↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
578/701

[商法・商号の選定、登記、譲渡]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 店の名前は、誰のものでしょうか。


 最初に考えた人のもの?


 お金を払って買った人のもの?


 それとも、長年その名前で商売を続けてきた人のもの?


 実は。


 商法は、この問題に意外なほど厳しい答えを用意しています。


 名前は自由につけられる。


 でも、他人の信用を横取りしてはいけない。


 名前は売ることもできる。


 でも、名前だけを好き勝手に切り売りしてはいけない。


 そして。


 商号を売ったという事実があっても、登記をしなければ第三者に主張できないことがある。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……名前って、怖いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何だ」


「商号です」


「ああ」


「たった数文字なのに、三百万円で売ろうとする人がいるんですよ」


「いたな」


「しかも、売った人には権限がない!」


「そうだったな」


「買った社長は、営業も買ってないのに老舗を名乗ろうとする!」


「そうだな」


 私は机を叩きました。


「商号って、想像以上に奥が深いです!」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「今さらか」


「今さらです!」


 私は堂々と言いました。


 昨日の事件。


 そば処こまち。


 三十二年間、駅前商店街で営業してきた小さな蕎麦屋。


 その商号を、経理を手伝っていた弟が勝手に三百万円で売ってしまった。


 買ったのは、大栄観光株式会社の大崎社長。


 しかも、営業そのものは買っていない。


 店舗も。


 厨房も。


 従業員も。


 取引関係も。


 何一つ引き継いでいないのに、


 ――創業三十二年の老舗。


 ――そば処こまち駅前本店。


 と広告を出そうとしていた。


 でも。


 澄江さんの商号登記。


 弟に譲渡権限がないこと。


 営業を伴わない商号譲渡の問題。


 さらに、不正な商号使用の問題。


 それらを整理した内容証明を送った結果、大崎社長は商号の使用を撤回しました。


「よし」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、商号を完全に理解します!」


「昨日も似たようなこと言ってたな」


「昨日は事件です。今日は理論です!」


「面倒くせえ奴だな」


 そこへ。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


「まず、商号とは何か!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――商号。


 商人が、営業上、自己を表示するために用いる名称。


「つまり、商売をする人が、自分を示すために使う名前です」


「そうだな」


「会社なら会社名。個人商人なら、営業で使う名前ですね」


 私は二つの例を書きました。


 大栄観光株式会社。


 そば処こまち。


「この二つ、どちらも商号になり得るんですよね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、会社と個人商人では扱いが違うところもある」


「はい」


 まず。


 会社。


 会社は法人です。


 法律上、人とは別の権利義務の主体として扱われます。


 会社が営業上、自己を表示する名称が商号です。


 一方。


 個人商人。


 会社を設立せず、自分の名で商売をする人です。


 たとえば。


 榊原澄江さん。


 澄江さんは、株式会社を設立していません。


 でも、蕎麦屋を営業しています。


 その営業上の名前が、


 ――そば処こまち。


 です。


「所長。個人商人でも、商号を使えるんですよね」


「もちろんだ」


「株式会社を作る必要はない」


「そうだ」


 私は頷きました。


 実は、ここは大事です。


 商号というと、会社名だけを想像しがちです。


 でも。


 個人商人にも商号はあります。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「私が蕎麦屋を始めたら、『こはる庵』って名前をつけてもいいんですよね」


