[商法・仲立人、問屋、代理商の違い]法理編 こはるノート
人の商売を手伝ったからといって、その人の借金まで背負うわけではありません。
でも。
自分の名前で契約したなら、話は別です。
さらに。
特定の商人から継続して仕事を任されているなら。
その信頼を裏切って、勝手に競争相手のために働くことも許されない場合があります。
仲立人。
代理商。
問屋。
どれも、他人の取引に関わる商人です。
けれど。
誰のために働くのか。
誰の名前で契約するのか。
誰が権利や義務を負うのか。
そして、どんな義務を守らなければならないのか。
そこには、決定的な違いがあります。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「商法って、意地悪ですよね」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「また法律に文句か」
「だって、仲立人と代理商と問屋ですよ?」
「ああ」
「全員、人の商売を手伝ってるじゃないですか!」
「そうだな」
「なのに、権限も責任も違うんです!」
「当たり前だろ」
「しかも!」
私は六法を叩きました。
「問屋を『といや』って読むんですよ!」
「そこは昨日も騒いでただろ」
「普通は『とんや』じゃないですか!」
「商法上の意味は違うんだよ」
「読み方まで試験の罠なんです!」
相馬先輩はため息をつきました。
「お前な」
「はい」
「昨日の杉浦さんの事件、もう忘れたのか?」
私は手を止めました。
杉浦澄江さん。
亡くなったご主人から引き継いだ、小さな織物工場。
六人の従業員。
百万円分の浴衣用反物。
商品は売れたのに、代金が入ってこなかった事件です。
そこには、三人の商人が登場しました。
浜名商事の大沢。
東海販売企画の黒田。
遠州商品取次商会の黒田正彦。
大沢は、買主を紹介した仲立人。
黒田は、杉浦織物の代理商。
遠州商品取次商会は、自分の名で販売した問屋。
そして。
黒田は、杉浦さんの許可なく、弟の商会のためにも同じ織物取引を引き受けていました。
「……忘れてません」
私は答えました。
「なら、その三人で覚えろ」
「はい!」
相馬先輩は新聞を畳みました。
「今日は何を整理する?」
私は鉛筆を握りました。
「四つです!」
「四つ?」
「定義、権限、報酬請求権、競業避止義務!」
先輩が頷きます。
「よし」
そこへ、奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……またですか」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
まず、私はノートに大きく書きました。
――仲立人。
「仲立人とは、他人間の商行為の媒介をすることを業とする者です!」
「うん」
「商法第五百四十三条ですね」
私は昨日の事件を思い出しました。
浜名商事の大沢さん。
杉浦織物に、京都の買主を紹介しました。
商談の日程を調整し、条件を取り次ぎました。
でも。
大沢さん自身が反物を買ったわけではありません。
反物を売ったわけでもありません。
「つまり、仲立人は、売主と買主を結びつける人なんですね」
「そうだ」
「でも、仲立人が売買契約の当事者になるわけじゃない」
「ああ」
私はノートに書きました。
杉浦織物。
売りたい。
京都の会社。
買いたい。
大沢。
二人を結びつける。
「だから、大沢さんに百万円を請求するのは、基本的に筋違いだったんです」
「そうだな」
「仲立人は、売買契約の代金支払義務を当然に負うわけではありません」
ここで私は少し考えました。
「でも先輩」
「何だ」
「仲立人って、誰のために働くんですか?」
「どういう意味だ」
「代理商みたいに、一つの商人のためだけに働くんですか?」
「いや」
先輩が首を振りました。
「仲立人は、不特定の商人の取引を媒介できる」
「ですよね!」
私は大きく丸をつけました。
不特定。
ここが大切です。
たとえば。
今日は杉浦織物の反物取引を媒介する。
明日は別の織物工場の取引を媒介する。
来週は、別の商人同士の商談を取り持つ。
「それが仲立人なんですね」
「ああ」
「だったら、別の織物工場の取引を媒介しただけで、競業避止義務違反になるわけじゃない」
「そうだ」
私は頷きました。
もちろん。
仲立人だから何をしてもいいわけではありません。
秘密を漏らしたり、不正な行為をしたりすれば、別の法的責任が問題になります。
でも。
代理商に課されるような一般的な法定の競業避止義務が、仲立人にも当然に課されるわけではない。
「ここ、試験で引っかかりそうですね」
「どう引っかかる?」
「『仲立人は、本人の許可がなければ同種の取引を媒介できない』という問題です!」
「で、答えは?」
「誤りです!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は少し嬉しくなりました。
でも。
仲立人には、まだ大事な問題が残っています。
報酬です。
「先輩、仲立人って、誰から報酬をもらうんですか?」
「商法を開け」
「はい!」
私は六法をめくりました。
商法第五百五十条。
