[商法・商事債権の法定利息と消滅時効]法理編 こはるノート
お金を貸したら、利息がつく。
そう思っていませんか?
実は。
利息の約束がなければ、原則として利息を請求できない場合があります。
ところが。
商売人同士になると、話が変わります。
約束していなくても。
利息を請求できる。
しかも昭和六十三年なら、法定利率は年六パーセント。
でも。
そんな債権にも、恐ろしい落とし穴があります。
五年。
たった五年間、権利を行使せずにいると。
時効によって、大切な債権を失う可能性があるのです。
そして、もっと厄介なのが。
商人が関係する債権だからといって、何でも五年になるわけではないこと。
同じお金の貸し借りから生まれた請求でも。
五年だったり。
十年だったり。
法律の世界は、そう簡単ではありません。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、大きく。
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……数字が多すぎます」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「六パーセント、五年、十年、六か月……」
「ああ」
「全部、昨日の事件に出てきた数字です!」
「そうだな」
「しかも未来では三パーセントに変わるんですよ!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「また未来の話か」
「いえ、その……法改正の研究です!」
「便利な言い訳だな」
私は苦笑しました。
でも。
本当に厄介なのです。
昭和六十三年と令和。
商法の法定利息と消滅時効は、大きく変わっています。
しかも。
条文番号まで変わるのではなく、条文そのものが削除されている。
受験生にとっては、かなり恐ろしい話です。
「よし!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、商事債権の法定利息と消滅時効を完全攻略します!」
「昨日も似たようなこと言ってなかったか」
「昨日は現場です。今日は理論です!」
「面倒な奴だな」
そこへ。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「昨日の貸金事件を使って教えてやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
私はノートの最初に、大きく書きました。
――商人間の金銭消費貸借。
「まず、藤田源三さんの事件です」
藤田金物店。
東海建材株式会社。
金物店を営む源三さんが、経営難に陥った建材会社へ百万円を貸した。
貸付日は、昭和五十八年十月一日。
返済期限は、同年十月三十一日。
ところが。
借主の村瀬社長は、一円も返さなかった。
そして、五年近く経ってから。
『利息の約束なんかしてねえよ!』
と開き直ったのです。
「ひどい話でしたね」
「ああ」
「でも、最初は私も少し迷いました」
「何がだ」
「利息の約束がなかったことです」
私はノートに書きました。
――民法の原則。
金銭消費貸借における利息は、原則として特約が必要。
「普通、お金を貸しただけで、必ず利息がつくわけではないんですよね」
「そうだ」
「たとえば」
私は言いました。
「友達に一万円を貸したとします」
「うん」
「『来月返してね』とだけ約束しました」
「うん」
「利息については、何も決めていません」
「だったら?」
「原則として、貸付期間についての利息は請求できません」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
ここで私は、ノートに小さく書き足しました。
ただし。
返済期限が過ぎても返さない場合の遅延損害金は、別問題。
利息の約束がないことと、返済遅滞の責任がないことは違います。
「ここ、大事ですね」
「何がだ」
「無利息で貸したからって、返済期限を破っても何の負担もないわけじゃない」
「当たり前だ」
私は頷きました。
そして。
ページの真ん中に、赤い線を引きました。
――商法第五百十三条。
「ここから、話が変わります!」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「言ってみろ」
「はい!」
商法第五百十三条。
商人間において金銭の消費貸借をしたときは、貸主は法定利息を請求することができる。
「つまり」
私は言いました。
「商人同士なら、利息の特約がなくても、法律によって利息を請求できるんです!」
「そうだ」
ここで、昨日の村瀬社長を思い出しました。
『借用書に利息なんて書いてねえだろ!』
あの自信満々な顔。
でも。
商法第五百十三条がある以上、それだけでは逃げられません。
「だから、村瀬社長の言い分は通らなかったんですね」
「ああ」
「でも先輩。なぜ商人同士だと違うんですか?」
相馬先輩は少し考えました。
「商売で使う金だからだろうな」
「商売で使う金?」
「ああ」
先輩は机に置かれた帳簿を指差しました。