「いいぞ」


「ラーメン屋なら『こはる食堂』!」


「好きにしろ」


「甘味処なら『こはる茶房』!」


「何軒開くつもりだ」


「夢は大きく!」


 私は笑いました。


 個人商人は、複数の営業について、それぞれ異なる商号を使うこともできます。


 ただし。


 ここで一つ、注意があります。


「お店の看板に書いた名前は、全部法律上の商号になるんでしょうか?」


 私が聞くと、相馬先輩が答えました。


「そうとは限らねえな」


「ですよね」


 世の中には、屋号や店舗名、商品名など、いろいろな名称があります。


 それらが常に、法律上の商号と同じ意味になるわけではありません。


 商号は、商人が営業上、自己を表示する名称。


 店舗の愛称や商品ブランドとは、区別が必要です。


「でも、商号は登記しないと商号にならないんですか?」


「そんなことはねえ」


 相馬先輩が言いました。


「個人商人なら、登記しなくても商号を使える」


「はい!」


 私は赤線を引きました。


 商号の使用と、商号の登記は別。


 これです。


 昨日の大崎社長。


 登記があれば何でも決まる。


 契約書があれば何でも買える。


 そんな考え方をしていました。


 でも。


 法律は、そこまで単純ではありません。


「次は、商号選定の自由です!」


 私はページをめくりました。


 ――商号選定自由の原則。


 商人は、自分の氏名その他の名称を商号にすることができる。


「これ、現代の商法十一条ですね!」


「……現代?」


 相馬先輩が眉を寄せました。


 私は固まりました。


 しまった。


 またです。


「えーっと……」


「お前、昨日も条文番号を間違えただろ」


「はい……」


「今の六法を開け」


「はい!」


 私は慌てて、昭和六十三年の六法を開きました。


 商法。


 第一編。


 第四章。


 商号。


 ――第十六条。


「ああっ!」


「何だ」


「十六条です!」


「そうだ」


「昭和六十三年の商号選定は、商法十六条!」


 私は鉛筆で書き込みました。


 昭和六十三年。


 商法第十六条。


 現代。


 商法第十一条。


「どうして条文番号が違うんですか!」


「法律が改正されりゃ、整理されることもあるだろ」


「それはそうですけど!」


 私は頭を抱えました。


 現代で覚えた条文番号。


 昭和で使うと、ことごとく間違える。


 なんという罠。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「番号より先に、何を定めた条文か覚えろ」


「はい」


「今の商法十六条は?」


「商号選定の自由です!」


「そうだ」


 なるほど。


 条文番号は変わる。


 でも、その条文が守ろうとしている原則は、引き継がれていることがある。


 私はノートに書きました。


 ――商人は、原則として商号を自由に選べる。


 これが出発点です。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「私が『世界一おいしい蕎麦屋』という商号をつけても?」


「名前を選ぶ自由の問題としては考えられるな」


「やった!」


「ただし、本当に世界一だと客に誤認させるような広告をすりゃ、別の法律の問題になることもあるぞ」


「……!」


 私は鉛筆を止めました。


 自由。


 でも、無制限ではない。


 そういうことです。


「では、制限を整理します!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――商号選定の自由にも、例外がある。


