[商法・匿名組合]法理編 こはるノート
名前を隠しても、権利まで隠れるわけではありません。
お金を出す人。
商売をする人。
利益を受け取る人。
この三つが、必ず同じ人である必要はありません。
けれど。
商売を任せたからといって、何も知らなくていいわけでもない。
出資したお金が、自分の財産ではなくなるからといって。
約束した利益まで、諦めなければならないわけでもない。
その仕組みを定めているのが。
――匿名組合。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……匿名って、ずるい言葉ですよね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「名前が出ないから、何の権利もないように聞こえるじゃないですか」
「誰がそんなこと言った」
「黒川さんです!」
「ああ、あの喫茶店の親父か」
相馬先輩が笑いました。
珈琲館あかつき。
駅前の繁盛店。
その経営者、黒川重蔵。
森下澄江さんから三百万円の出資を受けながら、
「金だけ出した奴は黙ってろ!」
と言い放った男性です。
しかも。
営業利益はない。
出資金も使い切った。
帳簿も見せない。
そう主張していました。
ところが。
匿名組合員の検査権を踏まえた内容証明を送ると、態度が一変。
黒川は帳簿を整理し直しました。
すると。
息子の新店舗に回した百八十万円の不適切な会計処理が見つかり、修正後の計算では百万円の利益が確認されたのです。
そして。
利益の三割。
三十万円。
契約どおり、澄江さんへ分配されました。
「でも先輩」
「何だ」
「一番驚いたのは、三百万円が黒川さんの財産になることでした」
「そうだな」
「お金を出したのは森下さんなのに、所有権は営業者に移るんですよね」
「ああ」
「なのに、利益を受け取る権利は残る」
「そうだ」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、そこを完全に整理します!」
「また始まったか」
「行政書士試験に出ますから!」
「毎日それだな」
そこへ。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
「まず、匿名組合の定義からです!」
私はノートに大きく書きました。
――匿名組合。
当事者の一方が、相手方の営業のために出資をし、その営業から生じる利益の分配を受けることを約束する契約。
「根拠は?」
相馬先輩が尋ねました。
「商法第五百三十五条です!」
「よし」
「ここは、昭和でも現代でも基本的な仕組みは同じなんですよね」
「ああ」
私は頷きました。
匿名組合契約には、二人の当事者がいます。
一方は、匿名組合員。
出資をする人です。
もう一方は、営業者。
実際に商売を行う人です。
「森下さんの事件なら?」
相馬先輩が聞きました。
「森下さんが匿名組合員です」
「うん」
「黒川さんが営業者です」
「そうだ」
「森下さんは三百万円を出資し、黒川さんが喫茶店を経営する」
「うん」
「その営業で利益が出たら、三割を森下さんに分配する」
「それが契約だ」
私は大きく丸をつけました。
ここで重要なのは。
匿名組合員が、営業そのものを共同経営するわけではないことです。
店の経営者は黒川さん。
客との売買契約を結ぶのも黒川さん。
従業員を雇うのも黒川さん。
仕入先と取引するのも黒川さん。
森下さんは、外部の取引相手に対して、原則として直接の権利義務を持ちません。
「つまり、営業者と匿名組合員の間の契約なんですね」
「そうだ」
「匿名組合って名前ですけど、法人を一つ作るわけではない」
「ああ」
「株式会社でもない」
「そうだ」
「有限会社でもない」
「そうだな」
「合同会社でも――」
「何だ、その会社は」
相馬先輩が顔をしかめました。
……しまった。
またです。
合同会社。
現代にはあります。
でも、昭和六十三年には存在しない会社形態です。
「あ、いえ、その……未来にできるかもしれない会社でして」
「未来?」
「想像です!」
「想像で六法を増やすな!」
私は慌ててノートを閉じかけました。
危ない。
現代の会社法知識。
また暴走しました。
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「匿名組合は、会社を設立する制度ではない」
