[商法・支配人と表見支配人]現場編 「支店長には契約する権限がない」の嘘。百八十万円を踏み倒す社長と、名刺一枚が背負わせた商法の責任
肩書きは、ただの飾りではありません。
名刺に書かれた、たった三文字。
――支店長。
それを信じて契約した人がいたら。
会社は後から、
「そいつには権限がなかった」
と言って逃げられるのでしょうか。
そして。
本物の支配人と、支配人に見えるだけの人間では。
法律上、何が違うのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、会社の役職というものが、こんなにも恐ろしい意味を持つとは知りませんでした。
支配人。
表見支配人。
どちらも、会社の営業を任される人。
けれど。
一方は、裁判のことまで会社を代理できる。
もう一方は、裁判外の行為に限られる。
その違いを知らなかったために。
百八十万円の仕事をした町工場が、倒産寸前まで追い込まれていたのです。
そして、その会社の社長は。
自分が与えた肩書きによって、自分自身の首を絞めることになります。
「百八十万円、払わないって言うんです!」
朝九時。
事務所の扉が、勢いよく開きました。
入ってきたのは、作業着姿の男性。
五十歳くらい。
額には深い皺。
手の甲には、小さな火傷の跡がいくつもありました。
「落ち着いてください」
私は椅子を勧めました。
「お名前を教えていただけますか」
「村瀬鉄工所の村瀬清一です」
村瀬鉄工所。
駅から少し離れた工業団地の一角にある、小さな町工場です。
従業員は六人。
家族経営に近い会社で、機械部品の加工を請け負っているそうです。
「うちは、三十年近く鉄を削ってきました」
村瀬さんは言いました。
「旋盤も、溶接も、何でもやります。でも、今回ばかりは……」
男性は膝の上で拳を握りました。
「給料が払えなくなるかもしれません」
「……え?」
私は背筋を伸ばしました。
百八十万円。
個人にとっても大金です。
でも、従業員六人の町工場にとっては。
材料費。
電気代。
機械の維持費。
そして、従業員の給料。
そのすべてに関わる金額です。
「何があったんですか」
私が尋ねると、村瀬さんは鞄から書類を取り出しました。
発注書。
納品書。
請求書。
そして、名刺。
そこには大きく、こう印刷されていました。
――東海精機株式会社 湖西支店
――支店長 黒田隆一。
「この黒田さんから仕事を頼まれたんです」
村瀬さんが言いました。
「工場の新しい搬送設備に使う金属部品を、特急で作ってほしいって」
「金額は?」
「百八十万円です」
「納期は?」
「三週間」
「短いですね……」
「ええ。だから、うちの職人は毎晩遅くまで働きました」
村瀬さんの声が震えました。
「日曜日も休まずに」
私は発注書を見ました。
会社名。
支店名。
発注日。
品名。
数量。
金額。
そして。
黒田隆一。
支店長の署名と、支店で使われている角印。
「納品は?」
「済んでいます。先月、東海精機の湖西支店へ運びました」
「受領書はありますか」
「あります」
私は受領書を確認しました。
確かに、支店の担当者が受け取っています。
検収済みの印もあります。
「それなら、代金を請求できるはずでは……」
「そう思うでしょう!」
村瀬さんが身を乗り出しました。
「ところが、社長が言うんです!」
村瀬さんは一枚の手紙を差し出しました。
東海精機株式会社。
代表取締役社長。
榊原剛。
その名前の下に、こう書かれています。
――黒田隆一には、百万円を超える取引契約を締結する権限を与えていない。
――本件発注は社内決裁を経ておらず、当社は契約上の支払義務を負わない。
――請求については、黒田個人に対して行われたい。
……。
私は手紙を読み終えました。
そして。
「はあっ!?」
思わず声が出ました。
村瀬さんが、悲しそうに笑います。
「そうなりますよね」
「いや、だって!」
私は発注書を指差しました。
「会社の支店長ですよね!?」
「そうです」
「会社の設備に使う部品ですよね!?」
「そうです」
「ちゃんと納品したんですよね!?」
「そうです!」
「なのに、百万円を超える契約をする権限がなかったから払わない!?」
「そうなんです……」
私は拳を握りました。
そんな。
そんな理屈が通ったら。
取引相手は、会社の内部規則を全部調べなければならなくなります。
この支店長は、いくらまで契約できるのか。
この部長は、何の権限を持っているのか。
社長の決裁が必要なのか。
いちいち確認しなければ、安心して仕事もできない。
それでは、小さな町工場ほど不利です。
「所長!」
私は奥を振り返りました。
「これは、表見支配人です!」
片桐所長が、帳簿から顔を上げました。
「ほう」
「支店長という肩書きを与えた以上、会社は責任を負うはずです!」
「根拠は?」
「会社法第十三条!」
私は勢いよく言いました。
そして。
事務所が、静まり返りました。
「……何法だ?」
相馬先輩が聞きました。
「会社法です!」
「何だ、その法律は」
「え?」
「商法ならそこにあるぞ」
先輩が本棚を指差しました。
「会社について調べたいなら、商法第二編を見ろ」
「……あ」
しまった。
やりました。
またです。
現代の知識。
令和の会社法。
私の頭の中では、会社の支配人について、会社法第十条から第十三条あたりを思い浮かべていました。
でも。
ここは昭和六十三年。
