[商法・商行為の代理と委任]現場編 「社長が死んだから契約は無効」の嘘。名前を出さなかった番頭と、商法が守った百二十万円の約束
人が亡くなっても、約束まで死ぬとは限りません。
たとえば。
長年、町の商売を支えてきた店主が、突然亡くなったとします。
店には商品がある。
従業員がいる。
取引先がいる。
そして。
まだ支払われていない代金がある。
そんなとき。
「社長が死んだから、契約は全部なかったことになる」
もし、誰かがそう言い出したら。
その言葉を信じてしまってもよいのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、商法の三つの条文に出会うことになります。
商法第五百四条。
商法第五百五条。
商法第五百六条。
代理人が名前を出さなかった場合。
頼まれていない仕事までした場合。
そして。
仕事を頼んだ本人が亡くなった場合。
普通なら、全部揉めそうな話です。
ところが。
商法という法律は、そんな商売の現場を、実にしぶとく守っていたのです。
「百二十万円、払ってもらえないんです!」
朝九時。
事務所の扉が勢いよく開きました。
入ってきたのは、五十歳くらいの男性。
作業着には、白い粉がついています。
手には古い革鞄。
額には汗。
「落ち着いてください。まず、お名前を」
私が椅子を勧めると、男性は頭を下げました。
「森田と申します。森田製作所をやっています」
森田製作所。
駅から少し離れた工業団地にある、小さな町工場です。
従業員は六人。
金属製の棚や部品を作っているそうです。
「実は、先月、大口の仕事を受けまして」
「どんな仕事ですか?」
「食品卸の倉庫に入れる、特注の金属棚です」
「棚?」
「はい。冷蔵倉庫用の棚を二十台。全部特注で、代金は百二十万円です」
百二十万円。
昭和六十三年の町工場にとって、大きな金額です。
材料費。
従業員の給料。
電気代。
そして、次の仕事を受けるためのお金。
その全部が、取引代金にかかっている。
「納品は?」
「済んでいます」
「検収は?」
「それも終わっています」
「じゃあ、なぜ払ってもらえないんですか?」
森田さんは、革鞄から一通の手紙を取り出しました。
「これが届いたんです」
私は受け取りました。
差出人。
黒川商店。
町で三十年以上続く食品卸売業者です。
手紙には、こう書かれていました。
――本件注文は、亡黒川源蔵が死亡した後に、従業員が独断で進めたものである。
――また、注文書には黒川商店の名義が明示されていない。
――よって、当店に代金支払義務はない。
――代金を請求するのであれば、注文を行った本人に請求されたい。
私は眉をひそめました。
「……従業員が独断?」
「違います!」
森田さんが声を荒らげました。
「昔から、あそこの番頭さんと取引しているんです!」
「番頭さん?」
「長谷川さんという人です。二十年以上、黒川商店の仕入れを任されていた人で……」
番頭。
いかにも昭和です。
今なら営業部長とか、仕入責任者とか呼ばれそうな立場でしょうか。
「その長谷川さんが注文したんですね」
「はい」
「注文書はありますか?」
「あります!」
森田さんがもう一枚取り出しました。
そこには、
――冷蔵倉庫用金属棚 二十台。
――単価六万円。
――合計百二十万円。
――納期 七月二十五日。
と書かれています。
そして、下には。
――注文者 長谷川清一。
署名。
押印。
……あれ?
「黒川商店という名前がありませんね」
「そうなんです」
森田さんが肩を落としました。
「でも、いつもそうでした。長谷川さんから注文が来て、黒川商店へ納めて、黒川商店から代金を受け取る。それで何年もやってきたんです」
「今回も同じ?」
「はい」
「では、問題は……」
私は注文書を見つめました。
代理。
顕名。
本人。
これは民法の代理の問題です。
そして、もう一つ。
店主の死亡。
私は顔を上げました。
「森田さん。黒川商店のご主人は、いつ亡くなったんですか?」
「七月十日です」
「注文は?」
「七月十二日です」
……。
私は固まりました。
死亡。
七月十日。
注文。
七月十二日。
本人が亡くなった後に、代理人が契約をした。
なるほど。
相手がそこを突いてきたのですね。
でも。
私は現代の民法を思い出しました。
「本人が死亡した場合、原則として代理権は消滅しますよね……」
民法第百十一条。
本人の死亡。
代理人の死亡。
代理権の消滅。
……あれ?
