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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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586/701

[商法・商事契約の成立]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 返事をしなければ、契約は成立しない。


 普通は、そう思いますよね。


 ところが。


 商売の世界には、恐ろしい例外があります。


 返事をしなかったせいで。


 契約を承諾したことになる。


 しかも。


 契約を断ったとしても、相手から預かった商品を勝手に捨ててはいけない。


 商法という法律は。


 どうやら、商売人の「知らなかった」と「黙っていた」には、かなり厳しいようです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……先輩」


「何だ」


「今日の事件、改めて考えると怖くありません?」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何がだ」


「返事をしなかっただけで、五百万円の契約が成立したんですよ?」


「ああ」


「五百万円ですよ!」


「聞こえてる」


「私だったら、絶対に返事します!」


「そうしろ」


 私はノートを指差しました。


「しかも、契約を断っても預かった物品を保管しなきゃいけないんです!」


「ああ」


「商法って、何もしない自由を認めてくれないんですか?」


 相馬先輩は、煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる」


「はい」


「商売人が何もしなかったせいで、誰が困った?」


 私は口を閉じました。


 三浦縫製工業。


 社長の三浦澄江さん。


 十二人の従業員。


 五百万円の特注カーテン。


 そして、湖畔観光ホテル。


 十年以上続いた取引先からの申込みに、返事をしなかった黒岩社長。


 その結果。


 完成したカーテン二百組が、行き場を失いかけた。


 年末の給料も危なかった。


「……澄江さんたちです」


「そうだ」


「でも、どうして返事をしないだけで契約成立になるんでしょう?」


「それを考えるのが、今日の勉強だろ」


 私は鉛筆を握りました。


 よし。


 今日は、商法の契約成立を整理します。


 ただし。


 現代の民法と、昭和の商法。


 またしても時代の違いに気をつけなければなりません。


 未来の条文を口にしたら。


 相馬先輩に怒られます。


 ……もう何回怒られたことでしょう。


「所長!」


「何だ」


「今日は商法五百七条から五百十条まで、完全に覚えます!」


 奥から片桐所長の声が返ってきました。


「事件を思い出しながら整理しろ」


「はい!」


 こうして。


 今日も片桐事務所の、強制勉強会が始まりました。


「まず、契約の成立からです」


 私はノートの真ん中に、大きく書きました。


 ――申込み。


 ――承諾。


 ――契約成立。


「基本的には、申込みと承諾が合致すると契約が成立するんですよね」


「そうだ」


 たとえば。


 私が相馬先輩に言います。


「先輩、この万年筆を千円で買いませんか?」


「買わねえ」


「早い!」


「要らねえもん」


「例え話です!」


 私は咳払いしました。


「じゃあ、買うと言ったら?」


「契約成立だな」


「そうです!」


 売主が、千円で売ると申し込む。


 買主が、その条件で買うと承諾する。


 その意思表示が合致すれば、原則として売買契約が成立します。


「ここまでは簡単ですよね」


「ああ」


「でも、実際の商売では、すぐに返事が来るとは限りません」


 私は昨日の事件を思い出しました。


 澄江さんが、カーテンの製作条件をホテルに提出した。


 数量二百組。


 代金五百万円。


 納期も指定。


 ところが。


 ホテルは、返事をしなかった。


「この場合、普通の契約なら、申込みをしただけで当然に契約成立とはなりません」


「そうだな」


「でも、商法には特別なルールがある」


 相馬先輩が頷きました。


「商人同士の取引は、素早く処理しなきゃ困るからな」


 なるほど。


 一般の人が、たまに物を売り買いするのとは違う。


 商売人は、毎日、大量の取引をしています。


 今日注文して。


 明日材料を買って。


 明後日には工場を動かす。


 それなのに。


 相手がいつまでも返事をしなかったら。


 商売が止まってしまうのです。


「だから、商法には民法とは違う特別な規定があるんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく丸をつけました。


