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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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597/701

[商法・匿名組合]現場編 「金だけ出した奴は黙ってろ」の嘘。消えた三百万円と、帳簿を開かせる昭和の商法

挿絵(By みてみん)

 名前を出さなければ、責任も、権利も、消えてしまうのでしょうか。


 商売には、表に立つ人がいます。


 店を開き。


 客を迎え。


 商品を売る人です。


 けれど。


 その店を支えるお金を出した人が、必ずしも表に立つとは限りません。


 名前は出さない。


 経営にも口を出さない。


 ただ、利益が出たら分けてもらう。


 そんな約束があります。


 法律上の名前は。


 ――匿名組合。


 ところが。


 その「匿名」という二文字を、都合よく解釈する人間がいました。


「名前も出してねえ奴に、店の金を調べる権利なんかあるか!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、三百万円を出した女性が、たった一冊の帳簿を見ることさえ拒まれる事件に出会いました。


 そして。


 現代の商法の条文番号を、そのまま昭和に持ち込むという。


 転生者として、かなり危険な失敗をやらかしかけるのです。


「主人が残した三百万円が、消えたんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、膝の上でハンカチを握り締めていました。


 名前は、森下澄江さん。


 五十八歳。


 十年前に夫を亡くし、駅から少し離れた住宅街で一人暮らしをしています。


「三百万円……ですか」


 私は思わず聞き返しました。


 昭和六十三年の三百万円。


 決して小さなお金ではありません。


 まして、亡くなったご主人が残した大切な財産です。


「息子がいるんですけどね」


 澄江さんは小さく笑いました。


「東京で働いていて、滅多に帰ってこないんです」


「そうなんですね」


「でも、あの人が生きていた頃は、いつも家族で喫茶店に行っていたんです」


 澄江さんの目が、少し遠くなりました。


「だから、町に新しい喫茶店ができるって聞いたとき、嬉しくて」


 話を聞くと、三年前。


 駅前商店街で喫茶店を開こうとしていた男性が、澄江さんに声をかけたそうです。


 名前は、黒川重蔵。


 四十九歳。


 以前は別の町で飲食店を経営していた人物でした。


「お金を出してくれれば、店は私がやります。利益が出たら、その一部をお渡しします」


 黒川は、そう言ったそうです。


「私、商売なんてできませんから」


 澄江さんは俯きました。


「だから、お金だけ出すことにしたんです」


「経営には参加しなかったんですね」


「はい。お店の名前にも、私の名前は出ていません」


「契約書はありますか?」


「あります」


 澄江さんは、風呂敷から一枚の紙を取り出しました。


 私は受け取りました。


 そこには、こう書かれていました。


 ――匿名組合契約書。


 私は思わず顔を上げました。


 匿名組合。


 商法の特殊な契約です。


 私は急いで続きを読みました。


 第一条。


 森下澄江は、黒川重蔵が営む喫茶店「珈琲館あかつき」の営業のため、金三百万円を出資する。


 第二条。


 営業は黒川重蔵が自己の名において行い、森下澄江は業務執行に関与しない。


 第三条。


 黒川重蔵は、毎営業年度の利益の三割を森下澄江に分配する。


 第四条。


 営業年度は毎年四月一日から翌年三月三十一日までとする。


 第五条。


 営業年度終了後、営業者は出資者に営業成績を報告する。


 署名押印。


 黒川重蔵。


 森下澄江。


 私は頷きました。


「なるほど。匿名組合契約ですね」


「これって……本当に効力があるんでしょうか」


「もちろん、契約として成立し得ます」


 私は言いました。


「名前が匿名だからといって、法律上の権利までなくなるわけではありません」


 澄江さんは、少しだけ安心した表情になりました。


 ところが。


「最初の年は、十二万円もらえたんです」


「はい」


「二年目は、二十万円」


「順調だったんですね」


「ええ。でも……」


 澄江さんの声が震えました。


「今年は、利益が一円もないと言われたんです」


「……一円も?」


「はい」


 私は首をかしげました。


 店が赤字になること自体は、おかしくありません。


 商売には浮き沈みがあります。


 しかし。


「お店は、今も営業しているんですよね?」


「はい。毎日、お客さんでいっぱいなんです」


「それなのに、利益がない?」


「そうなんです」


 澄江さんは、もう一枚の紙を取り出しました。


 黒川から届いた手紙です。


 ――本年度の営業利益は発生していない。


 ――従って、利益分配は行わない。


 ――なお、出資金については営業資金として使用済みであり、返還には応じられない。


 私は読み終えて、眉をひそめました。


