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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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588/701

[商法・商人の報酬請求権]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 報酬を約束していないことと、報酬を払わなくていいことは、同じではありません。


 契約書がない。


 金額を決めていない。


 だから、タダ働き。


 そんな理屈が通用するなら。


 商売をしている人は、安心して誰かの仕事を引き受けられなくなってしまいます。


 でも。


 商法には、その理不尽を防ぐための条文があります。


 商法第五百十二条。


 商人の報酬請求権。


 たった一文。


 けれど、その一文が。


 三日三晩、油まみれになって働いた職人の生活を守ったのです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かっていました。


 目の前には、いつものノート。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……三十八万五千円」


 私は、ぽつりと呟きました。


「何だ、こはる」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「昨日の村瀬さんの事件です」


「ああ」


「最初は、一円も払わないって言われていたんですよね」


「そうだな」


「でも最後は、三十八万五千円が全部支払われた」


「そうだ」


「しかも、決め手になったのが……」


 私は六法を開きました。


 商法第五百十二条。


「これなんですよね!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 私は昨日までの出来事を思い返しました。


 村瀬機械修理工業。


 経営者の村瀬源一さん。


 三人だけの小さな町工場。


 東海精密工業の大型プレス機が故障し、夜中に助けを求められた。


 村瀬さんは息子と職人を連れて駆けつけた。


 三日間。


 ほとんど休まずに修理を続け、機械を復旧させた。


 ところが。


 修理代三十八万五千円を請求すると、東海精密工業の大門社長は言ったのです。


 ――報酬を払うなんて約束していない。


 ――金額も決めていない。


 ――だから、支払義務はない。


「今思い出しても腹が立ちます!」


 私は鉛筆を握りしめました。


「落ち着け」


「だって、ひどいじゃないですか!」


「ひどいな」


「先輩もそう思いますよね!」


「ああ。だがな」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「今日は怒る日じゃねえ。覚える日だろ」


「……そうでした」


 法理編。


 現場で使った法律を、今度は頭の中に叩き込む時間です。


 私はノートの最初に、大きく書きました。


 ――商法第五百十二条。


 そして。


「先輩!」


「何だ」


「今日はこの条文を、絶対に忘れないようにします!」


「昨日も似たようなことを言ってたな」


「昨日は実務! 今日は試験です!」


「面倒な奴だな」


 そこへ。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 本日も強制勉強会、開催です。


「まず、条文を読みます!」


 私は六法を開きました。


 商法第五百十二条。


 ――商人がその営業の範囲内において他人のために行為をしたときは、相当な報酬を請求することができる。


 読み終えて、私は顔を上げました。


「短いですね」


「ああ」


「これだけですか?」


「これだけだ」


「でも、この一文が三十八万五千円を守ったんですよね」


「そうだ」


 私は鉛筆で、条文を四つに分けました。


 商人が。


 その営業の範囲内で。


 他人のために行為をしたとき。


 相当な報酬を請求できる。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「大事な言葉が、全部入っていますね」


「当然だ」


 相馬先輩が言いました。


「一つずつ、村瀬の事件に当てはめてみろ」


「はい!」


 私はノートの中央に、村瀬さんの名前を書きました。


 ――村瀬源一。


 ――機械修理業。


 ――三日間のプレス機修理。


 ――請求額三十八万五千円。


 そして。


「まず、商人です!」


 私は鉛筆を掲げました。


「村瀬さんは、商人に当たります!」


「どうしてだ」


「機械修理を、仕事として営んでいるからです!」


「もう少し正確に言え」


「……はい」


 私は六法をめくりました。


 商法。


 商人に関する規定。


 そして、商行為に関する規定。


 普段、商売という言葉は気軽に使います。


 八百屋さん。


 魚屋さん。


 運送屋さん。


 機械修理屋さん。


 でも。


 商法では、誰が商人に当たるのかという問題があります。


「村瀬さんは、自己の名で機械修理の仕事を引き受け、それを反復継続して営んでいます」


「そうだ」


「営利目的で、事業として行っている」


「うん」


「だから、商人として扱われるわけですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 ――商人とは、会社の社長だけではない。


