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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 商法

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576/701

[商法・商人と商行為]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 商売は、店を開いた日から始まるとは限りません。


 看板を掲げる前。


 最初の商品を売る前。


 会社の登記を終える前。


 そんな段階でも。


 法律上は、すでに「商人」として扱われることがあるのです。


 そして。


 商人だからといって、必ず株式会社を経営しているわけでもありません。


 小さな印刷所。


 町の八百屋。


 個人経営の運送屋。


 場合によっては、畑の脇にテントを張って野菜を売る農家さんまで。


 商法の世界には、いろいろな人が登場します。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……先輩」


「何だ」


「商法って、思っていたより広いですね」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「今さらか」


「だって、会社を作る法律だと思ってたんですよ」


「それだけじゃねえだろ」


「はい……」


 私は昨日の事件を思い出しました。


 田辺印刷所。


 百八十万円の印刷代金。


 注文したのは、湖西総合商事株式会社の設立準備をしていた黒岩源蔵。


 でも。


 黒岩は、こう言い張りました。


『会社はまだできていない。だから代金は払えない』


 さらに。


『俺はまだ商人じゃない。商法なんか関係ない』


 ……。


 あの自信満々の顔。


 今でも思い出せます。


「でも結局、払いましたね」


「ああ」


「百八十万円、全額」


「そうだな」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「で、お前は何で取り戻せたと思う?」


「商法のおかげです!」


「半分正解」


「半分!?」


 私は目を丸くしました。


「残り半分は何ですか?」


「契約と証拠だ」


 ……。


 あ。


 そうでした。


 注文書。


 納品書。


 受領印。


 請求書。


 会社がまだ成立していないという事実。


 そして、黒岩個人の名前と印鑑。


「商法が適用されるから、誰でも金を払う義務を負うわけじゃねえ」


「はい」


「誰が契約したのか。どんな約束をしたのか。それが先だ」


 私は頷きました。


 商法は、契約を無視して何でも解決してくれる魔法ではありません。


 むしろ。


 現実の取引をきちんと調べたうえで、その取引にどんな特別なルールが適用されるかを判断する法律です。


「よし」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、商人と商行為を完全に理解します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は現場です!」


「今日は?」


「法理です!」


「便利な言い訳だな」


 そこへ。


 奥から片桐所長の声がしました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


 ◇


「まず、商法とは何かです!」


 私はノートに書きました。


 ――商法。


 商人の営業や商行為など、商事に関する法律。


「先生!」


「所長と呼べ」


「所長!」


「何だ」


「商法って、民法と何が違うんですか?」


 片桐所長は、机の上の六法を指差しました。


「民法は、私人間の法律関係についての基本的な法律だ」


「はい」


「商法は、商取引について特別のルールを置いている」


「つまり、民法の特別法ですね!」


「そうだ」


 私は大きく丸をつけました。


 民法。


 一般法。


 商法。


 特別法。


「ということは、商売の契約でも、まず民法を見ればいいんですよね?」


「逆だ」


 相馬先輩が即答しました。


「え?」


「商事については、まず適用される商法の規定を確認するんだ」


「……あ」


 私は慌てて六法をめくりました。


 商法第一条。


 ただし。


 昭和六十三年の六法は、現代の六法とは少し違います。


 条文は、旧仮名遣い。


 文章も硬い。


 そして、現代の商法とは条文の構成も異なります。


 当時の商法第一条には、商事について商法に規定がない場合、商慣習法に従い、それもなければ民法を適用するという考え方が置かれていました。


「つまり……」


 私はノートに三つ書きました。


 商法。


 商慣習法。


 民法。


「この順番!」


「基本はそうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、ほかの特別法や強行規定があれば、それも考えなきゃならねえぞ」