これでは。
森田さんが不利ではありませんか。
「でも、待ってください」
私は慌てて考えました。
「商売をしていた人の代理なんですよね。だったら会社法の問題も……」
「こはる」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「黒川商店は株式会社か?」
「え?」
「登記を確認したのか」
「……まだです」
「個人商人だぞ」
「個人商人?」
「黒川源蔵が個人で営んでいた卸売業だ。株式会社じゃねえ」
私は口を閉じました。
個人商人。
そうです。
会社という法人と、個人で商売を営む商人は違います。
会社なら、社長が亡くなっても法人そのものは原則として存続する。
しかし。
個人商人は、その本人が商売の主体です。
「会社法で解決しようとするな」
相馬先輩が言いました。
「……はい」
「そもそも、お前が言う会社法って何だ」
しまった。
またです。
昭和六十三年。
この時代には、まだ独立した会社法という法律はありません。
株式会社の規律は商法の会社編。
有限会社には有限会社法。
さらに。
現在の合同会社という会社形態も、まだ存在しない。
「……商法です」
「そうだ」
「今は商法を見ます!」
「最初からそうしろ」
相馬先輩は六法を開きました。
そして。
ある条文を指で叩きました。
「こはる」
「はい」
「本人が死んだら、商売の代理人は必ず権限を失うと思ってるのか?」
「民法では、原則そうですよね」
「民法ではな」
「……え?」
先輩が笑いました。
「商法を開け」
私はページをめくりました。
商法。
商行為。
そして。
第五百六条。
そこに書かれていた内容を見て。
思わず声を上げました。
「ええっ!?」
――商行為の委任による代理権は、本人の死亡によっては消滅しない。
……。
私は目を疑いました。
「死んでも消えないんですか!?」
「そうだ」
「本人が亡くなってるんですよ!?」
「読んだままだ」
「でも、民法では!」
「だから商法だって言ってんだろ!」
相馬先輩が笑いました。
私はもう一度、条文を読みました。
商行為の委任による代理権。
本人の死亡によっては、消滅しない。
……なんということでしょう。
民法だけなら、死亡による代理権消滅が問題になる。
しかし。
商売の世界では、本人が亡くなったからといって、直ちに代理権が消えるとは限らない。
店主が亡くなった翌日も。
商品は腐る。
取引先は待っている。
従業員には給料が必要。
商売は、簡単に止まってくれない。
「所長!」
私は思わず振り返りました。
「何だ」
「商法って、商売を止めないための法律でもあるんですね!」
片桐所長は、静かに頷きました。
「そうだ」
そして、森田さんに尋ねました。
「長谷川さんが、どのような権限を任されていたのか、分かる資料はありますか」
「え?」
「注文する権限です」
「昔から仕入れを任されていましたけど……」
「それを裏付けるものです」
森田さんは少し考えました。
「あっ!」
革鞄の底を探ります。
「これなら!」
出てきたのは、三年前の取引基本契約書。
そこには。
――黒川商店は、長谷川清一を仕入担当責任者とし、通常の営業に必要な物品の発注を委任する。
と書かれていました。
署名。
黒川源蔵。
実印。
私は息を呑みました。
「……あります!」
相馬先輩がにやりとしました。
「いいもん持ってるじゃねえか」
片桐所長は契約書を読みました。
そして、短く言いました。
「まだ二つある」
「二つ?」
私は聞き返しました。
「名前を出していないこと」
「はい」
「それから、頼まれた仕事の範囲を超えていないかということだ」
私は注文書を見ました。
注文者。
長谷川清一。
黒川商店の名前はない。
そして、問題の棚は、特注品。
通常の仕入れとは少し違うかもしれない。
「……まだ終わってないんですね」
「そうだ」
所長は六法を閉じました。
「一つの条文だけで勝った気になるな」
あ。
また言われました。
でも。
ここからが、本当の商法の出番だったのです。
翌日。
相馬先輩と私は、黒川商店へ向かいました。
駅から車で十五分。
広い敷地に、冷蔵倉庫が三棟。
トラックが出入りしています。
表には、大きな看板。
――黒川商店。
建物は古いのに、商売は繁盛しているようでした。
「立派ですね」
私が言うと、相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「だからって、金を払うとは限らねえ」
「確かに……」
事務所に通されると、一人の男性が待っていました。
四十歳くらい。
高そうな背広。
太い金時計。
そして、人を値踏みするような目。
「黒川英治です」
亡くなった源蔵さんの長男。
現在、店の経営を引き継ぐ準備をしているそうです。
「行政書士事務所?」
英治は私たちの名刺を見ました。
「弁護士じゃないんだな」
「片桐事務所の相馬です。事実関係を確認させていただきたい」
「確認?」
「森田製作所への注文についてです」
英治は笑いました。
「ああ、あれか」
……嫌な笑い方です。
「百二十万円の棚だろ」
「はい」
「払わんよ」
即答。
私は思わず顔を上げました。
「でも、納品は済んでいるんですよね?」
「ああ」
「棚も使っているんですよね?」
「便利に使わせてもらってる」
……。
ちょっと待ってください。
「じゃあ、なぜ支払わないんですか?」
英治は椅子に深く腰掛けました。
「簡単な話だ。注文したのは長谷川だ」
「はい」
「うちの親父は、注文前に死んでる」
「はい」
「なら、親父が頼んだ仕事じゃないだろ」
私は反論しようとしました。
しかし、英治は続けました。
「しかも、注文書に黒川商店の名前がない」
机を指で叩きます。
「長谷川清一。そう書いてある」