 ここは重要です。


 村瀬さんは、株式会社の代表取締役ではありません。


 個人事業主です。


 でも。


 個人事業主だからといって、商法の世界から外れるわけではありません。


「つまり先輩」


「何だ」


「大きな株式会社でも、小さな町工場でも、商法上の商人になり得るんですね」


「ああ」


「会社の規模は関係ないんですね」


「商人に当たるかどうかを、会社の大きさだけで決めるなってことだ」


 私は大きく頷きました。


 村瀬さんの工場。


 従業員三人。


 小さな建物。


 古い機械。


 でも。


 商法は、その工場にも適用される。


「いいですね……」


「何がだ」


「商法って、大企業のためだけの法律じゃないんですね」


 相馬先輩は笑いました。


「当たり前だろ。小さな商売だって商売だ」


 私は、その言葉に丸をつけました。


「次は、営業の範囲内です!」


 私はノートをめくりました。


 ――その営業の範囲内。


「今回、村瀬さんは機械修理業者です」


「ああ」


「頼まれた仕事も、機械の修理です」


「そうだ」


「だから、営業の範囲内!」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、問題だ」


「はい!」


「村瀬が休日に、近所のおばあさんの家の電球を交換してやった」


「はい」


「おばあさんは喜んだ。でも報酬の約束はない」


「はい」


「村瀬は商法第五百十二条で、当然に報酬を請求できるか?」


 私は固まりました。


「……えっと」


「どうした」


「村瀬さんは商人ですよね」


「ああ」


「他人のために電球を交換していますよね」


「そうだな」


「だったら……」


 私は答えかけました。


 でも。


 何かが引っかかりました。


 営業の範囲内。


 村瀬さんの本業は、機械設備の修理。


 工場のプレス機や工作機械を直す仕事です。


 一方、近所のおばあさんの家の電球交換は、単なる私的な親切として行った可能性があります。


「あっ!」


「気づいたか」


「商人だからって、何をしても商法第五百十二条になるわけじゃない!」


「そうだ」


 私は慌てて書きました。


 ――商人であることと、その行為が営業の範囲内であることは別。


「じゃあ先輩」


「何だ」


「村瀬さんが、友達の引っ越しを手伝った場合も?」


「機械修理業の仕事として引き受けたのでなければ、当然には当てはまらねえな」


「ですよね!」


 商人だから。


 他人のために何かをした。


 だから必ず報酬請求権が発生する。


 そんな単純な話ではありません。


 その行為が、営業の範囲に入っている必要がある。


 ただし。


 営業の範囲は、看板に書いてある仕事だけに機械的に限定されるわけでもありません。


 実際にどんな業務を営んでいるか。


 その行為が、その事業とどう関係しているか。


 具体的に確認する必要があります。


「じゃあ、昨日の事件では?」


 相馬先輩が聞きました。


「村瀬さんは、普段から工場設備の修理を仕事にしています」


「うん」


「東海精密工業のプレス機修理も、その本業の範囲です」


「そうだ」


「だから、営業の範囲内という要件を満たすんですね」


 私は大きく丸をつけました。


 なるほど。


 相手が商人か。


 そして。


 今回の仕事は、その営業の範囲内か。


 ここは、別々に確認する必要があるのです。


「では、三つ目!」


 私は鉛筆を握り直しました。


 ――他人のために行為をしたとき。


「これも、昨日の事件なら分かりやすいですね」


「説明してみろ」


「村瀬さんは、東海精密工業のために機械を修理しました」


「うん」


「自分の工場の機械じゃありません」


「そうだ」


「東海精密工業の工場で、相手のプレス機を直した」


「うん」


「だから、他人のために行為をした!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 私は少し考えました。