 ――商法は、迅速で安全な商取引を重視する。


 よし。


 ここが出発点です。


「次は、商法五百七条です!」


 私は六法を開きました。


 ――対話者間における契約の申込み。


「先輩、対話者間って、直接会って話している場合ですよね」


「そうだ」


「電話も含まれますよね」


「ああ。距離じゃなく、その場で意思をやり取りできるかが大事だ」


 なるほど。


 目の前で会話している場合。


 電話で話している場合。


 相手の返事を、その場で聞ける取引です。


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年の商法第五百七条。


 商人である対話者の間で契約の申込みを受けた者が、直ちに承諾しなかったときは、その申込みは効力を失う。


「つまり!」


 私は顔を上げました。


「その場で返事をしないと、申込みが消えてしまうんですね!」


「そうだ」


「じゃあ、実験します!」


「何をだ」


 私は鉛筆を一本取りました。


「先輩、この鉛筆を十円で買いませんか?」


「……」


 相馬先輩は黙っています。


「先輩?」


「……」


「聞こえてます?」


「……」


 無視です。


 完全に無視。


「先輩!」


「何だ」


「返事してくださいよ!」


「もう遅えだろ」


「え?」


「お前の申込みは、その場で承諾しなかったから効力を失った」


 ……。


 あ。


「そうでした!」


 私は思わず笑いました。


「じゃあ三日後に先輩が買うって言っても?」


「元の申込みを承諾して契約成立、とはならねえ」


「なるほど!」


 これが、商法五百七条。


 対話者間の申込みは、その場の即答が原則。


 もちろん。


 別途、申込みの効力を維持する合意などがあれば、その内容を検討する必要があります。


 でも。


 相手が何も答えずに会話が終わった。


 それなのに。


 三日後になって突然、


「やっぱり買います!」


 と言われても、元の申込みが当然に生きているわけではありません。


「あっ!」


 私は昨日の電話を思い出しました。


「所長!」


「何だ」


「昨日の相談です!」


 店で向かい合って商品の売買を申し込んだ男性。


 相手は、その場では返事をしなかった。


 そして三日後。


「やっぱり買います」


 と言ってきた。


「まさに五百七条ですね!」


「そうだ」


「じゃあ、最初の申込みは、原則として効力を失っている」


「ああ」


「三日後の返事だけで、元の条件の契約が成立するわけじゃない」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 ただし。


