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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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584/701

[商法・商行為の代理と委任]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 人が亡くなれば、その人の人生は終わります。


 けれど。


 その人が残した約束まで、すべて終わるのでしょうか。


 社長が死んだ。


 代理人は会社の名前を書かなかった。


 しかも、細かく指示されていない仕事までしていた。


 普通に考えれば。


「そんな契約は無効だ!」


 と言われても、不思議ではありません。


 でも。


 商法は、そんな単純な結論を許してくれません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……先輩」


「何だ」


「商法って、民法に喧嘩を売ってませんか?」


 新聞を読んでいた相馬先輩が、顔を上げました。


「いきなり何だ」


「だって、そうじゃないですか!」


 私は六法を持ち上げました。


「民法では、本人が亡くなると代理権が消滅するのが原則です!」


「そうだな」


「でも、商法では消えない!」


「場合によるな」


「民法では、代理人が本人の名前を出さないと問題になる!」


「うん」


「でも、商法では名前を出さなくても本人に効力が生じる!」


「そうだ」


「しかも、頼まれていない仕事までできる場合がある!」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「で?」


「民法がかわいそうです!」


「法律に同情するな」


 ……。


 冷たい。


 相変わらず、先輩は冷たいです。


 でも。


 今回の事件を振り返ると、本当に不思議なのです。


 黒川商店。


 三十年以上続く食品卸売業。


 その店主だった黒川源蔵さんが、七月十日に亡くなりました。


 ところが。


 二日後の七月十二日。


 長年仕入れを担当していた番頭の長谷川清一さんが、森田製作所に金属棚を注文した。


 二十台。


 百二十万円。


 商品は納品され、検収も終わった。


 それなのに。


 亡くなった店主の息子、英治さんが支払いを拒否したのです。


 理由は三つ。


 社長が死んでいる。


 注文書に黒川商店の名前がない。


 長谷川さんは、具体的な数量や金額まで指示されていなかった。


 英治さんは、その三つを根拠に言いました。


「そんな契約は無効だ!」


 でも、結果は違いました。


 商法第五百四条。


 第五百五条。


 第五百六条。


 この三つの条文と、残されていた証拠によって。


 黒川商店側は、契約の効力を簡単には否定できなくなった。


 そして最終的に。


 英治さんが自分の責任で百二十万円を支払うと書面で約束し、実際に振り込んだのです。


「……あの事件、すごかったですよね」


 私が呟くと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「でも、先輩」


「何だ」


「私、まだ三つの条文が頭の中でごちゃごちゃなんです」


「だろうな」


「即答しないでください!」


 そこへ。


 奥の机から、片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「一つずつ整理しろ」


「はい!」


「まず、何が違うのかを考えろ」


 私は鉛筆を握りました。


 よし。


 今日の勉強会。


 テーマは三つ。


 非顕名主義。


 商行為の委任。


 本人死亡による代理権の消滅の特例。


 この三つを、完全に理解します!