「でも先輩」


「何だ」


「商人が、勝手に他人のために何かをした場合はどうなるんですか?」


「ほう」


 先輩がこちらを見ました。


「いいところに気づいたな」


「褒めました?」


「まだだ」


「何でですか!」


 相馬先輩は笑いました。


「じゃあ、例を考えろ」


 先輩は机の上にあった古い時計を指差しました。


「時計屋が、他人の時計を勝手に持っていって修理した」


「はい」


「頼まれてもいねえ。持ち主は故障したままでいいと思ってた」


「……はい」


「それでも時計屋が『営業として修理したから金を払え』と言ったら?」


 私は眉をひそめました。


「それは困ります!」


「だろ」


「勝手に修理して、勝手にお金を取られたら……」


 そこで、私は気づきました。


 商法第五百十二条は。


 他人のためという言葉があるからといって、本人の意思を無視した押し売りまで自由に認める条文ではありません。


 依頼の有無。


 当事者の関係。


 行為に至った経緯。


 無償の約束の有無。


 そうした事情が問題になります。


「昨日の村瀬さんは?」


 相馬先輩が聞きました。


「大門社長から、直接修理を頼まれました!」


「そうだ」


「しかも、社長が夜中に工場まで来て、助けてくれって」


「ああ」


「村瀬さんが勝手に押しかけたわけじゃありません!」


「そこだ」


 私は頷きました。


 だから。


 昨日の内容証明には、修理依頼の事実を明確に記載した。


 作業日報。


 工場長の作業完了書。


 機械が正常に動いたこと。


 それらが重要だったのです。


「所長」


 私は奥に声をかけました。


「何だ」


「昨日、作業完了書を見て、すぐに証拠として整理した理由が分かりました」


「そうか」


「条文の『他人のために行為をした』という部分を、事実で裏付けるためだったんですね」


 所長が頷きました。


「条文は、事実がなければ使えん」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。


「さて」


 相馬先輩が煙草を置きました。


「ここからが本題だ」


「はい!」


「大門社長は、何と言って支払いを拒んだ?」


 私は、少し声を低くしました。


「俺は、報酬を払うなんて約束してねえ!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「似てねえ」


「物真似の評価は求めてません!」


「続けろ」


「金額も決めてねえ! 契約書もねえ! だから一円も払わねえ!」


「そうだ」


 私は頷きました。


 そう。


 ここが最大の論点です。


 ――報酬の取り決めがなければ、報酬を請求できないのか。


 私はノートに、大きな疑問符を書きました。


 すると。


 片桐所長が奥から言いました。


「こはる」


「はい」


「民法の委任を思い出せ」


「……委任?」


「そうだ」


 私は慌てて六法をめくりました。


 民法。


 委任。


 報酬。


「ありました!」


 民法第六百四十八条。


 受任者は、特約がなければ、委任者に対して報酬を請求することができない。


「……あっ!」


 私は声を上げました。


「これ、商法と違います!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 民法の委任では、原則として、報酬を請求するには特約が必要です。


 つまり。


 委任を受けた。


 仕事をした。


 それだけで、当然に報酬請求権が発生するわけではありません。


「じゃあ先輩」


「何だ」


「民法の委任と商法第五百十二条って、方向が逆なんですね!」


「そうだな」


 私はノートに二本の線を引きました。


 ――民法の委任。


 報酬の特約がなければ、原則として請求できない。


 ――商法第五百十二条。


 商人が営業の範囲内で他人のために行為をした場合、報酬の特約がなくても、相当な報酬を請求できる。


「うわあ……」


 私は鉛筆を止めました。


「ここ、試験で絶対に引っかけてきそうです!」


「何がだ」


「報酬の約束がないなら、どんな場合も請求できないっていう問題です!」


「なるほどな」


「それ、間違いですよね!」


 相馬先輩が頷きました。


「商法第五百十二条の要件を満たせば、そうはならねえ」


 ただし。


 ここで一つ、気をつける必要があります。


 民法第六百四十八条は、委任についての規定です。


 すべての民事契約を無償とする規定ではありません。


 請負のように、報酬の支払いが契約の内容に組み込まれている類型もあります。


「つまり」


 私はノートに書きました。


「民法では全部タダ、商法では全部有料、という意味じゃないんですね」


「当たり前だ」


「契約の種類や合意内容を確認したうえで、商法第五百十二条がどんな働きをするか考える」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 昨日のプレス機修理。


