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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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[商法・流質契約]現場編 「借金を返せなければ時計は俺のもの」の罠。民法では禁止、商法では有効!? 十万円の借金と、父の形見を奪う契約書の恐怖

挿絵(By みてみん)

 借金の担保に入れたものは、返済できなければ、誰のものになるのでしょうか。


 十万円を借りて。


 百万円の時計を預ける。


 そして、約束の日までに返せなかったら。


 その時計は、貸した人のものになる。


 ……そんな契約、許されるのでしょうか。


 私は最初、簡単な問題だと思っていました。


 民法第三百四十九条。


 流質契約の禁止。


 借金の返済期限が来る前に、


「返せなければ担保は俺のものだ」


 と約束しても、原則として認められない。


 そう覚えていたからです。


 ところが。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 私は一枚の契約書を前に、背筋が凍ることになります。


 なぜなら。


 商法には、その禁止を外してしまう条文があったのです。


 商法第五百十五条。


 たった一条。


 それだけで。


 民法では認められないはずの契約が、商取引では有効になる。


 しかも今回。


 その違いを悪用しようとしている男がいました。


 十万円の借金を口実に。


 父親の形見を奪おうとする男です。


「時計を、返してもらえないんです」


 朝九時。


 事務所の扉を開けた女性は、泣きそうな顔でそう言いました。


「時計……ですか?」


 私は相談票を取りました。


 女性の名前は、松永文江さん。


 三十八歳。


 駅前商店街で、小さな洋菓子店を営んでいます。


 店の名前は、


 ――洋菓子のマツナガ。


 夫と二人で切り盛りする、古いケーキ屋さん。


 クリスマスには、近所の子供たちが列を作るそうです。


「どんな時計なんですか?」


「父の形見なんです」


 文江さんは、鞄から写真を取り出しました。


 銀色の腕時計。


 丸い文字盤。


 細かな傷のある金属製のベルト。


 古い外国製の機械式時計でした。


「父が若い頃に買ったもので……」


 文江さんは写真を撫でました。


「亡くなる直前、私にくれたんです」


「そうだったんですね」


「時計屋さんに見てもらったら、状態もよくて、今では八十万円くらいの価値があるそうなんです」


「八十万円!」


 私は思わず声を上げました。


 昭和六十三年の八十万円。


 小さな洋菓子店にとっては、大変な金額です。


「でも、お金の問題じゃないんです」


 文江さんが言いました。


「父は、時計を渡すとき、こう言ったんです」


 ――商売をしていると、苦しい日もある。


 ――でも、時間だけは誰にでも平等だ。


 ――焦るな。真面目に働いていれば、いつかいい日が来る。


 文江さんの声が震えました。


「父は、ずっと町工場で働いていた人でした」


 私は黙って聞きました。


「裕福じゃなかったけど、私が店を出したとき、誰よりも喜んでくれたんです」


 その時計が。


 今は、他人の手にある。


「どうして預けることになったんですか?」


 私が尋ねると、文江さんは一枚の契約書を差し出しました。


「十万円を借りたんです」


「十万円?」


「娘が入院したとき、急にお金が必要になって……」


 文江さんには、十二歳の娘がいました。


 昨年の冬。


 娘が病気になり、入院。


 治療費や付き添いの交通費などで、家計が苦しくなった。


 そんなとき。


 取引先の社長が、お金を貸してくれたそうです。


「取引先?」


「はい。うちに小麦粉や砂糖を納めている、黒田食品株式会社です」


 黒田食品。


 駅前の食品卸売会社。


 市内の飲食店に材料を卸している、そこそこ大きな会社です。


「社長の黒田さんが、個人的に十万円を貸してくれたんです」


「なるほど」


「そのとき、何か担保が欲しいと言われて……」


 私は写真を見ました。


「お父さんの時計を?」


「はい」


 そして。


 文江さんは、契約書の最後の部分を指差しました。


 そこには、こう書かれていました。


 ――借主が昭和六十三年十月十日までに金十万円を返済しないときは、担保として差し入れた腕時計の所有権は、貸主に移転するものとする。


 私は眉をひそめました。


「……これ」


「はい」


「返せなかったら、時計が相手のものになるって書いてありますね」


「そうなんです」


 文江さんが俯きました。


「私、今月十日までに返せなかったんです」


 今日は十月十七日。


 返済期限から一週間が過ぎています。


「昨日、黒田社長から電話があって……」


 文江さんの声が小さくなりました。


「もう時計は俺のものだ。返してほしければ八十万円払え、と」


 ……。


 私は固まりました。


「八十万円?」


「はい」


「借りたのは十万円ですよね?」


「そうです」


「それなのに、八十万円?」


 文江さんは頷きました。


「もう質流れしたんだから、今の価値で買い戻せって……」


 私は契約書を握りました。


 十万円の借金。


 八十万円の時計。