 ここで一つ、疑問が生まれます。


「先輩」


「何だ」


「三日後に『買います』って言った相手は、絶対に買えないんですか?」


「そんなことはねえ」


「え?」


「売主が改めて応じればいいだろ」


 ……あ。


 そうですね。


 最初の申込みが効力を失ったとしても。


 新しい申込みと承諾によって、契約を結び直すことはできます。


「つまり、申込みが失効することと、二度と契約できないことは違うんですね」


「そのとおりだ」


 私は書きました。


 ――対話者間では、直ちに承諾しなければ原則として申込みは失効。


 ――後日契約するなら、新たな意思の合致が必要。


 これなら覚えやすいです。


「次は五百八条です」


 私はページをめくりました。


 ――隔地者間における契約の申込み。


「隔地者間って、離れた場所にいる商人同士ですよね」


「ああ」


「でも、単に距離が遠いだけじゃないんですよね」


「そうだな」


 東京と大阪でも。


 電話でその場で会話しているなら、対話者間として考えます。


 一方。


 郵便などで申込みを送って、相手の返事を後から受け取る。


 こういう場合が、典型的な隔地者間の取引です。


 昭和六十三年。


 電子メールもありません。


 まして、スマートフォンのメッセージアプリもない。


 商売の重要な連絡には。


 郵便。


 電報。


 電話。


 ファクシミリ。


 そういった手段が使われています。


「先輩、商法五百八条は何が違うんですか?」


「対話者と違って、相手がその場で返事できるとは限らねえ」


「はい」


「だから、承諾期間を定めていない申込みなら、相当の期間を考える」


 私は六法を読みました。


 商人である隔地者間において、承諾期間を定めないで契約の申込みを受けた者が、相当の期間内に承諾の通知を発しなかったとき。


 その申込みは、効力を失う。


「つまり、返事を出すまでに相当の期間が認められるんですね」


「そうだ」


「対話者間は直ちに。隔地者間は相当の期間!」


 私はノートに二重線を引きました。


 ここ。


 試験で混同しそうです。


「ところで先輩」


「何だ」


「相当の期間って、何日ですか?」


「決まってねえ」


「ええっ!」


「取引の内容や事情による」


「三日ですか?」


「場合による」


「一週間ですか?」


「場合による」


「二十一日なら?」


「だから、場合によるって言ってんだろ!」


 ……。


 怒られました。


 でも、ここは大切です。


 法律が、すべての商取引について一律に三日とか七日とか決めているわけではありません。


 商品によって違います。


 生鮮食品なら、価格も品質も短期間で変わる。


 特注の機械なら、仕様確認に時間が必要な場合もある。


 申込みの方法や、従前の取引事情も関係します。


「じゃあ、昨日のホテルの事件では?」


 私が聞くと、相馬先輩が頷きました。


「東京の商社からの申込みだな」


「はい」


 八月二十日。


 東京の商社が、ホテルにカーテン納入を申し込んだ。


 承諾期間の指定はなかった。


 ホテルが承諾の電報を発したのは、九月十日。


 二十一日後です。


「新館の工事日程が迫っていましたし、価格も変動する商品でした」


「そうだな」


「だから、二十一日も経ってからの承諾が相当の期間内だったか、問題になる」


「そうだ」


 ただし。


 二十一日だから絶対に遅い。


 とは言い切れません。


 取引内容や、申込み当時の事情を確認する必要があります。


「所長」


「何だ」


「相当の期間が過ぎていたら、どうなりますか?」


「申込みは効力を失う」


「では、その後に承諾の通知が届いたら?」


 所長が言いました。


「民法五百二十三条だ」


 私は六法を開きました。


「はい!」


 昭和六十三年当時の民法第五百二十三条。


 遅延した承諾について、申込者はこれを新たな申込みとみなすことができる。


「つまり!」


 私は鉛筆を握りました。


「遅れて届いた承諾を、今度は相手からの新しい申込みとして扱えるんですね!」


「そうだ」


 たとえば。


 東京の商社がホテルに、


「カーテンを四百万円で納入します」


 と申し込んだ。


 ホテルが相当の期間内に承諾の通知を発しなかった。


 申込みは失効。


 その後。


 ホテルが、


「四百万円でお願いします」


 と承諾の電報を出した。


 でも。


 もとの申込みは、すでに効力を失っている。


「このとき、東京の商社は?」


 相馬先輩が聞きました。


「その遅れた承諾を、ホテルからの新しい申込みとみなせます!」


「そうだ」


「そして商社が、それを承諾すれば契約成立!」


「よし」


 私は嬉しくなりました。


 何となく分かってきました。


 最初は商社が申込者。


 ホテルが承諾者。


 でも、返事が遅すぎた場合。


 今度はホテル側の遅れた承諾が、新しい申込みになることがある。


 立場が入れ替わるのです。


「面白いですね!」


「商売の話だぞ」


「でも、法律の仕組みとして面白いんです!」


 私はノートに書きました。


 ――隔地者間の期間を定めない申込みは、相当期間内に承諾通知を発しなければ失効。


 ――遅延した承諾は、新たな申込みとみなせる。


 そのとき。


 ふと気づきました。


「あれ?」


「何だ」


「先輩、これ民法五百二十三条ですよね?」


「そうだ」


「でも、私が現代で覚えたのは……」


 私は頭の中の六法を思い出しました。


 現代の民法。


 遅延した承諾の効力。


 ……五百二十四条。


「あっ!」


 思わず叫びました。


「何だ!」


「条文番号が違う!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「何の話だ」


「いえ、その……」


 しまった。


 また未来の知識です。


 私は慌ててノートに小さく書きました。


 昭和六十三年。


 商法五百八条二項が準用するのは、当時の民法五百二十三条。


 現代。


 遅延した承諾の規定は、民法五百二十四条。


 民法の契約成立に関する規定が改正・整理された結果、条文番号が変わっているのです。


「先輩」


「何だ」


「昭和の法律って、現代の条文番号で覚えていると危険ですね」


「今の六法で調べろ」


「はい……」


 また、未来人の弱点を突かれました。


 でも。


 こういう違いを知ると。


 現代の法律が、昔からずっと同じ姿だったわけではないと実感します。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「いよいよ今回の本命だ」


