[商法・商事契約の成立]現場編 「返事をしなければ契約じゃない」の嘘。沈黙で成立した五百万円の取引と、倉庫に捨てられた商品の逆襲
黙っていれば、責任を負わずに済む。
そう思っている人ほど。
返事をしなかったことを、後悔する日があります。
特に。
商売の世界では。
何も言わなかったことが、「はい」と言ったのと同じ意味になる場合があるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一枚の注文書を前に、首をかしげていました。
注文書。
受領印。
そして。
返事なし。
普通なら、契約が成立したのかどうか、怪しいところです。
ところが。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「商売人の沈黙を、甘く見るなよ」
「……はい?」
「返事をしなかったせいで、五百万円の取引が成立してることだってあるんだ」
……。
え?
返事をしていないのに?
しかも、五百万円?
私は思わず六法を開きました。
そこにあったのは。
民法ではなく。
商法。
しかも。
商売人が、商売人を守るために作った、少し怖いルールでした。
「注文したのに、受け取ってくれないんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、膝の上でハンカチを握りしめていました。
名前は、三浦澄江さん。
三十八歳。
駅の南側で、家族経営の縫製工場を営んでいます。
三浦縫製工業。
従業員十二人。
主に旅館やホテル向けのカーテン、寝具カバー、作業用布製品を製造する小さな会社です。
「受け取ってくれない?」
私は聞き返しました。
「はい。向こうから頼まれて、ずっと作ってきたものなのに……」
「何を作ったんですか?」
「旅館用の特注カーテンです」
澄江さんが封筒を開きました。
中には、布地の見本。
深い藍色。
細い金色の糸が織り込まれています。
「綺麗……」
思わず声が出ました。
「湖畔観光ホテルさんの客室用なんです。十年以上、うちが納めてきました」
湖畔観光ホテル。
駅前再整備計画に合わせて、新館を建設している地元の老舗ホテルです。
「今度、新館に百室増えることになって、それに合わせて新しいカーテンが必要だと」
「百室!」
「はい。それで、今年もお話をいただけると思っていたんです」
澄江さんは、一枚の注文書を差し出しました。
――新館客室用カーテン製作依頼。
――数量 二百組。
――単価 二万五千円。
――総額 五百万円。
――納期 昭和六十三年十月二十日。
――従前の取引条件に準ずる。
私は目を丸くしました。
「五百万円……!」
小さな縫製工場にとっては、大仕事です。
「でも、先方が注文したんですよね?」
「正確には、私どもから注文を受けていただくよう、書面を出しました」
「え?」
澄江さんは少しうつむきました。
「毎年、向こうからお話があるんです。でも今年は新館工事で忙しいから、いつものようにこちらから製作条件を出してくれと言われまして」
なるほど。
注文書という名前ですが、実際には澄江さんの工場からホテル側に出した、製作契約の申込みだったわけです。
「それで?」
「九月十五日に、ホテルの購買課へ持参しました」
「受け取ってもらえたんですか?」
「はい。受領印も押してもらいました」
私は書面を確認しました。
確かに。
右上に赤い印影。
――湖畔観光ホテル株式会社 購買課受領。
「返事は?」
「ありませんでした」
「電話は?」
「何度もしました。でも担当の方は、社長の決裁待ちだと……」
「それで、製作を始めたんですか?」
「はい」
澄江さんは唇を噛みました。
「今までずっと、同じ流れでしたから。こちらが条件を書いて出せば、変更があるときだけ向こうから連絡が来て……」
「過去の取引も?」
「はい。十年以上、そうでした」
私は少し考えました。
継続的な取引。
同じ種類の商品。
同じ取引先。
例年どおりの注文方法。
そして、返事なし。
……あれ?
