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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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599/701

[商法・仲立人、問屋、代理商の違い]現場編 「仲介しただけだから責任はない」の罠。三枚の契約書に隠された裏切りと、商法が暴いた本当の当事者

挿絵(By みてみん)

 人と人をつなぐ仕事には、三つの顔があります。


 紹介する人。


 代わりに契約する人。


 そして。


 自分の名前で、他人のために契約する人。


 どれも似ています。


 どれも、誰かの商売を手伝っています。


 けれど。


 たった一つ、立場を取り違えるだけで。


 百万円の支払義務が、まったく別の人間に移ってしまうことがあるのです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、三つの言葉に頭を抱えることになります。


 仲立人。


 代理商。


 問屋。


 ……問屋?


 普通に読めば「とんや」ですよね。


 ところが。


 商法では「といや」と読みます。


 そして、この読み方を間違えるよりも、もっと恐ろしい間違いがありました。


 それは。


 誰が契約の当事者なのかを、見誤ることだったのです。


「うちの商品が売れたのに、一円も入ってこないんです!」


 朝九時。


 事務所の扉を開けて飛び込んできた女性は、そう叫びました。


「……売れたのに?」


 私は思わず聞き返しました。


 女性の名前は、杉浦澄江さん。


 四十二歳。


 湖西市の郊外で、小さな織物工場を営んでいます。


 杉浦織物。


 従業員は六人。


 主に旅館向けの浴衣生地や、祭りの法被に使う反物を製造しているそうです。


「主人が亡くなってから、私が工場を継いだんです」


 澄江さんは膝の上で手を握りました。


「大きな工場じゃありません。でも、みんな一生懸命働いてくれて……」


 私は頷きました。


「それで、何があったんですか?」


「反物を百万円分、出荷しました」


「百万円!」


「はい。京都の旅館向けの注文です」


 百万円。


 昭和六十三年の小さな工場にとって、決して軽い金額ではありません。


「ところが、代金が振り込まれないんです」


「買主は?」


「それが……」


 澄江さんは鞄から三枚の書類を取り出しました。


 一枚目。


 ――商品取引紹介書。


 二枚目。


 ――販売代理業務契約書。


 三枚目。


 ――商品売買契約書。


「……三枚?」


「はい」


「全部、同じ取引に関係しているんですか?」


「そうなんです」


 嫌な予感。


 私は一枚目を手に取りました。


 商品取引紹介書。


 紹介業者。


 浜名商事。


 担当者。


 大沢義男。


「浜名商事が、お客さんを紹介したんですね」


「はい」


「では二枚目は?」


 販売代理業務契約書。


 杉浦織物。


 代理業者。


 東海販売企画。


 代表者。


 黒田隆三。


「この会社が販売代理を?」


「そうです。うちの商品を継続して販売してもらう約束でした」


「三枚目は……」


 私は売買契約書を開きました。


 売主。


 遠州商品取次商会。


 買主。


 京都の旅館用品会社。


 商品。


 浴衣用反物五百反。


 代金。


 百万円。


 私は首をかしげました。


「あれ?」


「どうしました?」


「売主が杉浦織物じゃありません」


「そうなんです!」


 澄江さんが身を乗り出しました。


「うちが作った反物なのに、売主が別の会社なんです!」


「遠州商品取次商会……?」


「そこが問屋だと言われました」


「問屋?」


「はい」


 私は考えました。


 なるほど。


 紹介業者。


 販売代理業者。


 問屋。


 三者が関係した取引。


 少し複雑ですが、現代の会社法や商法の知識で整理すれば――。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「まず契約当事者を確認して、それぞれの責任を整理しましょう!」


 澄江さんが顔を上げます。


「本当ですか!」


「はい! それに、会社の責任については会社法も――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「今、何の法律を使うって言った?」