「……先輩」


「何だ」


「これ、かなり乱暴じゃありません?」


 相馬先輩が手紙を受け取りました。


「乱暴だな」


「ですよね!」


「だが、利益が出ていないなら、分配がないこと自体はおかしくねえ」


「え?」


 私は瞬きしました。


「匿名組合は、利益を分ける契約だ」


「はい」


「利益がないのに、必ず現金を払えって話じゃねえ」


「あ……」


 そうでした。


 匿名組合。


 利益の分配を約束する契約。


 銀行預金ではありません。


 元本保証の貯金でもありません。


 商売が赤字なら、出資金が減ることもあります。


「じゃあ、黒川さんの言い分が正しい可能性も……?」


「ある」


 相馬先輩は手紙を机に置きました。


「だから、調べるんだろ」


「何をですか?」


「本当に赤字なのか、だ」


 片桐所長が静かに口を開きました。


「森下さん」


「はい」


「営業成績の報告は、受けましたか」


「いいえ」


「帳簿は?」


「見せてもらえませんでした」


「理由は?」


 澄江さんは、唇を噛みました。


「……私は、ただの金づるだからって」


 事務所が静まり返りました。


「何ですって?」


 私は聞き返しました。


「黒川さんが、そう言ったんです」


 澄江さんは目を伏せました。


「金を出しただけの人間が、経営に口を出すなって」


 私は拳を握りました。


 ……それは。


 さすがに。


 言っていいことではありません。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「匿名組合員にも、検査する権利があります!」


 澄江さんが顔を上げました。


「本当ですか?」


「はい!」


 私は頭の中で、現代の商法を開きました。


 商法第五百三十九条。


 匿名組合員の検査権。


 営業年度の終了時には、営業者の貸借対照表の閲覧などを求めることができる。


 そして。


 重要な事由があれば。


 裁判所の許可を得て、いつでも営業者の業務及び財産の状況を検査できる。


「つまり、今すぐでも――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「今、何条って言った」


「商法五百三十九条です!」


「……五百三十九条?」


「はい!」


 先輩は棚から六法を取り出しました。


 そして。


 私の前に置きました。


「読め」


「え?」


「五百三十九条だ」


 私はページをめくりました。


 匿名組合。


 商法第五百三十五条。


 第五百三十六条。


 第五百三十七条。


 第五百三十八条。


 そして。


 第五百三十九条。


 そこには。


 匿名組合契約の解除についての規定が書かれていました。


 ……。


「え?」


 私は固まりました。


「け、検査権は……?」


「そこには書いてねえな」


「そんな!」


 私は何度もページを見直しました。


 間違いありません。


 昭和六十三年。


 商法第五百三十九条。


 現代とは、内容が違う。


 またです。


 また未来の法律を持ち込んでしまいました。


「こはる」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「お前、どこの六法を読んでるんだ」


「あ、いえ、その……」


「条文番号は、思い込みで書くな」


「はい……」


 私は肩を落としました。


 でも。


 片桐所長が言いました。


「相馬。続きを教えてやれ」


「はい」


 先輩は六法のページをめくりました。


「こはる。五百四十二条を見ろ」


「五百四十二条?」


 私は指で文字を追いました。


 そこには。


 いくつかの別の条文を、匿名組合員に準用する規定がありました。


「……百五十三条?」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「有限責任社員の検査権に関する規定を、匿名組合員にも準用してるんだ」


「つまり……」


「検査権そのものがないわけじゃねえ」


 私は顔を上げました。


「あるんですね!」


「ああ」


「でも、条文の置き場所が違う!」


「そういうことだ」


 なるほど。


 昭和の商法。


 恐るべし。


 現代では、匿名組合の規定の中に直接書かれている内容が。


 この時代では、別の制度の条文を準用する形になっている。


 まるで。


 目的の部屋に入ろうとしたら、隣の建物を経由しないといけないような法律です。


「ややこしいですね!」


「法律は、お前の都合で並んでねえ」


「知ってますけど!」


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「場所が違っても、権利はある」


「はい!」


「なら、何を証明する?」


 私は澄江さんの手紙を見ました。


 利益なし。


 出資金なし。


 帳簿開示なし。


 でも、店は繁盛。


「……本当に利益がなかったのか、確認する必要があります」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「まず、事実を拾え」


