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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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592/701

[商法・流質契約]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 借金を返せなかったら、担保に預けたものは、貸した人のものになる。


 そんな約束は、許されるのでしょうか。


 民法では、原則として禁止。


 ところが。


 商法では、有効になる場合がある。


 同じ十万円の借金。


 同じ腕時計。


 同じ契約書。


 それなのに。


 適用される法律が違うだけで、結論が逆転することがあるのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……商法って、民法の裏切り者じゃありませんか?」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何だ」


「だって、民法で禁止されている契約を、商法が認めちゃうんですよ!」


「何の話だ」


「流質契約です!」


「ああ」


 相馬先輩が、少しだけ笑いました。


「昨日の時計か」


「はい!」


 私はノートを叩きました。


 松永文江さん。


 駅前で洋菓子店を営む女性です。


 娘さんの入院費用を賄うため、黒田清三という男から十万円を借りました。


 その担保として預けたのは、亡くなったお父さんの形見。


 八十万円ほどの価値がある銀色の腕時計でした。


 ところが。


 契約書には、恐ろしい一文があったのです。


 ――返済期限までに十万円を返せなければ、腕時計の所有権は貸主に移転する。


 文江さんは、期限までに返済できませんでした。


 すると黒田は、


「もう時計は俺のものだ!」


 と主張。


 十万円の借金を口実に、八十万円の時計を奪おうとしたのです。


「でも、時計は戻ってきましたよね」


 私は言いました。


「ああ」


「民法第三百四十九条が守ってくれたんです!」


「それだけじゃねえだろ」


「……え?」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「黒田が何を間違えていたか、思い出せ」


 私は少し考えました。


 黒田は、商法第五百十五条を知っていました。


 商行為によって生じた債権を担保する質権については、民法の流質禁止が適用されない。


 だから黒田は、


「俺も商人、松永も商人。だから流質契約は有効だ!」


 と言い張っていた。


 でも。


 問題は、そこではありませんでした。


「……担保されている債権が、商行為によって生じたものかどうかです」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きます。