「藤田金物店の百万円だって、ただ金庫に眠ってた金じゃねえ」
「はい」
「仕入れに使うはずだった」
「そうですね」
「百万円あれば、商品を仕入れて売れたかもしれねえ」
「はい」
「その金を他人に貸したら、その間は使えなくなる」
私は頷きました。
お金。
商人にとっては、ただの財産ではありません。
商品の仕入れ。
設備の購入。
従業員の給料。
次の取引の準備。
商売を動かすために必要なものです。
「だから、商人間の貸付けには、特別な利息請求権が認められているんですね」
「そういうことだ」
私はノートに書きました。
――商人間の金銭消費貸借は、利息特約がなくても法定利息を請求できる。
「よし!」
私は丸をつけました。
「これで第五百十三条は完璧です!」
「まだ早え」
「え?」
相馬先輩が笑いました。
「第五百十三条には、もう一つあるだろ」
……。
私は六法を見ました。
あ。
二項です。
「第二項!」
私は慌てて読みました。
――商人が、その営業の範囲内において他人のために金銭の立替えをしたときは、その立替えの日以後の法定利息を請求できる。
「……立替金!」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――商法第五百十三条第二項。
営業の範囲内で他人のために金銭を立て替えた商人は、立替えの日以後の法定利息を請求できる。
「たとえば」
私は考えました。
「建材問屋が、取引先のために運送代金を立て替えた場合ですか?」
「そうだな」
「その立替えが営業の範囲内なら、法定利息を請求できる」
「ああ」
「しかも、立て替えた日から!」
ここです。
私は大きく丸をつけました。
立替えの日以後。
これは試験でも重要です。
「でも先輩」
「何だ」
「相手が商人じゃなくてもいいんですか?」
「条文を見ろ」
私はもう一度読みました。
商人が。
営業の範囲内において。
他人のために。
金銭の立替えをしたとき。
……。
「あっ!」
「気づいたか」
「第一項とは違う!」
私は叫びました。
「第一項は、商人間の金銭消費貸借!」
「そうだ」
「でも第二項は、商人が営業の範囲内で他人のために立て替える場合!」
「うん」
「相手も商人でなければならないとは書いてありません!」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
私は鉛筆を走らせました。
貸付けの場合。
商人間であることが重要。
営業上の立替えの場合。
立て替えた者が商人で、その営業の範囲内であることが重要。
「同じ第五百十三条でも、要件が違うんですね」
「そこを見落とすな」
私は頷きました。
なるほど。
条文は、一項と二項をまとめて覚えるだけでは駄目。
誰が。
誰に。
何をしたのか。
そこまで分ける必要があるのです。
「じゃあ次!」
私はページをめくりました。
――商事法定利率。
「昨日、私が大失敗したところです」
相馬先輩がにやりと笑いました。
「ああ。三パーセントって言ってたな」
「忘れてください!」
「無理だな」
「ひどい!」
私は六法を開きました。
商法第五百十四条。
昭和六十三年当時。
商行為によって生じた債務に関する法定利率は、年六分。
「つまり、六パーセントです」
「そうだ」
「ちなみに、当時の民事法定利率は年五パーセントですよね」
「ああ」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
民事法定利率。
年五パーセント。
商事法定利率。
年六パーセント。
「一パーセント違うんですね」
「そうだ」
「たった一パーセント?」
私は少し考えました。
「でも、百万円なら一年で一万円の差になりますね」
「そうだな」
「一千万円なら十万円!」
「ああ」
「一億円なら百万円!」
「金額を増やすな」
「分かりやすいじゃないですか!」
相馬先輩が苦笑しました。
私は続けました。
「では、源三さんの百万円で計算してみます」
百万円。
年六パーセント。
一年分なら六万円。
二年分なら十二万円。
五年分なら三十万円。
「ただし!」
私は自分で言いました。
「おう?」
相馬先輩が顔を上げます。
「これは年六パーセントを五年間、単利で計算した場合の数字です」
「そうだ」
「実際には、貸付期間と返済期限後を分けて、利息と遅延損害金を確認しないといけません」
私は借用書の日付を書きました。
昭和五十八年十月一日。
貸付け。
同年十月三十一日。
返済期限。
まず、貸付けから返済期限まで。
商人間の金銭消費貸借としての法定利息が問題になります。
そして。
返済期限を過ぎても返さなかった場合。
今度は、債務不履行による遅延損害金が問題になります。
「昨日、所長に赤鉛筆を入れられたところです」
「そうだったな」
「利息と遅延損害金を、全部一緒に書いてしまいました」
相馬先輩が頷きました。
「結果として同じ利率で計算する場面があっても、根拠は分けて考えろ」
「はい!」
私は書きました。
利息。
お金を利用することに対する対価。
遅延損害金。
返済期限に支払わなかったことによる損害賠償。
同じお金でも、発生する理由が違う。
「なるほど」