 私は鉛筆を握り直しました。


 よし。


 昭和の商法。


 今度こそ、間違えません。


 翌日。


 私は相馬先輩と、駅前の喫茶店へ向かいました。


 店の名前は、


 ――珈琲館あかつき。


 赤い庇。


 磨かれたガラス窓。


 店の前には、手書きのメニュー。


 ブレンドコーヒー。


 ナポリタン。


 ミックスサンド。


 店内からは、珈琲豆の香りが漂ってきます。


「いいお店ですね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「これで赤字なんでしょうか」


「客が入ってても赤字の店はある」


「ですよね」


「見た目で決めるな」


「はい」


 私たちは店に入りました。


 昼前だというのに、ほとんど満席です。


 カウンターには若い女性店員が二人。


 奥では白いエプロン姿の男性が、忙しそうに料理を作っていました。


「いらっしゃいませ!」


 明るい声。


 私は、少し胸が痛くなりました。


 この店。


 澄江さんの三百万円が、支えてきたのかもしれません。


「黒川さんはいらっしゃいますか」


 相馬先輩が尋ねると、店員が奥を指しました。


「店長なら事務室です」


 しばらくして。


 黒川重蔵が現れました。


 太い眉。


 派手な腕時計。


 腹の出た体に、仕立てのよさそうな背広。


「何だ、あんたら」


「片桐行政書士事務所の相馬です」


「行政書士?」


 黒川は鼻で笑いました。


「税務署でも来たのかと思ったぜ」


「森下澄江さんから、契約書の確認を依頼されています」


「……ああ」


 黒川の表情が変わりました。


「あの婆さんか」


 私は眉をひそめました。


「契約上、利益の分配を受ける立場の方ですよね」


「だから何だ」


「今年は利益がなかったと通知されたそうですが」


「なかったんだよ」


「営業成績の報告も受けていないそうです」


「必要ねえ」


 黒川は椅子にどっかりと腰を下ろしました。


「いいか、お嬢ちゃん」


「はい」


「匿名組合ってのはな、金を出すだけの奴のことだ」


「……」


「経営するのは俺。店の名前も俺。客に頭を下げるのも俺だ」


「はい」


「だったら、金の使い道を決めるのも俺だろ」


 私は黙って聞いていました。


「澄江は三百万円出した。それだけだ」


「でも、利益を分配する契約があります」


「利益が出たらな」


「はい」


「今年は出てねえ」


「その計算を確認できないでしょうか」


 黒川は笑いました。


「はあ?」


 そして。


 机を指で叩きました。


「何で部外者に帳簿を見せなきゃいけねえんだ!」


「部外者ではありません」


「経営者でもねえだろ!」


「それはそうですが――」


「なら黙ってろ!」


 黒川の声が、店内に響きました。


 店員がびくっと肩を震わせます。


「金を出しただけの奴に、経営に口出しする権利なんかねえんだよ!」


 私は息を吸いました。


 確かに。


 匿名組合員は、通常、営業者の経営を直接行う立場ではありません。


 それは正しい。


 でも。


 だからといって。


 利益の分配を約束した相手に、計算の根拠を一切示さなくていい。


 そんな理屈になるのでしょうか。


「黒川さん」


 相馬先輩が言いました。


「確認だけさせてください」


「何だ」


「森下さんとの契約は、今も続いていますね」


「ああ」


「三百万円を出資として受け取った」


「そうだ」


「利益の三割を分配する約束もある」


「契約書に書いてあるだろ」


「分かりました」


 先輩は手帳を閉じました。


「では、契約内容と法律上の権利について、森下さんご本人から書面で確認していただきます」


 黒川は鼻で笑いました。


「好きにしろ」


「はい」


「ただしな」


 黒川は私たちを睨みました。


「俺の店に、勝手に入って帳簿を調べるような真似はするなよ」


 私は口を開きかけました。


 でも。


 先輩が先に言いました。


「もちろんです」


「ほう?」


「法律上必要な手続は、守ります」


 黒川の笑みが深くなりました。


「そうか。だったら帰れ」


 私たちは店を出ました。


 外へ出た瞬間。


 私は先輩に詰め寄りました。


「先輩!」


「何だ」


「完全に舐められてます!」


「そうだな」


「もっと言ってやればよかったのに!」


「何をだ」


「匿名組合員には検査権があるって!」


「あるな」


「じゃあ!」


 相馬先輩は足を止めました。


「こはる」


「はい」


「検査権があるからって、俺たちが勝手に帳簿をひっくり返していいわけじゃねえ」


「……はい」


「それに俺たちは、法律紛争の交渉代理人じゃない」


「分かってます」


「なら、感情で押すな」


 先輩は店の看板を振り返りました。


「今、必要なのは、あいつが何を隠してるかだ」


「隠してる?」


「客は多い。従業員もいる。だが本当に利益が出てるかは分からねえ」


「はい」


「だから数字を集める」


 なるほど。


 法律を使う前に。


 法律が働くための事実を集める。


「相馬先輩」


「何だ」


「調べましょう!」


「もう調べてる」


「え?」


 先輩は手帳を開きました。


「昨日、森下さんに確認した。黒川が去年まで送ってきた報告書もある」


「はい」


「今年になって、急に売上報告がなくなった」


「はい」


「それに、妙な話も聞いた」


「妙な話?」


 先輩は声を落としました。


「黒川が、駅の反対側にもう一軒、店を出そうとしてるらしい」


「え?」


「しかも、そっちは息子名義だそうだ」


 私は立ち止まりました。


 ……待ってください。


 澄江さんには、


 利益がない。


 出資金も使い切った。


 そう言っている。


 なのに。


 息子名義で新しい店?


