[商法・商人と商行為]現場編 「まだ開業してないから商人じゃない」の嘘。七人の発起人と、踏み倒された百八十万円を取り戻す商法の刃
看板を掲げる前から、商売の責任は始まっている。
店を開いていない。
商品も売っていない。
会社の登記も終わっていない。
だから。
「俺はまだ商人じゃない。商法なんか関係ない」
そう言い張る男がいたら、どうしますか。
実は。
商法の世界では、最初のお客さんが来る前から、商人として扱われることがあるのです。
しかも。
商売をする人間が、必ず株式会社の社長であるとは限りません。
小さな商店の主人も。
個人で営業する印刷屋も。
場合によっては、畑の脇で野菜を売る農家さんだって。
商法の世界に足を踏み入れます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、現代の行政書士試験では当たり前だった言葉が、まるで通用しない世界に突き落とされました。
会社法。
合同会社。
一人株式会社。
そして。
商法。
全部、知っているつもりでした。
でも。
昭和の商売は、そんなに甘くなかったのです。
◇
「百八十万円、払ってもらえないんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、そう言って膝の上の鞄を握りしめました。
「百八十万円……?」
私は思わず聞き返しました。
女性の名前は、田辺澄子さん。
四十二歳。
駅裏の商店街で、小さな印刷所を営んでいます。
田辺印刷所。
夫を五年前に亡くし、今は高校生の息子と二人暮らし。
古い活版印刷機と、新しく導入したオフセット印刷機を使い、町の商店のチラシや伝票を印刷しているそうです。
「何の代金ですか?」
「パンフレットと、商品カタログです」
澄子さんは鞄から、分厚い紙束を取り出しました。
光沢のある表紙。
色鮮やかな写真。
そこには大きく、
――湖西総合商事株式会社。
と印刷されていました。
「新しくできる会社なんです」
「なるほど」
「県内の工芸品や日用品を仕入れて、都会の百貨店に売るそうで……」
澄子さんは俯きました。
「社長になる方から、開業までに五千部刷ってほしいと頼まれました」
「五千部!」
私はパンフレットをめくりました。
分厚い。
写真も多い。
しかも四色刷り。
昭和六十三年です。
今のように、パソコンでデータを作ってネット印刷に入稿、というわけにはいきません。
写植。
版下。
製版。
色校正。
印刷。
断裁。
製本。
全部、人の手が必要です。
「これだけの仕事を……」
「息子にも手伝ってもらいました」
澄子さんが小さく笑いました。
「学校が終わると、毎晩、紙を揃えてくれて」
「……そうだったんですか」
「うちは小さな印刷所ですから、これだけの注文は大仕事で」
私はパンフレットを見つめました。
百八十万円。
大手企業なら、経理の伝票一枚で処理されるかもしれません。
でも。
小さな印刷所にとっては。
材料費。
機械の修理代。
電気代。
生活費。
全部が詰まったお金です。
「それで、代金は?」
「納品から二か月経つのに、一円も……」
澄子さんの声が震えました。
「社長さんに電話したんです」
「はい」
「そうしたら……」
彼女は一枚の手紙を差し出しました。
差出人。
湖西総合商事設立準備室。
代表予定者。
黒岩源蔵。
私は読み上げました。
「本件印刷物については、会社設立を前提とする注文であり……」
ふむ。
「現在、会社設立登記が完了していないため……」
ん?
「法人格が存在せず、会社として代金支払義務を負うことはできない……」
……。
私は眉をひそめました。
最後の一文。
そこには、こう書かれていました。
――なお、黒岩源蔵個人は本件契約について責任を負わない。
「……は?」
思わず声が出ました。
「注文したのは、黒岩さんですよね?」
「はい」
「代金の話も?」
「黒岩さんです」
「契約書は?」
「こちらです」
澄子さんが、一枚の注文書を差し出しました。
私は確認しました。
注文者。
黒岩源蔵。
住所。
湖西市内の自宅住所。
押印。
黒岩の個人印。
備考欄には、
――湖西総合商事設立準備のため。
と書かれています。
私は顔を上げました。
「これ……会社名義の契約じゃないですよね?」
「え?」
「黒岩さん個人の名前で注文しています」
澄子さんが息を呑みました。
「じゃあ……」
「少なくとも、最初から会社だけが契約当事者だったとは言えません!」
私は思わず立ち上がりました。
これは。
かなり大事な事実です。
会社ができていない。
法人格がない。
だから誰も払わない。
そんな理屈で、仕事をした人間が泣き寝入りするなんて。
おかしいでしょう!
