[商法・商号の選定、登記、譲渡]現場編 「店の名前だけ売ればいい」の嘘。三十年の暖簾を奪う強欲社長と、商法二十四条の落とし穴
店の名前には、値札のつかない財産があります。
三十年、守ってきた味。
常連客の信頼。
雨の日も、雪の日も、毎朝開けてきた店の扉。
そうしたものが、たった数文字の名前に積み重なっていくのです。
だからこそ。
その名前を、金で奪おうとする人間もいます。
そして。
名前だけを買えば、商売の信用まで自分のものになると思い込んでいる人間も。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
この日、私は学ぶことになります。
商号。
それは単なる店の名前ではありません。
そして、商号には。
お金を払っただけでは、自由に持ち去れない理由があるのです。
「うちの名前が、売られちゃったんです」
朝九時。
事務所に駆け込んできた女性は、そう言いました。
「……名前が?」
私は思わず聞き返しました。
女性は五十八歳。
名前は、榊原澄江さん。
駅前商店街で、蕎麦屋を営んでいます。
店の名前は、
――そば処こまち。
三十二年前。
亡くなったご主人と二人で始めた、小さな店でした。
「名前って、屋号のことですか?」
「はい」
「誰が売ったんです?」
「弟です」
「……弟さん?」
私は首をかしげました。
澄江さんは、膝の上で両手を握りしめました。
「主人が亡くなってから、弟の信夫が経理を手伝ってくれていたんです」
「はい」
「でも、店の経営はずっと私がやってきました」
「そうなんですね」
「それなのに、弟が勝手に……」
女性の声が震えました。
「うちの名前を、駅前開発をしている会社の社長に売ったって言うんです」
私は目を丸くしました。
「ええっ!」
澄江さんは一枚の紙を差し出しました。
そこには、こう書かれていました。
――商号譲渡契約書。
譲渡人。
榊原信夫。
譲受人。
大栄観光株式会社。
譲渡する商号。
そば処こまち。
譲渡代金。
三百万円。
私は紙を見つめました。
三百万円。
店の名前に三百万円。
しかも、経営者本人ではなく、その弟が売ったというのです。
「弟さんは、店の所有者なんですか?」
「違います!」
澄江さんが強く否定しました。
「主人が亡くなってから、私が店を継いだんです。営業の届出も、税金の申告も、私の名前です」
「では弟さんは?」
「帳簿を手伝っていただけです。商売のことは、私が決めていました」
なるほど。
そこで、片桐所長が静かに口を開きました。
「商号の登記は?」
「え?」
「そば処こまちという名前を、登記していますか」
澄江さんは少し考えました。
「主人が、昔、法務局に行ったことがあります」
「書類は残っていますか」
「はい。主人が大切にしまっていたものを持ってきました」
差し出された古い封筒。
中には、登記簿の謄本がありました。
商号。
そば処こまち。
営業の種類。
飲食店営業。
営業所。
駅前商店街の所在地。
商号使用者。
亡くなったご主人の名前。
所長の目が細くなりました。
「相馬」
「はい」
「現在の登記を確認しろ。主人の死亡後、どうなっているかもだ」
「了解です」
私は謄本を覗き込みました。
おお。
商号登記。
個人事業主でも、できるんですね。
現代の知識では、個人商人の商号登記は任意です。
店の名前をつけて営業すること自体に、必ず商号登記が必要なわけではありません。
でも。
登記してあれば、商号に関する権利関係を公に示す重要な資料になる。
「所長!」
「何だ」
「だったら、登記されているから勝ちじゃないですか!」
「早い」
「え?」
「その謄本は古い」
「あ……」
「現在、誰の商号として登記されているのか。それを確かめるまでは何も決められん」
そうでした。
登記は、昔の紙を持っていれば済む話ではありません。
現在どうなっているのか。
そこが重要なのです。
「でも、まず弟さんには権限がありませんよね」
私は言いました。
「澄江さんが営業主なら、弟さんが勝手に店の商号を譲渡することはできません」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「それに、商号の譲渡にも制限があります!」
「ほう」
「商法十五条です!」
私は勢いよく言いました。
商号は、営業とともに譲渡する場合、または営業を廃止する場合に限って譲渡できる。
つまり。
商売はそのまま続けながら、名前だけを切り離して売ることはできない。
よし。
これは覚えています。
行政書士試験の商法です。
「商法十五条!」
私はもう一度言いました。
すると。
相馬先輩が、ぴたりと動きを止めました。
「……何条だって?」
「十五条です!」
「商号の譲渡が?」
「はい!」
先輩は机の横から、分厚い六法全書を取り出しました。
ぱらぱらとページをめくります。
そして。
開いたところを、私の前に置きました。
「読め」
「はい?」
「条文だ」
私は覗き込みました。
商法。
第一編。
総則。
第四章。
商号。
そして。
――第二十四条。
……。
私は固まりました。
「あれ?」
「何が『あれ』だ」
「商号の譲渡って……」
「二十四条だ」
「十五条じゃ……」
「ねえよ」
私は目を見開きました。
しまったあああ!
