[商法・名板貸の責任]法理編 こはるノート
名前を貸すだけなら、簡単です。
看板を貸す。
商号を使わせる。
名刺に自分の店の名前を印刷させる。
それだけなら、何の危険もないように思えます。
でも。
その名前を信じて、誰かが三百万円を支払ったら?
名前を借りた人間が逃げてしまったら?
看板の持ち主は、こう言うかもしれません。
「俺は名前を貸しただけだ。金なんか受け取っていない」
ところが。
商法は、その言い訳を許さないことがあります。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「名板貸って、名前が変じゃありませんか?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「また法律に文句か」
「だって、名板ですよ?」
「そうだな」
「最初、板を貸すのかと思いました」
「看板の板だと思っとけ」
「なるほど!」
私は頷きました。
看板。
お店の名前。
商号。
そして、その看板に積み重ねられた信用。
そう考えると、名板貸という言葉も、少し分かりやすくなります。
「でも先輩」
「今度は何だ」
「名前を貸しただけで三百万円の責任を負うなんて、やっぱり怖いですよね」
「そりゃそうだ」
「しかも、借りた本人も責任を負うんですよね」
「ああ」
「だから、どちらも逃げられない!」
相馬先輩が笑いました。
「昨日の黒田みたいにな」
私は頷きました。
東海機械商会。
創業五十年の老舗。
その名前を借りて、野崎俊二という男が駅前営業所を開いた。
そして杉浦夫妻から、食品包装機の代金三百万円を受け取った。
ところが。
機械は納入されず、野崎は行方をくらませた。
東海機械商会の黒田社長は、
「名前を貸しただけだから責任はない」
と開き直った。
でも。
新聞広告。
看板。
契約書。
領収書。
それらを調べていくと、黒田社長が野崎に商号の使用を認めていたことが分かった。
しかも杉浦夫妻は、本当に東海機械商会が営業していると思っていた。
そこで私たちは、商法二十三条に基づく名板貸人の責任を指摘した通知書を作成した。
その後、当事者と弁護士による確認を経て、三百万円は返還された。
あの事件。
商法の基本が、ぎゅっと詰まっていたのです。
「よし!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は名板貸を完全攻略します!」
「昨日もそんなこと言ってなかったか?」
「昨日は現場です!」
「今日は?」
「法理です!」
「……元気な奴だな」
そこへ、片桐所長が奥から声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……またですか」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
◇
「まず、名板貸とは何か!」
私はノートに大きく書きました。
――名板貸。
ある商人が、他人に自己の商号を使って営業することを許すこと。
「ここで二人の登場人物がいます」
私は言いました。
「名板貸人!」
「うん」
「名板借人!」
「うん」
「名前が似すぎです!」
「文句を言うな」
私は苦笑しました。
名板貸人。
ないたがしにん。
名前を貸す側。
名板借人。
ないたがりにん。
名前を借りる側。
「昨日の事件なら?」
相馬先輩が尋ねました。
「名板貸人は黒田源一さんです」
「うん」
「東海機械商会という商号を使わせました」
「そうだ」
「名板借人は野崎俊二さんです」
「うん」
「その名前で機械販売業を営んでいました」
私は二人の名前を並べました。
黒田源一。
商号を貸した人。
野崎俊二。
商号を借りた人。
そして。
杉浦夫妻。
その商号を信じて取引した人。
「この三者関係が基本なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ここで重要なのは、契約の相手です。
杉浦夫妻が実際に契約した相手は、野崎。
黒田社長が、直接売買契約を結んだわけではありません。
「じゃあ、どうして黒田さんまで責任を負うんでしょう?」
私は自分で問いかけました。
相馬先輩が笑いました。
「そこが今日の本題だろ」
「はい!」
私は六法を開きました。
商法第二十三条。
昭和六十三年当時の、名板貸人の責任を定める条文です。
その趣旨は。
自己の商号を使って他人が営業することを許した者は、自己を営業主だと誤認して取引した者に対し、その取引によって生じた債務について、名板借人と連帯して責任を負う。