「大丈夫です!」
私は勢いよく言いました。
「それなら、黒岩さん個人に請求する方向で整理できます!」
澄子さんの目に、少しだけ光が戻りました。
「本当ですか?」
「はい!」
私は六法を開きました。
「まず契約当事者を確定して、必要なら会社法も確認して――」
「待て」
相馬先輩の声。
来ました。
この声。
最近、嫌な予感しかしません。
「はい?」
「今、何と言った?」
「契約当事者を確定して、会社法を確認すると……」
「会社法?」
「はい」
「なんだ、その法律は」
……。
私は固まりました。
あ。
そうでした。
ここは昭和六十三年。
現代の会社法は、まだ存在しません。
「ええと……」
私は慌てて言い直しました。
「商法です! 商法の会社編です!」
「最初からそう言え」
「はい……」
相馬先輩は棚から分厚い六法を取り出しました。
「今の会社の規則は、商法第二編と有限会社法なんかに分かれてる。妙な法律を勝手に作るな」
「すみません……」
またやりました。
未来人の失敗。
現代では、会社法という独立した法律があります。
でも昭和六十三年では、まだ商法の中に会社の規定がある。
それに。
私は少し考えました。
「でも先輩。一人で株式会社を作れば、こういう混乱も減るんじゃないですか?」
「……何?」
「今なら一人で株式会社を設立できますよね。発起人一人、取締役一人で――」
「お前」
先輩が私を見ました。
「株式会社の発起人は何人必要だ?」
「一人……」
「七人だ」
「……七人?」
「七人以上」
私は口を開けました。
「七人!?」
「ああ」
「七人も集めるんですか!?」
「そうだ」
「じゃあ、社長一人で始めたい人は?」
「この時代の株式会社を、一人の発起人だけで設立することはできねえ」
「取締役は?」
「三人以上」
「監査役は?」
「少なくとも一人」
……。
私は机に手をつきました。
七人。
三人。
一人。
なんですか、その人数合わせ大会。
「じゃあ、黒岩さんが会社を作るのにも……」
「ああ。人間を集めなきゃならねえ」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「だから名前だけ貸す奴も出てくる。実際に経営するのは一人なのにな」
「うわあ……」
現代なら、一人で株式会社を設立することもできます。
資本金一円での設立も可能です。
合同会社という選択肢だってあります。
でも。
昭和六十三年。
合同会社はありません。
株式会社には、七人以上の発起人が必要。
取締役も三人以上。
監査役も必要。
もっとも、この時代には現在のような株式会社の最低資本金制度はまだありません。
人数の壁と、資本金の壁は別の話です。
「じゃあ、黒岩さんも、頭数を集めている最中なんでしょうか」
「そうかもしれねえな」
先輩が注文書を指差しました。
「だがな、こはる」
「はい」
「会社を作るのが面倒だって話と、注文した品物の代金を払わなくていいって話は別だ」
私は顔を上げました。
「……そうですね」
「そこを混ぜるな」
片桐所長が、ここで初めて口を開きました。
「こはる」
「はい」
「今日、調べるべきは会社の設立要件じゃない」
「え?」
「黒岩が、何者として取引したかだ」
所長は注文書に指を置きました。
「この名前が、誰に権利と義務を帰属させるものなのか。それを確かめろ」
……。
誰に。
権利と義務が帰属するか。
私は六法を開きました。
商法第四条。
そこには、旧仮名遣いの見慣れない文字が並んでいました。
――自己ノ名ヲ以テ商行為ヲ為スヲ業トスル者。
私はゆっくり読みました。
「自己の名をもって……商行為をすることを業とする者……」
「商人の定義だ」
相馬先輩が言いました。
私は頷きました。
でも。
ここで、もう一つの問題に気づきました。
「所長」
「何だ」
「黒岩さん、まだ営業を始めていないんですよね」
「そうらしいな」
「じゃあ、商人なんですか?」
片桐所長が私を見ました。
「いいところに気づいた」
やった。
褒められました。
「ただし」
……ただし?
