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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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579/701

[商法・名板貸の責任]現場編 「名前を貸しただけだ」の嘘。老舗の看板で三百万円を奪った男と、商法二十三条の逆襲

挿絵(By みてみん)

 看板には、信用がぶら下がっています。


 たとえば。


 町で五十年続く老舗の名前。


 その名前が書かれた契約書。


 その名前が押された領収書。


 それを見た人は、こう思うでしょう。


 ――あの店が相手なら、大丈夫だ。


 でも。


 その看板の裏側で、まったく別の人間が商売をしていたら?


 そして、その人間が代金を持ち逃げしたら?


 看板の持ち主は、こう言うかもしれません。


「俺は名前を貸しただけだ。金を返す義務なんかない」


 果たして。


 本当に、それで済むのでしょうか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、商法の中でも妙に古風な名前の制度に出会うことになります。


 名板貸。


 読み方は、ないたがし。


 最初に聞いたときは、何かの板を貸す商売かと思いました。


 違いました。


 貸すのは、名前。


 そして。


 名前を貸した人間が、借りた人間の借金まで背負わされることがある。


 そんな、恐ろしい制度だったのです。


 ◇


「三百万円、返してもらえないんです!」


 朝九時。


 事務所の扉が開くなり、女性が叫びました。


 年齢は四十歳前後。


 紺色の作業着。


 指先には小さな傷がいくつもあります。


 その後ろには、白髪の男性が立っていました。


「お願いします。あの金が戻らなければ、うちの工場は潰れます」


 女性は深く頭を下げました。


「まず、お掛けください」


 片桐所長が椅子を勧めます。


 女性の名前は、杉浦美代子さん。


 四十二歳。


 夫の杉浦正夫さんと二人で、小さな金属加工工場を営んでいます。


 従業員は四人。


 工場では、農業機械の部品や食品工場向けの金具を作っているそうです。


「うちは、大きな会社じゃありません」


 美代子さんが言いました。


「主人が旋盤を回して、私が帳簿をつけて、みんなで何とかやっています」


「三百万円というのは?」


 私が尋ねました。


「新しい機械の代金です」


「機械?」


「業務用の食品包装機です。うちの工場で、新しい仕事を始めるために必要だったんです」


 美代子さんは、鞄から一冊のパンフレットを取り出しました。


 そこには、大きな文字で、


 ――東海機械商会。


 と書かれています。


 地元では有名な機械販売店です。


 創業五十年。


 工場向けの機械や農業機械を扱う老舗。


 この地域で商売をしている人間なら、一度は名前を聞いたことがあるでしょう。


「東海機械商会なら、安心だと思ったんです」


 美代子さんは続けました。


「先代の頃から、この町の工場を相手に商売していましたから」


「それで契約を?」


「はい」


 彼女が差し出したのは、売買契約書でした。


 私は目を通します。


 ――食品包装機一式。


 ――売買代金三百万円。


 ――代金は契約時に全額前払い。


 ――納入期限は昭和六十三年九月三十日。


 そして。


 売主欄には、


 ――東海機械商会 駅前営業所。


 ――営業責任者 野崎俊二。


 とありました。


「駅前営業所……?」


 私は首をかしげました。


「本店ではないんですか?」


「ええ。駅前に新しい営業所ができたと聞いて」


 美代子さんが頷きます。


「看板もありました。東海機械商会って、大きく書いてあって」


「契約書にも、その名前が?」


「はい」


「領収書は?」


「あります」


 私は領収書を受け取りました。


 そこにも。


 ――東海機械商会 駅前営業所。


 と印刷されています。


 金額。


 三百万円。


 受領者。


 野崎俊二。


 ……なるほど。


「それで、機械が届かなかったんですね」


 私が言うと、美代子さんの表情が歪みました。


「九月三十日になっても届きませんでした」


「はい」


「電話したら、輸送が遅れているって」


「それで?」


「十月五日に行ったら……」


 彼女は唇を噛みました。


「営業所が、空っぽだったんです」


 私は固まりました。


「……空っぽ?」


「机も、電話も、機械の見本も、何もなくなっていました」


 それは。


 完全に逃げています。


「野崎という人は?」


「行方が分かりません」


「では、本店には連絡しましたか?」


「しました!」


 美代子さんが声を強めました。


「そうしたら、社長が!」


 彼女は鞄から、もう一枚の紙を取り出しました。


 東海機械商会からの回答書。


 私は読みました。


 ――駅前営業所の営業は、野崎俊二が独立して行っていたものである。


 ――当商会は同人の営業及び取引に関与していない。


 ――したがって、本件売買契約及び代金返還について、当商会は一切の責任を負わない。


 最後に。


 ――当商会は名称の使用を認めたのみであり、債務を負担するものではない。


 ……。


「名称の使用を認めたのみ?」


 私は、その一文をもう一度読みました。


 名称。


 使用。


 認めた。


 これって。


「所長!」


「何だ」


「名前を貸したって、自分で認めていますよ!」


 片桐所長は静かに頷きました。


「ああ」


「だったら、名板貸です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「商法の名板貸人の責任です!」


 よし。


 今回は分かります。


 行政書士試験で勉強したところです。