またです!
また、未来の法律を持ってきてしまいました!
現代の商法では、商号譲渡の規定は十五条。
でも。
昭和六十三年の商法では、二十四条。
法律の内容が似ていても、条文番号まで同じとは限らない。
「お前」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「最近、条文番号をよく間違えるな」
「すみません……」
「六法を開けって、何度言った」
「はい……」
私は小さくなりました。
転生者。
未来の知識がある。
しかし。
その未来の条文番号で昭和の内容証明を書いたら、笑い話では済みません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「中身は分かっていたな」
「はい!」
「なら、今の法律で確かめ直せ」
「はい!」
私は昭和の六法に向き直りました。
商法第二十四条。
商号は、営業とともにする場合、または営業を廃止する場合に限り譲渡できる。
そして第二項。
商号の譲渡は、登記をしなければ第三者に対抗することができない。
「……なるほど」
私は呟きました。
今回の争いは。
名前だけの問題ではありません。
誰が営業主なのか。
商号と営業をどう扱ったのか。
そして。
登記はどうなっているのか。
全部、確認しなければならないのです。
「でも所長」
「何だ」
「会社の方は、どうなんでしょう」
「会社?」
「大栄観光株式会社です。もし会社の名前を変えるなら、現代では会社法で……」
私はそこで止まりました。
あ。
しまった。
会社法。
現代にはあります。
でも。
昭和六十三年には、単独の法律としての会社法は存在しません。
会社の基本的なルールは、商法第二編の会社編などに置かれています。
「こはる」
相馬先輩が眉を寄せました。
「また、何とか会社法か?」
「……はい」
「そんな名前の法律、うちの六法にはねえぞ」
「ですよね!」
「だから何が『ですよね』なんだ」
危ない。
今日は商号だけでなく、会社法の地雷まで踏みそうです。
「大栄観光は株式会社だ」
先輩が言いました。
「だから会社としての商号や機関については、今の商法の会社編も見る必要がある」
「はい」
「それから、会社の名前に株式会社って文字が入ってるだろ」
「はい」
「会社の種類を示す文字にも意味がある。個人商人が、勝手に株式会社を名乗っていいわけじゃねえ」
「なるほど」
「お前ならどうする」
先輩が聞きました。
「え?」
「澄江さんが、新しい会社を一人で作って、店の営業を移したいと言ったら?」
「それなら、一人で株式会社を設立して……」
「できねえ」
「……!」
「株式会社の設立には、発起人が七人以上必要だ」
「七人!」
「取締役も三人以上。監査役も必要だ」
私は机に突っ伏しそうになりました。
現代なら。
発起人一人。
取締役一人。
資本金一円。
そんな株式会社も設立できます。
でも、この昭和六十三年では違う。
しかも。
「合同会社なら……」
「何だ、その会社は」
「……ありませんでした」
「当たり前だ」
先輩は煙草をくわえました。
「会社を作るってのはな、そんな簡単な話じゃねえ」
私は六法を見つめました。
未来のスマートな会社制度。
昭和の厳格な会社制度。
まるで別世界です。
だから、頭数合わせの発起人や、名前だけの役員が問題になるのも分かる気がしました。
でも。
今回、澄江さんが守りたいのは、株式会社の看板ではありません。
個人商人として三十年以上守ってきた、
――そば処こまち。
という名前です。
会社を作らなければ、守れない。
そんな話ではないはずです。
「所長」
私は顔を上げました。
「個人商人でも、商号は守れるんですよね」
「ああ」
「登記をしていなければ、名前を自由に奪われるというわけでもない」
「そうだ」
所長が頷きました。
「まず、商号が誰の営業を示すものなのかを調べる」
私は澄江さんを見ました。
女性は不安そうに、古い謄本を握っています。
絶対に。
この人から店の名前を奪わせたくない。
私は、そう思いました。
その日の午後。
私たちは、そば処こまちへ向かいました。
駅前商店街。
古いアーケードを抜けた先。
木製の引き戸。
少し色褪せた暖簾。
そこには、白い文字で、
――こまち。
と染め抜かれていました。
「いいお店ですね……」
私は思わず呟きました。
店の中には、四人掛けのテーブルが五つ。
壁には、古い写真。
開店当時のご主人と澄江さん。
まだ若い二人が、店の前で笑っています。
「主人がね」
澄江さんが言いました。
「この名前をつけたんです」
「こまち、ですか」
「ええ。小さくても、町の人が安心して入れる店にしたいって」
私は暖簾を見ました。
三十二年。
その名前で営業してきた。
毎日、出汁を取り。
蕎麦を茹で。
常連客の顔を覚えて。
そうして積み重ねてきた信用です。
「おばちゃん!」
入口から元気な声がしました。
高校生くらいの男の子。
「いつもの、かけ蕎麦!」
「あいよ!」
澄江さんが笑います。
「受験勉強、頑張ってるかい?」
「明日、模試!」
「じゃあ大盛りにしとくよ」
私は微笑みました。
こういう店。
いいですね。
昭和の商店街。
人と人が、名前でつながっている。
でも。
その穏やかな時間は、突然破られました。
「おい、澄江!」
乱暴な声。
店に入ってきたのは、五十代の男性でした。
黒いスーツ。
太い金の腕時計。
その後ろには、気まずそうな顔の中年男性。
「……信夫」
澄江さんの表情が凍りました。
弟さんです。
そして、黒いスーツの男が名乗りました。
「大栄観光の社長、大崎だ」
大崎剛造。
五十四歳。
駅前再開発に関わる不動産事業や飲食店経営で、急速に会社を大きくした人物です。
「話は簡単だ」
大崎は椅子に腰を下ろしました。
「この店の名前は、うちが買った」
……来ました。
強欲社長。
初手から全開です。
「三百万払ったんだ」
大崎は続けました。
「そば処こまちの商号は、もう大栄観光のものだ」
「そんな!」
澄江さんが声を上げました。
「私は何も聞いてません!」
「弟さんが売ったんだよ」
「弟には、そんな権限ありません!」
大崎は鼻で笑いました。
「身内の問題なんざ知らねえな」
私は眉をひそめました。
身内の問題?