「会社法です」


「……会社法?」


 先輩が眉をひそめました。


 しまった。


 私は固まりました。


 そうでした。


 昭和六十三年。


 この時代には、まだ独立した「会社法」という法律がありません。


 株式会社については商法第二編。


 有限会社については有限会社法。


 現代のように、一つの会社法に整理されているわけではないのです。


「お前、また妙な六法を読んでるな」


「あ、いえ、その……」


「会社を扱うなら商法を開け」


「はい……」


 危ない。


 未来人。


 また時代錯誤です。


「それと」


 先輩が続けました。


「今回の主役は会社の設立じゃねえ」


「え?」


「商人が、どういう立場で取引に関わったかだ」


 そう言って、先輩は三枚の書類を並べました。


「こはる。こいつら、全部同じ仕事に見えるか?」


「……似ています」


「そうだな」


「全部、杉浦さんの反物を売るために動いています」


「ああ」


「でも……」


 私は三枚目の契約書を見ました。


「売主の名前だけが違う」


 片桐所長が静かに言いました。


「そこだ」


 私は顔を上げました。


「名前が違うことが、そんなに重要なんですか?」


「重要だ」


 所長は売買契約書を指で叩きました。


「誰が契約したか」


「はい」


「誰が代金を請求できるか」


「はい」


「誰が代金の支払義務を負うか」


 所長は短く言いました。


「そこを間違えるな」


 私は三枚の書類を見つめました。


 なるほど。


 今回の敵は、単なる未払いではありません。


 契約書の中に隠れている。


 本当の責任者を見つけ出さなければならないのです。


「まず、順番に聞きます」


 私は相談票を開きました。


「浜名商事の大沢さんは、何をしたんですか?」


「京都の買主を紹介してくれました」


「それだけですか?」


「はい。あとは条件を取り次いで、商談の席を用意してくれて」


「契約書に、大沢さんの名前はありますか?」


「紹介業者としてだけです」


 私は頷きました。


「では、大沢さん自身が反物を買ったわけではありませんね」


「はい」


 次。


「東海販売企画の黒田さんは?」


「三年前から、うちの販売を任せています」


「継続的に?」


「はい」


「具体的には?」


「旅館や呉服店から注文を取って、うちに連絡してくれるんです」


「契約を結ぶ権限もあるんですか?」


「一部あります。でも、大きな注文は私の承認が必要です」


 なるほど。


 代理商ですね。


 私は頭の中で整理しました。


 特定の商人のために。


 継続的に。


 取引を代理、または媒介する。


 今回の黒田は、杉浦織物の販売活動を継続して引き受けている。


「では、遠州商品取次商会は?」


 澄江さんの表情が曇りました。


「そこが、一番分からないんです」


「といいますと?」


「黒田さんに言われたんです」


 澄江さんは少し声を低くしました。


「京都との取引は、遠州商品取次商会の名前で売った方が手続が簡単だって」


「……自分の名前で?」


「はい」


「杉浦さんの代わりに?」


「そう聞いていました」


 私は契約書を見直しました。


 売主。


 遠州商品取次商会。


 買主。


 京都の旅館用品会社。


 杉浦織物の名前は、契約当事者の欄にありません。


 代わりに。


 備考欄には小さく、


 ――本件商品は杉浦織物の委託による取次販売品とする。


 と書かれていました。


「……あ!」


 私は思わず声を上げました。


「問屋です!」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「気づいたか」


「はい!」


 私は契約書を指差しました。


「遠州商品取次商会は、自分の名前で、杉浦さんのために反物を売っているんです!」


「そうだ」


「だったら、これは普通の卸売業者とは違います!」


 先輩が頷きました。


「よし。そこまでは正解だ」


 よかった。


 今回は怒られませんでした。


 ……たぶん。


「でも、先輩」


「何だ」


「代金を払わない京都の会社が悪いんですよね?」


「本当にそうか?」


「え?」


 先輩が三枚目の書類を裏返しました。


 そこには。


 小さな受領印がありました。


 ――代金百万円、支払済。


 私は止まりました。


「……支払済?」


「そうだ」


「え? じゃあ、京都の買主はもう払ったんですか?」


 澄江さんが頷きました。


「昨日、電話で確認しました。遠州商品取次商会に、全額振り込んだそうです」


「……!」


 私は背筋が寒くなりました。


 百万円。


 既に支払われている。


 でも。


 杉浦織物には、一円も届いていない。


 それなら。


 お金は、どこへ消えたのでしょうか。


「黒田さんが言ったんです」


 澄江さんが続けました。


「遠州商品取次商会は、代金を受け取ったら、うちに精算する約束だったって」


「はい」


「でも、遠州商品取次商会に電話したら……」


「何と言われたんですか?」


 澄江さんは震える声で言いました。


「『うちは取引の窓口になっただけだ。金の話は黒田に聞け』って」


 ……。


 私は思わず顔をしかめました。


「窓口になっただけ?」


「はい」


「でも、売買契約書には遠州商品取次商会が売主として書かれていますよね?」


「そうなんです!」


 私は相馬先輩を見ました。


「先輩!」


「ああ」


「これ、変ですよね!」


「変どころじゃねえな」


 先輩は煙草を一本取り出しました。


「自分の名前で契約しておいて、都合が悪くなったら『窓口だけ』か」


「はい!」


「便利な商売だな」


 片桐所長が低い声で言いました。


「もう一つ、確認しろ」


「はい?」


「黒田だ」


 私は二枚目の販売代理業務契約書を見ました。


「黒田さん?」


「何のために遠州商品取次商会を使ったのか」


「……そうですね」


 所長が続けます。


「それから、遠州商品取次商会の経営者を調べろ」


 私は首をかしげました。


「経営者?」


「そうだ」


「何か関係が?」


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「そこに、もう一つ面白い話がある」


 ……。


 嫌な予感。


 いや。


 法律小説的には、とても面白い予感です。


 翌日。


 私たちは、駅南側の商店街に向かいました。


 目的地は。


 東海販売企画。


 古い二階建ての事務所。


 入口には、大きな金文字。


 ――代表取締役 黒田隆三。


「社長!」


 私が呟くと、相馬先輩が言いました。


「何だ」


「株式会社ですね」


「ああ」


「この時代って、株式会社を作るのも大変ですよね」


「何で急にそんな話になる」


「現代なら一人で株式会社を設立できますけど……」


「一人?」


 相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「株式会社は発起人が七人以上必要だろ」


「……ですよね!」


「また訳の分からんこと言ってるな」


 そうです。


 昭和六十三年。


 当時の株式会社設立には、発起人七人以上が必要。


 取締役も三人以上。


 監査役も必要。


 現代のような一人株式会社とは大違いです。


「一人で商売したいだけなら、個人商人で始める道もある」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「会社の看板を掲げるなら、それだけの仕組みと責任があるってことだ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 会社という名前は、ただの飾りではない。


 その裏に、法律上の仕組みがある。


 そして。


 その法律を無視した経営者ほど、後で痛い目を見る。


 ……今回も、そうなりそうです。


「おお、行政書士さんか」


 東海販売企画の応接室。


 黒田隆三は、革張りの椅子にふんぞり返っていました。


 五十歳前後。


 金の腕時計。


 派手なネクタイ。


 机の上には、高級そうな万年筆。


「杉浦の婆さんに頼まれたんだって?」


 私は眉をひそめました。


 婆さん?