「それは……」
「だったら、長谷川個人の契約だろ」
なるほど。
そう来ましたか。
本人の死亡。
代理人の非顕名。
この二つを使って。
黒川商店の支払義務を否定する。
「そもそもな」
英治は笑いました。
「死んだ人間は、もう契約できないんだよ」
「……」
「民法でもそうだろ?」
私は息を吸いました。
そのとき。
「こはる」
相馬先輩が小さく言いました。
「はい」
「まだだ」
私は口を閉じました。
先輩が英治を見ます。
「長谷川さんは、何年前から仕入れを担当されていたんですか?」
「二十年以上だ」
「源蔵さんから、発注権限を任されていたんですね」
「ああ」
「今回の注文前に、その権限を取り消した事実は?」
「ないね」
「死亡後、今回の発注までに、代理権を終了させる別の措置を取られましたか?」
「そんなもん、必要ないだろ。親父が死んだんだから」
相馬先輩は、それ以上言いませんでした。
代わりに、机の上の書類を見ました。
「ところで、この棚は冷蔵倉庫の改修に使われたものですね」
「ああ」
「改修計画は、生前の源蔵さんが決めたものですか?」
「そうだよ」
「では、長谷川さんは、その計画を進めたわけですね」
「まあな」
英治は退屈そうに腕を組みました。
「でも、金額までは親父が決めていなかった。だから無効だ」
「なるほど」
相馬先輩は手帳に書き込みました。
「分かりました」
英治が笑います。
「分かったなら帰ってくれ」
そのとき。
私は、事務机の端にある一冊の帳簿に気づきました。
冷蔵倉庫改修計画。
そう書かれた表紙。
「先輩」
私は小声で呼びました。
「何だ」
「あの帳簿……」
先輩も視線を向けました。
「英治さん」
「何だ」
「源蔵さんの改修計画について、長谷川さん本人にも確認させていただけますか」
「勝手にしろ」
英治は鼻で笑いました。
「どうせ、あいつには払う金なんかないんだから」
……。
その一言。
私は忘れませんでした。
黒川商店は商品を受け取っている。
棚も使っている。
でも、代金は払わない。
しかも。
長年働いた番頭さん一人に、百二十万円の責任を押しつけようとしている。
これは。
ただの法律問題ではありません。
人の仕事を、紙一枚で踏みにじろうとしているのです。
長谷川清一さんは、倉庫の奥にいました。
六十一歳。
背は低く、白髪交じり。
作業着の袖をまくっています。
「……私が悪かったんでしょうか」
開口一番。
そう言われました。
「何がですか?」
私が尋ねると、長谷川さんは俯きました。
「社長が亡くなったあとに、注文を出したことです」
「……」
「でも、冷蔵倉庫の改修は、社長が生きているときから決めていたことなんです」
長谷川さんは、古い帳簿を取り出しました。
そこには、細かい字で予定が書かれています。
六月二十日。
倉庫改修。
七月。
棚交換。
八月。
新規取引開始。
「この棚がなければ、八月からの仕事に間に合わなかったんです」
「だから発注したんですね」
「はい」
「源蔵さんから、その仕事を任されていたんですか?」
「ええ」
長谷川さんは、古い手帳を開きました。
六月末の日付。
そこには。
――長谷川へ。冷蔵倉庫の棚、七月中に手配。森田製作所へ相談すること。寸法は現場に合わせること。
と書かれていました。
私は目を見開きました。
「これ、源蔵さんの字ですか?」
「はい。社長が私の手帳に直接書いたんです」
「では、棚の手配そのものは……」
「生前から頼まれていました」
なるほど。
委任は存在した。
でも。
具体的な代金や寸法は、まだ決まっていなかった。
そして、社長の死後に注文した。
「長谷川さん」
相馬先輩が尋ねました。
「二十台という数量は、誰が決めたんですか?」
「私です」
「金額は?」
「森田さんと見積もりを確認して、私が決めました」
「源蔵さんから、そこまで細かく指定されていたわけではない?」
「はい」
「では、なぜ二十台に?」
長谷川さんは答えました。
「倉庫に必要だったからです」
そして。
帳簿の別のページを開きました。
――冷蔵倉庫改修予算。
金属棚。
百三十万円。
私は息を呑みました。
「予算がある!」
「はい」
「百二十万円なら、予算内ですね!」
「そうです」
長谷川さんは、少し涙ぐみました。
「私は、社長の仕事を終わらせたかっただけなんです」
……。
私は言葉を失いました。
社長が亡くなった。
悲しんでいる暇もない。
従業員を守らなければならない。
取引先に迷惑をかけられない。
だから、頼まれていた仕事を続けた。
それなのに。
息子からは、勝手にやったことにされる。
取引先からは、代金を請求される。
百二十万円。
六十一歳の番頭さんには、あまりにも重い金額です。
「長谷川さん」
私は言いました。
「森田さんには、注文するときに黒川商店の名前を伝えなかったんですか?」
「ああ……」
長谷川さんは申し訳なさそうに頭を下げました。
「昔からの付き合いだったもので。いつもの書き方で済ませてしまいました」
「いつも?」
「ええ。私の名前だけです」
「森田さんは、あなた個人からの注文だと思っていた可能性がありますか?」
「いや、それは……」
長谷川さんは少し考えました。
「いつも黒川商店の倉庫へ納めてもらっていましたし、私個人で棚を二十台も買うなんて……」
確かに。
でも。
注文書だけを見ると、長谷川清一。
黒川商店という名前がない。
民法の代理なら、顕名の有無が大きな問題になります。
私はノートを開きました。
――代理人が本人のためにすることを示さなかった場合。
民法。
原則として、代理人自身のためにしたものとみなされる。
ただし。
相手が本人のためにすることを知り、または知ることができたときは別。
ここまでは覚えています。
でも。
商法では?