「まず、商法第五百四条です!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――商行為の代理。


 ――非顕名主義。


「非顕名……」


 相馬先輩が呟きました。


「何か、忍者みてえな言葉だな」


「忍者!?」


「名前を隠して仕事をするんだろ」


「……確かに!」


 私は思わず笑いました。


 でも。


 この非顕名主義こそ、今回の事件の重要な鍵でした。


「先輩、まず民法の代理から確認します」


「おう」


「代理って、何ですか?」


「本人に代わって法律行為をすることだろ」


「そうです!」


 私はノートに三人の名前を書きました。


 本人。


 代理人。


 相手方。


「今回でいえば、本人は黒川源蔵さん」


「うん」


「代理人は長谷川さん」


「うん」


「相手方は森田製作所です」


 代理人が、本人のために契約を結ぶ。


 そして、その契約の効果が本人に帰属する。


 これが代理の基本です。


「たとえば」


 私は言いました。


「源蔵さんが長谷川さんに、金属棚を買う契約を任せたとします」


「うん」


「長谷川さんが森田さんと契約する」


「そうだな」


「すると、原則として売買契約の効果は源蔵さんに帰属します」


「そのための代理だからな」


「はい!」


 そして。


 ここで重要になるのが、顕名です。


 私はノートに書きました。


 ――顕名。


 代理人が、本人のために行為することを相手方に示すこと。


「たとえば、契約書にこう書きます」


 私は鉛筆を走らせました。


 ――買主 黒川源蔵


 ――代理人 長谷川清一


「これなら分かりやすいですね」


「ああ」


「長谷川さんは、自分のためではなく、源蔵さんのために契約していると分かります」


「そうだ」


 民法では。


 代理人が本人のためにすることを示さないで意思表示をした場合。


 原則として、代理人自身のためにしたものとみなされます。


 ただし。


 相手方が、本人のためにすることを知っていた場合。


 または、知ることができた場合。


 そのときは、本人に効果が帰属する余地があります。


「これが民法の原則ですね」


「そうだな」


 私は頷きました。


 ところが。


 商法第五百四条。


 ここでは、違うルールが置かれています。


「先輩!」


「何だ」


「商行為の代理人は、本人のためにすることを示さなくても、その行為は本人に効力が生じるんです!」


 私は六法を指差しました。


「つまり、非顕名主義!」


「そうだ」


「名前を出さなくても、本人に効果が帰属する!」


「代理権があることが前提だがな」


「あっ!」


 そこです。


 私は慌てて書き加えました。


 ――非顕名主義は、代理権のない人に勝手な契約を許す制度ではない。


 そうなのです。


 そもそも代理権がないのに。


「私は社長の代理人です!」


 と名乗って契約したところで、第五百四条だけで当然に有効な代理行為になるわけではありません。


 今回の長谷川さんには。


 長年の仕入れ権限。


 取引基本契約書。


 源蔵さんの手書きの指示。


 そうした資料がありました。


「だから、代理権の存在を先に確認したんですね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が頷きました。