 たった一週間の遅れ。


 それで、父親の形見を失う。


 ……冗談じゃありません。


 私は勢いよく立ち上がりました。


「大丈夫です!」


 文江さんが顔を上げます。


「本当ですか?」


「民法第三百四十九条です!」


 よし。


 今回は分かります。


 質権。


 担保物権。


 そして流質契約。


「返済期限より前に、返せなかったら担保を自分のものにするという約束は、民法では禁止されています!」


「じゃあ……!」


「この契約の一文を、そのまま有効とは言えません!」


 私は胸を張りました。


 民法。


 強い。


 やはり民法は頼りになります。


 ところが。


「こはる」


 後ろから、相馬先輩の声がしました。


「はい!」


「何の債権だ?」


「……え?」


「その時計は、何の借金を担保してる?」


「十万円の借金です」


「それは聞いた」


 先輩は契約書を指差しました。


「その十万円が、どういう取引から生じたものか聞いてるんだ」


「……どういう取引?」


「ああ」


 私は首をかしげました。


「お金を借りたんですよね?」


「だから、その金を誰が、何のために貸したかだ」


 私は少し考えました。


「でも先輩、民法第三百四十九条は――」


「商法第五百十五条を見ろ」


 ……。


「はい?」


「五百十五条だ」


 私は六法を開きました。


 商法。


 第五百十五条。


 そこに書かれていたのは。


 ――商行為によって生じた債権を担保するために設定した質権には、民法第三百四十九条を適用しない。


 ……え。


 私は目を瞬かせました。


「適用……しない?」


「そうだ」


「えっ?」


「商行為によって生じた債権なら、話が変わる」


 私はもう一度読みました。


 適用しない。


 適用しない。


 適用しない。


「ちょっと待ってください!」


「待たねえ」


「民法で禁止されている流質契約が!」


「ああ」


「商法では!」


「ああ」


「有効になるんですか!?」


「原則としてな」


 私は椅子に座り込みました。


 ……何ですか、それ。


 民法で守ってくれたはずなのに。


 商法が出てきた途端。


 守りが外れる?


「先輩!」


「何だ」


「それ、怖すぎませんか!」


「商売の世界ってのは、そういうもんだ」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「商取引じゃ、担保を素早く処分できることにも意味がある。だから民法の流質禁止を外してるんだ」


「でも、十万円のために八十万円の時計ですよ!」


「だからって、商事流質が全部無効になるわけじゃねえ」


「そんな……」


 私は文江さんを見ました。


 文江さんも不安そうです。


「じゃあ、時計はもう……」


「まだ決まってません」


 そのとき。


 片桐所長が口を開きました。


「こはる」


「はい」


「条文を最後まで読め」


「……はい」


「商法第五百十五条は、何と書いてある」


 私は読み直しました。


 商行為によって生じた債権。


 そこです。


「……商行為によって生じた債権、です」


「そうだ」


「つまり……」


 私は契約書を見ました。


 そして。


 文江さんの顔を見ました。


「この十万円が、商行為によって生じた債権なのかどうか……?」


 所長が頷きました。


「まず、そこを調べる」


 私は息を呑みました。


 そうか。


 貸した人が社長だから。


 借りた人が商売をしているから。


 それだけで、すべて商法になるわけじゃない。


 重要なのは。


 その債権が、どんな行為から生じたか。


 そこだったのです。


「でも所長」


 私は尋ねました。


「現代なら、会社法で会社の責任も調べられますよね。黒田食品の取締役が一人だけだったら、会社の取引なのか社長個人の取引なのかも――」


「取締役が一人?」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「あ、いえ」


「株式会社の話か?」


「……はい」


「株式会社の取締役は三人以上だぞ」


 しまった。


 またです。


 未来の会社法。


 現代なら、取締役一人の株式会社もあります。


 でも。


 昭和六十三年には、そんな設計は原則できません。


 しかも当時、独立した「会社法」という法律も存在しません。


 株式会社の基本ルールは、商法の会社編。


「こはる」


 先輩が呆れた顔をしました。


「お前、いつも妙な会社を作ろうとするな」


「すみません……」


「株式会社を作るなら発起人だって七人以上必要だ。この時代の商法を読め」


「はい……」


 私はうなだれました。


 現代では、発起人一人。


 取締役一人。


 資本金一円。


 そんな株式会社も作れるのに。


 昭和の株式会社は、ずいぶん堅苦しい。


 でも。


 今回の本当の問題は、そこではありません。


「所長」


「何だ」


「黒田食品という会社と、黒田社長個人を分けて調べる必要がありますね」


「そうだ」


「それから、十万円の貸付けが商行為かどうか」


「うん」


「会社の社長が貸したというだけで、商法第五百十五条が当然に適用されるとは限らない」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は少しだけ安心しました。