仲立人の報酬。
「ここですね!」
仲立人の報酬については、商法に特別な規定があります。
原則として、売主と買主の双方が、等しい割合で負担する仕組みです。
「えっ!」
私は思わず顔を上げました。
「双方ですか?」
「ああ」
「売主だけじゃないんですか?」
「仲立人は、両者の間を取り持つ仕事だからな」
なるほど。
たとえば。
取引を媒介した報酬が十万円だったとします。
売主と買主が、それぞれ五万円ずつ負担する。
これが商法上の原則です。
もちろん、報酬の負担について別の取り決めがある場合などは、その内容も確認する必要があります。
「でも先輩」
「何だ」
「紹介しただけで、すぐ報酬を請求できるんですか?」
「そこが問題だ」
先輩が笑いました。
「昨日、最後に電話があったろ」
「あ!」
私は思い出しました。
商品取引を媒介したのに、手数料を払ってもらえないという相談。
私はそのとき、相馬先輩に言われました。
――結約書を確認しろ。
「そうです!」
私はノートに書きました。
――結約書。
けつやくしょ。
契約の成立を確認するための書面です。
仲立人は、媒介した取引が成立した場合、商法の定める手続に従って結約書を作成し、当事者に交付するなどの義務を負います。
「仲立人の報酬請求権は、その手続とも結びついているんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
単に、
「俺が紹介してやった!」
と叫べば、いくらでも報酬を請求できる。
そんな制度ではありません。
取引が成立したこと。
必要な手続が行われたこと。
そして、報酬の根拠や金額。
それらを確認する必要があります。
「所長」
「何だ」
「結約書って、そんなに大事なんですか?」
所長が帳簿から顔を上げました。
「大事だ」
「なぜです?」
「言った、言わないを残すな」
私ははっとしました。
商人同士の取引。
金額。
数量。
納期。
当事者。
それらが曖昧なままでは、後で争いになります。
「仲立人は、取引をつなぐだけじゃなくて、成立した内容を明確にする役割もあるんですね」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
なるほど。
結約書。
これは単なる紙ではありません。
当事者双方にとって、取引内容を確認する大切な証拠になるのです。
「ただし、こはる」
所長が続けました。
「仲立人が絶対に売買上の責任を負わない、と思うな」
「え?」
「当事者の氏名を相手方に示さなかった場合などには、特別な履行責任が問題になる」
「あ!」
商法第五百四十九条。
私は慌てて確認しました。
仲立人は、原則として売買契約の当事者ではありません。
しかし、当事者の一方の氏名などを相手方に示さなかった場合には、自ら履行する責任を負うという特則があります。
「……例外があるんですね」
「そうだ」
「仲立人だから絶対に責任ゼロ、も間違い」
所長が頷きました。
「法律は、そこまで単純じゃない」
私は赤線を引きました。
仲立人。
原則、媒介だけ。
売買当事者にはならない。
ただし、商法上の特別な責任に注意。
よし。
これで一つ目です。
「次は代理商です!」
私は新しいページを開きました。
――代理商。
「特定の商人のために、継続的にその営業に属する取引の代理または媒介をする独立した商人です!」
「うん」
「昭和六十三年の商法では、第四十六条ですね!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
私は昨日の黒田を思い出しました。
東海販売企画。
代表取締役、黒田隆三。
三年前から、杉浦織物の販売を任されていました。
継続的に旅館や呉服店を回り、注文を取り、販売活動を行う。
「だから黒田は、代理商だったんですね」
「ああ」
「仲立人とは違って、特定の商人との継続的な関係がある」
「そうだ」
私は大きく書きました。
仲立人。
不特定の商人の取引を媒介する。
代理商。
特定の商人のために継続して活動する。
「これ、まず最初の区別ですね!」
「そうだな」
「ただし」
私は自分で言いました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だ」
「代理商は、一社としか契約できないという意味ではありません!」
「ほう」
「本人の許諾や競業制限に反しない範囲なら、複数の商人の代理商になることも考えられます」
先輩が頷きました。
「そのとおりだ」
私は少し得意になりました。
特定の商人。
これは、不特定多数の取引を単発で媒介する仲立人との違いを示しています。
代理商が必ず一社専属でなければならない、という意味ではありません。
大切なのは。
継続的な関係。
そして。
その関係から生じる義務です。
「ところで、先輩」
「何だ」
「代理商には二種類ありますよね」
「ああ」
「締約代理商と媒介代理商です!」
私はノートに二つの言葉を書きました。
――締約代理商。
――媒介代理商。
「締約代理商は、本人を代理して契約を締結する権限を持つ代理商です」
「うん」
「媒介代理商は、取引の成立を取り持つ代理商です」
「そうだ」