 私は少し考えました。


「でも、何で商法は名前を出さなくてもいいんですか?」


 所長が答えました。


「商売の現場を考えろ」


「現場?」


「同じ取引先へ、何年も発注している番頭がいる」


「はい」


「毎回、本人のためにするという表示が欠けただけで、本人に効力が及ばなくなったらどうなる」


「……困ります」


「そうだ」


 なるほど。


 長谷川さんは、二十年以上も黒川商店の仕入れを担当していました。


 注文書には、自分の名前だけを書く。


 でも。


 商品は黒川商店へ届く。


 代金も黒川商店の営業用口座から支払われる。


 森田さんも、その取引方法を知っていた。


 それが、長年続いていたのです。


「だから、形式的に名前を書かなかっただけで、取引の効果を否定しないんですね」


「そうだ」


 私は大きく丸をつけました。


 非顕名主義。


 商取引の迅速さと安全を守る仕組み。


 これなら覚えられます。


 でも。


 商法第五百四条には、まだ続きがありました。


「さて、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「第五百四条のただし書を読め」


「はい!」


 私は六法に目を落としました。


 そこには。


 相手方が代理人を本人のために行為する者だと知らなかった場合には、代理人に対して履行を請求できるという趣旨の規定があります。


「……あれ?」


 私は首をかしげました。


「本人に効力が生じるのに、代理人にも請求できるんですか?」


「そうだ」


「何だか二重取りできそうですね!」


「できるわけねえだろ」


「ですよね!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「同じ百二十万円を二回も取れるわけねえ」


「はい……」


 私は考えました。


 非顕名主義によって、本人に契約の効力が生じる。


 でも。


 相手方が、代理人を本人のために行為する者だと知らなかった。


 そんな場合まで。


「あなたの契約相手は本人です。代理人には請求できません」


 と言われたら。


 相手方は困るかもしれません。


「たとえば」


 私は言いました。


「森田さんが、長谷川さん個人から注文を受けたと思っていた場合ですね」


「そうだ」


「百二十万円の棚を納めたのに、長谷川さんから『実は黒川商店の代理でした』と言われる」


「うん」


「しかも黒川商店からも代金が払われない」


「そうなったら困るな」


「そこで、相手方が代理人に履行を請求する道も残してあるんですね!」


 私は頷きました。


 ただし。


 ここで大切なのは、相手方が知らなかったという事情です。


 判例上も、相手方が代理人の立場を知らなかったことについて過失がある場合には、代理人に対する履行請求は認められないと解されています。


「だから教材では、善意無過失と説明されるんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 善意。


 法律上、ある事実を知らないこと。


 無過失。


 知らなかったことについて不注意がないこと。


「ちなみに先輩」


「何だ」


「善意って、親切という意味じゃないんですよね」


「当たり前だろ」


「でも日常会話だと、そう思っちゃいません?」


「試験で間違えるなよ」


「はい!」


 私は大きく書きました。


 商法第五百四条。


 原則。


 非顕名でも本人に効力が生じる。


 ただし。


 相手方が代理人の立場を知らず、その不知について過失がない場合には、代理人に対する履行請求もできる。


「つまり、本人を守るだけじゃないんですね」


「そうだな」


「相手方の取引上の利益も守っている」


 片桐所長が頷きました。


「そこが重要だ」


 私は、前回の森田さんを思い出しました。


 森田さんは、長谷川さんが黒川商店のために注文していることを知っていました。


 過去の取引も、今回の納品先も黒川商店だったからです。


 だから今回。


 第五百四条ただし書によって長谷川さん個人へ請求するという話ではなく。


 そもそも黒川商店の営業のためにされた契約だという点が中心になったのです。


「……よかったです」


 私は呟きました。


「何がだ」


「長谷川さん、一人で百二十万円を背負わずに済んで」


 相馬先輩は少し黙りました。


 そして。


「ああ」


 短く答えました。


 法律上の代理と。


 人としての責任感。


 それは、同じではありません。


 長谷川さんは、責任感が強いからこそ、社長の死後も仕事を続けた。


 でも。


 だからといって、当然に個人で百二十万円を負担すべきことにはならないのです。


「次は、第五百五条です!」


 私はノートをめくりました。


 ――商行為の委任。


「先輩」


「何だ」


「そもそも、代理と委任って同じですか?」


「違う」


「ですよね!」


 私は頷きました。


 代理。


 本人に代わって法律行為をし、その効果を本人に帰属させる仕組み。


 委任。


 他人に一定の事務処理を頼み、相手がそれを引き受ける契約。


「つまり、委任は仕事を頼む関係で、代理は法律行為の効果を本人に帰属させる仕組みなんですね」


「そうだ」


「委任されたら、必ず代理権があるわけでもない」


「そこを忘れるな」


 私は赤線を引きました。


 委任と代理は、別の概念。


 今回の長谷川さんは。


 源蔵さんから仕入れ業務を委任されていた。


 そして、仕入れについて代理権も与えられていた。


 だから、両方が問題になったのです。


「ここを混同すると、商法第五百五条まで間違えますね」


「そういうことだ」


 さて。


 第五百五条。


 この条文は、とても特徴的です。


 商行為の受任者は、委任の本旨に反しない範囲内で、委任を受けていない行為をすることができる。


「……先輩」


「何だ」


「これ、頼まれていないことまでできるんですよね」


「条件付きでな」


「すごく便利じゃないですか!」


 相馬先輩が、にやりとしました。


「じゃあ、問題だ」


「はい!」


「俺が、お前に封筒を十枚買ってこいと頼んだ」


「はい」


「お前は、ついでに新しい机を十台買ってきた」


「……」


「許されるか?」


「駄目です!」


「だろうな」


「そんな高いもの、勝手に買えません!」


「じゃあ、商行為の委任なら何でも許されるのか?」


「許されません!」