私は、昨日の六法を思い出しました。
「先輩」
「何だ」
「商法には、代理の特別ルールがありましたよね」
相馬先輩が口元を上げました。
「ようやく気づいたか」
「第五百四条!」
「そうだ」
私は勢いよくノートを開きました。
商法第五百四条。
商行為の代理人が、本人のためにすることを示さないで行為をした場合であっても。
その行為は、本人に対して効力を生ずる。
「……名前を出さなくても?」
「そうだ」
「代理だと書かなくても?」
「商行為の代理ならな」
「本人に効力が生じる?」
「そういうことだ」
私は長谷川さんを見ました。
長谷川さんも驚いた顔をしています。
「じゃあ……」
私は言いました。
「注文書に黒川商店と書いていなかったことだけで、黒川商店側の責任が消えるわけじゃないんですね!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「商売ってのは、いちいち名前を全部書いていたら回らねえことがある」
「はい」
「長年の番頭が、店の仕事として注文する」
「はい」
「それを、本人の名前が書いてないから全部無効だなんて扱っていたら、商取引が混乱する」
なるほど。
商法の非顕名主義。
代理人が本人の名前を表に出さなくても、原則として本人に効力が生じる。
ただし。
私は、条文の後半に目を留めました。
「……あれ?」
「どうした」
「ただし書があります」
――相手方が、代理人が本人のためにすることを知らなかったときは、代理人に対して履行の請求をすることを妨げない。
私は固まりました。
「これ……」
「何だ」
「相手方が知らなかったら、代理人にも請求できるんですか?」
「そうだ」
「じゃあ森田さんは、長谷川さんにも百二十万円を請求できる可能性がある?」
「事情によってはな」
……。
私は長谷川さんを見ました。
長谷川さんは、青ざめていました。
「わ、私にも?」
「ですが」
私は慌てて言いました。
「今回、森田さんが黒川商店のための注文だと知っていたかどうか、確認が必要です!」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
単に代理人の名前しか書いていない。
それだけでは、すべてが決まるわけではない。
相手が何を知っていたのか。
取引の経緯はどうだったのか。
そこまで確認しなければなりません。
私はノートに大きく書きました。
――非顕名だから無効、ではない。
そして。
――知らなかった相手方の保護もある。
なるほど。
商法は、本人だけを守っているのではありません。
取引相手も守っている。
どちらか一方が得をするための法律ではないのです。
事務所へ戻った私は、机に三つの紙を並べました。
一枚目。
商法第五百四条。
二枚目。
商法第五百五条。
三枚目。
商法第五百六条。
「所長!」
「何だ」
「三つとも使えます!」
「そうか」
「まず、第五百四条。代理人が黒川商店の名前を出していなくても、本人に効力が生じます!」
「うん」
「次に、第五百六条。源蔵さんが亡くなっても、商行為の委任による代理権は、それだけでは消滅しません!」
「うん」
「それから、第五百五条!」
私は六法を開きました。
商行為の受任者は、委任の本旨に反しない範囲内において、委任を受けていない行為をすることができる。
……。
私は顔を上げました。
「これ、すごくありませんか?」
「何がだ」
「頼まれていないことまで、できるんですよ!」
相馬先輩が、すぐに言いました。
「何でもできるわけじゃねえぞ」
「あっ」
「委任の本旨に反しない範囲だ」
「はい……」
私は慌てて書き直しました。
商行為の委任。
委任の本旨に反しない範囲なら、委任されていない行為もできる。
「今回は、源蔵さんが棚の手配を頼んでいた」
「はい」
「ただし、数量や金額までは細かく決めていなかった」
「はい」
「そこで長谷川さんが、現場に必要な二十台を、予算内の百二十万円で発注した」
「そうです!」
「なら、その行為が委任の本旨に反していないか検討できる」
私は頷きました。
「源蔵さんの目的は、冷蔵倉庫の改修を終わらせることです!」
「そうだ」
「その目的に沿って、必要な棚を注文した」
「うん」
「だから、細かい注文条件まで事前に指示されていなかったというだけでは、直ちに権限外とは言えない!」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく商法らしくなってきたな」
私は嬉しくなりました。
でも。
片桐所長が、一枚の注文書を指で叩きました。
「こはる」
「はい」
「今の話で、確実に押さえた事実は何だ」
「え?」
「三つだ」
私は考えました。
「……注文書に黒川商店の名前がない」
「うん」
「でも、長谷川さんには、長年、仕入れの代理権があった」
「うん」
「そして、本人の死亡後に注文した」
「そうだ」
所長は頷きました。
「では、足りない証拠は?」
私は考え込みました。
「……森田さんが、誰との取引だと認識していたか」
「そうだ」
「それから、源蔵さんの委任内容」
「うん」
「さらに、注文が委任の本旨に沿っていたこと!」
「それを固めろ」
なるほど。
条文だけで喜んでいてはいけない。
法律を使うには、事実が必要です。