 澄江さんは四十二歳です。


 そもそも、年齢の問題ではありません。


 人の工場を支えている人を、何だと思っているのでしょう。


「本日は事実関係の確認に伺いました」


 相馬先輩が言いました。


「確認?」


「はい。杉浦織物の反物販売についてです」


「ああ、あれか」


 黒田は鼻で笑いました。


「売れただろ。何が不満なんだ」


「代金が届いていません」


「知らんよ」


「……知らない?」


「俺は代理商だ。売買の当事者じゃない」


 私は一瞬、言葉を失いました。


 代理商。


 確かに、本人のために代理や媒介をする立場です。


 普通は、本人の売買代金を自分の借金として負うわけではありません。


 でも。


 だからといって、今回の取引について、何も説明しなくていいのでしょうか。


「販売の手配は、黒田さんがされたんですよね」


 私が聞くと、黒田は肩をすくめました。


「そうだよ」


「遠州商品取次商会を使うよう提案したのも?」


「そうだ」


「なぜですか?」


「便利だからだ」


「……便利?」


「取引先が多い。信用もある。うちより大きな商売ができる」


 黒田は笑いました。


「商売ってのは、人脈なんだよ、お嬢ちゃん」


 ……お嬢ちゃん。


 また来ました。


 法律に弱い人ほど、相手を年齢で判断したがる法則。


「ところで」


 相馬先輩が言いました。


「遠州商品取次商会の代表者は、黒田さんのお知り合いですか?」


 黒田の笑みが止まりました。


「……何?」


「代表者の方です」


「まあ、知り合いだ」


「どういう関係でしょう」


「商売仲間だよ」


「そうですか」


 相馬先輩は一枚の資料を出しました。


「実は、遠州商品取次商会の事務所を確認してきましてね」


 黒田の目が細くなります。


「それが?」


「代表者は、黒田正彦さんですね」


「……」


「あなたの弟さんでしょう」


 沈黙。


 私は思わず先輩を見ました。


 弟!


 そうだったんですか!


「それがどうした!」


 黒田が声を荒らげました。


「弟が商売して何が悪い!」


「悪いとは言っていません」


「じゃあ何だ!」


「杉浦織物の代理商であるあなたが、実弟の商会に商品を回していた。その事実を確認しています」


 黒田は鼻で笑いました。


「だから?」


「杉浦さんに、その関係を説明していましたか?」


「する必要があるのか?」


 私は思わず口を開きました。


「ありますよ!」


「何?」


「だって、杉浦さんの販売を任されているのに、弟さんの商会に取引を回していたんですよ!」


「商売を成功させるためだろうが!」


 黒田が机を叩きました。


「こっちは客を取ってきてやってるんだ!」


 私は言い返そうとしました。


 しかし。


「こはる」


 相馬先輩が低い声で呼びました。


「はい」


「怒るな」


「でも!」


「まだ聞くことがある」


 先輩は黒田を見ました。


「黒田さん。最後に一点だけ」


「何だよ」


「遠州商品取次商会から、あなた個人に手数料や紹介料は支払われていますか?」


 黒田の表情が、ほんの少し変わりました。


「……払われてねえよ」


「そうですか」


「ああ」


「分かりました」


 先輩は立ち上がりました。


「本日はありがとうございました」


「おい」


「はい?」


「これで終わりか?」


「事実確認は終わりました」


 黒田は笑いました。


「何だ。行政書士なんて、大したことねえな」


 ……。


 私は拳を握りました。


 でも。


 相馬先輩は、涼しい顔をしています。


「そうかもしれませんね」


「だったら、もう来るなよ」


「承知しました」


 先輩は頭を下げました。


 そして。


 帰り際。


「ただし」


 振り返りました。


「商法は、代理商に何を許して、何を禁じているか」


 黒田が顔をしかめました。


「何?」


「一度、確認しておかれるといいでしょう」


 それだけ言って、先輩は事務所を出ました。


 私は慌てて後を追いました。


「先輩!」


「何だ」


「何で帰っちゃうんですか!」


「聞くことは聞いた」


「でも、あの社長!」


「ああ」


「完全に舐めてましたよ!」


「そうだな」


「しかも、弟の会社を使って!」


 相馬先輩は足を止めました。


「こはる」


「はい!」


「代理商の仕事を、もう一度言ってみろ」


「特定の商人のために、継続的に取引を代理したり媒介したりすることです」


「そうだ」


「だから、本人との信頼関係が重要です」


「で?」


「……あ!」


 私は気づきました。


 信頼関係。


 特定の商人のために働く。


 だからこそ。


「競業避止義務!」


 私は叫びました。


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


「代理商には、本人の許可なしに競業してはいけないという制限があります!」


「ああ」


「ということは……」


 私は急に黙りました。


 黒田。


 杉浦織物の代理商。


 そして、弟の商会。


 もし黒田が、杉浦織物の販売代理を引き受けながら、自分や弟の利益のために同じ営業に属する取引を行っていたとすれば。


「……問題になりますね」


「なるな」


「でも先輩」


「何だ」


「弟の会社を紹介しただけで、すぐ競業避止義務違反になるんですか?」


 先輩がにやりとしました。


「いい質問だ」


 ……!


 褒められた!