これ。
もしかして。
私が口を開こうとしたとき。
澄江さんが震える声で言いました。
「それが、先週になって……」
「はい」
「もう別の会社に頼んだから、そちらのカーテンはいらないって」
「……え?」
「五百万円分、全部です」
私は固まりました。
「そんな……!」
「材料費だけで二百万円以上かかっています。従業員にも残業してもらって……」
澄江さんの声が詰まりました。
「納品できなかったら、年末の給料が払えないかもしれないんです」
……。
私は、藍色の布地を見ました。
綺麗な刺繍。
丁寧な縫い目。
そこには。
十二人分の仕事がありました。
十二人分の生活がありました。
そして。
一通の返事すら出さなかったホテルが、それを全部なかったことにしようとしていたのです。
「それ、契約成立してる可能性があります!」
私は勢いよく言いました。
「えっ?」
澄江さんが顔を上げます。
「ずっと取引していた相手なんですよね?」
「はい」
「それなら、返事をしなかったこと自体が問題です!」
よし。
商法です。
私は現代の受験勉強を思い出しました。
商法五百九条。
平常取引をする相手から、営業に属する契約の申込みを受けた商人は、遅滞なく諾否を通知しなければならない。
それを怠ると。
承諾したものとみなされる。
つまり。
「返事をしなかったから契約はない、とは限らないんです!」
私は言いました。
ところが。
「待て」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい?」
「お前、先に確認することがあるだろ」
「何ですか?」
「そのホテル、どういう会社だ?」
「株式会社ですよね?」
「そうだ」
「だったら会社法の……」
「会社法?」
……。
あ。
しまった。
またやりました。
「お前、また妙な法律を持ち出したな」
「い、いえ!」
「株式会社なら、商法の会社編だろうが」
「そ、そうですね!」
そうでした。
昭和六十三年。
まだ、独立した「会社法」という法律はありません。
会社の基本的な制度は、商法第二編などに置かれています。
しかも。
私は思わず呟きました。
「今だったら、発起人一人でも株式会社を作れるのに……」
「は?」
相馬先輩が眉を上げました。
「発起人が一人?」
「あっ」
「株式会社を作るなら、発起人は七人以上だぞ」
「……ですよね」
「取締役も三人以上だ。監査役も必要だ」
「はい……」
「お前、どこの国の会社を作ろうとしてんだ?」
未来の日本です。
とは言えません。
私は慌てて話を戻しました。
「で、でも今回は、会社設立の問題じゃありません!」
「当たり前だ」
「商行為の問題です!」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
先輩は机を指で叩きました。
「会社が相手だからといって、何でも会社編を開けばいいわけじゃねえ」
「はい」
「商売の契約なら、商行為の規定を見ろ」
私は六法を開き直しました。
商法。
商行為。
五百七条。
五百八条。
五百九条。
五百十条。
……。
似たような数字が並んでいます。
嫌な予感がしました。
「先輩」
「何だ」
「この辺り、全部契約の話ですよね」
「ああ」
「ものすごく紛らわしくありません?」
「法律は、紛らわしいところほど商売になるんだよ」
「そんな商売、嫌です!」
片桐所長が静かに口を開きました。
「こはる」
「はい」
「今回の相手は、長年取引しているホテルだな」
「はい」
「申込みは、ホテルの営業に関係するカーテン製作だな」
「はい」
「通知は出していない」
「はい」
「なら、その沈黙には意味がある」
所長は、注文書を私の前に置きました。
「ただし、最初に確かめるのは、本当に契約の申込みだったかどうかだ」
私は息を呑みました。
なるほど。
書面の題名だけではない。
価格。
数量。
納期。
取引条件。
それらが具体的に示され、相手が承諾すれば契約になる内容だったのか。
そこが出発点です。
「そして」
所長は言いました。
「いつ、誰が、何を受け取ったか。そこを固めろ」
「はい!」
「社長が何を言おうと、書面と事実は残る」
私は注文書を握り直しました。
どうやら今回は。
返事をしなかった相手に、商法の怖さを教えることになりそうです。
翌日。
私たちは澄江さんとともに、湖畔観光ホテルへ向かいました。
もちろん。