というもの。
「つまり」
私は言いました。
「契約当事者ではない名板貸人にも、法律が特別に責任を負わせるんですね」
「そうだ」
「保証契約を結んでいなくても?」
「ああ」
「お金を受け取っていなくても?」
「要件を満たせばな」
私は大きく丸をつけました。
ここ。
とても重要です。
黒田社長は、
「俺は保証人になっていない」
と主張していました。
でも。
名板貸人の責任は、保証契約を結んだから生じるものではありません。
名板貸の要件を満たした場合に、商法が責任を認めるのです。
「法律によって生じる連帯責任!」
私は勢いよく書きました。
「これなら、保証人になっていないという反論だけでは逃げられません!」
「そのとおりだ」
片桐所長が頷きました。
「だが、誰でも責任を負うわけじゃない」
「はい」
「成立要件を整理しろ」
来ました。
名板貸の三つの条件。
ここからが本番です。
◇
「第一の要件!」
私はノートに書きました。
――外観の存在。
名板借人が、名板貸人の商号を使って営業していること。
「外観って、何ですか?」
私が尋ねると、相馬先輩が言いました。
「外からどう見えるか、ってことだ」
「外から?」
「ああ」
先輩は机に、昨日の新聞広告を置きました。
――東海機械商会 駅前営業所開設。
――各種産業機械・食品包装機械を販売。
――代表 黒田源一。
「これを見たら、どう思う?」
「東海機械商会が、新しい営業所を開いたと思います」
「そうだな」
「でも実際には?」
「野崎が独立して商売していた」
「はい」
つまり。
外から見ると、東海機械商会の営業。
でも実際には、野崎の営業。
ここに、外観と実態の食い違いがあります。
「なるほど!」
私はノートに書きました。
外観。
東海機械商会の営業に見える。
実態。
野崎俊二の独立営業。
「この食い違いが、名板貸の出発点なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「そもそも、東海機械商会の営業だと誰も思わねえなら、名板貸の責任を負わせる理由が薄い」
「確かに」
私は考えました。
たとえば。
野崎が自分の名前で、
――野崎機械販売店。
という看板を掲げていたら?
契約書にも野崎の名前。
領収書にも野崎の名前。
客も、野崎個人の店だと理解している。
それなら、東海機械商会が責任を負うという話には、普通なりません。
「やっぱり、名前を信じたかどうかが大事なんですね」
「そうだ」
でも。
ここで、もう一つ問題があります。
「先輩」
「何だ」
「営業の種類が違ったらどうなるんですか?」
「ほう」
先輩がこちらを見ました。
「いいところに気づいたな」
私は嬉しくなりました。
「たとえば、東海機械商会が機械販売店なのに、野崎がその名前でラーメン屋を開いたら?」
「ラーメン屋?」
「はい!」
「ずいぶん飛んだな」
「分かりやすいでしょう?」
先輩は笑いました。
「原則として、営業の同種性が問題になる」
私は赤線を引きました。
営業の同種性。
名板貸人と名板借人の営業が、同じ種類であること。
「昨日の事件では?」
「どちらも機械販売業です!」
「そうだ」
「だから、客が同じ営業主だと思いやすい」
「うん」
私は頷きました。
東海機械商会。
機械販売業。
野崎。
機械販売業。
同じ名前で、同じ機械を売っている。
これなら、杉浦夫妻が同じ商店の営業だと信じても、不思議ではありません。
「ここには、判例がある」
片桐所長が言いました。
「判例ですか!」
「昭和四十三年六月十三日の最高裁判決だ」
私は慌ててノートに書きました。
昭和四十三年六月十三日。
最高裁判決。
名板貸人と名板借人の営業は、特段の事情がない限り、同種であることを要する。
「つまり、営業が違えば絶対に責任なし、ではないんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「特段の事情がある場合には、異なる種類の営業でも責任が問題になる」
「なるほど!」
私は書き足しました。
原則。
営業の同種性が必要。
例外。
営業主を誤認させる特段の事情があれば、異種営業でも責任が認められる余地がある。
「この『特段の事情』って、試験で狙われそうですね」
「何の試験だ」
相馬先輩が尋ねました。
「行政書士試験です!」
「お前、まだ受かってねえからな」
「分かってます!」
私は少しむっとしました。