 修理して機械を動かすという仕事の完成を目的としていたので、請負契約としての検討もできます。


 だから、民法上の請負の問題もあります。


 でも。


 大門社長は、事前に報酬額を決めていないことだけを理由に、支払いを拒んでいました。


 そこで。


 商人として営業の範囲内で行った仕事について、相当な報酬を請求できる。


 商法第五百十二条が、重要な根拠になったのです。


「なるほど……」


 私は顔を上げました。


「商法は、商売の実情を考えているんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「商人が、本業として仕事を引き受けるとき、いちいち無料で働くつもりだとは普通考えねえだろ」


「はい」


「報酬額を決め忘れたからって、全部タダにされたら商売にならねえ」


「そうですね」


「だから、こういう規定があるんだ」


 私は大きく頷きました。


 商法第五百十二条。


 これは。


 報酬の約束がない商売上の仕事について、相当な報酬を求める道を用意している規定なのです。


「ところで先輩」


 私は鉛筆を回しました。


「一つ、気になることがあります」


「何だ」


「報酬の約束がなくても請求できるなら、無料でやりますって約束した場合はどうなるんですか?」


 相馬先輩が笑いました。


「昨日も似たことを聞いたな」


「今日は、もっと正確に理解したいんです!」


「なら答えてみろ」


 私は考えました。


 商法第五百十二条。


 相当な報酬を請求することができる。


 でも。


 当事者が、明確に無償で仕事をすることに合意していたら。


 その合意を無視して、当然にお金を請求できるのでしょうか。


「……できませんよね」


「そうだ」


「商法第五百十二条があるからって、無料の約束を破っていいわけじゃありません」


「ああ」


 私はノートに書きました。


 ――報酬の取り決めがない場合と、無償の合意がある場合は違う。


「これ、大事ですね!」


「そうだな」


「報酬を約束していないことと、無料を約束したことは別!」


 私は思わず立ち上がりました。


「そういうことです!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「何でお前が自分で感動してんだ」


「だって、すごく分かりやすいじゃないですか!」


 たとえば。


 機械修理業者に、


「急いで修理してください。代金は後で相談しましょう」


 と言った場合。


 報酬額は未確定です。


 でも、無料という約束ではありません。


 一方。


「今回はお世話になっているので、無償で修理します」


 と双方が合意した場合。


 話は違います。


 商法第五百十二条を持ち出して、その無償の合意を当然に覆せるわけではありません。


「じゃあ、村瀬さんの事件は?」


 相馬先輩が聞きました。


「無料の約束はありませんでした!」


「うん」


「むしろ村瀬さんは、費用は後で計算すると伝えていました」


「そうだ」


「大門社長も、今は金額の話をしている場合じゃない、と言っただけです」


「そこだ」


 私は頷きました。


 無料とは言っていない。


 無料でいいとも約束していない。


 単に、急ぎの修理だったので、金額を事前に確定していなかった。


 それを後から、


「報酬の約束がないから無料だ」


 と言い換えた。


 そこが、大門社長の大きな間違いだったのです。


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「報酬を請求できることは分かったな」


「はい!」


「では、いくら請求できる」


 私は即答しました。


「三十八万五千円です!」


 所長は黙りました。


 ……。


 あ。


「違いました!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「昨日、あれだけ言われただろ」


「反射的に答えちゃいました!」


 私は慌てて六法を開きました。


 もう一度、第五百十二条。


 最後の部分。


 ――相当な報酬。


「これですね!」


「そうだ」


 私はノートに、大きく書きました。


 ――相当な報酬。


「相当って、適切な金額ということですよね」


「そうだな」


「じゃあ、どんな事情で決めるんですか?」


 相馬先輩は、村瀬さんの作業日報の写しを取り出しました。


「これだ」


「あっ!」


 昨日の証拠です。


 作業開始時刻。


 作業終了時刻。


 作業人数。


 使用部品。


 夜間作業。


 修理の難易度。


 私は一つずつ指差しました。


「実際にどんな仕事をしたか」


「うん」


「どのくらい時間がかかったか」


「そうだ」


「どれくらいの技術が必要だったか」


「うん」


「通常、同じような仕事にいくら請求しているか」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 商法第五百十二条は、金額まで自動的に決めてくれる条文ではありません。