違います。
そもそも、商号を譲渡できる人が誰なのか。
それは取引の根本でしょう。
「それに」
大崎は懐から一枚の設計図を取り出しました。
「来月、駅前に新しい蕎麦屋を出す」
設計図には、大きく、
――そば処こまち 駅前本店。
と書かれていました。
……え?
「本店?」
私は思わず聞き返しました。
「ああ」
大崎は得意そうに笑いました。
「三十年続く老舗の味。それを売り文句にする」
「でも、こちらのお店は?」
「知らん」
大崎は冷たく言いました。
「名前を変えればいいだろ」
私は言葉を失いました。
三十二年間、同じ名前で営業してきた人に。
名前を変えろ?
自分たちはその名前で新しい店を開いて、老舗を名乗る?
「……そんなの、おかしいです」
私が言うと、大崎は顔を上げました。
「何だ、お嬢ちゃん」
「このお店は、今も営業しています」
「見りゃ分かる」
「澄江さんは、営業を譲渡するつもりも、廃止するつもりもありません」
「だから?」
「商号だけを切り離して、自由に売れるわけではありません!」
大崎が笑いました。
「ははは!」
大きな笑い声。
「何だよ、法律の先生か?」
「行政書士事務所の見習いです!」
「行政書士?」
大崎は、馬鹿にしたように口元を歪めました。
「弁護士でもねえんだろ?」
「……はい」
「だったら、黙ってろ」
むかっ。
「こはる」
相馬先輩が低い声で呼びました。
「はい」
「落ち着け」
「でも!」
「話は聞けた」
先輩は大崎を見ました。
「確認します」
「あ?」
「今回、そば処こまちの営業そのものを買い受けたわけではないんですね」
「当たり前だ」
「店舗や厨房設備、什器、取引関係なども、譲渡の対象ではない」
「ああ」
「澄江さんは、今後も営業を続ける」
「勝手に続けりゃいい」
「その一方で、商号だけを三百万円で取得したと」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「分かりました」
「何が分かった」
「あなたの主張です」
先輩は、店の暖簾を見ました。
「もう一つ」
「何だ」
「商号譲渡の登記は済ませましたか」
大崎の笑みが、一瞬止まりました。
「……登記?」
「はい」
「そんなもの、後でやればいいだろ」
「まだなんですね」
「契約書がある!」
「確認したかっただけです」
相馬先輩は、それ以上言いませんでした。
大崎は舌打ちしました。
「三日やる」
澄江さんを指差します。
「名前を変えろ。さもないと、こっちにも考えがある」
そして。
大崎は弟の信夫を連れ、店を出ていきました。
私は、怒りで震えていました。
「先輩!」
「何だ」
「ひどすぎます!」
「ああ」
「営業はそのままで、商号だけ買ったって!」
「そう言ったな」
「だったら商法二十四条に反します!」
「それだけじゃねえ」
「え?」
相馬先輩は、澄江さんを見ました。
「この店の営業主は、誰でしたっけ」
「……私です」
「弟さんは?」
「手伝いです」
「商号の処分を任せたことは?」
「ありません」
「なら、そこが先だ」
私は、はっとしました。
そうです。
商号譲渡の条件を考える前に。
そもそも弟さんに、売る権限があったのか。
問題は二重になっています。
無権限の譲渡。
さらに、営業を伴わない商号だけの譲渡。
「それに、もう一つ」
先輩が言いました。
「登記だ」
「……商号譲渡の登記?」
「ああ」
「でも、登記していなくても、契約自体が必ず無効になるわけではありませんよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「そこを間違えるな」
なるほど。
登記がないから契約が無効。
そんな単純な話ではありません。
商号譲渡について登記が必要になるのは、第三者に対して譲渡の効力を主張する場面です。
