[商法・商人の報酬請求権]現場編 「報酬の約束をしていないからタダ働き」の嘘。職人の三日間を踏み倒した社長と、商法第五百十二条の反撃
約束していないお金は、払わなくてもいいのでしょうか。
たとえば。
壊れた機械を直してもらった。
徹夜で働いてもらった。
おかげで工場は動き出し、大きな利益が出た。
けれど。
「報酬を払うとは、一言も約束していない」
そう言えば。
三日間の仕事は、全部タダになるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一枚の請求書を前に、商売の恐ろしさを知ることになります。
契約書がない。
金額も決めていない。
それでも。
法律は、働いた人間の手を空っぽのまま帰すとは限らないのです。
「三日三晩、機械を直したんです」
朝一番。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
四十五歳くらい。
作業着の袖には油染み。
両手には細かな傷があり、爪の隙間には黒い汚れが残っています。
名前は、村瀬源一さん。
町外れで小さな機械修理工場を営んでいます。
屋号は、
――村瀬機械修理工業。
従業員は、本人と息子、それに熟練職人が一人。
三人だけの町工場です。
「それで、請求したら……」
村瀬さんは膝の上の封筒を握りしめました。
「一円も払わないって言われまして」
「……一円も?」
私は思わず聞き返しました。
「はい」
「修理したんですよね?」
「しました」
「機械は動いたんですよね?」
「動きました」
「じゃあ、どうして……?」
村瀬さんは、封筒から一枚の紙を取り出しました。
差出人。
東海精密工業株式会社。
代表取締役社長。
大門剛造。
私は、その通知書を読みました。
――貴殿から提出された修理代金請求書について、当社は支払義務を認めない。
――本件作業について、事前に報酬額を定める契約は締結されていない。
――したがって、当社に金銭支払義務は存在しない。
最後の一文。
――今後、根拠のない請求を繰り返すことは厳に慎まれたい。
……。
私は紙を置きました。
「すごいですね」
「え?」
「機械は直してもらって、支払いだけは壊れたままなんですね」
相馬先輩が隣で吹き出しました。
「うまいこと言ってる場合か」
「すみません」
でも。
これは、ひどい。
村瀬さんは俯きました。
「最初は、私も信じられなかったんです」
「詳しく聞かせてください」
片桐所長が静かに言いました。
村瀬さんは頷きました。
事の始まりは、一週間前。
東海精密工業の大型プレス機が故障したことでした。
自動車部品を作る工場です。
納期が迫った重要な注文。
ところが。
主力のプレス機が突然止まった。
メーカーの技術者が来られるのは四日後。
そのままでは納期に間に合わない。
取引先から違約金を請求されるおそれまであったそうです。
「そこで、大門社長が直接、うちに来たんです」
村瀬さんは言いました。
「夜の九時でした」
「夜の九時?」
「はい。工場のシャッターを叩いて」
村瀬さんは、そのときのことを思い出すように目を閉じました。
『村瀬さん! 頼む! うちのプレス機を直してくれ!』
社長は必死だったそうです。
『明日の朝までに動かないと、会社が潰れる!』
『今からですか?』
『何とかならんか!』
村瀬さんは断ろうとしました。
すでに夜。
従業員も帰っています。
大型プレス機の修理は、簡単な仕事ではありません。
危険も伴います。
部品の調達も必要です。
でも。
『うちの工場が止まったら、下請けも困るんだ!』
その言葉で、村瀬さんは動いた。
息子を呼び戻し、もう一人の職人にも頭を下げた。
三人で東海精密工業へ向かった。
「原因は、油圧系統の故障でした」
村瀬さんは説明しました。
「配管の一部が傷んでいて、圧力が正常に上がらなくなっていたんです」
「それを直したんですね」
「ええ。ただ、交換部品がすぐには手に入らなくて……」
村瀬さんは苦笑しました。
「うちにあった材料を加工して、応急用の部品を作りました」
その作業に一晩。
翌日は、油圧の調整。
さらに翌日、試運転と安全確認。
結局。
三日間。
三人がかりで、機械を復旧させた。
「それで、プレス機は?」
「動きました」
村瀬さんの顔に、少しだけ誇らしさが浮かびました。
「社長も喜んでくれましたよ」
私は頷きました。
よかった。
……と思ったのですが。
「ところが、請求書を持って行ったら」
村瀬さんの声が沈みました。
「急に態度が変わったんです」
請求額。
三十八万五千円。
内訳は。
作業工賃。
夜間・休日作業分。
加工部品代。
出張作業に要した費用。
「これを見せたら、大門社長は言ったんです」
村瀬さんが唇を噛みました。
『おい、村瀬』
『はい』
『俺は、金を払うなんて約束したか?』
『……え?』
『報酬はいくらだと決めた?』
『いえ、急ぎの仕事でしたから、そこまでは……』
『じゃあ契約してねえじゃねえか!』
私は思わず立ち上がりました。
「そんな!」
相馬先輩が私を見ました。
「こはる」
「はい!」
「まだ話は終わってねえ」
「あ、すみません……」
村瀬さんは続けました。
『俺は頼んだだけだ。お前が勝手に来て、勝手に直したんだろう』