たとえば。
杉浦織物が黒田に、反物の売買契約を締結する代理権を与えた場合。
黒田が、その権限の範囲内で杉浦織物の代理人として契約する。
その契約の効果は、原則として杉浦織物に帰属します。
一方。
黒田が注文を取り次ぎ、契約そのものは杉浦織物と買主が結ぶ場合。
これは媒介の仕事です。
「どちらも代理商ですが、権限の範囲が違いますね」
「そうだ」
「だから、代理商なら何でも勝手に契約できるわけじゃない」
「ああ」
「契約を締結する代理権があるかどうか、確認が必要です!」
私は大きく丸をつけました。
ここ、大切です。
肩書に「代理商」と書いてある。
だから、その人にはあらゆる契約を締結する権限がある。
そんなことにはなりません。
「昨日の黒田も、大きな注文には杉浦さんの承認が必要でしたね」
「ああ」
「だから、具体的な代理権の範囲が重要なんです」
片桐所長が頷きました。
「そのとおり」
私は続けました。
「しかも、代理商が本人のために有効に代理契約を締結したとしても、売買代金を支払う義務が当然に代理商自身に生じるわけではありません」
「そうだ」
「契約の効果は、原則として本人に帰属する」
私は鉛筆を置きました。
なるほど。
ここで、問屋との違いが少し見えてきました。
「じゃあ、代理商の報酬は?」
相馬先輩が聞きました。
「あります!」
「根拠は?」
「商法第五百十二条です!」
私は答えました。
商人が、その営業の範囲内で他人のために行為をした場合、相当な報酬を請求できるという商法上の基本的な考え方です。
もちろん、代理商契約で報酬額や支払条件を定めていれば、その合意内容も重要になります。
「黒田も、杉浦さんから報酬をもらう約束だったんですよね」
「ああ」
「だから、代理商として正当に仕事をした分の報酬まで、当然になくなるわけじゃない」
「そうだ」
「でも、競業避止義務に違反した場合は別の問題が生じる」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
私は背筋を伸ばしました。
いよいよ。
今回の事件の、もう一つの核心です。
「代理商には、競業避止義務があります!」
私はノートに大きく書きました。
――競業避止義務。
本人の許諾なく、自己または第三者のために、本人の営業の部類に属する取引を行うことなどを禁じる規律です。
「昭和六十三年では、旧商法第四十八条ですね!」
「そうだ」
「現代では、商法第二十八条!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「また未来の話か」
「大事なんです!」
私は慌てて説明しました。
昭和六十三年の商法では、代理商の規定は第四十六条以下に置かれていました。
一方。
現代の商法では、代理商の規定が第27条以下に整理されています。
そして、競業の禁止は第二十八条です。
「つまり、規律の基本的な考え方は引き継がれていますが、条文番号は違います!」
「そうだ」
「だから、昭和の内容証明に商法第二十八条と書いたら大失敗です!」
「昨日、やりかけた奴がいたな」
「……いましたね」
「誰だ?」
「未来から来たうっかり者です」
「何だそりゃ」
私は苦笑しました。
でも、本当に危険です。
条文の趣旨が同じように見えても。
時代によって、条文番号や用語が違う。
それを確認しないまま書類を作れば、間違った根拠を相手に示してしまう。
法律書類では、許されない失敗です。
「所長」
「何だ」
「やっぱり、当時の六法を確認することって大事ですね」
「当然だ」
所長は静かに言いました。
「法律は、知っている条文ではなく、適用される条文を使え」
私はその言葉に赤線を引きました。
「じゃあ、黒田の事件を考えます」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「黒田は何をした?」
「杉浦織物の代理商でした」
「うん」
「ところが、杉浦さんの許可なく、弟が経営する遠州商品取次商会のためにも織物商品の販売先や買入先を継続して開拓していました」
「そうだ」
「さらに、三十万円の特別販売協力報酬を受け取っていました」
「で?」
「だから、競業避止義務が問題になります!」
先輩が頷きました。
「ただし、何が決め手だ?」
私は少し考えました。
「……三十万円を受け取ったこと?」
「それだけか?」
「あっ」
違います。
お金を受け取った。
それだけで、当然に競業避止義務違反が成立するわけではありません。
重要なのは。
本人の許諾があったか。
黒田自身が、自己または第三者のために何をしたか。
それが、杉浦織物の営業の部類に属する取引に当たるか。
そして、条文の禁止する行為に該当するか。
「つまり、相手が弟だから違法、でもないんですね」
「そうだ」
「親族の会社と関係があるだけでは足りない」
「ああ」
「具体的な競業行為を確認する必要がある!」
私は頷きました。
だから、片桐所長は最初から黒田を違反者と断定しなかった。
報酬明細書。
協力契約書。
杉浦さんの許諾の有無。
実際の販売経路。
それらを一つずつ確認した。
