[商法・商事売買と民事売買の違い]法理編 こはるノート
同じ魚を買ったのに、買った人が違うだけで、適用される法律のルールが変わることがあります。
家庭の夕食のために魚を買った人。
その魚を焼いて、お弁当にして売るために仕入れた人。
どちらも、お金を払って魚を買っています。
でも。
法律は、この二人を必ずしも同じようには扱いません。
なぜなら。
商売をする人には、商売をする人としての責任があるからです。
そして、その責任は。
ときに、腐った魚を売りつけられた被害者にさえ、厳しく突きつけられるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かって、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「商法って、ちょっと意地悪じゃありません?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「だって、あの魚の事件ですよ!」
「ああ。田島さんの件か」
「そうです!」
田島春江さん。
駅前商店街で惣菜店を営む女性。
東海水産株式会社から、冷凍サバ百箱を八十万円で仕入れました。
ところが。
届いた魚は、品質に重大な問題があった。
食材として使えない。
当然、返品したい。
でも。
東海水産の大沢社長は、こう言ったのです。
「商法では、商品を受け取ったらすぐ検査しろと決まっている!」
「五日も経ってから文句を言うな!」
「八十万円、全額払え!」
……。
思い出しただけで腹が立ちます。
「しかも、あの社長の言っていたこと、全部が間違いだったわけじゃないんですよね」
「そうだな」
「そこが悔しいんです!」
私は鉛筆を握りました。
法律を悪用する人は、必ずしも嘘ばかり言うわけではありません。
本当の条文を持ち出して。
都合の悪い条件や例外を隠す。
そうすることで、自分に有利な結論だけを相手に信じ込ませる。
大沢社長も、そうでした。
「でも、最後は商法五百二十六条第三項でした!」
「ああ」
「売主が瑕疵を知っていた場合の例外です!」
私が胸を張ると、相馬先輩が笑いました。
「じゃあ、今日はそこだけ覚えて終わりか?」
「え?」
「商事売買には、ほかにもいろいろ特別な決まりがあるぞ」
「……そうでした」
供託。
競売。
定期売買。
検査・通知義務。
買主の保管義務。
私はノートの白いページを見つめました。
「……先輩」
「何だ」
「今日、長くなりそうですね」
「お前が全部理解するまで終わらねえからな」
「ひどい!」
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
「まず、商事売買と民事売買の違いです!」
私はノートに大きく書きました。
――民事売買。
――商事売買。
「そもそも、何が違うんでしょう?」
相馬先輩が言いました。
「誰が売って、誰が買うかだ」
「はい!」
私は三つの例を書きました。
まず。
普通の人が、普通の人に自転車を売る。
これは、民法が基本になる売買です。
次に。
魚屋さんが、一般のお客さんに魚を売る。
これも、商人間の売買ではありません。
そして。
水産問屋が、惣菜店に魚を卸す。
これが、商人間の売買です。
「つまり、商法の商事売買に関する特則は、原則として商人同士の売買に適用されるんですね」
「そうだ」
「片方だけが商人なら?」
「商人間の売買に限った特則は、そのままじゃ適用されねえ」
私は頷きました。
なるほど。
ここ、大事です。
商人が関係しているからといって、すべての取引に商法五百二十六条が適用されるわけではありません。
商法には、一方的商行為にも適用される規定があります。
けれど。
今回勉強する五百二十四条から五百二十八条までの売買に関する特則は、商人間の売買を中心としたものです。
「つまり、春江さんは?」
「惣菜店を営む商人だ」
「東海水産も?」
「水産物を扱う商人だ」
「だから、商人間の売買!」
「そういうことだ」
私は二重丸をつけました。
ただし。
もう一つ、気になっていたことがあります。
「先輩。春江さんのお店って、株式会社じゃありませんよね?」
「ああ。個人商店だ」
「でも、商人なんですか?」
「当然だろ」
「会社じゃなくても?」
「会社じゃなくてもだ」
私は、はっとしました。
そうです。
商人と会社は、同じ意味ではありません。
自分の名で商行為を業として行う個人も、商人になり得る。
大きな株式会社だけが、商法の世界にいるわけではないのです。
「そういえば、現代なら一人で株式会社を作ることもできますけど……」
「また始まったな」
「あっ」
しまった。
未来の会社法。
危険な話題です。
「今は昭和六十三年だぞ」
「はい……」
「株式会社を作るには、発起人が七人以上必要だ」
「七人!」
「取締役も三人以上、監査役も必要だ」
「……会社を作るだけで大仕事ですね」
「だからって、名前だけ借りりゃいいって話でもねえがな」
私は苦笑しました。
現代の会社法では、一人会社も認められています。
合同会社という会社形態もあります。
株式会社なら、設立時の発起人は一人でもよく、一定の機関設計では取締役一人で足ります。
