[商法・商事債権の法定利息と消滅時効]現場編 「利息の約束なんかしてねえよ」の嘘。年六分の商事法定利率と、五年の時効を狙った悪徳社長の誤算
お金を貸したら、返してもらえる。
当たり前の話です。
でも。
そのお金に利息がつくかどうか。
そして。
いつまで返してもらう権利が残っているのか。
この二つを間違えると。
百万円の貸し借りが、ある日突然、取り返しのつかない争いに変わることがあります。
しかも。
相手が商売人だった場合。
「利息の約束なんかしていない」
そんな言い訳が通用しないこともあるのです。
昭和六十三年。
十月二十日。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、二つの数字に頭を抱えることになります。
六パーセント。
そして。
五年。
片方は、お金を貸した人を守る数字。
もう片方は。
のんびりしている債権者を、容赦なく切り捨てる数字でした。
「百万円、返してもらえないんです」
朝一番。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
五十八歳。
名前は、藤田源三さん。
駅前商店街で、藤田金物店を経営しています。
昭和の町には、こういう店がまだたくさんあります。
釘。
金槌。
のこぎり。
ペンキ。
大工道具。
何でも揃う、小さな金物店。
源三さんは、その店を三十年以上続けてきたそうです。
「百万円ですか」
私は相談票に書きました。
「商品代金の未払いですか?」
「いや。貸した金です」
「お金を?」
「五年前にな」
五年前。
私は鉛筆を止めました。
「……いつですか?」
「昭和五十八年の十月だ」
現在は昭和六十三年十月。
ちょうど五年前です。
嫌な予感がしました。
「誰に貸したんですか?」
「東海建材株式会社の社長だ」
源三さんが苦々しい顔をしました。
「村瀬剛三。昔からの知り合いでな」
東海建材株式会社。
町の建設業者に、木材や建築資材を卸している会社です。
当時、資金繰りが苦しくなり、仕入先への支払いができなくなった。
そこで村瀬社長が、源三さんの金物店を訪ねてきた。
『頼む。会社が潰れそうなんだ』
『百万円だけ貸してくれ』
『必ず返す』
源三さんは迷いました。
百万円。
昭和六十三年でも、大金です。
小さな金物店にとっては、簡単に動かせる額ではありません。
それでも。
昔からの付き合い。
互いに商売を続けてきた仲間。
困ったときは、お互いさま。
そう思って、貸したのだそうです。
「借用書はありますか?」
「ある」
源三さんが茶封筒を取り出しました。
中から、一枚の紙。
私は広げました。
――金銭借用証書。
――金額 金壱百萬円也。
――借主 東海建材株式会社。
――右金員を借り受け、昭和五十八年十月三十一日限り返済する。
――昭和五十八年十月一日。
――東海建材株式会社 代表取締役 村瀬剛三。
社印。
代表者印。
……。
「返済期限、同じ月だったんですね」
「ああ。一か月だけ貸してくれと言われた」
「でも、返ってこなかった」
「そうだ」
源三さんは俯きました。
「何度も頼んだんだ。だが、もう少し待ってくれと言われてな」
「返済は一度も?」
「一円も」
「その後、借金を認める書面は?」
「……ない」
私は眉をひそめました。
「手紙とか、支払約束書とか」
「ないんだ」
源三さんは拳を握りました。
「それで先週、もう待てないと思って会社へ行ったんだ」
「はい」
「そしたら村瀬が笑ってな」
源三さんの声が震えました。
「『利息なんか払う約束はしてねえ』って」
「……利息?」
「それだけじゃない」
源三さんは唇を噛みました。
「『五年も前の金だ。もうすぐ法律で払わなくてよくなる』って言いやがった」
私は顔を上げました。
利息の約束がない。
五年前の貸金。
会社同士の取引。
そして。
もうすぐ払わなくてよくなる。
……待ってください。
これ。
かなり危険な話では?