「そうなんですよね!」


「ああ。弟の会社と取引しただけで、何でも競業違反になるわけじゃねえ」


「はい」


「黒田自身が、杉浦の許可なく、自己や第三者のためにどんな取引をしたのか。それを確かめなきゃならん」


 なるほど。


 単に親族が関係している。


 それだけでは足りない。


 実際に、どんな取引をしたのか。


 誰の利益のために動いたのか。


 その証拠が必要です。


「じゃあ、どうやって調べるんですか?」


 先輩は煙草を取り出しました。


「商売にはな」


「はい」


「金が動けば、紙が残る」


 私は目を丸くしました。


 金が動けば。


 紙が残る。


 そして。


 昭和六十三年。


 その紙を探すのは。


 私たちの仕事なのです。


 事務所へ戻ると、片桐所長が待っていました。


「どうだった」


 相馬先輩が報告します。


「遠州商品取次商会の代表は黒田の弟でした」


「そうか」


「本人は報酬の受領を否定しました」


「証拠は?」


「まだです」


 所長は短く頷きました。


「調べろ」


「はい」


 私は相談票を開きました。


 今回の事件。


 関係者が多すぎます。


 紹介業者。


 代理商。


 問屋。


 売主。


 買主。


 ……。


 これは一度、整理しないと。


「所長!」


「何だ」


「三人の立場を、一つずつ確認させてください!」


「やってみろ」


 私は大きな紙を取り出しました。


 最初に書いたのは、


 ――浜名商事・大沢。


「この人は、買主を紹介しました」


「そうだ」


「契約の当事者ではありません」


「うん」


「つまり、仲立人!」


 相馬先輩が頷きました。


「次」


 ――東海販売企画・黒田。


「杉浦織物のために、継続的に販売の代理や媒介をしています」


「うん」


「代理商です!」


「次」


 ――遠州商品取次商会。


「杉浦織物のために、自分の名前で反物を売りました」


「そうだ」


「つまり、問屋!」


 私は顔を上げました。


「三人とも、人の商売を手伝っているのに、立場が違うんですね!」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「しかも、問屋だけ、自分の名前で契約するから……」


「どうなる」


「売買契約の相手方に対して、自分が権利を取得し、義務を負います!」


 相馬先輩が机を叩きました。


「そこだ!」


 私は思わず背筋を伸ばしました。


「今回、京都の買主は、遠州商品取次商会に百万円を支払いました」


「ああ」


「売買契約上の売主は、遠州商品取次商会です」


「そうだ」


「だったら、遠州商品取次商会は『窓口になっただけだから関係ない』とは言えません!」


「そのとおりだ」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 仲立人は、商談を取り持つ。


 代理商は、特定の商人のために継続的に動く。


 問屋は、自分の名前で取引する。


 この違い。


 試験ではただの暗記事項でした。


 でも。


 現場では。


 誰に責任を問うべきかを決める、決定的な違いになるのです。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「問屋が代金を受け取ったからといって、当然に委託者へ百万円全額を渡す義務があるとは限らん」