私は鉛筆を止めました。
「これ、民法と商法の両方がつながるんですね」
「そうだ」
法律は、一つの条文だけで完結しているわけではない。
商法の特則。
民法の原則。
そして、契約の内容。
全部を見なければ、正しい計算はできないのです。
「では、時代錯誤のお時間です!」
私は元気よく言いました。
相馬先輩が顔をしかめました。
「何だ、その時間は」
「昭和と令和の比較です!」
「またか」
「大事なんです!」
私はノートに二本の線を引きました。
昭和六十三年。
商事法定利率。
年六パーセント。
令和。
商事法定利率の特別規定は廃止。
民法の法定利率を適用。
「ここが大きく変わるんです」
私は説明しました。
令和二年。
二〇二〇年四月一日。
改正民法が施行されます。
それに伴い、商法第五百十四条は削除されました。
つまり。
商事法定利率だけを年六パーセントとする特別な仕組みがなくなったのです。
「じゃあ、今後は民法の法定利率で考えるんだな」
相馬先輩が言いました。
「そうです!」
私は頷きました。
「改正時の民法の法定利率は年三パーセントです」
「六パーセントの半分だな」
「はい。ただし、将来ずっと三パーセント固定というわけではありません」
私はノートに書き足しました。
改正民法第四百四条。
法定利率は、三年を一期として、一定の条件で見直される変動制。
「つまり、現代でも適用される時期の利率を確認しないといけません」
「なるほどな」
「それに、法改正前に発生した利息などは、経過措置も確認する必要があります」
私は六法を閉じました。
昭和六十三年の事件を、令和の数字だけで計算してはいけない。
逆に。
令和の事件に、昔の商事法定利率六パーセントを当然に使ってはいけない。
「これ、転生者には怖いですよ」
「何がだ」
「六法を開かず、記憶だけで計算すると、時代を間違えるんです」
「普通は間違えねえよ」
「私は間違えるんです!」
「自慢するな」
……。
返す言葉がありません。
でも。
ひとつだけ、嬉しいこともあります。
「先輩」
「何だ」
「商法第五百十三条は、現代にも残るんです」
「そうなのか」
「はい。商人間の貸付けで、特約がなくても法定利息を請求できるという基本の仕組みは、残っています」
私は微笑みました。
制度が変わっても。
商売のお金には、特有の事情がある。
その考え方の一部は、現代にも引き継がれているのです。
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「次は、一番怖い数字だ」
「五年ですね」
「ああ」
私はページをめくりました。
――商事債権の消滅時効。
昨日の源三さん。
五年間、百万円を返してもらえませんでした。
村瀬社長は、それを利用しようとしたのです。
『もうすぐ五年だ』
『法律で払わなくてよくなる』
私は、その言葉を思い出して眉をひそめました。
「本当に嫌な社長でしたね」
「そうだな」
「でも、時効という制度自体は、悪いものじゃないんですよね」
相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「長い間、権利が行使されない状態を、いつまでも放置しないための制度です」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――旧商法第五百二十二条。
商行為によって生じた債権は、他に短い時効期間の定めがある場合などを除き、原則として五年間行使しないと、消滅時効にかかる。
「ここで大事なのが、商行為によって生じた債権という言葉ですね」
「そうだ」
「単に商人が持っている債権、ではありません」
相馬先輩が頷きました。
「そこを説明してみろ」
「はい!」
私は昨日の事件を思い出しました。
藤田金物店。
東海建材株式会社。
営業上の資金から行われた貸付け。
取引相手も会社。
商行為に基づく貸付金債権。
「だから、商事消滅時効の五年が問題になったんです」
「そうだ」
私はノートに書き足しました。
ただし。
商事債権なら、何でも必ず五年になるわけではない。
商法第五百二十二条には、他の法令に短い時効期間の定めがある場合を除く、という例外があります。
「ここも注意ですね」
「そうだな」
商事債権。
原則五年。
でも、特別な規定によって、それより短い期間になる場合もある。
「だから『商人が関係する債権は、全部五年』なんて覚え方は駄目なんですね」
「駄目だ」
私は大きく丸をつけました。
そして。
次の疑問を書きました。
――では、五年はいつから数えるのか。
「源三さんの借用書を思い出します」
私は言いました。
貸付日。
昭和五十八年十月一日。
返済期限。
昭和五十八年十月三十一日。
「五年って、貸した日から数えるんですか?」
相馬先輩が首を振りました。
「違う」
「ですよね!」
私は頷きました。
「原則として、権利を行使できる時から進行します」
旧民法第百六十六条。
消滅時効は、権利を行使することができる時から進行する。
「この考え方が大事なんですね」
「そうだ」
貸した日と返済期限は、同じとは限りません。
たとえば。
十月一日にお金を貸した。