「まず、利息ですよね!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「商法第五百十三条です!」
源三さんが驚きました。
「商法?」
「はい!」
私は六法を開きました。
「商人同士がお金を貸し借りした場合、利息の約束がなくても、法定利息を請求できるんです!」
「本当かい?」
「本当です!」
よし。
商法。
今回は知っています。
民法の金銭消費貸借では、原則として、特約がなければ利息は発生しません。
でも。
商人間の金銭消費貸借は別。
商法第五百十三条。
利息の約束がなくても、法定利息を請求できる。
そして、現代の法定利率は――。
「年三パーセントです!」
私は言いました。
「……三?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「はい?」
「今、何パーセントって言った?」
「三パーセントです」
「誰が?」
「私が」
「そうじゃねえ」
先輩は新聞を畳みました。
「どこの六法を読んでる」
「え?」
「商法第五百十四条を開け」
「五百十四条?」
私は首をかしげました。
商法第五百十四条。
現代の六法では、削除されているはずです。
……。
あ。
しまった。
またです。
またやってしまいました。
未来の法律。
私は恐る恐る、昭和六十三年の商法を開きました。
そこには。
しっかりと条文がありました。
――商行為によって生じた債務に関しては、法定利率は年六分とする。
「……六分?」
相馬先輩が頷きます。
「そうだ」
「六パーセント!?」
「当たり前だろ」
私は固まりました。
六パーセント。
現代の法定利率の初期値である三パーセントとは、倍の差です。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「何だ」
「商法って、昔はそんなに高かったんですか!?」
「商取引だからな」
先輩は平然と言いました。
「商売で動かす金には、商売の時間がある」
「商売の時間?」
「ああ」
相馬先輩が源三さんを見ました。
「源三さん。百万円を五年間、自由に使えなかったんですよね」
「ああ」
「その金があれば、商品の仕入れもできた」
「そうだ」
「店の設備だって直せた」
「……ああ」
「商人にとって、金を使えない時間には意味がある」
私は黙りました。
なるほど。
お金。
単なる紙幣ではない。
商売を続けるための、血液みたいなものです。
「だから昔の商法には、民法とは別の商事法定利率があるんですね」
「そうだ」
先輩が言いました。
「もっとも、利息を取れることと、いつからどんな計算で請求できるかは、ちゃんと分けろよ」
「はい!」
私は借用書を見直しました。
貸付日。
昭和五十八年十月一日。
返済期限。
同年十月三十一日。
元本。
百万円。
商人間の金銭消費貸借。
約定利息なし。
「つまり」
私は顔を上げました。
「村瀬社長の『利息の約束をしていないから一円も払わない』という主張は、通らない可能性が高いんですね!」
「高いというより、まず第五百十三条を検討すべき事案だな」
相馬先輩は頷きました。
「ただし、そもそも商人間の貸付けなのか、誰が貸主なのか、その証拠を固めろ」
「はい!」
私は相談票を見直しました。
藤田金物店。
東海建材株式会社。
互いに商売を営んでいる。
貸主は藤田源三さん個人の名義ですが、金物店の営業資金から貸し付けられていました。
帳簿にも、営業上の貸付金として記録されています。
「源三さん。このお金は、お店のお金から出したんですね」
「ああ。仕入れ用に取ってあった金だ」
「帳簿はありますか?」
「もちろん」
「振込記録は?」
「銀行の控えがある」
よし。
証拠もある。
私は少し嬉しくなりました。
でも。
そのとき。
片桐所長が、静かに口を開きました。
「こはる」
「はい」
「利息の話は、あとだ」
「え?」
「日付を見ろ」
私は借用書を見ました。
昭和五十八年十月三十一日。
返済期限。
現在は、昭和六十三年十月二十日。
……。
五年前。
つまり。
「あと十一日……」
私の声が小さくなりました。
所長が頷きました。
「商法第五百二十二条だ」
私は慌てて条文を開きました。
商事消滅時効。
商行為によって生じた債権。
原則として。
五年。
……!