私たち行政書士が、依頼人の代理人として法律紛争の交渉をするわけにはいきません。
今回は、澄江さん本人が事実確認を申し入れ、私たちは依頼された書類の確認と、今後の資料整理のために同行する形です。
ホテルの応接室。
そこに現れたのは。
「何だ、またカーテン屋か」
恰幅のよい男でした。
高そうな背広。
金色の腕時計。
そして、いかにも人を見下すような目。
湖畔観光ホテル株式会社。
代表取締役社長。
黒岩剛三。
五十八歳。
「三浦さん。もう話は終わったはずだろう」
黒岩社長はソファに腰を下ろしました。
「社長……」
澄江さんが頭を下げます。
「どうか、もう一度ご検討いただけませんか」
「検討も何も、契約していない」
「でも、注文書は……」
「受け取っただけだ」
黒岩社長は鼻で笑いました。
「俺が承諾した覚えはない」
「……」
「契約ってのはな、双方が合意して初めて成立するんだよ」
私は黙って聞いていました。
一般論としては、間違っていません。
でも。
それで終わらないのが商法です。
「お前たちは勝手に作ったんだろう」
黒岩社長が言いました。
「うちは頼んでいない」
「でも、購買課の方から、いつものように条件を出してほしいと……」
「そんなものは正式発注じゃない!」
社長が机を叩きました。
「いいか。返事をしていないということは、断ったのと同じだ!」
……。
私は思わず顔を上げました。
相馬先輩も、わずかに眉を動かしました。
返事をしていない。
だから断った。
……逆です。
少なくとも、今回のような継続的な商取引では。
その沈黙が、承諾として扱われる可能性があります。
「ところで」
黒岩社長が私たちを見ました。
「あんたら、弁護士か?」
「行政書士です」
相馬先輩が答えました。
「行政書士?」
黒岩社長は笑いました。
「じゃあ、裁判もできないじゃないか」
「そうですね」
「契約したかどうかを争うなら、弁護士でも連れてこい」
私は唇を噛みました。
悔しい。
でも、事実です。
行政書士は、弁護士ではありません。
争いになっている契約について、代理人として相手を追及したり、裁判で請求を行ったりすることはできません。
だけど。
書類を整理することはできます。
相手の言い分を記録することもできます。
そして、本人の意思に基づく通知書を作成することもできます。
片桐所長は、静かに澄江さんへ確認しました。
「受領印のある申込書の原本は、お持ちですね」
「はい」
「過去の取引書類も?」
「十年分あります」
「今回、断りの通知を受けたことは?」
「一度もありません」
「分かりました」
それだけでした。
黒岩社長が鼻で笑います。
「何だ、もう終わりか?」
片桐所長は、表情を変えません。
「事実関係は確認できました」
「だから、契約はないって言ってるだろ」
所長は答えませんでした。
帰り際。
黒岩社長が最後に言いました。
「商売ってのは、社長が決めるもんだ。俺が頼んでないと言えば、それまでなんだよ」
私は振り返りかけました。
すると。
相馬先輩が、小声で言いました。
「こはる」
「はい」
「覚えとけ」
「何をですか」
「社長が一番偉いんじゃねえ」
先輩は、黒岩社長を見ずに続けました。
「ルールを守った奴が勝つんだよ」
……。
私は黙って頷きました。
今はまだ。
言い返す必要はありません。
なぜなら。
あの社長が自信満々に言った言葉は。
もう、全部記録に残っているのですから。
ところが。
ホテルを出ようとしたところで。
「すみません!」
若い男性が駆け寄ってきました。
ホテルの購買課職員。
西村という男性でした。
「三浦さん!」
「西村さん……」
「実は、まだお話ししていないことが」
西村さんは、周囲を気にしながら言いました。
「先月、別の会社からも申込みがあったんです」
「別の会社?」
「東京の大手繊維商社です」
私は足を止めました。
「どんな申込みですか?」
「新館のカーテンを、もっと安く納めるという話でした」
「いつですか?」
「八月二十日です」
「返事は?」
「すぐにはしませんでした。社長が検討すると言ったので」
西村さんは続けました。
「それで、九月十日に承諾する電報を打ったんです」
「……九月十日?」
「はい」
「申込みには、いつまでに返事をするよう書いてありましたか?」
「期限の指定はありませんでした」
なるほど。
期間を定めない、離れた商人同士の申込み。
商法五百八条の問題です。