「相馬」
所長が言いました。
「森田さんから、過去の注文書と入金記録を預かれ」
「はい」
「長谷川さんの権限に関する資料も確認しろ」
「分かりました」
「こはる」
「はい!」
「時系列を作れ」
「任せてください!」
「それと」
「はい」
「死亡後の注文だからといって、相続人個人が当然に全額を払うと書くな」
私は手を止めました。
「あ……」
そうでした。
黒川商店は個人商人の営業です。
法人ではありません。
源蔵さんの死亡後、その事業や債務が誰にどのように承継されるのか。
それは、相続関係や営業の承継状況も踏まえて考えなければなりません。
「英治さんが長男だから、百二十万円全部を個人で払う義務がある、という単純な話ではないんですね」
「そうだ」
「まず、取引による債務が有効に成立しているか」
「うん」
「そして、誰がその債務を承継し、誰に請求できるのかを分ける」
「それでいい」
所長は静かに言いました。
「書面は、正しいことだけを書け」
私は背筋を伸ばしました。
「はい!」
そして。
証拠集めが始まりました。
森田製作所。
黒川商店。
町の信用金庫。
そして、倉庫の現場。
私たちは資料を集めました。
まず。
過去五年間の注文書。
そこには、どれも長谷川清一の名前だけが書かれていました。
しかし。
納品先は黒川商店。
請求書も黒川商店宛て。
入金も、源蔵さんが営業用に使用していた黒川商店名義の口座から行われていました。
「……全部同じですね」
私は紙を並べました。
「ああ」
相馬先輩が頷きます。
「今回だけ特別な取引方法だったわけじゃねえ」
「はい」
さらに。
森田さん自身の手帳には、注文を受けた日の記録がありました。
――七月十二日。黒川商店・長谷川氏より冷蔵倉庫棚二十台受注。
私は顔を上げました。
「これ!」
「ああ」
「森田さんは、黒川商店のための注文だと認識していた!」
「その裏付けになるな」
もちろん。
手帳だけですべてが決まるわけではありません。
でも。
過去の取引記録。
納品先。
請求先。
そして、当日の記録。
それらが、一つの方向を指していました。
さらに。
長谷川さんの発注権限を示す取引基本契約書。
源蔵さんの手書きの指示。
倉庫改修の予算帳。
納品書。
検収印。
写真。
私は机いっぱいに資料を並べました。
「先輩」
「何だ」
「これ、逃げ道がなくなってきませんか?」
相馬先輩は笑いました。
「書類ってのはな」
「はい」
「一枚じゃ弱くても、十枚揃えば相手の嘘を潰せることがある」
「なるほど……」
「もっとも、十枚全部が本物で、内容が噛み合っていなきゃ意味がねえ」
「はい!」
私は一つずつ日付を確認しました。
六月二十日。
源蔵さんが倉庫改修を計画。
六月二十八日。
長谷川さんに棚の手配を指示。
七月十日。
源蔵さん死亡。
七月十二日。
長谷川さんが森田製作所へ発注。
七月二十五日。
棚二十台納品。
七月二十七日。
検収完了。
八月。
英治さんが代金支払を拒否。
……。
時系列が、きれいにつながりました。
私は思いました。
もし商法第五百六条がなかったら。
源蔵さんが亡くなった瞬間、従来の商行為の委任による代理権まで当然に消滅するとしたら。
長谷川さんは、急いで棚を手配することが難しくなったかもしれない。
改修工事が止まる。
新しい取引に間に合わない。
従業員の仕事が減る。
取引先にも迷惑がかかる。
本人が亡くなったというだけで、商売の現場が混乱してしまう。
「……だからなんですね」
私は呟きました。
「何がだ」
「第五百六条です」
相馬先輩がこちらを見ました。
「本人が亡くなっても、商売は続いていくから」
「ああ」
「法律が、商売を止めないようにしている」
先輩は少しだけ笑いました。
「そういうことだ」
私は六法を見ました。
民法。
商法。
どちらも法律。
でも。
同じ代理でも、守ろうとしているものが少し違う。
民法は、一般的な代理関係の原則を定める。
商法は、商取引の継続と安全を考えて特別なルールを置いている。
その違いが。
百二十万円の代金を巡る事件で、はっきり見えてきたのです。
三日後。
片桐行政書士事務所。
私は、内容証明郵便の原案を書き上げました。
「できました!」
机に置きます。
相馬先輩が読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『黒川英治は、亡父の債務全額を当然に支払う義務がある』」
「あ……」
「駄目だ」
赤線。
「はい……」
「相続人が誰か、遺産分割がどうなってるか、営業用財産と債務をどう承継したか。確認したのか」
「……まだ全部は」
「だったら断定するな」
「はい!」
「次」
「はい」
「『長谷川の行為はすべて有効である』」
赤線。
「……全部は駄目ですね」
「当たり前だ」
「委任の本旨に反しない範囲です」
「そうだ。今回の注文について、具体的に書け」
私は原案を直しました。
すると。
片桐所長が、一枚目を指差しました。
「こはる」
「はい」
「通知の差出人は誰だ」
「森田さんです」
「そうだ」
「森田製作所の森田さん本人の意思に基づく通知です」
「うん」
「当事務所は、その書面作成を補助します」
「それでいい」
行政書士は弁護士ではありません。
