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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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601/701

[商法・運送人]現場編 「荷物が消えても運賃は払え」の嘘。嵐に消えた荷物と、運送会社が隠した一枚の受領記録

挿絵(By みてみん)

 荷物は、届いて初めて意味がある。


 たとえ、それが何百万円もする商品でも。


 たとえ、運送会社が立派なトラックを持っていても。


 約束した相手に届かなければ。


 その荷物は、ただの「行方不明」です。


 けれど。


 荷物が届かなかったとき、運送賃はどうなるのでしょうか。


 運送会社が悪くなくても、払わなければいけないのでしょうか。


 そして。


 運送会社が荷物を壊したのに、


「うちは悪くない」


 と言い張ったら。


 誰が、それを証明しなければならないのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、商法の中でも少し地味な分野に出会いました。


 運送営業。


 荷物を運ぶ商売です。


 正直に言います。


 行政書士試験の受験生だった頃。


 この分野を読んだとき、私は思いました。


 ――荷物を運ぶだけなのに、そんなに法律が必要?


 でも。


 その考えは、この日、木っ端みじんに砕かれることになります。


 なぜなら。


 荷物を運ぶということは。


 誰かの商売を、誰かの手に預けるということだったからです。


「助けてください。運送会社に、代金を全部取られそうなんです」


 朝九時。


 事務所に飛び込んできた女性は、そう言いました。


 年齢は四十歳くらい。


 紺色の作業着。


 指先には、細かな擦り傷があります。


 何かを作る仕事をしている人の手でした。


「落ち着いてください。どういうことですか?」


 私が椅子を勧めると、女性は大きな封筒を机に置きました。


「うちは、精密部品を作っている町工場なんです」


 名前は、森下美代子さん。


 四十一歳。


 駅から少し離れた工業団地で、夫と一緒に小さな金属加工会社を営んでいます。


 会社名は、森下精機有限会社。


 従業員八人。


 主に、自動車部品や工作機械に使われる精密な金属部品を製造しているそうです。


「先週、名古屋のお得意先に部品を送ったんです」


「はい」


「ところが、届かなかったんです」


「全部ですか?」


「三つの木箱を送ったんですけど……」


 美代子さんは封筒から書類を取り出しました。


 納品書。


 請求書。


 運送契約に関する控え。


 そして。


 一枚の運賃請求書。


 私は金額を見ました。


「……十二万円?」


「はい」


「運送賃が?」


「そうです」


 三つの大型木箱。


 精密加工した金属部品。


 特殊な荷台と固定器具が必要になるため、通常より高い運送賃だったそうです。


「でも、荷物は届いていないんですよね?」


「一つは届きました」


「一つ?」


「はい。ただし、中身が全部壊れていました」


「……え?」


 私は顔を上げました。


 美代子さんは続けました。


「残りの二つは、途中でなくなったそうです」


 私は少し固まりました。


 つまり。


 三つ発送した。


 一つは壊れて届いた。


 二つは消えた。


 ……全滅ではありませんか。


「それなのに、運送会社は十二万円を請求してきたんです」


「どういう説明なんですか?」


「運んだんだから、運賃は払え、と」


 私は請求書を見つめました。


 そこには大きな文字で、


 ――運送賃十二万円。支払期限厳守。


 と書かれています。


 さらに、赤い判子。


 ――再請求。


「しかも……」


 美代子さんの声が震えました。


「部品の損害については、一円も払わないって」


「一円も?」


「はい」


「理由は?」


 美代子さんは別の紙を差し出しました。


 運送会社からの回答書。


 差出人。


 東海急送株式会社。


 代表取締役社長。


 黒岩剛三。


 そこには、こう書かれていました。


 ――本件運送品の滅失及び毀損は、天候不良その他の不可抗力によるものであり、当社に責任はない。


 ――また、当社は運送業務を実施しているため、運送賃全額の支払義務は存続する。


 ――従って、運送賃十二万円を速やかに支払われたい。


 ……。


 私は、思わず声を上げました。


「ちょっと待ってください!」


 美代子さんがびくっとします。


「あ、すみません」


 私は紙を指差しました。


「これ、おかしくありませんか?」


「やっぱり、そうですよね?」


「だって、不可抗力だから荷物について責任を取らないって言いながら、運賃は全部払えって……!」


 そこへ。


「こはる」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「はい」


「まだ怒るな」


「でも!」


「まず、何が起きたかを分けろ」


「分ける?」


「なくなった荷物と、壊れた荷物だ」


 私は瞬きをしました。


 相馬先輩は、机の上に木箱を三つ並べるような仕草をしました。


「一番。二番。三番」


「はい」


「全部、同じ理由でなくなったのか?」


 美代子さんが首を振りました。


「いいえ」


「詳しく聞かせてください」


 先輩の声が、少し低くなりました。


 事情は、こうでした。


 森下精機は、名古屋の工作機械メーカーに納入する部品を三つの木箱に詰めました。


 一番の木箱。


 金属製の精密シャフト。


 二番の木箱。


 工作機械用の特殊歯車。


 三番の木箱。


 特注の軸受部品。


 それぞれ百万円前後の製品です。


 合計。


 三百二十万円。


「三百二十万円……!」


 私は息を呑みました。


 小さな町工場にとって、簡単に失える金額ではありません。


「材料費だけじゃないんです」


 美代子さんが言いました。


「従業員が、毎晩遅くまで残って作った部品なんです」


「……はい」


「ようやく完成して、出荷したのに」


 彼女は膝の上で拳を握りました。


「納品先には、もう一度作ってほしいと言われています」


「それは……」


「作り直す材料も、すぐには買えません」


 私は黙りました。


 会社の売上。


 従業員の給料。


 次の材料の仕入れ。


 一つの荷物が届かないだけで、全部が止まってしまう。


 それが商売なのです。


「それで、荷物はどうなったんですか?」


 相馬先輩が聞きました。


「一番と二番は、先週の大雨で流されたと言われました」


「流された?」


「途中で橋が通行止めになって、荷物を積んだ車が迂回したそうなんです。そのとき川が氾濫して……」


「なるほど」


「運転手さんは無事だったそうです。でも、木箱二つは回収できなかったと」


「三番は?」


「三番は別の車に積み替えたらしいんです」


「……ほう」


 相馬先輩の眉が動きました。


「その木箱は名古屋まで届いたんです。でも、中の部品が全部曲がっていたんです」


「何か説明は?」


「荷崩れしたと言われました」


「固定が外れたのか?」


「分かりません」


 私は、机の上に三つの丸を描きました。


 一番。


 二番。


 三番。


 全部、同じ事故だと思っていました。


 でも、違います。


 一番と二番。


 大雨による流失。


 三番。


 積み替え後の荷崩れ。


 原因が違う。


 そこには、法律上の大きな違いがありそうです。


「所長」


 相馬先輩が奥へ声をかけました。


「運送営業です」


 帳簿を見ていた片桐所長が、顔を上げました。


「何条だ」


「五百七十六条と、五百七十七条です」


 ……え?