『でも社長、工場が止まるから助けてくれって……』
『助けてくれとは言った。金を払うとは言ってねえ』
『そんな……』
『世の中、契約がすべてなんだよ!』
……。
私は拳を握りました。
契約がすべて。
なるほど。
そう来ましたか。
だったら。
法律の出番です。
「所長!」
私は勢いよく六法を開きました。
「これは、契約書がなくても請求できるはずです!」
村瀬さんが顔を上げました。
「本当ですか?」
「はい!」
私は考えました。
まずは民法。
請負契約。
仕事を完成させ、相手が報酬を支払う。
機械修理なら請負に当たる場合があります。
契約書がなくても、口頭で契約は成立し得る。
そして。
当事者が報酬額を明示していなくても、諸事情から有償の合意が認められることもある。
「つまり、現代の民法でも――」
「待て」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「お前、また今の民法だけで考えてねえか」
「え?」
「ここは商売の話だぞ」
「商売?」
「そうだ」
先輩は六法を指差しました。
「商法を開け」
「商法……」
私は慌ててページをめくりました。
商法。
商人。
商行為。
営業。
そして。
「あっ!」
見つけました。
商法第五百十二条。
報酬請求権。
――商人がその営業の範囲内において他人のために行為をしたときは、相当な報酬を請求することができる。
……。
私は、その一文を見つめました。
「先輩!」
「何だ」
「これ、すごいです!」
「だろうな」
「報酬の約束をしていなくても、請求できるじゃないですか!」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
なるほど。
商法第五百十二条。
商人が。
営業の範囲内で。
他人のために行為をした。
その場合、相当な報酬を請求できる。
つまり。
修理代について、事前に具体的な金額を決めていなかった。
それだけで、当然に無償になるわけではありません。
「じゃあ、村瀬さんは!」
私は声を上げました。
「請求できる可能性があります!」
村瀬さんの目に、希望の色が浮かびました。
「本当ですか……?」
「はい!」
ところが。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「一つ、確認が足りない」
「え?」
「商法第五百十二条は、誰にでも報酬を請求できると書いてあるか」
私は条文を見直しました。
商人が。
その営業の範囲内で。
他人のために。
行為をしたとき。
「……あ」
「気づいたか」
「村瀬さんが商人に当たるか。それから、今回の修理が営業の範囲内か、確認が必要です」
「そうだ」
私は村瀬さんを見ました。
「村瀬さん。普段から、他の工場の機械修理を仕事として引き受けているんですよね?」
「はい。二十年近く、それで商売しています」
「工場の設備修理が、本業なんですね?」
「ええ」
「今回の修理も、いつもの仕事と同じ種類ですか?」
「大型プレス機は少し特殊ですが、機械設備の修理は普段からしています」
なるほど。
反復継続して、営利目的で機械修理業を営んでいる。
今回も、その営業の範囲内。
条件はかなり揃っています。
「それと、もう一つ」
所長が言いました。
「最初から無償で引き受ける約束はなかったか」
「ありません!」
村瀬さんは即答しました。
「私は仕事として頼まれたと思っていました。社長にも『修理の費用は後で計算します』と伝えています」
「そのとき、社長は?」
「『今は金額の話をしている場合じゃない。とにかく直してくれ』と」
私は顔を上げました。
重要です。
とても重要な一言です。
報酬を支払わないという合意があったわけではない。
むしろ、費用を後で計算することを伝えていた。
しかも、相手は早急な作業を求めている。
「所長!」
「うん」
「これ、無償で引き受けたとは言えませんよね!」
「少なくとも、そう判断するための材料がある」
所長は静かに頷きました。
「ただし、請求できることと、請求した金額がそのまま認められることは違う」
「……あ」
相当な報酬。
そうです。
商法第五百十二条は、
好きな金額を請求できる。
とは書いていません。
相当な報酬。
つまり、その仕事に見合った合理的な金額が問題になる。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「まずは、働いた証拠だ」
「はい!」
「次に、いくらが相当なのか。その根拠を集めろ」
「分かりました!」
こうして。
三十八万五千円の請求書を巡る、商法の反撃が始まりました。
「ところで先輩」
資料を整理しながら、私はふと疑問に思いました。
「村瀬さんって、株式会社じゃないですよね」
「ああ」
「個人事業主ですよね」
「そうだ」
「商法第五百十二条の『商人』って、個人事業主でも当てはまるんですか?」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「お前、商人って言葉を何だと思ってる」
「会社の人とか……」
「会社だけが商売してるわけじゃねえだろ」
「……確かに」
私は頭を掻きました。
商法上の商人。
会社だけではありません。