「その答えは、本人の言い分だけで決めるな」
「はい?」
「事実を集めろ」
所長が静かに言いました。
「商人かどうかは、名刺に社長と書いてあるかで決まるものじゃない」
なるほど。
社長。
代表。
株式会社設立準備室。
どんな立派な肩書を名乗っていても。
商人かどうかは、実際に何をしているかで判断する。
そういうことですね。
◇
翌日。
私は相馬先輩と一緒に、湖西総合商事設立準備室へ向かいました。
駅前から少し離れた、新しい二階建ての事務所。
入口には真新しい看板。
――湖西総合商事株式会社 設立準備室。
窓の内側には机が五つ。
電話機。
複写機。
事務机の上には、商品見本が積まれています。
「……すごい」
私は呟きました。
「これ、もう営業してるみたいですね」
「そう見えるな」
相馬先輩が言いました。
入口の横には、小さな札。
――取引先募集。
さらに。
――県内特産品・工芸品・日用品の卸売取引。
と書かれていました。
「先輩」
「何だ」
「開業準備って、ずいぶん進んでますね」
「ああ」
「これだけ外から見える状態なら……」
「そういう事実が重要なんだよ」
先輩は入口を見ました。
「行くぞ」
中へ入ると、五十歳くらいの男性が応接椅子に座っていました。
恰幅のいい体格。
金色の腕時計。
机には高価そうな万年筆。
いかにも社長。
という感じです。
「何だ、あんたら」
男が顔を上げました。
黒岩源蔵。
今回の相手です。
「片桐行政書士事務所の相馬です。先日お電話でお伝えした、注文書の事実確認に伺いました」
「ああ、印刷屋の件か」
黒岩は鼻で笑いました。
「まだ言ってるのか、あの女」
……。
私は眉をひそめました。
あの女。
自分のために五千部も印刷した人に、そんな言い方ですか。
「田辺印刷所への注文について、確認させてください」
相馬先輩が言いました。
「注文書には、黒岩さんご本人のお名前がありますね」
「ああ」
「ご本人の印鑑も」
「押したよ」
「印刷物も受領しましたね」
「そりゃ、開業に必要だからな」
「代金は百八十万円」
「そうだ」
「では、なぜ支払われていないのでしょう」
黒岩は椅子に深く座り直しました。
「簡単な話だ」
そして。
にやりと笑いました。
「会社がまだできてねえんだよ」
「はい」
「だから会社の金がない」
「なるほど」
「法人格もないんだ。請求されても払えねえだろ」
私は思わず口を開きました。
「でも、注文したのは黒岩さんご本人ですよね?」
「会社のために注文したんだ」
「会社のためでも、個人として契約したなら――」
「小娘」
黒岩が私を睨みました。
「商売ってのはな、そんな教科書どおりじゃねえんだ」
……。
来ました。
法律を軽く見る人間の決まり文句。
「会社ができたら会社で払う。できなきゃ仕方ねえ」
「でも、それでは印刷所が困ります」
「困る?」
黒岩が笑いました。
「商売に失敗はつきものだろ」
私は唇を噛みました。
失敗。
確かに、商売には失敗があります。
でも。
自分の都合で注文しておいて、相手が仕事を終えたら。
会社ができなかったから払わない。
それは。
商売の失敗ではなく、他人に損失を押しつけているだけではありませんか。
「そもそもな」
黒岩はさらに続けました。
「俺はまだ商人じゃねえんだ」
「……商人じゃない?」
「ああ。まだ一品も売ってねえ」
黒岩は得意げに言いました。
「商人ってのは、商売をやってる人間だろ? 俺はまだ準備中だ」
私は相馬先輩を見ました。
先輩は黙っています。
「だから商法なんか関係ねえ」