「え?」


「報酬や費用がある」


「あ……!」


 そうでした。


 問屋は商売として取次を行っています。


 無償の奉仕ではありません。


 約束された手数料。


 必要な費用。


 それらを精算する必要があります。


「じゃあ、委託契約を確認しないと!」


「そうだ」


 所長が一枚の紙を取り出しました。


 ――商品取次委託契約書。


 委託者。


 杉浦織物。


 受託者。


 遠州商品取次商会。


 販売価格。


 百万円。


 取次手数料。


 五万円。


 その他費用。


 別途合意したものに限る。


 精算期限。


 買主から代金を受領した日から七日以内。


 私は指を折りました。


 百万円。


 手数料五万円。


 合意された追加費用は、現時点で確認できない。


 それなら。


「九十五万円!」


「そうだ」


「少なくとも、契約どおりなら九十五万円を精算する必要があります!」


 相馬先輩が頷きました。


「だが、もう期限を過ぎてる」


「はい!」


 私は机を叩きました。


「遠州商品取次商会に、書面で精算を求めましょう!」


 片桐所長が頷きました。


「本人名義でな」


「はい!」


「事実と根拠を整理する。争いになれば弁護士へ引き継ぐ」


「分かりました!」


 そうです。


 行政書士は、弁護士ではありません。


 紛争の代理人として交渉したり、訴訟を引き受けたりすることはできません。


 でも。


 契約書を確認し。


 事実を整理し。


 依頼人本人の意思に基づく通知書の作成を支援する。


 そして、必要な証拠を揃える。


 それは、書類を扱う私たちの大切な仕事です。


 問題は、黒田でした。


 代理商の競業避止義務。


 そこを突くには、証拠が必要です。


 そして。


 証拠は、思いがけないところから現れました。


 三日後。


 事務所に、一人の男がやって来ました。


「……浜名商事の大沢です」


 私は驚きました。


 あの紹介業者です。


「どうされました?」


「杉浦さんから話を聞きまして」


 大沢は鞄から封筒を取り出しました。


「これ、見ていただけませんか」


 封筒の中には、二枚の紙がありました。


 一枚目。


 ――紹介手数料請求書。


 二枚目。


 ――取引報告書。


「私が京都の買主を紹介したのは事実です」


 大沢が言いました。


「ただ、商談の途中で黒田さんから妙なことを言われまして」


「妙なこと?」


「買主には、杉浦織物の名前をあまり出さないでくれ、と」


 私は顔を上げました。


「……なぜですか?」


「分かりません。でも、遠州商品取次商会を売主にするからと言われました」


「それで?」


「私は、取次商会が正式に委託を受けているなら問題ないと思いました」


 大沢は続けました。


「ところが、後日、黒田さんから別の書類が届いたんです」


「別の書類?」


 私は封筒から三枚目の紙を取り出しました。


 ――販売協力報酬明細書。


 支払者。


 遠州商品取次商会。


 受取人。


 東海販売企画代表取締役 黒田隆三。


 金額。


 三十万円。


 名目。


 特別販売協力報酬。


 私は固まりました。


「……三十万円?」


「はい」


「これ、黒田さんに支払われたんですか?」


「そう聞いています」


 大沢は頷きました。


「私にも、似たような協力金を受け取らないかと話が来ました。でも、何の名目か分からなかったので断ったんです」


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩の目が細くなっていました。


「大沢さん」


「はい」


「この書類は、どういう経緯でお持ちですか?」


「黒田さんから、取引に関係した業者向けの報酬計算だと言って渡されました」


「原本ですか?」


「はい」


「ありがとうございます」


 相馬先輩は書類を机に置きました。


 そして。


「こはる」


「はい」


「金が動けば?」


 私は答えました。


「紙が残る!」


「そうだ」


 見つかりました。


 黒田が否定していた報酬。


 三十万円。


 しかし。


 片桐所長は、まだ頷きませんでした。


「支払った証拠は?」


 大沢が首を振ります。


「そこまでは……」


「黒田がその金を受け取ったと断定するには、足りんな」


 私ははっとしました。


 そうです。


 報酬明細書がある。


 だからといって。


 実際に金銭が支払われたとは限りません。


 そして。


 報酬を受け取っただけで、直ちに競業避止義務違反になるとも限らない。


 重要なのは。


 黒田が何をしたのか。


 誰のために取引したのか。


 杉浦さんの許可はあったのか。


 その事実です。


「大沢さん」


 所長が言いました。


「ほかに、黒田さんから何か指示はありましたか」


「あります」


「どんな?」


「京都の買主との商談についてです」


 大沢は少し考えました。


「最初、杉浦織物から直接買いたいという話だったんです」


「はい」


「でも黒田さんが、遠州商品取次商会を間に入れないと契約できないと言い出しました」


「理由は?」


「販売経路を一本化するため、と」


 大沢は首をかしげました。


「ただ、買主は別にそんなことを求めていませんでした」


 私は息を呑みました。


 つまり。


 本来は杉浦織物と買主が直接契約することもできた。


 なのに。


 黒田が取次商会を使うよう誘導した。


 その取次商会は弟の経営。


 そして、黒田個人に三十万円の報酬が予定されていた。


「所長……」


 私は小さく言いました。


「これって……」


 所長は頷きました。


「調べる価値はある」


 相馬先輩が続けます。


「だが、決めつけるな」


「はい」


「弟の商会を紹介したことと、競業取引をしたことは別だ」


「はい」


「ここから先は、実際の取引と金の流れを確かめる」


 私は頷きました。


 法律は、怪しい人を見つけたら、すぐ悪人と決めつける道具ではない。


 何をしたのか。


 どの義務に違反したのか。


 何が証明できるのか。


 そこを、一つずつ確かめる必要があるのです。


 翌日。


 杉浦さんから、もう一つの資料が届きました。


 古い複写式の伝票。


 黒田が以前、杉浦織物に提出した販売報告書でした。


 そこには、こんな記載がありました。


 ――京都向け浴衣反物五百反。


 ――販売先候補確保。


 ――今後の販売窓口を遠州商品取次商会に統一する。


 その下に、手書きの一行。


 ――直接販売案件についても、今後は黒田の管理する取次経路を優先する。


 私はその一行を見つめました。


「……黒田の管理する?」


 しかも。


 別紙には、黒田が弟の商会との間で作成した協力契約書の写しがありました。


 ――黒田は、遠州商品取次商会のために、織物商品の買入先及び販売先を継続的に開拓する。


 ――成立した取引について、所定の協力報酬を受領する。


 私は顔を上げました。


「所長!」


「何だ」


「これ、黒田さんが弟の商会のためにも、同じ織物取引の仕事を引き受けています!」


「ああ」


「杉浦さんから、その許可をもらったんでしょうか?」


 所長は杉浦さんに電話で確認しました。


 答えは。


 明確でした。


 ――そんな許可はしていません。


 私は思わず息を吸いました。


 ようやく。


 三枚の契約書が、一つにつながりました。


 杉浦さんの代理商でありながら。


 黒田は弟の商会のためにも、同じ織物商品の取引を継続して引き受けていた。


 しかも、その事実を杉浦さんに説明していなかった。


 これは。


 単なる紹介の問題ではありません。


「先輩」


「何だ」


「代理商の競業避止義務が問題になりますね」


「ああ」


「ただの仲立人だったら、同じ結論にはならないんですよね」


「そうだ」


 大沢は、いろいろな商人の取引を媒介する仲立人。


 商法上、代理商と同じ競業避止義務を当然に負うわけではありません。


 一方。


 黒田は、特定の商人である杉浦織物のために継続的に働く代理商。


 だからこそ。


 本人の許諾なく、自己や第三者のために本人の営業に属する取引をしてよいわけではない。


「……面白い」


 私は思わず呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「同じように商品を売る手伝いをしているのに、立場によって義務が変わるんです」


「ああ」


「仲立人には、その法定の競業避止義務がない」


「そうだ」


「問屋にも、代理商と同じ一般的な競業避止義務が当然にあるわけじゃない」


「うん」


「でも、代理商にはある」


 先輩が頷きました。


「特定の商人のために継続して動くからな」


 私は机の上の契約書を見ました。


 なるほど。


 代理商。


 その名前には、信頼が含まれている。


 継続して商売を任せる以上、本人の利益に反する競業を勝手に行わせない。


 そういう仕組みなのです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「通知書を作るぞ」


「はい!」


「二通だ」


「二通?」


「遠州商品取次商会に一通。東海販売企画に一通」


 私は頷きました。


 いよいよ。


 商法による反撃です。


 一通目。


 遠州商品取次商会宛て。


 差出人。


 杉浦澄江。


 私は所長に確認された事実をもとに、原案を読み上げました。


「貴商会は、通知人から浴衣用反物五百反の販売を委託され、貴商会自身の名において京都の買主との間に売買契約を締結した」


「うん」


「貴商会は、右売買に係る代金百万円を既に受領している」


「うん」


「本件取引において、貴商会は自己の名をもって他人のために物品を販売する問屋に該当する」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「したがって、貴商会が単なる紹介窓口であったとの説明は、本件売買契約書及び取次委託契約書の記載と整合しない」