 けれど。


 この時点では、まだ時計を取り戻せるとは言えません。


 なぜなら。


 商行為に当たるかどうか。


 その判断には、契約書の文言だけでなく、実際の取引内容が関わってくるからです。


 午後。


 私たちは、文江さんから追加の資料を預かりました。


 まず。


 洋菓子店と黒田食品との取引台帳。


 毎月、小麦粉や砂糖を仕入れています。


 請求書。


 納品書。


 領収書。


 どれも、きちんと整理されていました。


「これが材料代の取引です」


 文江さんが説明します。


「黒田食品には、毎月末に支払っています」


「未払いはありますか?」


「いいえ。今月分も、まだ支払期限前です」


 私は頷きました。


 次。


 十万円の借用書。


 貸主。


 黒田清三。


 個人名。


 借主。


 松永文江。


 個人名。


 そして。


 使途欄。


 ――長女入院に伴う家計費用。


 私は顔を上げました。


「これ……!」


 相馬先輩も覗き込みます。


「ほう」


「貸付金の使い道が、はっきり書いてあります!」


「そうだな」


「しかも、黒田食品株式会社じゃなくて、黒田清三個人!」


「うん」


 私は少し興奮しました。


「だったら、商法じゃなくて民法ですよね!」


「落ち着け」


「え?」


「個人名で契約したからって、それだけで商行為じゃないと決まるわけじゃねえ」


「あ……」


「商人が営業のためにする行為なら、個人名義でも商行為になり得る」


 私は黙りました。


 なるほど。


 名義だけでは決まらない。


「それに、商人の行為は営業のためにするものと推定される場合がある」


「……商法第五百三条ですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、生活費に使ったって話だけでも足りねえ。何のために貸した金なのか、客観的な資料で確かめる」


 私は借用書を見直しました。


 取引を疑うなら。


 そこまで見る必要がある。


「他に資料はありますか?」


 私が尋ねると、文江さんは封筒からもう一枚の紙を出しました。


「借りるとき、黒田さんが手紙をくれたんです」


 便箋でした。


 黒田清三の自筆。


 そこには。


 ――お嬢さんの入院で大変でしょう。


 ――材料代の取引とは別に、私個人の蓄えから十万円をお貸しします。


 ――店の仕入れ代金とは関係のない、私的な貸付けとして扱います。


 私は息を止めました。


「……これです」


 相馬先輩が便箋を読みました。


「なるほどな」


 所長も目を通しました。


 そして。


「文江さん」


「はい」


「このお金は、会社の会計を通して受け取りましたか」


「いいえ。黒田さんが、ご自宅で現金を渡してくれました」


「場所は?」


「黒田さんの家です」


「借りるようになった経緯は?」


「亡くなった父が、昔、黒田さんと同じ町工場に勤めていたんです」


 私は驚きました。


「お知り合いだったんですか?」


「はい。父の古い友人だったそうです」


 なるほど。


 文江さんの取引先であり。


 亡父の旧友でもある。


 黒田清三。


 最初は、親切心でお金を貸したのかもしれない。


 けれど。


 今になって。


 その立場を利用しようとしている。


「所長」


 私は小さな声で言いました。


「商売で生じた債権と、私的な貸付けを混ぜようとしているんですね」


 所長は静かに頷きました。


「その可能性がある」


 そして、こう言いました。


「まだ決めつけるな。相手の主張も確認する」


 ……はい。


 法律の世界では。


 こちらに都合のよい資料だけで、勝ったつもりになってはいけない。


 それも、大事な教訓です。


 翌日。


 黒田食品株式会社。


 私たちは、事情を確認するために訪問しました。


 事前に、文江さんから事情を聞いていること、契約内容について事実確認をお願いしたいことを伝えてあります。


 もちろん。


 私たちは弁護士ではありません。


 文江さんの代理人として、返還条件を交渉することはできません。


 まずは、相手の説明を聞き、必要な書類を整理する。


 それが仕事です。


 応接室。


 大きな革張りの椅子。


 高そうな灰皿。


 そして。


 机の向こうには、恰幅のよい男が座っていました。


 黒田清三。


 五十六歳。


 黒田食品株式会社の代表取締役です。


「行政書士?」


 黒田は名刺を見るなり、鼻で笑いました。


「何だ。弁護士でも連れてくるのかと思ったよ」


 ……。


 またです。


 最近、行政書士と聞くと鼻で笑う社長が多すぎませんか。


「契約について、事実の確認をお願いしたく参りました」


 相馬先輩が言いました。


「時計のことだろ」


「はい」


「もう決着はついてるよ」


 黒田は椅子に深く座りました。


「あの時計は、もう俺のものだ」


「どういう根拠で、そうお考えですか」


「契約書だよ」


 黒田は机を叩きました。


「十月十日までに金を返せなければ、時計の所有権が移る。ちゃんと書いてあるだろ」


「はい」


「期限は過ぎた。返済もない。なら俺の時計だ」


 私は口を開きました。


「ですが、民法第三百四十九条では――」


「知ってるよ」


 黒田が笑いました。


「流質契約は禁止、だろ?」


 ……え。


 知っている?