現代の独立した「会社法」は、まだありません。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「お前、会社の法律を勉強してるんだよな」
「はい……」
「株式会社を作るには、発起人が何人必要だ?」
「一人です!」
「七人だ」
「……はい?」
「七人以上」
私は固まりました。
「な、七人!?」
「ああ」
「一人で会社を作れないんですか!?」
「株式会社はな」
「じゃあ、取締役は!?」
「三人以上。監査役も一人以上必要だ」
「えええっ!?」
思わず机に手をつきました。
現代なら。
発起人一人。
取締役一人。
資本金一円。
そんな株式会社を作ることもできます。
合同会社だってあります。
でも、この時代には。
合同会社という会社形態もありません。
「先輩!」
「何だ」
「一人で小さな会社を始めたい人はどうするんですか!」
「個人商人として営業する道もあるし、有限会社という選択肢もある。株式会社なら当時の要件を満たせ」
「厳しい!」
「法律に言え」
私は頭を抱えました。
昔の株式会社。
何という高いハードル。
そりゃあ、名義だけの発起人や、形ばかりの役員を集めたくなる人も出てくるでしょう。
もっとも、人数さえ揃えれば適法になるというわけではありません。
名義を借りるやり方には、それ自体に危険がある。
それでも。
会社を作るための入口が、現代とはまるで違うのです。
「で?」
相馬先輩が言いました。
「今は何の話だった?」
「……支店長です」
「そうだ。会社設立で騒いでる場合じゃねえ」
「はい……」
先輩は古い商法の六法を開きました。
「ここだ」
指先が止まります。
商法第四十二条。
表見支配人。
「昭和の商法では、ここを使う」
私は条文を見つめました。
本店又は支店の営業の主任者であることを示す名称を付した使用人。
その者は、当該営業に関する裁判外の行為について、支配人と同様の権限を有するものとみなされる。
ただし、相手方が悪意なら別。
「……これです!」
私は顔を上げました。
令和では会社法第十三条。
昭和では商法第四十二条。
法律の置き場所も番号も違う。
でも。
取引相手を守るという考え方は、ちゃんとこの時代にもある。
「所長!」
「何だ」
「勝てるかもしれません!」
片桐所長は、まだ頷きませんでした。
ただ一言。
「黒田は、本当に支店長だったのか」
私は首をかしげました。
「え?」
「名刺だけか。それとも、実際に支店の営業を取り仕切っていたのか」
……あ。
そこですか。
「相馬」
「はい」
「調べろ」
「了解です」
所長は書類を揃えました。
「肩書きだけで結論を急ぐな」
そして静かに言いました。
「ただし、その肩書きを会社が与えていたのなら、話は変わる」
翌日。
私と相馬先輩は、東海精機株式会社の湖西支店を訪れました。
二階建ての事務所。
その奥には、大きな工場。
搬送設備の一部には、村瀬鉄工所が製作した部品が取り付けられているそうです。
「ここか……」
私は建物を見上げました。
立派です。
町工場とは比べものにならない規模。
でも。
大きな会社だから、小さな会社の代金を踏み倒していいわけではありません。
受付で事情を伝えると、黒田隆一が現れました。
四十五歳くらい。
紺色の背広。
疲れた顔。
胸元には社員証。
――湖西支店長。
「……行政書士さんですか」
「片桐事務所の相馬です。事実関係について確認したいことがあります」
「村瀬さんの件ですね」
「はい」
黒田は小さく息を吐きました。
「申し訳ないことをしました」
私は思わず聞きました。
「じゃあ、注文したことは認めるんですね?」
「はい」
「部品も受け取ったんですね?」
「はい」
「それなのに、会社は払わないんですか?」
黒田は視線を落としました。
「社長が……」
「社長?」
「私には契約権限がない、と」
相馬先輩が尋ねました。
「黒田さん。支店長という肩書きは、誰が決めたんですか」
「本社です」
「社長が?」
「はい」
「名刺も?」
「本社で作りました」
「支店の看板は?」
「会社が設置しました」
「普段の仕事は?」
「営業全般の管理です。顧客との契約、納期調整、従業員の勤務管理などを担当しています」
「これまでの契約は?」
「百万円以下なら、私の判断で何度も締結しています」
私は相馬先輩を見ました。
先輩は静かに頷きました。
「では、百万円を超える契約について、社長の決裁が必要だったんですね」
「はい」
「その決まりは、取引先に知らせていましたか」
「……いいえ」
「村瀬さんには?」
「知らせていません」
黒田は苦しそうに言いました。
「急いでいたんです」
「何がですか」
「工場の設備が故障して、生産が止まりかけていたんです。村瀬さんに頼まなければ、納期に間に合わなかった」
「社長には?」
「電話で話しました」
私は顔を上げました。
「社長に!?」
「はい。ただ……」
黒田は言葉を詰まらせました。
「証拠がありません」
電話。
昭和六十三年。
スマートフォンもありません。
通話録音も簡単ではありません。
社長が後から、
「そんな話は聞いていない」
と言ってしまえば、争いになる。
「なるほどな」
相馬先輩が低く呟きました。
そこで、私はもう一つ尋ねました。
「黒田さんは、会社の支配人として登記されているんですか?」
「……支配人?」
黒田は首をかしげました。
「私は、ただの支店長ですよ」
……。
私は目を見開きました。
ただの支店長。
そこです。
今回の問題は。