「はい!」


 私は、昨日の黒岩さんを思い出しました。


『商売ってのは、そんな教科書どおりじゃねえんだ』


 確かに。


 商売の世界には、独特の慣行があります。


 でも。


「先輩、商慣習法って、何ですか?」


「商売の世界で続いてきた慣行のうち、法として認められるものだ」


「普通の商習慣と違うんですか?」


「違う」


 相馬先輩は机を指で叩きました。


「たとえば、ある町の問屋がみんな月末締め翌月払いにしてるとする」


「はい」


「それだけで、法律上、すべての取引が翌月払いになると思うか?」


「……なりません!」


「そうだ。契約で何を決めたかが重要だし、慣行があるだけで直ちに商慣習法になるわけじゃねえ」


 なるほど。


 商慣習。


 商慣習法。


 名前は似ています。


 でも、ただ多くの人がやっている方法と、法として適用される慣習は区別が必要です。


「じゃあ、黒岩さんが『会社ができるまで支払わないのが慣行だ』と言ったとしても……」


「それで契約書の支払期日が勝手に消えるわけじゃねえ」


「ですよね!」


 私はノートに書きました。


 ――商事の基本的な適用順序は、商法、商慣習法、民法。ただし他の特別法や強行規定にも注意。


「これで商法第一条、覚えました!」


「早えな」


「まだ入口ですけどね!」


「自分で言うな」


 私は笑いました。


 でも。


 ここは大切です。


 現代の受験勉強では、民法と商法を別々に覚えがちです。


 けれど、現実の契約では両方が関係します。


 どちらの規定を適用するか。


 そこを間違えると、結論まで間違えてしまうのです。


 ◇


「次は、商人です!」


 私は大きく書きました。


 ――商法第四条。


 自己の名をもって商行為をすることを業とする者。


「まず、この『自己の名をもって』が重要です」


「ほう」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「説明してみろ」


「はい!」


 私は昨日の注文書を取り出しました。


 注文者。


 黒岩源蔵。


 個人印。


「黒岩さんは、この注文書に自分の名前を書いていました」


「ああ」


「だから、自分で注文した契約上の権利義務が誰に帰属するのか、という問題になるんです」


「そうだ」


 私は続けました。


「自己の名をもって、というのは、自分が法律上の権利義務の主体になるという意味です」


 たとえば。


 八百屋の主人が、市場から大根を百本仕入れる。


 契約は八百屋の主人の名前。


 大根を引き渡してもらう権利。


 代金を支払う義務。


 それらが主人に帰属する。


「だから、自己の名をもって商行為をしているんですね」


「そういうことだ」


「じゃあ、従業員が仕入れに行った場合は?」


 相馬先輩が聞きました。


「ええと……」


 私は少し考えました。


「従業員が店主のために、適切な権限で仕入れ契約をした場合、契約上の権利義務は店主に帰属します」


「そうだ」


「だから、店主が自分で市場へ行かなくても、商人になれる!」


「よし」


 なるほど。


 商人というのは、必ず自分で商品を運んでいる人ではありません。


 自分で接客している必要もありません。


 従業員を使っていても。


 代理人に契約させていても。


 法律上、その営業の権利義務が自分に帰属するなら、自己の名による営業ということになります。


「じゃあ黒岩の場合は?」


「個人名義の契約でした」


「うん」


「ただし、個人名義だから商人というだけでは足りません」


「ほう」


「商行為を業としているか、あるいは開業準備の段階で商人資格が認められるかも考える必要があります」


 相馬先輩が頷きました。


「そこまで分かってりゃ上等だ」


 ……。


 褒められました。


 珍しい。


 今日はいい日かもしれません。


「では次!」


 私はノートに書きました。


 ――業。


 営利目的で、同種の行為を反復継続すること。


「この『業』があるから、たまたま物を売った人が、全員商人になるわけじゃないんですよね」


「そうだ」


 たとえば。


 私が家にある古いラジオを、友達に一度だけ売る。


 これは、普通に考えれば一回限りの売買です。


 それだけで、ラジオ販売業者になったわけではありません。


 一方。


 毎週のように中古ラジオを仕入れ、利益を乗せて売っている。


 それを継続する意思もある。


 そんな場合は、商人性が問題になります。


「つまり」


 私は言いました。


「一回だけ売ったという事実と、営業として売っているという事実は違う!」


「そうだ」


「しかも、単に十回やれば必ず商人、という機械的な話でもないですよね」


「ああ。取引の目的や実態を見るんだ」


 私は大きく頷きました。


 商人とは。


 社長という肩書を持つ人ではない。


 株式会社の登記がある人だけでもない。


 自己の名をもって。


 商行為を。


 業として行う人。


「……やっと分かりました」


 私は呟きました。


「黒岩さんの事件で、どうして商人資格が問題になったのか」


 黒岩さんは、卸売業を始める予定でした。


 利益を得て商品を転売する。


 それを継続して行うつもりだった。


 しかも。


 単に頭の中で考えていただけではありません。


 商品を仕入れ。


 事務所を借り。


 営業車を購入し。


 看板を掲げていた。


「そこまでやっていたから、開業準備行為としての意味が出てきたんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「商売の実態を見ろ。それが基本だ」


 私は、その言葉をノートの端に書きました。


 ◇


「ところで、先輩」


「何だ」


「商人って、全員が転売をしているわけじゃありませんよね?」


「ああ」


「たとえば、自分の畑で野菜を育てて、それを売る農家さんは?」


 相馬先輩が笑いました。


「来たな」


「何がですか?」


「擬制商人だ」


 私は勢いよく書きました。


 ――擬制商人。


「商法第四条第二項ですね!」


「そうだ」


 通常の商人は、自己の名をもって商行為を業とする人。


 でも。


 それだけではありません。


 店舗その他これに類似する設備によって物品の販売を業とする人。


 そして、鉱業を営む人。


 こうした人は、商人とみなされます。


「つまり、自分で育てた野菜を売る場合でも……」


「ああ」


「販売用の店舗を構えて、継続的に販売していれば、擬制商人になる場合がある!」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 たとえば。