でも。
この違い。
本当に大事です。
法律を覚えるとき、
「同種営業が必要」
だけで止めると危ない。
原則なのか。
絶対条件なのか。
例外があるのか。
そこまで確認する。
それが法律の勉強なのです。
◇
「第二の要件!」
私は勢いよく書きました。
――商号使用の許諾。
「つまり、名前を貸した側が、使用を認めたことですね」
「そうだ」
「昨日の黒田社長は、認めていました!」
「ああ」
私は昨日の会話を思い出しました。
黒田社長は言いました。
「看板くらい貸してやった」
さらに。
「うちの宣伝にもなる」
と。
そして、自分の商号を使った新聞広告まで掲載していた。
「これは、かなり強い証拠ですね」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、許諾は口頭でも成立する」
「え?」
「書面で『商号を貸します』と約束している必要はねえ」
私は鉛筆を止めました。
「……ということは」
「ああ」
「黙示の許諾でもいいんですね!」
「そうだ」
私は二重線を引きました。
明示の許諾。
はっきりと、名前を使ってよいと認めること。
黙示の許諾。
言葉で明確に認めていなくても、行動や事情から使用を承諾していたと認められること。
「例えば」
私は言いました。
「自分の店の名前が使われていることを知っていて、それを積極的に宣伝していたら?」
「許諾を認める有力な事情になるな」
「ですよね!」
「だが、勝手に使われていることを知らなかった場合は?」
「許諾がない可能性があります」
「そうだ」
ここも重要です。
単に誰かが他人の名前を勝手に使っただけで、名前の持ち主が必ず責任を負うわけではありません。
大切なのは。
商号を使わせたことについて、名板貸人側に責任を負わせる根拠があるかどうか。
「つまり、帰責事由ですね!」
「難しい言葉を知ってるな」
「受験生ですから!」
私は胸を張りました。
でも。
昨日の事件を思い出すと、すぐに理解できます。
黒田社長は、野崎が商号を使っていることを知っていた。
それどころか、広告まで出していた。
だから。
「勝手に使われただけだ」
とは、簡単には言えなかったのです。
「先輩」
「何だ」
「許諾がないときは、絶対に責任がないんですか?」
相馬先輩は少し考えました。
「名板貸そのものの責任は、原則として許諾が必要だ」
「はい」
「だが、別の責任まで全部否定されるとは限らねえ」
「……別の責任?」
「たとえば、本人が誤解を招く表示に関与していたとか、代理権があるように見せていたとか。別の法律問題になることもある」
「なるほど」
私は頷きました。
名板貸が成立しない。
だから、すべての責任が消える。
そんな単純な話ではありません。
ただし。
今日の本題は名板貸。
まずは商号使用の許諾を、きちんと確認する必要があるのです。
◇
「第三の要件!」
私はノートに書きました。
――取引相手の誤信。
「ここが、昨日の杉浦さんですね」
「ああ」
「杉浦さんは、東海機械商会が営業していると思って契約した」
「そうだ」
「実際には野崎の独立営業だった」
「うん」
つまり。
取引相手が、営業主を誤認していること。
「でも先輩」
「何だ」
「もし杉浦さんが、最初から野崎さんの独立営業だと知っていたら?」
「黒田に名板貸人として責任を追及するのは難しくなる」
「ですよね」
私は頷きました。
名板貸の制度は、名前を信じて取引した人を守るためのものです。
最初から真実を知っていたなら、その名前を信じて誤認したとはいえません。
つまり。
保護すべき信頼が存在しないのです。
「ここで、善意無過失という言葉が出てきます」
私は書きました。
善意。
実際の営業主が別人だと知らないこと。
無過失。
その誤認について不注意がないこと。
「ただし、ここは判例も確認しておきたいところです」
私は六法の横に判例ノートを置きました。
「判例では、取引相手に軽い不注意があったというだけで、必ず保護が失われるわけではありません」
相馬先輩が頷きました。
「重過失が問題になるんだったな」
「はい!」
そうです。
判例上、営業主の誤認について重大な過失がある場合は、悪意と同様に扱われ、保護されないと考えられています。
つまり。
善意であっても。
あまりにも不注意がひどければ、名板貸人に責任を負わせられないことがある。
「例えば?」
相馬先輩が尋ねました。
私は少し考えました。
「駅前営業所の契約書に、大きな文字で『東海機械商会とは無関係の野崎個人商店です』と書かれていたら?」