黒岩は机を指で叩きました。
「普通の契約の話だ。しかも相手は小さな印刷屋。訴える金があるのか?」
……。
私は、怒りで顔が熱くなりました。
でも。
先輩は、まったく動じません。
「黒岩さん」
「何だ」
「確認を続けます」
相馬先輩が、事務所の奥を見ました。
「そちらの商品見本は?」
「ああ。仕入れ予定の商品だ」
「契約は済んでいますか」
「一部はもう買った」
「転売目的ですか」
「当然だ。卸売会社なんだからな」
「ありがとうございます」
相馬先輩は手帳に書き込みました。
「この事務所は?」
「借りた」
「いつ?」
「三か月前だ」
「賃貸借契約の名義は?」
「俺だよ」
「電話の契約も?」
「ああ」
「営業車は?」
「先月買った」
「名義は?」
「俺だ」
……。
私は、だんだん分かってきました。
商品。
事務所。
電話。
営業車。
印刷物。
全部。
黒岩さんが、自分の名前で準備している。
しかも、外から見ても開業準備だと分かる。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「現在、株式会社の設立手続はどこまで進んでいますか」
「発起人を集めてるところだ」
「何人です?」
「五人だ」
……。
私は目を丸くしました。
五人。
まだ足りません。
「七人必要ですよね?」
私が言うと、黒岩は不機嫌そうに顔をしかめました。
「分かってるよ!」
「じゃあ、まだ――」
「あと二人、名前を借りればいいだけだ!」
……名前を借りる?
相馬先輩が、ぴくりと眉を動かしました。
「名前を借りる、ですか」
「ああ。親戚に頼む」
「本人の意思もなく、勝手に署名するという意味ではありませんね」
「当たり前だろ。名前を貸すだけだよ」
黒岩は鼻を鳴らしました。
「会社は俺が動かすんだ。ほかの連中は形だけでいい」
私は、背筋が寒くなりました。
これが。
昭和の株式会社。
七人という人数の壁があるから、実際には経営に関わらない人間まで集めてしまう。
制度として、一定の組織を前提にしている。
でも。
現実の小さな会社は、一人の経営者がすべてを決めていることもある。
その差を埋めるために、名ばかりの発起人や役員が生まれる。
なるほど。
会社法が独立し、後の時代に設立制度が簡略化されていった背景の一端が、少しだけ見えた気がしました。
「黒岩さん」
相馬先輩が言いました。
「本日は事実の確認ができました」
「何だ。もう終わりか」
「はい」
「だったら、あの女に伝えとけ」
黒岩は笑いました。
「会社ができるまで待てってな」
私は言い返そうとしました。
でも。
相馬先輩が、私の肩を軽く叩きました。
「こはる」
「……はい」
「帰るぞ」
「でも!」
「必要なことは聞いた」
先輩は黒岩に頭を下げました。
「ご協力ありがとうございました」
そして事務所を出ました。
私も慌てて追いかけます。
◇
「先輩!」
「何だ」
「何であんなに簡単に引き下がったんですか!」
「引き下がった?」
「完全に舐められてましたよ!」
「ああ」
「ああ、じゃありません!」
私は思わず足を止めました。
「百八十万円ですよ!」
「分かってる」
「澄子さんが、息子さんと一緒に徹夜して作ったパンフレットですよ!」
「それも分かってる」
「だったら!」
「こはる」
先輩が振り返りました。
「俺たちは、何屋だ?」
「行政書士です」
「そうだ」
「……はい」
「弁護士じゃねえ」
私は黙りました。
「相手と法律紛争の示談交渉をするために来たんじゃねえ。事実を確認しに来たんだ」
「……はい」