 相当な報酬。


 その金額は、業務内容や取引の実情などをもとに考える必要があります。


「だから、昨日の内容証明には料金表も準備したんですね」


「そうだ」


「過去の請求書控えも」


「ああ」


「夜間作業の料金設定も確認した」


「そういうことだ」


 私は鉛筆を止めました。


「所長」


「何だ」


「もし村瀬さんが、百万円を請求していたらどうなりました?」


「百万円?」


「はい。実際の作業は同じなのに、突然百万円って」


 所長は静かに答えました。


「その額が相当だといえるか、根拠を問われる」


「ですよね」


「第五百十二条があるからといって、希望額をそのまま認める規定ではない」


 私は頷きました。


 報酬請求権がある。


 それと。


 請求額全額が認められる。


 これは別問題です。


「つまり」


 私は書きました。


 ――報酬を請求できるか。


 ――いくらが相当な報酬か。


 この二つは分けて考える。


「これも試験に出そうですね」


「そうだな」


「報酬額の約束がなければ、商人は好きな金額を請求できる!」


「間違いだ」


「ですよね!」


 私は赤いバツ印をつけました。


 昨日の事件では。


 村瀬さんが、作業内容と料金の根拠をきちんと残していた。


 大門社長も最終的に、その金額を確認して支払いに同意した。


 だから、三十八万五千円が支払われた。


 でも。


 最初から、法律が自動的に三十八万五千円と決めたわけではありません。


「なるほど……」


 私は深く頷きました。


「商法の条文だけじゃなくて、証拠が必要だったんですね」


「そうだ」


 所長が静かに言いました。


「法律が請求の道を開く。証拠が、その道を歩けるようにする」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 そこで、私はもう一つ疑問を思いつきました。