「はい!」
「そこをまず押さえろ」
私は書き直しました。
匿名組合は、会社の種類ではない。
営業者と匿名組合員との契約関係。
なるほど。
名前に「組合」とついているからといって、必ず共同経営の団体になるわけではないのです。
「次は、出資です」
私はページをめくりました。
――匿名組合員の出資。
「先輩。匿名組合員は、何を出資できるんですか?」
「お前が答えろ」
「金銭やその他の財産です!」
「そうだ」
「では、料理の腕前は?」
「それだけじゃ駄目だ」
「信用は?」
「信用だけを出資する形も駄目だな」
私は頷きました。
匿名組合で出資するものは、金銭その他の財産です。
単に、
「私には料理の技術があります」
と言うだけでは、匿名組合の財産出資にはなりません。
「じゃあ、昨日の電話の男性ですね」
「ああ」
昨日。
料理人の男性から相談がありました。
友人がお金を出す。
自分は料理を担当する。
それを匿名組合にしたいという話です。
「でも先輩」
「何だ」
「二人で共同経営するなら、民法の組合という選択肢もありますよね」
「そうだ」
「民法の組合なら、労務を出資することができます」
「ああ」
私はノートを二つに分けました。
一方。
民法の組合。
もう一方。
商法の匿名組合。
「ここ、名前が似ているので間違えやすいんです」
「だろうな」
「でも、仕組みはかなり違う」
民法の組合では。
二人以上の当事者が出資し、共同事業を営むことを約束します。
出資は金銭や財産だけでなく、労務でも構いません。
たとえば。
Aさんが百万円を出す。
Bさんが料理の技術と労働を提供する。
二人で共同事業を営む。
こうした形を考えることができます。
一方、匿名組合では。
Aさんが、Bさんの営業に金銭などの財産を出資する。
営業するのはBさん。
Aさんは、その営業から生じる利益の分配を受ける。
「つまり」
私は言いました。
「民法の組合は、共同事業を行うための契約」
「うん」
「匿名組合は、営業者の事業に出資して、利益の分配を受ける契約」
「そうだ」
ここが決定的な違いです。
「でも先輩」
「何だ」
「料理人が自分で営業する側なら、別ですよね」
「ほう?」
相馬先輩がこちらを見ました。
「どういう意味だ」
「料理人が営業者になって、友人が財産を出資するなら、匿名組合契約を検討できます」
「そうだな」
「料理人が料理をすること自体は、営業者としての仕事ですから」
「正解」
私は思わず拳を握りました。
やった。
褒められました。
大事なのは、誰がどの立場なのか。
料理をする人が、必ず匿名組合員になるわけではありません。
その人が営業者として料理店を経営し、別の人が出資するなら、話は変わります。
「つまり、肩書きじゃなくて契約の中身を見るんですね」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私はノートに書きました。
――匿名組合は財産を出資する。民法の組合は労務出資もできる。ただし、営業者自身が働くことは別問題。
「さて、次です」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「森下さんが出した三百万円は、誰の財産になる?」
「黒川さんです!」
私は即答しました。
商法第五百三十六条第一項。
匿名組合員の出資は、営業者の財産に属する。
「これ、最初は本当に驚きました」
「そうか?」
「だって、森下さんがお金を出したのに、黒川さんのものになるんですよ!」
「そういう契約だからな」
「でも、すごく不安じゃありません?」
私はノートに書きました。
森下澄江。
三百万円を出資。
黒川重蔵。
出資を受けて喫茶店を経営。
出資された三百万円は、営業者の財産になる。
「だから森下さんは、店のレジを勝手に開けて三百万円を持ち帰ることはできないんですね」
「そうだ」
「このコーヒーメーカーは私の出資金で買ったから私のもの、という主張も原則としてできない」
「ああ」
私は少し考えました。
「でも、これって営業者に有利すぎません?」
相馬先輩が笑いました。
「そう思うか」
「はい!」
「じゃあ、逆に考えろ」
「逆?」
「店にコーヒー豆を売った業者は、誰に代金を請求する?」
「黒川さんです」
「そうだ」