 名前を貸した人が、取引相手に責任を負う。


 あの制度。


「これ、会社法でも――」


「待て」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい?」


「今、何法って言った?」


「会社法です」


「……会社法?」


 先輩が顔をしかめました。


「何だ、その法律は」


 ……あ。


 私は固まりました。


 またです。


 また未来の法律を持ち込みました。


 現代には、会社法という単独の法律があります。


 でも。


 昭和六十三年には、まだ存在しません。


 この時代、株式会社などのルールは商法第二編や有限会社法などに分かれています。


 しかも。


 今回の名板貸は、会社法そのものの問題ではありません。


 商人の営業と、その商号の信用を守る商法の問題です。


「す、すみません!」


「お前は何でも会社法で考えるな」


「癖で……」


「癖で存在しねえ法律を使うな」


「はい……」


 私は慌てて六法を開きました。


 商法。


 第二十三条。


 そこに。


 名板貸人の責任がありました。


「ありました!」


「最初からそこを開け」


 相馬先輩が呆れた顔をします。


 でも。


 私はもう、別のことに気を取られていました。


 商法二十三条。


 名前を貸した者が。


 その名前を信じて取引した人に対し。


 借りた者と連帯して、取引から生じた債務を負う。


 つまり。


 野崎が三百万円を返せなくても。


 東海機械商会に請求できる可能性がある。


「美代子さん!」


「はい!」


「まだ諦める必要はありません!」


 美代子さんの目に、かすかな光が戻りました。


「本当ですか?」


「はい!」


 私は力強く頷きました。


 ところが。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「まだ決めつけるな」


「え?」


「名板貸の責任が成立するかどうか、確かめることがある」


「……はい」


 所長は契約書を指差しました。


「誰が、何を貸した」


「東海機械商会が、野崎に商号を貸しました」


「どう使った」


「駅前営業所として営業しました」


「杉浦さんは、誰と取引していると思っていた」


 私は美代子さんを見ました。


「……東海機械商会ですか?」


「はい!」


 美代子さんが答えました。


「私は、あの老舗が営業していると思っていました!」


 所長が頷きました。


「なら、その思い込みに理由があったことを確かめよう」


「はい」


「看板だけでは足りん。商号の使用を許した事情も調べる」


 私は鉛筆を握りました。


 今回の事件。


 ただ、名前を使っていたという話ではありません。


 その名前を。


 誰が使わせたのか。


 相手は何を信じたのか。


 そして。


 なぜ、そう信じたのか。


 そこが勝負になるのです。


 ◇


「俺は名前を貸しただけだ!」


 翌日。


 東海機械商会の本店。


 応接室に、怒鳴り声が響きました。


 声の主は、社長の黒田源一。


 五十八歳。


 太い眉毛。


 金色の腕時計。


 大きな革張りの椅子にふんぞり返っています。


「野崎が何を売ろうが、俺の知ったことじゃねえ!」


 黒田社長は机を叩きました。


「金を受け取ったのは野崎だろうが!」


 私は、その態度に少し腹が立ちました。


 相談者の美代子さんは、三百万円を失っています。


 従業員の給料だって危ない。


 なのに。


 この社長は、まるで他人事です。


「黒田社長」


 相馬先輩が言いました。


「今日は、事情の確認に伺いました」


「事情?」


「はい。杉浦さんから書類作成の依頼を受けています。まず、商号使用の経緯を確認したい」


「行政書士だろ?」


「そうです」


「だったら、俺に金を払えと命令できるわけじゃねえよな?」


「もちろんです」


 相馬先輩は平然と答えました。


「俺たちは弁護士じゃありません。紛争の代理交渉をするつもりもありません」


「だったら帰れ!」


「ただし」


 先輩は静かに言いました。


「杉浦さん本人が送る通知書には、確認された事実と法律上の問題を正確に記載します」


 黒田社長が鼻で笑いました。


「好きに書けよ」


「では、一つだけ」


「何だ」


「駅前営業所の看板を掲げることは、認めていたんですね?」


「ああ」


「東海機械商会という名前で?」


「そうだよ!」


「なぜです?」


「野崎が昔、うちで働いてたからだ!」


 黒田社長は椅子にもたれました。


「独立するとき、信用がねえから名前を使わせてくれって頼まれてな」


「それで?」


「看板くらい貸してやったんだよ!」


 ……。


 私は思いました。


 看板くらい。


 その一言。


 商法の勉強をしている人間には、かなり危険な言葉です。


「契約書や領収書にも、東海機械商会の名前を使ってよいと?」


 私が尋ねると、黒田社長は肩をすくめました。


「細かいことは知らねえよ」


「でも、駅前営業所として営業していることは?」


「知ってたさ」


「止めなかったんですか?」


「何で止めるんだよ。うちの宣伝にもなるだろ」


 なるほど。


 私はノートに書きました。


 商号使用を認識。


 営業を容認。


 宣伝効果を期待。


 少なくとも、無断使用だと一蹴できる事情ではありません。


「ところで」


 相馬先輩が尋ねました。


「野崎さんは、何を販売していましたか?」


「機械だよ」


「東海機械商会と同じですね」


「まあな」


「食品工場向けの包装機械も?」


「扱ってるよ」


 先輩が小さく頷きました。


「分かりました」


 私は思わず先輩を見ました。


 同じ営業。


 つまり、営業の同種性。


 ここも重要なんですね。


 たとえば。


 食堂の名前を使わせて、別人が運送業を始めた。


 そんな場合は、同じ名前だからといって、当然に名板貸責任が生じるわけではありません。