「法律は、怪しいという印象だけで責任を決めないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「証拠で決めるんだよ」
私はノートに書きました。
――競業避止義務違反は、具体的な行為と許諾の有無を確認する。
そして、もう一つ。
「先輩、競業禁止に違反したら、本人は必ず損害賠償を請求できるんですか?」
「請求が認められるかは、要件次第だ」
「ですよね」
旧商法には、競業禁止違反に関して、損害額の推定などを含む特別な規律が置かれていました。
しかし。
違反を主張すれば、何の立証もなく相手の全財産を奪える。
そんな制度ではありません。
違反行為。
利益の帰属。
損害や請求の根拠。
それらを検討する必要があります。
「だから昨日、杉浦さんは弁護士に相談することにしたんですね」
「ああ」
「行政書士が内容証明で事実確認や本人の意思に基づく通知書の作成を支援して、その後の紛争対応は弁護士へ」
「そういうことだ」
私は頷きました。
書類が証拠をつなぎ。
法律が問題点を明らかにする。
でも、裁判や紛争の代理人として戦う仕事には、資格上の境界があります。
その線を守ることも、実務の大切なルールなのです。
「さて」
相馬先輩が煙草を消しました。
「最後が、一番間違えやすいぞ」
「問屋ですね!」
「ああ」
私はページをめくりました。
――問屋。
私は大きく書きました。
――自己の名をもって、他人のために物品の販売または買入れをすることを業とする者。
「商法第五百五十一条です!」
「そうだ」
「そして、読み方は!」
「……」
「といや!」
「もう分かったよ!」
私は笑いました。
でも。
この「問屋」。
本当にややこしいのです。
日常生活では、問屋と書けば「とんや」。
卸売業者を指すことが多いですよね。
ところが。
商法上の問屋は「といや」。
単なる卸売業者とは、取引の構造が違います。
「先輩、普通のとんやは、どうやって儲けるんですか?」
「商品を仕入れて、売るんだろ」
「そうです!」
私はノートに数字を書きました。
仕入価格。
百円。
販売価格。
百二十円。
差額。
二十円。
「普通の卸売業者は、自分のために商品を仕入れ、自分のために売って利益を得ます」
「ああ」
「でも、商法上の問屋は違うんです!」
私は次の例を書きました。
委託者。
杉浦織物。
問屋。
遠州商品取次商会。
買主。
京都の旅館用品会社。
「遠州商品取次商会は、自分の名前で反物を売りました」
「うん」
「でも、その取引は杉浦さんのためです」
「そうだ」
「だから、商品を自分で仕入れて転売する普通の卸売業者とは違う」
私は大きく丸をつけました。
これが、取次。
他人のために、自分の名で取引する仕組みです。
「じゃあ、こはる」
相馬先輩が言いました。
「遠州商品取次商会が、京都の会社に反物を売った」
「はい」
「売買契約の売主は誰だ?」
「遠州商品取次商会です!」
「杉浦さんじゃないのか?」
「違います!」
私は答えました。
「遠州商品取次商会が、自分の名前で売買契約を結んでいますから!」
「よし」
「商法第五百五十二条ですね!」
私は六法を開きました。
問屋は、他人のためにした販売または買入れによって、取引の相手方に対し、自ら権利を取得し、義務を負います。
ここが決定的です。
「だから、京都の買主に代金を請求する権利も、売買契約上は遠州商品取次商会に帰属するんですね」
「そうだ」
「反対に、売主として商品を引き渡す義務なども負います」
「ああ」
私は頷きました。
問屋は。
外側の取引では、自分が契約当事者。
しかし。
内側では、委託者のために働いている。
「つまり、二つの法律関係があるんです!」
私はノートに書きました。
外側。
遠州商品取次商会と京都の買主。
売買契約。
内側。
杉浦織物と遠州商品取次商会。
取次委託契約。
「ここを分けないといけないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
私は昨日の事件を思い出しました。
京都の買主は、既に百万円を支払っていました。
遠州商品取次商会に。
売買契約上の売主に対してです。
「だから、京都の買主にもう一度百万円を払えとは言えなかったんですね」
「そうだ」
「問題は、遠州商品取次商会が受領した代金を杉浦さんに精算しなかったことです」
「ああ」
私は指を折りました。
代金百万円。
取次手数料五万円。
契約で認められた追加費用は確認されていない。
精算すべき金額。
九十五万円。
「そして、それが支払われていなかった!」
「そうだ」
「だから、内容証明で取次委託契約に基づく精算を求めたんですね」
片桐所長が頷きました。
「そのとおり」
私は深く息を吐きました。
なるほど。
昨日はただ、
「代金を払わない悪い商人!」
と思っていました。
でも。
法律関係を整理すると。
売買代金の支払義務を負う人と。
委託者に対して精算義務を負う人は、必ずしも同じではありません。
誰に。
何を。
どの契約に基づいて求めるのか。
そこが重要だったのです。
「所長」
「何だ」
「問屋は、取引相手が代金を払わなかった場合、どうなるんですか?」
所長が顔を上げました。
「いい質問だ」
……!