そして今回。
仮に適法な譲渡契約だったとしても、登記の有無によって、その主張が通るかどうかが問題になる。
「こはる」
先輩が言いました。
「相手は三日って言ったな」
「はい」
「こっちは、一日で調べるぞ」
「はい!」
私たちは、再び事務所へ戻りました。
翌朝。
相馬先輩が、分厚い封筒を机に置きました。
「取ってきたぞ」
「何ですか?」
「現在の商号登記の資料だ」
私は封筒を開きました。
そこに記載されていたのは、
――そば処こまち。
商号使用者。
榊原澄江。
「……あれ?」
私は目を丸くしました。
「澄江さんの名前になってます!」
「ああ」
「いつ変更したんですか?」
「ご主人が亡くなったあとだ」
相馬先輩は説明しました。
ご主人が亡くなったのは、七年前。
その後、澄江さんが営業を承継しました。
当時、手続きを頼んだ専門家が、必要な書類を整えて商号の承継について登記していたのです。
「本人は忘れてたみてえだけどな」
「なるほど……」
私は謄本を見つめました。
現在の商号使用者。
榊原澄江。
しかも、店も営業も、ずっと澄江さんが引き継いでいた。
「所長!」
「何だ」
「大崎社長、かなり困りますよね!」
「ああ」
「弟さんは商号使用者じゃありません!」
「そうだ」
「譲渡する権限もない!」
「うん」
「しかも、営業そのものは譲渡していない!」
所長は頷きました。
「だが、それだけで終わるな」
「え?」
「大崎が、既に別のところで動いている可能性がある」
「別のところ?」
「登記だ」
所長の言葉に、私は首をかしげました。
「でも、澄江さんの登記がありますよね」
「だから確認する」
相馬先輩が言いました。
「昔の商法には、同じ市町村内で、同じ営業のために他人の登記商号を重ねて登記できないという規定がある」
「はい」
「大崎が、どんな名前で、どこに登記を申請しようとしているかも調べる」
なるほど。
昭和の商号登記には、同一市町村内、同一営業という枠組みがある。
現代の商業登記とは、扱いが違う部分です。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「商号を登記したからといって、似た名前を全国一律に禁止できるわけではない」
「はい」
「登記による保護と、不正な商号使用に対する保護も分けて考えろ」
私は頷きました。
商号の選定は、原則自由。
でも、他人の営業と誤認させる不正な使用は許されない。
そして。
自由に名前を選べることと、他人が築いた信用を横取りできることは違うのです。
ここで、相馬先輩がもう一枚の紙を取り出しました。
「それから、面白いものが出てきた」
「何です?」
「大崎が、駅前の印刷屋に頼んでいた広告の校正刷りだ」
私は受け取りました。
そこには。
――創業三十二年。
――老舗そば処こまち。
――待望の駅前本店、新装開店。
と印刷されていました。
私は目を見開きました。
「……これ!」
「ああ」
「明らかに澄江さんのお店の歴史を使おうとしてますよね!」
「そういうことだ」
先輩が頷きました。
「印刷屋は、まだ刷ってねえ。発注者本人から校正内容を確認しただけだ」
「はい」
「だが、大崎の狙いは分かった」
私は広告を見つめました。
商号。
ただの名前じゃない。
他人の三十二年を。
自分の店の三十二年として売り込もうとしている。
こんなこと。
許していいはずがありません。
「さて」
片桐所長が言いました。
「こはる。通知書を書け」
「はい!」
私は勢いよく椅子に座りました。
便箋を広げます。
万年筆を握ります。
そして。
書き始めました。
――貴社の商号譲受行為は、商法第十五条に違反し……
「違う」
「……!」
所長の声。
私は固まりました。
あ。
また!