 私は思わず六法を開きました。


 商法第五百七十六条。


 商法第五百七十七条。


 運送品。


 不可抗力。


 運送賃。


 損害賠償。


 なるほど。


 今日は、ここですか。


 商法。


 会社法ではなく。


 運送営業。


「こはる」


 所長が言いました。


「何を考えた」


「はい!」


 私は勢いよく答えました。


「まず、運送契約の内容を確認して、運送人の債務不履行責任を検討します!」


「うん」


「現代の商法だと、物品運送契約について第五百七十条が――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「五百七十条?」


「はい。現代では、物品運送契約の成立について……」


 言いかけて。


 私は止まりました。


 あ。


 しまった。


 またです。


 また、未来の条文を持ち込んでしまいました。


「こはる」


 相馬先輩が怪訝な顔をします。


「商法五百七十条を開け」


「……はい」


 私は昭和六十三年の六法を開きました。


 そこには。


 ――荷送人ハ運送人ノ請求ニ因リ運送状ヲ交付スルコトヲ要ス。


 と書かれていました。


 ……運送状?


「先輩」


「何だ」


「物品運送契約の成立についての条文では……?」


「ねえよ。ここは運送状だ」


「ですよね!」


「何が『ですよね』だ」


 私は額を押さえました。


 現代の商法は、運送営業に関する規定が大きく整理されています。


 でも。


 昭和六十三年には、当然、その後の改正はありません。


 同じ五百七十条でも。


 書いてあることが違う。


 これは危険です。


 非常に危険です。


「お前、最近妙なことばかり言うな」


「未来の受験生なので……」


「何?」


「いえ! 将来有望な受験生なので!」


「自分で言うな」


 相馬先輩が呆れました。


 片桐所長は、六法を閉じずに言いました。


「こはる」


「はい」


「今の法律を見ろ」


「はい……」


「ここでは、今の商法が武器だ」


 私は深く頷きました。


 そうです。


 どれだけ現代の知識があっても。


 昭和六十三年の契約には、昭和六十三年に適用される法律を確認しなければならない。


 そして。


 この時代の商法には。


 運送人を縛る、厳しい規定がありました。


「ところで、美代子さん」


 片桐所長が尋ねました。


「運送状は作成しましたか?」


「運送状……?」


「運送会社から求められて、荷物の内容や宛先を書いた書類です」


「ああ、それならあります」


 美代子さんは封筒を探しました。


 そして。


 一枚の控えを取り出します。


 ――運送状。


 荷送人。


 森下精機有限会社。


 荷受人。


 名古屋精工株式会社。


 到達地。


 愛知県名古屋市。


 運送品。


 精密金属部品。


 重量。


 合計八百四十キログラム。


 荷造り。


 木箱三個。


 記号。


 MS―一。


 MS―二。


 MS―三。


 作成地。


 湖西市。


 作成年月日。


 昭和六十三年某月某日。


 そして、荷送人の署名。


「きちんと書いてありますね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「そうだ。運送状ってのは、荷送人が運送人に渡す書類だ」


「はい」


「何を、どこへ、誰に運ぶか。それをはっきりさせる」


 なるほど。


 運送会社が間違えずに荷物を届けるための情報。


 でも。


 相馬先輩は、まだ書類を見ています。


「美代子さん」


「はい」


「貨物引換証はありますか?」


「貨物……?」


「運送会社が発行した証書です」


「あ、それもあります!」


 美代子さんは、さらに一枚の紙を取り出しました。


 ――貨物引換証。


 私は驚きました。


「両方あるんですね!」


「夫が、万一のことがあると困るから、運送会社に発行してもらったんです」


 相馬先輩が頷きました。


「賢明でしたね」


 私は貨物引換証を覗き込みました。


 運送品。


 木箱三個。


 記号。


 MS―一、二、三。


 荷受人。


 名古屋精工株式会社。


 荷送人。


 森下精機有限会社。


 運送賃。


 十二万円。


 作成地。


 湖西市。


 作成年月日。


 昭和六十三年某月某日。


 そして。


 東海急送株式会社の署名。


「先輩!」


「何だ」


「これ、運送状と似ていますね!」


「似てるが、同じじゃねえ」


「え?」


「誰が作る?」


 私は二枚の書類を見比べました。


 運送状。


 荷送人が作る。


 貨物引換証。


 運送人が作る。


「……あっ!」


「気づいたか」


「作る側が逆です!」


「そうだ」


 私は思わず机を叩きそうになりました。


 なるほど!


 名前が似ているから混乱しがちですが。


 運送状は、荷送人から運送人へ。


 貨物引換証は、運送人から荷送人へ。


 しかも。


 この貨物引換証には、運送会社自身の署名がある。


 つまり。


 運送会社が、記載された貨物を引き受けたことを示す、重要な証書なのです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「そこを見ろ」