「森下さんではありません」
「うん」
「……あ!」
私は顔を上げました。
出資金が営業者の財産になる。
営業者が自己の名で営業する。
外部の取引相手との権利義務も、原則として営業者に帰属する。
この仕組みは、つながっています。
「営業者が表に立って商売するから、財産も営業者に帰属するんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
ただし。
匿名組合員が営業者の債務について、常に絶対に責任を負わないわけではありません。
たとえば、匿名組合員が自己の氏名を営業者の商号中に使用することなどを許諾した場合には、特別な責任が問題になります。
「名前を貸すと、責任が生じる場合があるんですね」
「そうだ」
「だから匿名という名前だけで、全部安心とは言えない」
「ああ」
ここも大事です。
外部の人に対する責任。
営業者との内部関係。
その二つを区別しないと、混乱してしまいます。
「では、ここで問題です」
私は鉛筆を掲げました。
「森下さんが三百万円を出資しました」
「うん」
「黒川さんは、その三百万円を受け取って、自分の財産にしました」
「ああ」
「じゃあ黒川さんは、何に使っても自由ですか?」
「お前はどう思う?」
「……自由ではありません!」
私は答えました。
「契約の目的があるからです」
今回の契約では。
珈琲館あかつきの営業のために出資する。
その営業から生じる利益の三割を分配する。
そう約束されていました。
「つまり、所有権が営業者に移ることと、契約上の義務がなくなることは違うんです」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「黒川は、そこを勘違いしてたな」
「はい」
黒川さんは、
「店の金は俺のものだ」
と言いました。
でも。
自分の財産だからといって、契約の相手方を無視してよいわけではありません。
財産の帰属と契約上の責任は、別の問題なのです。
「それに、黒川さんの百八十万円の処理も問題でした」
「ああ」
息子の新店舗に回した百八十万円。
その全額を、あかつきの費用として処理していた。
でも。
実際には、別店舗への貸付金と整理すべき部分がありました。
「支出したから、全部費用になるわけじゃありませんよね」
「そうだ」
「貸したお金なら、原則として返してもらう権利が残ります」
「ああ」
「だから、現金が減ったことと、利益が減ったことを同じにしてはいけない」
「そこだ」
私は大きく頷きました。
黒川さんの問題は。
単に息子にお金を貸したことだけではありません。
その取引を正確に記録せず、利益の計算を誤り、出資者に分配すべき利益がないと説明していたことです。
「帳簿って、ただの数字じゃないんですね」
私が言うと、所長が静かに言いました。
「約束を守ったかどうかを示す証拠だ」
私は、その言葉に赤線を引きました。
「次は、利益分配です!」
私はページをめくりました。
――利益分配義務。
「ここが匿名組合の中心ですね」
「ああ」
「営業者は、営業から生じる利益を、契約に従って匿名組合員に分配します」
「そうだ」
森下さんの契約は。
利益の三割。
だから。
利益が百万円なら。
三十万円が分配額です。
「でも、利益がゼロなら?」
相馬先輩が聞きました。
「分配額もゼロです」
「赤字なら?」
「利益分配はありません」
「よし」
私は頷きました。
匿名組合は、出資した金額に対して、毎年必ず一定額が支払われる預金のような仕組みではありません。
営業から利益が生じること。
それが利益分配の前提です。
「ここ、試験で引っかかりそうです」
「どういうところだ」
「匿名組合員には必ず利益を分配する、という説明です」
私はノートに書きました。
利益分配の約束が必要。
しかし、利益がない場合にまで、必ず一定額を支払うわけではない。
「つまり、営業者には利益分配義務がありますが、赤字でも必ず現金を渡すという意味ではないんですね」
「そうだ」
さらに。
私は六法を開きました。
商法第五百三十八条。
ここには、もう一つ重要な決まりがあります。
「出資が損失によって減少した場合です」
「うん」
「その損失を補填した後でなければ、匿名組合員は利益の配当を請求できません」
私はノートに数字を書きました。
たとえば。
