文。


 正確な法律効果。


 それを一つの書面にまとめることで、相手は自分の立場を見直さざるを得なくなる。


 今回は。


 別の車だから返せ。


 その理屈が、商法五百二十一条の前で通用しない可能性を知った。


 だから。


 黒岩社長は、支払うと言い出したのです。


 三日後。


 森田さんが、再び事務所を訪れました。


 でも。


 最初に来たときとは、まるで表情が違います。


「先生!」


 森田さんは、通帳を取り出しました。


「入りました!」


「えっ!」


「百二十万円!」


 私は思わず立ち上がりました。


「本当ですか!」


「はい!」


 通帳には、振込の記録がありました。


 東海中古車販売。


 百二十万円。


 間違いありません。


「よかった……!」


 私が言うと、森田さんは笑いました。


「昨日、従業員にも話したんです」


「何て?」


「もう大丈夫だって」


 森田さんは、少し照れたように続けました。


「今月の給料は、予定どおり払えるって」


 ……。


 私は胸が熱くなりました。


 従業員。


 三人。


 その三人にも家族がいる。


 生活がある。


 毎日働いている。


 百二十万円は、ただの数字ではありません。


 その人たちの暮らしを支えるお金なのです。


「それで、クラウンは?」


 相馬先輩が尋ねました。


「今回の修理代八万円も、約定より早く振り込まれました。ほかに未払いはありません」


「そうですか」


「車は、昨日、先方に引き渡しました」


「受領書は?」


「あります」


 森田さんは、書面を出しました。


 車両引渡確認書。


 車名。


 車台番号。


 引渡日時。


 車両の状態。


 受領者の署名。


 押印。


 相馬先輩が確認しました。


「よし」


 私は嬉しくなりました。


「完璧ですね!」


「まあな」


 相馬先輩が言いました。


「権利を使うときも、終わらせるときも、書類は残すんだ」


「はい!」


「支払いを受けたのに、いつまでも車を返さなかったら、今度はこっちが問題になる」


 なるほど。


 留置権は、相手を罰するための権利ではない。


 支払いを確保するための権利。


 目的が達成されたなら。


 その権利を理由に、いつまでも物を預かり続けることはできない。


 そこまで含めて、法律なのです。


「それにしても」


 森田さんが笑いました。


「あの社長が、最後には頭を下げたんです」


「黒岩社長が?」


「はい」


 森田さんは、少し不思議そうに言いました。


「今まで、あんなに偉そうだったのに」


 私は思わず笑いました。


「商法を勉強したんでしょうね」


 相馬先輩が鼻で笑います。


「高い授業料だったな」


「百二十万円ですか?」


「違う」


 先輩は言いました。


「百二十万円は、最初から払うべき金だ」


 ……。


 確かに。


 払うべきお金を払っただけで、何かを失ったわけではありません。


 黒岩社長が失ったのは。


 相手が小さな修理工場だから、いくらでも支払いを延ばせる。


 そんな甘い考えだったのかもしれません。


 森田さんが帰りかけたとき。


 私は、ふと思いました。


「森田さん」


「はい?」


「これからも、東海中古車販売と取引するんですか?」


 森田さんは、少し考えました。


「いやあ……」


 苦笑い。


「しばらくは、遠慮したいですね」


「ですよね」


「でも、もしまた仕事を受けるなら」


 森田さんは、ゆっくり言いました。


「今度は、支払条件をきちんと決めてからにします」


 相馬先輩が頷きました。


「それがいい」


「契約書も、ちゃんと作って」


「そうですね」


「相手が大きな会社だからといって、全部信用するんじゃなくて」


 森田さんは、少し笑いました。


「自分の仕事も、ちゃんと守らなきゃいけませんね」


 私は大きく頷きました。


「はい!」


 森田さんは、帽子を被りました。


 最初に来たときと同じ。


 油で汚れた帽子。


 でも。


 その背中は、もう曲がっていませんでした。


「ありがとうございました!」


 そう言って。


 修理工場の親方は、事務所を出ていきました。


 夕方。


 私は机に向かい、今日の事件を思い返していました。


 前の車の修理代。