 もちろん、特別な事情があれば別です。


 でも今回は違う。


 機械販売店が。


 機械販売店の名前を貸して。


 別の人間に、機械を売らせている。


 お客さんが同じ店だと信じても、無理はありません。


「それでな」


 黒田社長が笑いました。


「野崎に聞けば分かるが、あいつの商売はあいつのものだ」


「はい」


「売上げも、仕入れも、借金も全部あいつのもの!」


「承知しました」


「だから俺には関係ねえ!」


 相馬先輩が、初めて少しだけ笑いました。


「社長」


「何だ」


「商法二十三条をご存じですか?」


「……何?」


「商法二十三条です」


 黒田社長は眉をひそめました。


「知らねえな」


「そうですか」


「何なんだ、それ」


 先輩は、手元の六法を閉じました。


「名前を貸した者に、一定の責任を負わせる規定です」


 黒田社長が一瞬黙りました。


 しかし。


 すぐに笑いました。


「馬鹿言うな!」


「……」


「俺は保証人になった覚えはねえぞ!」


 なるほど。


 そこですか。


 黒田社長は、保証契約を結んでいないから責任がないと思っている。


 でも。


 名板貸人の責任は、保証人として契約したから生じるものではありません。


 商号を貸して。


 その外観を信じた相手と取引が行われた。


 そのことを法律が問題にするのです。


「保証人の話ではありません」


 私は思わず口を開きました。


「商法によって、責任が生じる場合があるんです!」


 黒田社長はこちらを見ました。


「嬢ちゃん、何歳だ?」


「十八歳です!」


「十八?」


「はい!」


「そんな小娘に商売を教わるほど、俺は落ちぶれちゃいねえ!」


 ……。


 むかっ。


 でも。


 ここで言い返すのは得策ではありません。


 相馬先輩が、私の肩を軽く叩きました。


「こはる」


「はい」


「確認は終わりだ」


「……はい」


 先輩は黒田社長に一礼しました。


「お時間をいただき、ありがとうございました」


「二度と来るなよ」


「承知しました」


 私たちは応接室を出ました。


 店の外に出た瞬間。


「先輩!」


「何だ」


「あの社長、ひどくないですか!」


「ひでえな」


「完全に開き直ってますよ!」


「そうだな」


「もっと言ってやればよかったのに!」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「こはる」


「はい」


「口で勝っても、三百万円は戻らねえ」


「……はい」


「俺たちがやるのは、依頼人のための書類作りだ」


「はい」


「相手が自分の法律上の立場を理解するよう、事実を揃える」


 先輩は煙草に火をつけました。


「それからだ」


「何がです?」


「社長の顔色が変わるのは」


 ◇


 事務所に戻ってから。


 私は机いっぱいに資料を並べました。


 契約書。


 領収書。


 パンフレット。


 東海機械商会からの回答書。


 駅前営業所の写真。


 そして。


 新しく入手した資料。


「これ、すごいですね……」


 私は一枚の広告を見つめました。


 昭和六十三年七月。


 地元新聞に掲載された広告です。


 そこには、こう書かれていました。


 ――東海機械商会 駅前営業所開設。


 ――各種産業機械・食品包装機械を販売。


 ――お問い合わせは駅前営業所へ。


 そして。


 広告の下には。


 ――東海機械商会 代表 黒田源一。


 私は息を呑みました。


「所長!」


「何だ」


「社長の名前が入っています!」


 所長が広告を受け取ります。


「これを誰が出した?」


「新聞社に確認したところ、広告の申込人は本店の東海機械商会でした!」


 所長の目が、わずかに細くなりました。


「領収書は?」


「広告料金も本店が支払っています!」


 相馬先輩が笑いました。


「こりゃ、いい証拠だ」


「ですよね!」


 つまり。


 黒田社長は、野崎が勝手に名前を使っていたと主張できる立場ではありません。


 自分の店の名前で営業所開設を宣伝していた。


 しかも、同じ種類の機械販売です。


「これ、完全に許諾ですよね?」


 私が言うと、片桐所長は首を横に振りました。


「まだ言葉を慎重に選べ」


「え?」


「商号使用を許諾したことを強く裏付ける資料だ。それと、取引相手が誤信したことは別に確かめる」


「あ……」


 そうでした。


 名板貸。


 外観がある。


 名前を使わせた。


 そして。


 取引相手が、その名前を信用して契約した。


 この三つを、丁寧に繋がなければなりません。


「杉浦さんが、最初から野崎の独立営業だと知っていたら?」


 所長が尋ねました。


「……名板貸人の責任は認められにくくなります」


「そうだ」


「東海機械商会が売主だと思っていたことが重要なんですね」


「うん」


 私は美代子さんに、改めて話を聞きました。


「契約前に、野崎さんから独立した別の店だという説明はありましたか?」


「いいえ」


「むしろ、どんな説明を?」


「東海機械商会の駅前営業所を任されている、と」


「本店の会社とは別だという話は?」


「一度もありません」


 美代子さんは、古い手帳を取り出しました。


「私、商談の日のことを書いているんです」


 そこには、


 ――八月十日 東海機械商会駅前営業所にて包装機相談。


 ――野崎氏、本店と同じ保証・整備対応との説明。


 と書いてありました。


「この広告も見たんです」


 美代子さんは新聞広告を指差しました。


「だから、安心したんです」


「……そうだったんですね」


「もし個人で始めたばかりのお店だと知っていたら、三百万円も前払いしませんでした」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は、事件の中心が見えた気がしました。