三百万円を出資した。
ところが、営業で百万円の損失が生じた。
その結果、出資が減少した。
翌年度に利益が六十万円出た。
「この場合、すぐ六十万円の三割を受け取れるとは限らないんです」
「なぜだ」
「先に、出資の損失を埋めなければならないからです」
「そうだ」
つまり。
利益が出た。
だから直ちに分配。
とは限りません。
過去に損失があれば、その扱いも重要になります。
「森下さんの事件では?」
相馬先輩が聞きました。
「訂正後の資料で、未補填損失がないことが確認されました」
「そうだな」
「だから、当年度の利益百万円に対して、契約どおり三割を計算できたんです」
私は大きく頷きました。
利益の分配。
出資の減少。
損失の補填。
これらを別々に覚えてはいけない。
全部つながっているのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「黒川さんは、匿名組合員には経営に口を出す権利がないって言ってましたよね」
「ああ」
「あれ自体は、原則として正しいんですよね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――匿名組合員には、営業者の業務執行権がない。
「たとえば、森下さんが突然、黒川さんの店に行って」
「うん」
「明日からコーヒーの値段は百円です!」
「うん」
「今日から従業員を全員解雇します!」
「……迷惑な客だな」
「客じゃなくて匿名組合員です!」
「なおさら困るだろ」
私は笑いました。
匿名組合員は、出資をしたからといって、当然に営業者の経営判断を代行できるわけではありません。
業務を執行するのは営業者。
匿名組合員には、業務執行権も代表権もありません。
「でも、そこで黒川さんは言いました」
私は少し声を低くしました。
「金だけ出した奴は黙ってろ!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「似てねえ」
「物真似の評価は求めてません!」
私は続けました。
「経営に参加できないことと、経営の状況を調べられないことは別なんです!」
「そうだ」
「ここが今回の最大の論点ですね」
私はノートに大きく書きました。
――業務執行権と検査権は違う。
業務執行権。
自分で営業の意思決定をして、業務を進める権限。
検査権。
営業者がどのように営業し、財産を管理しているかを確認するための権利。
「匿名組合員は、営業を任せています」
「そうだ」
「でも、任せた相手を無条件に信用し続けなければならないわけではない」
「ああ」
私は頷きました。
自分で経営しない。
だからこそ。
相手の説明を確認する必要がある。
これが、検査権の意味なのです。
「さあ、いよいよ本題だ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「検査権の条文を説明してみろ」
私は得意げに六法を開きました。
「商法第五百三十九条第二項です!」
……。
沈黙。
相馬先輩が、ゆっくり顔を上げました。
「こはる」
「はい?」
「何年だ、今は」
「昭和六十三年です」
「で?」
「……あっ!」
私は固まりました。
やってしまいました。
またです。
現代の条文番号が、無意識に出てしまったのです。
「す、すみません!」
私は慌ててページをめくりました。
「今の五百三十九条第二項は、現代の商法です!」
「そうだ」
「昭和六十三年には、別の条文構造になっています!」
「説明してみろ」
私は深呼吸しました。
まず。
昭和六十三年の商法第五百四十二条。
この条文は、匿名組合員について、会社に関する別の規定を準用していました。
その中に。
第百五十三条。
有限責任社員の検査権に関する規定がありました。
「つまり」
私は言いました。
「昭和では、匿名組合員の検査権について、別の条文を準用する形だったんです」
「そうだ」
「現代では、匿名組合の条文に直接規定されています」
現代の商法第五百三十九条。
匿名組合員の検査権。
ここに整理されています。
「内容の基本的な考え方は引き継がれているんですね」
「ああ」
私は頷きました。
法律が改正されると、条文番号が変わることがあります。
別の制度を準用していた規定が、直接書かれることもあります。
だから。