 畑で収穫した大根を、近所の人に一度分ける。


 それだけで当然に商人になるわけではありません。


 でも。


 畑の脇に販売用のテントを張る。


 値札を並べる。


 毎日、野菜を販売する。


 そうした実態があれば、店舗に類似する設備を使った販売営業として、擬制商人の問題が出てきます。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「転売じゃなくても、商人と扱われることがあるんですね」


「そうだ」


「じゃあ、専業農家が野菜を市場へ出荷しているだけの場合は、必ず擬制商人になるんですか?」


「必ずとは言えねえな。店舗その他の設備による販売という要件を見なきゃならねえ」


「はい!」


 ここ、大事です。


 野菜を売っているから商人。


 というわけでもない。


 農家だから商人ではない。


 というわけでもない。


 どんな設備で。


 どんな取引を。


 どのように継続しているか。


 そこを見なければならないのです。


「先輩」


「何だ」


「商法って、肩書じゃなくて実態を見るところが面白いですね」


「そりゃそうだろ」


 先輩は笑いました。


「商売ってのは、看板だけじゃ成り立たねえからな」


 ◇


「では、今日の本丸です!」


 私はノートの中央に大きく書きました。


 ――商行為。


「先輩!」


「何だ」


「商行為には、大きく三種類あります!」


「言ってみろ」


「絶対的商行為!」


「うん」


「営業的商行為!」


「うん」


「附属的商行為!」


「よし」


 私は得意げに頷きました。


「昨日の黒岩さんの事件、全部出てきましたよね」


「ああ」


「だから忘れません!」


「なら説明してみろ」


「はい!」


 私は、まず一本目の線を引きました。


 ――絶対的商行為。


「絶対的商行為は、行為そのものの性質から商行為になるものです」


「そうだ」


「商人がしたかどうかや、営業として反復継続したかどうかにかかわらず、商行為になります」


「具体例は?」


「利益を得て転売する目的で、商品を買う行為です!」


 私は黒岩さんを思い出しました。


 卸売会社を始めるため、商品を仕入れていた。


 安く仕入れ。


 利益を乗せて売る。


 それが目的です。


「だから、たとえ一回だけでも、転売して利益を得る目的で買ったなら、絶対的商行為になり得るんですね」


「ああ」


 ただし。


 私は赤線を引きました。


「ここで重要なのは、買ったときの目的です」


 たとえば。


 自分で使うためにラジオを買った。


 ところが、一年後に不要になったので高く売れた。


 それだけで、最初の購入が転売目的だったことにはなりません。


 一方。


 最初から高く売るつもりでラジオを仕入れた。


 これは、利益を得て譲渡する意思をもった有償取得として、絶対的商行為の典型になります。


「なるほど。結果として儲かったかどうかだけではないんですね」


「そうだ」


 ほかにも。


 他人から取得する商品を供給する契約と、その履行のための仕入れ。


 取引所における取引。


 手形などの商業証券に関する行為。


 こうしたものが、絶対的商行為として挙げられます。


「先輩、手形って難しそうですね」


「工場や問屋の取引じゃ珍しくねえぞ」


「そうですよね……」


 昭和六十三年。


 手形取引は、商売の世界で重要な存在です。


 現代のように、銀行振込だけで済む取引ばかりではありません。


 約束手形。


 為替手形。


 裏書。


 不渡り。


 ……。


 私は少し震えました。


「先輩」


「何だ」


「絶対的商行為だけで、事件が何本も作れそうです」


「事件を増やすな」


「そうでした」


 私は次の線を引きました。


 ――営業的商行為。


「こちらは、営業として行うときに商行為になるものです」


「そうだ」


「営利目的で、反復継続して行うことが重要です」


 私は、田辺印刷所の写真を机に置きました。


 澄子さんの小さな印刷所。


 古い印刷機。


 息子さんが手伝う作業場。


「これが、営業的商行為の具体例です」


「印刷だな」


「はい!」


 澄子さんは、印刷を営業として継続していました。


 商店街のチラシ。


 会社の伝票。


 商品カタログ。


 そうした注文を受け、代金を得て印刷する。


「だから、商法上の営業的商行為になるんですね」


「そうだ」


 ただし。


 私はノートに注意書きをしました。


 友達から一度頼まれて、家庭用の道具で写真を印刷した。


 それだけで、当然に印刷業を営んでいることにはなりません。


 営業として行っているか。


 そこが違うのです。


「ほかには?」


 相馬先輩が聞きました。


「運送!」


「うん」


「製造や加工!」


「うん」


「旅館や料理店など、客を集める施設での取引!」


「そうだ」


「それから、銀行取引、保険、寄託の引受け、仲立ちや取次ぎなどです!」


 私は大きく丸をつけました。


 絶対的商行為は、行為そのもの。


 営業的商行為は、営業として行うこと。


「これで二つ、区別できました!」


「まだ一つ残ってるぞ」


「分かっています!」


 私は三本目の線を引きました。


 ――附属的商行為。


「これは、商人が営業のためにする行為です」


「そうだ」


「たとえば、八百屋さんが営業用の冷蔵庫を買う」


「ああ」


「運送業者が営業用のトラックを買う」


「うん」


「卸売業者が事務所を借りる」


「そうだ」


 私は、昨日の事件を思い出しました。


 黒岩さんが借りた事務所。


 購入した営業車。


 注文したパンフレット。


 そのどれもが、卸売業を始めるための準備でした。


「だから、開業準備行為と附属的商行為がつながるんですね」


「そこだ」


 相馬先輩が頷きました。


「商人が商売のためにする行為なら、商品を売ったり仕入れたりする行為だけが商行為になるわけじゃねえ」


「はい」


 私は考えました。


「じゃあ先輩。八百屋さんが、自分の家で使うテレビを買ったら?」


「どう思う?」


「……営業のためではありません」


「そうだな」


「だから、商人が買ったというだけで、何でも附属的商行為になるわけではない!」


「よし」


 もっとも。


 商人の行為には、営業のためにするものだという法律上の推定があります。


 だからこそ、実際に私生活上の行為なのか、営業のためなのか、具体的な事情を確認する必要があります。


 私はノートに書きました。


 ――絶対的商行為は「行為そのもの」。


 ――営業的商行為は「営業として」。


 ――附属的商行為は「商人が営業のために」。


「……あ!」


 私は声を上げました。


「何だ」


「これ、すごく覚えやすいです!」


「自分で書いたんだろ」


「そうですけど!」


 私は三つの言葉を囲みました。


 今なら。


 絶対的。


 営業的。


 附属的。


 この三つを混同せずに済みそうです。


 ◇


「さて、こはる」


 片桐所長が口を開きました。


「はい」


「昨日の黒岩は、まだ正式に営業を開始していなかったな」


「はい!」


「では、なぜ商人資格が問題になった」


 私は背筋を伸ばしました。


「開業準備行為です!」


 ここです。


 今回の事件で、一番重要だったところ。


 私は六法の横に、判例集を置きました。


「昭和三十三年六月十九日の最高裁判例です」


 特定の営業を開始する目的で、その準備行為をした人は。


 その行為によって営業開始の意思を実現したものとして、商人資格を取得する場合がある。


 つまり。


 まだ商品を売っていなくても。


 開業に向けた具体的な行動が、商人資格の取得につながるのです。


「でも」


 私は指を立てました。


「ここで注意があります!」


「何だ」


「ただ『いつか店を出したいな』と思っただけでは足りません」


「そうだ」


「準備行為が必要です」


 たとえば。


 いつか不動産業を始めたいと思う。


 頭の中で店の名前を考える。


 これだけで、当然に商人になるわけではありません。


 でも。


 営業所を借りる。


 看板を用意する。


 営業用の車を買う。


 取引先を探す。


 開業のための具体的な契約を結ぶ。


 そうした行動は、開業準備行為として問題になります。


「さらに、昭和四十七年二月二十四日の最高裁判例も重要です!」


 私は続けました。


「開業準備行為は、取引の相手方だけでなく、ほかの人にも客観的に開業準備だと認められるものである必要があります」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「心の中で商売を始めるつもりだった、というだけでは駄目だ」