 私は即答しました。


 そうです。


 第五百五条には、重要な条件があります。


 ――委任の本旨に反しない範囲内。


 この部分。


 絶対に忘れてはいけません。


「委任の本旨って、何ですか?」


 私は尋ねました。


 片桐所長が答えました。


「何のために、その仕事を任せたのかということだ」


「目的ですね」


「それだけでなく、仕事の内容や範囲、任せた人の意思も見る」


「なるほど……」


 私は前回の事件を思い出しました。


 源蔵さんは、冷蔵倉庫の改修を計画していました。


 必要な金属棚を、七月中に手配するよう長谷川さんへ指示していた。


 予算は百三十万円。


 ただし。


 棚を何台買うのか。


 どのような寸法にするのか。


 具体的な金額をいくらにするのか。


 そこまでは、細かく指定していませんでした。


「そこで長谷川さんが、必要な二十台を選んだんですね」


「そうだ」


「そして、予算内の百二十万円で注文した」


「うん」


「これは、委任の目的に沿った行為だと考えられる」


 私は頷きました。


 もし、頼まれていない行為が絶対にできないなら。


 長谷川さんは、棚の寸法が少し違うだけでも。


 源蔵さんに、いちいち確認しなければならなかったかもしれません。


 でも。


 商売では、そんなことをしている時間がない場合もある。


 取引先が急いでいる。


 商品の在庫が変わる。


 納期が迫る。


 その場で判断しなければ、商売が止まる。


「だから、ある程度の柔軟性が認められるんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


 私は続けました。


「でも、たとえば源蔵さんが百三十万円の予算を決めていたのに、長谷川さんが五百万円の高級な棚を注文したら?」


「事情を見なきゃならねえが、問題になるだろうな」


「委任の本旨に反している可能性が高いですね」


「そうだ」


「それから、倉庫の棚を買ってこいと言われたのに、高級車を買ってきた場合は?」


「論外だ」


「ですよね!」


 私は笑いました。


 商法第五百五条。


 頼まれていない行為でも、委任の本旨に反しなければ許される場合がある。


 しかし。


 好き勝手な行為を許すものではない。


「先輩」


「何だ」


「この条文って、商売を任された人を信用している感じがします」


「信用?」


「はい」


 私は言いました。


「現場のことは、現場にいる人が一番よく分かる場合がありますから」


 相馬先輩は少し考えました。


「まあ、そうだな」


 そして。


「ただし、任された奴にも責任はある」


「はい」


「勝手なことをしていいって意味じゃねえ」


「分かりました!」


 私はノートに書きました。


 ――商法第五百五条は、商売のための柔軟性を認める。ただし、委任の本旨という境界線がある。


 なるほど。


 これなら、試験でも間違えません。


「さて」


 相馬先輩が煙草を消しました。


「いよいよ、今回の事件の一番大事なところだな」


「第五百六条ですね!」


「ああ」


 私はノートをめくりました。


 ――商行為の委任による代理権の消滅事由の特例。


「……長い!」


 思わず叫びました。


「条文の見出しが長すぎます!」


「文句を言うな」


「だって、これだけで早口言葉みたいですよ!」


「試験に出るんだろ」


「出ます!」


「だったら覚えろ」


「はい……」


 私は気を取り直しました。


 商法第五百六条。


 今回の事件で、英治さんの主張を崩した重要な条文です。


「まず、民法の原則からですね」


「そうだ」


 民法第百十一条。


 代理権は、本人の死亡によって消滅する。


 これが基本です。


「なぜ本人が亡くなると、代理権が消滅するんですか?」


 私が尋ねると、所長が答えました。


「代理人は、本人のために行為するからだ」


「はい」


「本人が死亡すれば、本人を中心とした代理関係をそのまま続けられないのが原則なんだ」


「なるほど」


 私は頷きました。


 本人が亡くなれば。


 財産関係は相続の問題になる。


 代理人が、何の制限もなく亡くなった本人の名義で新しい契約を続けられるとしたら。


 相続人に思わぬ影響が生じるかもしれない。


 だから、民法は本人の死亡を代理権の消滅事由としています。


「ところが!」


 私は勢いよく言いました。


「商法では例外があります!」


 商法第五百六条。


 商行為の委任による代理権は、本人の死亡によっては消滅しない。


「ここ、民法と真逆ですね!」


「そうだな」


「本人が亡くなっても代理権が残る!」


「ああ」


 私は思い出しました。


 七月十日。


 源蔵さん死亡。


 七月十二日。


 長谷川さんが棚を注文。


 英治さんは言いました。


「親父は死んでいた。だから長谷川に代理権なんかない!」


 でも。


 商法第五百六条がある以上。


 源蔵さんが亡くなったという事実だけでは、長谷川さんの代理権が消滅したことにはならない。


「これが決定打だったんですね!」


「そうだ」


 私は頷きました。


 そして、ふと考えました。


「でも先輩」


「何だ」


「なぜ商法だけ、こんな特別ルールがあるんですか?」


 相馬先輩は、窓の外を指差しました。


「町を見ろ」


「町?」


「ああ」


 私は窓の外を見ました。


 商店街。


 八百屋。


 魚屋。


 印刷所。


 工場。


 小さな卸売業者。


 どれも、毎日商売をしています。


「たとえば、八百屋の主人が突然亡くなったとする」


「はい」


「その店には、仕入れを任されている番頭がいる」


「はい」


「翌朝、市場から野菜を仕入れなきゃならねえ」


「そうですね」


「ところが、主人が死んだから代理権が全部消えた。もう何も注文できねえ」


「……困ります」


「そうだろ」


 私は想像しました。


 店主が亡くなった。


 野菜の仕入れが止まる。


 店頭から商品が消える。


 お客さんが困る。


 従業員の仕事も止まる。


 取引先も困る。


 それが、一日で起こるかもしれない。


「だからなんですね……」


 私は呟きました。


「何がだ」


「商法が、本人の死亡だけでは代理権を消滅させない理由です」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「商売は、簡単に止められねえからな」