本物の支配人ではない。
だけど、支配人のように見える地位を会社から与えられている。
つまり。
表見支配人。
私は、商法第四十二条の文字を思い出しました。
そのとき。
「何をしている!」
怒鳴り声が響きました。
階段から降りてきたのは、恰幅のよい男性。
五十代後半。
高級そうな背広。
金色の腕時計。
鋭い目つき。
「社長……」
黒田が立ち上がりました。
東海精機株式会社。
代表取締役社長。
榊原剛。
今回の敵です。
「誰だ、お前ら」
榊原が私たちを睨みました。
「片桐行政書士事務所の者です」
相馬先輩が答えました。
「村瀬鉄工所との取引について、事実を確認しています」
「行政書士?」
榊原は鼻で笑いました。
「弁護士じゃないのか」
「そうです」
「なら、裁判もできんだろう」
……。
またです。
また、この台詞。
どうして悪徳経営者は、行政書士を見ると必ずこの反応をするのでしょう。
「村瀬の請求か?」
「はい」
「払わんぞ」
榊原は即答しました。
「黒田には百万円を超える契約権限を与えていない。規則違反だ」
そして。
「会社は俺のものだ。誰が何を契約できるかは、俺が決める」
私は拳を握りました。
会社は俺のもの。
出ました。
ワンマン社長の決まり文句。
「でも、支店長という肩書きを与えたのは社長ですよね」
私が言いました。
「そうだが?」
「だったら、その肩書きを信じて取引した人は――」
「お嬢ちゃん」
榊原が遮りました。
「会社には社内規則というものがある」
「はい」
「黒田には百万円までしか権限がない」
「はい」
「百八十万円の契約は、俺の決裁が必要だ」
「……はい」
「俺は決裁していない」
榊原は勝ち誇ったように笑いました。
「だから会社は払わん。それだけだ」
私は言い返そうとしました。
でも。
相馬先輩が、そっと手を上げました。
「分かりました」
先輩は言いました。
「会社としては、黒田支店長の権限が百万円以下に制限されていたことを理由に、支払義務を否定する。そういうご説明ですね」
「そうだ」
「その制限を、村瀬鉄工所に知らせた事実は?」
「ない」
「支店長という名称は、会社が与えたものですね」
「当然だ」
「黒田さんは、実際に支店の営業を管理していましたね」
「そうだが、それが何だ」
榊原は苛立った顔をしました。
相馬先輩は、ゆっくりと手帳を閉じました。
「確認は以上です」
「は?」
「ありがとうございました」
先輩が頭を下げます。
私は慌ててついていきました。
建物を出ると。
「先輩!」
「何だ」
「何で帰っちゃうんですか!」
「必要なことは聞いた」
「でも、社長は全然分かってませんよ!」
「分からせる必要はねえ」
「え?」
先輩は煙草を取り出しました。
「こはる」
「はい」
「会社が社内規則で支店長の権限を制限していたとしても、そのことを知らない取引相手にまで、当然に押しつけられるとは限らねえ」
「はい!」
「ただし、俺たちが相手の代理人になって、ここで代金の支払交渉を始めるわけにはいかねえ」
「……そうでした」
「依頼人の権利と事実を整理する。必要な通知書を作る。争いが深まるなら弁護士へ渡す」
先輩は煙草に火をつけました。
「それが俺たちの仕事だ」
私は頷きました。
そのとき、先輩がにやりと笑いました。
「それにな」
「はい?」
「あの社長、自分で言ったぞ」
「何をですか」
「支店長という肩書きを与えたのは会社だってな」
……。
あ。
「しかも!」
私は声を上げました。
「黒田さんが実際に支店の営業を管理していたことも!」
「そうだ」
「社内規則を取引先に知らせていなかったことも!」
「ああ」
私は思わず笑いました。
なるほど。
先輩は、怒鳴り合いに行ったのではありません。
事実を確認しに行ったのです。
そして。
社長は、自分に不利になり得る事情を、自分の口で説明してしまった。
「先輩!」
「何だ」
「悪い人って、余計なことを喋りますね!」
「悪い奴とは限らねえが、自信のある奴ほどよく喋る」
私は頷きました。
確かに。
あの社長。
自信だけは満点でした。
事務所に戻ると、片桐所長が待っていました。
「どうだった」
相馬先輩が報告しました。
支店長の肩書きは会社が与えた。
名刺も会社が作った。
黒田は実際に支店の営業を管理している。
村瀬鉄工所は百万円という社内制限を知らなかった。
発注書と納品書、検収済みの受領書がある。
さらに。
製作した部品は、会社の設備に取り付けられている。
所長は黙って聞いていました。
「こはる」
「はい」
「何が問題だ」
「黒田さんに、本当に支配人としての代理権があったかどうかです」
「うん」
「もし本物の支配人なら、営業について広い代理権があります」
「そうだ」
「でも黒田さんは、支配人として選任されたわけではなさそうです」
「うん」
「だから表見支配人です!」
私は勢いよく言いました。
商法第四十二条。
支店の営業の主任者であることを示す名称を付された使用人。
善意の取引相手との関係では、営業について裁判外の行為をする権限があるものとみなされる。
「黒田さんは、会社から支店長という肩書きを与えられています」
「そうだな」
「しかも、実際に支店の営業を取り仕切っています」
「うん」
「村瀬さんは、内部の権限制限を知りませんでした」
私は発注書を机に置きました。
「だから、会社が単に『社長決裁がなかった』という理由だけで代金を拒めるとは考えにくいです!」
片桐所長が頷きました。
「筋はいい」
やった!