「商法五百九条ですね!」


 私は、ノートの真ん中に大きく書きました。


 ――諾否通知義務。


「読めるか?」


「だ、く、ひ……」


「諾否だ」


「分かってます!」


 諾否。


 承諾するか。


 拒絶するか。


 つまり。


 イエスか、ノーか。


「何だ、簡単じゃないですか」


「字面だけで判断するなよ」


「はい」


 私は六法を読みました。


 商法第五百九条。


 商人が、平常取引をする者から、その営業の部類に属する契約の申込みを受けたときは、遅滞なく諾否の通知を発しなければならない。


 そして。


 その通知を発することを怠ったときは。


 その申込みを承諾したものとみなされる。


 ……。


 やっぱり。


 これは、すごい規定です。


「先輩」


「何だ」


「普通は、返事をしなければ承諾していないことになりますよね」


「ああ」


「でも、五百九条では?」


「一定の条件が揃えば、承諾したものとみなされる」


「ですよね!」


 私は勢いよく書きました。


 ――沈黙が、承諾になる。


 すると。


「待て」


 片桐所長の声がしました。


「はい?」


「その書き方では、広すぎる」


「え?」


「誰からの申込みでも、黙っていたら承諾になるのか」


 ……。


 あ。


「違います!」


「では、要件を言ってみろ」


 私は六法を見直しました。


「まず、申込みを受けた者が商人であること」


「うん」


「次に、平常取引をする者からの申込みであること」


「うん」


「そして、その商人の営業の部類に属する契約の申込みであること」


「そうだ」


「そのうえで、遅滞なく諾否の通知を発しなかったこと!」


 所長が頷きました。


「その条件が重要だ」


 なるほど。


 何でもかんでも沈黙が承諾になるわけではありません。


 たとえば。


 初めて訪れた見知らぬ業者が、突然カーテンの販売を申し込んできた。


 ホテルが返事をしなかった。


 それだけで商法五百九条の承諾擬制が働くわけではありません。


 平常取引という関係がないからです。


「じゃあ、昨日のホテルは?」


 相馬先輩が聞きました。


「三浦縫製工業と十年以上取引していました!」


「そうだ」


「しかも、旅館用カーテンはホテルの営業に関係しています」


「ああ」


「そして、申込書を受領したのに、諾否の通知を発しなかった」


「そこだ」


 私は頷きました。


 今回の事実が、すべてつながりました。


 十年以上の継続取引。


 同じ種類の商品。


 いつもの手順。


 受領印。


 そして、返事なし。


 黒岩社長は、


「俺が承諾した覚えはない!」


 と怒鳴っていました。


 でも。


 商法五百九条は、まさにそのような沈黙に意味を持たせる規定だったのです。


「先輩!」


「何だ」


「これ、黒岩社長が何も言わなかったこと自体が、決定打だったんですね!」


「そうだ」


「返事をした証拠がないのに困るんじゃなくて、返事をしなかった事実が問題になる」


「よく分かったな」


 私は少し得意になりました。


 商法。


 なかなか面白いです。


「でも、先輩」


「今度は何だ」


「どうして、昔から取引している相手だと、こんなに厳しいんですか?」


 相馬先輩は少し考えました。


「お前、いつも買い物する八百屋があるとするだろ」


「はい」


「毎朝、同じ野菜を仕入れてる料理屋がある」


「はい」


「十年間、同じように注文を受けてきた」


「はい」


「ところが、ある日突然、八百屋が何も返事をしなくなった」


 私は首をかしげました。


「困りますね」


「料理屋は、明日の仕込みをどうする?」


「野菜が来ると思って準備してしまうかもしれません」


「そうだ」


「でも八百屋は、返事をしてないから契約してないって……」


 私は言葉を止めました。


 あ。


 なるほど。


「先輩!」


「何だ」


「長年の取引では、相手がいつものように対応してくれるという信頼があるんですね!」


「そうだ」


 商売というものは。


 一回限りの契約だけではありません。


 毎日。


 毎週。


 毎月。


 同じ取引先と、何度も契約することがあります。


 そのたびに。


 長い交渉をしていたら、仕事が進まない。


 だから、普段から一定の取引関係がある相手には。


 申込みを受けたら、速やかに返事をすることが求められる。


 そして。


 それを怠った場合には、法律が承諾という効果を与える。


「相手の信頼を守るためなんですね」


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 ――商法五百九条は、継続的な取引関係における相手方の信頼を保護する。