珍しい。
今日は褒められました。
「商法第五百五十三条を見ろ」
「はい!」
私は六法を開きました。
そこには、問屋の担保責任に関する規定がありました。
「……あ!」
問屋は、委託者のために行った売買について、相手方が債務を履行しない場合、原則として自ら履行する責任を負います。
ただし、別段の意思表示や慣習がある場合には、例外が認められます。
「ええっ!」
私は思わず叫びました。
「問屋って、そこまで責任を負うんですか!」
「ああ」
「じゃあ、もし京都の買主が百万円を払わなかった場合でも……」
「条件によっては、問屋自身が委託者に対して履行責任を負う」
「……!」
私は背筋が寒くなりました。
問屋。
自分の名前で契約する。
だから、外側では権利義務の主体になる。
しかも、委託者との関係でも、特別な担保責任が問題になる。
「これ、単に『問屋は仲介する人』って覚えていたら、大間違いですね」
「そうだ」
所長が短く言いました。
「名前を出して商売するというのは、そういうことだ」
私は頷きました。
問屋は、契約の外側にいる人ではありません。
自分自身が契約の当事者として立つ。
その重さがあるのです。
「ところで先輩」
「何だ」
「問屋の報酬請求権は?」
「ある」
「商法第五百十二条ですね!」
「ああ」
私はノートに書きました。
問屋も、他人のために商売として取次を行っています。
だから報酬を得ることができます。
昨日の事件では。
取次手数料。
五万円。
それが契約で定められていました。
「だから、百万円を全部杉浦さんに渡せと言うのも、契約内容を確認しないと間違いになるんですね」
「そうだ」
「正当な手数料や費用の精算が必要です」
私は頷きました。
そして。
「問屋には、代理商と同じ競業避止義務があるんですか?」
「一般的にはない」
「ですよね!」
私は大きく書きました。
――問屋には、代理商と同じ一般的な法定の競業避止義務はない。
問屋は、不特定多数の委託者のために活動できます。
もちろん、契約で競業を制限される場合や、信義則などに基づく責任が問題になる場合はあります。
でも。
商法が代理商に課す競業禁止を、そのまま問屋にも当てはめてはいけません。
「ということは、遠州商品取次商会が別の織物工場の商品を取り扱っても、それだけで違法とは言えません」
「そうだ」
「でも黒田は?」
「杉浦の代理商として、許可のない競業行為が問題になった」
「そうです!」
私は大きく頷きました。
これです。
これが、今回の最大のひっかけ。
同じように他人の商品の販売に関わっていても。
代理商と問屋では、競業禁止に関する規律が違う。
だから。
肩書を間違えると、法律上の評価も間違えるのです。
「さて」
相馬先輩が言いました。
「ここまで覚えたなら、三人を並べてみろ」
「はい!」
私はノートの中央に、三つの名前を書きました。
仲立人。
代理商。
問屋。
「まず、仕事の種類です!」
仲立人は、媒介。
代理商は、媒介または代理。
問屋は、取次。
「次、誰のために働くか!」
仲立人は、不特定の商人の取引を媒介する。
代理商は、特定の商人のために継続して働く。
問屋は、不特定多数の委託者のために取次を行える。
「次、権利義務の帰属!」
仲立人は、原則として媒介した売買の当事者にはならない。
代理商も、本人のために行った代理・媒介によって、当然に自分が売買当事者になるわけではない。
問屋は、自分の名で契約するため、相手方との関係では自ら権利義務を負う。
「そして、報酬!」
仲立人は、商法第五百五十条。
代理商と問屋は、商人の報酬請求権に関する商法第五百十二条を基本として考える。
ただし、契約や特別規定も確認する。
「最後に、競業避止義務!」
私は声を張りました。
「商法上、一般的な競業禁止が課されるのは代理商です!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
「仲立人と問屋には、代理商と同じ法定の競業避止義務はありません!」
「正解」
私は拳を握りました。
やった。
三つの違い。
今なら説明できます。
「ちなみに先輩」
「何だ」
「商業使用人の支配人にも競業避止義務がありますよね」
「ああ」
「だから、世の中で競業禁止の義務を負うのが代理商だけ、という意味ではありません!」
先輩が頷きました。
「そのとおりだ」
私は赤線を引きました。
仲立人・代理商・問屋の三者比較では、代理商が競業避止義務のある者として重要。
でも、商法全体で見れば、支配人などにも競業に関する制限がある。
「ここも、試験の選択肢では要注意ですね!」
「そうだな」
私は嬉しくなりました。
単なる丸暗記ではありません。
制度の理由を考えれば、覚えられます。
仲立人は、不特定の商人同士をつなぐ仕事。
問屋は、不特定の委託者のために自分の名で売買する仕事。
代理商は、特定の商人から継続して取引を任される仕事。
だからこそ。
代理商には、その信頼関係を守るための競業禁止がある。
なるほど。
法律って、ちゃんと理由があるんですね。
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい?」
「昭和六十三年と、お前の知っている新しい商法は、同じなのか」
私は一瞬、固まりました。
……!