私は心の中で拳を握りました。
でも。
「ただし」
所長が言いました。
「表見支配人なら、何でもできると思うな」
「え?」
「黒田が、会社の土地を勝手に売ったらどうだ」
「……土地?」
「支店長だからといって、会社の本社ビルまで自由に処分できるのか」
私は止まりました。
営業所の営業に関する行為。
そこが範囲です。
「今回の部品発注は、湖西支店の設備に関する取引です」
「そうだ」
「営業のために必要な部品を注文した」
「うん」
「だから、支店の営業に関係があります!」
「そうだな」
所長は続けました。
「それから、相手方が本当の権限のないことを知っていた場合はどうなる」
「……保護されません」
「そうだ」
例えば。
村瀬さんが最初から、
「黒田支店長には百万円までしか契約権限がない」
と知っていたなら。
事情は違ってきます。
でも今回は。
黒田本人が、
「そんな内部制限は知らせていない」
と説明している。
発注の経緯も通常の営業取引に見える。
「なら、その点も資料で固めろ」
所長が言いました。
「はい!」
私は、村瀬さんに確認すべき事項を書き出しました。
いつ発注されたか。
誰と契約したか。
社内制限の説明はあったか。
どんな名刺を受け取ったか。
支店での黒田の地位をどう理解していたか。
納品後、会社はどう対応したか。
全部です。
そして、もう一つ。
「所長」
「何だ」
「本物の支配人は、どう違うんですか?」
所長は六法を開きました。
「商法第三十八条を見ろ」
私は覗き込みました。
支配人。
営業主に代わって、その営業に関する一切の裁判上又は裁判外の行為をなす権限を持つ。
「……裁判上?」
私は首をかしげました。
「裁判まで?」
「そうだ」
相馬先輩が答えました。
「本物の支配人は、営業に関する裁判上の行為もできる」
「じゃあ、黒田さんも?」
「違う」
「え?」
「表見支配人について商法第四十二条が認めるのは、裁判外の行為だ」
私は目を丸くしました。
「……そこが違うんですね!」
同じように見える支店長。
同じように営業を任されている。
でも。
本物の支配人には、営業について裁判上の行為までできる包括的な代理権がある。
一方。
表見支配人に認められる外観上の権限は、裁判外の行為に限られる。
「だから、黒田さんが『俺は支店長だから会社を代理して訴訟もできる』と言ったら、それは別問題なんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
なるほど。
支配人。
表見支配人。
名前は似ています。
でも、その権限には決定的な差がある。
今回の事件では。
百八十万円の部品発注という、裁判外の取引が問題になっている。
だから、表見支配人の規定が強力な武器になるのです。
「ところで所長」
相馬先輩が言いました。
「もう一つ、気になることがあります」
「何だ」
「黒田の代わりに、社長が別の男を支店へ送り込むらしいんです」
「ほう」
「本社の支配人だそうで」
私は顔を上げました。
「本物の支配人ですか?」
「ああ。登記の確認が必要だが、支配人として選任されているらしい」
「……へえ」
片桐所長は、少しだけ眉を動かしました。
「その男の名前は」
「滝沢修二です」
所長が、古い取引先名簿を開きました。
「滝沢……」
そして。
「相馬。少し調べておけ」
「はい」
私は首をかしげました。
「何かあるんですか?」
相馬先輩が答えました。
「その男、最近、別の機械部品商社にも出入りしてるらしい」
「……え?」
「同業の商売を、裏で手伝っているという噂だ」
私は驚きました。
「それって、競業避止義務の問題じゃ……」
先輩がにやりとしました。
「お。知ってるじゃねえか」
「もちろんです!」
支配人には、広い権限がある。
だからこそ。
営業主の許諾なしに、競業したり、他の商人の使用人になったりすることが制限される。
私は六法をめくりました。
昭和六十三年の商法第四十一条。
支配人の競業禁止。
「もし、会社に無断で同業の取引をしていたら……」
「当然、問題になる」
「じゃあ、それも社長に突きつけましょう!」
「待て」
片桐所長が遮りました。
「今回は村瀬さんの代金請求だ」
「あ……」
「別の者の競業問題を、根拠もないまま持ち込むな」
「はい……」
所長は静かに言いました。
「疑いは疑い。証拠は証拠。混ぜるな」
私は頷きました。
法律の論点をたくさん知っていると。
つい全部使いたくなります。
でも。
今回の事件を解決するために必要なのは。
黒田支店長の権限。
村瀬さんの善意。
契約内容。
納品の事実。
そして、会社が支払義務を否定できるか。
そこに集中することです。
翌朝。
事務所の机には、内容証明郵便の原案が置かれました。
差出人。
村瀬清一。
宛先。
東海精機株式会社。
代表取締役社長 榊原剛。
片桐所長は、私の書いた原案を読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『黒田支店長は支配人である』」
「はい!」
「断定するな」
赤線。
「……あ」
「支配人として選任された事実は、まだ確認できていない」
「そうでした……」
「次」
「はい」