「社長は、その東京の商社と契約したつもりなんです」
「つもり?」
「はい。でも商社からは、もう当初の条件では受けられないと言われていて……」
私は驚きました。
「それって……!」
相馬先輩が私を見ました。
「気づいたか」
「はい」
離れた場所にいる商人同士。
承諾期間を定めない申込み。
相当の期間内に承諾の通知を発しなければ、申込みは効力を失う。
ただし、相当の期間がどの程度かは、取引の性質や事情によります。
今回。
八月二十日から九月十日。
二十一日間。
新館の工事日程が迫る、数量も価格も変動しやすい特注品取引。
東京の商社が、いつまでも同じ条件で待っているとは限りません。
「先輩」
「何だ」
「社長、もしかして……」
「ああ」
相馬先輩が苦笑しました。
「東京の商社には返事が遅すぎたかもしれねえ。なのに、いつもの取引先には返事を出さなかった」
私は思わず頭を抱えました。
何ですか、それ。
商売の返事を、全部自分の都合で決めていたんですか。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「東京の申込みが本当に失効したかは、資料を見なきゃ分からねえ」
「はい」
「それに、仮に失効していても、遅れた承諾を新しい申込みとして相手が受け入れることはある」
「そうですね」
「取引が成立したかどうかは、最後まで確かめろ」
私は頷きました。
それでも。
一つだけ、はっきりしました。
黒岩社長は。
自分に都合のいいときだけ、返事の意味を変えていたのです。
さらに。
問題は、カーテンだけではありませんでした。
「あの……」
澄江さんが言いました。
「実は、もう一つあるんです」
「まだあるんですか!?」
私は思わず声を上げました。
「ホテルに預けたものが、返ってこなくて……」
「何をですか?」
「特注の布地見本と、試作品です」
詳しく聞くと。
三浦縫製工業は、今回の契約申込みに際して、ホテル側へ試作品を送っていました。
カーテン二組。
布地の見本帳。
装飾用の房飾り。
合わせて、相応の価値があります。
「それをホテルの倉庫に置いていたんですが……」
「はい」
「昨日、西村さんから電話があって」
澄江さんの表情が曇りました。
「社長が、いらないものだから処分しろって……」
「……え?」
「雨に濡れる屋外の荷捌き場へ出してしまったそうなんです」
私は固まりました。
藍色の布地。
丁寧に縫製された試作品。
それを。
雨ざらしに?
「そんなの、駄目じゃないですか!」
私は立ち上がりかけました。
相馬先輩が止めました。
「こはる」
「でも!」
「条文を見ろ」
「え?」
「五百十条だ」
私は六法を開きました。
商法五百十条。
契約の申込みを受けた商人が、その営業に属する申込みとともに物品を受け取った場合。
申込みを拒絶しても。
原則として。
申込者の費用で、その物品を保管しなければならない。
……。
私は目を丸くしました。
「断っても?」
「ああ」
「契約しなくても?」
「そうだ」
「預かった物は、ちゃんと保管しなきゃいけないんですか?」
「原則はな」
相馬先輩が言いました。
「ただし、保管費用が物品の価値に見合わねえ場合や、保管によって損害を受ける場合には例外がある」
「はい」
「今回の試作品は?」
「ホテルで使うカーテンです。普通に保管できます」
「そうだ」
「価値も、きちんとあります」
「なら、例外に当たる事情があるのか、確認が必要だ」
私は六法を見つめました。
何という法律でしょう。
契約を断る自由はある。
でも。
だからといって、相手が預けた物まで乱暴に扱っていいわけではない。
商法は。
取引が成立する前から。
商売人に、一定の責任を負わせているのです。
「先輩!」
「何だ」
「これ、強いですね!」
「強い?」
「契約が成立していても、成立していなくても、物品の保管は別に問題になるんですよ!」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
片桐所長が、短く言いました。
「相馬」
「はい」
「倉庫の状況を記録しろ」
「分かりました」
「損傷があるなら、写真と確認書だ」
「はい」
「こはる」
「はい!」
「相手を責める文章より先に、事実を集めろ」
私は頷きました。
分かりました。
今回も。
法律を振り回す前に。
証拠です。
その日の午後。
私たちは、ホテル側の許可を得て、荷捌き場を確認しました。