私たちが森田さんの代理人となって、法律紛争の和解交渉をするわけではない。
また、内容証明郵便は、それだけで支払を強制できる魔法の紙ではありません。
でも。
本人の意思に基づいて、事実を整理した通知書を作ることはできます。
そして。
必要に応じて、弁護士へ引き継ぐための資料を整えることもできる。
私は書き直しました。
何度も。
何度も。
日付を確認し。
契約書を確認し。
商法の条文を確認しました。
そして。
三時間後。
ようやく完成したのです。
――通知書。
差出人。
森田製作所代表 森田正一。
宛先。
黒川商店の営業を承継し、代金債務を否定している黒川英治。
本文。
第一。
亡黒川源蔵は、生前、長谷川清一に対し、黒川商店の仕入れ業務及び冷蔵倉庫改修に必要な物品の手配を委任していた。
第二。
昭和六十三年七月十二日、長谷川清一は、右委任に基づく業務として、森田製作所に冷蔵倉庫用金属棚二十台を合計百二十万円で注文した。
第三。
本件注文書には長谷川清一の氏名のみが記載されているが、商法第五百四条により、商行為の代理については、本人のためにすることを示さない場合であっても、原則として本人に効力を生ずる。
第四。
また、本件注文は、亡黒川源蔵が生前に指示した冷蔵倉庫改修計画に沿い、予定予算内で行われたものであり、商法第五百五条に定める委任の本旨との関係においても、権限外であるとする理由は認め難い。
第五。
さらに、商法第五百六条により、商行為の委任による代理権は、本人の死亡によって当然には消滅しない。
第六。
本件金属棚は七月二十五日に納品され、同月二十七日に検収を受け、現在も黒川商店の営業に使用されている。
したがって、注文書に黒川商店の名称が記載されていないこと、及び注文前に黒川源蔵が死亡したことのみを理由として、本件売買契約の効力を否定することはできない。
ついては、本件代金債務の承継関係及び支払方法を明らかにし、相当期間内に書面により回答されたい。
回答が得られない場合には、弁護士への相談のうえ、代金請求訴訟その他の適切な法的措置を検討する。
――以上。
私は読み終わりました。
静寂。
片桐所長が、書面を一度読み返しました。
そして。
「よし」
短く言いました。
「……!」
やりました!
私は思わず拳を握りました。
「合格ですか!?」
「事実関係を確認して、森田さん本人に最終確認してもらえ」
「はい!」
相馬先輩が笑いました。
「いいか、こはる」
「はい」
「この書面には、相手を罵倒する言葉が一つもねえ」
「はい」
「詐欺だの、悪徳だの、泥棒だのとも書いてねえ」
「そうですね」
「だがな」
先輩は、第五百六条を指で叩きました。
「相手が頼りにしていた『社長が死んだ』って理屈は、これで崩れる」
「はい」
「『名前がない』って理屈は、第五百四条」
「はい!」
「『細かく頼まれていない』って理屈は、第五百五条と、残された指示書や予算帳」
「はい!」
相馬先輩は笑いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
そして。
いつもの口癖を言いました。
「ルールを守った奴が勝つんだよ」
私は頷きました。
なるほど。
商法。
ただの古い法律ではありません。
商売をしている人間が、勝手な理屈で約束を踏み倒されないための法律でもあるのです。
内容証明郵便を発送して、四日後。
黒川英治から、森田さんに電話が入りました。
そして。
翌朝。
森田さんが事務所へ駆け込んできました。
「先生!」
「どうしました!?」
「英治さんが、弁護士に相談したそうです!」
私は身構えました。
「それで!?」
「……払うと言ってきました」
「えっ!?」
森田さんの目には涙が浮かんでいました。
「百二十万円、全額です」
私は思わず立ち上がりました。
「本当ですか!」
「はい!」
相馬先輩が横から口を挟みました。
「支払方法は?」
「書面で返事が来ています」
森田さんが一枚の紙を取り出しました。
そこには。
――本件金属棚売買代金百二十万円について、黒川商店の営業を承継する黒川英治は、関係相続人との協議及び債務承継に関する確認を経て、自己の責任において全額支払う。
――支払期日は八月末日とする。
と書かれていました。
署名。
黒川英治。
押印。
「……!」
私は目を見開きました。
「先輩!」
「ああ」
「本人が全額支払うって!」
「今回は、そういう合意を本人がしたわけだ」
「はい!」
これなら。
単に長男だから当然に全額負担する、という不正確な話ではありません。
営業と債務の承継を確認したうえで。
英治さん自身が、全額支払うことを書面で約束した。
その違いは大きい。
「でも、どうして急に?」
私が尋ねると、森田さんが答えました。
「弁護士さんに、こう言われたそうです」
私は耳を澄ませました。
「『商法第五百六条を知らずに、本人が死亡したから代理権が消えたと決めつけるのは危険だ』って」
「……!」
「それから、『第五百四条がある以上、注文書に黒川商店の名前がないという理由だけでも勝てない』と」
私は相馬先輩を見ました。
先輩は、にやりと笑っています。
さらに森田さんが続けました。
「注文書も、昔の取引記録も、社長さんの指示書も全部確認したら、今回の注文を無権限だと主張するのは難しいだろう、と」
なるほど。