「『表見支配人は会社に関するすべての行為ができる』」
赤線。
「……間違いです」
「どう違う」
「当該支店の営業に関する、裁判外の行為です」
「そうだ」
私は慌てて書き直しました。
所長は、さらに一行を指差しました。
「『会社はどんな事情でも支払わなければならない』」
赤線。
「これも?」
「例外を落とすな」
「はい……」
相手方が権限のないことを知っていた場合。
取引が営業に関係しない場合。
そもそも会社が肩書きを与えていない場合。
事情によっては、表見支配人の規定による保護が認められないこともある。
「法律の書面は、威勢のよさで勝つものじゃない」
所長が言いました。
「はい」
「必要な事実だけで、結論を支えろ」
私は頷きました。
そして。
一から書き直しました。
三時間後。
完成した通知書を、私は読み上げました。
「第一。本件取引は、東海精機株式会社湖西支店の設備に使用する金属部品の製作及び納入に関するものである」
「うん」
「第二。貴社は、黒田隆一に対し、湖西支店長の名称を付し、名刺その他の対外的表示において同人を支店の営業責任者として表示していた」
「うん」
「第三。通知人は、右表示及び従前の取引状況を信頼し、黒田隆一に支店の営業に関する契約締結権限があるものと認識して、本件契約を締結した」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。通知人は、貴社内部における百万円を超える契約についての決裁制限を知らず、契約締結時にその説明を受けた事実もない」
「よし」
「第五。昭和六十三年当時施行の商法第四十二条は、本店又は支店の営業の主任者であることを示す名称を付された使用人について、善意の相手方との関係で、当該営業に関する裁判外の行為をする権限を有するものとみなしている」
私は一度、息を吸いました。
「第六。よって、貴社が黒田隆一に支配人としての包括的代理権を授与していなかったとしても、同人に付した支店長の名称及び本件取引の性質等に照らし、貴社は商法第四十二条に基づく契約上の責任を負うものと考える」
所長が頷きました。
「最後」
「はい」
「第七。通知人は、契約に従って本件金属部品を製作、納入し、貴社において検収が完了している。よって、未払代金百八十万円について、指定期日までの支払を求める」
私は続けました。
「なお、支払がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、訴訟その他の適切な法的措置を検討する」
読み終わりました。
事務所が静かになりました。
「……どうでしょう」
私は恐る恐る尋ねました。
片桐所長は、原案を読み返しました。
そして。
「いいだろう」
その一言。
私は思わず拳を握りました。
「やった!」
「まだ終わってねえぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「これを依頼人に確認してもらう。本人の意思で通知を出してもらうんだ」
「分かっています!」
村瀬さんは、完成した書面を読みました。
何度も。
何度も。
そして。
「……これなら」
小さく呟きました。
「私が言いたかったことが、全部書いてあります」
私は微笑みました。
「はい」
「会社が大きいからって、何でも好きに決められるわけじゃないんですね」
「そうです」
村瀬さんは、通知書に目を落としました。
「支店長を信じて仕事をした。それが、そんなに悪いことだったのかと……」
声が震えました。
「ずっと、考えていました」
私は胸が痛くなりました。
村瀬さんは、悪いことなどしていません。
会社の支店長から仕事を頼まれた。
約束した品物を作った。
期限までに納めた。
それだけです。
なのに。
社内規則を知らなかったというだけで、百八十万円を失いそうになっていた。
「村瀬さん」
「はい」
「法律は、会社の中だけで決めたルールを、知らない取引相手に何でも押しつけていいとは考えていないんです」
村瀬さんは、ゆっくり頷きました。
そして。
自分の名前で、内容証明郵便を発送したのです。
その翌々日。
東海精機の社長室。
榊原剛は、一通の封筒を開いていました。
「……何だ、これは」
内容証明郵便。
差出人。
村瀬清一。
「また請求か」
榊原は鼻で笑いました。
しかし。
一行目。
二行目。
三行目。
読み進めるにつれ。
その顔から、笑みが消えました。
「……商法第四十二条?」
榊原は受話器を取りました。
本社の顧問弁護士へ電話をかけます。
「先生か。ちょっと聞きたいことがある」
最初は、余裕のある声でした。
「うちの支店長が、勝手に百八十万円の契約をしたんだ」
『はい』
「社内規則では百万円までだ」
『はい』
「だから、払わなくていいだろう?」
受話器の向こうが静かになりました。
そして。
『社長。その支店長という肩書きは、会社が与えたものですか』
「ああ」
『実際に支店の営業を担当していますか』
「ああ」
『相手方は、内部の権限制限を知っていましたか』
「いや、知らん」
『……それは、難しいですね』
「何?」
『商法第四十二条の表見支配人の問題があります』
榊原の眉が動きました。
「表見……何だ?」
『表見支配人です』