「五年!?」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
「じゃあ、もうすぐ……!」
「時効が問題になる」
私は借用書を握りしめました。
百万円。
利息。
五年間の我慢。
それが。
あとわずかな日数で、時効という壁にぶつかろうとしている。
「でも、民法の債権って、昔は十年じゃありませんでした?」
「そうだ」
「だったら!」
「商事債権には、商法の特則がある」
先輩は短く言いました。
「今は五年だ」
……。
そうでした。
現代の民法では、原則として、権利を行使できることを知った時から五年。
権利を行使できる時から十年。
でも。
昭和六十三年には、その改正民法の規定はありません。
旧民法の一般債権の原則は十年。
商行為によって生じた債権は、旧商法第五百二十二条で原則五年。
しかも、もっと短い時効期間が適用される債権もある。
……危なかった。
現代の知識で、
「まだ十年あります!」
なんて言っていたら。
源三さんの大切なお金を、失わせかねなかったのです。
「所長」
「何だ」
「急がないといけません」
「そうだ」
所長は借用書を机に置きました。
「まず、時効の中断事由がないか調べる」
「はい」
「そのうえで、期限までの手当てを考える」
相馬先輩が私を見ました。
「こはる」
「はい!」
「六パーセントも大事だ。だがな」
「はい」
「請求権そのものが時効にかかるなら、利息を計算して喜んでる場合じゃねえぞ」
私は大きく頷きました。
商法。
貸した人を守る法律。
でも。
貸した人を、いつまでも待ってくれる法律ではないのです。
翌日。
私たちは、源三さんに同行して東海建材株式会社を訪れました。
町の外れ。
大きな資材置場。
積み上げられた木材。
フォークリフト。
事務所の奥には、革張りの椅子。
そこに。
村瀬剛三社長が座っていました。
五十代半ば。
派手なネクタイ。
金色の腕時計。
いかにも景気のいい社長さんです。
「何だ、源三」
村瀬社長は鼻で笑いました。
「また金の話か?」
源三さんが頭を下げました。
「村瀬さん。もう限界なんだ。返してほしい」
「しつこいなあ」
社長は机に足を組みました。
「五年前の話だろ」
「貸した金だ」
「分かってるよ」
私は思わず顔を上げました。
……今。
分かってるって言いました?
「ただな」
村瀬社長は笑いました。
「利息なんか払わねえぞ」
「なぜですか?」
私が聞くと、社長はこちらを見ました。
「誰だ、お前」
「片桐行政書士事務所の朝比奈こはるです」
「行政書士?」
社長は吹き出しました。
「何だ。弁護士でも連れてきたのかと思ったら」
……。
またですか。
行政書士を見て笑う経営者。
どうしてこの町には、こんなに多いんでしょう。
「借用書には、利息なんか書いてねえんだよ」
村瀬社長が言いました。
「書いてねえものを、あとから払えってのはおかしいだろ」
「商人間の金銭消費貸借については、商法第五百十三条があります」
私は言いました。
社長が眉を上げました。
「何?」
「商人同士でお金を貸し借りした場合、特約がなくても法定利息を請求できる規定です」
「……へえ」
「そして昭和六十三年の商事法定利率は、年六分です」
社長の笑みが、少し消えました。
「六分?」
「年六パーセントです」
「そんな馬鹿な」
「商法第五百十四条です」
私は六法を開きました。
村瀬社長は身を乗り出しました。
そして。
「ふん」
と鼻を鳴らしました。
「だったら払わねえよ」
「え?」
「利息がつこうが、つくまいが関係ねえ」
社長は腕時計を見ました。
「もうすぐ五年だ」
……。
私は息を呑みました。
「商売の借金は五年で時効になるんだろ?」
「……」
「俺だって、商法くらい知ってるんだよ」
社長が笑いました。
「今日が何日か、分かってるか?」
十月二十一日。
返済期限の五年後まで、あと十日。
「だからな」
村瀬社長は源三さんを見ました。
「もう少し待ってくれ」
その言葉。
昔は、困っている友人のお願いだったのでしょう。
でも今は。
まったく違う意味に聞こえました。
もう少し待ってくれ。
時効になるまで。
あと十日。
逃げ切るまで。
……!