自己の名をもって商行為をすることを業とする個人も、商人に当たり得ます。
村瀬さんのような、個人経営の機械修理業者もそうです。
「それにしても」
私は呟きました。
「現代だと、会社法っていう法律が独立しているから、商法と会社法を頭の中で分けて考えるんですよね」
「会社法?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「……また始まったな」
「あっ」
しまった。
未来の法律。
昭和六十三年に、単独の会社法はまだありません。
会社についてのルールは、商法第二編の会社に関する規定や有限会社法などに分かれていました。
「じゃあ、たとえば私が一人で株式会社を作って、この修理業を――」
「作れねえよ」
「え?」
「株式会社なら発起人を七人集めろ」
「七人!?」
「取締役も三人以上、監査役も必要だ」
「……ですよね」
危ない。
また現代の感覚で考えていました。
現代なら、一人で株式会社を設立できる。
でも、この時代は違います。
「七人集める前に、修理する機械が全部壊れそうですね……」
「何を言ってんだ、お前は」
相馬先輩が呆れました。
でも。
今回の事件は、会社を設立する話ではありません。
その前に、もっと基本的な問題がある。
商売として、人のために仕事をした。
その仕事について、報酬を請求できるのか。
それが核心です。
「先輩」
「何だ」
「株式会社じゃなくても、商法に守られるんですね」
「ああ」
先輩は頷きました。
「看板の大きさじゃねえ。何を商売としてやっているかだ」
私は、その言葉をノートに書きました。
翌日。
私たちは、村瀬さんの修理工場を訪れました。
ただし、目的は相手方との交渉ではありません。
請求書の根拠を確認するためです。
駅から少し離れた工業団地。
トタン屋根の小さな建物。
入り口には、
――村瀬機械修理工業。
と書かれた看板。
中に入ると、油と鉄の匂いがしました。
旋盤。
工具。
整然と並んだレンチ。
古い工作機械。
そして。
「親父、書類できたぞ」
二十歳くらいの青年が、帳面を抱えて現れました。
村瀬さんの息子、和彦さんです。
「こちら、片桐行政書士事務所の方だ」
「あ、どうも」
和彦さんは頭を下げました。
私は帳面を見せてもらいました。
そこには。
修理作業日報。
日付。
作業開始時刻。
終了時刻。
担当者名。
使用部品。
修理内容。
すべて手書きで記録されていました。
「すごい……」
私は思わず呟きました。
「全部残してあるんですね」
「親父がうるさいんですよ」
和彦さんは苦笑しました。
「仕事をしたら、必ず書けって」
村瀬さんが照れくさそうに笑いました。
「後で、どこを直したか分からなくなりますから」
でも。
今回ほど、この記録が重要になることはありませんでした。
私は一ページずつ確認しました。
一日目。
午後十時から翌朝六時。
油圧系統の分解、原因調査。
二日目。
午前八時から午後九時。
部品製作、配管交換、調整。
三日目。
午前八時から午後三時。
圧力試験、試運転、安全確認。
作業人数も記載されています。
さらに。
「これが、東海精密工業の工場長さんに確認してもらった作業完了書です」
村瀬さんが一枚の紙を出しました。
私は受け取りました。
――大型プレス機油圧系統修理作業完了。
――試運転により正常作動を確認。
――昭和六十三年某月某日。
東海精密工業株式会社。
製造部工場長。
長谷川清。
署名と押印。
……!
「先輩!」
「何だ」
「作業完了を、相手の工場長が認めています!」
「ああ」
「しかも、使用部品も記載されています!」
相馬先輩が頷きました。
「いい証拠だ」
さらに。
交換前の故障部品。
修理後の写真。
部品材料の仕入伝票。
通常の修理料金表。
同種の機械修理に関する過去の請求書控え。
それらが出てきました。
私は資料を並べました。
「……これなら」
「どうした」
「三十八万五千円が、どこから出てきたのか説明できます!」
村瀬さんは頷きました。
「いつもと同じ計算方法なんです。ただ、今回は夜間作業が多かったので、その分が少し高くなっています」
そこで相馬先輩が聞きました。
「夜間作業の割増料金は、普段から設定しているんですか」
「はい。料金表にあります」
「他のお客さんにも、同じように適用していますか」
「しています」
「過去の請求書は?」
「あります」
「よし」
相馬先輩は資料を揃えました。
「これなら、相当な報酬額を考えるための材料になる」
なるほど。
ただ三十八万五千円と書くのではありません。
作業時間。
作業内容。
技術的な難易度。
使用した部品。
通常の料金体系。
こうした事情を積み重ねる。
商法第五百十二条によって報酬を請求できるとしても、その金額まで自動的に決まるわけではない。
だから。
数字の根拠が必要なのです。
「……でも、先輩」
私は帳面を閉じながら言いました。
「大門社長は、こんなに働いてもらったことを知らないんでしょうか」
「知ってるだろうな」
「だったら、どうして払わないんですか?」
「払いたくねえからだろ」
「身も蓋もない!」
相馬先輩は肩をすくめました。
「それだけじゃねえかもしれんぞ」
「え?」
「大きな会社の社長になると、小さな町工場には何を言っても通ると思ってる奴がいる」
私は黙りました。