現代の条文番号を、そのまま昭和に持ち込んではいけません。
「先輩、これ怖いですよ」
「何がだ」
「内容が合っていても、条文番号を間違えると、書面の信用を失います」
「そのとおりだ」
相馬先輩が頷きました。
「法律の書面は、正しい時代の法律で書け」
「はい!」
私はノートに赤字で書きました。
昭和六十三年。
旧商法五百四十二条による百五十三条の準用。
現代。
商法五百三十九条。
そして。
私はもう一つ、重要なことを確認しました。
現代の商法五百三十六条第二項は、匿名組合員の出資を金銭その他の財産に限っています。
一方。
昭和六十三年の五百三十六条第二項には、第三者に対する権利義務についての規定が置かれていました。
「つまり、先輩」
「何だ」
「同じ条文番号でも、書いてある内容が変わっているんですね」
「そういうことだ」
「現代の五百三十六条第二項を、昭和の労務出資禁止の根拠として、そのまま引用しちゃ駄目なんですね」
「ああ。条文の文言と構造を確かめろ」
私は頷きました。
法律の考え方を理解すること。
その時代に使える条文を確認すること。
どちらも必要なのです。
「では、検査権の中身です!」
私はノートを開き直しました。
――匿名組合員の検査権。
まず。
通常の営業年度終了時の検査です。
「森下さんの契約では、営業年度は三月三十一日まででしたね」
「ああ」
「営業年度が終了したら、営業時間内に、貸借対照表の閲覧や謄写を求め、業務及び財産の状況を検査することができます」
「そうだ」
「この通常の検査と、次の特別な検査を区別することが重要ですね」
相馬先輩が頷きました。
そして。
問題は、もう一つの検査です。
――重要な事由があるとき。
私は、そこに二重線を引きました。
「重要な事由って、何ですか?」
相馬先輩が尋ねました。
「営業者の業務や財産の状況を検査する必要性が特に認められる事情です」
「たとえば?」
「利益の計算に重大な疑いがある場合です」
「うん」
「営業者が不自然な資金移動をしている場合」
「うん」
「財産の状況について、重大な説明の食い違いがある場合」
「そうだな」
私は頷きました。
もちろん。
単に、
「何となく怪しい」
と思っただけで、必ず検査が認められるわけではありません。
重要な事由があるかどうかは、具体的な事情によります。
「森下さんの事件では、何がありました?」
相馬先輩が聞きました。
「まず、店は営業を続けていました」
「うん」
「それなのに、利益がないと一方的に通知されました」
「うん」
「しかも、約束した営業報告がありませんでした」
「そうだ」
「さらに、新店舗への百八十万円の資金移動が疑われていました」
私は鉛筆を置きました。
「これらの事情を積み重ねて、検査の必要性を主張したんですね」
「そうだ」
そして。
ここが最大の注意点です。
「重要な事由による随時検査には、裁判所の許可が必要です!」
私は声を上げました。
「そうだ」
「だから、勝手に店に入り込んで、帳簿を奪ってはいけません」
「ああ」
「行政書士が、いきなり金庫を開けることもできません!」
「当たり前だ!」
私は笑いました。
でも。
この違いは大切です。
法律上の検査権があること。
その検査権を適法に行使できること。
この二つは、同じではありません。
「つまり」
私は書きました。
重要な事由。
裁判所の許可。
業務及び財産の状況の検査。
「三つをセットで覚えます!」
「よし」
私は満足げに頷きました。
そして。
もう一つ気づきました。
「先輩」
「何だ」
「今回、裁判所の検査許可は実際には取っていないんですよね」
「そうだ」
「でも、黒川さんは帳簿を整理し直しました」
「ああ」
「ということは、検査権の存在を知っただけで、態度が変わったんですね」
相馬先輩が笑いました。
「そういうことだ」
法律は、裁判所で判決が出たときだけ働くわけではありません。
相手が自分の行為を見直す。
間違った計算を訂正する。
約束した報告をする。
そのきっかけになることもあるのです。
「でも所長」
私は奥を振り返りました。
「何だ」
「行政書士は、裁判所に検査許可を求める代理人にはなれませんよね」
「そうだ」
「じゃあ、今回の事務所の役割は?」
所長が静かに言いました。
「事実を整理することだ」
「はい」
「契約書を確認する」
「はい」
「出資金の受領書を確認する」