「先輩」


「何だ」


「もし村瀬さんが、東海精密工業の社長と親友だったら?」


「は?」


「昔からの親友で、よく一緒に釣りに行っていたら?」


「……それがどうした」


「友情で修理したんだから、無料だって言われたら?」


 相馬先輩は少し考えました。


「親友だからって、当然に無料になるわけじゃねえな」


「ですよね!」


「ただし、本当に無料で引き受けたのなら別だ」


「そうですね」


 私は頷きました。


 当事者の関係は、事実を判断する材料にはなります。


 でも。


 友達だから。


 親戚だから。


 昔からの知り合いだから。


 そんな理由だけで、商売として行った仕事が当然に無償になるとは限りません。


「じゃあ、社長が『昔からの付き合いじゃないか』って言っただけでは?」


「無料の合意があったことにはならねえな」


「なるほど!」


 私は、村瀬さんの顔を思い出しました。


 あの人は。


 大門社長の会社が困っているから、助けに行った。


 でも。


 自分も従業員も、生活のために機械修理を仕事にしている。


 人助けの気持ちがあったからといって、その仕事が当然に無料になるわけではないのです。


「先輩」


「何だ」


「善意で助けたことと、報酬を請求できることは、両立するんですね」


「ああ」


 相馬先輩は頷きました。


「人助けした奴が、必ず損しなきゃならねえ理由はねえからな」


 私は、その言葉に小さく丸をつけました。


「さて、もう一つ」


 私は六法を見つめました。


「先輩、商法って昭和でも令和でもあるんですよね?」


「ああ」


「でも、現代には会社法がありますよね」


「……会社法?」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「あっ」


 しまった。


 また未来の話です。


「お前、前にもその法律の話をしてたな」


「あ、はい……」


「商法第二編じゃ不満なのか?」


「いえ! そういうわけでは!」


 私は慌てて笑いました。


 でも。


 ここは重要な時代の違いです。


 昭和六十三年。


 この時代、単独の会社法はまだありません。


 株式会社などの会社に関する基本的な規定は、商法第二編に置かれています。


 さらに、有限会社については有限会社法がある。


 一方、現代では。


 平成十七年に会社法が制定され、平成十八年に施行されました。


 会社に関する制度が整理・再編され、株式会社や合同会社などの仕組みが一つの法律で規律されるようになったのです。


「ただし!」


 私は自分で声を上げました。


 相馬先輩が顔を上げます。


「何だ」


「商法が全部なくなったわけではありません!」


「そりゃそうだ」


「会社法ができても、商法は残っているんです!」


 私はノートに書きました。


 ――昭和六十三年。


 商法に会社編がある。有限会社法も存在する。


 ――現代。


 会社法が独立。商法も存続。


 そして。


 商法第五百十二条。


「これ、現代でも重要な規定なんですよね!」


「ああ、今の俺たちにとっても重要だ」


 相馬先輩が言いました。


 私は頷きました。


 会社法の制定は、会社の制度を現代の経済活動に合うように整える大きな改革でした。


 たとえば。


 昭和六十三年の株式会社。


 発起人は七人以上。


 取締役は三人以上。


 監査役も必要。


 一方、現代では、発起人一人で設立する株式会社も可能です。


 機関設計の条件を満たせば、取締役一人の株式会社も作れます。


 最低資本金制度も撤廃され、資本金一円での設立も法律上可能になっています。


「……昭和の株式会社って大変ですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


「会社を作るだけで七人集めるんですよね」


「ああ」


「私だったら、友達が七人いるかどうかから問題になります」


「そこかよ」


 相馬先輩が呆れました。


 でも。


 今回の村瀬さんの事件で重要なのは、株式会社を設立する条件ではありません。


 商人として、営業の範囲内で他人のために仕事をしたこと。


 そして、その報酬を請求できるかという問題です。


「つまり、先輩」


「何だ」


「会社法ができても、商売の基本的なルールまで全部会社法に移ったわけじゃないんですね」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 会社をどう作るか。


 取締役をどう選ぶか。


 会社の機関をどう運営するか。


 そうした会社組織のルールと。


 商人が取引の中で、どんな権利や義務を持つか。


 そのルールは、区別して考える必要があります。


 そして。


 商人の報酬請求権を定める商法第五百十二条は、現在も商法に残っています。


「なるほど……」


 私は笑いました。


「昭和の法律って、古いだけじゃないんですね」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「当たり前だ。古くても使える法律は使うんだよ」


 私は、その言葉をノートに書きました。


「じゃあ、先輩!」


 私は鉛筆を構えました。


「確認問題をお願いします!」


「またか」


「お願いします!」


 相馬先輩は煙草を灰皿に置きました。


「仕方ねえな」


「やった!」


「第一問」


「はい!」


「商人が営業の範囲内で他人のために行為をした。だが、事前に報酬の金額を決めていない。相当な報酬を請求できるか?」


「できます!」


「根拠は?」


「商法第五百十二条!」


「よし」


 私は拳を握りました。


「第二問」


「はい!」


「普通の会社員が、休日に友人の自転車を親切で直した。自転車修理を営業として行っているわけではない。商法第五百十二条で報酬を請求できるか?」


「その事実だけではできません!」


「なぜだ」


「商人が営業の範囲内で行った行為という要件を満たしていないからです!」


「そうだ」


「第三問」


「はい!」


「機械修理業者が、営業として修理を引き受けた。ただし、今回は無料でやると合意していた。それでも当然に報酬を請求できるか?」


「できません!」


「どうしてだ」


「無償の合意がある場合は、商法第五百十二条だけを理由にその合意を無視できないからです!」


「正解」


 よし。


 三問連続正解。


 相馬先輩は、少し意地の悪い顔をしました。


「第四問」


「はい!」


「報酬額の約束がない場合、商人は自分の好きな金額を請求できる」


「間違いです!」


「理由は?」


「請求できるのは相当な報酬です! 金額は業務内容や取引の実情などをもとに判断します!」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 これで四問。