 もちろん、それだけで不正とは言えません。


 でも。


「先輩」


「何だ」


「お金の流れ、怪しくないですか?」


「ああ」


 相馬先輩が笑いました。


「やっと分かってきたな」


 私は拳を握りました。


 これは。


 匿名組合の検査権。


 使いどころです。


 その日の午後。


 澄江さんから、さらに重要な資料が届きました。


 前年までの営業報告書。


 利益分配の領収書。


 出資金を渡したときの受領書。


 そして。


 黒川から送られた一通の葉書。


 そこには、こう書かれていました。


 ――新店舗開業に伴い、当店の設備更新費として相当額を支出しました。


 ――本年度は利益を計上できません。


 私は首をかしげました。


「設備更新費……」


 相馬先輩が頷きます。


「問題は、どの店の設備かだ」


「……新店舗?」


「可能性はある」


 私は葉書を見直しました。


 珈琲館あかつき。


 出資された三百万円は、この営業のための資金です。


 その営業から生じた利益を、分配する契約。


 もし。


 その資金が、まったく別の店へ不当に流されていたら。


「契約違反の問題になりますね」


「そうだ」


「でも先輩」


「何だ」


「出資したお金って、法的には誰の財産になるんでしたっけ?」


 先輩が私を見ました。


「言ってみろ」


 私は記憶をたどりました。


 匿名組合員の出資。


 商法第五百三十六条。


 出資は営業者の財産に属する。


「……黒川さんです」


「そうだ」


「澄江さんのものじゃない」


「ああ」


 私は頭を抱えました。


「ええっ!」


「何だよ」


「じゃあ、黒川さんが自分の財産を使ったって言ったら、終わりじゃありません?」


「終わらねえよ」


「え?」


 相馬先輩は契約書を指差しました。


「誰の財産かって話と、契約を守らなくていいって話は別だ」


「……あ」


「営業者の財産になる。だから外部との取引も営業者がする」


「はい」


「だが、出資を受けた以上、約束した営業について、利益分配の義務を負う」


「はい!」


「出資金が自分の財産になったからって、契約上の義務まで消えるわけじゃねえ」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 所有権が移ること。