「相手に逆らわれないと思ってるんだ」
そうか。
村瀬さんの工場は三人。
東海精密工業は、従業員百人以上。
大門社長は、町の有力経営者です。
取引先も多い。
地元では顔が利く。
一方、村瀬さんは小さな個人事業主。
仕事を失えば生活に響く。
だから。
少しくらい踏み倒しても、泣き寝入りするだろう。
そう考えているのかもしれません。
「でも先輩」
「何だ」
「会社が大きいからって、払わなくていいわけじゃないですよね」
「当たり前だ」
先輩は低い声で言いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ。ルールを守った奴が勝つんだよ」
私は大きく頷きました。
商法は。
大企業だけの法律ではない。
小さな店にも。
町工場にも。
毎日、自分の腕で商売している人にも。
関係する法律なのです。
その日の午後。
意外な人物が、片桐行政書士事務所に現れました。
「ここが片桐事務所か」
入り口に立っていたのは、太った中年男性。
高そうな背広。
金の腕時計。
磨き上げられた革靴。
そして。
見るからに偉そうな顔。
「東海精密工業の大門だ」
……。
来ました。
噂の社長です。
「村瀬が、ここへ相談に来たそうだな」
片桐所長が顔を上げました。
「ご用件は」
「くだらん請求をやめさせろ」
大門社長は、いきなり言いました。
「うちはな、百人以上の従業員を抱えてるんだ。あんな町工場の言いがかりに付き合ってる暇はない」
私は眉をひそめました。
言いがかり?
機械を直してもらったのに?
「社長」
相馬先輩が言いました。
「本件の修理作業が行われたこと自体は、認めているんですね」
「当たり前だ」
「プレス機が動くようになったことも?」
「そうだ」
「では、報酬を支払わないというお考えですか」
「ああ」
大門社長は鼻で笑いました。
「契約書がないからな」
……。
私は六法に手を伸ばしかけました。
でも。
相馬先輩が私を見ました。
余計なことは言うな。
そういう目でした。
「そもそもな」
大門社長は椅子にどっかり座りました。
「報酬を払うなら、最初に金額を決めるだろう」
なるほど。
主張は一貫しています。
「金額を決めていないんだから、タダでも文句は言えない」
私は思いました。
いや。
言えます。
商法第五百十二条です。
でも、ここで言い争っても仕方ありません。
相馬先輩が静かに口を開きました。
「では、社長」
「何だ」
「村瀬さんに修理を依頼したことは、否定しないんですね」
「頼んださ」
「無償で修理してもらう約束は、あったんですか」
「……何?」
「無料で引き受けると、村瀬さんが承諾した事実はありますか」
大門社長が顔をしかめました。
「そんな話はしてねえよ」
「分かりました」
「何が分かったんだ」
「ご説明の内容です」
先輩は手帳を閉じました。
「社長のお考えは確認できました」
「おい」
大門社長が机を叩きました。
「俺はな、法律を知らんわけじゃねえぞ!」
……。
出ました。
この台詞を言う人ほど、何かを見落としている気がします。
「うちは株式会社だ。定款もあるし、取締役会もある。弁護士にだって相談できる!」
私は心の中で呟きました。
それは立派です。
でも。
会社に定款があることと、他人の仕事を無償にできることは別問題です。
「たかが行政書士が、何をできるっていうんだ」
大門社長は笑いました。
そのとき。
片桐所長が静かに言いました。
「社長」
「何だ」
「お話は承りました」
「……それだけか?」
「はい」
所長は淡々と続けました。
「当事務所では、村瀬さんのご依頼に基づき、事実関係と関係書類を整理しております」
「だから何だ」
「権利関係に争いがある場合の代理交渉や訴訟は、弁護士の仕事です」
「ふん。じゃあ何もできねえじゃねえか」
所長は答えませんでした。
ただ。
机の上に置かれた商法の六法を、静かに閉じました。
なぜでしょう。
その仕草だけで。
私は少し怖くなりました。
大門社長は最後に言いました。
「いいか。金を払うなんて約束はしてねえんだ」
そして。
「契約書がないなら、請求できない。それが法律だろうが!」
そう吐き捨てて、事務所を出て行きました。
「……所長」
私は扉を見つめたまま言いました。
「はい」
「じゃねえよ。何だ」
相馬先輩が横から突っ込みました。
「先輩!」
「何だ」
「あの社長、完全に法律を勘違いしてますよね!」
「そうだな」
「何で商法第五百十二条を教えてあげなかったんですか!」
相馬先輩は椅子に座りました。
「教えてやる義理があるか?」
「……ありませんけど」
「だったら、やることは別だ」
先輩は机の上の資料を叩きました。
「依頼人が、必要な請求をできるように書面を整える」
「はい」
「それが俺たちの仕事だ」
片桐所長も頷きました。
「こはる」
「はい!」
「通知書を作れ」
「……!」
「根拠条文だけでは足りん。事実と金額の根拠を揃えろ」
「分かりました!」
いよいよです。
内容証明郵便。
昭和の代書屋が使う、紙の刃。
今回の相手は、市役所ではありません。
大きな会社のワンマン社長。
ですが。
法律を守る必要があることに、変わりはありません。
私は原稿用紙を取り出しました。
そして。
まず、一行目を書きました。
――修理業務報酬請求通知書。