「よし」


「また、取次委託契約書によれば、取次手数料は五万円であり、別途合意した費用を除き、受領代金の残額を七日以内に精算するものとされている」


「うん」


「よって、通知人は、同契約に基づき、未精算額九十五万円の支払を求める」


 私は息を吸いました。


 最後の一文。


「なお、本通知後も精算がなされない場合には、弁護士に相談のうえ、適切な法的措置を検討する」


 読み終わりました。


 片桐所長が頷きました。


「いい」


「本当ですか!」


「ただし、もう一行」


「はい?」


「代金の受領日と精算期限を具体的に記せ」


「あ……!」


 そうでした。


 期限が過ぎている。


 それを主張するなら、いつ受領し、いつまでに精算すべきだったのか。


 日付が必要です。


「それから、添付資料の番号を整理しろ」


「はい!」


 私は慌てて修正しました。


 契約書。


 代金受領資料。


 精算期限。


 手数料。


 どれも明確です。


 この書面を受け取った遠州商品取次商会は。


「窓口だっただけ」


 という一言では、もう説明できません。


 自分の名で契約した事実。


 代金を受け取った事実。


 精算する約束。


 それらが、全部残っているのです。


 二通目。


 東海販売企画宛て。


 こちらは、もっと慎重でした。


「所長」


「何だ」


「黒田さんの競業避止義務違反を、断定していいんでしょうか?」


「確認できる事実と、法的評価を分けろ」


「はい」


 私は原案を読みました。


「通知人は、貴社に対し、杉浦織物の販売活動について、継続的に取引の代理及び媒介を委託している」


「うん」


「一方、貴社代表者黒田隆三は、遠州商品取次商会のためにも織物商品の買入先及び販売先を開拓する旨の協力契約を締結している」


「うん」


「通知人は、右競業に関し、許諾を与えた事実がない」


 私は一度、息を吸いました。


「右行為については、代理商の競業避止義務及び契約上の忠実な業務遂行義務との関係で、重大な疑義がある」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「また、貴社代表者に対する三十万円の特別販売協力報酬について、支払の有無、支払名目、対象となる取引及び通知人への説明状況が不明である」


「うん」


「よって通知人は、貴社に対し、右各事項について、関係資料に基づく説明を求める」


 読み終わりました。


 片桐所長が頷きました。


「そのあとだ」


「はい」


「競業避止義務の根拠を記せ」


 私は六法を開きました。


 そして、思わず手を止めました。


「あれ?」


「何だ」


「商法二十八条じゃ……」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「二十八条?」


 ……しまった。


 またです。


 現代の商法。


 代理商の競業禁止。


 第二十八条。


 でも。


 昭和六十三年の商法では。


「……四十八条!」


 私は叫びました。


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「旧商法第四十八条ですね!」


「ああ」


「現代と条文番号が違う!」


「当たり前だ。今の六法を使え」


「はい!」


 私は額を押さえました。


 危ない。


 本当に危ない。


 商法の基本的な考え方は似ていても、条文の配置は時代によって変わっています。


 現代の条文番号を、そのまま昭和の書面に書いてしまったら。


 相手に間違いを指摘されるところでした。


 私は赤鉛筆で修正しました。


 ――商法第四十八条。


 昭和六十三年。


 代理商の競業避止義務。


 ちゃんと、当時の条文です。


「こはる」


 所長が言いました。


「何を覚えた」


「使う法律の時代を間違えないことです!」


「そうだ」


「それから、条文番号だけ覚えていても駄目です!」


 相馬先輩が笑いました。


「ようやく分かったか」


「毎回分かってます!」


「毎回間違えてるけどな」


「……言わないでください」


 私は再び原案に向かいました。


 ――以上の事実関係が確認された場合、貴社代表者の行為には商法第四十八条の競業禁止規定に抵触する可能性があり、通知人は損害の有無及び必要な法的措置について検討する。


 所長が頷きました。


「いいだろう」


 私は鉛筆を置きました。


 黒田宛ての通知書。


 そこには、感情的な非難はありません。


 あるのは。


 代理商契約。


 競業に関する協力契約。


 許諾の不存在。


 報酬明細。


 そして。


 旧商法第四十八条。


 事実と法律だけです。


「……怖いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「何がだ」


「この書面を受け取ったら、黒田さんは自分の行動を一つずつ説明しないといけません」


「ああ」


「弟の会社を使った理由も」


「そうだ」


「三十万円の報酬も」


「ああ」


「杉浦さんに知らせなかった理由も」


 相馬先輩は短く言いました。


「社長が一番偉いんじゃねえ」


 私は顔を上げました。


「ルールを守った奴が勝つんだよ」


 その言葉が。


 今日は、妙に胸に響きました。


 内容証明郵便を発送した三日後。


 最初に動いたのは、遠州商品取次商会でした。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あ、あの……』


 男性の声。


『遠州商品取次商会の黒田正彦ですが……』


 私は思わず背筋を伸ばしました。


「はい」


『杉浦さんに、もう一度確認していただきたいことがありまして』


「通知書についてですね」


『はい……』


 声が小さい。


 あの「窓口になっただけ」と言っていた人とは思えません。


『契約書を確認したら、確かに精算期限が過ぎていまして……』


「はい」


『それで、その……』


 少し沈黙。


『九十五万円、支払います』


 私は思わず顔を上げました。


「……!」


『今回の取引について、うちが代金を受け取っているのは事実ですから』


 私は受話器を握り直しました。


「そのご意向は、杉浦さんに直接お伝えください。こちらからも、連絡があった事実はお知らせします」


『分かりました』


 電話が切れました。


「所長!」


「何だ」


「遠州商品取次商会が、九十五万円を支払うそうです!」


「ああ」


「やりました!」


 相馬先輩が横から言いました。


「まだだ」


「え?」


「実際に入金されてからだ」


「あ……!」


 そうでした。


 口で支払うと言うことと。


 実際に支払うことは違う。


 私は頷きました。


「確認します!」


 その二日後。


 杉浦さんから電話がありました。


『入金されました!』


 受話器の向こうで、泣いているような声。


『九十五万円、ちゃんと入っていました!』


 私は思わず笑顔になりました。


「よかったです!」


『これで、従業員のお給料が払えます……!』


 私は言葉に詰まりました。


 そうでした。


 百万円。


 それは単なる数字ではありません。


 六人の従業員。


 工場の電気代。


 次の反物を織るための糸代。


 そういうものを支えるお金です。


『本当に、ありがとうございました』


 杉浦さんの声が震えていました。


 私は小さく頷きました。


「よかった……」


 法律が守ったのは。


 ただの売掛金ではありません。


 真面目に働く人たちの、明日の生活だったのです。


 しかし。


 事件は、まだ終わっていませんでした。


 黒田です。


 東海販売企画の社長。


 あの、金の腕時計の男。


 その黒田から、翌週、杉浦さんに連絡が入りました。


 ――販売代理の仕事を辞めたい。


 ――今後の取引には関与しない。


 ――三十万円の報酬については説明する。


 私は驚きました。


「辞めたいって……」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「黒田さん、あんなに偉そうだったのに!」