 契約上の義務が残ること。


 この二つは、両立するのです。


「それと、こはる」


「はい」


「匿名組合員が出せるものは何だ?」


「お金や財産です」


「労働は?」


「……民法の組合なら、労務出資がありますよね」


「そうだ」


「でも匿名組合は違う」


 私は六法を見ました。


 少なくとも、この三百万円は、間違いなく財産による出資です。


 誰かの信用だけを貸したとか。


 無償で店を手伝ったとか。


 そういう話ではありません。


「それが何か?」


 私が尋ねると、先輩は言いました。


「相手に逃げられねえように、何を出した契約なのか明確にしておくんだ」


「なるほど」


「三百万円を、いつ、誰が、どんな約束で渡したか。証拠が揃ってるのは強い」


 私は机に並ぶ領収書を見ました。


 契約書。


 受領書。


 利益分配の記録。


 黒川自身の署名押印。


 全部あります。


 そして。


 片桐所長が、静かに口を開きました。


「こはる」


「はい」


「今から通知書を作る」


 いよいよです。


 昭和の商法。


 匿名組合。


 書類の反撃が始まります。


 事務所の机に、便箋が広げられました。


 私が最初に書いた原案は、わずか十分で真っ赤になりました。


「ここ」


 片桐所長が赤鉛筆で線を引きます。


「『出資金三百万円は森下澄江の所有物である』」


「はい……」


「違う」


「ですよね……」


「出資は営業者の財産に帰属する」


 赤線。


「次」


「はい」


「『利益が出ていなくても、必ず三割を支払う義務がある』」


「……違いますね」


「違う」


 所長が頷きました。


「利益がないなら、利益分配は発生しない」


「はい」


「出資が損失で減っているなら、その扱いも検討しなければならん」


 私は慌てて書き直しました。


「次」


「はい」


「『匿名組合員はいつでも自由に店内に立ち入り、帳簿を検査できる』」


「あ……」


「違う」


 三本目の赤線。


 私は机に突っ伏しました。


「全滅です……」


「まだだ」


「え?」


「四つ目」


 所長が指差しました。


 ――商法第五百三十九条第二項により、直ちに検査を行う。


 ……。


「あああっ!」


 私は頭を抱えました。


「また現代の条文番号です!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「学習しろよ!」


「してます! 今してます!」


 所長は静かに言いました。


「昭和六十三年の商法だ」


「はい……」


「五百四十二条によって準用される、百五十三条を確認しろ」


「はい!」


 私は六法を開き直しました。


 営業年度の終了時。


 営業時間内。


 貸借対照表の閲覧。


 業務及び財産の状況の検査。


 さらに。


 重要な事由がある場合。


 裁判所の許可。


 いつでも検査できる。


 ここです。


「所長!」


「何だ」


「今回は営業年度終了後の報告も問題ですが、それだけじゃありません」


「うん」


「別店舗への資金流用が疑われています」


「そうだ」


「だから、重要な事由に基づく検査の手続も検討できます!」


 所長が頷きました。


「ただし、疑いだけで勝手に検査できるわけじゃない」


「裁判所の許可が必要ですね」


「そうだ」


 私は赤鉛筆を置きました。


 なるほど。


 ここが重要です。


 匿名組合員には、経営権がない。


 でも。


 監視するための権利まで、ないわけではない。


 そして。


 その権利を行使するにも、手続がある。


 だからこそ。


 書面が必要なのです。


 二時間後。


 机の上には、内容証明郵便の原案が完成していました。


 宛先。


 黒川重蔵。


 差出人。


 森下澄江。


 私は、ゆっくり読み上げました。


「第一。本通知人と貴殿との間には、昭和六十年四月一日付匿名組合契約が存在し、本通知人は同契約に基づき、金三百万円を出資した」


「うん」


「第二。貴殿は、喫茶店『珈琲館あかつき』の営業から生じる利益の三割を、本通知人に分配する義務を負う」


「うん」


「第三。貴殿は本年度の利益が存在しない旨を通知したが、契約上約束された営業成績の報告を行っていない」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。貴殿は新店舗開業に伴う設備費の支出を通知しているが、その支出が本件匿名組合契約の対象営業に関するものか、判然としない」


「よし」


「第五。本通知人は、貴殿に対し、契約に基づく営業成績の報告及び関連する計算資料の提示を求める」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。貴殿が合理的な説明及び資料提示に応じない場合、本通知人は、旧商法第五百四十二条により準用される同法第百五十三条第二項に基づき、重要な事由による業務及び財産の状況の検査について、裁判所の許可を求めることを検討する」