「はい」
「利益分配の記録を揃える」
「はい」
「本人の意思に基づく通知書を作成する」
私は頷きました。
行政書士は、弁護士ではありません。
依頼人の法律紛争を代理して交渉することはできません。
裁判所での手続を、当然に代理できるわけでもありません。
でも。
法令上扱える範囲で、契約書や事実関係を整理し、本人名義の適切な書類を作成することはできます。
紛争性のある案件で、弁護士の業務に属する部分は、弁護士へ引き継ぐ。
「つまり、私たちは法律の力を使うための準備をするんですね」
「そうだ」
「書類で、事実を明確にする」
「うん」
「相手が何を説明しなければならないかを、はっきりさせる」
「そういうことだ」
片桐所長が頷きました。
「書面は、相手を脅す道具じゃない」
「はい」
「事実と権利を正確に示すものだ」
私は、その言葉をノートに書きました。
「ところで先輩」
「何だ」
「匿名組合の出資金って、契約が終わったらどうなるんですか?」
「いい質問だ」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「そこも押さえとけ」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の商法第五百四十一条。
匿名組合契約が終了したとき。
営業者は、匿名組合員に出資の価額を返還する必要があります。
ただし。
出資が損失によって減少した場合は、その残額を返還すれば足ります。
「つまり、三百万円出資したからといって、必ず三百万円返ってくるわけではないんですね」
「そうだ」
「営業で損失が出れば、出資の価額が減ることがある」
「ああ」
私はノートに書きました。
出資三百万円。
損失による減少百万円。
残額二百万円。
このような場合。
契約終了時の返還は、原則として残額が問題になります。
「だから元本保証ではないんですね」
「そうだ」
「預金とは違う」
「ああ」
私は頷きました。
利益を受け取れる可能性がある。
でも、損失の危険もある。
それが、匿名組合です。
「ちなみに、現代では条文番号が変わっているんですよね」
「また未来か」
「大事なんです!」
私は書きました。
昭和六十三年。
出資価額の返還は、旧商法第五百四十一条。
現代。
商法第五百四十二条。
「うわあ……」
私は頭を抱えました。
「また一つずれてます!」
相馬先輩が笑いました。
「だから今の六法を読めって言ってんだろ」
「はい……」
でも。
こうして比べると、改正の意味が見えてきます。
現代では、以前の条文を準用していた部分が整理され、匿名組合のルールがより直接的に書かれるようになっています。
さらに。
会社に関する基本的な規律も、大きく変わりました。
「所長」
「何だ」
「今の商法には会社の規定がありますよね」
「ある」
「株式会社も、有限会社も」
「そうだ」
昭和六十三年。
会社についてのルールは、商法第二編や有限会社法などに分かれていました。
現代のような独立した会社法は、まだありません。
私は思わず呟きました。
「未来では、会社法が独立するんですよね……」
「何?」
相馬先輩が顔を上げました。
「あっ!」
しまった。
また未来の話です。
「い、いえ! 商法が将来もっと整理されたら便利だろうなって!」
「お前、本当に変なことばっかり考えるな」
私は苦笑しました。
でも。
実際に、後の時代には会社法が制定され、平成十八年から施行されます。
それに伴い、商法も整理されました。
匿名組合の規定は会社法へ移るのではなく、商法の中に残り、条文の内容や配置が整えられます。
「つまり」
私は心の中で整理しました。
昭和六十三年。
会社に関する規律も、匿名組合の規律も、商法の中に存在する。
ただし、有限会社には別の法律もある。
現代。
会社については独立した会社法が整備される。
匿名組合は引き続き商法で規律される。
そして、検査権などの条文が、より分かりやすく整理される。
なるほど。
古い制度を知ると、現代の法律がなぜ今の姿になったのかも見えてきます。
法律は、昔の条文をすべて捨てて新しくするわけではありません。
必要な仕組みを残しながら。
時代に合わせて整理されていくのです。
「さて、確認問題だ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「匿名組合とは何だ?」