十月三十一日に返してもらう約束をした。
その場合。
元本返還請求権について、返済期限が到来する前から、勝手に五年を進めるわけにはいきません。
「だから、昨日は借用書の返済期限を確認したんですね」
「ああ」
「五年という数字だけじゃなく、いつから数えるのかが重要だった」
「そうだ」
私は頷きました。
ここで所長が口を開きました。
「こはる」
「はい」
「五年経てば、何もしなくても必ず債務が消えると思うか」
「……いいえ」
「なぜだ」
「時効は、援用の問題があります」
所長が頷きました。
旧民法第百四十五条。
時効は、法律が定める援用権者が援用しなければ、裁判所がこれによって裁判することができない。
「つまり」
私は言いました。
「五年が経過したというだけで、裁判所が勝手に時効を適用してくれるわけではないんです」
「そうだ」
「債務者が時効を援用するかどうかも問題になります」
私は書きました。
時効期間の経過。
時効の中断の有無。
時効の援用。
これらを分けて考える。
「村瀬社長は、期間だけを見て勝ち誇っていたんですね」
「まあな」
相馬先輩が笑いました。
「しかも、途中で中断があったかどうかも確認していなかった」
そうです。
五年。
ただ時計を見ていれば勝てる。
そんな単純な話ではありません。
「では!」
私はページをめくりました。
――時効の中断。
「昨日、危うく失敗しかけたところです」
相馬先輩が笑いました。
「内容証明を送れば、時効が止まるって言ってたな」
「はい……」
「言ってみろ。何が違う」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の旧民法。
第百四十七条。
時効の中断事由。
請求。
差押え、仮差押え又は仮処分。
承認。
「この三つが基本ですね」
「そうだ」
まず。
裁判上の請求など。
次に。
差押え、仮差押え、仮処分。
そして。
債務者による承認。
「でも、先輩」
「何だ」
「内容証明で請求するのも、請求ですよね?」
「ああ」
「だったら、どうしてそれだけでは不十分なんですか?」
相馬先輩は、六法の次のページを指差しました。
「第百五十三条だ」
私は読みました。
――催告。
催告は、六か月以内に裁判上の請求など、法律で定められた手続きを取らなければ、時効の中断の効力を生じない。
「……ああ!」
私は大きく頷きました。
「内容証明による催告だけで、時効が完全に中断するわけではないんですね!」
「そうだ」
私はノートに書きました。
内容証明郵便による催告。
それだけで時効が永久に止まるわけではない。
旧民法では、催告後六か月以内に必要な法的手続きを取ることが重要。
「しかも、単に催告を何度も繰り返して、いつまでも期間を延ばせるわけではありません」
「そのとおり」
ここで私は、少し背筋が寒くなりました。
もし。
昨日、内容証明を送っただけで安心していたら。
必要な手続きを取らないまま時間が過ぎてしまったかもしれない。
「怖いですね……」
「何がだ」
「時効って、書類を一通送っただけでは安心できないんですね」
「ああ」
「だから弁護士への引継ぎが必要だった」
「そうだ」
片桐所長が静かに言いました。
「行政書士の仕事は、書面を作ることだけではない」
「はい」
「自分が扱える手続きと、扱えない手続きを見極めることも大事だ」
私は頷きました。
依頼人のために内容証明を作る。
事実を整理する。
証拠を揃える。
でも。
訴訟代理や紛争の示談交渉を、行政書士が当然に引き受けられるわけではありません。
弁護士に引き継ぐべき場面では、きちんと引き継ぐ。
「何でも自分で解決しようとしないことも、実務なんですね」
「そうだ」
所長は短く答えました。
私は、その言葉をノートの端に書きました。
「では、もう一つ!」
私は鉛筆を握り直しました。
――債務の承認。
「これ、村瀬社長が最後に持ってきた書面ですね」
相馬先輩が頷きました。
「ああ」
東海建材株式会社。
代表取締役、村瀬剛三。
債務承認書。
そこには、はっきり書かれていました。
――元本百万円の未払債務が存在することを認める。
「これが重要だったんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
旧民法第百四十七条。
債務者が債務を承認すると、時効の中断が問題になる。
「でも先輩」
「何だ」
「債務を承認するって、必ず書面が必要なんですか?」
「いや」
「口頭でも?」
「ああ。事情によっては承認になる」
私は頷きました。
債務の承認。
必ずしも正式な債務承認書でなければならないわけではありません。
債務の存在を認める発言。
一部弁済。
支払猶予の依頼。
そうした行為が、承認に当たることがあります。
「じゃあ、最初に村瀬社長が言った『借りたのは昔の話だ』という発言も?」
「可能性はある」
「でも、先輩はその発言だけに頼るなって言いましたよね」
「ああ」
「どうしてですか?」
相馬先輩は、昨日の手帳を取り出しました。
「言った、言わないになるからだ」
「……!」
なるほど。
口頭でも承認になり得る。
でも。
後から争いになれば、証拠が必要です。