「はい」


 そこで、私は黒岩さんの事務所を思い出しました。


 真新しい看板。


 取引先募集の札。


 商品見本。


 営業車。


 仕入れた商品。


 印刷されたカタログ。


 外から見ても、卸売業の準備をしていると分かる。


「……なるほど」


 私は頷きました。


「黒岩さんの場合、ただの思いつきではなかったんですね」


「ああ」


「商売を始める意思が、客観的な準備行為として表れていた」


「そうだ」


 そして。


 その準備行為自体も、商人が営業のためにする附属的商行為として評価されることがあります。


「先輩」


「何だ」


「これって、ちょっと不思議ですよね」


「何がだ」


「商人だから附属的商行為になるのに、その開業準備行為によって商人資格を取得するんです」


 相馬先輩が笑いました。


「卵が先か、鶏が先かって話か」


「そうです!」


 私は鉛筆をくるくる回しました。


「でも、判例はそこを認めているんですね」


「ああ」


「営業開始の意思が具体的な準備行為で実現されていれば、その行為から商人資格を認める」


「そういうことだ」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 最初のお客さんが来る前。


 まだ売上げがゼロでも。


 法律上は、商人としての取引が始まっている場合がある。


「これで黒岩さんの『まだ一品も売っていないから商人じゃない』という主張が、通用するとは限らなくなるんですね」


「そうだ」


 片桐所長が言いました。


「ただし、開業準備に見える行為が一つあれば必ず商人になる、と機械的に決めるな」


「はい」


「営業の目的、準備行為の内容、客観的な状況を確認するんだ」


 私は頷きました。


 法律は。


 言葉だけで決まるものではない。


 具体的な事実から判断する。


 今回、片桐所長が何度も教えてくれたことです。


 ◇


「次は、商人資格の喪失です!」


 私はページをめくりました。


「先輩、商人資格って、いつなくなるんですか?」


「お前はどう思う」


「閉店したとき?」


「それだけじゃねえな」


「ですよね……」


 私は、商店街の閉店した八百屋さんを想像しました。


 シャッターを下ろす。


 看板を外す。


 商品を片づける。


 でも。


 まだ仕入先への支払が残っている。


 売掛金の回収も終わっていない。


 借りていた店舗の明渡しも済んでいない。


「つまり、営業活動そのものをやめても、商売の後始末は続くんですね」


「そうだ」


「残務処理が終わるまでは、商人資格が続くと考えられる!」


「よし」


 私は、ノートに二本の矢印を描きました。


 開業準備。


 営業開始。


 営業終了。


 残務処理終了。


「……面白い」


 私は呟きました。


「商人になるのは、開店前のこともある」


「ああ」


「商人でなくなるのは、閉店後のこともある」


「そうだ」


「つまり、開店日と閉店日だけで資格を判断しちゃいけない!」


 相馬先輩が頷きました。


「商売の前後には、契約が残るからな」


 私は少し考えました。


「先輩」


「何だ」


「商人資格がなくなっても、昔の借金が全部消えるわけじゃないですよね」


「当たり前だ」


「ですよね!」


 そうです。


 商人資格の喪失と、債務の消滅は別問題。


 店を閉めたからといって。


 取引先に対する代金支払義務が、当然になくなるわけではありません。


 だから。


 黒岩さんが仮に卸売業を諦めたとしても。


 個人として負った印刷代金の債務が、それだけで消えることはないのです。


「……なるほど」


 私は鉛筆を止めました。


 商人資格。


 思っていたより、ずっと実務的な概念です。


 単なる肩書ではなく。


 実際の営業活動と、その前後の取引を法律がどう扱うか。


 そこに意味があるのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「町の小さな店も、全部、大会社と同じように商法の規定を守らなきゃならねえと思うか?」


「え?」


 私は少し考えました。


「……小商人ですか?」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――小商人。


 商人のうち、営業用の財産の規模が一定以下の者。


「小商人については、一部の商法上の規定が適用されないんですよね」


「ああ」


「どうしてですか?」


「小さな商売に、大きな商売とまったく同じ負担をかけるのが適切とは限らねえからだ」


 なるほど。


 町の小さな駄菓子屋さん。


 大きな卸売会社。


 全国に支店を持つ企業。


 全部、同じ規模ではありません。


 商法は商人の営業を規律します。


 でも。


 商人というだけで、営業規模に関係なくすべての規定を一律に適用するわけではないのです。


「先輩」


「何だ」


「小商人って、売上げが少ない人ですか?」


「それだけじゃねえ」


 相馬先輩が言いました。


「法令で定められた営業用財産の額を見るんだ。売上高だけで決めるな」


「はい!」


 私は赤線を引きました。


 小商人。


 売上げが少ないから、というだけで判断しない。


 営業の用に供する財産の規模を確認する。


「それから、昭和六十三年と現代で制度や金額の基準を確認することも必要ですね」


「そうだな」


 私は頷きました。


 古い法律を学ぶとき。


 現代と同じ数字だと思い込むのは危険です。


 まして私は未来人。


 数字と条文番号の思い込みが、何度も事故を起こしています。


「……気をつけます」


「分かってりゃいい」


 ◇


「よし。では、ここまでの確認だ」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「当事者の一方だけにとって商行為である場合、商法は適用されるか」