 美代子さんは、野崎の個人的な信用で三百万円を払ったわけではない。


 五十年続く老舗の信用を信じていた。


 その看板がなければ。


 そもそも契約しなかったかもしれない。


「所長」


「何だ」


「だから名板貸人に責任を負わせるんですね」


 所長は頷きました。


「そういう制度だ」


 私は広告を見ました。


 大きく印刷された老舗の商号。


 五十年積み重ねた信用。


 その信用を、野崎は利用した。


 そして黒田社長も、その利用を認めていた。


 ならば。


 都合が悪くなったときだけ、


「俺は知らない」


 では、済まない可能性がある。


 商法は、そこを見ているのです。


 ◇


「さて、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「通知書を書け」


「はい!」


「ただし、何を請求するのか、最初に決めろ」


 私は鉛筆を止めました。


「……三百万円の返還です」


「どうして返還する?」


「機械が届かなかったからです!」


「届かなけりゃ、自動的に契約が消えるのか?」


「あっ」


 私は黙りました。


 確かに。


 契約を結んだ。


 機械が納入されなかった。


 だから、三百万円を返せ。


 そう単純に書いてしまうと、法的な根拠が曖昧です。


「まず契約の状態を確かめろ」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「杉浦さんは、既に野崎に納入を催告しているな」


「はい。十月一日に電話で、十月七日までに納入してほしいと伝えています」


「その記録は?」


「手帳と、その後に送った書面の控えがあります」


「返事は?」


「ありません」


「野崎の事務所は?」


「既に閉鎖しています」


 所長は少し考えました。


「契約解除の要件を整理しろ。曖昧な通知にするな」


「はい」


 私は六法を開きました。


 債務不履行。


 履行遅滞。


 催告。


 解除。


 原状回復。


 そして。


 売主である野崎に生じる返還債務。


 そこへ、名板貸人の責任が重なってくる。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「名板貸人が三百万円を返すのは、直接お金を受け取ったからとは限らないんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きます。


「野崎と杉浦さんの取引から生じた債務について、商法が黒田にも責任を負わせる。それが筋だ」


「はい!」


「そこを書き間違えるなよ」


 私は頷きました。


 まず。


 契約したのは、杉浦さんと野崎。


 野崎は、名板借人。


 当然、自分の取引について責任を負います。


 そして。


 商号の使用を許した東海機械商会側が、名板貸人。


 要件を満たせば、その取引から生じた債務について、野崎と連帯して責任を負う。


「先輩」


「何だ」


「つまり、名板貸人に責任があるからといって、野崎の責任が消えるわけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「どちらも責任を負う」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――名板借人の責任は残る。


 ――名板貸人も、取引上の債務について連帯責任を負う場合がある。


 よし。


 ここが大事です。


 でも。


「所長、もし野崎が事故を起こして、誰かに怪我をさせていたら?」


 私が尋ねると、所長は顔を上げました。


「事故?」


「たとえば、駅前営業所の配送車で通行人をはねた場合です」


「なぜそう思う」


「名板貸人の責任って、どこまで及ぶのか気になって」


 所長が頷きました。


「いいところに気づいたな」


 私は少し嬉しくなりました。


「名板貸人が負うのは、基本的に取引によって生じた債務だ」


「はい」


「だから、名板借人が独立に起こした交通事故などの不法行為責任まで、当然に負うわけではない」


「なるほど」


「ただし、別の法律上の責任が成立する可能性はある。名板貸だけですべてを決めるな」


「はい」


「それと」


 相馬先輩が口を挟みました。


「詐欺まがいの取引なら話が違う」


「え?」


「野崎が最初から機械を納入するつもりもなく、老舗の看板を利用して代金を集めていたとしたら?」


 私は息を呑みました。


「……詐欺!」


「そうだ」


「でも、それは不法行為では?」


「そこが難しいところだ」


 先輩は六法を指差しました。


「取引と密接に結びついた詐欺的行為による損害なら、名板貸人の責任が問題になる場合がある」


「つまり……」


「不法行為だから全部対象外、とは言い切れねえんだよ」


 なるほど。


 名板貸。


 責任の範囲にも、境界がある。


 契約から生じた代金返還。


 債務不履行による損害賠償。


 契約解除に伴う原状回復。


 手付金の返還。


 そうした取引上の債務は、責任の対象になり得る。


 一方。


 取引とは別に起きた不法行為は、原則として別問題。


 しかし。


 看板の信用を利用した詐欺的な取引については、責任を検討する余地がある。


「……難しいですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「名板貸ってのは、名前を貸した奴を何でもかんでも罰する制度じゃねえ」