最低資本金についても、現在は一円から設立できる制度です。
でも。
昭和六十三年。
会社のルールは、商法の会社編や有限会社法などに分かれていました。
今とは、会社を作るための仕組みそのものが違う。
「ただし、こはる」
片桐所長が言いました。
「今回の売買で一番大事なのは、会社の形ではない」
「はい」
「商人としての取引かどうかだ」
私は頷きました。
そうですね。
春江さんが株式会社を作っていなくても。
惣菜店として継続的に仕入れ販売をしている以上、商人間の売買の問題が生じる。
そこを見落としてはいけません。
私はノートに書きました。
――商人かどうかは、株式会社かどうかだけで決まらない。
「さて、次だ」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「買主が品物を受け取らねえとき、売主はどうする?」
「受け取らない?」
「ああ」
先輩は、昨日の電話相談を持ち出しました。
青果卸売業者。
取引先へ野菜を届けようとしたのに、買主が受け取りを拒否した事件です。
「野菜って、ずっと保存できませんよね」
「そうだ」
「腐ります」
「そうだな」
「じゃあ、売主はどうしたらいいんでしょう?」
相馬先輩は私を見ました。
「お前なら?」
「……勝手に別のお店へ売ります!」
「不正解」
「早い!」
「売買契約があるのに、何の手続もなく勝手に処分していいわけじゃねえ」
「ですよね……」
私は鉛筆を持ち直しました。
ここで登場するのが。
供託。
そして競売です。
供託とは、一定の場合に、法律で定められた供託所へ目的物などを預ける制度です。
たとえば。
商品を引き渡そうとしても、買主が受け取らない。
買主が受け取れない。
そんな場合。
売主が永遠に商品を抱え続けるのは、不合理です。
「民法にも供託の仕組みはありますよね」
「ああ」
「でも、商法にはさらに特別なルールがある!」
私は六法を開きました。
商法第五百二十四条。
商人間の売買において、買主が目的物の受領を拒み、または受領することができない場合。
売主は、その物を供託することができます。
さらに。
相当期間を定めて催告した後、競売に付することもできます。
「つまり、売主は供託か競売かを選べるんですね!」
「そうだ。ただし競売には条件がある」
「相当期間を定めた催告ですね!」
「そうだ」
私はノートに書きました。
商法五百二十四条。
受領拒絶・受領不能。
売主は供託できる。
または、原則として相当期間を定めて催告した後、競売できる。
「でも先輩」
「何だ」
「野菜みたいに腐りそうな商品は、催告している間に価値がなくなっちゃいますよね」
「そこだ」
相馬先輩が頷きました。
生鮮食品。
傷みやすい果物。
腐敗のおそれのある魚。
時間が経つほど価値が下がる商品。
そういう場合まで、
「まず相当期間を定めて催告しろ」
と厳格に要求していたら。
手続が終わる前に、商品が駄目になってしまいます。
「だから、例外があるんですね!」
「そうだ」
商法五百二十四条では、損傷などによって価格が下がるおそれのある物について、競売前の催告を省略できる場合が認められています。
「なるほど!」
私は勢いよく書きました。
原則。
催告してから競売。
例外。
価格低落のおそれがある物は、催告なしで競売できる。
「これ、すごく合理的ですね!」
「商売は待ってくれねえからな」
私は頷きました。
魚は。
裁判所の都合を待ってくれません。
野菜も。
買主の返事を待ってくれません。
腐るものは、腐る。
だから法律も、商品の性質に応じた処理を用意しているのです。
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「民法と商法で、競売の扱いはどう違う」
「はい!」
私はノートを二つに分けました。
民法。
商法。
まず民法。
供託に適しない物や、保存に過分の費用がかかる物などについて、一定の条件のもと、裁判所の許可を得て競売し、その代金を供託する仕組みがあります。
昭和六十三年の民法では、現在の条文とは規定の置き方が異なる部分もありますが、裁判所の許可を必要とする基本的な構造がありました。
一方。
商法五百二十四条に基づく売主の競売では。
「裁判所の許可は、原則として不要なんですね!」
「そうだ」
「ただし、商法に定められた要件は守る必要があります」
「そのとおり」
私は書きました。
民法上の自助売却。
裁判所の許可が必要。
商法五百二十四条による売主の競売。
裁判所の許可は不要。
「つまり、商人間の取引では、迅速に処理できるようにしているわけですね」
「そうだ」
ただし。
ここで、相馬先輩が指を一本立てました。
「競売した金は、どうなる?」
「……売主のもの!」
「違う」
「ええっ!」
「勝手に全部懐に入れていいわけじゃねえ」
私は慌てて条文を確認しました。
商法五百二十四条第三項。
競売した場合には、その代価を供託しなければならない。
ただし、代金の全部または一部を売買代金に充てることは妨げられない。
「なるほど!」
たとえば。
売買代金が十万円。
買主が商品を受け取らない。
売主が適法に競売し、八万円で売れた。