 なるほど。


 ただの意地悪な法律ではありません。


 ちゃんと理由があるのです。


「ところで」


 私は鉛筆を止めました。


「五百八条と五百九条って、ぶつかりません?」


 相馬先輩が顔を上げました。


「ほう」


「五百八条では、相当期間内に承諾の通知を発しないと申込みが失効しますよね」


「ああ」


「でも五百九条では、諾否の通知を怠ると承諾したものとみなされる」


「そうだ」


「同じ『返事をしない』なのに、逆の結果ですよ!」


 私は両手を広げました。


「片方は失効!」


「うん」


「片方は承諾!」


「ああ」


「どっちなんですか!」


 相馬先輩が笑いました。


「だから、要件を見ろって言ってるだろ」


 ……。


 また、それですか。


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる。五百九条には何と書いてある」


「平常取引をする者からの申込みです」


「五百八条には?」


「商人である隔地者間の、承諾期間を定めない申込みです」


「同じ条件か」


「……違います」


 私は頷きました。


 五百八条は、隔地者間で期間を定めない申込みについての一般的なルール。


 五百九条は、平常取引という特別な関係にある場合の、諾否通知義務と承諾擬制のルール。


「だから、五百九条の要件が揃う場合は、その特別なルールを考えるんですね」


「そうだ」


 私は大きく書きました。


 ――商法五百八条と五百九条は、適用要件を区別する。


 これです。


 行政書士試験。


 たぶん、こういうところが狙われるんでしょうね。


 似たような条文。


 似たような状況。


 でも。


 結果は逆。


「先輩」


「何だ」


「問題を作る人って、性格悪くありません?」


「法律に文句を言うな」


「問題を作る人に言ってます!」


 相馬先輩は、呆れたように笑いました。


「さて、次は五百十条です」


 私はページをめくりました。


 ――契約の申込みを受けた者の物品保管義務。


 ここで。


 昨日の雨に濡れたカーテンを思い出しました。


 藍色の布地。


 金色の糸。


 屋外に置かれた段ボール箱。


 そして。


 澄江さんの悲しそうな顔。


「先輩」


「何だ」


「契約を断った場合でも、物品の保管義務があるんですよね」


「ああ」


「でも、どうしてですか?」


 相馬先輩が、机の上の布製コースターを手に取りました。


「たとえばな」


「はい」


「お前が商売してるとする」


「はい」


「ある業者が、取扱いを申し込むために、このコースターを見本として置いていった」


「はい」


「お前は、その取扱いを断った」


「はい」


「じゃあ、コースターを窓から放り投げていいか?」


「駄目です!」


「何でだ」


「人の物だからです!」


 私は即答しました。


 相馬先輩が頷きます。


「そういうことだ」


 ……。


 あ。


 本当に、そのとおりです。


 契約を断ること。


 預かった物を勝手に処分すること。


 これは別問題です。


 商法五百十条。


 商人が、その営業の部類に属する契約の申込みを受けた場合。


 その申込みとともに物品を受け取ったときは。


 たとえ申込みを拒絶しても。


 原則として、申込者の費用で、その物品を保管しなければならない。


「つまり、契約が成立しなくても、保管義務が生じる場合があるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 ここ、重要です。


 売買契約を結んだかどうか。


 それとは別に。


 申込みとともに物品を受け取ったという事実から、保管義務が生じる。


「じゃあ、昨日のホテルも?」


「申込みとともに試作品を受け取っていたからな」


「はい」


「仮に契約を拒絶していたとしても、五百十条の問題は残る」


 私は拳を握りました。


 黒岩社長。


「契約してないから、試作品なんか知らん!」


 そんな言い訳は。


 商法の前では、簡単には通らないのです。


「でも、先輩」


「まだあるのか」


「保管費用は、誰が負担するんですか?」


「申込者だ」


「えっ!」


 私は驚きました。


「預かった商人じゃないんですか?」


「条文を読め」


 私はもう一度、五百十条を見ました。


 ――申込者の費用をもって。


 ……。


 本当です。


「つまり、申込みをした側が保管費用を負担するんですね」


「そうだ」


「じゃあ、保管を引き受けた商人が、全部自腹で面倒を見るわけではない」


「ああ」


 なるほど。


 これも、ちゃんとバランスを取っています。


 商品を持ち込んだのは、申込者。


 契約を断った相手に、無制限に費用を負担させるのは公平ではありません。


 だから。


 保管する義務はある。


 でも、費用は原則として申込者が負担する。


 という仕組みになっているのです。


「先輩!」


「何だ」


「これ、試験で出そうです!」


「そうだろうな」


「『保管費用は、申込みを受けた商人が負担する』」


「間違いだな」


「正解!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――保管義務を負うのは、申込みを受けた商人。


 ――保管費用を負担するのは、申込者。


 よし。


 完璧です。


 ……と思ったところで。


 相馬先輩が言いました。


「まだ終わりじゃねえぞ」


「えっ?」


「例外がある」


 私は六法を見直しました。


 ありました。


 ただし書。


 しかも、二つ。


「一つ目は?」


 相馬先輩が聞きました。


「物品の価額が、保管費用を償うのに足りない場合です!」


「そうだ」


 たとえば。


 百円の価値しかない商品を預かった。


 でも、それを保管するには毎日千円もかかる。


 そんな場合。


「保管義務があるから、何万円かかっても保管し続けろ!」


 とは言えません。


 さすがに、それは不合理です。


「では、二つ目」


 片桐所長が言いました。


「商人が保管によって損害を受ける場合です」


「そうだ」


 たとえば。


 保管しているだけで、ほかの商品を傷める危険がある物品。


 あるいは、危険な状態を生じさせるような物品。


 そうしたものについてまで、商人に保管義務を押しつけるわけにはいきません。


「つまり、二つの例外があるんですね」


 私は書きました。


 物品の価額が保管費用に見合わない場合。


 保管によって商人が損害を受ける場合。


「これなら覚えられます!」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ昨日のカーテンは?」


「価値があります!」


「うん」


「普通の屋内倉庫で保管できました!」


「うん」


「保管によってホテルが損害を受ける事情も、確認できませんでした!」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 だから。