「うん」
「それを読める状態だったのに、何も確認せず、老舗の本店との契約だと信じ込んでいた場合は?」
「事情によっちゃ、重過失が問題になるだろうな」
「そうですよね」
私は頷きました。
一方。
昨日の杉浦夫妻は違いました。
駅前営業所の看板。
本店名義の新聞広告。
東海機械商会の名前が入った契約書。
領収書。
そして野崎の、
「本店と同じ保証や整備対応を受けられる」
という説明。
これだけ揃っていた。
「むしろ、東海機械商会の営業だと思う方が自然ですね」
「そうだ」
私は大きく丸をつけました。
外観。
許諾。
誤信。
この三つが揃って初めて、名板貸人の責任が問題になる。
そして。
営業の同種性や相手方の注意の程度も、具体的に検討する。
「できました!」
私はノートを掲げました。
「三要件、攻略です!」
「まだ終わりじゃねえぞ」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「一番大事な責任の話が残ってる」
……。
そうでした。
成立要件を覚えただけでは、まだ半分。
名板貸人は、何について責任を負うのか。
そこまで分かって、初めて完成なのです。
◇
「では、名板貸人の責任です!」
私は新しいページを開きました。
――名板貸人と名板借人は、取引によって生じた債務について連帯責任を負う。
「昨日の三百万円ですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「実際に契約したのは?」
「野崎です」
「代金を受け取ったのは?」
「野崎です」
「じゃあ、野崎には責任があるな」
「はい」
「黒田は?」
「商法二十三条の要件を満たせば、野崎と連帯して責任を負います!」
「よし」
私は少し考えました。
「連帯して責任を負うって、つまり……」
「ああ」
「杉浦さんは、野崎に請求することも、黒田さんに請求することもできるんですね」
「そうだ」
「必ず半分ずつ請求する必要はない」
「そのとおり」
私はノートに書きました。
三百万円の債務。
野崎に百五十万円。
黒田に百五十万円。
必ずそう分けるわけではない。
取引相手は、法律上の要件を満たす限り、名板貸人にも全額について責任を追及できる。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「三百万円を二回もらえるわけじゃねえぞ」
「もちろんです!」
「野崎から三百万円を回収したら、同じ債務について黒田からもう三百万円取れるわけじゃねえ」
「はい」
私は笑いました。
さすがに、そこは分かります。
名板貸人と名板借人が責任を負う。
それは。
被害者が二倍のお金を手に入れるという意味ではありません。
支払う責任を負う人が複数いるということです。
「でも、先輩」
「何だ」
「昨日の事件、最初は機械を引き渡す契約だったんですよね」
「そうだ」
「それが、どうして三百万円の返還になるんですか?」
相馬先輩が頷きました。
「そこを整理してみろ」
私は鉛筆を握りました。
野崎は機械を納入する義務を負っていました。
でも、納入しなかった。
そこで杉浦さんは履行を催告し、必要な解除手続を進めました。
その後。
契約が適法に解除されれば、原状回復の問題になります。
「つまり、支払った代金を返してもらう義務が生じるんですね」
「そうだ」
「そして、それも本件取引から生じた債務です」
「うん」
私は大きく書きました。
――契約解除による原状回復義務も、名板貸人の責任の対象になり得る。
なるほど。
ここが重要です。
名板貸人の責任は、売買契約で発生した最初の代金債務だけに限られるわけではありません。
取引に伴って生じる義務も、範囲に含まれることがある。
「では、先輩!」
「何だ」
「野崎が機械を納入せず、そのために損害が発生した場合は?」
「債務不履行による損害賠償だな」
「はい!」
「それも、取引から生じた債務として責任の対象になり得る」
私は書きました。
――債務不履行による損害賠償債務。
これも対象。
「じゃあ、手付金は?」
「契約の解除などによって返還義務が生じれば、それも対象になり得る」
「なるほど!」
私はさらに書きました。
――手付金返還義務。
これも対象。
こうして並べると、すっきりします。
売買代金などの取引上の債務。
債務不履行による損害賠償。
契約解除による原状回復。
手付金の返還。
これらは、名板貸人の責任に含まれ得る。
「でも」