「社長だから何でも商法になるわけじゃねえ」


 私は鉛筆を握りました。


「分かりました!」


「何がだ」


「今日は、流質契約を完全攻略します!」


「昨日も同じこと言ってなかったか」


「昨日は現場編! 今日は法理編です!」


「何の編だよ」


 ……危ない。


 小説の構成を口に出してしまいました。


「と、とにかく勉強です!」


 奥から片桐所長の声がしました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


「まず、流質契約とは何か!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――流質契約。


 読み方は、りゅうしち。


「ここ、絶対に覚えます!」


「読み方くらい覚えろ」


「初見では読めませんよ!」


「お前だけだ」


 ひどい。


 でも。


 意味は大事です。


「流質契約とは、簡単に言えば、借金を返せなかったとき、担保として預けたものを債権者の所有物にするなどと、あらかじめ約束することです」


「そうだ」


 たとえば。


 AさんがBさんから十万円を借りた。


 Aさんは、自分の時計をBさんに預けて、質権を設定した。


 そして。


 契約書にこう書いた。


 ――返済期限までに十万円を返せなかった場合、時計の所有権はBに移転する。


「これが、典型的な流質契約ですね」


「そうだな」


 私はノートに書きました。


 A。


 債務者。


 質権設定者。


 B。


 債権者。


 質権者。


 時計。


 質物。


「ここで、まず質権そのものを確認します」


 私は六法を開きました。


 民法第三百四十二条。


 質権とは、債権者が債務者などから受け取った物を担保として占有し、その物について優先的に弁済を受けられる権利です。


「昨日の時計は、黒田さんが持っていました」


「そうだ」


「でも、質権を設定しただけでは、時計の所有権が黒田さんに移るわけじゃありません」


「そのとおり」


 私は大きく丸をつけました。


 質権の設定。


 所有権の移転。


 これは別です。


「預けたから、相手のものになったわけじゃないんですね」


「ああ」


「返済できなかったときに所有権を移す、という別の約束が流質契約なんです」


 なるほど。


 これを混同すると、質権そのものの意味を間違えてしまいます。


「じゃあ、時計を預けたAさんが、期限どおりに十万円を返済したら?」


 相馬先輩が尋ねました。


「担保されていた債権が弁済によって消滅すれば、質権も消滅し、時計の返還を求められます」


「よし」


「では、返済できなかったら?」


「そこで質権の実行や、流質特約の効力が問題になります!」


 私は頷きました。


 質権があること。


 流質契約が有効であること。


 この二つも、同じではないのです。


「次は、民法第三百四十九条です!」


 私はノートをめくりました。


 ――民法第三百四十九条。


 契約による質物の処分の禁止。


「これが、民法の流質禁止ですね」


「ああ」


 質権設定者は、質権を設定するときや、借金の返済期限が来る前の契約で、


「返せなければ、担保の所有権を貸主に移す」


 などと約束することができません。


 また、法律で定められた方法によらずに質物を処分させるような事前の約束も禁止されています。


「でも、先輩」


「何だ」


「何で、そんな約束を禁止するんですか?」


「昨日の文江さんを思い出せ」


 私は手を止めました。


 文江さんは、娘さんの入院費用に困っていました。


 十万円が必要。


 でも、すぐには用意できない。


 そこへ黒田が現れて、お金を貸すと言った。


 ただし。


 時計を担保にする。


 そして、返せなかったら時計は自分のもの。


「……お金に困っている人は、不利な条件でも受け入れてしまうことがあるからですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「金を借りなきゃ生活できねえ人間に、八十万円の時計を十万円の担保として差し出させる」


「はい」


「それで返済が一日遅れただけで、時計を丸ごと取れるとしたらどうなる?」


「貸主が不当に大きな利益を得る危険があります」


「そのとおり」


 民法の流質禁止は、質権設定者が窮状につけ込まれ、不利益な契約を結ばされることを防ぐ趣旨を持っています。


「つまり、弱い立場の人を守る制度なんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――民法第三百四十九条。


 流質契約の原則禁止。


 理由は、質権設定者の保護。


「ただし!」


 私は自分で言いました。


 相馬先輩が顔を上げます。


「何だ」


「流質契約が禁止されるからといって、貸主が担保を実行できないわけじゃありません!」


「よし」


 そうです。


 質権は、債権を担保するための権利。


 返済されなければ、法律に従って担保権を実行する方法があります。


「民法が禁止しているのは、あらかじめ質物を自分のものにするような約束なんですね」


「そうだ」


「債権者の権利を全部奪うわけではない」


 なるほど。


 借主を守る。


 でも、貸主も守る。


 その均衡を考えているのが、民法なのです。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「ここからが本題だ」