「一方が営業者の営業に出資し、その営業から生じる利益の分配を受ける契約です!」
「根拠条文は?」
「商法第五百三十五条です!」
「出資された財産は、誰のものになる?」
「営業者の財産になります!」
「匿名組合員は、営業者の業務を執行できるか?」
「できません!」
「料理の技術だけを匿名組合員の出資にできるか?」
「できません!」
「民法の組合なら、労務出資は可能か?」
「可能です!」
「赤字の年でも必ず利益を分配するか?」
「いいえ!」
「出資が損失で減っていたら?」
「原則として、その損失を補填した後でなければ、利益の配当を請求できません!」
「じゃあ、重要な事由による随時検査は?」
私は胸を張りました。
「裁判所の許可を得て、営業者の業務及び財産の状況を検査できます!」
「よし」
「昭和の根拠は、旧商法五百四十二条による百五十三条の準用!」
「よし」
「現代は商法五百三十九条第二項!」
「よし!」
私は両手を上げました。
「完璧です!」
相馬先輩が笑いました。
「まあ、今日のところはな」
「今日のところって何ですか!」
「明日になったら忘れるかもしれねえだろ」
「忘れません!」
私はノートを抱えました。
だって。
あの事件を思い出せばいい。
森下澄江さん。
亡くなったご主人が残した三百万円。
それを、喫茶店の開業資金として出資した。
でも。
経営者の黒川さんは、
「金だけ出した奴は黙ってろ」
と言い放った。
そして、利益がないと説明した。
ところが。
匿名組合員には、営業者の業務や財産の状況を検査するための権利があった。
その権利を踏まえて事実関係が整理されると。
誤った利益計算が明らかになった。
結果。
三十万円の利益分配。
でも。
森下さんが一番嬉しかったのは、お金そのものではありませんでした。
約束した相手として、きちんと扱われたこと。
それだったのです。
窓の外は、すっかり夕暮れになっていました。
私は最後のページを開きました。
「所長」
「何だ」
「今日の一行を書きます」
「うん」
私は鉛筆を整えました。
そして。
ゆっくり書きました。
――匿名組合は「出資は営業者の財産、経営は営業者、利益は分配、重要事由の検査は裁判所の許可」。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「一行です!」
「一行でも長え」
「大事なことが多いんです!」
片桐所長が小さく笑いました。
「覚えられるなら、それでいい」
「はい!」
私は満足げに頷きました。
商法。
匿名組合。
最初は、なんだか難しい制度でした。
名前が出ない。
経営もしない。
なのに、利益を受け取る。
出資金の所有権も営業者に移る。
不思議な契約。
でも。
今なら分かります。
この仕組みがあるから、経営の技術を持たない人でも、他人の営業に資金を出すことができる。
営業者も、自分だけでは用意できない資金を集められる。
そして。
利益を分配する約束を、法律が支えている。
ただし。
どちらか一方が、好き勝手にできるわけではない。
匿名組合員は、当然に経営へ介入できない。
営業者は、約束した利益分配を無視できない。
重要な事由があれば、適法な手続によって検査する道がある。
その均衡が。
匿名組合という契約を支えているのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「勉強会、終わったか?」
「はい!」
「じゃあ、掃除しろ」
「……またですか!」
「まただ」
私は腕を組みました。
「先輩!」
「何だ」
「私、匿名組合の仕組みを理解しました!」
「そうか」
「だから提案があります!」
「嫌な予感がするな」
私は胸を張りました。
「私が、この事務所の掃除をします!」
「うん」
「その代わり、事務所の利益の三割をください!」
相馬先輩が黙りました。
片桐所長も、帳簿から顔を上げました。
……。
「こはる」
先輩が、ゆっくり言いました。
「はい!」
「それ、匿名組合か?」
「え?」
「お前、何を出資するつもりだ」
「掃除という労務です!」
「……」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「さっき何を習った?」
私は固まりました。