 百二十万円。


 そして。


 別のクラウン。


 最初は、どう考えても関係がないと思っていました。


 実際。


 修理代金債権とクラウンとの間に、直接の牽連性はありません。


 でも。


 それだけで、商人間の留置権を否定することはできなかった。


「……不思議ですね」


 私が呟くと、相馬先輩が顔を上げました。


「何がだ」


「民法と商法です」


「ああ?」


「同じ留置権なのに、条件が違うんですよ」


「そうだな」


「民法なら、物と債権との関連性が大事です」


「うん」


「でも商法では、商人間の取引の信用を守るために、関連性を必要としない場合がある」


 私は首をかしげました。


「これ、知っているかどうかで、すごい差が出ますね」


 相馬先輩が笑いました。


「だから、六法は最後まで読めって言ってるだろ」


「はい……」


「民法に答えがなけりゃ、商法も見ろ」


「はい!」


「ただし、商法なら何でも許されると思うなよ」


「分かってます」


 私は指を折りました。


「双方が商人」


「うん」


「双方の商行為から生じた債権」


「うん」


「弁済期到来」


「うん」


「債務者所有の物」


「うん」


「債務者との商行為によって占有したこと」


「そうだ」


「それから、留置権を排除する特約などがないこと」


 相馬先輩が頷きました。


「そこまで確認して、初めて使える権利だ」


 私は頷きました。


 そして。


 ふと、現代の法律を思い出しました。


「先輩」


「何だ」


「現代では、会社法っていう独立した法律があるんですけど……」


「は?」


 ……。


 しまった。


 また未来の話。


「会社法?」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「会社のことなら、商法の会社編だろ。有限会社なら有限会社法だ」


「あ、はい!」


「何だ、その独立した会社法ってのは」


「いえ、その……将来、法律が整理されたら便利だろうなって」


「お前、また妙なこと考えてるな」


 私は苦笑しました。


 昭和六十三年。


 現代の独立した会社法は、まだありません。


 株式会社の設立には、発起人七人以上。


 取締役は三人以上。


 監査役も必要。


 現代なら一人で作れる株式会社も、この時代ではそんなに簡単ではない。


 でも。


 今日の事件で使った商事留置権は、会社の設立制度とは別の話です。


 商人間の取引を規律する、商法のルール。


 現代に会社法ができても。


 商法が全部なくなるわけではありません。


 そして。


 法律の名前や制度が変わっても。


 商売をする人同士の信用を、どう守るのか。


 その問題は、ずっと残り続けるのです。


「先輩」


「今度は何だ」


「商法って、弱い立場の商人も守ってくれるんですね」


 相馬先輩は少し考えました。


「弱い奴だけを守る法律じゃねえよ」


「え?」


「商人同士が、信用して取引できるようにする法律だ」


「……はい」


「大きい会社だろうが、小さい工場だろうが、商売で負った義務は守らなきゃならねえ」


 私は頷きました。


 そうです。


 商人間の留置権は、弱い人だけに与えられる特別なご褒美ではありません。


 条件を満たした商人に認められる、法律上の権利。


 でも。


 今回。


 その権利が実際に助けたのは。


 小さな工場で働く人たちでした。


「なるほど……」


 私はノートを開きました。


 そして。


 今日の教訓を書こうとしました。


 そのとき。


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


「民法の留置権には、原則として債権と物との牽連性が必要です」


「うん」


「でも、商法五百二十一条の商人間の留置権では、その牽連性は必要ありません」


「そうだ」


「ただし、商人間の商行為、弁済期、債務者所有の物、商行為による占有など、要件を満たしている必要があります」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は嬉しくなりました。


 そして。


 ノートに大きく、一行を書きました。


 ――民法の留置権は「その物とのつながり」、商法の留置権は「商人間の取引関係」。商事留置権に牽連性は不要!