「支配人じゃないぞ。ただの支店長だ」
『本物の支配人ではないからこそ、問題になる規定です』
「……は?」
弁護士は説明しました。
『会社が支店の営業責任者であることを示す肩書きを与えた場合、その外観を信じた善意の取引相手が保護されることがあります』
「でも、百万円までだぞ!」
『その内部制限を相手が知らなかったのでしょう』
「そうだが……」
『発注は支店の営業に関するものですか』
「工場の設備部品だ」
『納品は?』
「済んでいる」
『検収も?』
「……済んでいる」
『それでは、会社側の支払義務を否定するのは相当に難しいと考えます』
榊原は黙りました。
弁護士は続けました。
『黒田さんの権限の具体的な範囲、取引の状況、相手方の認識などは確認が必要ですが、少なくとも社内決裁がなかったという説明だけでは足りません』
「……」
『訴訟になれば、会社が百八十万円の支払を命じられる可能性があります。遅延損害金などの問題も生じます』
「……そんな馬鹿な」
『それに、納入された部品を会社が使用しているのでしょう』
「ああ」
『発注から検収までの記録が残っていれば、契約の成立や履行についても相手方は主張しやすいでしょう』
榊原は、机の上の通知書を見ました。
そこには。
会社の名刺。
支店長の名称。
善意の取引相手。
商法第四十二条。
納品済み。
検収済み。
百八十万円。
逃げ道を塞ぐように、事実が並んでいました。
「……先生」
『はい』
「今から、黒田を支店長から外したら?」
『それで過去の契約についての問題が消えるわけではありません』
「支店長の名刺を廃止したら?」
『それも同じです』
「社内規則を作り直したら?」
『契約当時にさかのぼって、相手方の認識を変えることはできません』
榊原は受話器を握り直しました。
「……じゃあ」
ようやく、その声から強気が消えました。
「どうすればいい」
『まず、事実を整理して、支払義務について適切に判断することです。争いを長引かせることが会社の利益になるとは限りません』
榊原は沈黙しました。
そして。
深いため息をつきました。
「……百八十万円か」
社長室の窓から、工場が見えます。
その工場では。
村瀬鉄工所の職人たちが作った部品が、今も機械を動かしていました。
榊原は、それをじっと見つめました。
「……払うしかないか」
ついに。
社長が、白旗を上げたのです。
翌朝。
片桐事務所に電話が入りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……榊原です』
私は固まりました。
あの社長。
あの、偉そうな社長です。
「少々お待ちください!」
片桐所長に受話器を渡しました。
「片桐です」
『内容証明の件で』
「はい」
『顧問弁護士に確認しました』
「そうですか」
『……代金は支払います』
私は思わず顔を上げました。
相馬先輩も、新聞から目を離します。
『未払の百八十万円について、会社として支払手続を進めます』
「承知しました」
『ただ……』
「何でしょう」
『今後は、百万円を超える発注について、必ず本社の決裁を取るようにします』
所長は静かに答えました。
「社内の管理方法については、御社で適切にお決めになることだと思います」
『……そうですね』
「ただ、取引先への説明は明確になさった方がよいでしょう」
『はい』
少しの沈黙。
そして。
『……黒田を責めるだけでは、駄目だったようです』
榊原の声が小さくなりました。
『支店長にしたのは、私ですから』
所長は、それ以上何も言いませんでした。
電話が切れます。
「所長!」
「何だ」
「払うんですか!?」
「ああ」
「百八十万円!?」
「そうだ」
「やりましたね!」
私は両手を上げました。
相馬先輩が笑いました。
「まだ振り込まれてねえぞ」
「またそれですか!」
「当たり前だ。口約束で終わるな」
そうでした。
支払うと言っただけでは、まだ完了ではありません。
そこで村瀬さんには、会社からの支払予定を書面で確認してもらうことにしました。
支払期日。
金額。
振込先。
そして。
支払が完了したことの確認。
その一つ一つが大切です。
数日後。
村瀬鉄工所の口座に、百八十万円が振り込まれました。
村瀬さんは、銀行で記帳した通帳を握りしめたまま、事務所に飛び込んできました。
「入りました!」
私は立ち上がりました。
「本当ですか!」
「百八十万円、全部!」
村瀬さんは通帳を広げました。
確かに。
東海精機株式会社からの振込。
百八十万円。
その数字を見た瞬間。
村瀬さんは、椅子に座り込みました。
「……よかった」
その声は、かすれていました。
「本当に、よかった……」
目に涙が浮かんでいます。
「これで、職人たちに給料を払えます」
私は何も言えませんでした。
百八十万円。
大会社にとっては、一件の発注代金かもしれません。
でも。
村瀬鉄工所にとっては。
六人の生活。
家族の暮らし。
三十年かけて守ってきた工場。
そのすべてにつながるお金だったのです。
「所長さん」
村瀬さんが頭を下げました。
「ありがとうございました」
片桐所長は、小さく頷きました。
「お疲れさまでした」
村瀬さんが顔を上げます。
「え?」
「仕事をしたのは、あなた方です」