「言い争って百八十万円が戻るなら、誰も苦労しねえよ」
先輩は手帳を開きました。
「それより、見ろ」
そこには、黒岩の発言が細かく書かれていました。
注文書は個人名義。
個人印。
商品の受領を認めた。
代金額も認めた。
事務所を賃借。
営業車を購入。
転売目的の商品を仕入れ。
株式会社は未設立。
発起人は五人。
「……全部、確認できましたね」
「ああ」
「でも、これで何が変わるんですか?」
先輩はにやりとしました。
「お前、商法の商人って何だった?」
「自己の名をもって商行為をすることを業とする者です」
「そうだ」
「でも、黒岩さんはまだ営業前で……」
「本当に、それで終わりか?」
私は考えました。
商法。
商人。
商行為。
そこで。
ある判例が頭に浮かびました。
「あ!」
「気づいたか」
「開業準備行為!」
私は叫びました。
「特定の営業を始める目的で準備行為をして、その意思が客観的に表れていれば、営業開始前でも商人資格を取得することがある!」
「そうだ」
「昭和三十三年の最高裁判例ですね!」
「おう」
「しかも、昭和四十七年の判例では、相手方以外の人にも客観的に開業準備と分かる必要があると……」
「そこだ」
先輩が手帳を指で叩きました。
「ただ『いつか会社を作りたい』と思ってるだけじゃ足りねえ」
「はい」
「だが、あいつはどうだ」
「事務所を借りて、看板を掲げて、商品を仕入れて、営業車まで買っています」
「外から見たら?」
「……卸売業の開業準備だと分かります!」
「そういうことだ」
私は拳を握りました。
なるほど。
まだお客さんに売っていない。
だから商人ではない。
そんな単純な話ではないのです。
しかも。
黒岩さんが転売目的で商品を買っていたことにも意味があります。
「先輩!」
「今度は何だ」
「利益を得て売るために商品を買う行為って……」
「ああ」
「絶対的商行為ですね!」
先輩が頷きました。
「利益を得て転売するつもりで買う。商法上、典型的な商行為の一つだ」
「つまり、営業開始前だからといって、商行為が何もないわけじゃない!」
「そうだ」
私は頭の中で整理しました。
利益を得て転売するための仕入れ。
絶対的商行為。
営業として反復継続する運送や印刷など。
営業的商行為。
そして。
商人が営業のために行う、事務所の賃借や備品の購入。
附属的商行為。
「……全部、つながりました」
私は呟きました。
「しかも、今回の印刷物の注文は?」
先輩が聞きました。
「開業する卸売業の広告宣伝に必要な注文です」
「そうだ」
「黒岩さん個人が商人資格を取得していると評価できれば、営業のための附属的商行為として捉えられる!」
「よし」
私は思わず笑ってしまいました。
「先輩!」
「何だ」
「商法って、すごいですね!」
「まだ早えよ」
「え?」
「商行為に当たるからといって、それだけで代金請求が完成するわけじゃねえ」
私は止まりました。
あ。
そうでした。
契約当事者は誰か。
契約は成立したか。
仕事は完成したか。
納品したか。
代金はいくらか。
支払期限はいつか。
そして、会社に債務を引き受けさせる合意などがあったか。
そこを確認しなければなりません。
「つまり」
私は言いました。
「商法の適用と、契約上の支払義務は、分けて考える必要があるんですね」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「悪党を倒すのに、条文一つで足りると思うなよ」
なるほど。
法律は魔法ではありません。
商人だ!
商行為だ!
だから払え!