「村瀬さん」
源三さんが震える声で言いました。
「あんた、最初からそのつもりだったのか」
「何のことだ?」
「五年待たせれば、払わなくてよくなるって」
「法律ってのは、そういうもんだろ」
村瀬社長は笑いました。
「俺が決めた法律じゃねえ」
私は拳を握りました。
ひどい。
ひどすぎます。
源三さんは、会社を助けようとして百万円を貸した。
自分の商売を犠牲にして。
五年間、待ち続けた。
それなのに。
相手は時効を狙っていた。
「先輩!」
私は相馬先輩を見ました。
でも。
先輩は静かでした。
「村瀬社長」
「何だ」
「今のご発言は、借入れ自体は認めるという趣旨ですか」
「だから、借りたのは昔の話だって言ってるだろ」
「分かりました」
先輩は手帳を閉じました。
「本日は、事実関係を確認できました」
「は?」
「失礼します」
それだけでした。
私は驚きました。
「先輩!?」
「帰るぞ」
「でも!」
「いいから」
私たちは会社を出ました。
「何で何も言い返さなかったんですか!」
帰り道。
私は相馬先輩に詰め寄りました。
「あの社長、完全に時効を狙ってますよ!」
「ああ」
「だったら!」
「こはる」
「はい」
「俺たちは、依頼人に代わって法律紛争の示談交渉をする立場じゃねえ」
「……はい」
「相手の言い分を聞くのと、代理人として返済条件を交渉するのは別だ」
私は黙りました。
「それにな」
先輩は振り返りました。
「今、あいつを怒鳴りつけて何になる」
「……何にもなりません」
「だろ」
「でも、悔しいです」
「俺だって悔しいさ」
先輩は煙草を取り出しました。
「だから、紙で詰めるんだ」
「紙?」
「事実と法律を、一行ずつ並べる」
先輩は煙草に火をつけました。
「感情で殴り合ったって、借金は返ってこねえ」
「はい」
「相手が逃げられない事実を、記録に残す」
私は大きく頷きました。
「内容証明ですね!」
「そうだ」
「でも先輩」
「何だ」
「内容証明を出せば、時効は止まりますよね?」
相馬先輩が、ぴたりと足を止めました。
「……こはる」
「はい?」
「お前、今、何て言った?」
「内容証明で請求すれば、時効が中断するんじゃ……」
「半分違う」
「え?」
先輩が、低い声で言いました。
「内容証明を一通送っただけで、時効を永久に止められるわけじゃねえ」
……!
「催告は、六か月以内に裁判上の請求など、法律が定める手続きを取らなければ、中断の効力を生じない」
「……六か月」
「ただ手紙を何度も出せばいいって話でもねえ」
私は固まりました。
危なかった。
本当に危なかった。
内容証明。
強そうな名前です。
郵便局が証明してくれる。
相手も驚く。
でも。
それだけで、時効問題がすべて解決するわけではない。
「所長に報告して、弁護士への引継ぎも急ぐぞ」
先輩が言いました。
「はい!」
「それから、今日の社長の発言も正確に記録しろ。あれが承認に当たるか、後で争いになるかもしれねえ」
「口頭で認めても、証拠が必要ですもんね」
「そうだ」
私は手帳を開きました。
五年。
六か月。
承認。
裁判上の請求。
……。
商法の時効。
これは、ただ五年を数えるだけの問題ではありません。
どこから数えるのか。
途中で何が起きたのか。
何を証拠として残したのか。
全部が、人の財産を左右するのです。
事務所に戻ると。
片桐所長は、源三さんが持参した帳簿を調べていました。
「こはる」
「はい」
「これを見ろ」
所長が差し出したのは、昭和五十八年の出納帳。
十月一日の欄。
――東海建材株式会社貸付金 百万円。
銀行の振込控えもありました。
借用書と金額が一致しています。
「これなら、貸付けの事実は裏付けられますね」
「ああ」
所長が頷きました。
「さらに、今の発言も記録しておく」
「はい」
「だが、時効中断をその発言だけに頼るな」
「……はい」
相馬先輩も机に着きました。
「相手は後から言い逃れするだろうな」
「そうですね」
「『借りたことを認めたんじゃない。昔の話をしただけだ』とかな」
……言いそう。
すごく言いそうです。
「だから、確実な手続きが必要なんですね」
「そうだ」
片桐所長は、もう一枚の紙を取り出しました。
源三さんの申出をもとに作成した、返済を求める通知書の原案です。
「こはる。起案しろ」
「はい!」
私は机に向かいました。
宛先。
東海建材株式会社。
代表取締役 村瀬剛三。
差出人。
藤田源三。
件名。
――貸付金返還請求及び法定利息請求通知書。
書き始めます。
第一。
貸付けの事実。
第二。
返済期限。
第三。
商法第五百十三条による利息請求権。
第四。
商法第五百十四条による年六分の法定利率。