所長は静かに言いました。
「約束どおりの品物を作り、納めた。その代金が支払われただけです」
村瀬さんは、しばらく黙っていました。
そして。
ゆっくり笑いました。
「……そうですね」
通帳を閉じます。
「うちは、ちゃんと仕事をしたんです」
「はい」
「それが、ようやく報われました」
私は胸が熱くなりました。
そうです。
法律は、特別なことをしてくれる魔法ではありません。
ただ。
真面目に仕事をした人が、当然受け取るべきものを受け取れるようにする。
その当たり前を、守ってくれることがあるのです。
一週間後。
黒田支店長が、事務所を訪れました。
「このたびは、ご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げます。
私は慌てました。
「い、いえ!」
「村瀬さんには、私からも謝りました」
「そうでしたか」
「幸い、仕事は続けていただけるそうです」
私はほっとしました。
「よかった……」
黒田は小さく笑いました。
「ただ、私は支店長から外されるかもしれません」
「……え?」
「社長に、そう言われています」
私は言葉に詰まりました。
でも。
黒田は続けました。
「仕方がありません。社内規則を守らなかったのは事実ですから」
その言葉に、相馬先輩が頷きました。
「内部の責任と、取引先に対する会社の責任は別の話ですからね」
「はい」
「会社が代金を払うことになったからといって、社内での対応が何も問題にならないわけじゃありません」
「分かっています」
黒田は頷きました。
「ただ……」
「はい?」
「村瀬さんを泣かせずに済んで、よかったです」
私は、その言葉を聞いて少し安心しました。
黒田支店長。
社内規則に違反した。
でも、仕事を急がせた理由もありました。
町工場に無理を頼み、納期を守ってもらった。
なのに、代金が払われなければ。
一番苦しむのは、真面目に働いた職人たちです。
「黒田さん」
「はい」
「次からは、ちゃんと決裁を取ってくださいね」
私は言いました。
黒田は苦笑しました。
「はい。肝に銘じます」
相馬先輩が横から言いました。
「それと、肩書きだけで何でもできると思うなよ」
「はい」
「支配人と、ただの支店長じゃ、法律上の権限が違うこともある」
「……はい」
「だが会社が支店長という看板を掲げた以上、それを信じる取引先がいることも忘れるな」
黒田は、真剣な顔で頷きました。
「分かりました」
その姿を見て。
私は思いました。
支店長という三文字。
それは、黒田さん個人の地位を示すだけではありません。
会社の信用。
取引相手の信頼。
そして、その肩書きを与えた会社の責任。
全部が、そこにつながっていたのです。
夕方。
村瀬さんが帰り、黒田さんも帰ったあと。
私は机の上に、二枚の名刺を並べていました。
一枚は。
東海精機株式会社 湖西支店長 黒田隆一。
もう一枚は、確認資料にあった本社の支配人。
滝沢修二。
「……似てるようで違うんですね」
私が呟くと、相馬先輩が顔を上げました。
「何がだ」
「支配人と、表見支配人です」
「ああ」
「どちらも会社の営業を任される人ですけど」
「うん」
「本物の支配人は、営業に関する裁判上の行為まで代理できる」
「そうだ」
「でも、表見支配人として認められる権限は、裁判外の行為に限られる」
「そのとおり」
私は頷きました。
「そして、会社が勝手に作った内部制限だけでは、善意の取引相手に対抗できない場合がある」
「そうだな」
「社長が『俺が法律だ』って言っても、商法の方が強いんですね!」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だろ」
そして。
「社長が一番偉いんじゃねえ。ルールを守った奴が勝つんだよ」
私は笑いました。
いつもの先輩です。
口が悪い。
でも、その言葉は今日の事件にぴったりでした。
「ところで先輩」
「何だ」
「支配人って、そんなに偉い人なんですね」
「偉いっていうより、権限が広いんだ」
「裁判まで会社を代理できるなんて」
「営業についてはな」
「従業員を採用したり、解雇したりする権限もあるんですよね」
「ある」
「すごい!」
私は目を輝かせました。
「じゃあ、もし私が支配人になったら!」
「何だ」
「先輩を解雇できますね!」
相馬先輩の手が止まりました。
「……は?」
「だって、支配人には使用人を選任・解任する権限があります!」
「お前な」
「はい!」
「そもそも、ここは会社じゃねえ。片桐先生の個人事務所だ」
「それは分かっています!」
「それに、お前は支配人に選任されてねえ」
「じゃあ、私が『片桐事務所支店長』って名刺を作ったら?」
「勝手に作るな!」
「表見支配人になれるかもしれません!」
「自分で勝手に名乗って成立する制度じゃねえ!」
「……あ」
確かに。
会社や営業主が、主任者であることを示す名称を付けたからこそ、外観に対する責任が問題になる。
従業員が勝手に名刺を作って、勝手に名乗ればよいという話ではありません。
「じゃあ、所長に頼んで――」
「頼むな!」
相馬先輩が叫びました。
私は笑いました。