「どこですか?」


「三個」


 私は指で追いました。


 ――木箱三個。


「はい」


「会社は三個を引き受けたと、自分で書いている」


「……はい!」


 所長は静かに続けました。


「その後、どう扱ったかを調べる」


 私は胸が高鳴りました。


 書類。


 ただの紙だと思っていたもの。


 でも。


 これがあることで、何を引き受けたのかという出発点が明確になる。


 相馬先輩が言いました。


「もっとも、貨物引換証は単なる受領メモじゃねえ。貨物についての権利にも関わる重要な証券だ。発行された以上、その扱いにも気をつけろ」


「はい!」


「今はまず、原本を大切に保管しておけ」


 美代子さんは、慌てて頷きました。


「分かりました」


 私は六法を見ました。


 商法第五百七十条。


 運送状。


 商法第五百七十一条。


 貨物引換証。


 受験生の頃は、名前が似ていて嫌いだった二つ。


 でも。


 現場では。


 誰が何を約束し、何を引き受けたかを確かめる、最初の鍵になっていました。


 その日の午後。


 私と相馬先輩は、東海急送株式会社へ向かいました。


 駅から車で二十分。


 大きな倉庫。


 何台ものトラック。


 事務棟の壁には、


 ――安全・迅速・確実。


 と大きく書かれています。


 私はその標語を見上げました。


 安全。


 迅速。


 確実。


 ……今回、どれも怪しいのですが。


「余計なこと言うなよ」


 相馬先輩が釘を刺しました。


「まだ何も言ってません!」


「顔に出てる」


「そんなに?」


「かなりな」


 受付で事情確認を申し入れると、しばらくして、応接室へ通されました。


 現れたのは。


 五十代後半の大柄な男。


 黒い背広。


 金色の腕時計。


 太い眉。


 東海急送株式会社の社長。


 黒岩剛三です。


「何だ、行政書士か」


 いきなり、それでした。


 黒岩社長は椅子にどっかりと座りました。


「森下精機の件だろ?」


「はい。運送の経過について、事実関係を確認させていただきたいのですが」


 相馬先輩が丁寧に言います。


「もう説明しただろ」


「確認したい点があります」


「何を?」


「一番と二番の木箱が流失した際の状況、それから三番の木箱が破損した経緯です」


 黒岩社長は鼻で笑いました。


「大雨だよ」


「はい」


「記録的な大雨だ。川が氾濫した。荷物が流された。それだけだ」


「三番の木箱については?」


「同じだ」


 私は首をかしげました。


 同じ?


「三番は別の車に積み替えたんですよね?」


 思わず聞いてしまいました。


 黒岩社長が私を見ます。


「何だ、お嬢ちゃん」


「朝比奈こはるです」


「学生か?」


「見習いです」


「じゃあ、黙って聞いてな」


 ……。


 この人。


 かなり嫌なタイプです。


「荷物が壊れたのは、雨のせいだ」


 黒岩社長は続けました。


「道路が悪かった。仕方ねえだろ」


「積み替え後の固定状況は確認できますか?」


 相馬先輩が尋ねました。


「そんなもん、いちいち覚えてねえよ」


「作業記録は?」


「何でそこまで調べなきゃならねえ」


「破損原因を確認するためです」


 黒岩社長は机を叩きました。


「いいか!」


 大声。


「うちは運送屋だ!」


「はい」


「客の荷物を運んでやってるんだ!」


「はい」


「途中で雨が降ろうが、道が崩れようが、運送した以上、運賃はもらう!」


 ……。


 運んでやってる。


 なるほど。


 そういう考え方ですか。


「それに!」


 黒岩社長は身を乗り出しました。


「荷物が壊れたっていうなら、うちが悪いって証明してみろ!」


 私は思わず息を止めました。


「森下の工場で、最初から壊れていたかもしれねえだろ!」


「……」


「荷造りが悪かったかもしれねえ!」


「……」


「うちの運転手が乱暴に扱ったって証拠でもあんのか!」


 黒岩社長は勝ち誇ったように笑いました。


「ないだろ?」


 私は拳を握りました。


 確かに。


 この時代には、現代のような配送追跡システムもありません。


 トラックにドライブレコーダーが必ず付いているわけでもない。


 倉庫に防犯カメラがあるとも限らない。


 しかも。


 荷物が壊れた瞬間を、荷送人が見ているはずもありません。


 だから。


 運送会社が、


「うちが悪い証拠を出せ」


 と言ったら。


 普通の荷送人は、困ってしまう。


 ……と思った、そのとき。


「黒岩社長」


 相馬先輩が静かに言いました。


「そのお考えを、会社としての正式な説明と理解してよろしいですか」


「ああ?」


「運送中の注意について、御社からは証明する必要がない、ということですね」


「そうだ!」


 黒岩社長は胸を張りました。


「文句があるなら裁判でも何でもしろ!」


 相馬先輩は頷きました。


「分かりました」


「何?」


「お考えは確認できました」


 先輩は立ち上がりました。


「失礼します」


 私は驚きました。


「先輩!」


「行くぞ」


「でも!」


「必要なことは聞いた」


 黒岩社長は大笑いしました。


「ははは! 行政書士じゃ、そんなもんか!」


 ……。


 腹が立ちます。


 本当に腹が立ちます。


 でも。


 相馬先輩は、振り返りませんでした。


「先輩!」


 会社を出た瞬間、私は声を上げました。


「何で言い返さなかったんですか!」


「何を?」


「今の社長ですよ!」


「ああ」


「証明しろって!」


「言ってたな」


「こっちが全部証明しないといけないみたいな言い方でした!」


「そうだな」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


 そして、にやりと笑いました。


「こはる」


「はい?」


「誰が証明するって?」


「……え?」


「商法五百七十七条、読んでみろ」


 私は六法を取り出しました。


 商法第五百七十七条。


 運送人の損害賠償責任。


 条文を目で追います。


 そして。


 私は固まりました。


「……先輩」


「何だ」


「これ……」


「ああ」


「逆じゃないですか?」


 相馬先輩が笑いました。


「そうだよ」


 私は、もう一度条文を読みました。


 運送人は。


 自分や、運送のために使った者が。


 運送品の受取、引渡し、保管、運送について。


 注意を怠らなかったことを証明しなければ。


 運送品の滅失、毀損、延着について。


 損害賠償責任を免れない。


 ……。


 私は顔を上げました。


「つまり!」


「うん」


「荷物が運送中に壊れたとき、運送会社は、自分たちが注意を怠らなかったことを証明しないと、責任を免れないんですね!」


「そういうことだ」


「じゃあ!」


「ああ」


「さっきの社長、証明する側を間違えてます!」


 相馬先輩は笑いました。


「だから、言わせておいた」


 ……怖い。


 相馬先輩。


 ものすごく怖い。


「でも先輩」


「何だ」


「本当に注意を尽くしていたら、責任を免れるんですよね?」


「そうだ」


「運送会社が絶対に賠償しなければいけないわけではない」


「そこは間違えるな」


 私は頷きました。


 運送人だから必ず責任を負う。


 そうではありません。


 運送人が、必要な注意を怠らなかったことを証明できれば、免責される。


 ただし。


 それを証明する側に、運送人が立つ。


 ここが重要なのです。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「何でそういう法律になってると思う?」