ここからが、本当の勝負です。
一時間後。
私は原案を所長に差し出しました。
「できました!」
片桐所長は受け取りました。
読み始めます。
……。
そして。
赤鉛筆を取りました。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『貴社は悪質な詐欺行為を行った』」
「はい!」
「消せ」
「ええっ!」
「詐欺だと断定できる材料がない」
「でも、最初から払う気がなかった可能性があります!」
「可能性と事実は違う」
「……はい」
赤線。
「次」
「はい」
「『報酬の約束がなくても、請求額全額を支払う義務がある』」
赤線。
「これも違いますか……?」
「違う」
所長が短く言いました。
「商法第五百十二条を読め」
私は読みました。
――相当な報酬を請求することができる。
「……あ」
「気づいたか」
「請求した金額が、必ずそのまま認められるわけじゃない」
「そうだ」
相当な報酬。
三十八万五千円。
その数字には、根拠が必要です。
所長は続けました。
「もう一つ」
「はい」
「『契約書がないから、商法第五百十二条だけで必ず請求できる』」
「……これも断定しすぎですね」
「そうだ」
所長は私を見ました。
「商人か。営業の範囲内か。他人のための行為か。無償の合意はないか。事情を全部確認しろ」
「はい」
「法律の条文は、魔法の呪文じゃない」
私は黙りました。
商法第五百十二条。
たしかに、短い条文です。
でも。
短いからといって、何にでも使えるわけではありません。
たとえば。
友達が趣味で自転車を直してくれた。
それだけで、誰でも当然に商法第五百十二条を使えるわけではない。
商人であること。
営業の範囲内であること。
他人のために行為をしたこと。
それらが大切なのです。
そして、今回。
村瀬さんは、機械修理を業として営む商人。
東海精密工業から頼まれたのは、まさに本業の機械修理。
実際に三日間の作業を行い、機械を復旧させている。
無償で引き受ける合意も確認されていない。
そのうえ、費用は後で計算すると伝えていた。
「……所長」
「何だ」
「これなら、法律と事実がつながりますね」
「そうだ」
私は、原案を書き直しました。
最終的な通知書には、こう記しました。
――修理業務報酬請求通知書。
通知人。
村瀬機械修理工業。
村瀬源一。
被通知人。
東海精密工業株式会社。
代表取締役。
大門剛造。
第一。
通知人は、機械設備の修理を反復継続して営む事業者であり、商法上の商人に該当する。
第二。
貴社代表者は、昭和六十三年某月某日、通知人に対し、貴社工場内の大型プレス機の修理を依頼した。
第三。
通知人は右依頼に基づき、自己の営業の範囲内において、三名の作業員を投入し、油圧系統の修理及び試運転等を実施した。
第四。
本件修理作業は、貴社製造部工場長の確認を経て完了しており、作業完了書及び作業日報等により、その実施内容を確認することができる。
第五。
本件作業について、事前に報酬額を確定する書面は作成されていないものの、通知人が無償で本件修理を引き受ける旨の合意は存在しない。
第六。
商法第五百十二条は、商人がその営業の範囲内において他人のために行為をしたときは、相当な報酬を請求することができる旨を定めている。
第七。
通知人は、本件修理の作業内容、作業時間、使用部品、通常の料金体系等に照らし、相当な報酬として金三十八万五千円を請求する。
第八。
貴社におかれては、別紙明細に記載された金額につき、指定期日までに支払われたい。
なお、本件請求について異議がある場合には、その具体的な理由を明示されたい。
以上。
私は読み終えました。
事務所が静まり返りました。
「……どうでしょうか」
相馬先輩が原案を見ました。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「ただし、実際の内容証明に別紙を同封しても、その別紙まで内容証明になるわけじゃねえぞ」
「あっ!」
私は慌てて顔を上げました。
「じゃあ、金額の根拠はどうやって……」
「送る方法を分ける。内容証明には請求と法的根拠を明確に書く。詳しい計算資料は別途、写しを送付して送付記録を残す」
「なるほど!」
「内容証明ってのは、何でも証明してくれる万能郵便じゃねえ」
相馬先輩は言いました。
「証明されるのは、どんな内容の文書を差し出したか、ということだ」
私は頷きました。
内容証明郵便。
その文書の内容が真実であることまで、郵便局が保証してくれるわけではありません。
だからこそ。
作業日報。
作業完了書。
料金表。
仕入伝票。
そうした証拠を、別に揃えておく必要がある。
「所長」
「何だ」
「怖いですね」
「何がだ」
「この書面」
所長が首をかしげました。
「怖いことは書いていない」
「でも、相手は反論しにくいと思います」
なぜなら。
社長は、
「報酬を払う約束をしていない」
という一点だけを頼りにしていたからです。
でも、書面には。
商人。
営業の範囲。
修理依頼。
作業完了。
無償合意の不存在。
相当な報酬。
全部、並んでいる。
その一つ一つに、証拠がある。
所長は静かに言いました。
「逃げ道を塞ぐのは、怒りじゃない」
「はい」
「事実だ」
私は頷きました。