この場合。
競売代価の処理には、商法上のルールがある。
売主が自由に使ってよいお金というわけではないのです。
「それから、供託や競売をした場合には?」
所長が尋ねました。
「買主へ、遅滞なく通知を発する必要があります!」
「よし」
私は書き足しました。
――受領拒絶されても、勝手に処分して終わりではない。
これ、大事です。
商法が迅速な処理を認めているのは、無秩序な取引を許すためではありません。
売主と買主の利益を、できる限り公平に調整するためなのです。
「次は、定期売買です!」
私はページをめくりました。
――商法五百二十五条。
「先輩。これ、ちょっと不思議なんですよね」
「何がだ」
「契約が、解除したものとみなされるんですよ!」
「ああ」
「解除の意思表示をしなくても!」
「そうだ」
私は首をかしげました。
普通、契約解除というと。
「解除します」
という意思表示が必要です。
民法の世界では、解除権が発生しただけで当然に解除が成立するとは限りません。
たとえば。
成人式の着物。
成人式の日に間に合わなかった。
その後に着物を渡されても、契約の目的が達成できない。
こういう場合。
民法上、催告なしに解除できることがあります。
でも。
解除できることと、解除されたことは違う。
「民法では、原則として解除の意思表示が必要なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ商法は?」
「商人間の定期売買では、一定の条件で、解除したものとみなされます!」
「そうだ」
商法五百二十五条。
売買の性質や当事者の意思表示によって、特定の日時または一定期間内に履行しなければ、契約目的を達成できない場合。
その期限までに一方が履行しなかったとき。
相手方が直ちに履行を請求した場合を除き、解除したものとみなされます。
「つまり!」
私は言いました。
「民法では、催告なしで解除できる場合でも、解除の意思表示は必要」
「うん」
「商法の定期売買では、一定の場合に催告も解除の意思表示も不要!」
「正解だ」
私は二重線を引きました。
これは、かなり大きな違いです。
「じゃあ、具体例を考えてみろ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私は少し考えました。
商店街のお菓子屋さん。
夏祭りで売るために、特注の紅白饅頭を五百個注文した。
契約では、祭り当日の朝八時までに納品する約束。
しかも、祭りのためだけに用意する品物だと、売主も知っている。
ところが。
売主が納品しなかった。
祭りは終わってしまった。
「これ、翌日に届けられても困りますよね」
「そうだな」
「だから定期売買ですね!」
「契約の性質や合意によるが、その例ならそう考えやすいな」
私は頷きました。
ただ日付が決まっているだけでは足りません。
その日に履行しなければ、契約の目的が達成できないことが重要です。
「じゃあ、祭りが終わった後、売主が『今から届けます』と言っても?」
「直ちに履行を請求していなければ、商法五百二十五条によって解除したものとみなされる場合がある」
「なるほど!」
私は書きました。
期限がある契約。
それだけで必ず定期売買になるわけではない。
期限を過ぎたら契約目的を達成できないことが重要。
「でも、先輩」
「何だ」
「買主が、どうしても商品を欲しい場合は?」
「そこも条文を読め」
私は六法を見ました。
――直ちにその履行の請求をした場合を除き。
「あっ!」
「そうだ」
「買主が直ちに履行を請求した場合は、当然解除の扱いにならないんですね!」
「そのとおり」
つまり。
期限が過ぎても、
「それでも商品を届けてほしい!」
と相手方が直ちに履行を請求した場合には、契約を維持する道がある。
「なるほど……」
私は少し感心しました。
商法は、機械的に契約を消しているわけではない。
期限が重要な取引では、いつまでも契約関係を曖昧にしない。
でも、相手方が直ちに履行を求めるなら、その意思も尊重する。
「商人同士だから、意思表示や対応の速さが重要になるんですね」
「そういうことだ」
そこで私は、春江さんの事件を思い出しました。
「先輩。あの冷凍サバも、港祭り用でしたよね」
「ああ」
「じゃあ、定期売買だから当然解除だったんでしょうか?」
「そう簡単には言えねえ」
「ですよね」
私は頷きました。
春江さんの事件では、冷凍サバ自体は納品期限までに届いていました。
問題は、品質が契約に適合していなかったことです。
期限内に正常な履行がなされたといえるか。
売買の内容はどうだったか。
品質不良を理由とする責任追及の要件はどうか。
そうした問題を整理する必要があります。
「だから、あの事件では五百二十六条を中心に考えたんですね」
「そうだ」
「条文が使えそうだからって、飛びついちゃいけない」
「そのとおりだ」
片桐所長が静かに言いました。
「法律は、事実に合わせて使うものだ」
私は、その言葉をノートに書きました。
「さて」
相馬先輩が少し笑いました。
「いよいよ、あの魚の話だ」
「来ました!」
私はページをめくりました。
商法五百二十六条。
買主による目的物の検査及び通知。