「お嬢ちゃん」


 黒田は得意そうに言いました。


「俺はな、商売を三十年やってるんだ」


「……はい」


「民法だけで会社を動かしてると思うか?」


 黒田は机の引き出しから、一冊の六法を出しました。


 付箋が貼ってあります。


「商法第五百十五条」


 私は息を呑みました。


「商行為で生じた債権なら、流質契約は禁止されない」


 黒田はにやりと笑いました。


「知らなかったか?」


 ……知ってます。


 昨日、知りました。


 危なかった。


「松永は洋菓子店を経営している。俺も食品卸の社長だ」


 黒田が指を二本立てました。


「商売人同士だ」


 そして。


「だから商法が適用される。時計は俺のものだ」


 ……。


 私は、ゆっくり息を吸いました。


 なるほど。


 この人。


 商法第五百十五条を、ちゃんと知っている。


 ただし。


 使い方がおかしい。


「黒田社長」


 私が言いました。


「その十万円は、何のために貸したお金ですか?」


「何?」


「洋菓子店の仕入れ代金ですか?」


「違う」


「営業資金ですか?」


「まあ、生活が苦しいって言ってたからな」


「お嬢さんの入院費用ですよね」


 黒田の表情が、一瞬止まりました。


「……それがどうした」


「その貸付けは、黒田食品株式会社の営業として行われたものですか?」


「俺が社長なんだから同じことだろ!」


 来ました。


 社長だから同じ。


 この言葉。


 便利そうですが、実に危険です。


「会社と社長個人は、別です」


 私は言いました。


「株式会社には、会社としての権利義務があります」


「そんなことは知ってる!」


「それに、今回の貸付けが商行為に当たるかどうかは、肩書だけでは決まりません」


 黒田は顔をしかめました。


「何が言いたい」


 私は、便箋の写しを机に置きました。


「こちらの手紙について、確認させてください」


 黒田は紙を見ました。


 目が止まります。


 ――材料代の取引とは別に、私個人の蓄えから十万円をお貸しします。


 ――店の仕入れ代金とは関係のない、私的な貸付けとして扱います。


「……そんな昔の手紙を」


「社長がお書きになったものですね」


「そうだよ!」


 黒田が声を荒らげました。


「でも、そんなの関係ねえだろ!」


 相馬先輩が静かに言いました。


「関係があるかどうかを、確認しているんです」


「何だと?」


「商法第五百十五条は、商人なら誰にでも適用される、と書いてありますか?」


 黒田が黙りました。


 先輩は続けました。


「それとも、商行為によって生じた債権を担保するための質権に適用される、と書いてありますか?」


 ……。


 黒田の指が止まりました。


「十万円の貸付けが商行為によるものだったと考える事情は、ほかにありますか?」


 相馬先輩が尋ねます。


 黒田はしばらく黙っていました。


 それから。


「うるさい!」


 机を叩きました。


「契約したのは事実だろ!」


 私は肩を震わせました。


「書いてあるんだ! 返せなければ時計は俺のものだって!」


 黒田は立ち上がりました。


「文江が泣こうが何しようが、契約は契約だ!」


 ……。


 その言葉を聞いて。


 私は、胸が痛くなりました。


 文江さんが、どんな思いで時計を預けたのか。


 この人は知っていたはずです。


 父親の形見。


 娘の入院。


 生活の苦しさ。


 全部知っていて。


 十万円で、その時計を自分のものにしようとしている。


「黒田社長」


 片桐所長が、初めて口を開きました。


「一つだけ、お聞きします」


「何だ」


「あなたは、私的な貸付けだと記した手紙について、今も自分が書いたものだと認めますか」


「……ああ」


「ありがとうございます」


 所長は立ち上がりました。


「確認できました」


「は?」


「本日は、ここまでにします」


 黒田が目を剥きました。


「何だよ! それだけか!」


 所長は静かに言いました。


「法律上の評価は、確認した資料に基づいて検討します」


 黒田は笑いました。


「好きにしろよ!」


 そして。


「時計が欲しけりゃ、八十万円用意するんだな!」


 ……。


 私は拳を握りました。


 でも。


 相馬先輩が、私の肩を軽く叩きました。


「行くぞ」


「……はい」


 私たちは応接室を出ました。


 扉が閉まる直前。


 黒田の笑い声が聞こえました。


「行政書士なんかに、何ができる!」


 ……。


 できますよ。


 少なくとも。


 あなたが見落としている一行を。


 逃げられない形で、書面にすることは。