屋根の端。
雨水が流れ込む場所。
そこに。
段ボール箱が三つ積まれていました。
表面が濡れています。
角が潰れています。
「……ひどい」
澄江さんが呟きました。
箱を開けると。
藍色の布地が見えました。
一部が湿っています。
まだ使える部分もありましたが、染みが心配です。
「こんなところに……」
澄江さんは、布に手を伸ばしました。
「うちの子たちが、一生懸命縫ったのに……」
子たち。
それは、従業員のことでした。
十二人の従業員。
縫製機を踏み。
糸を切り。
夜遅くまで作業した人たち。
その仕事が。
雨に濡れていたのです。
私は唇を噛みました。
「写真を撮ります」
相馬先輩が言いました。
ポラロイドカメラ。
パシャッ。
箱の位置。
濡れた床。
破損した梱包。
試作品の状態。
一枚ずつ。
記録します。
「西村さん」
片桐所長が尋ねました。
「この箱は、いつ移されたんですか」
「昨日の夕方です」
「誰の指示ですか」
「社長です」
「元はどこに?」
「屋内倉庫です」
「倉庫に置いたままでは、何か支障が?」
「……いいえ」
所長は頷きました。
「分かりました」
淡々とした確認。
でも。
これで、事情が見えてきました。
契約申込みとともに受領した物品。
保管できる場所があった。
それを、わざわざ屋外へ移した。
そして、雨に濡れた。
もし物品に損害が発生していれば。
別途、損害賠償の問題にもなり得ます。
相馬先輩が小さく言いました。
「社長は、布を捨てたつもりなんだろうな」
「はい」
「だがな」
先輩は濡れた段ボールを指差しました。
「捨てたのは、会社の信用だ」
私は何も言えませんでした。
翌朝。
片桐行政書士事務所。
机の上には、三つの山ができていました。
一つ目。
十年分の取引記録。
二つ目。
今回の契約申込書と、ホテル側の受領記録。
三つ目。
試作品の預託・保管状況を示す資料。
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい!」
「書面を作れ」
「内容証明ですね!」
「本人名義の通知書だ。まず原案を書け」
「はい!」
私は原稿用紙を取り出しました。
最初に書いたのは。
――貴社は、契約を承諾していないと主張するが、その主張は商法に違反する。
「待て」
相馬先輩。
赤鉛筆。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「言い切るな」
「えっ?」
「契約申込みを受けた事実、平常取引、営業の部類、諾否通知の有無。そこをまず書け」
「はい……」
「商法五百九条の要件を、事実で埋めろ」
なるほど。
大声で「違法だ」と書いても、意味はありません。
相手が反論できないように。
一つずつ。
積み上げるのです。
私は書き直しました。
――通知人三浦縫製工業は、貴社との間で十年以上にわたり、宿泊施設用布製品の製作及び納入に関する継続的取引を行ってきた。
――通知人は、昭和六十三年九月十五日、従前の取引方法に従い、カーテン二百組、総額五百万円、納期十月二十日を内容とする製作契約の申込みを行った。
――貴社購買課は、同日、右申込書を受領した。
――右申込みは、貴社のホテル営業に属する取引に関するものである。
――貴社は、申込み受領後、遅滞なく承諾又は拒絶の通知を発していない。
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
私は深呼吸しました。
――商法第五百九条は、商人が平常取引をする者から営業の部類に属する契約の申込みを受けたときは、遅滞なく諾否の通知を発すべきことを定め、これを怠った場合には承諾したものとみなす旨を規定している。
――以上の取引経緯及び同条に照らし、通知人は、本件製作契約が成立しているものと考える。
……。
書いていて、背筋が伸びました。
返事をしなかった。
ただ、それだけのこと。
でも。
商法は、その沈黙に意味を与える。
しかも。
「承諾したとみなす」。
ただの推測ではありません。
法律が、一定の要件のもとで、承諾という効果を与えるのです。
「次」
片桐所長が言いました。
「はい」
「物品の保管だ」
私は次の段落を書きました。
――また、通知人は、本件契約申込みに際し、試作品及び布地見本等を貴社に交付した。