 完璧です。


「第五問」


「はい!」


「商法第五百十二条は、株式会社にしか適用されない」


「間違いです!」


「なぜだ」


「商人は株式会社だけではありません! 個人で商売をしている人も商人になり得ます!」


「よし」


 私は思わず立ち上がりました。


「全問正解!」


「座れ」


「はい!」


 そこへ。


 片桐所長が口を開きました。


「こはる」


「はい!」


「では最後に、一問」


 私は背筋を伸ばしました。


「お願いします!」


 所長は静かに言いました。


「商法第五百十二条があるなら、仕事をした証拠は必要ないか」


 ……。


 私は、少し考えました。


 昨日の村瀬さんの事件。


 大門社長の言葉。


 支払い拒否。


 そして。


 作業日報。


 作業完了書。


 使用部品の記録。


 料金表。


 全部、思い出しました。


「必要です」


 私は答えました。


「なぜだ」


「法律に請求できると書いてあっても、実際にどんな仕事をしたか、相手が争えば証明しなければならないからです」


 所長が頷きました。


「続けろ」


「それに、いくらが相当な報酬なのかも、資料が必要です」


「そうだ」


「だから、昨日は請求書だけじゃなくて、作業日報や料金表まで集めたんですよね」


 片桐所長は、静かに言いました。


「よし」


 私は、胸の奥が温かくなりました。


 条文を暗記する。


 それだけなら、机の上でもできます。


 でも。


 実際に、困っている人の仕事を守るには。


 誰が。


 誰のために。


 何をしたのか。


 どんな約束があったのか。


 いくらが妥当なのか。


 そこまで確認しなければならない。


 そして。


 事実を、一つずつ書面に残していく。


 それが、片桐行政書士事務所の仕事なのです。


 窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。


 私はノートを見直しました。


 商法第五百十二条。


 商人。


 営業の範囲内。


 他人のための行為。


 相当な報酬。


 そして、最大のポイント。


 報酬の約束がなくても、請求できる。


「……これ、かなり重要ですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「商法第五百十二条です」


「そりゃそうだ」


「だって、普通に考えると、契約で報酬を決めていなかったら請求できないと思いません?」


「そう思う奴もいるだろうな」


「でも、商法は違う」


 私は頷きました。


 商売の世界。


 すべての仕事について、事前に詳細な報酬契約書を作れるとは限りません。


 急な依頼。


 夜中の修理。


 突然の運送。


 緊急の作業。


 先に仕事をしなければ、相手が困ることもあります。


 そんなとき。


 金額を決めていなかったから、報酬はゼロ。


 そうされてしまったら。


 商人は、安心して仕事を引き受けられません。


「先輩」


「何だ」


「だから、商法にはこの条文があるんですね」


「ああ」


「商売として働いた人に、相当な報酬を認める」


「そうだ」


「でも、何でも請求できるわけじゃなくて、要件がある」


「うん」


「金額も相当な範囲に限られる」


「そのとおりだ」


 私は笑いました。


「すごく、よくできていますね」


 相馬先輩が肩をすくめました。


「今さら気づいたのか」


「今、現場で覚えたんです!」


「まあ、それなら忘れねえだろ」


 私は頷きました。


 忘れません。


 あの職人の手。


 油に染まった作業着。


 三日間の記録。


 そして。


 三十八万五千円。


 その数字を思い出せば、商法第五百十二条は、きっと忘れない。


 私はノートの最後のページを開きました。


 今日の一行。


 ここに書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――商人が営業の範囲内で他人のために働けば、報酬の約束がなくても、相当な報酬を請求できる。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん一生忘れません。


 報酬の約束がない。


 それだけで、仕事が無価値になるわけではない。


 商人として、営業の範囲内で他人のために行為をした。


 その仕事には、相当な報酬を請求できる可能性がある。


 法律は。


 働いた時間を、契約書の空白だけで消してしまうほど、単純ではないのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も戻せ」