「二十四条!」
私は慌てて訂正しました。
相馬先輩が笑いました。
「学習しろよ」
「してます!」
「してねえから間違えるんだろ」
「うう……」
私は深呼吸しました。
昭和六十三年。
商法第二十四条。
商号の譲渡。
絶対に間違えません。
たぶん。
「それとな」
相馬先輩が原案を覗き込みました。
「『商号譲受行為は無効』って断定するな」
「え?」
「誰が契約したのか、本人の権限がどうだったのか。まず事実を整理しろ」
「はい」
「それに、登記がないことと、契約が無効であることも別だ」
私は書き直しました。
第一。
そば処こまちは、榊原澄江が現に営む飲食店営業の商号である。
第二。
榊原信夫は、当該営業の営業主ではなく、商号譲渡について適法な権限を与えられていない。
第三。
榊原澄江は、商号の譲渡にも、営業の譲渡にも、営業の廃止にも同意していない。
第四。
商法第二十四条第一項は、商号の譲渡を、営業とともにする場合又は営業を廃止する場合に限定している。
第五。
当該商号は、現在、榊原澄江を商号使用者として登記されている。
第六。
商法第二十四条第二項により、商号譲渡は登記をしなければ第三者に対抗できない。
私は顔を上げました。
「所長。ここまででどうでしょう」
所長は黙って読みました。
そして。
「続けろ」
「はい!」
私は書きました。
第七。
貴社が予定する広告には、「創業三十二年」「老舗そば処こまち」「駅前本店」等の表示がある。
第八。
これらの表示は、貴社の新店舗が、榊原澄江の営む店舗と同一の営業又はその承継店舗であると誤認させるおそれがある。
第九。
不正の目的をもって他人の営業であると誤認させる商号を使用することは、商法第二十一条により禁止されている。
私は万年筆を止めました。
「先輩」
「何だ」
「二十一条?」
「ああ」
「商号の譲渡だけじゃなくて、使用自体も問題になるんですね」
「そうだ」
相馬先輩は頷きました。
「譲渡契約がどうなろうが、他人の営業だと誤認させるために名前を使っていいわけじゃねえ」
私は思わず笑みを浮かべました。
なるほど。
商号の選定の自由。
商号の登記。
商号の譲渡。
全部つながっている。
自由に名前を選べる。
でも、会社であると誤認させる名称などには制限がある。
登記によって、商号の権利関係を公にできる。
そして、商号の譲渡には条件がある。
さらに、不正な商号の使用も許されない。
「すごいですね……」
私は呟きました。
「何がだ」
「名前を守るために、こんなにいろいろな仕組みがあるんですね」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「商人にとっちゃ、名前は命だからな」
私は頷きました。
まさに。
そば処こまち。
その名前に、三十二年が詰まっているのです。
書類の最後には、こう記されました。
――通知人は、貴社が主張する商号譲渡を承認せず、当該商号の使用に同意しない。
――通知人の営業との誤認混同を生じさせる商号の使用及び広告表示について、直ちに計画を撤回するよう求める。
――貴社が既に商号の登記その他の手続を行っている場合には、その内容を明らかにされたい。
――本通知に応じず、通知人の営業上の利益を侵害する行為が行われる場合には、弁護士への相談のうえ、差止請求及び損害賠償請求その他の法的措置を検討する。
差出人。
榊原澄江。
私は書類を見つめました。
強い。
でも。
相手を罵倒する言葉は、一つもない。
「所長」
「何だ」
「これ、怖いですね」
「そうか」
「はい。相手が反論しようとすると、全部説明しなければいけない」
誰が商号を持っているのか。
誰が譲渡したのか。
その人に権限があったのか。
営業はどうなったのか。
登記はあるのか。
なぜ創業三十二年を名乗るのか。
どうして本店という表示を使うのか。
全部。
説明しなければならない。
所長は静かに言いました。
「法律は、名前だけを見ない」
「……はい」
「その名前で、誰が何をしてきたかを見る」
私は、しばらく黙りました。
そして。
「所長」
「何だ」
「もう一つ、確認したいことがあります」
「言ってみろ」
「弟さんが三百万円を受け取ったことです」
相馬先輩がこちらを見ました。
「ほう」
「大崎社長は、弟さんとの契約が有効だと思っているかもしれません。でも、権限がなければ、澄江さんに商号を譲渡させることはできません」
「そうだ」
「だったら、三百万円をどうするかは、大崎社長と弟さんの間で別に整理すべき問題ですよね」
所長が頷きました。
「そのとおりだ」
私は続けました。
「澄江さんが、弟さんの受け取った三百万円のために、店の名前を失う理由はありません」
「そうだな」
相馬先輩が言いました。
「いいところに気づいたじゃねえか」
「褒めましたね!」
「調子に乗るな」
「はい!」
私は笑いました。
少しだけ。
商法が好きになってきました。
内容証明郵便は、澄江さんの意思を確認したうえで、本人名義で発送されました。
そして。
発送から二日後。
大栄観光株式会社から、事務所へ電話が入りました。
「……片桐先生は、おられますか」
私は受話器を握りました。
聞き覚えのある声。
大崎社長です。
でも。
あの偉そうな声ではありません。
「所長に代わります」
片桐所長が受話器を受け取りました。
「片桐です」
『あの……商号の件で』
「はい」
『顧問の弁護士に見せたんだが……』
私は思わず耳を澄ませました。
『商号だけ買ったっていう契約は、問題があると言われてな』