……あ。
「匿名組合員の出資は……」
「うん」
「金銭その他の財産で……」
「うん」
「労務だけでは……」
「どうした?」
「……駄目です」
相馬先輩が吹き出しました。
「自分で全部説明したじゃねえか!」
「ぐっ……!」
私は頭を抱えました。
くやしい。
完璧に覚えたと思ったのに。
わずか五分後。
自分で間違えました。
「じゃあ先輩!」
「何だ!」
「私が千円出資します!」
「ほう?」
「それで匿名組合員になって、事務所の利益を分けてもらいます!」
相馬先輩は、しばらく私を見つめました。
そして。
「所長」
「何だ」
「こはるが、千円で事務所の利益の三割を買いたいそうです」
片桐所長は静かに帳簿を閉じました。
「断る」
「即答!」
「契約する義務はない」
「……!」
私は椅子に崩れ落ちました。
「法律って、厳しいですね……」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だ」
「千円くらい、いいじゃないですか!」
「出資したい側が勝手に利益の割合を決められるわけねえだろ」
……確かに。
匿名組合も契約です。
当事者双方の合意が必要です。
私が勝手に、
「今日から匿名組合員です!」
と宣言しても、契約は成立しません。
「分かりましたよ!」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
「最初からそうしろ」
「でも先輩!」
「今度は何だ!」
「将来、私が行政書士事務所を開業したら!」
「うん」
「匿名組合で資金を集めることも考えてみます!」
相馬先輩が、少しだけ真面目な顔になりました。
「こはる」
「はい?」
「業務の性質や資格法上の規制もある。何でも匿名組合でやれると思うなよ」
「あ……」
私は頷きました。
そうです。
契約の仕組みがあるからといって、どんな営業にでも無条件に使えるわけではありません。
個別の業法。
資格者の責任。
業務の性質。
そうしたものを確認する必要があります。
「やっぱり商法って、奥が深いですね」
「そうだな」
「でも!」
「何だ」
「今日の匿名組合は、もう忘れません!」
私はノートの最後の一行を、もう一度見ました。
――匿名組合は「出資は営業者の財産、経営は営業者、利益は分配、重要事由の検査は裁判所の許可」。
よし。
今度こそ完璧です。
窓の外。
夕暮れの商店街に、少しずつ明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
珈琲館あかつきも、夜の営業を始めているのでしょう。
黒川さんは、きっと今日もコーヒーを淹れている。
森下さんは、友人を連れて店へ向かっているかもしれません。
出資した人。
営業する人。
その関係が、ようやく正常に戻った。
名前は表に出なくても。
約束は残る。
経営を任せても。
確認する権利は残る。
そして。
商売は、信用がなければ続きません。
ただし。
その「信用」だけを匿名組合員の出資にすることはできない。
……あ。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「今、すごいことに気づきました!」
「嫌な予感しかしねえ!」
「匿名組合では信用だけを出資できないのに、匿名組合の経営には信用が必要なんです!」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
そして。
「……まあ、そうだな」
小さく頷きました。
「褒めました?」
「褒めてねえ」
「絶対褒めましたよね!」
「掃除しろ!」
「はいっ!」
私は笑いながら箒を動かしました。
昭和六十三年。
商法の勉強は、まだまだ続きます。
でも。
今日の私は、もう間違えません。
匿名組合は。
名前を隠して、責任から逃げる制度ではない。
他人の営業に出資し、利益を分配してもらうための契約です。
そして。
その利益が本当に存在するのか、確かめるための道もある。
だから。
「金だけ出した奴は黙ってろ」
そんな一言で、人の権利を消すことはできません。
だって。
商法が守っているのは。
表に名前が出ている人だけではないのですから。
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