そこで役立つのが、書面。
日時。
債務の内容。
金額。
承認した事実。
それらを明確に残す。
「法律上、書面が絶対に必要というわけではないけど、証拠として非常に重要なんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
そして。
「先輩!」
「何だ」
「債務承認書って、ただの紙なのに、すごいですね!」
相馬先輩が笑いました。
「紙がすごいんじゃねえよ」
「え?」
「そこに書かれた事実がすごいんだ」
……。
私は、少し黙りました。
確かに。
紙そのものに魔法があるわけではない。
債務がある。
そのことを、債務者自身が認めた。
それを証拠として残した。
だから意味がある。
ただし、承認する権限や時期、承認した債務の範囲も確認しなければなりません。
「所長が『書面は魔法じゃない』って言っていた意味、分かりました」
「やっとか」
「先輩!」
「何だ」
「たまには素直に褒めてください!」
「まだ早え」
……厳しいです。
「さて」
私はノートをめくりました。
「次は令和の時効です!」
相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「また未来か」
「大事なんです!」
私は二本の線を引きました。
昭和六十三年。
旧民法の一般債権。
原則十年。
旧商法第五百二十二条。
商事債権は原則五年。
「ここまでは、昨日覚えましたね」
「ああ」
「では、令和では?」
「知らねえよ」
「ですよね!」
私は嬉しくなりました。
「令和二年四月一日から、民法の消滅時効制度が大きく変わるんです!」
改正民法第百六十六条第一項。
債権は、原則として、次の場合に時効によって消滅します。
一つ。
債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間、行使しないとき。
もう一つ。
権利を行使することができる時から十年間、行使しないとき。
「つまり」
私は言いました。
「現代では、主観的な起算点と客観的な起算点という二つの基準があるんです」
「主観的?」
「権利を行使できることを知った時です」
「客観的?」
「権利を行使できる時です」
私は大きく書きました。
知った時から五年。
行使できる時から十年。
「原則として、どちらかによって時効が完成します」
「なるほどな」
「しかも、商法第五百二十二条は削除されるんです」
相馬先輩が眉を上げました。
「商事債権の五年はなくなるのか」
「独立した商事消滅時効の規定がなくなるんです」
私は頷きました。
「現代では、商事債権も原則として民法の新しい消滅時効制度で考えることになります」
ただし。
ここも注意。
改正法施行前の債権には、経過措置によって旧法が適用される場合があります。
昔の貸金だからといって、すべて新しい民法の期間に置き換わるわけではありません。
「だから」
私は言いました。
「事件がいつ発生したかを確認することが、すごく大事なんです」
「そうだな」
「昭和の事件には昭和の法律。令和の事件には、その時点で適用される法律」
相馬先輩が頷きました。
「お前、たまにはまともなこと言うな」
「たまにはって何ですか!」
でも。
これでようやく整理できました。
昭和六十三年。
商事法定利率、年六パーセント。
商事債権の消滅時効、原則五年。
令和。
商事法定利率の特則は廃止。
商事消滅時効の特則も廃止。
民法の一般的なルールへ統一。
「法律って、整理されていくんですね」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「社会が変われば、法律も変わる」
私は少し考えました。
商売。
金融。
取引。
昔と今では、その仕組みも規模も変わっています。
昔は、民事と商事で分けていた法定利率。
昔は、商事債権だけに置かれていた一般的な五年の時効。
それらが、民法の改正によって整理される。
制度を統一することで、ルールを分かりやすくする。
もちろん。
それで全ての例外がなくなるわけではありません。
でも。
なぜ法律が変わったのかを考えると、単なる暗記よりずっと理解しやすいのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が判例集を取り出しました。
「はい?」
「最後の問題だ」
「来ましたね!」
私は背筋を伸ばしました。
「昭和五十五年一月二十四日」
「……!」
昨日の電話。
貸金業者。
利息制限法。
払い過ぎた利息。
不当利得返還請求。
そして。
十年。
「これですね!」
「ああ」
相馬先輩が判例集を開きました。
「商人が金を貸した。借りた人が、利息制限法の制限を超える利息を支払った」
「はい」
「適切な元本充当計算をすると、元本は既に完済されていた。それでも余分に金を受け取っていた」
「はい」
「その払い過ぎた金を返せという請求の時効は、何年だ?」
私は答えました。
「十年です!」
「なぜだ?」
「……」
私は止まりました。
商人。
金銭消費貸借。
商売としての貸付け。
なのに。
返還請求権の時効は十年。
どうして?