 まず。


 会社の種類を示す文字です。


「所長。昭和六十三年に株式会社を作ったら、商号に『株式会社』という文字が必要ですよね」


「ああ」


「合名会社なら『合名会社』、合資会社なら『合資会社』ですね」


「そうだ」


 当時の商法十七条。


 会社の種類に応じた文字を商号に使用する必要があります。


「でも先輩」


「何だ」


「『こはる蕎麦株式会社』っていう会社を作るとして、私一人でできますか?」


「できねえな」


「ですよね……」


 私はため息をつきました。


 昭和六十三年。


 株式会社の設立には、発起人七人以上。


 取締役三人以上。


 監査役一人以上。


 現代とは、会社を作るための条件が大きく違います。


「現代なら、発起人一人、取締役一人でも株式会社を作れるのに……」


「また未来の話か」


「はい」


 私は苦笑しました。


 しかも、現代には合同会社があります。


 でも昭和六十三年には、まだ存在しません。


「つまり、今は合名会社、合資会社、株式会社などが基本になるんですね」


「そうだ」


 有限会社法に基づく有限会社もあります。


 昭和の会社制度は、現代とは構成が違うのです。


「先輩、じゃあ個人商人の私が、『株式会社こはる庵』って名乗ったら?」


「駄目だ」


「ですよね」


 当時の商法十八条。


 会社ではない者が、会社であることを示す文字を商号に使うことはできません。


 会社から営業を譲り受けた場合であっても、個人のまま勝手に会社を名乗ることはできない。


「なるほど」


 私は頷きました。


 会社でないのに、株式会社を名乗る。


 それでは取引相手が、法人と取引しているのだと誤解する可能性があります。


「じゃあ、銀行ってつけるのは?」


「銀行業の免許もない奴が、銀行を名乗っていいと思うか?」


「思いません!」


 銀行などの名称には、個別の法律による制限があります。


 商号を自由に選べるからといって、何でも名乗っていいわけではない。


「じゃあ、私が『日本一かわいい行政書士事務所』って……」


「まず行政書士になれ」


「……はい」


 相馬先輩は容赦がありません。


 でも。


 そこも重要ですね。


 名前をつける自由と、資格や営業の許可を得る必要があることは、別問題なのです。


「さて」


 相馬先輩が煙草を灰皿に置きました。


「昨日の大崎は、何が悪かった?」


「商号だけを買おうとしたことです!」


「それだけか?」


「いいえ!」


 私は勢いよく答えました。


「他人の営業であると誤認させようとしたことです!」


「そうだ」


 ここで登場するのが、不正な商号使用の禁止。


 昭和六十三年の商法二十一条です。


「昨日の広告を思い出せ」


 相馬先輩が言いました。


 私は頷きました。


 ――創業三十二年。


 ――老舗そば処こまち。


 ――駅前本店。


 あの広告。


 大崎社長は、新しく作る蕎麦屋を、三十二年間営業してきた本物のこまちと同じ店だと思わせようとしていました。


「これ、完全に怪しいですよね」


「ああ」


「でも、似た名前を使っただけで、必ず違法になるんですか?」


「そこが違う」


 相馬先輩が言いました。


「名前が似てるってだけで、何でも禁止できるわけじゃねえ」


「はい」


「不正の目的があるかどうかが問題になる」


 私は鉛筆を止めました。


 不正の目的。


 重要な言葉です。


 当時の商法二十一条は、不正の目的をもって、他人の営業であると誤認させるような商号を使用することを禁じています。


 そして。


 その使用によって営業上の利益を害されるおそれがある者は、使用の差止めを求めることができます。


 損害賠償請求も妨げられません。


「所長」


「何だ」


「大崎社長の場合は?」


「どうだった」


「単に名前が偶然似たのではありません」


「うん」


「本物のこまちが三十二年続いていることを知っていました」


「そうだ」


「しかも、その歴史を使って、新店舗を老舗の本店だと広告しようとしていた」


「うん」


「だから、不正の目的を示す事情がそろっていたんですね」


 所長が頷きました。


「そのとおりだ」


 私は納得しました。


 商号の自由。


 でも。


 他人が長年築いた営業上の信用を、不正に利用する自由までは認められない。


「これ、すごく大事ですね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「客は、名前を信用して店に入ることがある」


「はい」


「だから、その信用を偽物が利用することを放っておけねえんだ」


 私は、昨日食べた蕎麦を思い出しました。


 あの出汁。


 あの暖簾。


 澄江さんの笑顔。