 読み終えました。


 静かな事務所。


 時計の秒針の音だけが響きます。


「……どうでしょう」


 私が尋ねると、片桐所長が頷きました。


「よし」


 やった。


 今度は赤線がありません。


「ただし」


「はい!」


「最後に一文加えろ」


「何でしょう」


 所長が言いました。


「本通知は、契約に基づく利益分配及び営業成績確認のためのものであり、出資金の当然の全額返還や、存在しない利益の分配を請求する趣旨ではない」


 私は目を見開きました。


「……そこまで書くんですか?」


「書く」


「相手に有利なことまで?」


「違う」


 所長が私を見ました。


「請求している権利を、正確に示すんだ」


「……はい」


「間違った権利を主張すれば、正しい権利まで疑われる」


 私は、しばらく黙りました。


 なるほど。


 内容証明郵便。


 強い言葉を書くことが仕事ではありません。


 どこまでが自分の権利なのか。


 どこからが相手の権利なのか。


 その境界を、正確に示す。


 だから。


 相手は逃げにくくなる。


「所長」


「何だ」


「怖いですね」


「何がだ」


「正しいことしか書いてないのに、こんなに怖い書面になるんですね」


 相馬先輩が笑いました。


「当たり前だ」


「え?」


「間違ってないから怖えんだよ」


 私は、書面を見つめました。


 三百万円。


 匿名組合契約。


 利益分配。


 営業成績。


 検査権。


 裁判所の許可。


 どれも、契約書と法律に根拠があります。


 しかも。


 相手が説明を拒めば拒むほど。


 なぜ拒む必要があるのか。


 その疑問が、大きくなっていくのです。


 内容証明郵便を発送して、三日後。


 片桐行政書士事務所に、一人の男が飛び込んできました。


「片桐ってのは誰だ!」


 黒川重蔵です。


 顔が真っ赤。


 額には汗。


 手には、例の通知書。


「お前ら、何を送りつけてきやがった!」


 私は立ち上がりました。


「黒川さん!」


「裁判所だと!」


 黒川が通知書を振り回します。


「俺の店に裁判所を入れるってのか!」


 相馬先輩が椅子から立ち上がりました。


「座ってください」


「ふざけるな!」


「書面を読んでください」


「読んだから来たんだ!」


「なら、お分かりですね」


 先輩は落ち着いた声で言いました。


「重要な事由があれば、裁判所の許可を得て検査する手続があります」


「だ、だからって!」


「まだ許可が出たわけではありません」


「……!」


「ご本人が必要な手続を検討している。それだけです」


 黒川は口を閉じました。


 相馬先輩が続けます。


「営業年度の報告も、契約で約束されています」


「それは……」


「利益がなかったなら、計算を示せばいい」


「……」


「本当に損失が出たなら、それも資料で確認できる」


 黒川の額から、汗が流れました。


「何も隠していないなら、説明できるはずですね」


 その一言で。


 黒川の表情が変わりました。


「……実は」


 小さな声。


「実は?」


「新しい店の方に、金を回した」


 私は息を呑みました。


「……やっぱり」


 黒川は椅子に腰を下ろしました。


「息子が、店をやりたいって言い出してな」


「はい」


「駅の反対側に、いい物件があったんだ」


「はい」


「だが、息子には資金がない」


「それで?」


「……あかつきの口座から、一部を貸した」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「いくらです」


「百八十万円」


 ……百八十万円。


 私は目を見開きました。


 澄江さんの出資金は三百万円。


 その半分を超える金額です。


「貸付契約書は?」


 先輩が尋ねました。


「……作ってない」


「返済期限は?」


「決めてない」


「利息は?」


「……ない」


 私は思わず声を上げました。


「それ、貸付金としてきちんと管理していたんですか?」


 黒川は答えません。


 相馬先輩が静かに言いました。


「その百八十万円を、店舗設備の費用として扱ったんですか」


「……ああ」


「本店の費用として?」


 黒川は俯きました。


 私は息を吸いました。


 ここが。


 事件の急所です。


 別の店にお金を動かすこと自体と。


 そのお金を、どういう会計処理にしたのか。


 それは違います。


 もし、回収すべき貸付金なら。


 支出した全額が、そのまま当年度の利益を減らす費用になるとは限りません。


 まして。


 息子の店の設備を買ったからといって。


 その金額を、何の検討もなく「あかつき」の費用にしてよいわけではない。


「黒川さん」


 私は言いました。


「それ、本当に今年の利益がなかったんですか?」


 黒川は唇を噛みました。


「……分からねえ」


「え?」


「帳簿を、ちゃんとつけ直したら……」


 その声が震えます。


「利益が出るかもしれねえ」


 私は黒川を見つめました。


 つまり。


 利益がないと断言していた。


 なのに。


 正しい計算をしていなかった。


 それでは、澄江さんに分配する利益があるかどうか、判断できません。


 黒川がぽつりと言いました。


「……弁護士に相談したんだ」


「そうですか」


 片桐所長が答えました。


「匿名組合の検査権があるって、本当なのかって」


「はい」


「そしたら……本当だって」


 黒川は両手で顔を覆いました。


「裁判所の許可が出るかは事情次第だが、隠し事があるなら、今のうちに帳簿を整理しろって言われた」


 私は黙りました。


「もし俺が、自分の息子のために利益を隠してたってことになったら……」


 黒川の声が、さらに小さくなりました。


「損害賠償だって問題になるって」


 片桐所長は静かに頷きました。


「具体的な責任は、事実と契約によります」


「……はい」


「まず、正確な計算をすることです」


 黒川は、しばらく動きませんでした。


 やがて。


「……分かりました」


 小さく言いました。


「帳簿を、作り直します」


 私は顔を上げました。


「本当ですか?」


「ああ」


「澄江さんへの報告も?」


「する」


「利益があった場合の分配も?」


「……契約どおりにする」


 相馬先輩が頷きました。


「では、その意思を書面にしてください」


「書面?」


「いつまでに計算資料を整え、森下さんへ報告するか。その予定を明確にしてください」


 黒川は力なく頷きました。


 その後、黒川は本人名義の回答書を作成し、帳簿の再整理と契約に基づく報告を約束しました。


 もっとも。


 それだけで事件が終わったわけではありません。


 まだ。


 本当の利益がいくらだったのか。


 誰も確認できていないのですから。


 二週間後。


 森下澄江さんが、再び事務所を訪れました。


 今度は。


 少し明るい顔です。


「先生方……」


「はい」


「黒川さんから、報告書が届きました」


 私は身を乗り出しました。


「本当ですか!」


「はい」


 澄江さんが差し出した封筒には、営業成績の報告書と、訂正後の計算資料が入っていました。