第五。
未返済である事実。
第六。
返済を求める通知。
私は書き終えました。
「できました!」
所長が受け取ります。
赤鉛筆。
……出ました。
恐怖の赤鉛筆です。
「ここ」
「はい」
「『貸付日から現在まで、年六パーセントの利息が当然に発生する』」
「はい」
「請求できる利息の性質と期間を確認しろ」
「……はい」
「貸付けの利息と、弁済期後の遅延損害金を混同するな」
あ。
そうでした。
利息。
遅延損害金。
似ているようで、発生する根拠や期間の整理が必要です。
「返済期限までの利息と、返済期限後の金銭債務の不履行による損害金を分けるんですね」
「そうだ」
私は修正しました。
そして。
所長は、最後の一文に目を止めました。
「ここも直せ」
「はい?」
「『本通知により消滅時効は中断する』」
「……あっ」
私は額を押さえました。
また書いてしまいました。
「催告の効力には限界がある」
「はい……」
「相手への通知と、必要な法的手続きは別だ」
「はい!」
所長は静かに言いました。
「書面は、魔法じゃない」
私は鉛筆を止めました。
「魔法……」
「出せば必ず勝てると思うな」
「はい」
「何を証明でき、何を証明できないか。それを知って作れ」
私は頷きました。
内容証明郵便。
相手に送った文書の内容を証明する仕組み。
でも。
書かれた主張が、すべて真実だと証明されるわけではない。
裁判をしたのと同じ効果が生まれるわけでもない。
そして。
時効の問題も、手紙一枚で無条件に解決するわけではない。
「……怖いですね」
私が言うと、相馬先輩が笑いました。
「何がだ」
「法律を知ってるつもりになることです」
「やっと分かったか」
「ひどい!」
でも。
本当にそう思いました。
知っている条文。
知っている制度。
それだけでは足りない。
昭和の法律を。
昭和の手続きで。
正しく使わなければならないのです。
翌日。
完成した内容証明の控えが、机の上に置かれました。
私は読み上げました。
――貸付金返還請求及び法定利息請求通知書。
――通知人は、昭和五十八年十月一日、貴社に対し、金百万円を貸し付けた。
――右貸付金の弁済期は、昭和五十八年十月三十一日である。
――本件金銭消費貸借は、商人間における取引として、商法第五百十三条の適用を受けるものと考える。
――したがって、利息に関する明示の特約がないことのみを理由として、法定利息の支払義務を否定することはできない。
――また、本件商行為に関する法定利率については、商法第五百十四条に基づき、年六分を基準として算定する。
――通知人は、未払元本百万円並びに法定利息及び弁済期後の遅延損害金について、適法な範囲で支払を求める。
――本件貸付金については、銀行振込記録、借用証書及び出納帳等の資料を保存している。
――本通知到達後、速やかに通知人に対し書面で回答されたい。
――なお、任意の返済がなされない場合には、弁護士に相談のうえ、必要な法的措置を検討する。
私は息を吐きました。
「……できた」
相馬先輩が頷きました。
「余計な脅し文句がねえ」
「はい」
「相手の人格も罵倒してねえ」
「はい」
「でも、事実と法律は全部書いてある」
「はい!」
所長が言いました。
「大事なのは、相手に読ませることじゃない」
「え?」
「読んだあと、事実を否定できるかどうかだ」
私は書面を見ました。
借用書。
振込控え。
帳簿。
商法第五百十三条。
第五百十四条。
そして。
五年の時効が迫っている。
所長は、源三さんに確認しました。
「この内容で通知することをご希望ですか」
「ああ。頼む」
「分かりました」
正式な発送準備を進める一方で、片桐所長は提携する弁護士への相談を急ぐよう勧めました。
源三さんも了承しました。
期限が迫る以上、内容証明だけに頼るわけにはいきません。
そして。
内容証明郵便を発送して二日後。
意外なことが起こりました。
「所長!」
私は事務所の扉を開けて叫びました。
「東海建材の社長が来てます!」
片桐所長が顔を上げました。
「通してくれ」
「はい!」
入ってきたのは、村瀬剛三社長。
でも。
以前とは、様子が違いました。
顔が青い。
金色の腕時計は同じです。
派手なネクタイも同じ。
なのに。
あの余裕たっぷりの笑顔が、消えていました。
「あの……」
社長は椅子に座りました。
「藤田さんに、話があるんですが」
所長が答えました。
「ご本人に直接お伝えください」
「いや、その……」
村瀬社長は封筒を取り出しました。
「これを見ていただけますか」
中から出てきたのは、一枚の紙。
私は目を丸くしました。
――債務承認書。
……!