私は鉛筆を止めました。
「何でも責任を負うわけじゃないんですよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「そこを忘れるな」
◇
「じゃあ、問題です!」
私は相馬先輩を見ました。
「今度は何だ」
「野崎が、配送中に自動車事故を起こしました!」
「うん」
「通行人に怪我をさせました!」
「うん」
「その損害賠償について、黒田さんは名板貸人として責任を負いますか?」
先輩は少し考えました。
「名板貸人だからってだけで、当然に責任を負うわけじゃねえ」
「正解です!」
私は得意になりました。
不法行為による損害賠償債務。
これは、原則として名板貸人の責任の範囲外です。
「なぜなら!」
私は説明しました。
「名板貸人の責任は、基本的に取引によって生じた債務を対象にするからです」
「そうだな」
「交通事故の被害者は、東海機械商会の商号を信じて売買契約をした人とは違います」
「うん」
もっとも。
事故について、名板貸以外の法律に基づいて責任が成立する可能性はあります。
たとえば、使用者責任など。
だから。
「名板貸の責任がないことと、ほかの責任が一切ないことは別問題ですね」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「その区別は必要だ」
「はい」
私は二重線を引きました。
でも。
ここで、相馬先輩が意地悪そうに笑いました。
「じゃあ、もう一問」
「はい!」
「野崎が、最初から機械を納入するつもりもないのに、老舗の看板を使って三百万円を騙し取ったら?」
私は止まりました。
「……詐欺ですね」
「そうだ」
「不法行為にもなり得ます」
「ああ」
「でも、不法行為だから名板貸人は責任を負わない……?」
そこで、私は昨日の話を思い出しました。
違う。
そう単純ではありません。
「先輩!」
「何だ」
「詐欺的な取引行為なら、責任を負う場合があります!」
「そうだ」
私はノートを開き直しました。
名板借人の詐欺的行為。
これが、取引行為の外形を持つ場合。
その損害賠償債務が、名板貸人の責任の範囲に含まれることがあります。
「これにも判例がある」
片桐所長が言いました。
「昭和五十八年一月二十五日の最高裁判決だ」
「昭和五十八年!」
私は書きました。
つまり。
今は昭和六十三年。
この判例は、既に存在しています。
未来の知識ではありません。
「やった!」
「何がだ」
相馬先輩が怪訝な顔をします。
「いえ、こちらの話です!」
私は笑いました。
今日の判例は、昭和の六法でも使える。
これは転生者にとって、かなり重要なことです。
さて。
問題は内容です。
取引とは関係なく発生した不法行為。
これは原則として名板貸人の責任の対象外。
でも。
取引を装って、信用を利用し、相手から金銭を騙し取る。
そんな行為については、取引によって生じた債務として名板貸人の責任が問題になる。
「なるほど……」
私は呟きました。
「つまり、不法行為という言葉だけで判断しちゃいけないんですね」
「そうだ」
「何をしたのか」
「うん」
「それが取引とどう結びついているのか」
「そうだ」
「そこまで見なければならない」
片桐所長が頷きました。
「法律上の分類だけでなく、行為の実質を見ろ」
「はい!」
私はノートに大きく書きました。
――単なる不法行為は原則対象外。ただし、取引行為の外形を持つ詐欺的行為には注意。
これなら。
試験でも間違えにくそうです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、昨日から会社法だの何だの言ってるが」
「……はい」
「名板貸と会社の話、混同してねえか?」
私は少し笑いました。
「実は、そこを整理したかったんです」
私はノートの右側に書きました。
――昭和六十三年。
商法。
有限会社法。
そして。
――現代。
商法。
会社法。
「先輩、昭和六十三年には、まだ独立した会社法がありませんよね」
「そうだな」
「株式会社の制度は、商法第二編にあります」
「ああ」
「有限会社には、有限会社法があります」
「そうだ」
私は頷きました。
現代では、会社法という単独の法律があります。
株式会社や持分会社などの制度が、会社法の中で整理されています。
しかし昭和六十三年には、そのような独立した会社法はまだありません。
「しかも、株式会社を作るのが大変なんですよね」
「大変?」
相馬先輩が聞き返しました。
「はい。発起人が七人以上必要で」