 事務所へ戻った私は、すぐに六法を開きました。


「所長!」


「何だ」


「内容証明を書かせてください!」


「書いてみろ」


「はい!」


 私は原稿用紙を取り出しました。


 宛先。


 黒田清三。


 差出人。


 松永文江。


 そして。


 私は勢いよく書き始めました。


 ――本件流質契約は民法第三百四十九条に違反するため、無効である。


 よし。


 完璧。


 ……と思ったのですが。


「駄目だ」


 片桐所長が言いました。


「えっ!」


「根拠が足りない」


「でも、民法三百四十九条ですよ!」


「商法五百十五条はどうした」


「あ……」


「相手は、その条文を主張している」


 私は黙りました。


 そうでした。


 ただ民法を持ち出しても。


 黒田は商法を持ち出す。


 それでは、同じことの繰り返しです。


「こはる」


 所長が言いました。


「商法第五百十五条を避けるな」


「……はい」


「正面から検討しろ」


 私は原稿用紙を見つめました。


 商法第五百十五条。


 商行為によって生じた債権。


 ……そこです。


「所長!」


「何だ」


「この十万円の貸付けが、商行為によって生じた債権ではないことを、事実で示すんですね!」


「そうだ」


 私は鉛筆を握り直しました。


 まず。


 借用書。


 貸主は黒田清三個人。


 借主は松永文江個人。


 次。


 使途。


 長女の入院に伴う家計費用。


 次。


 黒田自身の手紙。


 会社の材料代取引とは別。


 個人の蓄えから貸す。


 私的な貸付け。


 さらに。


 実際の材料売買とは、請求書も支払関係も分かれている。


 そして。


 黒田は面談の場で、その手紙を自分が書いたものだと認めている。


 私は、一つずつ書きました。


「先輩」


「何だ」


「個人同士の貸付けだから、必ず商行為じゃない……とは書けませんよね」


「そのとおり」


「商人の営業に附属する行為なら、個人名義でも商行為になることがあります」


「そうだ」


「でも今回は、営業との関係を否定する資料が揃っています」


 相馬先輩が頷きました。


「そこを押さえろ」


 私は書面を整えました。


 そして、読み上げました。


「第一。本件金十万円の貸付けは、通知人の長女の入院に伴う家計費用を賄う目的でなされたものである」


「うん」


「第二。貴殿は、本件貸付けに際し、黒田食品株式会社と松永洋菓子店との商品取引とは別個の、私的貸付けである旨を自筆の書面により明示している」


「続けろ」


「第三。本件貸付金は、商品売買代金その他の営業上の債務とは区別されており、現に確認された資料によれば、貴殿の営業のためになされた貸付けであるとは認め難い」


「うん」


「第四。したがって、本件被担保債権について商法第五百十五条の適用を当然の前提とすることはできず、本件流質特約には民法第三百四十九条による禁止が及ぶものと考える」


 私は一度、息を吸いました。


「第五。右流質特約を根拠として腕時計の所有権が貴殿に移転したとの主張には応じられない」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は最後を読みました。


「第六。通知人は本件借入金十万円の返済義務を争うものではない。未払債務の弁済と腕時計の返還を適切に行うため、貴殿に対し、時計の第三者への処分を控えるとともに、書面による回答を求める」


 読み終わりました。


 ……。


 所長は黙って原案を見ています。


 長い沈黙。


 怖い。


 赤鉛筆が出るかもしれない。


 ところが。


「いいだろう」


 所長が言いました。


「……え?」


「ただし、最後に一つ加えろ」


「はい!」


「商法第五百十五条が適用される場合でも、何をしても許されるわけではない」


 私は顔を上げました。


「……公序良俗ですか?」


「そうだ」


 民法第九十条。


 公序良俗違反。


 商法が流質契約を原則として認めるからといって、暴利的な契約まで無条件に守るわけではありません。


 もっとも。


 十万円と八十万円。


 金額の差が大きいというだけで、当然に無効になるわけでもない。


 契約締結の事情。


 当事者の立場。


 担保物の評価。


 不当に利益を得ようとした事情。


 それらを具体的に検討する必要があります。


「今回は、そこを予備的な問題として指摘するんですね」


「そうだ」


 私は書き足しました。


 ――仮に本件貸付けが商行為に当たり得るとしても、借入金十万円に対し相当高額な時計を取得する旨の特約については、その締結経緯及び価額等に照らし、民法第九十条との関係が別途問題となる。