「社長、これは?」
「うちの顧問に相談したんです」
村瀬社長が、力なく笑いました。
「借用書を見せたら、貸金そのものは争いようがないって」
私は黙って聞きました。
「それに、利息の話も……」
「はい」
「商人同士なら、約束がなくても請求されることがあると」
社長は俯きました。
「知らなかったんです」
相馬先輩が、ぼそりと言いました。
「知らねえのに、あんなに威張ってたのか」
「先輩!」
私は小声で止めました。
でも。
気持ちは分かります。
「それと……」
村瀬社長は続けました。
「時効のことで、揉めるのも困るんです」
「なぜですか?」
「これから大きな取引があるんです」
社長が手を擦りました。
「銀行にも借入れの相談をしてまして……」
なるほど。
会社を経営する人にとって。
債務を踏み倒そうとして争いになることは、取引上の信用にも関わる。
まして。
借用書が残っている。
振込記録もある。
相手は弁護士への相談を進めている。
そして。
商法には、法定利息の規定まである。
「だったら」
社長は小さな声で言いました。
「元本百万円は返します」
私は思わず顔を上げました。
「本当ですか!」
「はい……」
「利息は?」
「それも、きちんと確認して支払います」
……!
やった!
と思った、そのとき。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「まだ終わっていない」
「……あ」
そうでした。
返すと言った。
それだけでは、足りません。
大切なのは。
実際に返済が行われること。
そして。
必要な事項が書面に残ることです。
所長は、村瀬社長が持参した債務承認書を確認しました。
そこには。
――東海建材株式会社は、藤田源三に対し、昭和五十八年十月一日付金銭消費貸借契約に基づく元本百万円の未払債務が存在することを認める。
と記載されていました。
代表取締役の署名。
会社の代表者印。
日付。
所長は静かに言いました。
「ご自身で、この内容を確認して作成されたのですね」
「はい」
「では、その書面は藤田さんに直接お渡しください」
村瀬社長は頷きました。
そして。
呼ばれていた源三さんに、深々と頭を下げたのです。
「……すまなかった」
源三さんは、何も言いませんでした。
「五年前、助けてもらったのに」
社長の声が震えました。
「会社が立ち直ったあとも、後回しにして……」
源三さんは、しばらく黙っていました。
それから。
「村瀬」
と呼びました。
「……何だ」
「俺はな」
源三さんは、ゆっくり言いました。
「あんたから、利息で儲けようと思ったわけじゃない」
「……」
「会社を潰してほしくなかったんだ」
村瀬社長は俯きました。
「昔は、よく一緒に商売の話をしたな」
「……ああ」
「いい町にしようって」
源三さんは、苦笑しました。
「でもな」
その声が、少し強くなりました。
「約束を守らなくていい理由には、ならねえんだよ」
村瀬社長は、何も言い返しませんでした。
その日のうちに、債務承認書は源三さんへ渡されました。
承認の対象となる債務と、その法律上の効果については、引き継いだ弁護士にも確認してもらうことになりました。
その後。
村瀬社長は、源三さんと直接、返済について話し合いました。
必要な法律上の確認は、弁護士が担当しました。
片桐事務所では、当事者が合意した内容をもとに、行政書士が取り扱える範囲で、事実確認書類の整理を手伝いました。
そして。
十一月の初め。
源三さんの金物店の口座に、百万円が振り込まれました。
法定利息と遅延損害金についても、弁護士が確認した計算に従って支払われました。
五年間。
返ってこなかったお金。
それが。
ようやく戻ってきたのです。
「本当に、ありがとうございました」
数日後。
源三さんが事務所を訪れました。
手には、紙袋。
中から出てきたのは。
新品の工具箱でした。
「これ、店で売ってるものだけど」
「え?」
「事務所で使ってくれ」
私は慌てました。
「そんな! いただけません!」
「いや、古い工具箱が壊れかけてるって聞いたからな」
相馬先輩が横から言いました。
「おい、こはる。あの事務所の棚、いつもぐらついてるだろ」
「あ、はい」
「直すのにちょうどいいな」
源三さんが笑いました。
「商売道具は、ちゃんと手入れしないと駄目だ」
私は工具箱を見ました。
金槌。
ねじ回し。
ペンチ。
小さなスパナ。
金物店の商品です。
源三さんが三十年以上、売り続けてきたもの。
それを仕入れるための百万円が、五年間、戻ってこなかった。
……。
「源三さん」
「何だい?」
「五年間、大変でしたね」
私が言うと。
源三さんは少し黙りました。
それから、笑いました。
「まあな」
「はい」
「でも、これでまた商売ができる」
私は、その言葉が嬉しくなりました。
そうです。