そして。
村瀬さんに最終案を確認してもらい、本人名義で内容証明郵便を発送することになりました。
もし相手が支払いを拒み続けるなら、代理交渉や訴訟は弁護士へ引き継ぐ。
そのための証拠一式も、すでに整理してあります。
行政書士が裁判で戦うことはできません。
でも。
裁判になる前に、法律上の問題を明確にすることはできる。
今回。
そのための武器は、商法第五百十二条でした。
内容証明郵便を発送してから、三日後。
事務所に一本の電話が入りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……大門だ』
……。
私は受話器を握り直しました。
東海精密工業の社長です。
「少々お待ちください」
片桐所長に代わりました。
「片桐です」
『あの書面だが……』
「はい」
『商法第五百十二条ってのは、本当にあるのか』
私は思わず口を押さえました。
あります。
ちゃんとあります。
明治からある商法に、堂々と載っています。
「ございます」
所長は淡々と答えました。
『……そうか』
電話の向こうで、紙をめくる音がしました。
『顧問弁護士に見せたんだ』
「はい」
『そうしたらな……』
社長の声が小さくなりました。
『報酬額の約束がないからというだけで、払わなくていいとは言えない、と』
私は相馬先輩を見ました。
先輩は何も言わず、煙草を灰皿に置きました。
『それに……』
社長は続けました。
『うちの工場長が、作業完了書にハンコを押してるんだな』
「そのようです」
『作業日報も残ってる』
「はい」
『修理したのが本当で、金額も妥当なら、裁判で不利になる可能性があると……』
所長は黙って聞いています。
『……参ったよ』
その声には、以前の威勢がありませんでした。
『俺はな、金額を決めてないんだから払わなくていいと思ってたんだ』
「そうですか」
『でも、違うんだな』
……。
私は、胸が少し熱くなりました。
あの社長が。
やっと気づいたのです。
商売には、書面に書いていないからといって消えるわけではない責任がある。
『……村瀬さんには、悪いことをした』
社長は小さく言いました。
『本人と話して、支払うことにする』
片桐所長は短く答えました。
「そのご意向を、直接ご本人にお伝えください」
『分かった』
「支払額や支払方法についても、ご本人と確認なさってください」
『ああ』
所長は、相手方との和解条件の交渉には踏み込みませんでした。
そこは、当事者自身が判断することです。
ただ。
社長の声は、明らかに変わっていました。
『……しかし、驚いたよ』
「何がでしょう」
『報酬の約束をしていなくても、払わなきゃいけないことがあるんだな』
所長は静かに答えました。
「商売には、そういう規定がございます」
電話が切れました。
「所長!」
私は思わず立ち上がりました。
「折れましたね!」
「まだ分からん」
「え?」
相馬先輩が横から言いました。
「金が払われるまでは、終わってねえ」
「……そうでした」
「それに、全額払うかどうかも、まだ決まってないだろ」
「はい」
確かに。
商法第五百十二条があるから、必ず三十八万五千円全額が認められる。
そういうわけではありません。
相当な報酬額について、当事者が確認する必要があります。
その後。
大門社長は、村瀬さんに直接謝罪しました。
そして、修理内容と料金明細を改めて確認したうえで、請求額の三十八万五千円を支払うことに合意しました。
支払期日。
金額。
振込先。
双方が確認した内容は、書面に残されました。
後日。
村瀬さんの口座に、全額が振り込まれました。
ようやく。
三日間の仕事に、正当な値段がついたのです。
一週間後。
村瀬さんが事務所を訪れました。
今度は、一人ではありません。
息子の和彦さんも一緒です。
「ありがとうございました」
村瀬さんは深く頭を下げました。
「お金、全部入りました」
「本当ですか!」
私が喜ぶと、和彦さんが笑いました。
「親父、通帳を何度も見てましたよ」
「余計なこと言うな」
村瀬さんが照れくさそうに息子を小突きました。
その光景を見て、私はほっとしました。
でも。
村瀬さんは、すぐに真剣な顔になりました。
「先生」
「はい」
片桐所長が顔を上げました。
「実は、今回のことで一番つらかったのは、お金だけじゃないんです」
「……と言いますと」
村瀬さんは、自分の手を見ました。
油の染み込んだ指。
ひび割れた皮膚。
長年、機械を触ってきた職人の手です。
「私は、機械修理が好きなんです」
村瀬さんは言いました。
「止まってる機械を見ると、何とか動かしてやりたくなる」
私は頷きました。
「だから、夜中でも行きました」
村瀬さんの声が少し震えました。
「でも、社長から『勝手に直したんだろ』って言われたとき……」
そこで、言葉が途切れました。
「自分たちの三日間が、何もなかったことにされた気がして」
私は黙りました。
そうか。
お金だけではないんですね。
三日間。
三人の職人が。
眠い目をこすって。
油まみれになって。
危険な機械に向き合って。
壊れたものを動かした。
その仕事を。
「約束していない」
という一言で、なかったことにされた。
それが、何より悔しかったのです。
「でも」
村瀬さんは笑いました。