 相馬先輩が笑いました。


「いいじゃねえか」


「本当ですか!」


「ああ」


 先輩は書面を指差しました。


「ただな、こはる」


「はい」


「勘違いすんなよ」


「何をですか?」


「流質契約そのものが悪いって話じゃねえ」


 私は頷きました。


「商取引では、有効になる場合がある」


「そうだ」


「だからこそ、どんな債権を担保しているのかが大事なんですね」


「そのとおり」


 私は原稿用紙を見ました。


 民法では禁止。


 商法では適用除外。


 でも。


 商法が適用されるには、条件がある。


 その条件を満たしていないのに、


「俺は社長だ」


「相手も商売人だ」


 というだけで、他人の財産を奪ってよいわけではない。


「所長」


「何だ」


「商法って、怖い法律ですね」


 所長は少し考えました。


 そして。


「怖いのは、法律を半分だけ知っている人間だ」


 そう言いました。


 私は、しばらく黙りました。


 確かに。


 黒田は、商法第五百十五条を知っていた。


 でも。


 その適用条件を、都合よく無視していた。


 知識があるからこそ。


 その知識を悪用できる。


 そんな怖さがあるのです。


 翌日。


 文江さんに書面の内容を説明しました。


 文江さんは、じっと聞いていました。


「じゃあ……」


「はい」


「時計は、取り戻せる可能性があるんですね」


「あります」


 私は答えました。


「ただし、十万円の借金自体が消えるわけではありません」


「はい。それは分かっています」


 文江さんは鞄から封筒を出しました。


「お金、用意しました」


「えっ」


「娘が退院して、店も少し落ち着いたので……」


 封筒の中には、十万円。


「父の時計を取り戻せるなら、きちんと返したいんです」


 私は胸が熱くなりました。


「文江さん……」


 片桐所長が言いました。


「では、返済の方法も書面で明確にしましょう」


「はい」


「相手が受領しない場合も考え、弁済の提供や供託を含め、必要な手続を確認します」


 私は頷きました。


 そうです。


 流質特約を争うことと。


 借金を返すこと。


 それは別問題です。


 時計を返せとだけ主張して、借金を放置してはいけない。


 まずは、正当に返すべきものを返す。


 そのうえで。


 不当に奪われようとしている財産を守る。


 所長は文江さんに確認しました。


「この通知書を、あなたご自身の名義で発送してよろしいですね」


「はい。お願いします」


 所長が頷きました。


「分かりました」


 こうして。


 文江さん本人名義の内容証明郵便が、完成しました。


 相手を脅す言葉はありません。


 怒鳴りつける言葉もありません。


 ただ。


 借用書。


 貸付けの経緯。


 商行為性。


 流質特約。


 民法第三百四十九条。


 商法第五百十五条。


 そして民法第九十条。


 それらが、順番に並べられている。


 さらに。


 今後返済を行う意思も明記されている。


 私は完成した書面を見ました。


 ……怖い。


 相手が反論しようとすれば。


 なぜ私的貸付けが商行為なのか。


 なぜ会社の取引と別だと自分で書いたのか。


 なぜ十万円の貸付けで八十万円相当の時計を取得しようとしたのか。


 その一つ一つについて、説明が必要になる。


「先輩」


「何だ」


「これ、かなり効くと思います」


「だろうな」


「でも、私たちは裁判で戦えるわけじゃない」


「そうだ」


「だから、書面で事実関係を明確にする」


「そういうことだ」


 先輩はにやりと笑いました。


「裁判なんて負け戦だ。だが、やるなら要件を揃えろ」


 いつもの口癖。


 でも今回は、少し意味が違います。


 裁判になる前に。


 相手自身に、自分の主張の危うさを理解させる。


 それが書類の力なのです。


 内容証明郵便を発送して三日後。


 事務所に一本の電話が入りました。


「片桐行政書士事務所です」


『……黒田だ』


 私は受話器を握りました。


 あの黒田社長です。


「少々お待ちください」


 所長に代わりました。


「片桐です」


『……あの通知書、読んだ』


「そうですか」


『弁護士にも見せた』


「はい」


 電話の向こうで、しばらく沈黙がありました。


 そして。


『……商法第五百十五条、使えない可能性があるって言われた』


 私は思わず顔を上げました。


 所長は落ち着いた声で答えます。


「本件貸付けの事情からすれば、その点は重要な問題だと考えています」


『……ああ』


 黒田の声が、妙に弱々しくなっています。


『商人同士でも、私的な貸付けなら、当然に商事流質になるわけじゃないんだな』


「債権の発生原因や営業との関係を、具体的に検討する必要があります」


『……そうか』


 黒田は長く息を吐きました。


『あの手紙が残ってるとは思わなかった』


 ……。


 私は奥歯を噛みました。


 やっぱり。


 そこですか。


 黒田自身が書いた、


「私的な貸付けです」


 という手紙。


 あの一枚が、状況を大きく変えた。


『それにな……』


 黒田は続けました。


『時計の価値と貸付額の差についても、契約の事情によっては別の問題になるって』


「はい」


『……まさか、十万円の貸付けで、こんなことになるとは』


 私は思いました。


 違います。


 十万円の貸付けで問題になったんじゃありません。


 十万円の貸付けを利用して。