 黒川が税理士に依頼して、帳簿を整理し直したものだそうです。


 問題の百八十万円。


 その一部が、息子の店舗へ渡された貸付金として整理されました。


 そして。


 従来の計算で不適切に費用計上されていた金額などが修正された結果。


 珈琲館あかつきには、利益が残ることが分かったのです。


「……先輩」


「何だ」


「利益、出てます」


「ああ」


 私は書類を見つめました。


 報告された当年度利益。


 百万円。


 契約上の分配割合。


 三割。


 つまり。


 三十万円。


 もちろん、過去の損失による出資の減少があれば、その補填との関係も確認する必要があります。


 しかし今回。


 訂正後の計算資料では、そうした未補填損失はないことが確認されていました。


 そして。


 澄江さんは、小さな封筒を取り出しました。


「これも、届いたんです」


 中には。


 三十万円の振込通知。


 黒川からの手紙。


 ――本年度利益分配金として、金三十万円を支払いました。


 ――今後は契約に従い、営業成績を報告します。


 私は息を呑みました。


「……払ったんですね」


「はい」


 澄江さんの目から、涙がこぼれました。


「私、もう、お金は戻らないと思っていました」


 私は首を振りました。


「まだ出資契約そのものは続いています。元本が全部返ってきたわけではありません」


「ええ。分かっています」


 澄江さんは笑いました。


「でもね」


「はい」


「三十万円も、もちろん嬉しいんですけど」


 そこで、言葉が止まりました。


「私が一番嬉しかったのは……」


 澄江さんはハンカチで目元を押さえました。


「ちゃんと、約束した相手として扱ってもらえたことなんです」


 私は黙りました。


「金だけ出した奴だって言われて……」


「はい」


「私、本当に何の権利もないのかと思ってしまって」


 澄江さんは、契約書を見つめました。


「でも、ちゃんと法律があったんですね」


 胸の奥が、じんと温かくなりました。


 匿名組合。


 名前は匿名。


 経営には参加しない。


 営業者の店の看板にも名前は出ない。


 でも。


 契約した事実まで、匿名になるわけではない。


 出資したお金が、営業者の財産になるとしても。


 利益分配の約束まで、消えるわけではない。


 そして。


 その計算に疑問があれば。


 法律の定める方法で、確かめる権利がある。


 澄江さんは、小さく笑いました。


「主人がね、よく言っていたんです」


「何と?」


「商売ってのは、お金だけじゃできないって」


「はい」


「でも、お金を出してくれた人を忘れたら、商売は終わりだって」


 私は思わず頷きました。


 その言葉。


 法律の条文よりも、ずっと温かく感じました。


 数日後。


 私は一人で、珈琲館あかつきに立ち寄りました。


 もちろん、客としてです。


 扉を開けると、カラン、と鈴が鳴りました。


「いらっしゃいませ!」


 以前と同じ、明るい声。


 カウンターには、いつもの店員さん。


 そして。


 奥から黒川が出てきました。


「……あんたか」


 少し気まずそうな顔。


「こんにちは」


 私が頭を下げると、黒川は小さく頷きました。


「コーヒーか?」


「はい」


「……座れよ」


 私は窓際の席に腰を下ろしました。


 しばらくすると。


 湯気の立つコーヒーが運ばれてきました。


「……あの婆さん」


 黒川が、ぽつりと言いました。


「森下さんですか?」


「ああ」


「はい」


「昨日、店に来たよ」


 私は驚きました。


「え?」


「三年ぶりだった」


「そうなんですか」


「ああ」


 黒川はカウンターを拭きながら言いました。


「コーヒー飲んで、ナポリタン食べて」


「はい」


「帰りに、うまかったって」


 私は思わず笑いました。


「よかったですね」


「……ああ」


 黒川は少し黙りました。


 それから。


「俺は、間違えてたんだな」


 小さく言いました。


「何をですか?」


「店は俺のものだ。だから、全部俺の好きにしていいって思ってた」


 私はコーヒーカップを置きました。


「営業者の財産になることと、契約を守らなくていいことは違いますから」


「そうだな」


 黒川は頷きました。


「金を出してくれた相手を、ただの金づる扱いしちゃいけなかった」


 私は笑いました。


「それが分かったなら、よかったです」


 黒川は少し照れくさそうに背を向けました。


 そのとき。


 カウンターの奥で、若い店員が言いました。


「店長!」


「何だ!」


「森下さんから電話です!」


 黒川が振り返りました。


「何だって?」


「来週、お友達を三人連れてくるそうです!」


 私は思わず吹き出しました。


 黒川は、一瞬呆然としました。


 それから。


「……そうか」


 小さく笑いました。


「じゃあ、いい豆を仕入れとかねえとな」


 私は、湯気の向こうで笑う黒川を見ました。


 商売。


 お金を出す人。


 店を動かす人。


 商品を作る人。


 客を迎える人。


 立場は違います。


 でも。


 約束を守ることだけは。


 どの立場でも、大切なのです。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、今日の事件を振り返っていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「匿名組合って、不思議ですね」


「何がだ」


「名前を出さないのに、ちゃんと法律上の権利があるんですよ」


「当たり前だろ」


「でも、経営には参加できない」


「ああ」


「出資したお金も、自分の所有物じゃなくなる」


「そうだ」


「なのに、利益の分配は受けられる」


「契約だからな」


 私は頷きました。


 そして。


「検査する権利もある」


「そのとおりだ」


「ただし、重要な事由による随時検査は、裁判所の許可が必要」


「よし」


 私は満足げに笑いました。


「覚えました!」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「じゃあ、一問だ」


「はい!」


「昭和六十三年の商法で、匿名組合員の検査権に関係する条文は?」


「第五百四十二条で準用される第百五十三条です!」


「よし」


「現代の第五百三十九条とは、条文の置き方が違います!」


「そこまで分かってりゃいい」


 私は得意になりました。


 しかし。


「第二問」


「え?」


「森下さんが出資した三百万円は、誰の財産になる?」


「黒川さん、つまり営業者です!」


「第三問」


「はい!」


「営業者が赤字なら、必ず利益分配しなきゃいけねえか?」


「いいえ! 利益がなければ、利益分配は発生しません!」


「第四問」


「はい!」


「匿名組合員は、経営者の代わりに店の仕入先を決められるか?」


「原則として、匿名組合員に業務執行権はありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「まあ、合格だ」