「はい!」


「商法第五百十五条を読め」


 来ました。


 今回の最大の論点。


 私は六法を開きました。


 ――商法第五百十五条。


 商行為によって生じた債権を担保するために設定した質権については、民法第三百四十九条を適用しない。


 ……。


 何度読んでも、強烈です。


「先輩」


「何だ」


「民法で禁止されている流質契約が、商法では有効になるんですよね」


「原則としてな」


 私は大きく書きました。


 ――商法第五百十五条。


 商事流質を認める特則。


「どうしてですか?」


 私が尋ねると、相馬先輩は机を指で叩きました。


「商売は、金の回転が大事だからだ」


「金の回転?」


「ああ」


 商取引では。


 商品を仕入れる。


 売る。


 代金を回収する。


 次の商品を仕入れる。


 そんな取引が繰り返されます。


「担保を素早く処理できることに意味がある場合もあるんだ」


「なるほど……」


「だから、商行為によって生じた債権については、民法とは違う扱いを認めている」


 私は頷きました。


 民法。


 質権設定者を保護するため、流質契約を原則禁止。


 商法。


 商取引の迅速性や信用確保を重視して、流質禁止の適用を除外。


「民法と商法は、守ろうとしているものの重点が違うんですね」


「そういうことだ」


 私は少し考えました。


 商法は、民法の敵ではありません。


 商取引という特殊な場面に対応するため、民法に対する特別なルールを定めている。


 そういう関係なのです。


「だから、民法の原則だけ覚えていると危ないんですね」


「そうだ」


「商法に特則がないか、確認しないと!」


 相馬先輩が頷きました。


「やっと分かったか」


 ……遅いですか。


 でも、分かりました。


「ここで、一番大事な確認です!」


 私は赤鉛筆を持ちました。


「商法第五百十五条は、どんな場合に使えるんですか?」


「条文を読め」


「はい!」


 私は読み直しました。


 ――商行為によって生じた債権。


「ここですね!」


「そうだ」


 重要なのは、被担保債権。


 つまり、質権によって担保されている債権が、何から生じたものなのか。


「先輩、商人同士なら、必ず商法第五百十五条が適用されるんですか?」


「必ずじゃねえ」


「ですよね!」


 ここが、黒田社長の間違いでした。


 黒田は、食品卸会社の社長。


 文江さんは、洋菓子店の経営者。


 だから黒田は、


「商売人同士だから、流質契約は有効だ!」


 と主張した。


 でも。


 商法第五百十五条は、


「双方が商人なら適用する」


 とは書いていません。


 あくまで、


「商行為によって生じた債権」


 なのです。


「じゃあ、商行為って何ですか?」


 私が尋ねると、相馬先輩が六法を開きました。


「商法第五百一条、第五百二条を確認しろ」


「はい!」


 絶対的商行為。


 営業的商行為。


 そして。


 商法第五百三条。


 商人が営業のためにする行為は、商行為とされます。


 さらに、商人の行為は、営業のためにするものと推定されます。


「つまり、商人の行為でも、営業との関係が重要なんですね」


「そうだ」


「しかも、営業のためにするものと推定される場合があるから、その推定を覆す事情も大事」


「そのとおり」


 私は昨日の資料を思い出しました。


 黒田社長が書いた手紙。


 ――材料代の取引とは別に、私個人の蓄えから十万円をお貸しします。


 ――店の仕入れ代金とは関係のない、私的な貸付けとして扱います。


 私は頷きました。


「この手紙が、決定的な資料の一つだったんですね」


「そうだな」


 ただし。


 個人名義で貸したから、必ず商行為ではない。


 そんな単純な話でもありません。


 商人が営業のために個人名義で契約することもあります。


 逆に。


 商人でも、営業と無関係な私生活上の行為をすることがあります。


「だから、実際の取引内容を調べる必要があるんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――商人という肩書だけで決めない。


 ――商行為によって生じた債権かどうかを確認する。


 これです。


 この一行が、昨日の時計を守る鍵になったのです。


「よし、問題を出すぞ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「洋菓子店が、仕入先に対する材料代金の支払を担保するため、時計を質に入れた」


「はい」


「契約書には、返済できなければ時計の所有権が仕入先に移ると書いてある」


「はい」


「どうだ?」


 私は考えました。


 材料代金。


 洋菓子店の仕入れ。


 商行為によって生じた債権。


「商法第五百十五条の適用が考えられます!」


「うん」


「流質契約は、原則として有効になり得ます!」


「正解」


 よし!


「じゃあ、次」


「はい!」


「商売とは無関係に、友人同士で生活費を貸し借りした。時計を担保にして、返せなければ所有権を移す約束をした」


「はい」


「返済期限前の契約だ。どうなる?」


 私は答えました。


「商行為によって生じた債権ではないので、商法第五百十五条は適用されません!」


「うん」


「民法第三百四十九条によって、流質契約は禁止されます!」


「正解」


 私は拳を握りました。


「完璧です!」


「まだだ」


「えっ?」


「三問目」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「商行為から生じた債権を担保するため、商人ではない第三者が自分の時計を質に入れた。流質特約はどうなる?」


 ……。


 私は少し考えました。


 時計の持ち主は商人ではない。


 でも。


 担保される債権は商行為によって生じたもの。


「商法第五百十五条の適用が考えられます!」


「そうだ」


「質権設定者自身が商人であることを、条文は要求していないからです!」


「よし」


 私は頷きました。


 つまり。


 見るべきなのは、質権設定者の肩書だけではない。


 商行為によって生じた債権かどうか。


 そこなのです。


「これ、試験でひっかけ問題になりそうですね」


「だろうな」


 私は赤線を引きました。


 ――商事流質の判断では、被担保債権の発生原因に注目!