 八十万円の時計を奪おうとしたから。


 問題になったのです。


『……時計は返す』


 黒田が言いました。


 私は息を呑みました。


『十万円を返してもらえれば、それでいい』


 所長は言いました。


「返還と返済については、双方ご本人の意思を確認し、必要な書面を整えることになります」


『……分かった』


 少しして。


 黒田が小さな声で言いました。


『文江さんに……伝えてくれ』


 所長は答えました。


「直接お伝えいただくのがよいでしょう」


『……そうだな』


 黒田は黙りました。


 そして。


『……悪かった、と』


 電話が切れました。


 私は思わず立ち上がりました。


「所長!」


「何だ」


「今、返すって言いましたよね!」


「ああ」


「時計、返すって!」


「そうだ」


「やりましたね!」


 相馬先輩が笑いました。


「まだだ」


「え?」


「現物が戻ってから喜べ」


 ……。


 あ。


 そうでした。


 書面で勝った気になる。


 電話で安心する。


 でも。


 実際に時計が返ってこなければ、終わりではありません。


「はい!」


 私は大きく頷きました。


「最後まで確認します!」


 数日後。


 文江さんが、事務所へやって来ました。


 その手には。


 小さな、黒い箱。


「……戻ってきました」


 文江さんが言いました。


 箱を開けると。


 銀色の腕時計がありました。


 あの写真と同じ。


 古い機械式時計。


 細かな傷のあるベルト。


 文字盤の針が、静かに動いています。


「十万円も、返しました」


「よかった……!」


 私は思わず笑いました。


 文江さんは頷きました。


「返済したことと、時計を受け取ったことを、確認書に残しました」


 所長が書類を確認します。


 そこには、双方の署名押印。


 ――貸主黒田清三は、借主松永文江から金十万円の弁済を受けたことを確認する。


 ――貸主は、本件腕時計を借主に返還した。


 ――双方は、本件流質特約に基づく所有権取得の主張を撤回し、本件貸付け及び担保関係が終了したことを確認する。


 きちんと書かれていました。


 文江さんが、時計を胸に抱きました。


「本当に、ありがとうございました」


 私は首を振りました。


「私は、少しお手伝いしただけです」


「いいえ」


 文江さんは笑いました。


「この時計、父が亡くなる前に、私に言ったんです」


 ――商売は、お金だけじゃない。


 ――信用を失ったら、何も残らない。


 私は黙って聞きました。


「父は、きっと時計が戻ったことより……」


 文江さんは時計を見つめました。


「私が、ちゃんと借りたお金を返せたことを、喜ぶと思います」


 ……。


 私は、胸がいっぱいになりました。


 この人は。


 借金から逃げようとしたわけではありません。


 返したかった。


 でも、返せなかった。


 それだけです。


 そして。


 大切な形見まで失うことは、別の問題だった。


「文江さん」


 私は言いました。


「これからも、お店を続けてくださいね」


「はい」


 文江さんが笑いました。


「娘も、退院してから元気になったんですよ」


「本当ですか!」


「今度、ケーキを持ってきます」


「えっ!」


 私は目を輝かせました。


「いいんですか!」


「もちろん」


 相馬先輩が横から言いました。


「こはる」


「はい?」


「仕事の報酬としてケーキを要求するなよ」


「してません!」


「顔に書いてあったぞ」


「書いてません!」


 文江さんが声を立てて笑いました。


 その笑顔を見て。


 私は思いました。


 ああ。


 よかった。


 法律の力で。


 この笑顔が戻ったのです。


 夕方。


 事務所の窓から、赤い夕日が差し込んでいました。


 私は六法を開いていました。


 民法第三百四十九条。


 そして。


 商法第五百十五条。


 たった二つの条文。


 でも。


 今回の事件では、この二つが正面からぶつかりました。


「相馬先輩」


「何だ」


「私、最初は流質契約なんて全部駄目だと思ってました」


「そうだな」


「民法で禁止されているから」


「ああ」


「でも、商法では認められる場合がある」


「そうだ」


 私はノートを開きました。


「商取引を素早く、安全に進めるための仕組みなんですよね」


「そういう面があるな」


「だから、流質契約が必ず悪いわけじゃない」


「そうだ」


「でも……」


 私は時計の写真を見ました。


「商法第五百十五条が適用されるかどうかを確認しないで、他人の財産を取っていいわけじゃない」


 先輩が頷きました。


「そのとおり」


「それに、商法が適用されても、公序良俗の問題は別に残る」


「そうだな」


 私は、少し考えました。


 民法は。


 返済に困った人が、不当に担保を奪われないようにする。


 一方、商法は。


 商取引での担保の利用を、柔軟に認める。


 どちらも、意味がある。


 でも。


 どちらの法律を使うか。


 そこを間違えると。


 結論が、まるで逆になる。


「先輩」


「何だ」


「法律って、原則だけ覚えていても駄目なんですね」


「当たり前だ」


「例外も覚えないと」


「そうだ」


「でも、例外の条件を覚えないと、もっと危ない」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと分かったか」