 私は六法を見つめました。


 本人が亡くなる。


 それは、家族にとって大きな出来事です。


 でも。


 取引先にとっては、明日の納品がある。


 従業員にとっては、明日の仕事がある。


 お客さんにとっては、必要な商品がある。


 商売は、一人の人生だけで完結していない。


「……商法って、現実的ですね」


「そういう法律だ」


 片桐所長が言いました。


 私は頷きました。


 ただし。


 ここでも注意しなければならないことがあります。


「先輩」


「何だ」


「本人が亡くなっても代理権が消えないなら、永久に代理権が続くんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


 私は慌てて書きました。


 商法第五百六条は、本人の死亡という理由だけでは代理権が消滅しないことを定める規定。


 つまり。


 代理権が永久に続くという意味ではありません。


 別の消滅事由があれば、代理権は終了し得る。


 また、代理権の範囲を超えた行為まで当然に有効になるわけではない。


「今回も、長谷川さんに仕入れの代理権があったからこそ、問題になったんですね」


「そうだ」


「何の権限もない人が、店主の死後に勝手に契約していいわけじゃない」


「そのとおり」


 私は大きく丸をつけました。


 ――本人死亡でも代理権が当然には消滅しない。ただし、代理権の存在と範囲は別に確認する。


 よし。


 これで第五百六条も整理できました。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今回の黒川商店は、株式会社だったか?」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「個人商人です!」


「そうだ」


「源蔵さん個人が営業していた店です」


「じゃあ、株式会社の社長が死亡した場合とは違うな」


「はい!」


 私はノートに二つの例を書きました。


 一つ目。


 個人商人。


 二つ目。


 株式会社。


「株式会社の場合、社長が亡くなっても、会社そのものは原則として存続します」


「そうだな」


「会社は、社長個人とは別の法人ですから」


「うん」


「でも、個人商人の場合は、営業主本人が法律上の主体なんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「だから相続の問題も出てくる」


「はい」


 今回、森田さんが代金を請求するにあたっては。


 まず、商行為の代理として契約が有効かを考えた。


 そのうえで。


 誰が代金債務を負担するのか。


 営業や財産、債務がどのように承継されたのか。


 それを整理する必要があった。


「英治さんが長男だから、百二十万円全部を当然に払う義務があるというわけではなかったんですね」


「そうだ」


「今回は、英治さん自身が全額支払うと書面で合意した」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 商法第五百六条で代理権の存続を考えることと。