「はい」


「その名前を信じて取引した人間を守るための制度だ」


 私は、しばらく黙りました。


 そうか。


 目的を忘れると、範囲も分からなくなる。


 誰を。


 何から。


 守ろうとしているのか。


 そこが大切なのです。


 ◇


 三日後。


 杉浦さんが野崎宛てに出した契約解除の意思表示を記載した書面は、所在不明のため配達できず、戻ってきました。


 その前から電話も不通です。


 野崎の居場所は、依然として分かりません。


「所長」


 私は戻ってきた封筒を見ました。


「これじゃ、解除の通知が届いていません」


「ああ」


「どうすれば……」


「届いていないものを、届いたことにはできん」


 所長は静かに答えました。


「所在調査を続ける。必要なら、弁護士と相談して意思表示の公示による方法も検討する」


「はい」


「ただし、取引の記録と、黒田側の名板貸責任を裏付ける資料は、今のうちに固めておけ」


 私は頷きました。


 書類は、魔法ではありません。


 内容証明郵便を出しただけで、契約が何でも解除されるわけではない。


 相手に届くべき意思表示には、到達の問題がある。


 法的な要件を満たさないまま、


「返せ!」


 と書いても、相手に反論の余地を与えてしまう。


 だから。


 片桐事務所は、急がず、しかし止まらずに動きました。


 所在調査のための資料整理。


 解除手続に関する弁護士への相談準備。


 商号使用の許諾に関する証拠収集。


 そして。


 杉浦さん本人名義による、東海機械商会への通知書。


 その原案を、私が任されました。


「書けたか」


 相馬先輩が尋ねます。


「はい!」


 私は原稿用紙を差し出しました。


 先輩が読み始めました。


「……お前」


「はい?」


「これは何だ」


「通知書です!」


「俺には喧嘩状に見える」


「えっ!」


 そこには、私が勢いで書いた一文がありました。


 ――貴殿は悪質な名板貸行為によって被害者を欺いたものであり、直ちに三百万円を返還すべきである。


 相馬先輩は赤鉛筆を取りました。


「消せ」


「ええっ!」


「『欺いた』と断定できる証拠は?」


「……ありません」


「『悪質』と評価する必要は?」


「……ありません」


「それから、契約解除の効力がまだ確定していないのに、返還債務が既に発生したと断定するな」


「はい……」


 真っ赤になりました。


 私の原稿。


 惨敗です。


 片桐所長が言いました。


「感情を書き込むな」


「はい」


「相手が否定できない事実を書け」


「はい」


「条文を正確に置け」


「はい」


「その法律上の意味を、必要な範囲で示せ」


 所長は机に、新聞広告を置きました。


「この一枚を使え」


 私は広告を見つめました。


 東海機械商会。


 駅前営業所開設。


 代表、黒田源一。


 ……なるほど。


 これが、相手を追い詰める証拠。


 私は原稿用紙を新しく取り出しました。


 今度は。


 怒りではなく。


 事実で書きます。


 ◇


 午後四時。


 机の上に、新しい通知書が完成しました。


 差出人。


 杉浦正夫・杉浦美代子。


 宛先。


 東海機械商会 営業主 黒田源一。


 私は読み上げました。


「第一。本件取引の経緯」


 相馬先輩が頷きます。


「昭和六十三年八月十日、通知人らは、東海機械商会駅前営業所において、野崎俊二との間で食品包装機一式の売買契約を締結し、代金三百万円を支払った」


「うん」


「第二。商号使用の状況」


 私は続けます。


「同営業所には東海機械商会の商号を表示した看板が掲げられ、契約書、領収書及び広告にも同商号が使用されていた」


「うん」


「第三。貴殿による商号使用の許諾」


 私は少し息を吸いました。


「貴殿は、野崎俊二が東海機械商会の商号を使用して機械販売業を営むことを認めていた。また、貴商会名義で駅前営業所開設の新聞広告を掲載していた」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。通知人らの認識」


 私は読みます。


「通知人らは、同営業所を貴商会の営業所であると信じ、その長年にわたる営業上の信用を考慮して本件契約を締結した」


「よし」


「第五。商法第二十三条に基づく責任」


 私は、ここで一度止まりました。


 この一文。


 今日の核心です。


「商法第二十三条は、自己の商号を使用して営業をすることを他人に許諾した者について、自己を営業主と誤認して取引した者に対し、その取引によって生じた債務を、名板借人と連帯して弁済する責任を定めている」


 静かな事務所に、私の声が響きました。


「本件においては、商号の使用状況、貴殿による許諾、営業内容の同種性及び通知人らの認識から、同条の適用が問題となる」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は続けました。


「第六。本件契約に関する債務」


「うん」


「本件機械は納入期限を経過しても引き渡されておらず、通知人らは野崎俊二に対し履行を催告したが、現在まで納入されていない」


 さらに。


「通知人らは、必要な解除手続を進めており、契約解除に伴う代金返還債務その他本件取引から生じる債務について、貴殿が商法第二十三条に基づき責任を負うと考える」


 私は顔を上げました。


「最後です」


「読め」


「以上の事実及び法律上の問題について、貴殿の見解を、指定期日までに書面にて回答されたい」


 そして。


 ――本件が任意に解決されない場合には、通知人らにおいて弁護士に相談のうえ、法的手続を検討する。


 読み終わりました。


 相馬先輩が腕を組みました。


「まあ、いいだろう」


「本当ですか!」


「最初の喧嘩状よりはな」


「そこは忘れてください!」


 片桐所長は、最後の部分に目を通しました。


 そして。


 一箇所だけ、赤鉛筆を入れました。


「こはる」


「はい」


「黒田が個人商人であることは確認したな」


「はい。東海機械商会は株式会社ではありません。黒田源一さんが個人で営む商店です」


「そうだ」


 所長が頷きます。


「だから今回、黒田の責任を論じるのに、会社の法人格を持ち出す必要はない」


「あ……」


「商号は店の名前だ。しかし、個人商人なら、権利義務の主体は営業主本人だ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 東海機械商会。