来ました。
転生者泣かせの質問。
「同じ部分もありますけど、違います!」
「言ってみろ」
「はい!」
私はノートに二つの時代を書きました。
昭和六十三年。
そして。
現代。
「まず、昭和六十三年には、独立した会社法がありません」
「そうだ」
「株式会社の規定は商法第二編にありました」
「ああ」
「有限会社は有限会社法です」
相馬先輩が頷きました。
「それがどう関係する?」
「法律の整理の仕方が、今とは大きく違うんです」
私は説明しました。
現代では。
株式会社や持分会社の基本的な仕組みは、独立した会社法にまとめられています。
でも、昭和六十三年には、そのような単独の会社法は存在しません。
そして、商法総則の代理商に関する規定も、現在とは条文番号が異なっていました。
昭和の代理商。
旧商法第四十六条以下。
競業避止義務。
旧商法第四十八条。
現代の代理商。
商法第二十七条以下。
競業禁止。
商法第二十八条。
「ただし!」
私は自分で言いました。
「仲立人や問屋の制度が、現代では全部会社法に移ったわけではありません!」
相馬先輩が首をかしげました。
「そうなのか?」
「はい!」
ここが重要です。
会社法は、会社という組織の設立や運営などを定める法律です。
一方。
仲立人や問屋のような商取引の制度は、現代でも商法の中に残っています。
「だから、会社法が独立したからといって、商法がなくなったわけではないんです」
「なるほどな」
「商人の取引ルールとして、商法は今も重要なんですよ」
私は頷きました。
商法。
会社法。
似ています。
でも、同じではありません。
会社法は、会社という組織の仕組みを扱う。
商法は、商人や商行為に関する規律を扱う。
もちろん、両者は深く関係しています。
でも。
すべての商取引のルールが会社法に移されたわけではない。
「これ、現代の受験生も間違えそうですね」
「お前がまず間違えるな」
「はい……」
私は苦笑しました。
「じゃあ、どうして会社法は独立したんですか?」
私はノートの余白に、大きく書きました。
――なぜ、法律は変わるのか。
昭和六十三年。
株式会社を設立するには、原則として七人以上の発起人が必要でした。
取締役も三人以上。
監査役も必要。
現代のような、一人で設立できる株式会社とは大違いです。
「先輩」
「何だ」
「今って、会社を作るのが大変ですよね」
「株式会社なら、それなりの人数が要るな」
「発起人七人ですよ!」
「そうだ」
「一人で商売したい人には、かなり大きな壁です」
私は考えました。
小さな商売を始めたい。
でも、株式会社を作るには人が足りない。
そこで。
親戚。
知人。
従業員。
名義だけ借りて、頭数を揃える。
そんな問題も生じやすかったのです。
「もちろん、名前を貸しただけなら何をしてもいい、という話ではありません」
「ああ」
「役員などの地位に就けば、その立場に応じた責任が問題になります」
私は頷きました。
会社法制は、その後、社会の変化に合わせて何度も改正されました。
そして、平成十七年に会社法が制定され、平成十八年から施行されます。
会社のルールを独立した法律に整理し、企業の規模や実態に応じた制度を整えたのです。
現代では、一人で株式会社を設立することもできます。
取締役一人の株式会社も、機関設計の条件によっては認められます。
設立時の最低資本金も、一律に高額な金額を要求されるわけではありません。
合同会社という会社形態もあります。
「……便利になったんですね」
私は呟きました。
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「なった?」
「あ、いえ!」
危ない。
未来の話です。
「仮に、そういう時代が来たら便利だろうな、と!」
「変な奴だな」
私は笑ってごまかしました。
でも。
制度が簡素化されても、変わらないものがあります。
他人の名前を使うなら、その権限を確認する。
自分の名前で契約するなら、その責任を負う。
継続して他人の商売を任されるなら、その信頼を守る。
そういう基本的な考え方です。
「法律の形は変わっても、商売の責任まで消えるわけじゃないんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「そうだ」
私はその言葉を書きました。
――制度は変わる。だが、誰が何を約束したかは、いつの時代も重要。
「よし」
相馬先輩が言いました。
「確認問題だ」
「はい!」
「第一問」
先輩は指を一本立てました。
「Aは、BとCの売買契約を媒介した。A自身には契約を締結する代理権がない。このAは?」
「仲立人です!」
「ただし、業として他人間の商行為を媒介していることが前提だな」
「はい!」
「第二問」
指が二本になります。