「そうだ」
「取締役も三人以上」
「ああ」
「監査役も必要です」
「そうだな」
私はため息をつきました。
「今なら、一人でも株式会社を作れるのに……」
「……今?」
相馬先輩の眉が上がりました。
しまった。
「い、いえ!」
「お前、また訳の分からんことを」
「ただの想像です!」
「想像で法律を変えるな」
「はい……」
私は苦笑しました。
でも。
現代の知識を持っている私からすると、昭和の会社制度はかなり堅苦しく感じます。
現代なら、発起人一人。
取締役一人。
最低資本金の規制もなく、法律上は一円の資本金でも株式会社を設立できる。
さらに、合同会社という会社形態もあります。
でも。
昭和六十三年には、そんな便利な制度はありません。
株式会社を作るために、七人の発起人を揃える必要がある。
取締役も三人以上。
監査役も必要。
「だから昔は、頭数合わせが問題になったんですね……」
私は呟きました。
「頭数合わせ?」
相馬先輩が尋ねました。
「ええ。会社を作りたい人が、必要な人数を揃えるために親戚や知人に頼んで、名前だけ借りるようなことです」
「ああ」
先輩が頷きました。
「名ばかりの役員なんて話は、珍しくねえな」
「ですよね」
「だが、名板貸とは別の問題だぞ」
私は顔を上げました。
「……あ!」
そうです。
似ているけど、違います。
名板貸。
商号を貸して営業させること。
一方。
株式会社の設立や役員の頭数合わせ。
これは、発起人や取締役などの資格、選任、責任に関わる問題です。
「名前を貸すっていう日常的な言い方が同じでも、法律上は全然違うんですね」
「そうだ」
所長が言いました。
「商号を貸したのか、役員の名義を貸したのか。まずそこを分けろ」
「はい!」
私は書きました。
商号の名板貸。
営業主体の誤認と取引債務の問題。
役員の名義貸し。
会社の機関、選任の実態、役員としての責任などの問題。
「なるほど」
私は頷きました。
商法・会社法分野では、
「名前を貸しただけ」
という言葉が、いろいろな場面に出てきます。
でも。
どの名前を。
何のために。
どんな権限や立場で貸したのか。
そこを見なければ、適用する法律を間違えてしまうのです。
◇
「それにしても」
私はノートを眺めながら言いました。
「どうして現代では会社法が独立したんでしょうね」
相馬先輩が顔をしかめました。
「また未来の話か」
「いえ、制度の整理です!」
「同じだろ」
「違います!」
私は笑いました。
昔の商法は、商人の営業についての基本的なルールと、会社に関するルールを一つの法律の中に置いていました。
さらに有限会社については、別の法律がありました。
それが時代の変化とともに、会社制度を分かりやすく整理し、使いやすくする必要が高まっていく。
そして。
平成十七年に会社法が制定され、平成十八年から施行される。
株式会社などの会社制度が、独立した法律として再編されるのです。
設立の手続。
機関設計。
株式。
役員。
組織再編。
そうした制度が整理され、企業の規模や実情に応じた選択肢も広がっていきます。
「ただし!」
私は自分で言いました。
「会社法が独立したからといって、商法がなくなったわけではありません!」
相馬先輩が頷きました。
「そりゃそうだろ」
「しかも、名板貸の規定も残るんです!」
「ほう」
私は少し嬉しくなりました。
ここが今回の重要ポイント。
昭和六十三年の名板貸人の責任。
商法第二十三条。
現代では、商法第十四条に、商人の名板貸人の責任が定められています。
また、会社がその商号を他人に使わせる場合については、会社法第九条にも規定があります。
「つまり!」
私は言いました。
「会社制度の整理が進んでも、商号を信用した取引相手を守る考え方は引き継がれているんです!」
相馬先輩が少し笑いました。
「なるほどな」
「はい!」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
名板貸人の責任は、商法二十三条。
現代。
商人については商法十四条。
会社については会社法九条。
「……すごい」
私は呟きました。
「何がだ」
「条文番号が変わっても、守ろうとしているものが続いているんです」
所長が静かに頷きました。
「商売の信用は、時代が変わっても重要だからな」
その言葉に、私は少し胸が熱くなりました。
法律は改正される。
新しい会社制度もできる。
株式会社の設立が簡単になる。
でも。
だからといって、信用を悪用していいことにはならない。