片桐所長は、奥で帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「今日、何を覚えた」
私は背筋を伸ばしました。
「肩書きは、会社の信用を背負っているということです!」
「うん」
「本物の支配人は、営業について裁判上・裁判外の広い代理権を持つ」
「そうだ」
「表見支配人は、会社などが与えた肩書きによって、善意の取引相手との関係で裁判外の権限が認められることがある」
「うん」
「そして!」
私は名刺を掲げました。
「会社は、自分で掲げた看板の責任から、簡単には逃げられない!」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は嬉しくなりました。
昨日まで。
支配人という言葉を聞いても、偉そうな役職だな、くらいにしか思っていませんでした。
でも今は違います。
そこには。
権限があり。
責任があり。
取引相手を守るための法律がある。
会社の規模が違っても。
肩書きの意味を知っているかどうかで、結果が変わることがある。
それが。
商法という法律なのです。
私は、ノートを開きました。
今日の教訓。
――支配人は「本物の包括的代理権」。表見支配人は「肩書きを信じた善意の相手を守る、裁判外の権限」。
よし。
覚えました。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『会社の支配人のことで、相談したいんですが』
私は目を丸くしました。
また支配人ですか!
「どのようなご相談でしょうか?」
『実は、うちの支配人が、会社に内緒で商売をしていたらしくて……』
私は固まりました。
「……商売?」
『はい。うちと同じ商品を扱っている会社に、仕事を流していたみたいなんです』
……。
来ました。
支配人の競業。
『しかも、その取引でかなり儲けたらしくて』
私は受話器を握り直しました。
「少々お待ちください!」
相馬先輩を見る。
先輩もこちらを見ました。
「先輩!」
「何だ!」
「本物の支配人が、会社に内緒で競業してたらしいです!」
「……ほう」
「しかも利益まで出してるそうです!」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「こはる」
「はい!」
「支配人は、何でも好き勝手に商売していいわけじゃねえぞ」
「はい!」
広い権限。
その裏側には。
営業主の利益を害さないための義務がある。
商法第四十一条。
支配人の競業禁止。
私は六法を開きました。
「先輩!」
「何だ」
「支配人って、外では強いけど、内側では責任が重いんですね!」
「ああ」
「じゃあ、会社の商売を横取りして儲けていたら?」
「許諾の有無と取引の中身を調べるんだ。場合によっては、営業主の介入権や損害賠償の問題になる」
「なるほど!」
私は相談票を取り出しました。
支配人。
表見支配人。
裁判上の行為。
裁判外の行為。
善意の取引相手。
そして、競業禁止。
商法の世界は、思った以上に奥が深い。
社長だけが会社を動かしているわけではありません。
支配人も。
支店長も。
従業員も。
そして取引先も。
それぞれが、法律の中で守られ、同時に責任を負っています。
私は受話器を持ち直しました。
「まず、支配人の方のお名前と、どのような取引をされたのか、詳しく教えてください!」
昭和六十三年。
会社法という独立した法律が、まだ存在しない時代。
会社のルールは、分厚い商法の中にあります。
少し古臭くて。
少し面倒で。
会社を作るにも、何人もの人を集めなければならない。
でも。
その堅苦しい法律の中にも。
真面目に働く人を守るための仕組みは、確かに存在していました。
私は今日、それを知りました。
そして。
名刺の肩書きを、もう二度と軽く考えないことにします。
だって。
百八十万円の代金を踏み倒そうとした社長が。
自分で印刷させた「支店長」という三文字によって。
最後には、会社の責任を認めることになったのですから。
「こはる!」
相馬先輩が呼びました。
「はい!」
「何をにやにやしてる!」
「いえ!」
「相談票は?」
「今、書いてます!」
「また未来の会社法を持ち出すなよ!」
「分かってます!」
私は元気よく答えました。
「昭和六十三年は、商法第三十八条と第四十二条です!」
「そうだ!」
「令和なら、会社法第十一条と第十三条です!」
「未来の話は聞いてねえ!」
「でも比較すると覚えやすいんです!」
「今の仕事をしろ!」
「はいっ!」
私は笑いながら、相談票に鉛筆を走らせました。
その横には。
東海精機株式会社の名刺が、一枚。
静かに置かれていました。
ただの紙。
ただの肩書き。
でも。
そこに書かれた名前を信じて、汗を流した職人たちがいた。
そして。
その汗を、無駄にしないための法律があった。
今日の私は、ひとつだけ確信しています。
会社の看板は、飾るためにあるのではありません。
その看板を信じた人に対して、責任を負うためにもあるのです。
たった三文字。
――支店長。
商法は、その三文字を。
社長が思っていたほど、軽く扱ってはいなかったのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