 同じ名前の別の店に入ってしまったお客さんは、どう思うでしょう。


 しかも。


 その店が、自分を本店だと名乗っていたら。


「……それは困りますね」


「だろ」


 私は大きく頷きました。


「そして、もう一つ重要な条文がある」


 片桐所長が言いました。


「何でしょう?」


「商法二十条だ」


 私は六法を開きました。


 昭和六十三年の商法二十条。


 商号登記をした者は、不正の競争の目的をもって同一又は類似の商号を使用する者に対し、その使用の差止めを求めることができます。


 損害賠償請求も可能です。


 さらに。


 同じ市町村内で、同じ営業のために他人の登記した商号を使用する者については、不正の競争の目的があるものと推定する規定があります。


「……推定!」


 私は思わず叫びました。


「そうだ」


「これ、重要じゃないですか!」


 商号登記。


 単に名前を記録するだけではない。


 登記した商号について、特別の保護があるのです。


「つまり」


 私は言いました。


「澄江さんが商号を登記していたことには、大きな意味があったんですね」


「ああ」


「大崎社長が同じ市町村内で、同じ蕎麦屋の営業に、こまちという登記商号を使おうとしていた」


「そうだ」


「だから不正競争の目的の推定も問題になる」


「そういうことだ」


 私は鉛筆で二重線を引きました。


 推定。


 これは、絶対に争えないという意味ではありません。


 ただし、法律上、一定の事実があれば、別の事実があるものとして扱われる。


 そのため、反対の事情を示す必要が生じることがあります。


 大崎社長が、


「そんなつもりじゃなかった」


 と一言言うだけで済む話ではないのです。


「……怖いですね」


「何がだ」


「商号登記って、地味なのに強いです」


 相馬先輩が笑いました。


「だから、書類を馬鹿にするなってことだ」


 私は頷きました。


 行政書士の仕事。


 事実を調べる。


 必要な資料をそろえる。


 正確な文書を作る。


 登記そのものの代理申請は司法書士等の業務領域ですが、営業に関する資料や契約書類を整えることには、大きな意味があります。


 そして。


 紛争が起きたとき、誰が何をしてきたのかを証拠で示せること。


 それも、書類の大切な役割なのです。


「では、商号登記です!」


 私はページをめくりました。


 ――商号の登記。


 まず。


 個人商人の場合、原則として商号の登記は任意。


「これ、現代の商法十一条二項にありますよね」


「だから今の条文を言え」


「あっ!」


 私は慌てて六法を確認しました。


 昭和六十三年。


 商号選定は、商法十六条。


 個人商人の商号登記は、商業登記に関する規定と合わせて扱う。


 現代とは条文の整理が違っています。


「うう……」


 私は頭を抱えました。


「また違う!」


「だから番号だけ覚えるなって言ってるだろ」


「はい……」


 でも、原則は理解できます。


 個人商人は、商号を登記しなくても営業できます。


 ただし、登記することで、商号に関する保護や取引上の公示に意味が生じる。


「じゃあ先輩」


「何だ」


「登記していない商号なら、誰でも自由に盗んでいいんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


 ここは重要です。


 未登記の商号でも、不正な使用から保護される場合があります。


 昭和の商法二十一条は、商号登記の有無だけで適用を決める規定ではありません。


 また、事情によっては不正競争防止法なども問題になります。


「つまり」


 私は書きました。


 ――登記していない商号にも保護はある。ただし、登記によって得られる特別な保護もある。


「これでいいですか?」


「いいだろう」


 相馬先輩が頷きました。


 私は満足して、次の行を書きました。


 そして。


 昭和六十三年には、商号登記について独特の制限があります。


 商法十九条。


 他人が登記した商号は、同じ市町村内で、同一の営業のために登記することができない。


「ここですね!」


 私は言いました。


「同じ市町村内!」


「ああ」


「同一の営業!」


「そうだ」


 たとえば。


 湖西市内で、そば処こまちという商号が登記されている。


 その同じ市内で、別の人が同じ蕎麦屋の営業のために同じ商号を登記しようとする。


 これは、制限される。


 そして、商業登記法上は、既登記商号と判然区別できない類似商号についても問題になります。


「でも先輩」


「何だ」


「全国どこでも、一切同じ名前を使えないという意味じゃないんですよね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 同一市町村。