法律が守ったのは、ただのお金ではない。
百万円を使って。
商品を仕入れて。
お客さんに売って。
また次の商品を仕入れる。
そんな、小さな商売の繰り返し。
誰かが真面目に働き続けるための、時間そのものだったのです。
夕方。
事務所に戻った私は、机の上の六法を眺めていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「商法って、面白いですね」
「また始まった」
「だって!」
私はノートを開きました。
「商人同士なら、利息の約束がなくても法定利息を請求できる」
「そうだな」
「しかも昭和六十三年は、商事法定利率が年六パーセント!」
「ああ」
「でも、商事債権の消滅時効は原則五年!」
「そうだ」
「なんか、両極端じゃないですか?」
相馬先輩が首をかしげました。
「何がだ」
「利息では債権者を守ってるのに、時効では早く権利を失う可能性があるんですよ」
先輩は少し笑いました。
「商売だからな」
「商売だから?」
「ああ」
相馬先輩が窓の外を見ました。
「商売ってのは、金を動かしてなんぼだ」
「はい」
「金を貸せば、その時間には意味がある」
「はい」
「でも、取引の後始末を何十年も放っておいたら、商売が落ち着かねえ」
私は頷きました。
「だから、債権の処理も早くする必要がある」
「そういうことだ」
なるほど。
商法。
商売人を甘やかす法律ではありません。
むしろ。
商売をするなら、約束と権利をきちんと管理しろ。
そう求めているのかもしれません。
「でも先輩」
「何だ」
「未来では、これが変わるんですよ」
「……未来?」
しまった。
「いえ、あの、その……将来的な法改正の可能性として!」
「また妙なことを言い始めたな」
私は慌てて続けました。
「もし将来、民法の法定利率と商法の法定利率が統一されたら、どうなるんでしょう」
「さあな」
「商事債権だけの五年の時効も、民法と統一されたら……」
「それは、そのときの法律で考えろ」
……正論です。
でも。
私には分かります。
令和の時代。
商法第五百十四条の商事法定利率は廃止されます。
商法第五百二十二条の商事消滅時効も廃止されます。
法定利率は民法に統一され、改正時の初期値は年三パーセント。
消滅時効についても、民法の新しいルールで考えることになる。
ただし。
昭和六十三年のこの事件に、未来の法律を持ち込むことはできません。
今は。
年六分。
商事債権は原則五年。
それが、この町の商売人たちを取り巻く法律なのです。
「それにしても」
私はノートを閉じかけて、手を止めました。
「どうした」
相馬先輩が聞きました。
「先輩。もう一つ、不思議なことがあります」
「何だ」
「商法の時効が五年なら、商売に関係するお金の請求は、全部五年なんですか?」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「いい質問だ」
「褒めました!?」
「まだだ」
「何でですか!」
先輩は机の引き出しから、古い判例集を取り出しました。
「たとえばな」
「はい」
「貸金業者が、利息制限法の制限を超える利息を受け取っていたとする」
「はい」
「借りた奴が、払い過ぎた金を返せと請求したら?」
「それは……」
私は考えました。
貸金業者は商人。
お金の貸し借りも営業。
だったら。
「商事債権の五年?」
相馬先輩が首を振りました。
「違う」
「ええっ!?」
「最高裁の判例がある」
先輩は判例集を開きました。
昭和五十五年一月二十四日。
利息制限法の制限を超えて支払われた利息等について、不当利得返還請求権の商行為性が問題となった事件。
その返還請求権について、商事債権の五年ではなく、民法の十年の消滅時効が適用されるとした判例です。
「……十年!?」
私は叫びました。
「さっき五年って!」
「商行為によって生じた債権なら、原則五年だ」
「はい」
「だが、商売人が関係している請求だからって、何でも商事債権になるわけじゃねえ」
「……!」
私は固まりました。
なるほど。
債権の名前だけでは駄目。
相手が商人というだけでも駄目。
その債権が、何を原因として発生したものなのか。
そこまで見なければならない。
「先輩」
「何だ」
「商法って、五年と十年を間違えたら大変ですね」
「ああ」
「利息も六パーセントと三パーセントで違いますし」
「そうだ」
「もう、数字だらけじゃないですか!」
相馬先輩が笑いました。
「だから試験に出るんだろ」
「うう……!」
嫌なことを言います。
でも。
確かにそうです。
現場で百万円を守るために必要だった知識。
それが、そのまま試験の論点になっている。
暗記するだけだった数字に。
ちゃんと意味があったのです。