「はい」


「ついでに、掃除もしろ」


「……また掃除ですか?」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「実は、いいことを思いつきました」


「嫌な予感しかしねえな」


「私は毎日、事務所の掃除をしています」


「ああ」


「所長と先輩のために!」


「……まあ、そうだな」


「ということは!」


 私は六法を開きました。


「商法第五百十二条!」


 相馬先輩が固まりました。


「……おい」


「私は他人のために行為をしています!」


「おい、待て」


「しかも毎日!」


「だから何だ!」


「相当な報酬を請求します!」


 私は胸を張りました。


 相馬先輩は、しばらく私を見つめました。


 そして。


「こはる」


「はい!」


「お前、掃除屋を営業してるのか?」


「……してません」


「じゃあ、営業の範囲内じゃねえな」


「ぐっ!」


「それに、お前は事務所の見習いだろ」


「はい……」


「掃除は、今の業務分担の話だ」


 私は黙りました。


 ……。


 確かに。


 商法第五百十二条を、何でもかんでも当てはめることはできません。


「……先輩」


「何だ」


「商人の報酬請求権って、厳しいですね」


「厳しいんじゃねえ。お前の使い方がおかしいんだ」


「ひどい!」


 すると。


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「こはる」


「はい!」


「報酬が欲しいのか」


「……え?」


「掃除の報酬だ」


 私は目を輝かせました。


「もらえるんですか!?」


 所長は静かに言いました。


「では、業務分担と条件を改めて考えよう」


「本当ですか!」


「ただし」


「はい!」


「掃除が終わってからだ」


「……!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな」


「何ですか!」


「報酬を考える前に、仕事を終わらせろってことだ」


「うう……」


 私は箒を手に取りました。


 仕方ありません。


 今日も掃除です。


 でも。


 今回は、少しだけ気分が違いました。


 商法第五百十二条。


 商人の報酬請求権。


 ただの暗記項目だった条文が。


 村瀬さんの三日間を守った。


 職人の技術を守った。


 家族の生活を守った。


 そう考えると。


 法律の勉強が、少しだけ誇らしく思えるのです。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、家々の明かりが灯っていきます。


 遠くから、工場の機械音が聞こえました。


 きっと今頃。


 村瀬さんも、また何かを修理しているのでしょう。


 古い機械を開き。


 工具を握り。


 壊れた部品を取り外す。


 そして。


 また動かしてやる。


 そんな仕事を、何十年も続けてきた人。


 その技術にも。


 その時間にも。


 ちゃんと価値がある。


 法律は、それを守る仕組みの一つなのです。


 私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――商人が営業の範囲内で他人のために働けば、報酬の約束がなくても、相当な報酬を請求できる。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、今日の商法第五百十二条、絶対に忘れません!」


「そりゃよかったな!」


「でも、掃除の報酬は諦めません!」


「まだ言ってんのか!」


 ……なるほど。


 商人の報酬請求権。


 仕事をすれば、必ず好きな金額を請求できるという制度ではありません。


 商人であること。


 営業の範囲内であること。


 他人のための行為であること。


 そして、当事者の合意や具体的な事情。


 それらを、一つずつ確認する必要がある。


 残念ながら。


 私が先輩の机を掃除しただけでは、商法第五百十二条による報酬請求は認められそうにありません。


 でも。


 三日三晩、工場の機械を直した村瀬さんには。


 相当な報酬を求めるための、確かな法律上の根拠があった。


 そこが、大切なのです。


「こはる!」


「はい!」


「箒が止まってるぞ!」


「今度は本当に掃除します!」


「最初からそうしろ!」


 私は笑いながら、床を掃き始めました。


 商法第五百十二条。


 たった一文の法律。


 でも。


 その一文が、働く人の三日間を守った。


 報酬の約束がない。


 だから、ゼロ。


 そんな理屈に、商法は簡単には負けません。


 だって。


 契約書に金額が書かれていなくても。


 油まみれになって働いた三日間は、確かに存在したのです。

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