「……何で?」


「荷物を預かったあと、誰が管理してる?」


「運送会社です」


「客はトラックの中を見られるか?」


「見られません」


「積み替え作業は?」


「見られません」


「倉庫の保管方法は?」


「それも……」


「そうだ」


 相馬先輩は煙草に火をつけました。


「荷物を預かった側が、その扱いを一番よく知ってるんだよ」


 私は、言葉を失いました。


 そうか。


 これが、商法の考え方。


 荷送人は、商品を渡した瞬間から、荷物を自分で管理できなくなる。


 その間の情報を握っているのは、運送会社です。


 だから。


 事故が起きたとき。


 必要な注意を尽くしたことの証明を、運送人に求める。


 ……なるほど。


 商法。


 ただの商売のルールではありません。


 情報を持っている側に、相応の責任を負わせる法律でもあるのです。


 事務所に戻ると、片桐所長が待っていました。


「どうだった」


「相手は、全部が不可抗力だと主張しています」


 相馬先輩が答えました。


「証拠は?」


「まだ示されていません」


「そうか」


 所長は、運送状と貨物引換証を並べました。


「では、分けるぞ」


「はい」


 私も椅子に座りました。


 所長は紙に大きく書きました。


 ――運送賃。


 ――損害賠償。


「こはる」


「はい!」


「同じ問題か」


「……違います」


「どう違う」


 私は少し考えました。


「運送賃は、荷物を運ぶことに対する報酬です」


「うん」


「損害賠償は、荷物がなくなったり壊れたりしたことによる損害を、誰が負担するかという問題です」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「混ぜるな」


 私はハッとしました。


 そうです。


 荷物がなくなったからといって。


 運賃の問題と。


 損害賠償の問題は、同じではない。


「まず、一番と二番」


 所長が言いました。


「本当に不可抗力で滅失したとしたら、運送賃はどうなる」


 私は六法を開きました。


 商法第五百七十六条。


 そこには、はっきり書かれていました。


 運送品の全部または一部が、不可抗力によって滅失したとき。


 運送人は、その運送賃を請求することができない。


 すでに受け取っていた運送賃は、返還しなければならない。


「……あっ!」


 私は声を上げました。


「所長!」


「何だ」


「社長の言い分、自分で自分の首を絞めてませんか?」


 相馬先輩が吹き出しました。


「気づいたか」


「だって!」


 私は立ち上がりました。


「あの社長、自分で『不可抗力だ』って言ってました!」


「そうだな」


「だったら、五百七十六条です!」


「うん」


「不可抗力で荷物が滅失したなら、運送賃を請求できない!」


 私は思わず笑ってしまいました。


 何ということでしょう。


 黒岩社長は。


「不可抗力だから、俺は悪くない!」


 と言っていた。


 でも。


 不可抗力だとすれば。


 今度は運送賃の請求が問題になる。


「つまり、不可抗力を盾にすれば、何でも請求できるわけじゃないんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