「これです!」
私は鉛筆を握りました。
「春江さんの事件の、一番重要な条文!」
まず。
商人間の売買で、買主が目的物を受け取った場合。
買主は、遅滞なく検査しなければなりません。
「遅滞なく、ですね」
「そうだ」
「これって、絶対に受け取った瞬間ですか?」
「そんなわけねえだろ」
「ですよね!」
遅滞なく。
つまり、不当に遅れることなく。
商品の種類。
数量。
取引の状況。
通常必要となる検査の内容。
そうした事情によって、どの程度の時間が許されるかが問題になります。
百箱の商品。
一箱の商品。
精密機械。
生鮮食品。
それぞれ、検査の方法も違うでしょう。
「だから、必ず何時間以内と決まっているわけじゃないんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ここは試験でも大事そうです。
そして。
検査によって瑕疵や数量不足を発見した場合。
買主は、直ちに売主へ通知しなければなりません。
「この『直ちに』が怖いんですよね」
「そうだな」
春江さんは。
魚が届いた翌朝には、異常に気づいていました。
でも。
問屋に知らせたのは、五日後。
だから大沢社長は、商法五百二十六条を持ち出したのです。
「もし売主が欠陥を知らなかったなら、春江さんは不利だったんですね」
「その可能性が高いな」
私は頷きました。
ただし。
ここで重要な区別があります。
検査をしなかった場合。
検査をしたけれど通知しなかった場合。
どちらも、商法上の責任追及に関わる問題です。
商人間の取引では、買主がいつまでも瑕疵を主張できるわけではありません。
「でも、先輩」
「何だ」
「直ちに発見できない瑕疵もありますよね?」
「あるな」
「例えば、機械の内部に隠れた欠陥とか」
「そうだ」
私はノートに大きく書きました。
――直ちに発見できない瑕疵。
たとえば。
工場が、新しい包装機械を仕入れた。
外観に異常はない。
受領時の通常の検査でも分からない。
でも。
しばらく使用すると、内部の部品に欠陥が見つかった。
「こういう場合、どうなるんですか?」
相馬先輩が答えました。
「六か月だ」
「出ました!」
商法五百二十六条には、直ちに発見できない瑕疵についての特則があります。
買主が目的物の受領から六か月以内に隠れた瑕疵を発見した場合にも、通知が問題になります。
「つまり、六か月以内なら、いつ通知してもいいんですね!」
「違う」
「えっ!」
相馬先輩が即座に否定しました。
「そこが引っかけだ」
「引っかけ……?」
「六か月は、単純に通知を先延ばしできる期間じゃねえ」
私は六法を見直しました。
そうです。
直ちに発見できない瑕疵について。
六か月以内に発見した場合にも。
発見したら、直ちに通知する必要がある。
「なるほど!」
私は急いで書きました。
隠れた瑕疵。
受領から六か月以内に発見。
発見後は、直ちに通知。
「つまり、受け取って五か月目に欠陥を見つけた場合でも?」
「見つけたら、すぐ知らせる」
「六か月目まで待っていいわけじゃない!」
「そうだ」
私は大きく丸をつけました。
これは覚えないと。
受領から六か月。
発見後は直ちに。
この二つを混同すると、試験でも現場でも危険です。
「じゃあ、こはる」
相馬先輩が聞きました。
「買主が検査・通知を怠ると、何ができなくなる?」
「はい!」
私はノートに書きました。
瑕疵や数量不足を理由とする責任追及。
たとえば。
契約解除。
損害賠償請求。
昭和六十三年の商法では、当時の瑕疵担保責任などとの関係で考えることになります。
「なるほど」
私は頷きました。
ここで、また現代の知識が頭に浮かびました。
現代の民法。
契約不適合責任。
追完請求。
代金減額請求。
損害賠償。
解除。
これらが整理されています。
「先輩!」
「何だ」
「現代では、契約不適合責任という考え方で整理されているんですよ!」
「また未来か」
「でも大事なんです!」
私は続けました。
現代では、二〇二〇年に施行された改正民法によって、従来の瑕疵担保責任の規律が大きく改められました。
目的物が契約内容に適合しているか。
そこを中心に、買主の救済が整理されています。
一方。
昭和六十三年は、旧民法の瑕疵担保責任の時代です。
そして商人間の売買には、商法五百二十六条という特則がある。
「つまり、昭和の書面に現代の民法の条文番号をそのまま持ち込んじゃいけないんですね」
「当然だ」
「……毎回、私が踏む地雷です」
「自覚してるなら踏むな」
そのとおりです。
でも。
古い制度と現代の制度を比べると、法律が何を守ろうとしているのかが分かりやすくなります。
昭和の商法も。
現代の商法も。
商人間の取引を迅速に確定させるという考え方を持っています。
なお、現代の商法五百二十六条では、代金減額請求なども明示され、民法改正に合わせた整理が行われています。
「でも、根本の検査・通知の重要性は続いているんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
法律の言葉が変わっても。
商人として早く商品を確認し、異常を知らせる。
その必要性は、今も昔も変わらないのです。