 ホテルが試作品を雨ざらしにしたことは、保管義務との関係で問題になる。


 もっとも。


 実際にどの範囲の損害賠償責任が生じるかは、損傷の有無や原因など、具体的な事情を確認する必要があります。


「保管義務があることと、何でも賠償しなければならないことは違うんですね」


「そのとおりだ」


 相馬先輩が頷きました。


「法律は、結論を急ぐと間違える」


 ……。


 耳が痛いです。


 私は、結論を急ぎがちですから。


 そこまで整理したところで。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今の四つの条文、全部言えるか」


「もちろんです!」


 私は胸を張りました。


「五百七条!」


「うん」


「商人である対話者間では、直ちに承諾しなければ、原則として申込みは失効します!」


「五百八条」


「商人である隔地者間では、承諾期間を定めない申込みについて、相当期間内に承諾通知を発しなければ失効します!」


「五百九条」


「平常取引をする相手から、営業に属する申込みを受けた商人は、遅滞なく諾否を通知しなければなりません。怠れば承諾したものとみなされます!」


「五百十条」


「申込みとともに物品を受け取った商人は、拒絶しても原則として申込者の費用で保管します!」


 所長が頷きました。


「例外は?」


「物品の価額が保管費用に足りない場合と、保管によって商人が損害を受ける場合です!」


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


 やった!


 商法五百七条から五百十条。


 全部、言えました!


 ところが。


「じゃあ、もう一問」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「五百九条の諾否通知義務がある場合、返事をしないでいるとどうなる?」


「承諾したものとみなされます!」


「じゃあ、返事をしないことが、本人の本当の承諾意思だって証明されたのか?」


 ……。


 私は少し考えました。


「いいえ」


「そうだ」


「実際に承諾する意思があったかどうかとは別に、法律が承諾したものとみなすんですよね」


「そのとおり」


 私はノートに書きました。


 ――みなす。


 法律上、一定の事実を別の事実として扱うこと。


 ここも重要です。


 単に、


「たぶん承諾したんでしょう」


 と推測しているわけではありません。


 法律が、一定の要件のもとで承諾したものとして扱う。


 だから、黒岩社長が、


「俺は承諾したつもりはなかった!」


 と主張しても。


 それだけでは、商法五百九条の効果を否定できないのです。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「先輩、商法って、本当に怖いですね」