「はい!」


 私は即答しました。


「商法第三条です。一方にとってだけ商行為となる場合でも、原則として商法が双方に適用されます!」


「そうだ」


 ここも、昨日の事件に関係します。


 田辺印刷所。


 営業として印刷業を営んでいる。


 黒岩源蔵。


 卸売業の開業準備をしている。


 仮に、黒岩さん側の商人資格について争いが残っても。


 澄子さん側の営業としての印刷行為が、商行為に当たることは重要です。


「つまり、双方が商人じゃなければ商法が使えない、という考え方は間違いなんですね」


「そうだ」


「消費者がお店で買い物したときも、お店側にとって商行為になる場合があります」


「ああ」


 ただし。


 私は自分で注意書きをしました。


 消費者取引には、消費者保護のための特別法も関係する。


 商法が適用されるからといって、消費者保護の規定がなくなるわけではありません。


「法律って、重なっているんですね」


「そういうことだ」


 所長が頷きました。


 商法。


 民法。


 特別法。


 契約。


 商慣習法。


 どれか一つだけで、すべてが決まるわけではない。


 それぞれの役割を確認する。


 だから、法律を勉強する意味があるのです。


 ◇


 窓の外が、少しずつ暗くなってきました。


 私はノートをめくりました。


 商法とは何か。


 商人の定義。


 擬制商人。


 商人資格の取得と喪失。


 小商人。


 絶対的商行為。


 営業的商行為。


 附属的商行為。


 そして、一方的商行為。


「……すごい」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「今日だけで、商法の基本がほとんどつながりました」