 相続人の債務負担を考えることは、別の問題です。


 そこを混同してはいけません。


「所長」


 私は声をかけました。


「何だ」


「会社の話になると、また法律が複雑になりますね」


「そうだな」


「現代には会社法があるのに、この時代には……」


 私は言いかけて止まりました。


 しまった。


 また未来の話です。


 相馬先輩が、じろりと私を見ました。


「こはる」


「はい……」


「何だ、その会社法ってのは」


「……いえ、その」


「会社の規定は商法の会社編だろ」


「はい!」


「有限会社には有限会社法だ」


「はい!」


 私は額を押さえました。


 昭和六十三年。


 まだ会社法は、独立した法律として存在していません。


 現代では、平成十七年に会社法が制定され、平成十八年に施行されました。


 それまで商法の会社編や有限会社法などに分かれていた規律が整理され、会社法という独立した法律になったのです。


 そして。


 昔の株式会社は、設立のハードルが高かった。


 昭和六十三年当時。


 発起人は七人以上。


 取締役は三人以上。


 監査役も必要。


 現代のように、一人で株式会社を設立することはできませんでした。


 なお、この当時は、まだ後年導入された株式会社の最低資本金一千万円という制度もありません。


「……昔の株式会社って、人数を集めるだけでも大変ですね」


 私は呟きました。


「何の話だ?」


 相馬先輩が首をかしげました。


「いえ、何でもありません!」


 危ない。


 未来の会社法を語りすぎました。


 でも。


 なぜ現代では会社法として独立し、会社制度が整理されたのか。


 少し分かる気がしました。


 昔は。


 会社を作るだけでも、多くの人と手続が必要だった。


 名義だけの発起人や役員が生まれる余地もあった。


 その後。


 事業の形態が多様化し、会社設立や運営の仕組みを見直す必要が生じた。


 そうした流れの中で、会社法が整備されていったのです。


「でも所長」


「何だ」


「今回の商法第五百四条から第五百六条は、現代でも商法に残っているんですよね」


「お前の言う現代は知らんが、これは商行為の規律だからな」


 私は頷きました。


 そうです。


 会社法が独立しても。


 商行為に関する基本的なルールが、すべて会社法へ移されたわけではありません。


 今回の三つの条文は、現在も商法に置かれています。


 つまり。


 昭和の事件を通じて覚えた知識が、そのまま現代の行政書士試験にもつながるのです。


「……これは嬉しい!」


 私は思わず拳を握りました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「時代錯誤を起こさずに済む条文が三つもあるんです!」