「そうですか」
『そもそも、売った弟に権限があったのかって……』
「はい」
『営業の譲渡でもないし、元の店は営業を続けているし……』
大崎の声が小さくなります。
『それに、登記までされているとは知らなかった』
私は、相馬先輩を見ました。
先輩は無言で頷きました。
『広告もまずいらしい』
「広告ですか」
『三十二年の老舗とか、駅前本店とか……あれじゃ、向こうの店がうちに移ったように見えるだろうって』
大崎は、一度言葉を切りました。
『弁護士から、商号使用の差止めや損害賠償の問題になると言われた』
所長は黙って聞いています。
『それで……』
「はい」
『新店舗の名前を変える』
私は、思わず拳を握りました。
『そば処こまちは使わない』
「そうですか」
『広告も刷らせない。印刷屋には止めるよう連絡した』
「その内容については、ご本人に書面でお伝えください」
『分かった』
大崎は苦々しそうに続けました。
『ただ、三百万円はどうなるんだ』
片桐所長は、静かに言いました。
「榊原信夫さんとの契約関係については、当事者間で事実と法律関係を整理していただく必要があります」
『……そうか』
「必要であれば、弁護士にご相談ください」
『分かったよ』
大崎は長く息を吐きました。
『まさか、店の名前一つでここまで面倒になるとはな……』
所長は答えました。
「店の名前一つ、ではありません」
『……何?』
「三十二年間の営業と信用に関わることです」
電話の向こうが、静かになりました。
そして。
『……そうだな』
小さな返事。
受話器が置かれました。
「所長!」
私は立ち上がりました。
「やりましたね!」
「ああ」
「大崎社長、名前を変えるって!」
「そう言っていたな」
「勝ちですね!」
すると。
相馬先輩が言いました。
「まだだ」
「え?」
「正式な回答書が来て、広告の発注が止まったことを確認してからだ」
「……はい」
先輩は机を指差しました。
「それに、弟の信夫が勝手に商号を売った問題も残ってる」
「そうでした」
「三百万円の処理もある。澄江さんと信夫の関係も、これで元どおりになるとは限らねえ」
私は頷きました。
法律で一つの争いを止めても。
人間関係の問題が、全部消えるわけではありません。
でも。
少なくとも。
澄江さんは、三十二年間守ってきた名前を奪われずに済みそうです。
その後、大栄観光株式会社から正式な回答書が届きました。
――そば処こまちの商号を使用しない。
――当該商号を用いた広告及び新店舗の開業計画を撤回する。
――榊原澄江の営業について、承継又は系列関係を示す表示を行わない。
社名。
代表取締役。
大崎剛造。
署名押印。
私は、その紙を何度も読み返しました。
最初は。
「三百万円払った」
「名前は俺のものだ」
「三日以内に変えろ」
そう言っていた男が。
最後には、自分の署名とハンコで、名前を使わないと約束したのです。
「先輩」
「何だ」
「商法って、すごいですね」
「そうか?」
「はい!」
相馬先輩は笑いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
「はい」
「ルールを守った奴が勝つんだよ」
私は大きく頷きました。
一週間後。
私たちは、そば処こまちを訪れました。
昼過ぎ。
店は満席でした。
「いらっしゃい!」
澄江さんが笑顔で迎えてくれます。
「こはるちゃん!」
「こんにちは!」
「今日はお蕎麦、食べていって!」
「いいんですか!」
「もちろん!」
私は嬉しくなりました。
すると。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何です?」
「お前、仕事中だぞ」
「……はい」
「食べるなら、ちゃんと代金払えよ」
「分かってます!」
無料でいただこうなんて、思ってません!
……少ししか。
澄江さんは笑いながら、温かいかけ蕎麦を出してくれました。
出汁の香り。
刻んだ葱。
湯気の向こうに見える、古い暖簾。
「いただきます!」
私は箸を持ちました。
一口。
……。
「おいしい!」
思わず声が出ました。
澄江さんが笑います。
「主人が考えた出汁なんです」
「そうなんですか!」
「この味だけは、ずっと変えてなくてね」
私はもう一口食べました。
三十二年。
積み重ねてきた味。
この味を知っている人がいる。
この店を覚えている人がいる。
この名前を見て、安心する人がいる。
「澄江さん」
「何?」
「この店の名前、守れてよかったですね」
澄江さんは、少しだけ目を伏せました。
「ええ……」
そして。
暖簾を見ました。
「主人が亡くなったとき、店を閉めようかと思ったんです」
「……そうだったんですね」
「でも、お客さんが言ってくれて」
澄江さんは微笑みました。
「こまちがなくなったら困るって」
私は黙って聞いていました。
「だから続けたんです」
「はい」
「名前って、不思議ね」
澄江さんが言いました。
「たった四文字なのに」
その目が、少し潤みました。
「主人と生きてきた時間が、全部入っている気がするの」
私は、何も言えませんでした。
そば処こまち。
たった四文字。
でも。
それは、三十二年分の人生でした。
食事を終えたころ。
入口の引き戸が開きました。
「……姉さん」
小さな声。
私は顔を上げました。
そこに立っていたのは、弟の信夫さんでした。
澄江さんの表情が硬くなります。
「……何しに来たの」
信夫さんは、うつむきました。
「謝りに来た」
「……」
「大崎さんからも連絡があった」