「さて、こはる」
片桐所長が口を開きました。
「大沢社長が見落としていたのは何だ」
「はい!」
私は勢いよく答えました。
「商法五百二十六条の例外です!」
所長が頷きました。
「言ってみろ」
「売主が瑕疵や数量不足について悪意だった場合、検査・通知に関する制限は適用されません!」
「そうだ」
私はノートの真ん中に、大きく書きました。
――売主の悪意。
「ここでいう悪意って、嫌がらせをする気持ちじゃありませんよね」
「そうだ」
「欠陥を知っていた、ということですね」
「そのとおり」
法律でいう善意・悪意。
善意は、ある事実を知らないこと。
悪意は、ある事実を知っていること。
道徳的に良い人か悪い人かという話ではありません。
今回なら。
東海水産が、出荷する魚に品質上の問題があると知っていたか。
そこが重要だったのです。
「社長は、品質管理課から報告を受けていたんですよね」
「ああ」
「第三冷凍庫の温度異常も」
「そうだ」
「それなのに、十分な確認をせずに出荷した」
片桐所長が頷きました。
「ただし、その事実から、どこまで認識していたといえるかは慎重に見る必要がある」
「はい」
私は鉛筆を止めました。
そうでした。
単に冷凍庫の故障を知っていたことと。
実際に引き渡す商品の瑕疵を認識していたこと。
それは、必ずしも同じではありません。
故障の報告内容。
品質管理課が何を指摘したか。
社長が何を聞いたか。
対象の商品は何だったか。
そこまで確認して、初めて売主の悪意を判断する材料になります。
「だから、証拠集めが必要だったんですね」
「そうだ」
私は、あの納品書を思い出しました。
――要再確認。
たった四文字。
でも。
その一行から、事件が動き始めたのです。
さらに。
倉庫担当者の証言。
温度記録。
品質管理課の報告。
出荷の指示。
それらをつなげたことで、大沢社長は自分の主張を見直さざるを得なくなった。
「先輩」
「何だ」
「商法五百二十六条って、買主だけに厳しい法律じゃないんですね」
「ああ」
「売主にも、知っている欠陥を隠して逃げることは許さない」
「そういうことだ」
相馬先輩が笑いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ。ルールを守った奴が勝つんだよ」
私は頷きました。
あの大沢社長。
商法五百二十六条を、ずいぶん得意げに口にしていました。
でも。
肝心の例外を、無視していた。
法律は。
自分に都合のいいところだけ読めばいい、というものではないのです。
「ところで、先輩」
「何だ」
「不良品が届いて、買主が契約を解除したら、その商品はどうなるんですか?」
「いい質問だ」
私は驚きました。
「褒めました?」
「まだだ」
「何でですか!」
相馬先輩は笑いながら六法を開きました。
商法第五百二十七条。
買主による目的物の保管及び供託。
「これも重要だ」
「はい!」
私はノートに書きました。
――買主の目的物保管義務。
商人間の売買で、買主が商品を受け取った。
ところが、瑕疵がある。
買主は、必要な手続を踏んで契約を解除した。
それでも。
商品そのものは、買主の手元にあります。
「そこで、買主が勝手に捨てていいかという問題になるんですね」
「そうだ」
「でも、解除したんだから、もう要らない商品ですよね」
「だからって、勝手に処分していいわけじゃねえ」
私は頷きました。
契約解除によって、当事者間の法律関係は変わります。
しかし。
相手方に返すべき商品を、無責任に扱ってよいわけではありません。
そこで商法五百二十七条は、原則として、買主に保管または供託を求めています。
「しかも、費用は売主負担なんですね!」
「そうだ」
私は書きました。
契約を解除しても、原則として買主に保管・供託義務。
費用は売主負担。
「なるほど!」
では。
商品が腐りそうな場合はどうでしょう。
たとえば。
返品する魚。
傷み始めた果物。
保管している間に、どんどん価値が下がってしまう物。
「こういう場合、競売が問題になるんですね!」
「ああ」
ただし。
ここで、もう一つの大きな違いがあります。
「先輩!」
「何だ」
「買主が競売する場合には、裁判所の許可が必要なんですよね!」
「そうだ」
商法五百二十七条。
買主が、滅失や損傷のおそれのある商品を競売する場合には、裁判所の許可を得る必要があります。
そして、その代価を保管または供託する。
競売したときは、遅滞なく売主へ通知する。
「つまり、五百二十四条と五百二十七条で違うんですね」
私は書きました。
五百二十四条。
売主側の受領拒絶・受領不能に関する競売。
裁判所の許可は不要。
五百二十七条。
解除後の買主側による目的物の競売。
裁判所の許可が必要。
「これ、試験で絶対に引っかかりますよ!」
「お前なら引っかかりそうだな」
「ひどい!」
「だから覚えろ」
私は鉛筆で大きく囲みました。
売主と買主で違う。
競売の条件も違う。
裁判所の許可も違う。
「なるほど……」
私は少し考えました。
「商法って、商品が今どちらの手元にあるかも重要なんですね」
「そうだ」
売主が、買主に受け取ってもらえない商品を持っている。
買主が、解除後に返すべき商品を持っている。