――右物品については、仮に貴社が契約申込みを拒絶したと解した場合であっても、商法第五百十条に基づく保管義務が問題となる。
――本件物品は屋内倉庫で保管可能であったにもかかわらず、屋外へ移され、雨水による損傷のおそれが生じている。
――通知人は、右物品の適切な保全、現状の確認及び損害の有無について、書面による回答を求める。
私は顔を上げました。
「所長、どうでしょう」
所長は書面を読みました。
しばらく沈黙。
そして。
「最後を直せ」
「はい」
「相手に何を求めるのか、明確にしろ」
私は頷きました。
今回は、単なる抗議ではありません。
契約成立を前提とした商品の受領。
代金支払についての確認。
試作品の保全。
損害の確認。
その意思を明確にする必要があります。
所長と相馬先輩の確認を受け、澄江さん自身の意思に沿って、最後の部分を整えました。
――通知人は、本件製作契約の履行として、完成品の受領及び代金支払についての具体的な日程を、書面により明らかにされるよう求める。
――本件につき解決が得られない場合には、弁護士への相談のうえ、契約上の請求及び物品の損傷に関する法的措置を検討する。
書き終えました。
私は鉛筆を置きました。
「……怖いですね」
相馬先輩が笑いました。
「何がだ」
「一回も怒鳴っていません」
「ああ」
「悪徳社長って言葉も使っていません」
「使う必要ねえだろ」
「でも、これ……」
私は原稿を見ました。
「相手が説明しなきゃいけないこと、山ほどありますよね」
「そうだ」
なぜ、十年以上の取引先に返事を出さなかったのか。
なぜ、従来と同じ方法で受け取った申込みを、今回だけ無視できると考えたのか。
なぜ、承諾も拒絶も通知しなかったのか。
なぜ、預かった試作品を屋外へ移したのか。
なぜ、保管できる場所があったのに、雨に濡れる状態に置いたのか。
一つずつ。
答えなければならない。
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「書面の強さは、難しい言葉の数じゃない」
「はい」
「相手が説明できない事実の数だ」
私は、静かに頷きました。
これが。
昭和の代書屋。
法律を武器にするということなのでしょう。
内容証明郵便を発送して三日後。
ホテルから、澄江さんへ電話が入りました。
黒岩社長でした。
『三浦さん……あの通知書の件だが』
「はい」
『弁護士に確認した』
澄江さんは、後でその会話を教えてくれました。
『商法五百九条というのが、あるらしいな』
「はい」
『……十年以上の取引があることも、問題になると』
黒岩社長の声は、以前とは違っていたそうです。
『購買課が受領印を押していることも、記録に残っている』
「はい」
『断りの通知を出していないのも、事実だ』
沈黙。
それから。
『こちらの顧問弁護士も、契約が成立していると判断される可能性は高いと言っている』
澄江さんは、受話器を握りしめました。
『それに、試作品の保管も問題だそうだ』
黒岩社長が続けました。
『契約がなかったとしても、預かったものを勝手に傷めていいわけじゃない、と』
「……そうですか」
『ああ』
長い沈黙。
そして。
『……カーテンは、受け取る方向で進めたい』
澄江さんは、すぐには言葉が出なかったそうです。
『代金も、契約どおり支払う。その条件を、書面にする』
「本当ですか……?」
『ああ』
さらに。
『傷んだ試作品についても、こちらで状態を確認して、必要な費用を負担する』
そこで、澄江さんは泣いてしまったそうです。
電話の向こうで。
黒岩社長は、小さな声で言いました。
『……返事くらい、出すべきだったな』
その一言に。
私は、少しだけ胸がすく思いがしました。
ただし。
それで終わりではありません。
口約束だけでは、また問題になる可能性があります。
片桐事務所では、澄江さんがホテル側と確認した合意内容をもとに、納品日、受領方法、代金の支払期日などを明確にした確認書の作成を手伝いました。
ホテル側も、自社の顧問弁護士に確認したうえで、署名押印しました。
――本件カーテン二百組の納入を受け入れる。
――代金五百万円を、定めた期日までに支払う。
――試作品の損傷状況については双方で確認し、必要な補修費用等を別途精算する。
私は確認書を見て言いました。
「先輩」
「何だ」
「これで一安心ですね」
「まだだ」
「えっ?」
「商品を納めて、代金を受け取るまでが商売だろ」
「あ……」
そうでした。