 これなら、忘れません。


「でも先輩」


「何だ」


「商法第五百十五条が適用されれば、どんな流質契約でも絶対に有効なんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね」


 私は六法をめくりました。


 民法第九十条。


 公序良俗。


 商法第五百十五条は、民法第三百四十九条を適用しないと定めています。


 しかし。


 民法のほかの規定まで、すべて適用しなくなるわけではありません。


「たとえば、著しく不当な条件で、相手の窮状につけ込むような契約なら?」


 私は尋ねました。


「公序良俗違反が問題になることもある」


「はい」


 ただし。


 借金が十万円。


 担保が八十万円。


 それだけで、必ず無効になるとは限りません。


 契約を結んだ事情。


 担保物の価値。


 当事者の関係。


 不当に利益を得ようとした事情。


 そうした事実を具体的に見なければなりません。


「つまり、商事流質が原則有効だからといって、何でも許されるわけではないんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 法律というのは。


 一つの条文だけで、すべてが決まるわけではありません。


 別の条文によって、効力が問題になることもある。


 だからこそ。


 契約書の一行を見て、すぐに結論を出してはいけないのです。


「それから、もう一つ」


 片桐所長が口を開きました。


「はい」


「民法第三百四十九条は、いつの契約を禁止している?」


 私は六法を読みました。


 質権の設定行為。


 または、債務の弁済期前の契約。


「……あっ!」


 私は顔を上げました。


「弁済期前です!」


「そうだ」


「つまり、返済期限が過ぎた後の合意は、別に考える必要があるんですね!」


 所長が頷きました。


 民法第三百四十九条は、質権設定時や弁済期前に流質の約束をすることを禁止しています。


 一方。


 返済期限が到来した後に、当事者が改めて質物を債務の弁済に充てる合意をする場合は、同条の禁止とは区別されます。


「でも、返済期限後なら何でも有効……とは限りませんよね」


「そのとおり」


 詐欺。


 強迫。


 公序良俗。


 その他の問題は、当然残ります。


「なるほど……」


 私はノートに書きました。


 ――民法の流質禁止は、質権設定時・弁済期前の約束が対象。


 ――弁済期後の合意は、同条によって当然に禁止されるわけではない。


 ここも大事です。


 昨日の契約書は、最初に時計を預けたときに流質特約を結んでいました。


 だから。


 商法第五百十五条が適用されないなら、民法第三百四十九条による禁止が問題になったのです。


「ところで先輩」


「何だ」


「昭和六十三年と現代では、流質契約の考え方って、大きく違うんですか?」


 相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「……また未来の話か?」


「あ、いえ!」


 しまった。


 未来人。


 また癖が出ました。


 でも。


 現代の行政書士受験生だった私にとって、この論点は今でも重要です。


 民法第三百四十九条。


 商法第五百十五条。


 この基本構造は、現代にも引き継がれています。


「流質契約については、基本的な考え方が現代でも使われるんです」


 私は言いました。


「そうなのか」


「はい!」


 ただし。


 昭和六十三年には、現在のような独立した会社法はありません。


 株式会社のルールは、商法の会社編。


 有限会社のルールは、有限会社法。


 それぞれに分かれていました。


「この時代に株式会社を作るには、発起人が七人以上必要だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい……」


「取締役も三人以上。監査役も必要だ」


「はい……」


「お前の言う、一人で株式会社を作るなんて話は、まだできねえんだよ」


 ……。


 そうです。


 現代では。


 平成十七年に会社法が制定され。


 平成十八年に施行されました。


 会社に関する規律が独立した法律に整理され、株式会社の設立なども柔軟になりました。


 発起人一人。


 取締役一人。


 資本金一円。


 そうした株式会社も設立できます。


 合同会社という形態もあります。


 でも。


 流質契約の問題は、会社の設立や機関設計とは別の話です。


 商法の商行為に関するルールとして、現代でも学ぶ必要があります。


「つまり、会社法が独立したからといって、商法が消えたわけじゃないんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「商売がある限り、商取引のルールは必要だからな」