「はい!」


 そのとき。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日の教訓は?」


 私は少し考えました。


 民法。


 商法。


 流質。


 商行為。


 十万円。


 八十万円の時計。


 そして。


 文江さんの笑顔。


 全部が頭の中に浮かびました。


 私はノートに一行だけ書きました。


 ――流質は民法では原則禁止、商法では商行為によって生じた債権に限り禁止が外れる。鍵は「何の債権を担保したか」。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


 所長が頷きました。


「それでいい」


 相馬先輩が覗き込みます。


「まあ、試験にも使えそうだな」


「使えますよ!」


 私は勢いよく言いました。


「民法三百四十九条と商法五百十五条!」


「うん」


「セットで覚えます!」


「そうしろ」


「でも先輩!」


「何だ!」


「私、流質っていう言葉、最初は読み方が分からなかったんです!」


「……は?」


「『りゅうしち』なんですね!」


 相馬先輩は、しばらく私を見つめました。


「……お前」


「はい?」


「読み方も知らずに、あんなに自信満々だったのか」


「法律知識はありました!」


「民法しか見てなかっただろ!」


「うっ……」


 痛い。


 そこを突かれると、何も言えません。


 でも。


 もう忘れません。


 流質。


 りゅうしち。


 返せなければ、質物をそのまま債権者のものにする約束。


 民法では原則禁止。


 商法では、商行為によって生じた債権の担保について、その禁止が適用されない。


 ただし。


 商人だから。


 社長だから。


 会社を経営しているから。


 それだけで、何でも商法になるわけではない。


「所長」


「何だ」


「今日、一番怖かったのは、黒田社長が条文を知っていたことです」


 所長が顔を上げました。


「そうか」


「はい。知らない人より、半分だけ知っている人のほうが、怖いこともあるんですね」


 所長は静かに頷きました。


「そうだ」


 そして。


「法律は、知っている者が勝つとは限らん」


「……はい」


「正しく使った者が、人を守れる」


 私は、その言葉を胸に刻みました。


 その日の帰り。


 私は駅前商店街を歩きました。


 洋菓子のマツナガ。


 店の明かりが灯っています。


 ショーケースには、苺のショートケーキ。


 チョコレートケーキ。


 小さなプリン。


 そして。


 店の奥では、文江さんが娘さんと笑っていました。


 ふと。


 文江さんの左腕が見えました。


 銀色の時計。


 お父さんの形見です。


 秒針が、ゆっくり動いています。


 私は立ち止まりました。


 あの時計は。


 もう二度と戻らないかもしれなかった。


 十万円の借金。


 一枚の契約書。


 そして。


 商法第五百十五条。


 その言葉を振りかざす人がいた。


 でも。


 法律には、ちゃんと条件がある。


 何の債権なのか。


 どういう取引なのか。


 どんな約束をしたのか。


 その一つ一つを確かめることで。


 奪われずに済むものがある。


 私は店の前を通り過ぎました。


 すると。


「こはるちゃーん!」


 文江さんが手を振りました。


「今度、ケーキ食べに来てね!」


「はい!」


 私は笑顔で答えました。


 よし。


 今度は絶対、苺のショートケーキにします。


 ……もちろん。


 代金は、ちゃんと払います。


 だって。


 商品を受け取って、代金を支払う。


 それも商取引ですから。


 そして。


 私は今日、身をもって学びました。


 商法は。


 商人に特別な権利を与えることがある。


 けれど。


 それは、何をしても許されるという意味ではない。


 社長の肩書も。


 立派な契約書も。


 法律の適用条件を、勝手に書き換えることはできないのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日もまた。


 一枚の書類が、誰かの大切なものを守りました。


 そして私は。


 六法の余白に、小さく書き加えることにしました。


 ――「返せなければ俺のもの」。その約束を見たら、まず債権の発生原因を調べよ。


 これなら。


 行政書士試験でも、忘れないはずです。


 ……たぶん。


 いや。


 絶対です。


 何しろ。


 流質契約を見たら、私はもう、あの銀色の時計を思い出してしまうのですから。


 民法で禁止。


 商法で例外。


 でも、その例外には条件がある。


 たったそれだけの知識が。


 十万円の借金を、八十万円の財産を奪う口実にさせなかった。


 法律は、ときに冷たい。


 けれど。


 その条件を一つずつ確かめれば。


 真面目に生きる人の、失いたくない時間を守ることもできるのです。

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