「法律って、ちゃんと見てくれるんですね」
「え?」
「契約書がなくても、働いたことを」
私は、言葉に詰まりました。
商法第五百十二条。
たった一文の条文。
難しい言葉は、ほとんどありません。
でも。
この条文には。
商売として誰かのために働いた人が、報酬の取り決めをしなかったというだけで、当然にタダ働きにされるわけではない。
そんな考え方が込められているのです。
「村瀬さん」
私は言いました。
「もちろん、何でも請求できるわけじゃありません」
「はい」
「でも、今回みたいに、商人が本業として依頼された仕事をした場合には、相当な報酬を請求できる仕組みがあるんです」
村瀬さんは頷きました。
「ありがたいことです」
すると、和彦さんが口を開きました。
「実は親父、あの金が入らなかったら……」
「おい、和彦」
「いいじゃないか」
息子さんは続けました。
「従業員の松井さんに払う今月の給料が、ちょっと苦しかったんです」
……。
私は息を呑みました。
三人の町工場。
社長と息子と職人。
その一人の給料。
三十八万五千円は。
ただの数字ではなかった。
誰かの生活費。
誰かの家族の食卓。
誰かが、来月も安心して働けるためのお金。
そういうものだったのです。
「でも、これで大丈夫です」
村瀬さんは笑いました。
「松井にも、きちんと給料を払えます」
私は、胸の奥が温かくなりました。
法律って。
こういうところで、人を守っているんですね。
二人が帰ったあと。
私は机に向かい、商法の六法を開いていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「商法って、会社の偉い人のための法律だと思ってました」
「また極端だな」
「だって、商人とか商行為とか、普段あんまり聞かないじゃないですか」
「まあな」
「でも、今回の商法第五百十二条って……」
私は条文を指差しました。
「すごく、人間くさい法律ですね」
相馬先輩が顔を上げました。
「人間くさい?」
「はい」
私は言いました。
「仕事をしてもらったら、その仕事に見合うお金を払う」
「うん」
「当たり前のことみたいですけど」
「そうだな」
「その当たり前を、契約書がないって理由だけで壊そうとする人がいる」
先輩が頷きました。
「商売ってのは、そういうもんだ」
私は首をかしげました。
「どういうことですか?」
「善意だけじゃ回らねえってことだ」
相馬先輩は煙草を取り出しました。
「村瀬は善意で助けに行ったかもしれねえ。でも、あいつは修理を商売にしてる」
「はい」
「商売としてやった仕事に、値段がつくのはおかしくねえ」
「そうですね」
「だから、報酬額を決め忘れたってだけで、全部タダにされちゃ困るんだよ」
なるほど。
私は頷きました。
商人の報酬請求権。
これは。
誰かの親切に勝手に値札を貼る制度ではない。
商売として人のために行為をしたとき、その仕事に見合う報酬を認める制度です。
そこが、大切なのです。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「もし私が先輩の机を掃除したら、報酬を請求できますか?」
「は?」
「だって、他人のために行為をしてますよね!」
「お前、掃除屋を営業してるのか?」
「……してません」
「じゃあ商法第五百十二条を持ち出すな」
「ぐっ!」
相馬先輩が笑いました。
「それにな」
「何ですか」
「俺は掃除を頼んでねえぞ」
「でも綺麗になります!」
「勝手に掃除して勝手に金を取るな!」
「……なるほど」
確かに。
商法第五百十二条があれば、誰でも好き勝手に他人のために何かをして、報酬を請求できる。
そんなわけではありません。
商人。
営業の範囲。
他人のための行為。
そして、当事者の合意や具体的な事情。
それらを考えなければいけない。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「勉強になりました!」
「そりゃよかったな」
「じゃあ、もう一問いいですか?」
「何だよ」
「もし村瀬さんが、修理の前に『今回は無料でやります』って約束していたら?」
相馬先輩は頷きました。
「そこは違ってくるな」
「ですよね!」
商法第五百十二条。
報酬の取り決めがなくても、相当な報酬を請求できる。
でも。
明確に無償で引き受ける合意があったなら、その合意を無視して当然に報酬を請求できるわけではない。
「だから、今回も最初に確認したんですね」
「そうだ」
「無償の約束はなかったか」
「そういうことだ」
なるほど。
条文だけ覚えても、事件は解けません。
その条文が、どんな事実に使えるのか。
そこまで考えてこそ、法律は役に立つのです。
夕方。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
村瀬さんの油まみれの手。
三日三晩の修理。
報酬を踏み倒そうとした社長。
そして。
三十八万五千円の請求書。
「商人が営業の範囲内で他人のために行為をした場合には、報酬の約束がなくても相当な報酬を請求できることです」
「うん」
「ただし、請求した金額が必ず全部認められるわけではありません」
「そうだ」
「それから、無償で行う合意があった場合などは別に考える必要があります」