「お前は何と戦ってるんだ」


「未来です!」


「訳が分からん」


 また怒られました。


 でも。


 法律の歴史を知ると、今の制度が少し立体的に見えてくる。


 それだけは確かでした。


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「三つの条文を、今回の事件に当てはめて説明してみろ」


「分かりました!」


 私は背筋を伸ばしました。


 まず。


 商法第五百四条。


「長谷川さんは、注文書に黒川商店の名前を書いていませんでした」


「うん」


「でも、商行為の代理では非顕名主義が採られます」


「そうだ」


「したがって、代理権がある以上、名前を示さなかったことだけで、本人への効果帰属は否定されません」


「よし」


 次。


 商法第五百五条。


「源蔵さんは、倉庫改修のための棚の手配を頼んでいました」


「うん」


「長谷川さんは、細かい数量や金額の指示を受けていませんでした」


「そうだ」


「でも、二十台、百二十万円という注文は、改修の目的に沿い、予算内でした」


「うん」


「だから、委任の本旨に反しない範囲内の行為として認められる可能性が高かった!」


「よし」


 そして。


 商法第五百六条。


「源蔵さんは、注文の二日前に亡くなっていました」


「そうだ」


「しかし、商行為の委任による代理権は、本人の死亡によっては当然に消滅しません」


「うん」


「だから、本人の死亡だけを理由に、長谷川さんの代理権を否定することはできません!」


 片桐所長が頷きました。


「よし」


 私は嬉しくなりました。


「完璧ですか!?」


「まだだ」


「ええっ!?」


 相馬先輩が笑いました。


「最後に一つ、問題がある」


「何ですか?」


「三つの条文が使えたら、森田さんは必ず百二十万円を回収できるのか?」


 私は止まりました。


「……え?」


「契約が有効でも、相手に財産がなければどうなる」


「……回収できない場合があります」


「そうだ」


「相手が支払わない場合は、裁判が必要になることもあります」


「そのとおり」


 なるほど。


 法律上、権利があること。


 実際にお金を回収できること。


 それは、同じではありません。


 今回、森田さんが百二十万円を受け取れたのは。


 商法の条文だけではなく。


 注文書。


 過去の取引記録。


 委任に関する契約書。


 源蔵さんの指示。


 予算帳。


 納品書。


 検収印。


 それらを揃えたうえで。


 英治さんが支払いを約束し、実際に履行したからです。


「……証拠って、大事ですね」


 私は呟きました。


「そうだ」


 片桐所長が言いました。


「条文を知っているだけでは、仕事にならん」


「はい」


「事実を確認して、法律に当てはめる」


「はい!」


「そして、何を証明できるのかを考える」


 私は頷きました。


 行政書士。


 書類の専門家。


 だからこそ。


 一つの事実を、いい加減に書いてはいけない。


 存在しない代理権を、あると書いてはいけない。


 確認していない債務承継を、確定したように書いてはいけない。


 内容証明は、それ自体で相手を強制できるものではない。


 でも。


 事実と法律を正確に整理することで、相手が自分の主張の危うさに気づくことはあります。


「所長」


「何だ」


「内容証明って、相手を脅すためのものじゃないんですね」


「そうだ」


「事実と法律を、逃げずに示すためのものなんですね」


 片桐所長は静かに頷きました。


「それでいい」


 私はノートに、その言葉を書きました。


 窓の外が、少しずつ暗くなってきました。


 私はノートを見直しました。


 商法第五百四条。


 非顕名主義。


 商法第五百五条。


 委任の本旨に反しない範囲での行為。


 商法第五百六条。


 本人の死亡によっても、商行為の委任による代理権は当然には消滅しない。


「……覚えました!」


 私は顔を上げました。


「本当か?」


 相馬先輩が聞きました。


「はい!」


「じゃあ、試験だ」


「望むところです!」


 先輩は新聞を畳みました。


「第一問」


「はい!」


「商行為の代理人が本人の名前を出さずに契約した。この契約は、必ず代理人自身にしか効力を生じない。正しいか?」


「誤りです!」


「理由は?」


「商法第五百四条により、本人のためにすることを示さなくても、原則として本人に効力が生じます!」


「正解」


「やった!」


「第二問」


「はい!」


「商行為の代理人が本人の名前を出さなかった場合、相手方は絶対に代理人へ履行を請求できない。正しいか?」


「誤りです!」


「理由は?」


「相手方が代理人の立場を知らず、そのことについて過失がない場合には、代理人に履行請求できるからです!」


「正解」


 よし。


 ここまでは順調です。


「第三問」


「はい!」


「商行為の受任者は、委任されていない行為でも、自由に何でもできる。正しいか?」


「誤りです!」


「理由は?」


「商法第五百五条により、委任の本旨に反しない範囲内でなければなりません!」


「正解」


「第四問」


「はい!」


「本人が死亡した場合、商行為の委任による代理権も、民法の原則どおり必ず消滅する。正しいか?」


「誤りです!」


 私は勢いよく答えました。


「商法第五百六条により、本人の死亡によっては消滅しません!」


「正解」


 私は拳を握りました。


 やりました。


 四問連続正解です。


「じゃあ、第五問」


「はい!」


「委任された人は、必ず本人の代理人でもある。正しいか?」


「誤りです!」


 私は答えました。


「委任と代理は別の概念です。委任契約があっても、代理権が当然に付与されるわけではありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


「やったー!」


 私は椅子から立ち上がりました。


 商行為の代理と委任。


 完全攻略です。


 ……と思ったのですが。


「最後に、所長から一問」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「商法第五百六条がある以上、商行為の代理人は、本人が死亡した後も永久に代理権を失わない。正しいか?」


「誤りです!」


 私は即答しました。


「本人の死亡という理由では消滅しないだけで、他の消滅事由まで否定されるわけではありません!」


 所長が頷きました。


「よし」


「ありがとうございます!」


 私は深く頭を下げました。


 これで。


 本当に理解できました。


 民法と商法。


 代理と委任。


 顕名と非顕名。


 本人の死亡と代理権。


 似ているようで、違う。


 でも。


 黒川商店の事件を思い出せば、もう混乱しません。


 私はノートの最後のページを開きました。


 今日の一行です。


 何を書こうか。


 少し考えました。


 商法第五百四条。


 名前を出さなくても、本人に効力が生じる。


 第五百五条。


 委任の本旨に反しない範囲なら、細かく頼まれていない行為もできる。


 第五百六条。


 本人が亡くなっても、商行為の委任による代理権は当然には消滅しない。


 ……うん。


 これを短くまとめるなら。


 私は鉛筆を走らせました。


 ――商行為の代理は「名を出さずとも届く」、委任は「本旨の範囲で動ける」、代理権は「本人が死んでも当然には消えない」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「先輩、どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、昨日よりはいいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 森田さん。


 百二十万円の代金を踏み倒されそうになった町工場の社長。


 長谷川さん。


 亡くなった主人の仕事を守ろうとした番頭さん。


 源蔵さん。


 最後まで倉庫の改修を気にかけていた、古い商人。


 その人たちの顔が、条文と一緒に浮かんでくるからです。


 法律は、ただの暗記科目ではありません。


 人が働く現場に、実際に存在する問題を解決するための道具です。


 そして。


 商法は、商売をする人の信用や、取引の継続を守るために、民法とは異なる特別なルールを置いている。


 それを、私は今日、理解しました。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、そこの封筒を片付けてくれ」