「先輩」
「何だ」
「貸した側が商人なのに、返還請求権は商事債権じゃないんですか?」
「そこが問題なんだよ」
相馬先輩が頷きました。
私は判例集を見ました。
最高裁判所。
昭和五十五年一月二十四日判決。
利息制限法の制限を超えて支払われた利息や損害金についての不当利得返還請求権。
その消滅時効期間を、十年と判断した判例です。
「重要なのは」
相馬先輩が言いました。
「何を原因として生じた債権なのか、だ」
「……原因?」
「ああ」
貸金業者が金を貸した。
これは商行為に当たる場合があります。
その契約に基づく貸金債権については、商事債権としての性質が問題になる。
でも。
法律上の原因がないのに受け取ったお金を返す義務は?
「……民法の不当利得?」
「そうだ」
民法第七百三条。
法律上の原因なく他人の財産または労務によって利益を受け、そのために他人に損失を及ぼした者は、一定の範囲で返還義務を負う。
「つまり」
私は言いました。
「元の貸付けが商行為だったとしても、不当利得返還請求権そのものが、当然に商行為によって生じた債権になるわけではないんですね」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
そこです。
商行為から始まった取引。
でも、その後に発生した全ての請求権が、必ず商事債権になるわけではない。
何を根拠に請求しているのか。
法律上の性質は何か。
そこを見なければならないのです。
「だから、最高裁は旧民法の十年を適用したんですね!」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――最判昭和五十五年一月二十四日。
利息制限法の制限を超える支払によって生じた過払金の不当利得返還請求権。
旧商法第五百二十二条の五年ではなく、旧民法の十年。
「これ、試験でひっかけられそうですね」
「間違いなくな」
私は頷きました。
商人が関係している。
だから五年。
そんな単純な判断はできない。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「貸金業者が関わっているから、絶対に商事債権だという問題が出たら?」
「どうする」
「まず、何の債権かを確認します!」
「よし」
「貸金返還請求権なのか、不当利得返還請求権なのか!」
「そうだ」
「そこから適用される時効を考えます!」
相馬先輩が頷きました。
「ようやく分かったな」
私は嬉しくなりました。
でも。
もう一つ、気になることがありました。
「先輩」
「何だ」
「利息制限法を超えた利息って、支払った分が全部自動的に返ってくるんですか?」
「そんな単純じゃねえ」
「ですよね」
利息制限法の制限を超える利息等の支払いがあった場合。
まず、適法な利息や元本への充当関係を計算する必要があります。
そして。
元本が完済された後に、法律上の原因なく支払われた金額などについて、不当利得返還請求権が問題になる。
「だから、単に高い利息を払ったというだけで、直ちに全額が過払金になるわけではないんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
また一つ。
事件の見方が変わりました。
契約書に書かれた利率。
実際に払った金額。
支払った日。
元本への充当。
そして、返還請求権の発生。
数字と日付が、全部つながっている。
「商法って、計算問題みたいですね」
「金の話だからな」
「でも、計算を間違えると大変です」
「だから、正確にやるんだ」
私は笑いました。
昨日の源三さんの事件でも、数字が決定的でした。
百万円。
年六パーセント。
五年。
そして、あとわずかな日数。
法律の世界では。
たった一つの数字が、依頼人の人生を左右することがあるのです。
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私は、ここまでのノートを見直しました。
商法第五百十三条。
利息請求権。
商法第五百十四条。
旧商事法定利率。
商法第五百二十二条。
旧商事消滅時効。
旧民法第百四十七条。
時効の中断。
旧民法第百五十三条。
催告。
そして。
最高裁昭和五十五年一月二十四日判決。
「……多い」
私は呟きました。
相馬先輩が笑いました。
「何がだ」
「条文番号が多いです」
「法律だからな」
「しかも改正で削除される条文まであります!」
「だったら今の時代の六法をちゃんと読め」
「はい……」
私は深く息を吸いました。
でも。
昨日の事件を思い出すと、少しずつ整理できます。
藤田源三さん。