「ほとんど、な」


「そこは強調しなくていいです!」


 私は苦笑しました。


 でも。


 まだ一つ、大きな疑問が残っています。


「所長」


「何だ」


「会社法って、どうして独立した法律になったんでしょうね」


 相馬先輩が首をかしげました。


「また変なことを言い出したな」


「あ……」


 しまった。


 ここは昭和六十三年。


 現代の会社法は、まだ存在しません。


 でも。


 私の頭の中には、未来の制度があります。


 平成十七年。


 会社法制定。


 平成十八年。


 施行。


 それまで商法第二編や有限会社法などに分かれていた会社制度が、一つの法律として再編されます。


 株式会社の設立や機関設計も、より柔軟になります。


「先輩」


「何だ」


「今、株式会社を設立するには発起人が七人必要ですよね」


「ああ」


「取締役も三人以上」


「そうだ」


「監査役も少なくとも一人」


「それがどうした」


 私は少し考えました。


「実際に経営する人が一人なのに、人数を合わせるためにほかの人を集めるのって、変じゃありませんか?」


 相馬先輩は煙草を置きました。


「変だと思うか?」


「はい」


「だが、会社を作るってのは、もともと簡単な話じゃねえ」


「……はい」


「株主から金を集めて、会社という別の主体が商売する。経営する奴と、金を出す奴が違う場合もある」


 なるほど。


 会社は、個人商店とは違います。


 会社自身が権利義務の主体になる。


 株主は、原則としてその出資の範囲で責任を負う。


 だからこそ。


 会社債権者の保護。


 株主の保護。


 経営者に対する監督。


 そうした仕組みが必要です。


「でも、先輩」


「何だ」


「そのために七人集めても、全員が本当に会社の経営や設立に関心を持っているとは限りませんよね」


「ああ」


「名前だけ貸す人が出ることもある」


「そうだな」


「それなら、人数を形式的にそろえるより、実際の責任を明確にするほうが大事な場合もありますよね」


 相馬先輩が、少し黙りました。


 それから。


「まあ、そういう考え方もあるだろうな」


 ……。


 私は頷きました。


 歴史を知っている私には、分かります。


 将来、株式会社の設立は一人の発起人でもできるようになります。


 ただし、ここで一つ重要なことがあります。


 発起人が一人でよくなることと、取締役も一人でよくなることは、同時に実現したわけではありません。


 まず、平成二年の商法改正で、発起人七人以上という制限が廃止されます。


 その改正では、会社債権者を保護するための最低資本金制度も導入されました。


 そして、さらに時代が進み。


 平成十七年に会社法が制定され、翌年施行される。


 現代では、一定の条件の下で、取締役一人の株式会社も作れます。


 最低資本金制度もなくなり、法律上は資本金一円での設立も可能になります。


 合同会社という会社形態も登場します。


 ただし。


 制度が簡単になったからといって、会社が何の責任も負わなくなるわけではありません。


「……なるほど」


 私はノートに書きました。


 昔の会社制度。


 設立の形式や機関構成について、厳格な規制が多かった。


 現代の会社制度。


 小規模な会社にも対応しやすいよう、設立や機関設計の自由度が高まった。


 その一方で。


 取引の安全。


 債権者保護。


 株主保護。


 経営者の責任。


 こうした基本的な課題は、どの時代にも残る。


「所長」


「何だ」


「会社法が独立したのって、単に商法を分かりやすくしたかったからだけじゃないんですね」


「何の話かは知らんが」


 所長は、静かに言いました。


「法律は、現実の商売に合わなければ意味がない」


 私は顔を上げました。


「はい」


「だが、商売をしやすくするだけでも駄目だ」


「……はい」


「その会社を信用して取引する人間がいる」


 私は、田辺澄子さんを思い出しました。


 百八十万円。


 夫が残した印刷所。


 息子さんと一緒に仕上げた五千部のパンフレット。


 もし。


 会社の設立制度があるというだけで。


 責任を負う人間が誰もいなくなるとしたら。


 そんな制度は、商売を支える仕組みとは言えません。


「会社を作りやすくすることと、取引相手を守ること」


 私は呟きました。


「その両方が必要なんですね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私は鉛筆を握り直しました。


 商法。


 会社法。


 古い制度と新しい制度。


 違いはたくさんあります。


 でも。


 どちらの時代でも。


 他人と約束をして商売をする以上。


 誰が責任を負うのか。


 それを曖昧にしてはいけない。