 名前だけ見ると、大きな会社のように思えます。


 でも、商会という言葉だけで、株式会社だとは限らない。


 個人商人なら。


 その商売の債務は、営業主である個人の責任の問題になります。


「つまり、黒田さんが商法二十三条の責任を負う場合……」


「その責任は、黒田個人のものだ」


 相馬先輩が言いました。


「店の金庫だけの話じゃねえ」


「……はい」


「もっとも、すぐに財産を差し押さえられるわけじゃない。争いがあれば、裁判などの手続が要る」


「分かりました」


 私は最後の一文を見つめました。


 静かな文章。


 罵倒もない。


 脅しもない。


 ただ。


 黒田源一という人間が。


 何を許し。


 何を表示し。


 その結果、誰が何を信じたのか。


 それだけが、淡々と並んでいます。


「所長」


「何だ」


「これ、怖いですね」


「そうか」


「黒田社長、名前を貸しただけだから責任がないって言ってましたよね」


「ああ」


「でも、その『名前を貸した』という事実そのものが、責任を生むかもしれない」


 所長が頷きました。


「そういうことだ」


 私は通知書を見ました。


 相手が逃げ道として使った言葉が。


 法律の前では、逆に相手を追い詰める。


 これが。


 名板貸。


 商法二十三条の恐ろしさなのです。


 ◇


 通知書を内容証明郵便で発送して、三日後。


 東海機械商会から、事務所に電話が入りました。


「……片桐さんはいるか」


 黒田社長でした。


 私は少し驚きました。


 前に会ったときとは、まるで声が違います。


「所長に代わります」


 片桐所長が受話器を取りました。


「片桐です」


『あの通知書だが……』


「はい」


『あんたら、本気で商法二十三条を持ち出してきたのか』


「通知書に記載したのは、杉浦さん側が確認した事実と法律上の見解です」


 しばらく沈黙。


『……顧問の弁護士に見せた』


「そうですか」


『そしたら……』


 黒田社長の声が、小さくなりました。


『名前を貸したと認めたなら、簡単には逃げられないって言われた』


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩は、新聞を読んだまま。


 にやりと笑っています。


『しかも、あの広告だ』


「はい」


『うちの名前で、営業所開設なんて広告を出しちまってる』


「そのようですね」


『あれが、まずいらしい』


 黒田社長は、そこで大きく息を吐きました。


『……俺は、野崎が勝手にやったと言いたかったんだ』


「はい」


『だが、看板も広告も、俺が認めてる』


 所長は何も言いません。


『それに、あの夫婦は俺の店だと思って契約したんだろ』


「その旨の申述と資料があります」


 長い沈黙。


 そして。


『……もし裁判になって、俺が負けたらどうなる』


 所長は落ち着いて答えました。


「具体的な見通しは、貴殿の弁護士にご相談ください」


『それは聞いた』


「はい」


『責任が認められれば、俺個人の財産にも執行が及ぶ可能性があるって……』


 私は息を呑みました。


 そうです。


 名板貸人の責任。


 単なる道義的責任ではありません。


 要件を満たせば、取引から生じた債務について法律上の責任を負う。


 そして、適法な手続を経て債務名義が得られれば、強制執行の問題にもなる。


 黒田社長は、ようやく気づいたのでしょう。


 名前を貸しただけ。


 たったそれだけ。


 そのつもりだった。


 でも。


 長年築いた信用を他人に利用させた以上、その信用を信じて取引した人に対して、責任を問われることがある。


 しかも今回は。


 三百万円。


 決して小さくない金額です。


『……杉浦さんと、直接話をしたい』


 黒田社長が言いました。


 所長は静かに答えました。


「そのご意向は、ご本人にお伝えします。話合いをされる場合は、ご本人同士で行っていただくか、弁護士にご相談ください」


『分かった』


「はい」


『……もう、裁判はごめんだ』


 電話が切れました。


 私は椅子から立ち上がりました。


「所長!」


「何だ」


「黒田社長、折れましたね!」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「まだだ」


「え?」


「金が戻ってねえだろ」


「……そうでした」


「それに、契約解除の手続も残ってる」


「はい」


「書面一枚で全部解決した気になるなよ」


 私は頷きました。


 そうですね。


 書類を送った。


 相手が青ざめた。


 それだけでは、事件は終わらない。


 依頼人の三百万円が戻らなければ。


 本当の意味で、勝ったとは言えないのです。


 ◇


 それから一週間。


 事態は動きました。


 黒田社長は、杉浦夫妻に直接謝罪し、双方が弁護士に法律関係を確認したうえで、返金に向けた書面を取り交わすことになりました。


 その過程で、野崎の居場所も判明しました。


 県外の親戚宅に身を寄せていたのです。


 野崎は納入不能を認め、必要な手続を経て、売買契約の解除と代金返還の義務を確認しました。


 そして。


 黒田社長は、野崎と連帯して三百万円の返還に応じることを、自ら書面で約束したのです。


 支払方法は、二回の分割。


 第一回、二百万円。


 第二回、百万円。


 ただし。


 片桐事務所が相手方と示談交渉をしたわけではありません。


 当事者と弁護士が合意内容を確認し、私たちは依頼を受けた事実経過書や関係資料の整理を担当しました。


 最後に。


 黒田社長自身の署名が入った書面を見て、私は思いました。


 あの人。


 最初は言っていました。


「俺は名前を貸しただけだ」


 でも、その言葉が通用しない可能性を知った途端。


 態度が変わった。


 たぶん。


 法律の条文よりも。


 自分が積み上げてきた信用に、責任が伴うという現実の方が、怖かったのでしょう。


 もちろん。


 名板貸の責任が成立するかどうかは、具体的な事実によります。


 名前が似ているだけで責任を負うわけではない。


 看板があるだけでも足りない。


 相手が事情を知っていたなら、信用を保護すべきかという問題もある。


 だからこそ。


 今回は証拠が重要だったのです。


 新聞広告。


 契約書。


 領収書。


 駅前営業所の写真。


 営業内容。


 黒田社長の発言。


 美代子さんの手帳。


 それらが一本に繋がったから。


 商法二十三条という条文が、現実の力になったのです。


 ◇


 二週間後。


 最後の百万円の入金が確認されました。


「本当に……戻ってきました」


 美代子さんが、事務所で通帳を握り締めていました。


 その隣で、夫の正夫さんが何度も頭を下げます。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


「よかったです!」


 私は思わず笑いました。


「これで工場は大丈夫ですか?」


「はい」


 美代子さんが頷きました。


「従業員の給料も、ちゃんと払えます」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は、胸の奥が温かくなりました。