むしろ。
誰でも商売を始めやすくなる時代だからこそ。
名前や看板を信じて取引した人を守る仕組みは、大切なのかもしれません。
◇
「さて」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「確認問題だ」
「はい!」
私は姿勢を正しました。
「第一問。名板貸人とは誰だ」
「商号を他人に使用させる側です!」
「名板借人は?」
「商号を借りて営業する側です!」
「よし」
所長は続けました。
「名板貸の成立要件は?」
私は指を三本立てました。
「第一に、商号使用による外観の存在!」
「うん」
「第二に、名板貸人による使用の許諾!」
「うん」
「第三に、取引相手の誤信!」
所長が頷きました。
「営業の同種性は?」
「特段の事情がない限り必要です!」
「許諾は明示に限るか」
「いいえ! 黙示でも認められます!」
「相手方が別人の営業と知っていたら?」
「原則として、名板貸による保護は受けられません!」
「相手方に重大な過失があったら?」
「判例上、悪意と同様に扱われ、保護されないことがあります!」
「よし」
私は拳を握りました。
完璧。
ここまでは大丈夫です。
「では」
所長が続けます。
「名板借人の債務不履行による損害賠償は?」
「名板貸人の責任の対象になり得ます!」
「契約解除による原状回復義務は?」
「対象になり得ます!」
「手付金返還義務は?」
「対象になり得ます!」
「名板借人が起こした、取引とは無関係な交通事故の損害賠償は?」
「名板貸人の責任の範囲には、原則として含まれません!」
「取引行為の外形を持つ詐欺的行為は?」
「責任の対象になる場合があります!」
所長が頷きました。
「よし」
「やった!」
私は思わず立ち上がりました。
名板貸。
成立要件。
責任の範囲。
これで、かなり理解できました。
でも。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「じゃあ、俺からも一問」
「はい!」
「昭和六十三年の商法二十三条は、何を定めてる?」
「名板貸人の責任です!」
「現代の商法では?」
「十四条です!」
「会社が商号を貸した場合、現代の会社法では?」
「九条です!」
「ほう」
相馬先輩が感心したように頷きました。
私は得意になりました。
「それから、昭和六十三年には合同会社はありません!」
「そうだな」
「株式会社の発起人は七人以上!」
「ああ」
「取締役は三人以上!」
「そうだ」
「監査役も必要!」
「うん」
「現代では一人で株式会社を――」
「だから未来の法律を持ち込むな!」
「……はい!」
また怒られました。
でも。
今日の勉強は、かなり実りがありました。
◇
窓の外は、もう夕暮れでした。
商店街の看板に、ぽつぽつと明かりが灯り始めています。
私はノートを見直しました。
名板貸人。
名板借人。
外観。
許諾。
誤信。
連帯責任。
最初は、どれも硬い法律用語でした。
でも。
昨日の事件を思い出すと、意味が分かります。
東海機械商会の看板。
野崎の独立営業。
黒田社長による商号の使用許諾。
そして。
老舗の信用を信じて三百万円を払った杉浦夫妻。
あの三人の関係を思い出せば、名板貸の仕組みは忘れません。
「所長」
「何だ」
「昨日、黒田社長が言った言葉、覚えてますか?」
「何だ」
「俺は名前を貸しただけだ、って」
「ああ」
私は少し笑いました。
「でも、その言葉が一番まずかったんですよね」
「そうだな」
「名前を貸していたことを認めたわけですから」
所長が頷きました。
「ただし、その一言だけで責任が決まるわけではない」
「はい」
「名前を使わせた事実」
「はい」
「営業の外観」
「はい」
「相手方の誤認」
「はい」
「それらを証拠で繋いだから、法律上の責任を指摘できた」
私は頷きました。
そうです。
法律の条文だけを知っていても、事件は解決しません。
事実を調べる。
証拠を揃える。
要件に当てはめる。
そして、書面にする。
それが行政書士の仕事です。
もちろん。
紛争の代理交渉や訴訟は、弁護士の領域です。
でも。
依頼人から事情を聞き、事実経過を整理し、適法な範囲で書類を作成する。
それによって、依頼人が自分の権利を理解し、必要な専門家へ相談する準備を整えることはできます。
昨日の通知書も、そうでした。
三百万円を取り戻したのは、魔法の言葉ではありません。
法律上の要件。
そして、それを裏付ける証拠。
その積み重ねだったのです。