「商法第四十八条を読んだんだろうな」


「……!」


 そうです。


 競業避止義務。


 代理商だからこそ課される制限。


 そして、本人に無断で競業に当たる行為をした場合には、損害賠償などの問題が生じ得ます。


 ただし。


 黒田が競業禁止規定に違反したか。


 どれほどの損害が生じたか。


 その判断には、さらに事実の確認が必要です。


 だから片桐所長は、最初から断定しませんでした。


 通知書には、証拠に基づく説明を求めることと、法的問題が生じ得ることだけを記していたのです。


 その後。


 黒田は杉浦さんに対し、弟の商会との協力契約を結んだことを認めました。


 特別販売協力報酬三十万円も、実際に受領していたそうです。


 しかし。


 杉浦さんには、一度も説明していなかった。


 さらに、ほかの案件でも、杉浦織物に入るはずだった注文を、弟の商会経由に切り替えていたことが判明しました。


 ただし、それらが具体的にどのような損害を生じさせたかは、なお調査が必要でした。


 杉浦さんは、弁護士に相談することを決めました。


 代理商契約の終了。


 競業避止義務違反の成否。


 損害賠償請求の可能性。


 そうした紛争部分は、弁護士に引き継がれることになったのです。


「……先輩」


 私は呟きました。


「何だ」


「黒田さん、結局、自分から辞めるって言ったんですね」


「ああ」


「最初は『俺は代理商だから責任がない』って言ってたのに」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「都合のいいときだけ代理商を名乗ってもな」


「はい」


「代理商には、代理商の責任がある」


 私は頷きました。


 契約当事者ではない。


 だから売買代金を当然に支払う義務はない。


 それは、一面では正しい。


 でも。


 だからといって。


 本人の信頼を裏切っていいわけではありません。


 商法は、立場に応じて権利と義務を決めている。


 そのことを。


 黒田は、都合よく忘れていたのです。


 一週間後。


 杉浦澄江さんが事務所を訪れました。


 今日は、少し表情が明るくなっています。


「おかげさまで、工場は続けられそうです」


 私は嬉しくなりました。


「本当ですか!」


「はい」


 澄江さんは小さな風呂敷包みを差し出しました。


「これ、よかったら」


「え?」


 中には。


 藍色の手ぬぐいが入っていました。


 細い白い糸で、湖と山の模様が織り込まれています。


「うちの工場で作ったものです」


「わあ……!」


 私は思わず手に取りました。


 柔らかい。


 でも、しっかりした生地。


 手触りが違います。


「主人が考えた柄なんです」


 澄江さんが微笑みました。


「今でも、この模様を織り続けています」


 私は手ぬぐいを見つめました。


 亡くなったご主人。


 残された工場。


 六人の従業員。


 そして。


 その人たちが守り続けている技術。


 百万円が払われなければ。


 この手ぬぐいを作る工場も、なくなっていたかもしれません。


「……大事にします」


 私は小さく言いました。


 澄江さんは笑いました。


「それから、もう一つ」


「はい?」


「浜名商事の大沢さんに、紹介手数料をお支払いしました」


「あ!」


 私は思い出しました。


 仲立人。


 今回、最初に買主を紹介した業者です。


「ちゃんと支払われたんですね」


「はい。売買の条件をまとめてくれたのは、大沢さんですから」


 私は頷きました。


 仲立人は、契約の当事者にはなりません。


 でも。


 だからといって、仕事の価値がないわけではありません。


 売りたい人と買いたい人をつなぐ。


 条件をまとめる。


 取引を成立させる。


 そこに、商売としての報酬がある。


 しかも仲立人の報酬については、商法に特別な規定があります。


 ……これは、後でちゃんと調べなければ。


「大沢さん、何て言ってました?」


 私が聞くと、澄江さんは笑いました。


「『私は人をつなぐのが仕事ですから』って」


 私は思わず微笑みました。


 人をつなぐ仕事。


 いい言葉です。


 その一言だけなら。


 仲立人も。


 代理商も。


 問屋も。


 同じなのかもしれません。


 けれど。


 法律上の立場は、決して同じではないのです。


 澄江さんが帰ったあと。


 私は机の上に三枚の契約書を並べました。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日、ようやく分かりました」