条文。
証拠。
取引の経緯。
それらが揃ったことで、英治さんは自分の主張の危うさを理解したのです。
「それで」
森田さんは少し笑いました。
「裁判になったら、代金だけでなく、遅延損害金や訴訟費用の問題まで出る可能性があると言われたそうです」
「……」
「しかも、うちは今後も黒川商店と取引するかもしれませんから」
私は頷きました。
裁判で争えば。
時間がかかる。
費用がかかる。
場合によっては、長年築いてきた取引先との信用も失う。
英治さんも、その現実に気づいたのでしょう。
そして。
森田さんは、もう一つの書面を取り出しました。
「長谷川さんにも、これが届いたそうです」
私は受け取りました。
――本件注文が、亡黒川源蔵の生前の委任に基づく業務の一環として行われたことを確認する。
――長谷川清一に対し、本件注文が無権限であったことを理由とする損害賠償請求は行わない。
署名。
黒川英治。
……。
私は、しばらく紙を見つめました。
「長谷川さん……」
百二十万円。
長年働いてきた番頭さんが、一人で背負わされそうになった金額。
それも。
社長の仕事を守ろうとした結果です。
私は胸が熱くなりました。
「よかった……」
相馬先輩が言いました。
「まだ入金は確認してねえぞ」
「あっ」
「最後まで気を抜くな」
「はい!」
でも。
今回ばかりは。
少しだけ、喜ばせてください。
だって。
百二十万円の代金だけではありません。
長谷川さんが二十年以上積み重ねてきた仕事の信用も。
ようやく守られたのです。
八月末日。
約束どおり。
森田製作所の口座に、百二十万円が振り込まれました。
そして、その翌日。
森田さんと長谷川さんが、二人揃って事務所を訪れました。
「ありがとうございました」
森田さんが深く頭を下げました。
「これで、従業員に給料が払えます」
私は笑いました。
「よかったです!」
長谷川さんも、静かに頭を下げました。
「私も、仕事を続けられることになりました」
「本当ですか?」
「はい」
長谷川さんは少し照れたように笑いました。
「英治さんが、改めて仕入れの責任者を任せると言ってくれまして」
「よかった……!」
「今度は、書面で権限の範囲も確認しました」
長谷川さんは、一枚の委任状を見せてくれました。
そこには。
通常の仕入れ業務。
発注の範囲。
一定額を超える契約についての承認手続。
報告義務。
それらが具体的に記されていました。
「これなら、次から揉めませんね!」
私が言うと、相馬先輩が笑いました。
「揉めるときは、揉める」
「もう!」
「だが、書面があれば揉め方は変わる」
「……なるほど」
長谷川さんは頷きました。
「昔は、社長と私の間で『頼むぞ』『分かりました』だけでしたから」
「はい」
「それで何十年もやってきたんです」
長谷川さんは、少し遠くを見るような目をしました。
「社長が亡くなったとき、私は……」
言葉が止まりました。
「もう、私の仕事も終わりなんだと思いました」
「……」
「でも、倉庫には商品がある。取引先も待っている。だから、どうしても仕事を止められなくて」
私は黙って聞きました。
「正直、怖かったんです」
「何がですか?」
「社長がいないのに、勝手に注文していいのかって」
長谷川さんは、笑いました。
「でも、先生方に教えてもらいました」
そして。
少し震える声で言いました。
「商売って、社長一人でやってるわけじゃないんですね」
……。
私は、言葉を失いました。
社長がいる。
番頭がいる。
従業員がいる。
仕入先がいる。
商品を運ぶ人がいる。
棚を作る町工場がある。
そして、商品を買うお客さんがいる。
誰か一人が欠けても、商売は簡単には止まらない。
だからこそ。
本人が亡くなっても、委任による代理権を当然には消滅させない。
商行為の代理では、本人の名前を出さなくても、原則として本人に効力を生じさせる。
委任の本旨に反しない範囲なら、細かく頼まれていない行為も認める。
法律は。
机の上の理屈だけで作られているわけではない。
働く人が、明日も働けるように。
そのための仕組みでもあるのです。
二人が帰ったあと。
私は、机の上の六法を眺めていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、商法がちょっと好きになりました」
「またか」
「またです!」
私は笑いました。
「だって、面白いじゃないですか」
「何がだ」
「民法では、本人が亡くなれば代理権が消滅するのが原則です」
「そうだ」
「でも、商法では、商行為の委任による代理権は死亡によっては消えない」
「うん」
「それから、普通の代理では顕名が問題になるのに、商行為の代理では非顕名でも本人に効力が生じる」
「そうだ」
「しかも、委任の本旨に反しない範囲なら、細かく頼まれていない仕事もできる!」
相馬先輩が頷きました。
「で?」
「全部、商売を円滑に続けるためなんですね!」
先輩は少しだけ笑いました。
「まあな」
私はノートを開きました。
三つの条文。
第五百四条。
第五百五条。
第五百六条。
最初は、似たような数字の並びでした。
しかも。
代理。
委任。
非顕名。
代理権の消滅。
受験生泣かせの言葉ばかりです。
でも。
今回の事件を思い出せば。
全部、顔が浮かぶ。
森田さん。