 私は頷きました。


 昭和の商法。


 現代の商法。


 そして会社法。


 制度や条文の配置は変わっても、取引の安全や当事者の保護という問題は続いている。


 そう考えると。


 昔の法律を学ぶ意味も、見えてくる気がしました。


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はノートを見直しました。


 流質契約。


 質権。


 民法第三百四十九条。


 商法第五百十五条。


 商行為によって生じた債権。


 公序良俗。


 弁済期。


 ……。


「先輩」


「何だ」


「最後に、確認問題をお願いします!」


「まだやるのか」


「試験に出ますから!」


 相馬先輩は、ため息をつきました。


「仕方ねえな」


 そして、指を一本立てました。


「第一問。流質契約とは?」


「返済できなかった場合に、質物の所有権を質権者が取得するなどと、あらかじめ約束する契約です!」


「第二問。民法では?」


「民法第三百四十九条により、質権設定時や弁済期前の流質契約は原則禁止です!」


「第三問。商法では?」


「商法第五百十五条により、商行為によって生じた債権を担保する質権には、民法第三百四十九条が適用されません!」


「第四問。だから?」


「商事流質契約は、原則として有効になり得ます!」


「第五問。双方が商人である必要は?」


「そのこと自体は、必須条件ではありません!」


「第六問。何を確認する?」


「被担保債権が商行為によって生じたかどうかです!」


「第七問。商事流質なら、何でも有効か?」


「いいえ! 公序良俗などの問題が別に生じることがあります!」


「第八問。返済期限が過ぎた後の合意は?」


「民法第三百四十九条によって当然に禁止されるものではありません!」


 ……。


 相馬先輩が、少しだけ笑いました。


「よし」


 私は拳を握りました。


「やった!」


「今日は全問正解だな」


「本当ですか!」


「ああ」


 私は嬉しくなりました。


 行政書士試験。


 過去問。


 条文。


 暗記。


 現代にいた頃は、どれも難しく感じていました。


 でも。


 昨日の時計を思い出せば、すぐに分かります。


 十万円。


 八十万円の時計。


 黒田社長。


 文江さん。


 あの契約書。


 全部が、条文と結びついている。


「先輩」


「何だ」


「やっぱり法律って、事件で覚えると忘れませんね」


「そうか?」


「はい!」


 私はノートを見ました。


 民法では、質権設定者の保護。


 商法では、商取引の迅速性。


 そして。


 どちらのルールが適用されるかは、具体的な債権の発生原因によって決まる。


 文字だけで覚えていた頃は、何となくしか分かりませんでした。


 でも。


 時計を奪われそうになった文江さんの姿を思い出すと。


 条文の意味が、はっきり見えてきます。


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「昨日、なぜ時計が戻った?」


 私は少し考えました。


「……内容証明を送ったからです」


 所長は首を横に振りました。


「それだけか?」


 私は考え直しました。


 内容証明。


 商法第五百十五条。


 民法第三百四十九条。


 黒田の手紙。


 そして、十万円の返済。


「……違いますね」


 私は言いました。


「文江さんが、借金を返す義務をきちんと認めたこと」


「うん」


「黒田社長が、流質契約を当然に有効だと主張できるわけではないことを、資料で示したこと」


「そうだ」


「さらに、時計の価値や契約の経緯から、ほかの法律上の問題も整理したこと」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は、少し考えました。


 行政書士は、裁判所で判決を出せません。


 相手に強制的に時計を返させることもできません。


 紛争の代理交渉や訴訟が必要になれば、弁護士の仕事です。


 けれど。


 契約書を読み。


 事実を調べ。


 必要な資料を集め。


 書類を整える。


 その仕事が、紛争の解決につながることもある。


「所長」


「何だ」


「私、内容証明って相手を怖がらせるためのものだと思っていました」


「そうか」


「でも、違いますね」


 私は言いました。


「事実と法律を整理して、相手に自分の立場を正確に伝えるためのものなんですね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私は、昨日の文江さんの笑顔を思い出しました。


 戻ってきた銀色の腕時計。


 お父さんの形見。


 そして、借金をきちんと返せた安心感。


 あの笑顔を守れたのは。


 法律の条文だけではありません。


 事実を丁寧に確かめたからなのです。


「よし!」


 私は最後のページを開きました。


「今日の一行の覚え書きです!」


 相馬先輩が言いました。


「長くするなよ」


「分かってます!」


 私は鉛筆を整えました。


 そして。


 ゆっくり書きました。


 ――流質は「民法では期限前禁止、商法では商行為債権なら例外」。決め手は担保される債権の正体。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、絶対に忘れません。


 流質。


 りゅうしち。


 民法では原則禁止。


 商法では適用除外。


 ただし、その例外には条件がある。


 単に貸主が社長だから。


 借主が商売人だから。


 そんな理由だけで決まるものではない。


 何の債権を担保しているか。


 そこが大切なのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、もう終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も戻せ」