 ただし。


「こはる」


「はい」


「雨が降っただけで、不可抗力になるわけではない」


「……あ」


「本当に避けられない災害だったのか。運送経路や保管方法に問題がなかったか。そこは確認が必要だ」


「はい!」


 そして。


 所長は、もう一つ重要なことを言いました。


「不可抗力で運送賃を請求できないことと、荷物の価額を賠償する義務があることも、同じではない」


 私は頷きました。


 まさにそこです。


 不可抗力によって滅失し、運送人が必要な注意を尽くしていたのなら、損害賠償責任を免れる場合がある。


 しかし。


 だからといって、滅失した荷物について運送賃まで当然にもらえるわけではない。


 この二つを分ける。


 それだけで、黒岩社長の主張には大きな穴ができるのです。


「では、三番」


 所長が続けました。


「壊れて届いた木箱だ」


「はい!」


「運送中の荷崩れだったとしたら」


「商法五百七十七条です!」


 私は即答しました。


「運送会社が、受取、引渡し、保管、運送について注意を怠らなかったことを証明できなければ、損害賠償責任を免れません!」


「そうだ」


「でも、所長」


「何だ」


「もう一つ、気になることがあります」


 私は、三番の木箱の写真を見ました。


 美代子さんが持参した、破損後の写真です。


 木箱の角。


 深い傷。


 固定金具の跡。


 それから。


 木箱の横に、一本の黒い帯が写っていました。


「これ……」


 私は写真を近づけました。


「荷締めベルトですよね?」


 相馬先輩が覗き込みます。


「ああ」


「でも、これ」


「何だ」


「切れてませんか?」


 写真の端。


 黒い帯の先端が、ちぎれたようになっています。


 相馬先輩の目つきが変わりました。


「所長」


「何だ」


「積み替え記録を取ります」


 所長が頷きました。


「運転手本人の記録も確認しろ」


「はい」


 私は胸が高鳴りました。


 商法の条文。


 写真。


 運送状。


 貨物引換証。


 そして、現場の記録。


 全部が、少しずつつながり始めていました。


 翌日。


 事務所に、一人の男性が訪れました。


 五十歳くらい。


 日に焼けた顔。


 制服の上着を腕に抱えています。


「東海急送の運転手をしている、杉浦です」


 男性は深々と頭を下げました。


「森下さんの荷物のことで……」


 私は驚きました。


「運転手さん?」


「はい」


 相馬先輩が椅子を勧めました。


「どうぞ」


 杉浦さんは、しばらく黙っていました。


 そして。


「私、どうしても気になって」


 そう言いました。


「三番の木箱のことですか?」


 私が聞くと、杉浦さんは頷きました。


「はい」


 彼の話によると。


 三番の木箱は、豪雨による道路規制のため、途中の営業所で別のトラックに積み替えられたそうです。


 ところが。


 積み替え作業を急いだため。


 本来使うべき固定器具が足りないまま、出発してしまった。


「私、言ったんです」


 杉浦さんが俯きました。


「このままだと危ないって」


「誰に?」


「営業所の所長にです」


「それで?」


「時間がないから出せ、と」


 ……。


 私は言葉を失いました。


「途中で急ブレーキを踏んだとき、荷台から大きな音がしました」


「……」


「後で見たら、木箱が倒れていました」


 杉浦さんは拳を握りました。


「固定が足りなかったんです」


 相馬先輩が静かに尋ねました。


「記録はありますか」


「あります」


 杉浦さんは、制服の内ポケットから手帳を取り出しました。


 運転日誌。


 昭和六十三年某月某日。


 積み替え時刻。


 出発時刻。


 休憩地点。


 そして。


 一行の記載。


 ――固定ベルト不足。営業所長へ申告。出発指示あり。


 私は息を呑みました。


「これ……!」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


 私はさらに聞きました。


「どうして、今まで会社は説明しなかったんですか?」


 杉浦さんは、苦しそうな顔になりました。


「社長に言われたんです」


「何を?」


「全部、雨のせいにしろって」


 ……。


 私は唇を噛みました。


「正直に話したら、仕事を辞めてもらうかもしれないって」


 杉浦さんは、俯いたまま続けました。


「でも……」


「はい」


「あの部品、森下さんの工場で作ったんですよね」


「そうです」


「うちの女房も、昔、ああいう工場で働いていました」


 杉浦さんの声が震えました。


「一つ作るのに、どれだけ大変か知ってるんです」


 私は黙って聞いていました。


「それを、うちの会社が壊した」


 杉浦さんは顔を上げました。


「なのに、最初から壊れてたかもしれないなんて……」


 その目は赤くなっていました。


「そんな嘘、つきたくありません」


 片桐所長が静かに言いました。


「杉浦さん」


「はい」


「お話を記録に残してよろしいですか」


「……はい」


「会社からの圧力も含めて、正確に」


「お願いします」


 こうして。


 杉浦さんは、自分が見聞きした事実を確認し、日誌の該当部分の写しと、署名入りの事実確認書を残してくれました。


 所長は、原本を本人に返しました。


「杉浦さん」


「はい」


「今後、会社から不利益な扱いを受けるおそれもあります。必要なら、労働問題を扱う専門家にも相談してください」


 杉浦さんは深く頭を下げました。


「ありがとうございます」


 その背中を見送りながら。


 私は、少し胸が苦しくなりました。


 悪いのは、運送会社という名前の箱ではありません。


 その中で。


 危険だと知りながら出発を命じた人。


 事故の原因を隠そうとした人。


 そして。


 正直に話そうとしている運転手を脅した人。


 会社という法人は。


 結局、生身の人間の判断で動いている。


 片桐所長が以前、言っていたことを思い出しました。


「さて」


 相馬先輩が書類を揃えました。


「次は、一番と二番だ」


「はい!」


「こっちは、まだ本当に不可抗力だったのか分からねえ」


「そうですね」


 私は運送経路図を広げました。


 大雨。


 橋の通行止め。


 川の氾濫。


 木箱二つの流失。


 ここには、運転手の操作や保管方法に問題があったのかもしれない。


 それとも。


 本当に避けられない災害だったのかもしれない。


「先輩」


「何だ」


「こっちは、今のところ無理に責任があるって断定できませんよね」


「ああ」


「でも、不可抗力なら運送賃の問題が残る」


「そうだ」


「三番は、注意を怠らなかったことを証明できるかが問題になる」


「そのとおり」


 私は紙に大きく書きました。


 一番・二番。


 不可抗力による滅失か。


 運送賃請求権の有無。


 三番。


 運送中の毀損。


 運送人の注意義務と損害賠償責任。


「……よし!」


 私は拳を握りました。


「ようやく整理できました!」


「遅えよ」


「ひどい!」


 片桐所長が、静かに口を開きました。


「一番と二番は、運送経過を確認する。三番は、損害の金額を確かめる」


「はい」


「荷物の価格を裏付ける資料も必要だ」


「見積書、発注書、納品書ですね!」


「そうだ」


「あと、作り直しの費用も!」


「因果関係と損害の範囲を分けて確認しろ」


「はい!」


 私は勢いよくメモを取りました。


 相馬先輩が、私のノートを覗き込みます。


「こはる」


「はい?」


「もう一つ」


「何ですか?」


「荷送人の過失だ」


「……あ」


 商法第五百七十六条第二項。


 運送品が、その性質や瑕疵、または荷送人の過失によって滅失した場合。


 運送人は、運送賃の全額を請求することができる。


「たとえば」


 相馬先輩が言いました。


「中身が漏れるような容器に液体を入れて送ったら?」


「荷送人の荷造りが原因なら、運送賃全額を請求できる場合があります」


「そうだ」


「今回も、荷造りが悪かったと本当に証明できる事情があるなら、結論が変わる可能性がある」


「そこだ」


 私は頷きました。


 商法は、運送会社を一方的にいじめる法律ではありません。


 荷送人にも責任がある。


 運送人にも責任がある。


 どちらの原因で、何が起きたのか。


 それによって、結論が変わる。


 だから。


 事実を分ける。


 証拠を集める。


 そのうえで、条文を使う。


 ようやく、事件の全体像が見えてきました。


 三日後。


 片桐行政書士事務所の机には、何枚もの書類が並んでいました。


 森下精機の発注書。


 納品書。


 商品価格の資料。


 運送状。


 貨物引換証。


 破損した木箱の写真。


 杉浦運転手の事実確認書。


 そして。


 大雨当日の道路規制に関する記録。


 一番と二番については、運送会社から追加の経過資料が届いていました。


 橋の通行止め。


 急激な河川の増水。


 荷物を積んだ車両の退避。


 車両自体は安全な場所へ移動できたものの、荷物を一時的に移した保管場所が浸水したこと。


 ただし、そこへ置いた判断が適切だったかについては、なお確認が必要でした。


「完全な不可抗力とは、まだ断定できませんね」


 私が言うと、片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「でも、運送会社自身は、不可抗力だと主張している」


「うん」


「だったら、少なくともその主張を前提とした運送賃請求には、五百七十六条で問題を指摘できますね」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 無理に全部の責任を認めさせようとしない。


 相手の説明を、法律に照らして正確に検討する。


 それが大切なのです。


「美代子さんには、こちらの資料を確認してもらう」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「本人の意思で通知書を出す。俺たちは、その書面を整える」