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「商人間の金銭消費貸借は、利息の約束がなくても法定利息を請求できることです」
「うん」
「昭和六十三年の商事法定利率は、年六分」
「そうだ」
「商行為によって生じた債権の消滅時効は、原則五年」
「うん」
「でも、商人が関係する債権なら全部五年というわけではありません」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートの最後に、一行を書きました。
――商人の金には利息がつく。だが、権利を眠らせれば時効が来る。
今日の教訓。
これなら忘れません。
……たぶん。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「六パーセントで百万円を一年貸したら、利息はいくらだ?」
「六万円です!」
「じゃあ五年なら?」
「単純に五年分なら三十万円です!」
「よし」
私は得意になりました。
「簡単ですね!」
「じゃあ、三か月なら?」
「一万五千円です!」
「よし」
「先輩、もっと難しい問題でもいいですよ!」
相馬先輩が、にやりとしました。
「じゃあ、さっきの判例だ」
「はい?」
「利息制限法を超えた利息の返還請求権は、なぜ商事債権の五年じゃねえんだ?」
「……」
「ほら」
「……」
「答えろ」
「……先輩」
「何だ」
「それ、今日の範囲を超えてません?」
「超えてねえよ」
「ずるい!」
「試験は、そういうところを聞くんだよ」
私は机に突っ伏しました。
商法。
やっぱり難しい。
でも。
今日、ひとつだけ分かったことがあります。
お金の貸し借りには、数字がついて回る。
元本。
利息。
利率。
返済期限。
消滅時効。
どれも、試験のテキストでは無機質な言葉です。
でも。
その数字の向こうには、人がいる。
百万円を貸した人。
五年間、返済を待った人。
信じていた相手に裏切られた人。
そして。
もう一度、商売を続けたいと願う人。
商法は。
そんな人たちの取引を、感情ではなく、決められたルールで支えているのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「私、将来お金を貸すときは、絶対に借用書を作ります!」
「当たり前だ!」
「返済期限も書きます!」
「当たり前だ!」
「利息も決めます!」
「当たり前だ!」
「それから、五年間放置しません!」
「最初から放置すんな!」
……。
なるほど。
法律は、困ったときに使うもの。
でも。
困る前に使えたら、もっといい。
それもまた、今日の教訓なのかもしれません。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
女性の声です。
『お金を貸した相手が、利息を払い過ぎたって言い出しまして……』
私は顔を上げました。
「利息を?」
『はい。うちは貸金業をしているんですが、昔受け取った利息を返せって……』
……。
来ました。
さっきの話です。
利息制限法。
不当利得返還請求権。
商事債権の五年。
民事債権の十年。
私はゆっくり、相馬先輩を見ました。
「先輩」
「何だ」
「次の相談、さっきの判例です」
「そうか」
「昭和五十五年一月二十四日です」
「おう」
「これ、十年なんですよね?」
「結論だけ言うな」
「……はい?」
「何の債権か確認しろ」
私は、はっとしました。
そうでした。
まず。
どんな取引だったのか。
何を根拠に返還を求めているのか。
いつ支払われたお金なのか。
そこからです。
「すみません!」
私は受話器を握り直しました。
「まず、どのような契約で、いつ、いくらの利息を受け取ったのか、詳しく教えていただけますか?」
昭和六十三年。
商法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
商人だから。
利息の約束がないから。
五年前だから。
そんな単純な理由だけで、債権の運命を決めてはいけない。
そして。
私は今日、ひとつだけ確信しました。
「利息なんか払わねえ」
「五年経てば逃げ切れる」
そんなことを自信満々に言う経営者ほど。
商法を開いた瞬間。
顔色が変わることがあります。
ただし。
こちらが条文を間違えなければ、の話ですが。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、相談票を取れ!」
「はいっ!」
私の商法の勉強は、まだまだ続きそうです。
そして次からは。
利息を計算する前に。
まず、返済期限を確認することにします。
だって。
どれほど高い利息が認められるとしても。
時効という時計は。
誰かの都合で、勝手に止まってはくれないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