「やった!」


 私は拳を握りました。


 すると。


 奥から片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい!」


「最後に一問」


「何でしょう!」


「なぜ、匿名組合員に検査する権利が必要なんだ」


 私は口を閉じました。


 ……なぜ。


 出資した財産は、営業者のものになる。


 経営するのも営業者。


 利益を計算するのも営業者。


 でも。


 匿名組合員は、その営業から生じた利益の分配を受ける立場です。


 もし営業者が、


「利益はない」


 と言い張るだけで済むのなら。


 匿名組合員は、何も確かめられません。


 出資したお金がどうなったのか。


 本当に赤字だったのか。


 利益を隠されていないか。


 全部、営業者の言い分だけで決まってしまう。


 私は、ゆっくり答えました。


「……経営を任せているからこそ、確かめる権利が必要なんです」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「自分で経営できない人を、何も知らないまま放置しないために」


「うん」


「商法は、匿名組合員にも、ちゃんと見る権利を用意しているんですね」


 所長は、帳簿を閉じました。


「それでいい」


 私はノートを開きました。


 そして。


 今日の教訓を、一行だけ書きました。


 ――匿名組合は、経営を任せても、利益を確かめる権利まで手放す契約ではない。


「……できた!」


 私は顔を上げました。


「相馬先輩!」


「何だ」


「匿名組合、好きになりました!」


「またかよ」


「だって面白いじゃないですか!」


「法律を好きになるのは勝手だがな」


「はい!」


「自分の財布から三百万円出すときは、ちゃんと考えろよ」


「……!」


 私は固まりました。


 確かに。


 匿名組合に出資すれば、必ず儲かるわけではありません。


 損失もあります。


 契約が終わったとしても、出資金が必ず全額戻ってくるとは限りません。


 それでも。


 仕組みを正しく理解すれば。


 どんな権利があり。


 どんな危険があり。


 何を確認すべきなのか。


 判断することができる。


「先輩」


「何だ」


「私、三百万円なんて持ってません」


「知ってるよ」


「だから匿名組合員にはなれません!」


「別に三百万円なくても出資契約はできるだろ」


「……あ」


「何を学んだんだ、お前は」


 私は笑いました。


 法律を学んでいると。


 つい、数字や条文ばかり覚えようとしてしまいます。


 でも。


 本当に大切なのは、その裏側です。


 なぜ出資は営業者の財産になるのか。


 なぜ利益を分配するのか。


 なぜ匿名組合員は業務を執行しないのか。


 なぜ検査権が必要なのか。


 その理由を、事件の中で考える。


 そうすると。


 ただの暗記だった商法が、急に生きた法律に変わるのです。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 男性の声でした。


『友人と一緒に商売を始めようと思ってるんですが……』


「はい!」


『私にはお金がないので、技術だけ出すことにしたんです』


 私は鉛筆を取りました。


「技術ですか?」


『ええ。料理の腕には自信があるんです』


「はい」


『友人が、匿名組合にすればいいって言うんですが……』


 ……。


 私は固まりました。


 技術。


 労働。


 匿名組合。


「先輩」


「何だ」


「次の相談です」


「聞こえてる」


「お金じゃなくて、労働を出資するそうです」


 相馬先輩が、ゆっくり顔を上げました。


「……ほう」


「匿名組合で、労務出資ってできましたっけ?」


 先輩は、にやりと笑いました。


「こはる」


「はい!」


「民法の組合と、匿名組合をごっちゃにするなよ」


 私は六法を握り締めました。


 そうでした。


 民法の組合。


 商法の匿名組合。


 名前は似ています。


 でも。


 出資の仕組みも。


 財産の帰属も。


 経営に関わる立場も。


 同じではありません。


 しかも昭和六十三年の商法は、現代の条文と同じ場所に、同じ文章があるとは限らない。


「……先輩」


「何だ」


「商法って、罠が多くありません?」


「罠じゃねえ」


「え?」


「お前が勝手に引っかかってるだけだ」


「ひどい!」


 私は受話器を握り直しました。


「すみません。まず、どなたがどんな出資をして、誰が営業する予定なのか、詳しく教えてください」


 昭和六十三年。


 商法の世界は、今日も複雑です。


 でも。


 ひとつだけ、確信しました。


 名前が出ないからといって。


 権利が消えるわけではありません。


 経営を任せたからといって。


 不正まで任せたことにはなりません。


 そして。


 出資した人を「金だけ出した奴」と笑う経営者ほど。


 商法を開いた瞬間。


 顔色が変わることがあるのです。


 だって。


 匿名組合の「匿名」は。


 利益を隠していいという意味では、決してないのですから。

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