「はい!」


 行政書士は、弁護士ではありません。


 争いのある民事事件について、依頼人に代わって示談交渉を行うことはできません。


 でも。


 依頼人の意思と事実関係を確認し、法律上の根拠を整理した書類を作ることはできます。


 内容証明郵便。


 その文章は、感情ではなく。


 事実。


 証拠。


 法律。


 この三つで組み立てるのです。


「こはる」


 所長が言いました。


「原案を書け」


「はい!」


 私は鉛筆を握りました。


 そして。


 森下精機有限会社の名義で発送する、通知書の原案を書き始めました。


 一時間後。


 片桐所長が、私の原案を読みました。


 そして。


 赤鉛筆を取りました。


 ……嫌な予感。


「ここ」


「はい」


「『運送会社は、荷物が壊れた場合、必ず損害賠償責任を負う』」


「はい!」


「違う」


 赤線。


「ええっ!」


「五百七十七条をもう一度読め」


 私は慌てて読み直しました。


 そして、気づきました。


「あ……」


「何だ」


「注意を怠らなかったことを証明できれば、責任を免れるんでした」


「そうだ」


 所長は頷きました。


「次」


「はい」


「『豪雨で荷物がなくなったため、運送会社は三百二十万円の全額を賠償する義務がある』」


 赤線。


「……これも違いますね」


「違う」


「運送賃の問題と、損害賠償の問題は別です」


「そうだ」


 所長は原案を置きました。


「事故があれば、何でも賠償させられるわけじゃない」


「はい」


「逆に、不可抗力を主張すれば、運賃まで当然にもらえるわけでもない」


「はい!」


 私は書き直しました。


 事実を分ける。


 条文を分ける。


 請求の根拠を分ける。


 そして。


 ようやく。


 一通の通知書が完成したのです。


 ――通知書。


 宛先。


 東海急送株式会社。


 代表取締役 黒岩剛三殿。


 通知人。


 森下精機有限会社。


 代表取締役 森下正一。


 第一。


 通知人は、昭和六十三年某月某日、貴社に対し、精密金属部品を梱包した木箱三個の運送を委託した。


 貴社は、右木箱三個について貨物引換証を作成し、交付している。


 第二。


 本件木箱のうち二個は、運送途中の豪雨に伴う浸水事故によって滅失したと、貴社は説明している。


 貴社の主張どおり、右滅失が不可抗力によるものであるならば、商法第五百七十六条第一項に基づき、右滅失に係る運送賃を請求することはできない。


 したがって、運送賃全額を当然に請求できるとする貴社の見解について、法的根拠及び運賃の内訳を明らかにされたい。


 第三。


 残る木箱一個については、運送途中の積み替え及び運送中に損傷が発生したことを示す資料が存在する。


 商法第五百七十七条によれば、運送人は、運送品の受取、引渡し、保管及び運送に関し、自己又は運送のために使用した者が注意を怠らなかったことを証明しなければ、運送品の毀損につき損害賠償責任を免れない。