◇
「よし」
私は最後のページを開きました。
「今日の一行です!」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「またそれか」
「これが大事なんです!」
私は鉛筆の先を整えました。
そして。
ゆっくり書きました。
――名板貸は「名前を使わせた」「本人だと信じた」「取引した」。その信用には、連帯責任がついてくる。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
東海機械商会の看板。
野崎の契約書。
黒田社長の、
「名前を貸しただけ」
という言葉。
そして。
三百万円が戻った日。
杉浦美代子さんが、通帳を握り締めていた姿。
あれを思い出せばいい。
名板貸。
ただの暗記項目ではありません。
その名前を信用して、お金を払った人がいる。
その信用が裏切られたとき、誰が責任を負うのか。
そこを決める制度なのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「……またですか」
「見習いだろ」
私は少し考えました。
そして、にやりと笑いました。
「先輩!」
「何だ」
「私、いいことを思いつきました!」
「嫌な予感がするな」
「先輩の名前を借りて、掃除当番を代わってもらいます!」
「は?」
「名前を貸してください!」
「何に使うんだよ!」
「掃除当番表に、相馬誠司って書きます!」
「ふざけんな!」
私は笑いました。
「だって、名前を貸したら責任を負うんですよね!」
「それは名板貸じゃねえ!」
「ええっ!」
「営業してねえだろ!」
「……あ」
そうでした。
名板貸は、他人の商号を使って営業することを許すという問題です。
掃除当番表に名前を書く話とは違います。
「先輩!」
「何だ!」
「じゃあ、私が相馬先輩の名前で商売を始めたら?」
「もっと駄目だ!」
「商号使用の許諾が必要ですよね!」
「許諾しねえ!」
「黙示でもいいんですよ!」
「黙ってても許さねえ!」
私は吹き出しました。
相馬先輩も笑っています。
そのとき。
奥から片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい?」
「掃除当番は、名前を貸さなくても決まっている」
「……はい」
「今日はお前だ」
「……はい」
相馬先輩が大笑いしました。
「ほらな!」
「所長まで!」
「片付けろ」
「はい……」
私は箒を手に取りました。
でも。
掃除を始める前に、もう一度だけノートを見ました。
――名板貸は「名前を使わせた」「本人だと信じた」「取引した」。その信用には、連帯責任がついてくる。
よし。
完璧。
外では、商店街の灯りが増えていました。
魚屋。
八百屋。
薬局。
機械商会。
それぞれの看板には、長年積み重ねられた信用があります。
そして、その信用を信じて、今日も誰かが買い物をしています。
看板は、ただの文字ではありません。
商売を続けてきた人たちの約束の積み重ねです。
だから。
名前を貸すということは。
思っているより、ずっと重い。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「名板貸人の責任って、怖いですね!」
「そうだな!」
「だから、先輩の名前は借りません!」
「最初から貸さねえよ!」
私は笑いながら床を掃き始めました。
昭和六十三年。
商法第二十三条。
名板貸人の責任。
古い言葉。
少し難しい制度。
でも。
守っているものは、とても分かりやすい。
人が人を信じて商売する。
その信用を、勝手な都合で裏切らせない。
それだけです。
私は箒を動かしながら、小さく呟きました。
「名前は貸せても、信用の責任までは切り離せない……か」
うん。
いい言葉です。
明日も覚えていられそう。
そのとき。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい?」
「床の隅、まだ埃が残ってるぞ」
「……はい」
「掃除も最後までやれ」
「分かりました!」
私は箒を握り直しました。
どうやら。
名前を貸すのも、仕事を任されるのも。
責任というものは、簡単には消えないようです。
残念ながら。
今日の掃除当番については。
商法二十三条を何度読み返しても、相馬先輩に押しつけることはできないのでした。
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