 同一営業。


 この二つが、当時の登記規制を考える重要な要素です。


 ただし、地域が違えば何でも自由に不正使用できるという意味でもありません。


 不正な商号使用については、別途考える必要があります。


「なるほど」


 私は書きました。


 ――登記の制限と、不正使用の禁止は別。


 これは試験でも、混同してはいけないところです。


「さて、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「未来の商法では、ここはどうなってるんだ?」


 私は顔を上げました。


「え?」


「お前、さっきから今と昔が違うって言ってるだろ」


「……!」


 未来の話をしてもいいのでしょうか。


 でも。


 相馬先輩は、冗談半分で聞いているようです。


「えーっとですね」


 私はノートの端に書きました。


 ――現代。


 現代では、会社法と商業登記法の整備により、同一・類似商号の登記規制は昭和当時から大きく変わっています。


「どう変わるんだ?」


「同じ市町村内で、同じ営業だから、というだけでは登記を拒否する仕組みではなくなるんです」


「ほう」


「商号と、本店や営業所の所在場所が、他人の既登記商号と同一である場合が問題になります」


「所在地まで同じかどうかを見るのか」


「はい」


 私は頷きました。


 現代の商業登記法二十七条。


 同一の商号で、営業所や本店の所在場所も同一である場合には、登記できません。


 一方、同じ市町村内で似た名前の会社が存在するというだけで、直ちに登記できなくなるわけではありません。


「じゃあ、名前が似てても会社を作れるのか」


「登記の規制については、そうです」


「ずいぶん変わるんだな」


「でも!」


 私は指を立てました。


「登記できることと、その名前を適法に使用できることは別です!」


 相馬先輩が目を細めました。


「どういうことだ」


「不正の目的をもって、他の会社や商人と誤認させる商号を使うことは、現代でも禁止されています」


「なるほど」


 そうです。


 登記できる。


 だから何をしてもいい。


 そんなわけではありません。


 現代の会社法八条。


 商法十二条。


 他人の営業と誤認させる不正な商号使用を規制する仕組みは、今も残っています。


「つまり」


 私は言いました。


「現代では、名前を登記する入口の規制は緩やかになった。でも、不正に他人の信用を利用することまで認めたわけではないんです」


 片桐所長が静かに頷きました。


「選ぶ自由と、使い方の責任を分けるわけだな」


「はい!」


 私は、その言葉を大きく囲みました。


 ――選定の自由と、使用の責任。


 これ。


 とても覚えやすいです。


「さて」


 相馬先輩が机を指で叩きました。


「本題に入るぞ」


「はい!」


「昨日、一番問題になったのは?」


「商号の譲渡です!」


 私はノートの真ん中に、大きく書きました。


 ――商号の譲渡。


「何条だ?」


「昭和六十三年は商法二十四条!」


「よし」


「現代は商法十五条!」


「未来はいい!」


「はい!」


 私は笑いました。


 でも、この違いは重要です。


 条文番号こそ変わっていますが、商号譲渡の基本的な制限は、現代にも引き継がれています。


 私は六法を開きました。


 昭和六十三年の商法二十四条。


 その第一項。


 商号は、営業とともにする場合、または営業を廃止する場合に限り、譲渡できる。


「つまり」


 私は言いました。


「商号は、いつでも自由に譲渡できるわけではありません!」


「ああ」


 条件は二つ。


 一つ目。


 営業とともに譲渡する場合。


 二つ目。


 営業を廃止する場合。


「ここ、試験に出そうですね!」


「知らねえよ」


「絶対に覚えます!」


 私は赤線を引きました。


 では、具体的に考えます。


「先輩。私が『こはる庵』という蕎麦屋をやっていたとします」


「また蕎麦屋か」


「好きなんです!」


「で?」


「その蕎麦屋を、店の設備も営業もまとめて、別の人に譲る場合は?」


「商号も一緒に譲渡できるな」


「正解です!」


「何で俺が採点されてるんだ」


 私は笑いました。


 営業とともに商号を譲渡する。


 これが第一のケースです。


 たとえば。


 店舗。


 設備。


 営業上の取引関係。


 顧客に対する信用。


 そうした営業を構成するものを、事業として承継させる。


 その際に、商号も譲る。


「これは分かりやすいですね」


「ああ」


 次。


 第二のケース。


 営業を廃止する場合。


「所長。蕎麦屋を閉店して、営業をやめることにした人がいたとします」


「うん」


「その人が、自分の使っていた商号を別の人に譲ることもできるんですよね」


「そうだ」


 営業を廃止する場合です。


 ここが、意外と間違えやすい。


 商号は必ず営業とセットでしか譲渡できない。


 そう覚えてしまうと、誤りになります。


「先輩!」


「何だ」


「ここ、引っかけ問題になりますよね!」


「だろうな」


「『商号は営業とともにする場合に限って譲渡できる』」


「……」


「これ、誤り!」


「なぜだ?」


「営業を廃止する場合にも、譲渡できるからです!」


 私は拳を握りました。


 よし。


 覚えました。


 営業とともに。


 または。


 営業を廃止。


 二つのうち、どちらかです。


「じゃあ、昨日の事件は?」


 相馬先輩が聞きました。


「どちらにも当たりません!」


「そうだな」


「澄江さんは営業を続けています」


「ああ」


「大崎社長に営業そのものを譲渡していません」


「そうだ」


「なのに、商号だけ売ったという契約書が作られていました」


 私は頷きました。


 だから。


 商号譲渡の条件を満たしていなかったのです。


「ただし、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「昨日は、もっと根本的な問題があったな」


 私は少し考えました。


 そして。


「あっ!」


「何だ」


「売った人に権限がなかったことです!」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――譲渡条件以前に、譲渡権限を確認する。


 昨日の契約書。


 譲渡人。


 榊原信夫。


 でも、実際の営業主は、榊原澄江さん。


 信夫さんは、経理を手伝っていただけ。


 商号を処分する権限は与えられていませんでした。


「だから、弟さんが契約書にハンコを押したからといって、澄江さんの商号を処分できるわけではありません」


「そうだ」


「無権限の人が、他人の商号を勝手に売る契約をした」


「うん」


「その契約によって、当然に本人の権利が移転するわけではない」


 私は頷きました。


 ここは、民法の代理の考え方にもつながります。


 権限のない人が勝手に契約した。


 本人が当然に拘束されるわけではない。


 もちろん、表見代理などの問題が生じる場合には、別途事情を検討する必要があります。


 でも。


 今回の信夫さんは、店の営業主ではなく、商号譲渡を任されてもいませんでした。


「つまり、大崎社長の失敗は二つあったんですね」


 私は言いました。


「一つ目。売主に譲渡権限があるか確かめなかった」


「うん」


「二つ目。商号譲渡の法定条件を確認しなかった」


「そうだ」


 相馬先輩が笑いました。


「三百万円払う前に、調べることがあったってわけだ」


 私は頷きました。


 商法は、契約書に大きな金額を書けば何でも買える法律ではない。


 そのことが、よく分かります。


「では、次です!」


 私はノートをめくりました。


 ――商号譲渡と登記。


 ここが、今回のもう一つの重要論点です。


 昭和六十三年の商法二十四条第二項。


 商号の譲渡は、登記をしなければ第三者に対抗できない。


「……第三者に対抗できない」


 私は呟きました。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「どういう意味だ?」


「第三者に対して、その商号を譲り受けたという法律上の効力を主張できない、ということです」


「そうだ」


 私は頷きました。


 まず。


 登記は、契約が成立するかどうかと、必ずしも同じ問題ではありません。


 商号譲渡については、適法な譲渡契約が成立していても、第三者に対抗するには登記が必要になります。


「ここ、かなり重要ですね」


「ああ」


「登記がなければ、譲渡契約そのものが常に無効になる、という意味ではありません」


「そうだ」


 私は赤線を引きました。


 ――登記は第三者対抗要件。


 この言葉。


 受験生にはおなじみです。


 対抗要件。


 つまり、一定の権利関係を第三者に主張するために必要な条件。


 では。


 具体例です。


「先輩。商人の田中さんが、営業を廃止するとします」


「うん」


「田中さんは、自分の商号『田中屋』を佐藤さんに譲渡しました」


「ああ」


「でも、商号譲渡の登記をしませんでした」


「うん」


「この場合、佐藤さんはどうなりますか?」


 相馬先輩が答えました。


「田中さんとの間で適法な譲渡が成立していても、登記なしには第三者へ譲渡を対抗できねえ」


「そうです!」


 私は頷きました。


 では、登記のない譲渡を第三者に主張しようとしたら?