似ているようで、立場が違う。
だから、適用される規定も違うのです。
「ただし、こはる」
片桐所長が言いました。
「五百二十七条には、もう一つ重要な例外がある」
「はい!」
私は六法を確認しました。
そして。
「あっ!」
思わず声を上げました。
――同一の市町村の区域内。
「これです!」
商法五百二十七条の保管・供託に関する規定は、売主と買主の営業所が同じ市町村の区域内にある場合には適用されません。
「ええっ! 同じ市町村かどうかで変わるんですか!」
「そうだ」
私は、またしても驚きました。
何でしょう、この細かさ。
でも。
考えてみれば、理由は分かります。
たとえば。
駅前の魚屋さん。
その向かいにある惣菜店。
両方とも、同じ市内。
惣菜店が不良品を受け取って契約を解除した。
この場合。
売主は、近くにいます。
商品を回収することも、比較的容易です。
「だから、買主に特別な保管義務を課す必要性が小さいんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
「売主が取りに行きやすいからな」
「なるほど!」
私は書きました。
同一市町村内。
商法五百二十七条の特別な保管・供託義務は適用されない。
「ただし、先輩」
「何だ」
「だからといって、何をしてもいいわけじゃないですよね」
「当然だ」
特則が適用されないことと、故意に商品を壊してよいことは別です。
ほかの法律上の義務や、具体的な事情による責任まで、すべてなくなるわけではありません。
私は頷きました。
なるほど。
法律の例外。
それを、何でも自由にできる免罪符にしてはいけないのです。
「では、五百二十八条は?」
片桐所長が尋ねました。
「はい!」
私は次の条文を開きました。
商法第五百二十八条。
前条の規定の準用。
……。
「準用?」
私は首をかしげました。
「また、ややこしい言葉が出てきました」
「法律じゃよくあることだ」
相馬先輩が言いました。
準用。
ある規定を、別の似た場面にも必要な読み替えをして適用すること。
「つまり、五百二十七条のルールを、ほかの場面にも使うんですね」
「そうだ」
その一つが。
注文した物と違う商品が届いた場合。
たとえば。
惣菜店がサバを注文した。
なのに、アジが届いた。
「……これ、困りますね」
「困るな」
「アジじゃ、予定していたサバ料理が作れません!」
「そうだ」
でも。
届いたアジを、勝手に捨てていいわけではありません。
もう一つ。
注文した数量より多く届いた場合。
百箱注文した。
なのに、百二十箱届いた。
「二十箱多い!」
「そうだな」
「この二十箱は、どうしたらいいんでしょう?」
相馬先輩が言いました。
「そこに五百二十八条が出てくる」
注文と異なる商品。
注文数量を超過した商品。
そうした場合にも、買主側の保管や供託に関する規定が準用されます。
「なるほど!」
私はノートに書きました。
五百二十七条。
解除後の目的物の保管・供託。
五百二十八条。
注文と異なる物品や、数量超過分について準用。
「つまり」
私は言いました。
「買主が契約どおりではない商品を受け取った場合、不要だからといって、勝手に捨てていいとは限らないんですね」
「そのとおり」
私は頷きました。
商売では。
商品そのものが財産です。
売主にも。
買主にも。
商品を無駄にしないための責任がある。
商法は、そこまで考えているのです。
窓の外が、少し暗くなってきました。
私は、ここまでの内容を見直しました。
商法五百二十四条。
供託と競売。
五百二十五条。
定期売買。
五百二十六条。
検査・通知義務。
五百二十七条。
買主の保管・供託義務。
五百二十八条。
注文と異なる商品や数量超過の場合の準用。
「……先輩」
「何だ」
「これ、全部つながってるんですね」
「どういうことだ?」
私はノートを見ながら言いました。
「商品が受け取られない場合」
「うん」
「期限に間に合わない場合」
「うん」
「商品に欠陥がある場合」
「うん」
「返品する商品が買主の手元にある場合」
「そうだ」
「全部、商売を途中で止めないためのルールなんですね」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
私は、少し嬉しくなりました。
最初は、ただ面倒な特則だと思っていました。
民法があるのに。
どうして商法でも細かく決めるのか。
どうして買主に検査義務を課すのか。
どうして競売の条件を変えるのか。
でも。
商売の現場を考えると、理由が見えてきます。
毎日、大量の商品が動く。
大量のお金が動く。
納期が決まっている。
食品は腐る。
季節商品は売り時を逃す。
倉庫のスペースにも限りがある。
だから。
商人間の取引では、一般の民事売買よりも迅速な処理が必要になる。
「なるほど……」
私は呟きました。
「商法って、商売を早く進めるための法律でもあるんですね」
「そうだな」
片桐所長が静かに言いました。
「ただし、速ければ何でもいいわけではない」
「はい」
「迅速さと、公正さの両方が必要だ」
私は頷きました。
その言葉。
今回の事件に、ぴったりでした。