 第四。


 本件損傷については、積み替え時に固定器具が不足していた旨の記録及び関係者の事実確認書が存在する。


 貴社が損害賠償責任を否定するのであれば、運送過程において必要な注意を怠らなかったとする具体的根拠を明らかにされたい。


 第五。


 通知人は、本件運送品の滅失及び毀損により重大な損害を受けている。


 よって、貴社に対し、本件事故の経過、運送賃請求の根拠及び損害賠償責任について、書面による回答を求める。


 なお、問題の解決に至らない場合には、関係資料を弁護士に提出し、適切な法的措置を検討する。


 以上。


 私は読み終えました。


「……どうでしょう」


 相馬先輩が頷きました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ただし、これで終わりじゃねえ」


「はい」


「この通知書は、相手の責任を勝手に確定させるものじゃない」


「はい」


「こちらが把握した事実と、適用される法律上の問題を明らかにするものだ」


 私は頷きました。


 そうです。


 内容証明は、裁判所の判決ではありません。


 送っただけで、相手の財産を差し押さえられるわけでもない。


 でも。


 相手が自信満々に言い張っていたことが。


 法律上、どんな問題を抱えているのか。


 それを、正確に示すことはできる。


 片桐所長は、通知書を見ながら言いました。


「一番大事なのは、ここだ」


「どこですか?」


「第四項」


 私は目を落としました。


 ――固定器具が不足していた旨の記録。


 ――関係者の事実確認書。


 所長が静かに言いました。


「法律だけじゃ、人は動かん」


「……はい」


「事実があるから、法律が効く」


 私は、その言葉を胸に刻みました。


 そして。


 森下夫妻が内容を確認し、会社名義で署名押印した通知書は、内容証明郵便として発送されました。


 その二日後。


 東海急送株式会社。


 社長室。


 黒岩剛三は、届いた封筒を開けました。


「……何だ、これは」


 内容証明郵便。


 差出人。


 森下精機有限会社。


 黒岩は鼻で笑いました。


「また行政書士の入れ知恵か」


 しかし。


 一枚目を読んだところで、笑みが消えました。


 ――商法第五百七十六条。


「……何?」


 さらに。


 ――不可抗力によって運送品が滅失した場合、運送賃を請求することはできない。


 黒岩は眉をひそめました。


「そんな馬鹿な……」


 彼は電話を取りました。


「おい! 顧問の先生を呼べ!」


 しばらくして、会社の顧問弁護士と電話がつながりました。


『どうされました?』


「変な通知が来たんだ!」


『どんな内容ですか』


「雨で荷物が流されたら、運賃を取れないって!」


『……商法五百七十六条ですか』


「知ってるのか!」


『はい。旧商法の運送営業に関する規定ですね』


 黒岩は黙りました。


『不可抗力による滅失だという御社の説明が正しいのであれば、運送賃の扱いを再検討する必要があります』


「……!」


『ただし、事故原因や各荷物の運賃の扱いなど、具体的な契約関係も確認する必要があります』


「そんな……」


 黒岩は、書面をめくりました。


「じゃあ、壊れた木箱はどうなる!」


『壊れた木箱?』


「うちは悪くねえ! 向こうが、うちの過失を証明できないんだ!」


 電話の向こうで、弁護士が少し黙りました。


『……社長』


「何だ」


『商法五百七十七条は確認されましたか』


「……は?」


『運送人が、必要な注意を怠らなかったことを証明しなければ、責任を免れないとする規定です』


 黒岩の顔から血の気が引きました。


「……うちが証明するのか?」


『そうです』


「向こうじゃなくて?」


『運送中の毀損について、免責を主張するのであれば、御社側の注意義務の履行が問題になります』


「……」


『しかも、通知書にある固定器具不足の記録が事実なら、かなり厳しい問題です』


 黒岩は震える指で、第四項を見ました。


 ――固定器具が不足していた旨の記録。


 ――関係者の事実確認書。


「……誰だ」


 黒岩が呟きました。


「誰が、こんなものを……」


『社長?』


「いや……」


『もし固定が不十分だったと知りながら運送を続けさせたのであれば、会社の責任を否定するのは難しいでしょう』


「……」


『関連記録を保存してください。事実を隠したり、記録を改変したりしてはいけません』


 黒岩は、椅子に崩れるように座りました。


 窓の外。


 倉庫には、何台ものトラックが並んでいます。


 これまで彼は、運転手にも、取引先にも、同じことを言ってきました。


 ――うちが法律だ。


 ――文句があるなら裁判を起こせ。


 ――証拠があるなら出してみろ。


 けれど。


 今、目の前にあるのは。


 怒鳴り声では消せない一枚の紙でした。


 翌朝。


 片桐行政書士事務所に、一本の電話が入りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


 私が受話器を取ると、低い声がしました。


『……黒岩だ』


 私は一瞬、固まりました。


「東海急送の黒岩社長ですか?」


『そうだ』


「お世話になっております」


『……あの通知書の件だ』


 昨日までの威勢がありません。


『森下さんに、回答書を出す』


「はい」


『運送賃の請求は、いったん取り下げる』


 ……!


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩が眉を上げます。


『一番と二番については、事故原因と運賃の扱いを、改めて調べる』


「承知しました」


『三番については……』


 黒岩の声が、さらに小さくなりました。


『うちの積み替え作業に、問題があった』


 私は息を呑みました。


『固定器具が不足していたのは事実だ』


「……はい」


『損害について、会社として対応する』


 私は、受話器を握り直しました。


「その内容を、正式な回答書に記載されるということですね」


『ああ』


 私は相馬先輩に目で確認しました。


 先輩は小さく頷きます。


「ありがとうございます。書面が届きましたら、森下精機さんに確認していただきます」


『……分かった』


 電話を切りました。


 私は思わず立ち上がりました。


「先輩!」


「聞こえてた」


「運賃の請求、取り下げるって!」


「ああ」


「三番の固定不足も認めました!」


「そうだな」


「やりましたね!」


 相馬先輩は、いつものように煙草を取り出しました。


「まだだ」


「え?」


「書面が来てねえ」


「あ……」


「それに、損害の金額も決まってねえ」


「そうでした……」


「でも」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「一歩は進んだな」


 私は大きく頷きました。


 はい。


 確かに。


 昨日まで。


 黒岩社長は、全部を森下精機の責任にしようとしていました。


 それが今。


 会社として、事故の原因を認め始めた。


 法律と証拠が。


 ようやく、動いたのです。


 その後、東海急送から正式な回答書が届きました。


 回答書には。


 三番の木箱について、積み替え作業の固定不備を認めること。


 損害賠償について、会社として対応する意向があること。


 一番と二番については、事故記録を再調査すること。


 そして。


 運送賃十二万円の請求を撤回すること。


 そう記されていました。


 さらに数日後。


 森下精機の顧問税理士から紹介された弁護士が、損害額の確認と解決手続を担当することになりました。


 相馬先輩は、必要な書類を整理しました。


 私も手伝います。


 運送状。


 貨物引換証。


 荷物の写真。


 損害額の資料。


 運転日誌。


 事実確認書。


 そして、内容証明郵便。


 それらを、順番にファイルへ綴じました。


「先輩」


「何だ」


「こうして並べると、すごいですね」


「何が?」


「ただの書類だったものが、全部、事件を説明してるんです」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「荷送人が何を送ったか」