所長が頷きました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
「所長!」
「何だ」
「商法って、ちょっと好きになりました!」
「そうか」
「はい!」
私は六法を閉じました。
そして、ノートを開きました。
今日の教訓。
一行だけ。
ゆっくり書きます。
――商人が本業として他人のために働けば、報酬の約束がなくても、相当な報酬を請求できる。
私は、その一行を眺めました。
うん。
これなら忘れません。
商法第五百十二条。
たった一文。
でも。
あの小さな町工場を守るには、十分な力を持っていました。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「さっき、俺の机を掃除したって言ったな」
「はい!」
「どこを掃除した?」
「机の上です!」
「……俺の書類は?」
「綺麗にまとめました!」
「どこへ?」
「棚です!」
相馬先輩の顔色が変わりました。
「どの棚だ!」
「え?」
「今朝まで作ってた契約書の原案がねえんだよ!」
「あっ!」
私は固まりました。
そういえば。
書類を綺麗に揃えて、棚の一番上に置いたような。
「こはる!」
「はい!」
「探せ!」
「でも先輩!」
「何だ!」
「私、先輩のために掃除したんですよ!」
「だから何だ!」
「商法第五百十二条による報酬請求は無理でも、感謝くらいは――」
「書類を見つけてから言え!」
「はいっ!」
私は慌てて棚へ走りました。
……なるほど。
他人のために行為をした。
それだけで、いつでも報酬が発生するわけではない。
まして。
頼まれてもいない掃除で、先輩の仕事を増やしてしまった場合。
どう考えても、報酬を請求できる話ではありません。
「ありました!」
私は書類を掲げました。
「一番上の棚です!」
「最初からそこに置いたって言え!」
「整理整頓です!」
「余計な整理をするな!」
相馬先輩が怒鳴りました。
私は笑いながら、書類を渡しました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが訪れています。
工場の煙突から、白い煙が上がっていました。
きっと今頃。
村瀬さんの町工場でも、仕事が続いているのでしょう。
古い機械を直す音。
金属を削る音。
職人同士の声。
小さな工場から生まれる、確かな仕事。
その一つ一つに、値段がある。
なぜなら。
働くということは、誰かの時間と技術を使うことだからです。
商法は。
その時間と技術を、契約書がないというだけで、簡単にゼロにはさせない。
もちろん、どんな仕事でも、好きな金額を請求できるわけではありません。
でも。
商人が営業として他人のために働いたとき。
相当な報酬を求める道は、ちゃんと用意されている。
私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――商人が本業として他人のために働けば、報酬の約束がなくても、相当な報酬を請求できる。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「今度は何だ!」
「電話だ! 出ろ!」
私は慌てて受話器を取りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『ちょっと相談したいんですが……』
「はい。どうされましたか?」
『うち、商店街で運送業をやってるんですけど……』
運送業。
商人。
営業。
私は鉛筆を握りました。
『荷物を運んでやった相手が、運賃を払わないんですよ』
「……!」
『最初に金額を決めてなかったから、払う必要はないって言われまして……』
私は相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
そして。
にやりと笑いました。
「こはる」
「はい!」
「まず、何を確認する」
私は受話器を握り直しました。
「営業として運送をしているのか!」
「うん」
「誰の依頼で、どんな運送をしたのか!」
「うん」
「報酬や運賃について、どんな取り決めがあったのか!」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
今度は、間違えません。
契約書がない。
報酬を決めていない。
だから、タダ。
そんな単純な話ではないのです。
「先輩!」
「何だ!」
「商法第五百十二条、また出番かもしれません!」
「今度は運送の規定も確認しろよ!」
「あっ、そうでした!」
……。
どうやら。
商法の世界は、まだまだ奥が深いようです。
でも。
今日、ひとつだけ確信しました。
仕事をした人間が、その仕事に見合う報酬を求める。
その当たり前を守るために。
商法は、百年以上も前から、ちゃんと準備していたのです。
そして。
契約書がないから払わない。
そう言って笑う社長ほど。
商法第五百十二条を開いた瞬間、笑えなくなることがある。
だって。
約束していないのは、報酬の金額かもしれない。
でも。
それは、働いた事実まで消していいという約束ではないのです。
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