契約成立。
それは、ゴールではありません。
約束どおりに履行して。
初めて、取引が完結する。
「商法って、契約が成立するところだけじゃなくて、その後も大事なんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が笑いました。
「契約書を額に入れて飾っても、従業員の給料は払えねえからな」
……確かに。
私も思わず笑ってしまいました。
二週間後。
事務所に、一枚の写真が届きました。
湖畔観光ホテルの新館。
大きな窓。
そこに掛けられた、藍色のカーテン。
金色の糸が、秋の日差しにきらめいています。
写真の裏には。
――おかげさまで、無事に納品できました。
――代金も、約束どおり入金されました。
――従業員たちに、年末の給料を支払えます。
と書かれていました。
「よかった……!」
私は写真を胸に抱きました。
相馬先輩が覗き込みました。
「綺麗に仕上がってるじゃねえか」
「ですよね!」
「まあ、ホテルも良い買い物したんじゃねえの」
「最初からちゃんと受け取ればよかったのに」
「まったくだ」
そこへ。
澄江さん本人が、事務所を訪れました。
手には、小さな紙袋。
「これ、皆さんでどうぞ」
中には、手作りの布製コースターが入っていました。
藍色。
金色の刺繍。
例のカーテンと同じ布地です。
「余った端切れで作ったんです」
「ありがとうございます!」
私は一枚、手に取りました。
丁寧な縫い目。
角も綺麗に揃っています。
「従業員の皆さん、お元気ですか?」
そう尋ねると。
澄江さんは笑いました。
「はい。みんな元気です」
そして。
少し声を落として言いました。
「実は、工場を閉める覚悟もしていたんです」
「……」
「五百万円が入らなかったら、もう資金が回らなくて」
私は何も言えませんでした。
「でも、助かりました」
澄江さんは深く頭を下げました。
「ありがとうございました」
私は慌てて首を振りました。
「私たちは、書類を整えただけです!」
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「それが仕事だ」
私は所長を見ました。
「商売人が、正当に働いた分を受け取れるようにする。そのために法律と書類がある」
澄江さんの目に、涙が浮かびました。
でも。
今度は、悲しい涙ではありません。
笑いながら。
「本当に、ありがとうございました」
そう言ってくれたのです。
澄江さんが帰ったあと。
私は机の上の六法を眺めていました。
商法五百七条。
商法五百八条。
商法五百九条。
商法五百十条。
四つの条文。
全部、契約の申込みに関係しています。
でも。
守ろうとしているものは、少しずつ違う。
「先輩」
「何だ」
「今日の事件、面白かったです」
「五百万円が危なかったんだぞ」
「そこじゃありません!」
「じゃあ何だ」
私は六法を指差しました。
「普通、沈黙って、何も言ってないことですよね」
「そうだな」
「でも商人同士の取引では、場合によっては沈黙が承諾になる」
「ああ」
「しかも、契約を断ったとしても、預かった商品をちゃんと保管しなきゃいけない」
「そうだ」
「何もしてないつもりでも、商法上の責任が生じることがあるんですね」
相馬先輩が頷きました。
「商売は、相手がいるからな」
「はい」
「一人の都合で、全部決められるわけじゃねえ」
私は考えました。
返事を待っている人がいる。
材料を買っている人がいる。
工場を動かしている人がいる。
従業員に給料を払わなければならない人がいる。
それなのに。
取引相手が黙っていたら、いつまでも契約が成立したかどうか分からない。
そんな状態では。
安心して商売なんてできません。
「だから、商法は返事を求めるんですね」
「そうだ」
「しかも、長年の取引先だったら、黙って逃げることを許さない」
「要件に当たればな」
私は頷きました。
ここは大事です。
どんな申込みでも、返事をしなければ契約成立。
そんなわけではありません。
今回のように。
平常取引をする相手。
営業の部類に属する申込み。
遅滞なく諾否を通知しなかったこと。
そうした条件が揃うから、商法五百九条が問題になる。
「先輩」
「今度は何だ」
「商法って、商売人に厳しい法律ですね」
「そうだな」
「でも、商売人を守る法律でもあるんですね」
相馬先輩は少し笑いました。
「分かってきたじゃねえか」
……!