 商法二十四条第二項が壁になる。


「ここで大事なのは」


 私は言いました。


「第三者が善意か悪意かです!」


 相馬先輩が目を細めました。


「どうなる?」


「原則として、善意・悪意を問いません!」


「正解だ」


 私は嬉しくなりました。


 そうです。


 この商号譲渡の対抗要件については、条文上、第三者が譲渡を知らなかった場合だけに限定されていません。


 第三者が譲渡の存在を知っていたとしても、登記がなければ、原則として譲渡を対抗できない。


「これ、かなり強烈ですよね」


「ああ」


「知っていたら対抗できる、というわけではないんです」


「そうだ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――商号譲渡は、登記がなければ第三者に対抗できない。第三者の善意・悪意は原則として問わない。


「覚えました!」


「本当か?」


「はい!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、昨日の事件ではどうだ」


「はい」


 私は少し考えました。


 昨日の大崎社長。


 商号譲渡の登記は済ませていませんでした。


 でも。


 そもそも譲渡人に権限がない。


 営業を伴う譲渡でも、営業廃止に伴う譲渡でもない。


 だから。


「登記の問題以前に、譲渡そのものに重大な問題がありました」


「そうだ」


「そして、仮に適法な商号譲渡だったとしても、登記がなければ第三者に対抗できない」


「うん」


 私は頷きました。


 ここ。


 混同してはいけません。


 商号譲渡の有効性。


 商号譲渡の第三者対抗要件。


 別々に考える。


 これが重要です。


「でも所長」


「何だ」


「商号って、どうしてこんなに特別な扱いなんでしょう」


 所長は帳簿を閉じました。


「商号には信用があるからだ」


「信用……」


「そうだ」


 所長は言いました。


「名前を見て、相手を信用する人がいる」


 私は頷きました。


 そば処こまち。


 三十二年間、その名前で営業してきた。


 町の人たちは、その名前を見れば分かる。


 どんな蕎麦が出てくるのか。


 どんな店主がいるのか。


 どんな店なのか。


 でも。


 別の人が突然その名前を使ったら。


 客は、同じ店だと思うかもしれない。


 取引先も、営業が引き継がれたと思うかもしれない。


 だから、商号の譲渡には、営業との関係が必要になる。


「なるほど」


 私は言いました。


「商号には、人格的な意味だけでなく、財産的な価値もあるんですね」


「そうだ」


「でも、単なる物みたいに自由に切り売りできるわけじゃない」


「うん」


 所長が頷きました。


「信用は、他人との関係で成り立つものだからな」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 ――信用は、他人との関係で成り立つ。


 なるほど。


 名前を守る理由。


 それが、少し見えてきました。


「ところで、先輩」


 私は顔を上げました。


「何だ」


「現代には会社法がありますよね」


「……また未来か」


「はい!」


 私は堂々と言いました。


 昭和六十三年。


 会社の基本的なルールは、商法第二編の会社編などに置かれていました。


 有限会社については、別に有限会社法がありました。


 でも。


 現代では、会社法という独立した法律があります。


 平成十七年に制定され、平成十八年五月一日に施行された法律です。


「どうして独立したんだ?」


 相馬先輩が聞きました。


「会社制度を整理し、現代の経済活動に合わせて使いやすくする必要があったからです」


「ほう」


 私は説明を続けました。


 昔の会社制度。


 株式会社。


 合名会社。


 合資会社。


 有限会社。


 それぞれの規律が、商法や有限会社法などに分かれていました。


 しかも。


 株式会社の設立には、発起人七人以上という厳しい条件があった時代があります。


 会社の機関構成にも、現在とは違う制約がありました。


「でも現代では」


 私は言いました。


「株式会社は、発起人一人でも設立できます」


「一人で?」


「はい」


「取締役は?」


「一定の機関設計なら、一人で足ります」


「資本金は?」


「法律上、一円でも設立できます」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 そして。


「……本当に会社か、それ」


「会社です!」


 私は笑いました。


 現代では、最低資本金制度も大きく変わっています。


 さらに。


 合同会社という会社形態もあります。


 昭和六十三年の先輩には、想像しにくいでしょう。


「ただし」


 私は言いました。


「設立のハードルが下がったからといって、責任まで消えたわけではありません」


 会社には、株主や社員だけでなく、取引先や債権者がいます。


 会社の名前を信用する人がいます。


 だから、設立を簡単にしても、取引上の信用を守る仕組みは必要です。


「つまり、会社法として独立したのは、昔の制度を全部否定するためではないんです」


「ほう」


「必要な保護は残しながら、会社を作ったり運営したりする制度を整理したんです」


 片桐所長が頷きました。


「法律は、商売の現実に合わせて変わるものだからな」


「はい」


 私は大きく頷きました。


 昭和と令和。


 会社を作る方法は大きく違う。


 商号登記の規制も変わっている。


 でも。


 商号選定の自由。


 不正な使用の禁止。


 商号譲渡の制限。


 そうした基本的な考え方は、今も引き継がれているのです。


「じゃあ、確認問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「個人商人は、商号を自由に選べるか?」


「原則として選べます!」


「何でも自由か?」


「いいえ! 会社であると誤認させる名称などには制限があります!」


「よし」


「次!」


 私は勢いよく言いました。


「何でお前が仕切ってるんだ」


「勉強会です!」


 先輩は呆れた顔で続けました。


「個人商人は、商号を登記しなければ営業できないか?」


「いいえ! 原則として任意です!」


「商号を登記していないと、他人に名前を奪われても文句を言えないか?」


「いいえ! 不正な商号使用を禁止する規定などによって、保護される場合があります!」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、商号の譲渡だ」