「え?」


「棚に戻しとけ」


 私は机の上を見ました。


 そこには、内容証明郵便用の封筒が積まれています。


「先輩」


「何だ」


「私、今、商法第五百五条を覚えたばかりなんです」


「だから何だ」


「委任の本旨に反しない範囲なら、頼まれていないこともできるんですよね?」


「そうだな」


「じゃあ、封筒を片付けるついでに、事務所の模様替えをしてもいいですか?」


「は?」


「机を全部移動して、本棚も並べ替えて、所長の席を窓際に!」


 相馬先輩が、じろりと私を見ました。


「こはる」


「はい!」


「誰がそこまで頼んだ」


「でも、第五百五条が!」


「封筒を片付けるのと、事務所を模様替えするのは別だろ!」


「……!」


 しまった。


 委任の本旨。


 また忘れていました。


「それに」


 相馬先輩が続けました。


「そもそも、お前への片付けの指示を、いきなり商行為の委任だと決めつけるな」


「あっ!」


「条文の適用場面を考えろ」


「はい……」


 私は肩を落としました。


 法律を覚えたからといって、何にでも使っていいわけではない。


 その法律が、どのような場面に適用されるのか。


 そこまで考えなければならないのです。


「分かりました!」


 私は封筒を手に取りました。


「ちゃんと片付けます!」


「最初からそうしろ」


 私は棚へ向かいました。


 すると。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい?」


「ついでに、そこの帳簿も戻しておいてくれ」


「……!」


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩が、にやりと笑いました。


「どうした?」


「いえ……」


「本旨に反しない範囲だろ?」


「それは商法第五百五条の話です!」


「分かってるじゃねえか」


 私は頬を膨らませました。


 ……ずるい。


 先輩は、いつもこうです。


 でも。


 今日だけは、少し嬉しくもありました。


 条文を覚えた。


 意味が分かった。


 そして、現場での使い方も見えてきた。


 それは、単に問題集を一問解けたときとは違う達成感でした。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 商店街では、店じまいをする人がいる。


 工場では、まだ機械を動かしている人がいる。


 倉庫では、明日の出荷に向けて荷物を整理している人がいる。


 そのどこかで。


 長谷川さんも、きっと働いているのでしょう。


 新しい仕入れの委任状を手に。


 今度は、自分が何を任されているのかを確かめながら。


 そして。


 森田製作所では、従業員の皆さんが、安心して次の仕事に取りかかっているはずです。


 百二十万円。


 ただの数字ではありません。


 六人の従業員の生活。


 小さな工場の信用。


 長年続いてきた商売のつながり。


 それが、あの金額に込められていたのです。


 私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――商行為の代理は「名を出さずとも届く」、委任は「本旨の範囲で動ける」、代理権は「本人が死んでも当然には消えない」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで、封筒を片付けろ!」


「今、復習してたんです!」


「復習は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「商法第五百六条って、本人が亡くなっても代理権が消えないんですよね!」


「ああ!」


「じゃあ、先輩が定年退職しても、私に仕事を命じる権限は残るんですか!?」


「残るわけねえだろ!」


「ですよね!」


「そもそも本人の死亡と退職を一緒にするな!」


 ……なるほど。


 商法第五百六条は、万能ではありません。


 本人の死亡という特定の事由について、特別なルールを置いている。


 それ以外の問題まで、何でも解決してくれるわけではないのです。


「こはる!」


「はい!」


「次は本当に怒るぞ!」


「分かりました!」


 私は笑いながら、封筒を棚に戻しました。


 商法第五百四条。


 第五百五条。


 第五百六条。


 名前は難しい。


 条文も少し堅苦しい。


 でも。


 三つの条文が守っていたのは。


 亡くなった主人から託された仕事を続けようとした、一人の番頭さん。


 そして。


 その仕事を信じて、商品を作り上げた町工場でした。


 法律は。


 人が亡くなったという事実だけで。


 その人が託した仕事や、積み重ねた信用を、簡単に消してしまうものではない。


 商法は、そのことを教えてくれたのです。


 私は、最後の封筒を棚に置きました。


 そして、小さく呟きました。


「……商法って、優しいところもあるんですね」


 相馬先輩が、ちらりとこちらを見ました。


「何か言ったか?」


「いいえ!」


 私は笑いました。


 今日の教訓。


 これなら、一生忘れません。


 ――商法は、商売の約束を、名前の省略や本人の死亡だけで簡単には終わらせない。


 昭和六十三年。


 商法の勉強は、まだまだ続きます。


 そして。


 明日の町にも。


 誰かが守らなければならない約束が、きっと残っているのです。

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