 よし。


 これなら忘れません。


 だって。


 クラウンを思い出せばいいのです。


 前の車。


 修理済み。


 未払い。


 別のクラウン。


 修理済み。


 預かり中。


 関係ないから返せと怒鳴る社長。


 でも。


 商法五百二十一条を開いた瞬間。


 社長の顔色が変わる。


 ……。


 最高に覚えやすいです。


「相馬先輩!」


「何だ」


「今日の商法、すごく面白かったです!」


「そりゃよかったな」


「私、ちょっと感動しました」


「何にだよ」


「だって、百二十万円ですよ!」


「そうだな」


「工場が潰れるかもしれなかったんですよ!」


「ああ」


「それが、留置権一つで!」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「こはる」


「はい」


「留置権が金を生んだわけじゃねえ」


「……え?」


「森田さんが働いたから、百二十万円の債権が生まれたんだ」


 私は黙りました。


「車を直したのは森田さんだ。部品を仕入れたのも、従業員に給料を払ったのも、森田さんだろ」


「はい」


「商法は、その仕事の代金を回収するための手段を用意しただけだ」


 ……。


 なるほど。


 私は、ノートを見つめました。


 法律が、お金を作ったわけではない。


 森田さんの手が、お金を生む仕事をした。


 法律は。


 その仕事が、踏みにじられないように支えた。


 それだけ。


 でも。


 その「それだけ」が。


 どれほど大切なことか。


 今日の私は、よく分かりました。


 窓の外。


 夕暮れの町には、工場の明かりが灯り始めていました。


 きっと、森田さんの工場にも。


 今頃、明かりがついているのでしょう。


 整備士たちが工具を握って。


 車の下に潜って。


 油にまみれながら。


 また誰かのために、車を直している。


 その仕事が終わったとき。


 きちんと代金を受け取れる。


 それは、本来なら当たり前のことです。


 でも。


 当たり前のことを、当たり前に実現するために。


 法律が必要になることがあります。


 商法。


 五百二十一条。


 商人間の留置権。


 関連性がなくても成立する場合がある、少し変わった権利。


 でも。


 その仕組みの奥にあるのは。


 商売の信用を守るという、まっすぐな考え方でした。


「先輩」


「まだ何かあるのか」


「私、今日は一つ賢くなりました」


「毎日そう言ってるな」


「毎日賢くなってるんです!」


「だったら早く仕事も覚えろ」


「ひどい!」


 相馬先輩が笑いました。


 私は六法を閉じます。


 そして。


 最後にもう一度、ノートの一行を読みました。


 ――商人間の留置権に、牽連性は不要。


 ただし。


 何でも留置できるわけではない。


 条文の条件を、全部揃える。


 そこが大切。


 私は鉛筆を置きました。


 今日の教訓。


 これなら、試験本番でも忘れません。


 ……たぶん。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 年配の女性の声でした。


『主人が、知り合いの倉庫業者に荷物を預けたんですけど……』


「はい」


『全然関係ない借金を払うまで返さないって言われて……』


 私は止まりました。


 相馬先輩を見る。


 先輩もこちらを見ました。


『主人は個人で商売をしてるんです。でも、預けた荷物は、うちの娘のものなんです』


 ……。


 娘のもの。


 つまり。


 債務者本人の所有物ではない。


「先輩」


「何だ」


「今度は、第三者の所有物です」


「聞こえてる」


「商人間の留置権って、債務者所有の物じゃないと駄目ですよね?」


「そうだ」


「じゃあ、今回とは逆です!」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「今度は、誰の物かが勝負になりそうだな」


「はい!」


 私は相談票を取りました。


 留置権。


 同じ言葉でも。


 民法と商法で違う。


 そして。


 商法の留置権でも。


 債務者の物か。


 第三者の物か。


 それだけで、結論が変わることがある。


 ……。


 本当に。


 法律というのは、一筋縄ではいきません。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり、商法って面白いですね!」


「面白がる前に、誰が何を預けたのか聞け!」


「はいっ!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日もまた。


 一枚の契約書と、一つの条文が。


 誰かの財産を守ろうとしています。


 そして。


 私は今日、一つだけ確信しました。


 商売の世界で、一番怖いのは。


 大声で怒鳴る社長でも。


 金ぴかの腕時計でも。


 立派な会社の看板でもありません。


 相手が知らない法律を、正しく理解していること。


 そして。


 その法律を、正確な書面にできること。


 それこそが。


 昭和の小さな行政書士事務所にある、何よりの武器なのです。


 もっとも。


 今回、黒岩社長を一番青ざめさせたのは。


 難しい法律用語ではありませんでした。


 たった一言。


 ――別の車でも、留置できる場合があります。


 その事実だったのです。

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