百二十万円を踏み倒されそうになった町工場の社長。
長谷川さん。
亡くなった主人の仕事を守ろうとした番頭さん。
そして。
黒川英治。
死亡と非顕名を口実に、商品だけ受け取って代金を払わずに済ませようとした息子。
誰を守るために、商法が存在するのか。
それが、少し分かった気がしました。
「所長」
私は声をかけました。
「何だ」
「商法って、民法と矛盾しているんですか?」
片桐所長は、帳簿から顔を上げました。
「矛盾ではない」
「え?」
「商取引には、商取引に合ったルールが必要なんだ」
「……」
「民法の原則があっても、商法が特別の定めを置いている場合は、その特別のルールを考える」
なるほど。
私は頷きました。
民法が間違っているわけではない。
商法が勝手なわけでもない。
商取引には、迅速さや継続性が求められる。
だから、一般の取引とは異なる特別の規定がある。
「じゃあ、先輩」
「何だ」
「私が個人的に頼んだ買い物にも、商法第五百六条が全部適用されるんですか?」
「されるわけねえだろ」
「ですよね!」
「商行為の委任かどうかを見ろ」
「はい!」
私は笑いました。
危ない。
商法を覚えたばかりで、何でも商法にしてしまうところでした。
そんな私を見て、相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は?」
私は少し考えました。
そして。
ノートの最後に、一行を書きました。
――商売の代理は、名前を出さずとも本人に届き、委任の本旨を守れば動けて、本人が死んでも当然には止まらない。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「ええっ!?」
「一行に詰め込みすぎだ」
「三つの条文をまとめたんです!」
「欲張りだな」
「受験生ですから!」
片桐所長が、静かに笑いました。
珍しい。
本当に珍しい。
私は思わず顔を上げました。
「所長、今笑いました?」
「気のせいだ」
「絶対笑いました!」
「仕事に戻れ」
「はい!」
私は笑いながらノートを閉じました。
昭和六十三年。
商法は、まだ会社法と分かれていない時代です。
商法には、会社に関する規定も置かれています。
現代のような合同会社もありません。
株式会社を作るにも、今とは違う厳しい条件がある。
でも。
商行為の代理と委任に関する今回の三つの条文は、現代にも基本的な考え方が引き継がれています。
それだけ。
商売を続けるために、大切なルールなのでしょう。
人は亡くなる。
経営者は代わる。
店の看板も、いつか新しくなる。
けれど。
働く人がいる限り。
商売は、明日へつながっていく。
そのつながりを、法律が簡単には断ち切らせない。
私は今日、それを学びました。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『うちの営業所の社員が、勝手に契約を結んだらしいんですが……』
私は鉛筆を取りました。
「どんな契約ですか?」
『五百万円の機械です』
「五百万円!?」
『しかも、会社の名前じゃなくて、営業所長個人の名前で契約書にハンコを押したらしくて……』
……。
私は、ゆっくり相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
『社長は、そんな契約は知らないって言ってるんです』
私は息を吸いました。
代理。
非顕名。
そして、権限。
またです。
また、商法です。
「先輩」
「何だ」
「次も、名前がない事件です」
「聞こえてる」
「しかも五百万円です!」
「聞こえてるって言ってんだろ」
「これ、商法第五百四条ですよね!?」
「それだけで決まるか!」
「あっ!」
そうでした。
代理人に権限があったのか。
どのような契約だったのか。
相手方は何を知っていたのか。
そこを見なければなりません。
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、営業所長さんが普段どのような契約を任されていたのか、教えていただけますか?」
昭和六十三年。
商売の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
代理人が名前を出さなかった。
本人が亡くなった。
細かい指示を受けていなかった。
それだけで。
商取引が当然に無効になるわけではない。
けれど。
代理人だからといって、何でもできるわけでもない。
商法は、そんな微妙な境界線を、しっかり引いているのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、契約書を取り寄せろ!」
「はいっ!」
私は元気よく返事をしました。
今日の教訓。
これなら、忘れません。
――商法は、本人の名前がないことや死亡を口実に、商売の約束を簡単には消させない。
そして。
人が亡くなっても。
その人が託した仕事まで、必ずしも終わるわけではない。
長谷川さんが守ったのは。
百二十万円の契約だけではありません。
二十年以上、一緒に働いた主人から託された、最後の仕事だったのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