「怖いか?」


「はい」


「じゃあ、もう一つ考えてみろ」


「何をですか?」


「もし五百九条がなかったら、昨日の事件はどうなってた?」


 私は黙りました。


 澄江さん。


 五百万円。


 十二人の従業員。


 年末の給料。


 ……。


「ホテルが、返事をしていないから契約していないって言い張っていたかもしれません」


「そうだ」


「その結果、澄江さんたちが大変なことに……」


「ああ」


 私は頷きました。


 確かに。


 黒岩社長から見れば、商法は怖い。


 でも。


 澄江さんから見れば。


 商法は、自分たちの仕事を守ってくれた法律です。


「法律って、誰の立場で見るかによって、印象が変わるんですね」


 私が言うと。


 片桐所長が、静かに頷きました。


「そうだ」


 私は、昨日の写真をもう一度見ました。


 新館の窓に掛けられたカーテン。


 藍色の布地。


 金色の刺繍。


 あの仕事を守ったのは。


 たった一つの条文だけではありません。


 申込みの内容。


 長年の取引関係。


 受領印。


 通知の有無。


 物品の保管状況。


 そうした事実を、正確に整理したからこそ。


 商法が、現実の問題を解決する力になったのです。


「ところで」


 私はふと、現代の法律を思い出しました。


「先輩、商法って、将来かなり変わるんですよ」


 相馬先輩が顔を上げました。


「また未来の話か?」


「あっ」


 しまった。


 私は慌てて言い直しました。


「い、いえ! 今後改正されることもあるんだろうなって!」


「そりゃ、法律だからな」


 ……危ない。


 でも。


 ここは、こはるノートとして残しておきたいところです。


 昭和六十三年。


 会社についての基本的なルールは、商法第二編や有限会社法などに分かれていました。


 株式会社を作るにも、発起人は七人以上必要。


 取締役も三人以上。


 監査役も必要。


 現代のように、発起人一人、取締役一人で株式会社を設立することはできません。


 その後。


 平成十八年、二〇〇六年に会社法が施行されます。


 株式会社などの会社制度が独立した法律に整理され、制度も大きく変わりました。


 でも。


 ここで大事なのは。


 会社法が独立しても、商法そのものがなくなったわけではないということです。


 商行為に関する規定は、現在も商法に残っています。


 そして、契約成立に関する規定も、改正によって姿を変えてきました。


 私はノートをめくりました。


 現代の法律では。


 かつての商法五百七条は削除されています。


 対話者間の申込みについては、民法五百二十五条などの規定によって考えることになります。


 この現代民法では、対話が継続している間に承諾がなければ、原則として申込みは失効しますが、申込者が対話終了後も効力を維持する旨を表示した場合には、例外があります。


 また。


 商法五百八条は現在も存在していますが、二項が準用する民法の条文番号は、五百二十四条になっています。


 その一方で。


 商法五百九条の諾否通知義務。


 商法五百十条の物品保管義務。


 これらは、現代でも重要な商取引の規定として残っています。


「……なるほど」


 私は小さく呟きました。


 時代が変われば、条文の置き方は変わる。


 会社法のように、独立した法律として整理される制度もある。


 民法改正に合わせて、商法の条文が削除されたり、参照する条文番号が変わったりすることもある。


 でも。


 取引相手の信頼を守る。


 申込みへの返事を適切に行う。


 預かった物を大切に扱う。


 そうした商売の基本的な考え方は、時代を超えて受け継がれているのです。


「こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「はい」


「今日の事件で、一番重要だったのは何だ」


 私は考えました。


 五百七条。


 五百八条。


 五百九条。


 五百十条。


 全部大切です。


 でも。


 澄江さんを救った決定的な条文は。


「五百九条です!」


 私は答えました。


「その理由は?」


「長年取引をしていたホテルが、営業に属する契約の申込みを受けながら、諾否の通知を怠ったからです」


「そうだ」


「商法が、承諾したものとみなす規定を置いていた」


「うん」


「そして、その法律上の効果を、注文書と過去の取引記録で裏付けたんです」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は続けました。


「それから、五百十条です」


「うん」


「仮に契約を断っていたとしても、試作品の保管義務が問題になった」


「そうだ」


「だから、ホテルは契約がないと主張するだけでは、物品の扱いについての説明を免れなかった」


 相馬先輩が笑いました。


「分かってきたな」


 私は嬉しくなりました。


 昨日まで。


 商法の条文は、ただの試験範囲でした。


 五百七条。


 五百八条。


 五百九条。


 五百十条。


 数字を覚えて。


 要件を暗記して。


 問題を解く。


 そういうものでした。


 でも今は違います。


 五百七条を見れば。


 その場で返事をしなかった店主の顔を思い出す。


 五百八条を見れば。


 東京の商社へ二十一日後に送った電報を思い出す。


 五百九条を見れば。


 五百万円のカーテンを受け取らないと言い張った黒岩社長を思い出す。


 五百十条を見れば。


 雨に濡れた藍色の布地を思い出す。


 それぞれが。


 ちゃんと、事件と結びついているのです。


 私はノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行の覚え書きを書きます。


 ……でも。


 少し迷いました。


 四つの条文。


 全部を一行にまとめるのは、なかなか大変です。


「先輩」


「何だ」


「一行で覚える方法、ありませんか?」


「自分で考えろ」


「冷たい!」


「昨日の事件を思い出せ」


 私は少し考えました。


 対話者間。


 直ちに承諾。


 隔地者間。


 相当の期間。


 継続取引。


 沈黙は承諾。


 預かった物品。


 拒絶しても保管。


 ……。


 あ。


 できました。


 私は鉛筆を握り、ゆっくり書きました。


 ――対話は即答、遠隔は相当期間、いつもの取引は沈黙が承諾、預かった物は断っても保管。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「一行です!」


「一行でも長え」


「覚えられればいいんです!」


 片桐所長が、私のノートを見ました。


 そして。


「悪くない」


 短く言いました。


 ……!


 所長に褒められました!