褒められました!
珍しい!
「所長!」
「何だ」
「先輩が褒めてくれました!」
「そうか」
「今日、記念日です!」
「仕事に戻れ」
「……はい」
相変わらずです。
私は苦笑しながら、ノートを開きました。
そして。
今日の教訓を、一行だけ書きました。
――商売の返事は、沈黙でも責任を生む。断った物にも、守る義務がある。
よし。
これなら忘れません。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声でした。
『取引先に商品を売る話をしたんですが……』
「はい」
『その場では返事をもらえなかったんです』
私は鉛筆を止めました。
……おや?
『それで、三日後に電話が来て、やっぱり買うって』
「はい」
『でも、その頃には別のお客さんに売ってしまっていて……』
私は思わず六法を見ました。
商法五百七条。
対話者間における契約の申込み。
『向こうは、一度売るって言ったんだから契約は成立してるって怒ってるんです』
……。
来ました。
今度は。
返事が遅すぎた話です。
「少々お待ちください!」
私は受話器を押さえました。
「先輩!」
「何だ!」
「今度は逆です!」
「何が逆だ」
「返事をしなかったから契約成立、じゃなくて!」
私は六法を掲げました。
「その場で返事をしなかったから、申込みの効力がなくなるかもしれないんです!」
相馬先輩は、私を見ました。
そして。
「こはる」
「はい!」
「まず、どういう状況で話したのか聞け」
「はい!」
「対面か、電話か。申込みの内容と、承諾を待つ約束があったかも確認しろ」
「はい!」
「それから条文を当てろ」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。最初に商品の売買のお話をされたのは、直接お会いしたときでしょうか?」
『はい。店で向かい合って話しました』
「分かりました。では、そのときのやり取りを詳しく教えてください」
私はノートを開きました。
商法。
契約の成立。
たった一言の「はい」。
そして。
何も言わなかったという事実。
それだけで。
商売の結果は、大きく変わることがあります。
昭和六十三年。
まだ独立した会社法もなく、株式会社を作るにも多くの人間を集めなければならなかった時代。
商法は、ときに古臭く。
ときに驚くほど厳格です。
でも。
今日、私は知りました。
その厳しさが、誰かの生活を守ることもある。
十二人の従業員。
五百万円の仕事。
雨に濡れたカーテン。
あれを救ったのは。
社長の気まぐれではありません。
商人同士が守るべき、取引のルールでした。
「先輩!」
「何だ!」
「商法って、返事一つで人生が変わるんですね!」
「そうだな」
「じゃあ私も、これから返事には気をつけます!」
「ほう」
相馬先輩がにやりとしました。
「じゃあ、こはる」
「はい!」
「今日の帳簿整理、頼むぞ」
「……え?」
「返事は?」
「ええっと……」
「黙ってるなよ」
私は慌てて言いました。
「それと商法五百九条は関係ありません!」
「分かってるよ!」
「私たちは商人同士の売買契約をしてるわけじゃありません!」
「じゃあ普通に頼む。帳簿整理、やってくれ」
「……はい」
……。
なるほど。
どうやら。
商法の諾否通知義務を覚えたからといって。
見習いの雑用から逃げられるわけではないようです。
でも。
私はもう、忘れません。
商売人が返事をしないということは。
必ずしも、何も起きないということではない。
そして。
相手の返事を待っている人がいる以上。
沈黙だって、商売の一部なのです。