 根底にある考え方は、つながっているのです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が腕を組みました。


「こはる。最後に確認問題だ」


「はい!」


「第一問」


 私は姿勢を正しました。


「会社設立を考えている男が、何も準備せず、家で『いつか商売をやりたい』と言っている。商人か?」


「それだけでは商人資格を取得したとは言えません!」


「よし」


「第二問。そいつが、営業所を借りて看板を掲げ、商品を仕入れ、取引先の募集まで始めた。まだ売上げはゼロ。商人資格を取得することはあるか?」


「あります!」


「理由は?」


「特定の営業を開始するための客観的な準備行為があれば、それによって商人資格を取得することがあるからです!」


「よし」


「第三問。八百屋の主人が、市場で利益を得て転売する目的で野菜を仕入れた。何商行為だ?」


「絶対的商行為です!」


「第四問。田辺印刷所が、営業として印刷の注文を繰り返し受ける。何商行為だ?」


「営業的商行為です!」


「第五問。卸売業者が、営業のために事務所を借りた。何商行為だ?」


「附属的商行為です!」


「よし」


 私は思わず笑いました。


 全部、答えられました。


「第六問」


 相馬先輩が続けました。


「自分の畑で育てた野菜を、販売用テントを設けて継続的に売っている。通常の商行為を業としているとは言えないとしても、商人と扱われることはあるか?」


「はい! 擬制商人です!」


「第七問。店を閉めた。売掛金の回収や仕入先への支払がまだ残っている。商人資格は?」


「営業の残務処理が終わるまでは続くと考えられます!」


「第八問」


 ……。


 まだあるんですか。


「印刷所が個人客から営業として印刷を受注した。客は商人じゃない。商法は適用されないか?」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「一方的商行為についての商法第三条があるので、当事者の一方にとって商行為であれば、原則として商法が双方に適用されます!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 完璧。


 今なら、かなり自信があります。


「じゃあ、第九問」


 先輩が笑いました。


「昭和六十三年、発起人一人で株式会社を設立できるか?」


「できません!」


「何人必要だ?」


「七人以上です!」


「取締役は?」


「三人以上です!」


「監査役は?」


「一人以上です!」


「よし」


 私は、ふうっと息を吐きました。


「……先輩」


「何だ」


「これ、商法の試験ですか?」


「そうだ」


「いつから?」


「今から」


「勝手に始めないでください!」


 先輩が笑いました。


 私は頬を膨らませました。


 でも。


 なんだか嬉しいです。


 昨日の事件がなければ。


 商人。


 商行為。


 擬制商人。


 附属的商行為。


 こうした言葉は、ただ暗記するだけの存在だったでしょう。


 でも今は違います。


 黒岩さんが、あの立派な事務所で言い放った言葉。


『まだ開業してないから商人じゃない』


 あの場面を思い出すだけで。


 開業準備行為。


 商人資格取得。


 附属的商行為。


 そうした論点が、自然と頭に浮かぶのです。


「……勉強って、こういうことなんですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


「言葉を覚えるだけじゃなくて、実際の場面に当てはめられることです」


 相馬先輩は少し黙りました。


 そして。


「まあな」


 短く言いました。


 ◇


 窓の外。


 夕暮れの商店街に、明かりが灯り始めました。


 八百屋。


 魚屋。


 文房具店。


 印刷所。


 運送会社。


 飲食店。


 どの店にも、そこで働く人がいます。


 誰かに商品を売り。


 誰かから材料を買い。


 代金を支払い。


 また次の日も店を開く。


 その一つ一つが、法律とつながっている。


 私はノートの最後のページを開きました。


「……よし」


 今日の一行を書きます。


 商法とは何か。


 商人とは誰か。


 商行為とは何か。


 そして。


 なぜ、黒岩さんの言い分が通用しなかったのか。


 全部を、一行に。


 私は鉛筆を走らせました。


 ――商人は看板でなく営業の実態で決まり、商行為は取引の性質と目的で決まる。


「できた!」


 私はノートを掲げました。


「先輩!」


「何だ」


「今日の一行です!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「……悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、きっと忘れません。