 三百万円。


 数字だけ見れば、ただのお金です。


 でも。


 杉浦さんの工場では、その三百万円が。


 四人の従業員の生活を支えている。


 仕事を続けるための機械を買う資金でもある。


 夫婦が何年も働いて積み重ねてきた、大切なお金なのです。


「主人が言うんです」


 美代子さんが笑いました。


「もう、知らない営業所には前払いしないって」


 正夫さんが照れくさそうに頭を掻きました。


「いや、もちろん、信用できる相手なら取引はしますよ」


「はい」


「でも今度は、誰が本当の営業主なのか、ちゃんと確認しようと思います」


 私は頷きました。


「それが大事だと思います」


「それにしても……」


 美代子さんが少し首をかしげました。


「法律って、不思議ですね」


「何がです?」


「名前を貸しただけでも、責任が生じることがあるなんて」


 私は少し考えました。


「でも、美代子さん」


「はい」


「もし、誰でも有名なお店の名前を借りて商売できて、失敗したら名前を貸した人が全部知らん顔できるとしたら……」


「……困りますね」


「はい」


 美代子さんは、ゆっくり頷きました。


「私たちみたいに、その名前を信用してお金を払う人がいますものね」


「そうなんです」


 私は言いました。


「だから、商法は看板の裏側まで見ようとするんだと思います」


 美代子さんは微笑みました。


「看板の裏側……」


「はい」


「なるほど。そういう法律なんですね」


 私は少し照れました。


 実は私も。


 昨日まで、そこまで理解していたわけではありません。


 名板貸。


 試験のテキストでは、たった数行。


 商号使用。


 許諾。


 誤認。


 連帯責任。


 それだけです。


 でも。


 現場では、その数行に。


 三百万円と、六人の生活がかかっていた。


 法律の文章って。


 思っていたより、ずっと重いんですね。


 ◇


 杉浦夫妻が帰ったあと。


 私は机に戻って、六法を開きました。


 商法第二十三条。


 名板貸人の責任。


 何度見ても、古風な言葉です。


「先輩」


「何だ」


「名板貸って、すごい制度ですね」


「そうか?」


「はい。名前を貸した人まで、連帯して責任を負うことがあるんですよ」


「そうだな」


「でも、それって厳しすぎませんか?」


 相馬先輩が顔を上げました。


「どうしてだ」


「だって、本当に名前しか貸していなかったら、代金を受け取ったのは別人ですよね」


「ああ」


「なのに、責任を負うなんて」


 先輩は少し考えました。


 それから。


「こはる」


「はい」


「老舗の看板には、何があると思う?」


「……信用です」


「その信用は、誰が作った?」


「長年商売してきた人です」


「そうだ」


 先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「五十年かけて築いた信用だ。客はそれを見て金を払う」


「はい」


「だったら、その信用を他人に使わせる奴にも、責任が生じることがあるってわけだ」


 私は頷きました。


「でも、どんな場合でも責任を負うわけじゃない」


「そうですね」


「相手が別人の商売だと知っていたら、話は変わる」


「はい」


「看板だけ似せて、勝手に使われていた場合も、当然に同じ結論にはならねえ」


 私はノートに書きました。


 外観。


 許諾。


 誤信。


 三つが繋がって、初めて責任が問題になる。


 そして。


 取引から生じた債務について、連帯責任を負う。


「先輩」


「何だ」


「これ、現代でも考え方は大事ですよね」


「現代?」


「あ、いえ!」


 危ない。


 また未来の話をしそうになりました。


 でも。


 現代でも、名前やブランドの信用は大切です。


 有名な会社の看板。


 店舗の名前。


 信用のある商号。


 それを見て、人は取引します。


 だからこそ、誰が営業しているのかを曖昧にしたまま、信用だけを利用させることは危険なのです。


「そういえば」


 私は思い出しました。


「今回、会社法じゃなくて商法でしたね」


「ああ」


「昭和六十三年には、まだ独立した会社法はありませんもんね」


「また妙なこと言ってるな」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「会社の話なら、商法や有限会社法を開け」