「はい!」


「営業を続けながら、商号だけを切り離して売れるか?」


「原則としてできません!」


「なぜだ?」


「商号は、営業とともに譲渡する場合か、営業を廃止する場合に限って譲渡できるからです!」


「よし」


「次!」


「元気だな、お前」


「試験に出ますから!」


 相馬先輩は苦笑しました。


「商号譲渡の登記がない場合、第三者に対抗できるか?」


「できません!」


「第三者が譲渡を知っていたら?」


「それでも原則として対抗できません!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 完璧。


 今日の商号、かなり理解できています。


 すると。


 片桐所長が静かに口を開きました。


「こはる」


「はい!」


「では、商号譲渡の登記があれば、無権限者から商号を買っても必ず有効になるか」


 ……。


 私は止まりました。


「……なりません」


「なぜだ」


「登記は、譲渡権限のない者に、権限を与える魔法ではないからです」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私はほっとしました。


 登記。


 重要です。


 でも。


 登記したから、すべての問題が解決するわけではありません。


 適法な権限。


 有効な譲渡。


 そして、第三者対抗要件。


 順番に考える必要があるのです。


「なるほど……」


 私は鉛筆を置きました。


「やっぱり、一つの条文だけで結論を出しちゃ駄目なんですね」


「そうだ」


 所長は短く言いました。


「事実を見ろ」


 私は頷きました。


 いつもの言葉です。


 でも。


 商号の事件でも、やっぱり一番大切なのはそこでした。


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はノートを見返しました。


 商号の選定。


 商号の登記。


 商号の譲渡。


 最初は、別々の制度に見えていました。


 でも。


 今なら分かります。


 商号は、商人の営業上の名前。


 自由に選べる。


 でも、他人を誤認させてはいけない。


 登記すれば、特別な保護が働く場面がある。


 そして、譲渡するには条件がある。


 さらに、譲渡を第三者に対抗するためには登記が必要。


「所長」


「何だ」


「商号って、結局、信用を守る制度なんですね」


 所長は頷きました。


「そうだ」


「商人が自由に商売できるようにする」


「うん」


「でも、その名前を信用して取引する相手も守る」


「そうだな」


 私は微笑みました。


 昨日の澄江さん。


 あの小さな蕎麦屋。


 三十二年間、同じ名前で営業してきた。


 もし、大崎社長が勝手に商号を奪っていたら。


 常連客は、店が移転したと思ったかもしれません。


 取引先は、営業が譲渡されたと思ったかもしれません。


 そして。


 本物のこまちは、三十二年間積み重ねてきた名前を失うところでした。


 でも。


 商法は、その名前を簡単には奪わせなかった。


「法律って、面白いですね」


 私は呟きました。


「またそれか」


 相馬先輩が笑いました。


「だって、本当に面白いんです!」


 私はノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――商号は「自由に選べる」、譲渡は「営業と一緒か廃止時だけ」、第三者には「登記が必要」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 あの蕎麦屋の暖簾。


 三十二年の味。


 澄江さんの笑顔。


 それを思い出せばいい。


 商号は、ただの名前ではない。


 人が築いてきた信用。


 商売の歴史。


 お客さんとの約束。


 そういうものを背負っているのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も戻せ」


「はい」


「それから、帳簿の整理だ」


「……また仕事ですか」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「私にも、商号選定の自由があります」


「あるな」


「将来、独立したら『こはる法律事務所』って名前をつけてもいいですか?」


 相馬先輩の動きが止まりました。


「……お前、弁護士になるのか?」


「行政書士です!」


「じゃあ、そんな名前をつけて、弁護士の事務所と誤認させるようなことをするな」


「……!」


 私は固まりました。


 あ。


 そうでした。


 商号選定の自由。


 でも、自由には制限があります。


 資格や営業の種類について、誤認を招く名称にも注意が必要です。


「じゃあ、『こはる行政書士事務所』にします!」


「資格取ってからな」


「はい!」


「で、今は?」


「……見習いです」


「なら、帳簿を整理しろ」


「うう……」


 私はしぶしぶ机を片付けました。


 でも。


 ふと思いました。


「先輩」


「今度は何だ」


「私が将来、『こはる行政書士事務所』を開業したとして」


「ああ」


「その商号だけを、誰かに百万円で売ることはできますか?」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「営業を続けたままか?」