「Aは、特定の商人Bのために、継続的に売買契約の締結を代理している。Aは?」
「代理商です!」
「種類は?」
「締約代理商!」
「よし」
「第三問」
先輩は机を叩きました。
「Aは、Bから商品販売を委託され、A自身の名前でCに商品を売った。Aは?」
「問屋です!」
「契約当事者は?」
「Aです!」
「誰のために売った?」
「Bです!」
「よし」
私は笑いました。
ここまでは完璧。
しかし。
「第四問」
先輩がにやりとしました。
「代理商Aは、本人Bの許可なく、自己のためにBの営業に属する取引を行った。競業禁止に違反するか?」
「原則として問題になります!」
「根拠条文は?」
「昭和六十三年の旧商法第四十八条!」
「現代は?」
「商法第二十八条!」
「よし」
私は拳を握りました。
やった。
今回の最重要論点。
覚えました。
「第五問」
先輩が続けました。
「仲立人には、代理商と同じ一般的な法定の競業避止義務があるか?」
「ありません!」
「問屋は?」
「同じく、代理商と同じ一般的な法定の競業避止義務はありません!」
「よし」
私は得意になりました。
しかし。
「第六問」
先輩が言いました。
「問屋は、他人のために売った商品について、買主が代金を払わなかった場合、委託者に一切責任を負わない」
「誤りです!」
私は即答しました。
「商法第五百五十三条!」
「説明しろ」
「問屋には、相手方が債務を履行しない場合、原則として自ら履行する担保責任があります!」
「例外は?」
「別段の意思表示や慣習がある場合です!」
先輩が頷きました。
「よし」
私は思わず笑いました。
楽しい。
昨日までは、似たような三つの言葉だったのに。
今は。
それぞれの立場が、はっきり見えます。
誰が契約するのか。
誰が報酬を受け取るのか。
誰が競業禁止を守るのか。
それらを考えれば、三者を区別できるのです。
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートを見直しました。
仲立人。
代理商。
問屋。
最初は、全部「商売を手伝う人」だと思っていました。
でも。
昨日の事件を思い出せば、もう混同しません。
浜名商事の大沢さん。
買主を紹介した仲立人。
東海販売企画の黒田。
杉浦織物のために継続して働く代理商。
遠州商品取次商会。
自分の名で反物を売った問屋。
そして。
杉浦さんの工場。
六人の従業員。
百万円の取引。
あの事件では、三者の立場を区別することで、正しい請求先と問題となる義務が見えてきました。
「所長」
「何だ」
「商法って、冷たい法律じゃないですね」
所長が顔を上げました。
「どういう意味だ」
「最初は、商人のための難しいルールだと思っていました」
「うん」
「でも、違いました」
私は机の上の藍色の手ぬぐいを見ました。
杉浦さんが持ってきてくれたものです。
細い糸が、丁寧に織り込まれています。
「誰が契約したのかを明確にすることで、真面目に働いた人が代金を受け取れる」
「そうだ」
「信頼を裏切る代理商には、その行為に応じた責任を問える」
「ああ」
「仲立人にも、正当に仕事をしたなら報酬を得られる仕組みがある」
私は微笑みました。
「ちゃんと、人を守ってるんですね」
片桐所長は短く頷きました。
「商売も、人間がするものだからな」
その言葉が、胸に残りました。
法律の条文。
契約書。
内容証明。
それらの向こうには、必ず人がいる。
工場を守ろうとする人。
家族を養う人。
取引先を探す人。
そして。
他人の信頼を利用して、利益を得ようとする人。
商法は、その人たちの関係を整理するために存在している。
だからこそ。
誰が、どの立場で、何をしたのか。
それを見極めることが大切なのです。
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「今日の一行を書け」
「はい!」
私はノートの最後のページを開きました。
鉛筆の先を整えます。
そして。
ゆっくり書きました。
――仲立人は「つなぐ」、代理商は「特定の商人に仕える」、問屋は「自分の名で他人のために契約する」。競業禁止は代理商!
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「ただし」
「え?」
「代理商は使用人じゃねえぞ」
「あっ!」
私は慌ててノートを見ました。
――特定の商人に仕える。
確かに。
この表現だと、雇われている使用人のように見えるかもしれません。
「代理商は、独立した商人なんですよね」
「そうだ」
「じゃあ、書き直します!」
私は消しゴムを取りました。
そして、もう一度。
――仲立人は「媒介」、代理商は「特定商人の代理・媒介」、問屋は「自己名義の取次」。競業禁止は代理商!