「じゃあ、確認問題をやるぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私は鉛筆を構えました。
「第一問。個人の魚屋が、一般家庭の客に魚を売った。この売買に、商法五百二十六条の商人間売買の特則は当然に適用されるか?」
「いいえ!」
「理由は?」
「買主が商人ではないので、商人間の売買ではないからです!」
「正解」
よし。
「第二問。商人間の売買で、買主が商品の受領を拒否した。売主は供託できるか?」
「できます!」
「競売は?」
「原則として、相当期間を定めて催告した後にできます!」
「商品が腐りそうな場合は?」
「価格低落のおそれがあるため、催告を省略できる場合があります!」
「裁判所の許可は?」
「商法五百二十四条に基づく売主の競売では不要です!」
「よし」
私は拳を握りました。
「第三問。商人間の定期売買。期限内に履行されず、相手方が直ちに履行請求もしなかった。どうなる?」
「解除したものとみなされます!」
「解除の意思表示は?」
「不要です!」
「民法では?」
「催告なしに解除できる場合でも、解除の意思表示が必要です!」
「正解」
よし。
調子が出てきました!
「第四問。商人間の売買で、買主が瑕疵を発見した。どうする?」
「直ちに売主へ通知!」
「通知を怠ったら?」
「原則として、瑕疵を理由とする責任追及が制限されます!」
「隠れた瑕疵は?」
「受領から六か月以内に発見し、発見したら直ちに通知します!」
「売主が瑕疵を知っていた場合は?」
「商法五百二十六条の通知義務違反による制限は適用されません!」
「正解」
私は思わず笑いました。
あの魚の事件。
もう忘れません。
「第五問。商人間の売買で、買主が契約を解除した。目的物は、原則としてどうする?」
「売主の費用で保管、または供託です!」
「傷むおそれがある商品を、買主が競売する場合は?」
「裁判所の許可が必要です!」
「売主と買主の営業所が同一市町村内なら?」
「五百二十七条の特別な保管・供託義務は適用されません!」
「よし!」
相馬先輩が頷きました。
私は満足してノートを閉じかけました。
すると。
「最後に、所長から一問だ」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「買主が商品を受け取ってから七か月後、初めて欠陥に気づいた。売主は、その欠陥を知っていた。この場合はどう考える?」
……。
私は止まりました。
七か月。
六か月を過ぎています。
でも。
売主は欠陥を知っていた。
「……所長」
「何だ」
「六か月を過ぎたから、絶対に責任追及できない、とは言えません」
「理由は?」
「売主が瑕疵について悪意だった場合、商法五百二十六条の制限は適用されないからです!」
所長が頷きました。
「そのとおり」
私は続けました。
「ただし、だからといって無期限に責任追及できるわけではありません。ほかの法律上の期間制限や要件は、別に検討する必要があります」
「よし」
やった!
今度こそ完璧です。
私は思わず拳を握りました。
商事売買。
民事売買。
違いが、ようやく整理できました。
「ところで、先輩」
「何だ」
「商法って、どうしてこんなに細かいんですか?」
「商売が細かいからだろ」
「身も蓋もない!」
相馬先輩が笑いました。
でも。
私は、少し真面目に考えていました。
民法。
商法。
会社法。
現代では、会社のルールが独立した会社法に整理されています。
でも。
昭和六十三年には、まだ商法の中に会社編がある。
商人の取引。
株式会社の組織。
商人の代理。
商号。
そして商事売買。
いろいろな規律が、商法の世界に集まっている。
「所長」
「何だ」
「将来、会社のルールが商法から独立するとしたら、どういう理由なんでしょうね」
片桐所長が顔を上げました。
「独立?」
「はい。会社組織のルールを、一つの法律に整理するとしたら」
相馬先輩が笑いました。
「また妙なこと考えてるな」
「ちょっと気になっただけです!」
もちろん。
私は知っています。
未来では、会社法が独立します。
二〇〇五年に会社法が成立し、二〇〇六年に施行される。
それまで商法や有限会社法などに分かれていた会社制度が、再編されるのです。
でも。
会社のルールが独立したからといって、商法そのものが消えたわけではありません。
商人間の取引に関する特則は、現代にも残っています。
「つまり……」
私は小さく呟きました。
「会社の作り方が変わっても、商売の基本的な問題はなくならないんですね」
株式会社が一人で作れるようになっても。
合同会社が登場しても。
資本金一円で会社を作れるようになっても。
商品が腐ることは変わりません。
納期を守らなければ困ることも。
不良品を売りつけられたら困ることも。
受け取られない商品を保管し続けられないことも。
変わらない。
「なるほど……」
私は頷きました。
制度は変わる。
でも。
人が商売をする以上、繰り返し起きる問題がある。
だから。
古い商法を勉強することにも、ちゃんと意味があるのです。
私は最後のページを開きました。
今日の一行。
何を書きましょう。
商事売買。
民事売買。
供託。
競売。
定期売買。
検査・通知。