「はい!」


「駄目だな」


「ですよね!」


「営業とともに譲渡するか、営業を廃止する場合じゃなきゃな」


「はい!」


「ただし、行政書士の資格そのものは売れねえぞ」


「……!」


 私は目を丸くしました。


 そうでした。


 行政書士の資格。


 それは、商号とは違います。


 事務所の名前や営業上の財産をどう扱うかという問題と、国家資格そのものを譲渡できるかという問題は別。


「危なかった……」


「何がだ」


「商号を売れば、行政書士資格まで引き継げると思うところでした」


「思うな!」


 先輩の怒鳴り声が響きます。


 私は笑いました。


 でも。


 ここも大事です。


 名前。


 営業。


 資格。


 登記。


 全部、区別しなければならない。


 そして。


 法律は、その区別を守ることで、取引の信用を支えているのです。


 私は箒を手に取りました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 駅前商店街。


 あの一角では、そば処こまちが今日も営業しているのでしょう。


 暖簾をくぐれば、出汁の香り。


 カウンターには、いつもの常連客。


 そして。


「いらっしゃい!」


 と笑う澄江さん。


 その名前は、三百万円では買えなかった。


 正確に言えば。


 三百万円を払っただけでは、適法に取得できなかった。


 商号の譲渡には、法律上の条件があるからです。


 でも。


 それ以上に。


 名前を守ることが、どうして大切なのか。


 私は昨日、教わりました。


 商号は、人と人の信用の積み重ね。


 そこにあるのは、単なる文字ではない。


 長く続いた営業。


 積み重ねた取引。


 そして、守り続けた約束です。


 私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――商号は「自由に選べる」、譲渡は「営業と一緒か廃止時だけ」、第三者には「登記が必要」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、復習してたんです!」


「復習は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、今日こそ商法二十四条を完全に覚えました!」


「そうか!」


「商号譲渡は二十四条!」


「よし!」


「現代では十五条!」


「未来の番号は今いらねえ!」


「でも覚えちゃったんです!」


「だったら両方間違えるな!」


 私は笑いました。


 そして。


 少しだけ、思ったのです。


 商法は、難しい。


 昭和と現代で条文番号も違う。


 会社制度も違う。


 登記制度も変わっている。


 でも。


 その奥にある考え方は、意外と分かりやすい。


 人が築いた信用を守る。


 取引相手の誤認を防ぐ。


 名前を使う者に、責任を持たせる。


 それだけなのです。


 だからこそ。


 商号は、自由に選べる。


 でも。


 他人の信用まで、自由に奪っていいわけではない。


 そして。


 その名前を譲り渡すときには。


 営業との関係と、登記という公示の仕組みが、重要になる。


 私は、もう一度ノートを閉じました。


 今日の勉強は、ここまでです。


 ……と思った、そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 男性の声。


『うちの会社の名前を、知り合いに貸していたんですが……』


 私は止まりました。


 名前を貸した?


『その知り合いが、うちの名前で商売をしてまして……』


 ……。


 まさか。


『それで、取引先から、うちに借金を払えって請求が来たんです』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も、こちらを見ました。


『でも、私は名前を貸しただけなんです。実際に商売したのは、その知り合いで……』


 ……。


 来ました。


 次は。


 商号の譲渡ではありません。


 商号の使用を許した場合の責任です。


「先輩」


「何だ」


「二十三条です」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「ああ」


「名前を貸した人が、借金まで負うことがあるっていう……」


「そういう話だな」


 私は受話器を握り直しました。


 商号。


 昨日は、名前を売った人。


 今日は、名前を貸した人。


 そして。


 その名前を信用して取引した第三者。


 商法は、まだまだ終わりません。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり商法って、怖いですね!」


「怖いのは法律じゃねえ!」


「え?」


 相馬先輩は笑いました。


「名前の重さを知らねえ奴だよ」


 私は、はっとしました。


 そして。


 静かに頷きました。


 商号は、自由に選べる。


 でも、その自由には責任がある。


 名前を売るときも。


 名前を貸すときも。


 その名前を信じる人がいることを、忘れてはいけない。


 私は相談票を取り出しました。


「まず、お名前を貸した経緯から、詳しく教えてください」


 昭和六十三年。


 商法の世界は、今日も人間の欲と信用で動いています。


 そして。


 どんなに小さな店の名前にも。


 どんなに大きな会社の名前にも。


 法律が守ろうとしているものがあるのです。


 それを知った私は、もう二度と。


 商号を、ただの名前だとは思わないでしょう。


 たとえ。


 その名前が、


 ――こはる庵。


 だったとしても。


 ……。


「こはる!」


「はい!」


「電話しながら何を笑ってる!」


「将来の商号を考えてました!」


「先に仕事を覚えろ!」


「はいっ!」


 残念ながら。


 商号選定の自由があっても。


 見習いの仕事を免れることはできないのでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハイファンタジー〔ファンタジー〕
魔術師こはるの物語 ―― 火力不足で追放された少女は、古代魔法の法理を読み解き世界を書き換える
その他〔その他〕
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
推理〔文芸〕・歴史〔文芸〕
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
歴史〔文芸〕 新訳セレクション ── 古典のハードル、下げておきました。
詩〔その他〕・エッセイ〔文芸〕
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
歴史〔文芸〕(六道輪廻抄)&関連作品
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。