 田辺印刷所の百八十万円。


 あのお金が戻ってきたのは、単に商法という名前の法律があったからではありません。


 注文書があった。


 納品書があった。


 仕事を終えた証拠があった。


 そして。


 開業前でも商人資格が認められる場合があることを、法律と判例に基づいて示した。


 その結果。


 黒岩さんは、自分の責任を見直さざるを得なくなったのです。


 私は思いました。


 商法というのは。


 大会社の社長だけを守る法律ではありません。


 真面目に働いている人。


 自分の店を守ろうとしている人。


 取引相手を信用して仕事を引き受ける人。


 そうした人たちの約束を支える法律でもあるのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片づけろ」


「……またですか」


「六法も戻せ」


「はい」


「書類も整理しろ」


「……はい」


 私は渋々立ち上がりました。


 でも。


 ふと、あることを思いつきました。


「先輩」


「何だ」


「私、毎日ここで仕事してますよね」


「ああ」


「書類を作って、電話に出て、依頼人の話を聞いて……」


「そうだな」


「これって、反復継続していますよね!」


「してるな」


「じゃあ、私は商人ですか!」


 相馬先輩が、ぴたりと動きを止めました。


 そして。


「お前、何を商売してるんだ?」


「行政書士事務所のお仕事です!」


「誰の名で?」


「……え?」


「誰の名で、依頼人から仕事を受けてる?」


 私は、奥の机を見ました。


 片桐所長。


 ……。


「あ」


「気づいたか」


「所長の事務所です……」


「そうだ」


「私は見習いで、所長の仕事を手伝っているだけ……」


「そういうことだ」


 相馬先輩が笑いました。


「自己の名をもって、って意味を忘れたのか?」


「うう……」


 私は頭を抱えました。


 そうでした。


 業として反復継続しているように見えても。


 それだけで、自分が商人になるわけではありません。


 誰の名で行っているか。


 誰に法律上の権利義務が帰属するか。


 そこが重要です。


「しかも」


 相馬先輩が続けました。


「世の中の仕事が、何でも商法上の商行為になるわけじゃねえぞ」


「……はい」


「ちゃんと営業の性質を確認しろ」


「分かりました!」


 私はノートを閉じました。


 商人。


 商行為。


 絶対的。


 営業的。


 附属的。


 擬制商人。


 何度も間違えました。


 でも。


 そのたびに、少しずつ分かってきた気がします。


 そして。


 私は最後に、もう一度だけノートを開きました。


 ――商人は看板でなく営業の実態で決まり、商行為は取引の性質と目的で決まる。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで片づけろ!」


「今、商人資格を確認してたんです!」


「お前は今、片づけ係だ!」


「そんな資格、商法にありません!」


「事務所の業務分担だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「その業務分担は、商慣習法ですか!」


「ただの所長の指示だ!」


 ……。


 なるほど。


 商慣習法を覚えたからといって、片づけを免れるわけではないようです。


 残念ながら。


 私の商法知識は、まだ事務所の掃除に勝てません。


 でも。


 百八十万円を取り戻すためには、ちゃんと役に立ちました。


 それなら。


 まあ。


 今日は、それで十分です。


 私は笑いながら、机の上の六法を棚へ戻しました。


 昭和六十三年。


 商法の世界は、まだまだ奥が深い。


 そして、今なら少しだけ分かります。


 商売は。


 看板を掲げた瞬間だけで始まるものではない。


 その前から。


 誰かが契約をし。


 誰かが信用し。


 誰かが働いている。


 法律は、その現実を見ているのです。


 だからこそ。


 会社がまだできていないという一言で。


 真面目に働いた人の百八十万円が、消えてしまっていいはずはない。


 ――商人は看板でなく営業の実態で決まり、商行為は取引の性質と目的で決まる。


 その一行を、私はもう一度、心の中で読みました。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり商法って面白いですね!」


「面白がってる暇があったら、掃除しろ!」


「はいっ!」


 ……。


 どうやら。


 商法をどれだけ勉強しても、見習いの仕事は減らないようです。


 ただし。


 次に誰かが、


『名前を貸しただけだから、責任はない』


 と言い出したら。


 今度は。


 その名前に、どんな法律上の責任が結びついているのか。


 商法を開いて、確かめてみようと思います。


 なぜなら。


 商売の世界では。


 たった一つの名前が。


 百八十万円より、ずっと重い責任を背負うことだってあるのですから。

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