「今度こそ!」
先輩が頷きました。
「よし」
やった。
これなら完璧です。
私は大きく丸をつけました。
今日の一行。
たぶん、一生忘れません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、今日の勉強会で何時間使った?」
「え?」
「三時間くらいか?」
「そうですね」
「じゃあ、その時間の報酬は?」
私は首をかしげました。
「報酬?」
「ああ」
「私、見習いですけど……」
先輩がにやりと笑いました。
「商法第五百十二条、覚えたんだろ?」
「はい!」
「商人が営業の範囲内で他人のために行為をしたら、相当な報酬を請求できる」
「そうです!」
「で、お前は商人か?」
……。
私は固まりました。
「……違います」
「そうだな」
「私は行政書士事務所の見習いです」
「ああ」
「じゃあ、私が先輩に三時間勉強を教えてもらったことについて、商法第五百十二条が当然に適用されるわけじゃありませんね」
「そういうことだ」
私は悔しくなりました。
「でも先輩!」
「何だ」
「三時間も私に教えてくれたんですよ?」
「ああ」
「先輩だって、何か報酬をもらってもいいんじゃないですか?」
先輩が少し驚いた顔をしました。
「……何だ、急に」
「だって、商法って、働いた人の報酬を守る法律でもあるんでしょう?」
私は笑いました。
「先輩、今日、すごく働いてましたよ!」
相馬先輩はしばらく黙りました。
そして。
「じゃあ、こはる」
「はい!」
「お前が代わりに掃除しろ」
「……え?」
「それが俺への報酬だ」
「ちょっと待ってください!」
「何だ」
「それ、勝手に決めてません?」
「嫌なのか?」
「嫌です!」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ契約不成立だな」
「そうですよ!」
私は腕を組みました。
「先輩、商法を勉強したばかりなのに、ずるいです!」
「何がだ」
「報酬は、何でも一方的に決められるわけじゃありません!」
「そうだな」
「しかも私は、先輩の仲立人でも代理商でも問屋でもありません!」
「分かってるよ」
「だったら、掃除は関係ないです!」
そのとき。
奥から片桐所長の声がしました。
「こはる」
「はい!」
「掃除を頼む」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「所長!」
「何だ」
「今、商法上の報酬について議論していたところなんです!」
「そうか」
「ですから!」
所長は帳簿を閉じました。
「掃除は、事務所の業務分担だ」
「……!」
「仲立人でも、代理商でも、問屋でもない」
私は黙りました。
確かに。
そのとおりです。
法律関係が違えば、適用されるルールも違う。
仲立人の規定を、見習いの掃除当番に持ち込むことはできません。
「……分かりました」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
「いい返事だ」
所長が頷きました。
相馬先輩は笑いをこらえています。
「でも先輩!」
「何だ!」
「掃除が終わったら、もう一問出します!」
「まだやるのかよ!」
「次は、問屋の介入権です!」
「何で俺まで試験を受けるんだ!」
「勉強会です!」
「勝手に決めるな!」
私は笑いながら床を掃き始めました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
杉浦織物の機械は、今日も反物を織っているのでしょう。
売る人。
買う人。
紹介する人。
代理する人。
自分の名前で取引する人。
それぞれの役割があって、商売は成り立つ。
そして。
その役割を正しく区別できれば、守れるものがあります。
小さな工場の売上げ。
従業員の給料。
商人同士の信頼。
そして、正当に働いた人の報酬。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――仲立人は「媒介」、代理商は「特定商人の代理・媒介」、問屋は「自己名義の取次」。競業禁止は代理商!
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、商法の重要論点を復習してたんです!」
「復習は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私は商法第五百五十二条の問屋じゃありません!」
「知ってるよ!」
「だから、先輩の掃除義務まで私に帰属しません!」
「誰もそんなこと言ってねえ!」
……なるほど。
問屋の権利義務の帰属を理解できても。
それだけでは、掃除当番を免れることはできないようです。
残念ながら。
商法第五百五十二条は、私の箒を取り上げてはくれないのでした。
でも。
昨日、杉浦さんの九十五万円を取り戻す糸口になったあの条文は。
きっと、これから先も忘れません。
だって。
自分の名前で契約するということは。
単に契約書の署名欄に名前を書くことではない。
その名前に伴う権利と義務を、引き受けるということなのです。
そして。
誰かのために働くということは。
自由に振る舞うだけでなく、その立場に応じた約束を守るということでもある。
仲立人。
代理商。
問屋。
三つの制度が教えてくれたのは。
商売における責任の所在でした。
私は箒を握り直しました。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり、商法って面白いですね!」
「だったら、さっさと掃除を終わらせろ!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も、商法の勉強は続きます。
ただし。
次からは。
人の商売を手伝っている人を見たら、最初に確認することにします。
その人は。
仲を取り持っているだけなのか。
特定の商人のために代理や媒介をしているのか。
それとも、自分の名前で取引しているのか。
そこを見極めてから、契約書を読む。
だって。
たった一つの立場の違いで。
百万円の責任も、守るべき義務も、まったく変わってしまうのですから。
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