「はい」


「床も掃け」


「……先輩」


「何だ」


「私、今すごく大事な法律を覚えたんです」


「そうだな」


「もう少し余韻に浸りたいんですが」


 相馬先輩は、にやりとしました。


「じゃあ、その余韻を担保に掃除を頼む」


「……は?」


「掃除が終わらなかったら、お前の休憩時間は俺のものだ」


 ……。


 私は固まりました。


 そして。


「先輩!」


「何だ!」


「それ、流質契約じゃないですか!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「掃除の約束と質権を一緒にすんな!」


「だって、できなかったら私の休憩時間を奪うって!」


「そもそも質物じゃねえだろ!」


「たしかに!」


 私は思わず笑いました。


 そうです。


 質権は、担保物権。


 流質契約は、質物の処分に関する約束。


 休憩時間を奪うという冗談とは違います。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「流質契約の勉強が、無事に終わったことを確認しました!」


「そうか」


「なので、掃除は先輩にお願いします!」


「何でだよ!」


「だって、先輩のほうが商法に詳しいじゃないですか!」


「商法と掃除に何の関係がある!」


「迅速な事務処理です!」


「都合よく商法を使うな!」


 ……。


 なるほど。


 商法の特則は、便利だからといって何にでも使えるわけではない。


 適用条件がある。


 そのことを、身をもって再確認できました。


 ……掃除は、結局私がすることになりましたけど。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、夕闇が降りてきました。


 商店街の明かりが、一つずつ灯ります。


 洋菓子のマツナガ。


 あの店でも、きっと今頃、文江さんがケーキを並べているのでしょう。


 左腕には、お父さんの時計。


 銀色の文字盤。


 静かに進む秒針。


 時間は、誰にでも平等です。


 けれど。


 法律の適用は、いつも同じとは限りません。


 民法が守ろうとするもの。


 商法が認めようとするもの。


 それぞれに理由があります。


 だからこそ。


 条文の一部だけを見て、結論を急いではいけない。


 私は箒を置き、ノートをもう一度開きました。


 そこには、今日の一行。


 ――流質は「民法では期限前禁止、商法では商行為債権なら例外」。決め手は担保される債権の正体。


 よし。


 完璧です。


 今度、行政書士試験で流質契約が出てきたら。


 私は、迷わず答えられると思います。


 民法第三百四十九条。


 商法第五百十五条。


 この二つを、必ずセットで思い出す。


 そして。


 時計を預けた人が、どんな気持ちで契約書にハンコを押したのか。


 そこまで考えられる行政書士になりたい。


 私は、そう思いました。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「いつまでノート見てる!」


「復習です!」


「掃除が終わってねえぞ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、今日、新しいことを学びました!」


「知ってるよ!」


「民法で禁止されていても、商法では有効になることがある!」


「そうだ!」


「だから、掃除の義務も商法で免除されませんか!?」


「されるか!」


 ……残念。


 どうやら。


 昭和六十三年の商法には、見習い行政書士の掃除を免除する条文は存在しないようです。


 私はため息をつきながら、もう一度箒を握りました。


 でも。


 少しだけ、嬉しかったのです。


 だって。


 昨日まで。


 ただの暗記項目だった流質契約が。


 今は、文江さんの時計と結びついている。


 十万円。


 八十万円。


 借金。


 担保。


 流質。


 民法。


 商法。


 全部が、一つの物語になっている。


 法律って。


 こうやって覚えると、面白い。


 私は、窓の外を見ました。


 商店街の向こうから、夕方の鐘が聞こえます。


 今日もまた、一つ。


 昭和の商法が、私の中で生きた知識になりました。


 そして。


 あの時計の針のように。


 私の勉強も、少しずつ前に進んでいるのです。


 ……ただし。


「こはる! 机の下も掃け!」


「はいっ!」


 どうやら。


 行政書士見習いとしての修業は。


 法律を覚えるだけでは、終わらないのでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
推理〔文芸〕・歴史〔文芸〕
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
歴史〔文芸〕 新訳セレクション ── 古典のハードル、下げておきました。
詩〔その他〕・エッセイ〔文芸〕
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
歴史〔文芸〕(六道輪廻抄)&関連作品
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
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