「はい!」


「それに、今回の黒田は個人商人だ。株式会社の設立の話じゃねえ」


「分かってます!」


「本当か?」


「もちろんです!」


 私は胸を張りました。


「ちなみに、今なら株式会社は一人でも作れますし!」


「……何?」


 相馬先輩の顔が変わりました。


 しまった。


 またやりました。


「発起人が一人?」


「……はい」


「株式会社を?」


「……はい」


「何言ってんだ、お前」


 先輩は六法を開きました。


「昭和の株式会社はな、発起人が七人以上必要なんだぞ」


「ですよね!」


「取締役だって三人以上、監査役も必要だ」


「はい!」


「一人で株式会社を作れるわけねえだろ!」


「……そうですね!」


「お前、本当にどこの法律を勉強してるんだ?」


 私は笑ってごまかしました。


 現代です。


 未来です。


 令和です。


 もちろん、言えません。


 でも。


 こうして昭和の商法を見ていると、少し面白くなります。


 会社の制度は、時代によって大きく変わる。


 昔は、株式会社を作るにも大勢の人が必要だった。


 現代では、ずっと少人数で設立できる。


 けれど。


 名前を信じて取引した人を守るという考え方は、時代が変わっても重要です。


 法律の形は変わっても。


 商売の基本には、変わらないものがある。


 信用。


 約束。


 そして、責任。


 私はそう思いました。


 ◇


 夕方。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


「商号を使わせた人は、一定の場合、その名前を信じて取引した相手に責任を負う」


「うん」


「でも、名前を使っていたという事実だけでは足りない」


「そうだ」


「使用の許諾や、相手が営業主を誤認した事情も重要です」


 所長が頷きました。


「それで?」


「名板借人が契約上の債務を負い、名板貸人も商法二十三条によって連帯責任を負う場合がある」


「そうだ」


「ただし、すべての不法行為まで当然に責任を負うわけではありません」


「よし」


 私は少し嬉しくなりました。


 そして。


「何より!」


 私は言いました。


「『名前を貸しただけ』という言い訳は、必ずしも通用しない!」


 相馬先輩が笑いました。


「それだ」


「はい!」


「名前は軽く貸せても、責任は軽くならねえことがある」


 私はノートを開きました。


 最後の一行。


 今日の教訓です。


 ――商号は信用の看板。貸した名前で人を信じさせたなら、その取引の責任から逃げられないことがある。


「……できました!」


 私は顔を上げました。


「先輩、どうですか!」


「まあ、いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 今日は、少しだけ分かった気がします。


 商法が守っているのは、会社や商人だけではありません。


 その名前を信じて取引した人。


 まじめに働いて、お金を払った人。


 約束を守ってもらえると信じた人。


 そういう人たちも、守ろうとしている。


 だから。


 看板の持ち主が、


「俺は知らない」


 と逃げようとしたとき。


 商法は、その看板を誰が使わせ、誰が信じたのかを問いかける。


 そして、必要な場合には。


 看板の持ち主にも、責任を負わせるのです。


「先輩」


「何だ」


「商法って、意外と人情がありますね」


「商売の法律だからな」


「はい」


「商売ってのは、人と人との信用でできてんだよ」


 私は頷きました。


 そうですね。


 東海機械商会。


 五十年続く老舗。


 その名前には、五十年分の信用がありました。


 黒田社長は、その信用を貸した。


 野崎は、その信用を利用した。


 そして、美代子さんは、その信用を信じて三百万円を払った。


 だからこそ。


 法律は、看板の裏側にいる人間を見逃さなかった。


 私は、六法を閉じました。


 昭和六十三年。


 この町では、今日もたくさんの看板が店先に掲げられています。


 商店。


 工場。


 旅館。


 問屋。


 どの看板にも。


 誰かが積み重ねてきた信用があります。


 そして。


 その信用を他人に使わせるということは。


 思っているより、ずっと重い行為なのです。


「こはる!」


 相馬先輩が声をかけました。


「はい!」


「机を片付けろ!」


「ええっ!」


「今日の仕事は終わりだ!」


「はい……」


 私は書類を揃えながら言いました。


「先輩」


「何だ」


「もし私が、先輩の名前を借りて仕事をしたら、どうなります?」


「は?」


「相馬誠司の名前で、こはる行政書士事務所を開くとか!」


 先輩が顔をしかめました。


「ふざけんな」


「名前だけですよ!」


「貸さねえよ!」


「どうしてですか!」


「お前が何をやらかすか分かんねえからだ!」


 私はむっとしました。


「信用ないですね!」


「ねえな!」


「ひどい!」


 すると。


 奥から片桐所長が、静かに言いました。


「こはる」


「はい?」


「そもそも、行政書士として登録していない者が、勝手に行政書士事務所を開いて業務を行うことはできん」


「……あ」


「名前を借りれば何でもできるわけではない」


「……はい」


 相馬先輩が大笑いしました。


「ほら見ろ!」


「もう! 冗談ですよ!」


「冗談でも商法は勉強しとけ!」


「してます!」


 私は頬を膨らませました。


 でも。


 確かに。


 名前を貸す。


 たったそれだけの話なのに。


 法律上は、いろいろな問題が隠れています。


 商号の使用。


 営業主の誤認。


 取引の安全。


 連帯責任。


 そして。


 信用を利用した人間の責任。


 名板貸。


 変な名前の制度だと思いました。


 でも、もう忘れません。


 なぜなら。


 あの三百万円が戻った日の、美代子さんの笑顔を覚えているからです。


 商法二十三条。


 たった一つの条文が。


 小さな工場と、そこで働く人たちの生活を守る力になった。


 それが、今日の事件でした。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、名板貸の意味、完璧に覚えました!」


「そうかよ!」


「名前を貸すのは自由でも、責任から自由になれるとは限らない!」


「分かったから片付けろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、六法を棚に戻しました。


 そして、心の中で思いました。


 黒田社長。


 あなたは言いましたね。


「俺は名前を貸しただけだ」


 でも。


 その名前を見て。


 信用して。


 お金を払った人がいたんです。


 だから。


 商法は、あなたに問いかけたのです。


 ――その看板の重さを、本当に分かっていたのか。


 名前は、ただの文字ではありません。


 商売をする人間が、時間をかけて積み重ねた信用そのものです。


 そして。


 その信用を借りて結ばれた約束を、踏みにじってはいけない。


 昭和六十三年。


 古い商法の条文は。


 今日も、真面目に働く人たちの味方になってくれたのでした。

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