買主の保管義務。
全部入れたい。
でも。
一行では長すぎます。
「……先輩」
「何だ」
「一行にまとめるの、難しくありません?」
「お前、いつもやってるだろ」
「今回は五つも論点があるんですよ!」
「だったら、一番大事なことを書け」
私は少し考えました。
一番大事なこと。
今回の事件で、私が学んだこと。
春江さんは、不良品を売りつけられた。
でも、通知が遅れたために不利になった。
一方。
大沢社長は、商品の瑕疵を知っていた。
だから、商法の特則を盾に逃げることができなかった。
そして。
商品の受領拒絶や返品、期限の問題にも、それぞれ特別な決まりがあった。
全部に共通するのは。
商人間の取引では、迅速さと誠実さの両方が求められるということ。
私は鉛筆を握りました。
そして。
ゆっくり書きました。
――商事売買は「早く確かめ、すぐ知らせる」。商人の迅速さは必要だが、欠陥を知る売主の逃げ道にはならない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
あの腐った魚を思い出せばいい。
八十万円。
小さな惣菜店にとって、大きな金額。
品質の悪い商品を仕入れてしまった。
しかも、通知が遅れた。
商法の原則だけを見れば、春江さんは不利でした。
でも。
売主が欠陥を知っていた場合の例外があった。
事実を調べた。
資料を集めた。
通知書を作った。
その結果、八十万円の請求を撤回してもらうことができた。
商法は。
真面目な商人に、厳しい責任を課す法律です。
けれど。
その厳しさを利用して、相手を騙す商人まで守る法律ではありません。
私は、そのことが少し嬉しかったのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が立ち上がりました。
「はい?」
「勉強は終わりだ」
「やった!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「はい!」
「それから、台所の流しも掃除しとけ」
「……え?」
私は固まりました。
「先輩」
「何だ」
「今日、商法を勉強したばかりですよね」
「そうだな」
「商法では、商人間の取引は迅速に処理するんですよね」
「ああ」
「じゃあ、先輩が掃除をした方が早いと思うんです!」
「何でだよ!」
「先輩の方が手慣れてますから!」
「関係ねえだろ!」
私は腕を組みました。
「しかも、私には今からノートを整理するという大切な仕事が――」
「こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい!」
「掃除を頼む」
「……はい」
即答でした。
相馬先輩が笑いました。
「ほらな」
「何ですか!」
「商法五百二十五条だ」
「え?」
「掃除は閉所時間までに終わらせる必要がある。期限が大事だろ?」
「……!」
「だから、急げ」
私は眉をひそめました。
「先輩!」
「何だ!」
「掃除は商人間の定期売買じゃありません!」
「分かってるよ!」
「商法五百二十五条の適用はありません!」
「いちいち条文で反論すんな!」
「だって、法律を間違って使うのは駄目なんですよね!」
相馬先輩が吹き出しました。
片桐所長も、ほんの少しだけ笑ったように見えました。
私は箒を手に取ります。
窓の外。
夕暮れの商店街に、明かりが灯っていきます。
魚屋さん。
八百屋さん。
惣菜店。
小さな町には、たくさんの商人がいます。
今日も、商品が売られる。
今日も、商品が仕入れられる。
そこには、一つ一つの売買契約があります。
民法が基本。
商人間の売買には、商法の特別なルール。
それを知っているだけで、守れる商売があります。
ただし。
商品を受け取ったら、検査。
瑕疵を見つけたら、通知。
期限を守る。
商品を適切に保管する。
そして。
売主も買主も、誠実に取引する。
その当たり前の積み重ねが、商売の信用を作っているのです。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――商事売買は「早く確かめ、すぐ知らせる」。商人の迅速さは必要だが、欠陥を知る売主の逃げ道にはならない。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「掃除が止まってるぞ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私、今日で商法がちょっと好きになりました!」
「そりゃよかったな!」
「でも!」
「今度は何だ!」
「商法五百二十四条から五百二十八条まで、全部覚えたら頭が腐りそうです!」
「魚と一緒にするな!」
……なるほど。
商法は、腐りそうな商品については、迅速な処理を用意しています。
ですが。
どうやら。
受験勉強で疲れた私の頭については。
供託も競売も認められないようです。
残念ながら。
明日も、勉強を続けるしかありません。
だって。
法律の知識だけは。
腐らせずに、きちんと使える状態にしておきたいですから。
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