五年間返ってこなかった百万円。
村瀬社長。
利息の約束がないことを理由に支払いを拒んだ。
さらに。
商事消滅時効の五年が迫っていることを利用して、逃げ切ろうとした。
でも。
商人間の金銭消費貸借には、法定利息の請求権がある。
商事法定利率は年六パーセント。
そして、時効が迫っているからこそ、催告と必要な法的手続きの準備が重要だった。
最終的には。
借用書。
振込控え。
帳簿。
内容証明。
債務承認書。
それらが、源三さんの権利を守るために役立った。
「所長」
「何だ」
「今日の確認問題、お願いします!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「いいだろう」
私は背筋を伸ばしました。
「商人間で金銭消費貸借をした。利息の特約がない。利息を請求できるか」
「できます! 商法第五百十三条です!」
「昭和六十三年の商事法定利率は?」
「年六分、六パーセントです!」
「当時の民事法定利率は?」
「年五パーセントです!」
「商人が営業の範囲内で他人のために金銭を立て替えた場合は?」
「立替えの日以後の法定利息を請求できます!」
所長が頷きました。
「旧商事債権の消滅時効は?」
「原則五年です!」
「一般の民事債権は?」
「旧民法では原則十年です!」
「内容証明で催告すれば、それだけで時効が確実に中断するか」
「いいえ! 旧民法では、催告後六か月以内に裁判上の請求など、必要な手続きが求められます!」
「債務者が債務を承認した場合は?」
「時効の中断が問題になります!」
所長が頷きました。
「では、最後だ」
「はい!」
「貸金業者が利息制限法を超えて受け取った利息等について、過払金返還請求権が生じた。その消滅時効は、昭和五十五年の最高裁判例では何年か」
「十年です!」
「なぜだ」
「不当利得返還請求権だからです! 元の貸付けが商行為でも、その返還請求権を当然に商事債権とは扱わないからです!」
所長は頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
「やった!」
商事債権の法定利息。
消滅時効。
時代による法改正。
そして、過払金返還請求権の判例。
全部、つながりました。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい!」
「昭和六十三年の商法第五百十四条は?」
「商事法定利率、年六分!」
「令和では?」
「削除されています!」
「旧商法第五百二十二条は?」
「商事債権の消滅時効、原則五年!」
「令和では?」
「削除されています!」
「じゃあ現代の民法第百六十六条は?」
「権利を行使できることを知った時から五年、権利を行使できる時から十年です!」
相馬先輩が笑いました。
「よし」
私は胸を張りました。
「どうですか!」
「まあ、合格だな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
でも。
今回は、少し嬉しかったです。
現代の法律を知っているだけでは、昭和の事件は解決できない。
昭和の条文を暗記しているだけでも、足りない。
何が変わったのか。
何が変わらなかったのか。
なぜ、その制度があるのか。
そこまで理解して、初めて法律を使えるのです。
私はノートの最後のページを開きました。
今日の一行。
何を書こう。
少し考えました。
源三さんの顔を思い出します。
百万円。
五年間の我慢。
ようやく戻ってきたお金。
そして。
また商売を続けられるという、あの笑顔。
私は鉛筆を握りました。
ゆっくり。
丁寧に。
――商人間の貸金は特約なしでも法定利息。昭和は年六分・商事時効五年。ただし、債権の性質と時効の中断を見落とすな。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「ええっ!?」
「一行に詰め込みすぎだ」
「大事なことが多いんです!」
「だったら覚えろ」
「覚えるために書いてるんです!」
相馬先輩が笑いました。
片桐所長も、ほんの少し口元を緩めました。
私はノートを見つめました。
商法。
商人。
利息。
消滅時効。
どれも硬い言葉です。
でも。
その向こうには。
真面目に商売を続けてきた人がいる。
困っている取引先を助けようとした人がいる。
約束を信じて待ち続けた人がいる。
そして。
その信頼を裏切って、法律の隙間から逃げようとする人もいる。
商法は。
そんな商売の世界を、ルールによって支えている。
金を貸した人を守る。
取引を安定させる。
古い債権をいつまでも放置しないようにする。
そして。