「何がだ」


「仲立人、代理商、問屋の違いです!」


 先輩は新聞から顔を上げました。


「言ってみろ」


「はい!」


 私は一枚目を指差しました。


「仲立人は、取引の間を取り持つ人です!」


「うん」


「自分が売買契約の当事者になるわけではありません!」


「そうだ」


 二枚目。


「代理商は、特定の商人のために継続的に取引の代理や媒介をする人です!」


「うん」


「そして、競業避止義務がある!」


「よし」


 三枚目。


「問屋は、自分の名前で、他人のために物品を売ったり買ったりする人です!」


「うん」


「だから、売買の相手方との関係では、自分に権利義務が帰属します!」


 先輩が頷きました。


「よし」


 私は少し得意になりました。


「完璧ですね!」


「まだだ」


「ええっ!」


「じゃあ、問屋は何て読む?」


「といや!」


「普通の卸売業者は?」


「とんや!」


「違いは?」


 私は少し考えました。


「普通の卸売業者は、自分のために仕入れて、自分のために売ります」


「うん」


「でも商法上の問屋は、他人のために、自分の名前で売買します!」


「そうだ」


「だから、同じ『問屋』でも、取引の仕組みが違うんです!」


 相馬先輩が頷きました。


「まあ、合格だな」


「やった!」


 私は拳を握りました。


 しかし。


 その瞬間。


 片桐所長が口を開きました。


「こはる」


「はい!」


「一つ忘れている」


「……え?」


「問屋は、相手方に対して自分が権利義務を負う」


「はい」


「では、委託者との関係は?」


 私は止まりました。


「……委託者?」


「杉浦さんだ」


「あ」


 所長が続けました。


「遠州商品取次商会は、京都の買主との関係では、自分が売主になる」


「はい」


「だが、杉浦さんとの間では、委託契約に基づいて精算しなければならん」


 私は頷きました。


「そうでした!」


「外側の売買契約と、内側の委託関係を区別しろ」


「はい!」


 なるほど。


 これが、問屋の面白いところです。


 外から見ると、自分が売主。


 でも、実際には他人のために売っている。


 だから。


 売買の相手方との責任。


 委託者との責任。


 二つを分けて考える必要がある。


「所長」


「何だ」


「問屋って、二つの顔があるんですね」


「そうだ」


「外では自分の名前で契約する」


「うん」


「内では、委託者のために働く」


 所長が頷きました。


「そこを忘れるな」


 私はノートを開きました。


 今日の教訓。


 簡単に、一行。


 ――仲立人は「つなぐ」、代理商は「特定の商人を助ける」、問屋は「自分の名で他人のために売買する」。


 よし。


 これなら忘れません。


「ところで、先輩」


 私は手ぬぐいを畳みながら言いました。


「何だ」


「商法って、案外、人間くさいですね」


「何でだ」


「だって」


 私は三枚の契約書を見ました。


「仲立人は、人と人をつなぐ仕事を守ってくれる」


「うん」


「代理商には、信頼を裏切らないためのルールがある」


「ああ」


「問屋には、自分の名前で商売する責任がある」


 私は少し笑いました。


「全部、人間同士の信頼の話なんですね」


 相馬先輩はしばらく黙りました。


 それから。


「まあな」


 短く言いました。


 片桐所長が帳簿を閉じます。


「商売は、人がするものだからな」


 私は顔を上げました。


「はい」


「契約書は、その人間の約束を形にしたものだ」


 所長は静かに続けました。


「だから、誰が何を約束したのかを見ろ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 今回の事件で一番大切だったのは。


 会社の名前でも。


 立派な肩書でも。


 金の腕時計でもありません。


 誰が。


 誰のために。


 どんな権限で。


 何をしたのか。


 その区別だったのです。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 男性の声。


『商品を売る約束を仲介したんですが、報酬を払ってもらえなくて……』


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩もこちらを見ています。


『契約はちゃんと成立したんです。でも、売主も買主も、手数料なんか払わないって……』


 ……。


 来ました。


 今度は。


 仲立人の報酬請求権です。


「先輩」


「何だ」


「また商法です」


「分かってる」


「しかも、仲立人です!」


「聞こえてる」


「商法五百五十条ですね!」


 先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる」


「はい!」


「先に確認することがあるだろ」


「……媒介した取引が成立したかどうか?」


「それもだ」


「ほかに?」


「結約書など、必要な手続は済ませてるか」


「あ!」


 そうでした。


 仲立人の報酬請求権。


 そこにも、商法上の特別なルールがあります。


 ただ紹介したと自称すれば、無条件に報酬を取れる。


 そんな単純な話ではありません。


「すみません!」


 私は受話器を握り直しました。


「まず、取引が成立した日時と、結約書を交付したかどうかを教えてください」


 昭和六十三年。


 商法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。


 仲立人。


 代理商。


 問屋。


 どれも、他人の商売に関わる仕事。


 でも。


 他人のために動いているからといって、同じ権限を持つわけではない。


 同じ責任を負うわけでもない。


 同じ義務を課されるわけでもない。


 そして。


 私は今日、ひとつだけ確信しました。


 商法は、商売をする人間を、肩書だけでは判断しない。


 誰の名前で契約したのか。


 誰のために動いたのか。


 誰が利益を受け、誰が責任を負うのか。


 そこまで見ているのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり商法って面白いですね!」


「面白がってる暇があったら相談票を取れ!」


「はいっ!」


 私は新しい相談票を開きました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 杉浦織物の工場にも、今ごろ明かりが灯っているのでしょう。


 反物を織る機械の音。


 働く人たちの声。


 そして、次の注文を待つ澄江さん。


 その小さな工場を守ったのは。


 百万円の契約書に書かれていた。


 たった一つの名前でした。


 ――売主、遠州商品取次商会。


 その名前を、自分で書いた以上。


 単なる窓口だったという言い訳だけでは、商法上の立場から逃れられない。


 それが、今回の答えだったのです。


 私は机の上の藍色の手ぬぐいを、もう一度手に取りました。


 丁寧に織られた糸。


 細かい模様。


 一つ一つの糸が、複雑に絡み合っています。


 商売も、きっと同じなのでしょう。


 売る人。


 買う人。


 紹介する人。


 代理する人。


 自分の名前で取引する人。


 いくつもの人間が関わって、一つの取引が生まれる。


 でも。


 糸の一本一本に役割があるように。


 商法もまた、それぞれの立場を区別しているのです。


 だから。


 次からは、契約書を見たら、真っ先に確認することにします。


 誰が契約当事者なのか。


 誰のために働いているのか。


 どんな義務を負っているのか。


 だって。


 百万円の責任を左右するほど。


「仲立人」「代理商」「問屋」という三つの言葉は、似ているようで、まったく違うのです。

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