「うん」


「運送人が何を受け取ったか」


「うん」


「途中で何が起きたか」


「そうだ」


「誰が何を説明しなければいけないか」


 先輩が笑いました。


「やっと分かったか」


「はい!」


 私は、最後のファイルを閉じました。


 弁護士に渡す準備が整いました。


 行政書士としてできるところまで。


 事実を整理する。


 書面を作る。


 資料を整える。


 そして、裁判や法律紛争の代理が必要になれば、弁護士へ引き継ぐ。


 それが。


 この事務所の戦い方なのです。


 二週間後。


 森下美代子さんが、再び事務所を訪れました。


 今度は、以前とは違う表情でした。


「ありがとうございました」


 深々と頭を下げます。


「いえ、まだ全部終わったわけでは……」


 私が言うと、美代子さんは首を振りました。


「でも、前に進みました」


「……はい」


「運送会社から、正式に謝罪の手紙が届いたんです」


 彼女は封筒を見せてくれました。


 東海急送株式会社。


 黒岩剛三。


 署名入りの謝罪文。


 会社側は、運送中の固定不備について責任を認め、三番の木箱に関する損害について、弁護士を通じた協議の末、相応の賠償金を支払うことで合意したそうです。


 一番と二番については、河川の急激な氾濫が主因で、保管場所の選択にもやむを得ない事情があったことが資料から確認されました。


 運送人の必要な注意についても検討された結果、こちらは損害賠償責任を追及しないことで決着しました。


 ただし。


 不可抗力による滅失だったため、運送賃は請求されない扱いとなりました。


「三番の分も、結局は運送賃を請求しないことになったそうです」


 美代子さんが言いました。


「会社側からの申し出でした」


 私は頷きました。


 それは法律上の問題を踏まえたうえで、当事者間の解決として決まったことです。


 そして。


 何より。


「工場は、大丈夫ですか?」


 私が尋ねると、美代子さんは笑いました。


「はい」


 その笑顔には、少し疲れが残っていました。


 でも。


 確かな明るさがありました。


「新しい材料を買えました」


「本当ですか!」


「従業員のみんなが、もう一度作ろうって言ってくれたんです」


 私は胸が熱くなりました。


「納期は少し延ばしてもらいましたけど、取引先も待ってくれることになりました」


「よかった……!」


「それから」


 美代子さんは、鞄から小さな箱を取り出しました。


「これ、皆さんでどうぞ」


 中には、お饅頭。


 地元のお菓子屋さんのものでした。


「従業員のみんなからです」


 相馬先輩が、少し困ったような顔になりました。


「そんな、気を遣わなくても」


「いえ」


 美代子さんは笑いました。


「うちの会社、八人しかいませんから」


「……はい」


「たった八人ですけど、みんな家族を抱えてるんです」


 彼女は少しだけ、目を潤ませました。


「荷物が消えたとき、もう駄目かと思いました」


「……」


「でも、みんなで作った部品が、ちゃんと価値のあるものだって分かってもらえた気がして」


 私は言葉を失いました。


 商法。


 運送人。


 運送賃。


 損害賠償。


 試験では、ただの論点です。


 でも。


 現場では。


 荷物が届かなかったという一つの事故が。


 小さな会社の存続を揺るがす。


 従業員の生活を揺るがす。


 家族の未来まで揺るがす。


 そういうことなのです。


 美代子さんが帰ったあと。


 私は窓の外を眺めていました。


 道路を、一台のトラックが走っていきます。


 荷台には、大きな木箱。


 たぶん、どこかの工場で作られた商品です。


 私は、そのトラックを目で追いました。


「先輩」


「何だ」


「今まで、運送会社って、荷物を運ぶだけの仕事だと思ってました」


「だけ?」


「はい」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、今は?」


 私は少し考えました。


「誰かの商売を預かる仕事です」


 先輩は黙っていました。


「荷物を受け取ったら、その向こうには、作った人がいる」


「うん」


「待っている人もいる」


「そうだな」


「だから、運送する側にも責任がある」


 私は、机の上の六法を見ました。


 商法第五百七十六条。


 運送賃。


 商法第五百七十七条。


 運送人の損害賠償責任。


 よく似た数字です。


 でも。


 その意味は、全然違います。


「所長」


 私は奥へ声をかけました。


「何だ」


「今日、運送営業が少し好きになりました」


「そうか」


「はい!」


 片桐所長は、帳簿を閉じました。


「じゃあ、今日の教訓は何だ」


 私は少し考えました。


 そして。


 ノートを開きました。


 ――荷物が消えた理由によって、運賃の運命は変わる。荷物が壊れたとき、運送人は注意を尽くしたことを証明できなければ責任を免れない。


「……できました!」


 私は顔を上げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長えな」


「ええっ!」


「一行じゃねえだろ」


「二つの論点があるんです!」


「知ってるよ」


 私はむっとしました。


 でも。


 これ以上、短くできません。


 だって。


 運賃と損害賠償。


 この二つを混同したら。


 あの黒岩社長と、同じ間違いをしてしまいます。


「じゃあ先輩なら、どうまとめます?」


 私が聞くと、相馬先輩は少し考えました。


 そして。


「荷物は預かった奴が責任を持て。だが、事故の原因はきっちり分けろ」


 ……。


 私は頷きました。


「分かりやすい!」


「だろ?」


「でも、それだと試験で条文を思い出せません!」


「じゃあ自分のを使え!」


「はい!」


 いつものやり取り。


 いつもの事務所。


 でも。


 今日は、少しだけ違いました。


 窓の外のトラックを見る目が、変わったのです。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


 私が受話器を取ると、男性の声がしました。


『あのう……』


「はい」


『荷物を運んでもらったんですが……』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も、こちらを見ます。


『運送会社が、荷物を渡してくれないんです』


「……え?」


『運賃は払ったんです。でも、別の費用が未払いだとかで……』


 私は瞬きをしました。


 荷物を渡さない?


 運送会社が?


『向こうは、法律で留置できるって言うんですけど……』


 ……。


 来ました。


 今度は。


 運送人の留置権?


 それとも、運送品の引渡しをめぐる別の問題?


「先輩」


「何だ」


「運送会社、荷物を渡さないって言ってます」


「聞こえてる」


「法律で留置できるって!」


「そういう権利が問題になることはある」


「ええっ!」


 私は慌てて六法をめくりました。


「先輩!」


「何だよ!」


「運送営業って、まだ終わらないんですか!」


「当たり前だろ!」


「荷物を運ぶだけなのに!」


「だから、だけじゃねえって話を今してただろ!」


 ……。


 確かに。


 そのとおりです。


 運送状。


 貨物引換証。


 運送賃。


 損害賠償責任。


 そして。


 今度は、荷物を引き渡さない権利。


 商法の世界は、思った以上に奥が深い。


 私は受話器を握り直しました。


「すみません。まず、運送契約の内容と、どんな費用を請求されているのかを教えてください」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も、町のどこかで。


 荷物を待つ人がいます。


 荷物を作った人がいます。


 荷物を運ぶ人がいます。


 その一つ一つの約束を。


 商法は、静かに支えています。


 そして。


 私は今日、確信しました。


 運送会社が、


「運んだんだから金を払え」


 と怒鳴っても。


 それだけで、運賃を請求できるとは限らない。


 反対に。


 荷送人が、


「荷物が壊れたんだから全部弁償しろ」


 と怒鳴っても。


 それだけで、運送人の損害賠償責任が確定するわけでもない。


 必要なのは。


 荷物がどうなったのか。


 なぜ、そうなったのか。


 そして。


 誰が、何を証明しなければならないのか。


 そこを正確に見極めること。


 運送状の一行。


 貨物引換証の署名。


 運転日誌の小さな記録。


 その一つが。


 小さな町工場と、そこで働く八人の暮らしを守ることだってあるのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「相談票を取れ!」


「取ってます!」


「ちゃんと聞けよ!」


「聞いてます!」


「今度は何を確認する?」


 私は笑いました。


「何を預かって、どんな約束をして、どうして渡せなくなったのかです!」


「よし!」


 私は鉛筆を握り直しました。


 商法。


 運送営業。


 試験の教科書では地味だったこの分野が。


 今では、少し違って見えます。


 だって。


 誰かが大切に作った荷物を。


 誰かが責任を持って運び。


 誰かが心待ちにして受け取る。


 その当たり前を守るために。


 百年以上前から、法律は存在していたのです。


 ただし。


 法律が守っているのは、トラックでも、木箱でもありません。


 その荷物に託された、人間の約束なのです。

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