法律上の原因なく受け取ったお金については、正しい返還の仕組みを考える。
全部。
人が安心して取引するための制度なのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会は終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、そこの帳簿を整理しろ」
「え?」
「昨日の事件の資料だ」
「はい」
「借用書の控え、振込記録、通知書、債務承認書。全部、順番に揃えとけ」
私は頷きました。
「分かりました!」
そして、少し考えました。
「先輩」
「何だ」
「私、今日ずっと勉強会をしていましたよね」
「ああ」
「しかも、かなり専門的な知識を身につけました」
「そうだな」
「ということは……」
私は笑顔になりました。
「勉強した時間について、報酬を請求できませんか?」
相馬先輩が、ぴたりと止まりました。
「……は?」
「商法第五百十二条!」
私は勢いよく六法を開きました。
「商人が営業の範囲内で他人のために行為をしたときは、相当な報酬を請求できる!」
「お前な」
「今日の勉強会、所長のためにもなってますよね!」
「おい」
「ということは!」
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい!」
「お前は今、商人として営業しているのか」
「……」
「見習いとして勉強しているんじゃないのか」
「……はい」
「その勉強会が、誰のための行為なのかも考えろ」
「……はい」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな!」
「うう……!」
「条文だけ見て、自分に都合よく当てはめるな」
「分かってます!」
「本当に分かってるか?」
「今、分かりました!」
私は帳簿を抱えました。
なるほど。
利息がほしいから、商法第五百十三条。
報酬がほしいから、商法第五百十二条。
そんな使い方はできません。
法律には、必ず要件があります。
誰が。
どんな立場で。
何をしたのか。
それを確かめなければ、条文を正しく使えない。
……今日も、最後まで勉強になりました。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「じゃあ、私が先輩に百円貸したら、利息は?」
「……は?」
「商人間じゃないから、原則として特約がなければ無利息ですよね!」
「そうだな」
「じゃあ、特約で年六パーセントにしたら?」
「契約内容や適用法令を確認する必要があるな」
「じゃあ、返済期限を過ぎたら?」
「遅延損害金の問題だ」
「じゃあ、五年間返さなかったら?」
「時効の起算点と適用される法律を調べろ!」
「じゃあ、十年間なら?」
「こはる!」
「はい!」
「俺に百円を貸す前に、帳簿を片付けろ!」
「……!」
私は口を尖らせました。
「先輩、百円くらい借りてくれてもいいじゃないですか」
「借りる理由がねえだろ」
「利息の勉強になります!」
「人を教材にするな!」
私は笑いました。
窓の外。
夕暮れの商店街に、明かりが灯り始めています。
藤田金物店の看板も、きっと灯っているのでしょう。
戻ってきた百万円で。
新しい商品を仕入れて。
明日も店を開ける。
その当たり前の日常を取り戻すために。
商法第五百十三条があり。
商事法定利率の規定があり。
消滅時効の制度があり。
そして、債権を守るための手続きがあった。
私はノートを閉じました。
最後の一行を、もう一度だけ読みます。
――商人間の貸金は特約なしでも法定利息。昭和は年六分・商事時効五年。ただし、債権の性質と時効の中断を見落とすな。
よし。
覚えました。
今度こそ。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「帳簿は終わったか!」
「今、時効について復習してました!」
「復習は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「時効って、時間が経つと大変なんですよね!」
「そうだ!」
「じゃあ、帳簿整理も五年放置したら……」
「放置するな!」
「ですよね!」
……。
なるほど。
時効という制度は、古い債権を整理するためのものですが。
残念ながら。
私の帳簿整理の仕事は、五年間放置したからといって、自動的になくなるわけではないようです。
商法は。
今日も、私に都合よくはできていませんでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