「ありがとうございます!」


 私は嬉しくなって、もう一度読みました。


 対話は即答。


 遠隔は相当期間。


 いつもの取引は沈黙が承諾。


 預かった物は断っても保管。


 よし。


 これなら、試験でも忘れません。


 ただし。


 それぞれの適用要件や例外も、きちんと確認する必要があります。


 語呂合わせだけで、すべての問題が解けるわけではありませんから。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、もう終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、頼みがある」


「何でしょう!」


「この帳簿、整理してくれ」


 ……。


 私は机の上を見ました。


 厚い帳簿。


 三冊。


 しかも。


 書類が、山のように挟まっています。


「……先輩」


「何だ」


「それ、今からですか?」


「そうだ」


「もう夕方ですよ?」


「ああ」


「明日でもよくありません?」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「こはる」


「はい」


「俺は今、仕事を申し込んだ」


「……はい?」


「お前は、返事をしてねえな」


 ……。


 嫌な予感。


「だったら、沈黙は承諾だな」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「違います!」


「何がだ」


「商法五百九条の要件を満たしていません!」


「ほう?」


 私は六法を掲げました。


「まず、平常取引をする者からの、営業の部類に属する契約の申込みという条件が必要です!」


「うん」


「先輩が見習いに帳簿整理を頼むのは、別に商人同士の継続的な取引ではありません!」


「そうだな」


「しかも私は、商法上の商人としてこの申込みを受けているわけではありません!」


「なるほど」


「だから、黙っていただけで商法五百九条の承諾擬制が働くわけではありません!」


 私は胸を張りました。


 完璧。


 これはもう。


 法律による正当防衛です。


 ……正当防衛ではありませんけど。


 相馬先輩は、しばらく私を見ていました。


 そして。


「よし」


「はい!」


「じゃあ、普通に頼む」


「……え?」


「帳簿整理、やってくれ」


 ……。


 私は固まりました。


「先輩!」


「何だ」


「今の流れで頼み直すんですか!」


「法律上の話と、仕事の分担は別だからな」


 ぐっ。


 正論です。


 しかも。


 奥から、片桐所長の声がしました。


「こはる」


「はい……」


「帳簿整理は、今日の仕事だ」


「……はい」


「終わったら帰っていい」


「分かりました!」


 私は椅子に座り直しました。


 残念。


 今回も、法律知識で雑用を回避することはできませんでした。


 でも。


 ふと、机の上のコースターが目に入りました。


 三浦縫製工業。


 澄江さんが届けてくれた、藍色のコースター。


 丁寧な縫い目。


 金色の糸。


 あのカーテンを作った人たちの手仕事です。


 私は、そっと指で撫でました。


 五百万円。


 大きなお金です。


 でも。


 あの金額の向こうには。


 布を裁断した人。


 ミシンを動かした人。


 検品をした人。


 箱詰めをした人。


 そして、家族のために働く人たちがいました。


 商法五百九条。


 たった一つの条文が。


 その人たちの仕事を守る力になった。


 商法五百十条。


 たった一つの条文が。


 雨に濡れた試作品を、単なる不要品として扱わせない理由になった。


 法律は。


 紙の上に並んでいるだけでは、ただの文字です。


 でも。


 困っている人の事実に当てはめたとき。


 初めて、誰かを守る力になる。


 私は、今日の一行をもう一度読みました。


 ――対話は即答、遠隔は相当期間、いつもの取引は沈黙が承諾、預かった物は断っても保管。


 よし。


 完璧です。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで帳簿を整理しろ!」


「今、重要な復習をしていたんです!」


「復習は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私は、今から帳簿整理を始めます!」


「おう!」


「これは明確な承諾です!」


「知ってるよ!」


「商法五百九条のみなし承諾ではありません!」


「だから知ってるって!」


 私は笑いながら帳簿を開きました。


 窓の外。


 昭和の町に、夕暮れが広がっていきます。


 駅前には、仕事を終えた人たちの姿。


 商店街には、店じまいをする店主たち。


 そして、湖畔観光ホテルの新館には。


 今日も、藍色のカーテンが掛かっているのでしょう。


 返事をすること。


 約束を守ること。


 預かった物を大切にすること。


 どれも、当たり前のことに見えます。


 でも。


 その当たり前が守られないとき。


 誰かの生活が、簡単に壊れてしまう。


 だから商法は。


 商売人に、一定の責任を求めるのです。


 私は、帳簿に鉛筆を走らせました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も、法律の勉強は続いています。


 ただし。


 次からは、商売の返事を甘く見ないことにします。


 だって。


 何も言わなかったから、何も起きない。


 そんな都合のいい理屈が。


 商法の世界で、いつでも通用するわけではないのです。

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