手には、封筒。
「三百万円の件は、俺が責任を持って整理する」
澄江さんは黙っています。
「勝手に名前を売ろうとして、悪かった」
信夫さんの声が震えました。
「姉さんが、あんなに大事にしていた名前なのに」
澄江さんは、長い間、何も言いませんでした。
そして。
「信夫」
「……うん」
「お金が欲しいなら、相談してくれればよかったのに」
信夫さんは唇を噛みました。
「……ごめん」
「私たち、家族でしょう」
その一言で。
信夫さんの肩が、がくりと落ちました。
私は目を伏せました。
商号の争い。
法律の上では、譲渡権限や登記、営業との関係が問題になります。
でも。
その奥には。
家族の信頼まで壊しかけた、一人の人間の欲があります。
法律は、失われた時間を元に戻すことはできません。
だけど。
これ以上、大切なものを奪わせないことはできる。
そのことが。
今は、少し嬉しかったのです。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机に戻り、六法を開きました。
商法。
商号。
なんだか、朝とは違って見えます。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、商号の意味がよく分かりました」
「ほう」
「商号は、商人が営業上、自分を示す名前なんですよね」
「そうだ」
「個人商人なら、自分の氏名でもいいし、別の名前でもいい」
「ああ」
「会社なら、会社の名前が商号になる」
「そうだ」
私は頷きました。
「そして、商号は原則として自由に選べる」
「うん」
「でも、自由だからといって、他人の営業だと誤認させるために使っていいわけじゃない」
「そうだな」
「それに、商号の登記も重要です」
私は今日の謄本を思い出しました。
澄江さんは、夫の死後、必要な承継手続きを済ませていました。
もし、その記録がなかったら。
今回も、さらに事情を調べなければならなかったでしょう。
「登記って、地味ですけど」
私は言いました。
「あとから大きな意味を持つことがあるんですね」
「あるな」
「それから……」
私は六法のページを指差しました。
「商号の譲渡!」
相馬先輩が顔を上げました。
「何条だ?」
「二十四条です!」
「よし」
「商号は、営業とともに譲渡するか、営業を廃止する場合に限って譲渡できる!」
「うん」
「そして、登記がなければ第三者に対抗できない!」
「そうだ」
私は満足して頷きました。
よし。
今日は覚えました。
絶対に。
現代の十五条と混同しません。
「でも先輩」
「何だ」
「ちょっと不思議なことがあります」
「言ってみろ」
「店の名前って、売買の対象になるくらい価値があるんですよね」
「ああ」
「だったら、どうして名前だけ自由に売れないんでしょう」
先輩は少し考えました。
そして。
「名前だけが、一人歩きするからだろ」
「……一人歩き?」
「ああ」
先輩は机の上に、今日の広告の校正刷りを置きました。
――創業三十二年。
――老舗そば処こまち。
――駅前本店。
「これを見て、客はどう思う」
「澄江さんのお店と関係があると思います」
「だろ」
「はい」
「商号ってのは、信用を運ぶんだ」
先輩は言いました。
「だから、営業との結びつきを無視して、名前だけ好き勝手に売り飛ばせるわけじゃねえ」
私は、はっとしました。
信用を運ぶ。
なるほど。
商号は、ただの文字ではない。
誰が商売をしているのか。
誰を信用して取引すればいいのか。
その判断にも関わっている。
「だから、譲渡の条件があるんですね」
「そうだ」
「しかも、登記によって第三者との関係まで考えている」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「商法ってのは、商売をする奴のためだけにあるんじゃねえ」
「え?」
「商売をする相手方も守らなきゃならねえんだよ」
私は、しばらく黙りました。
そうか。
商号を守ることは。
店主を守るだけではない。
その店を信じて通う人も守る。
取引相手の判断も守る。
営業上の信用を、他人が勝手に横取りすることを防ぐ。
そういう意味があるのです。
「こはる」
片桐所長が声をかけました。
「はい!」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「商号は、ただの名前ではありません」
「うん」
「自由に選べます。でも、他人を誤認させるような使い方はできません」
「そうだ」
「そして、商号の譲渡は、営業とともにする場合か、営業を廃止する場合に限られます」
「うん」
「登記をしなければ、第三者に譲渡の効力を対抗できません」
所長が頷きました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
そして、ノートを開きます。
今日の教訓。
短く。
分かりやすく。
私は鉛筆で、一行だけ書きました。
――商号は自由に名乗れる。でも、他人の信用を盗めないし、名前だけを勝手に売り飛ばせない。
「できました!」
私はノートを掲げました。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
窓の外。
夕暮れの商店街に、少しずつ明かりが灯っていきます。
あの町のどこかで。
そば処こまちの暖簾も、まだ揺れているのでしょう。
三十二年間、守られてきた名前。
その名前を見て、今日も誰かが店に入る。
「いつもの」
そう言えば。
「はいよ」
と返ってくる。
そんな当たり前の風景が、明日も続く。
そのために。
商法には、名前を守る仕組みがあるのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、さっき面白いこと言ってたな」
「何です?」
「一人で株式会社を作れるとか」
……。
私は固まりました。
「あ、あれは……」
「発起人一人、取締役一人、資本金一円だったか?」
「……はい」
「どこの国の話だ?」
「えーっと……」
未来の日本です。
もちろん、言えません。
「じゃあ、お前が株式会社を作るとして」
「はい」
「発起人を七人、どうやって集める?」
「……!」
私は考えました。
七人。
七人です。
知り合い。
友達。
親戚。
……。
「先輩」
「何だ」
「この時代、会社を作るのって、すごく大変ですね」
「今さらか」
「私、現代なら一人で株式会社を作れるのに……」
「また訳の分からんことを」
相馬先輩が笑いました。
「だから、名前だけ貸してくれって話が出てくるんだよ」
「……名前だけ?」
「ああ」
「発起人の頭数合わせとか、名ばかりの役員とかですか?」
「そういうことだ」
私は今日の事件を思い出しました。
名前を貸す。
名前を売る。
名前で信用させる。
商売の世界では、名前一つに、いろいろな問題が潜んでいます。
「でも先輩」
「何だ」
「名前を貸しただけだから責任はない、なんて簡単には言えませんよね」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「お」
「……何です?」
「少しは商法が分かってきたじゃねえか」
「本当ですか!」
「ただし」
先輩は、六法を閉じました。
「それを言うなら、次は商法二十三条だな」
「二十三条?」
「ああ」
「何の条文ですか?」
先輩は煙草を一本取り出しました。
そして、悪そうな笑みを浮かべました。
「名前を貸した奴が、他人の借金まで背負うことになる話だ」
「……ええっ!」
私は思わず立ち上がりました。
「名前を貸しただけで!?」
「場合によっちゃな」
「そんな!」
「今日の商号譲渡とは、また別の問題だ」
私は慌てて六法を開こうとしました。
でも。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「今日はそこまでだ」
「ええっ!」
「まず今日の条文を覚えろ」
「はい……」
私はしぶしぶ六法を閉じました。
でも。
頭の中には、新しい疑問が生まれていました。
名前を貸す。
それだけで、責任が生じることがある?
自分は実際に営業していないのに?
そんなことが、本当にあるのでしょうか。
……。
商法。
恐ろしい。
でも。
面白い。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「明日、二十三条を教えてください!」
「自分で読め!」
「読んでから質問します!」
「面倒くせえ奴だな!」
私は笑いながら、ノートを閉じました。
昭和六十三年。
会社法という独立した法律は、まだありません。
会社を作るにも、今よりずっと高い壁があります。
けれど。
商売に信用が必要であること。
信用を裏切れば、責任が生じること。
そして。
人が長い時間をかけて築いた名前には、守るべき価値があること。
その根本は、昔も今も変わらないのです。
今日、私は一つ学びました。
店の名前は、看板に書かれた文字ではありません。
その名前を信じてくれる人たちとの、約束なのです。
だから。
三百万円の小切手よりも。
三十二年間、毎朝暖簾を出し続けた人の手のほうが。
ずっと重いこともある。
そして、その重さを法律の言葉で示せたとき。
どんなに偉そうな社長でも、簡単には奪えなくなる。
私は、今日の一行をもう一度読みました。
――商号は自由に名乗れる。でも、他人の信用を盗めないし、名前だけを勝手に売り飛ばせない。
よし。
商法二十四条。
今度こそ、忘れません。
……たぶん。
「こはる!」
「はい!」
「また十五条って書くなよ!」
「書きません!」
「本当か?」
「絶対です!」
「じゃあ、確認だ。商号譲渡は何条だ?」
「二十四条!」
「よし!」
私は胸を張りました。
そして、ふと思ったのです。
昭和の商法。
条文番号まで変わっている。
株式会社を作るにも、七人必要。
合同会社もない。
会社法そのものが存在しない。
……。
この時代で行政書士になるって。
もしかして。
私が思っていたより、ずっと大変なのでは?
「先輩!」
「今度は何だ!」
「未来の法律を覚えてるだけじゃ、全然足りませんね!」
「当たり前だろ!」
「ですよね!」
「だから何が『ですよね』なんだ!」
事務所に、相馬先輩の怒鳴り声が響きました。
でも。
私は笑っていました。
だって。
昭和の商法には、まだまだ知らない落とし穴がある。
そして、その落とし穴は。
時には、真面目に生きてきた人を守るための、強い武器にもなるのです。
次に誰かが、
「名前を貸しただけだ」
と言い出したら。
私は、きっとこう思うでしょう。
――その一言、本当に商法を読んでから言っていますか?
名前一つで、商売は動く。
名前一つで、信用も動く。
そして。
名前一つで、人生まで変わることがある。
だからこそ。
名前を軽く扱う人間ほど。
商法を開いた瞬間、顔色が変わることになるのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