それだけでは駄目。
事実と条文を、きちんとつなげなければならない。
それが。
片桐事務所の仕事なのです。
◇
午後。
事務所へ戻ると、片桐所長が私たちの報告を聞きました。
「……そうか」
所長は短く言いました。
「では、書類を作れ」
「はい!」
私はさっそく便箋を取り出しました。
まずは、澄子さんの資料を整理します。
注文書。
見積書。
校正紙。
納品書。
受領印。
請求書。
支払期限を記した控え。
そして。
黒岩が支払を拒絶した手紙。
……。
全部そろっています。
「所長!」
「何だ」
「証拠、かなり強いです!」
「そうだな」
「黒岩さん、受領まで認めています!」
「ああ」
「だったら、本人宛ての内容証明で支払請求を――」
「待て」
所長が言いました。
「書面に何を書く」
「黒岩さんは商人なので、商法に従って百八十万円を払ってください!」
所長は黙りました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……嫌な予感。
「やり直し」
「ええっ!」
「それでは足りん」
「どうしてですか!」
「商人であることと、代金債務を負うことを混同している」
私は口を閉じました。
「まず注文書だ」
「はい」
「誰の名前か」
「黒岩源蔵です」
「誰に発注した」
「田辺印刷所です」
「誰が印刷物を受け取った」
「黒岩さんです」
「法人の成立は?」
「まだです」
「会社が債務を引き受けた証拠は?」
「……ありません」
所長が頷きました。
「なら、その事実を先に書け」
なるほど。
商法の難しい議論に入る前に。
そもそも誰が注文したのか。
そこが大事なんです。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「もう一つ」
「はい」
「商法の適用は、双方が商人じゃなきゃ駄目か?」
「え?」
私は考えました。
「……いいえ!」
「そうだ」
「当事者の一方にとってだけ商行為でも、商法が双方に適用される場合があります!」
「そのとおり」
私は六法を開きました。
商法第三条。
当事者の一方にとって商行為となる行為には、商法を双方に適用する。
「今回、澄子さんは印刷業を営んでいます」
「ああ」
「反復継続して、利益を得るために印刷の注文を受けている」
「そうだ」
「印刷は、営業として行えば営業的商行為になります」
「よし」
「だから、仮に黒岩さんの商人資格について争いが残っても、澄子さん側の取引が商行為であることにも意味がある!」
私は大きく頷きました。
なるほど。
商法が適用されるかどうか。
それは。
双方とも会社であるか。
双方とも商人であるか。
そんな単純な話ではありません。
一方のためだけに商行為となる場合も、考えなければならない。
「先輩」
「何だ」
「商法って、会社同士の取引だけの法律じゃないんですね」
「当たり前だ」
「普通の人がお店で買い物する場合にも、商法の問題が出てくる」
「そうだ。もっとも、消費者契約なら別の特別法も関わる。何でも商法だけで片づけるなよ」
「はい!」
所長が静かに言いました。
「それから、商慣習法も調べておけ」
「商慣習法?」
「ああ」
「商法に書いていないときは、民法じゃないんですか?」
「その前に見るものがある」
私は六法の最初を開きました。
商法第一条。
そこには、こう書かれていました。
――商事ニ関シ本法ニ規定ナキモノニ付テハ商慣習法ヲ適用シ商慣習法ナキトキハ民法ヲ適用ス。
……。
読みにくい!
でも、意味は分かります。
商法に規定がない場合。
商慣習法。
それもなければ民法。
「つまり……」
私は鉛筆を走らせました。
商法。
商慣習法。
民法。
「この順番なんですね!」
「基本はな」
所長が頷きました。
「ただし、適用される特別法や強行規定を無視していいわけではない」
「はい」
「それに、単にその土地で何度か行われたやり方を、何でも商慣習法だと言うな」
私は頷きました。
商売の世界には、昔からの慣行があります。
月末締め。
翌月払い。
手形払い。
業界独自の取引方法。
でも。
慣行があることと、それが法として認められることは同じではありません。
相手が、
「この業界では普通だ」
と言っただけで、支払義務が消えるわけでもありません。
「所長」
「何だ」
「今回、黒岩さんが言っている『会社ができるまで払わない』という慣行は……」
「まず、そんな合意があった証拠は?」
「ありません」
「では、勝手に契約条件を変えることはできん」
……。
私は、思わず息を吐きました。
難しい。
でも。
面白い。
商法が優先。
商慣習法。
民法。
それぞれの役割を間違えない。
そして何より。
相手の言い分と、実際の契約を区別する。
そこを押さえるだけで。
黒岩さんの理屈が、少しずつ崩れていくのです。
◇
三時間後。
机の上に、一通の内容証明郵便の原案が完成しました。
差出人。
田辺澄子。
宛先。
黒岩源蔵。
私は、所長の前で読み上げました。
「通知書」
少し緊張します。
「第一。通知人は、昭和六十三年某月某日、貴殿個人名義の注文書に基づき、商品カタログ及び宣伝用パンフレットの印刷製本業務を受注した」
「うん」
「第二。本件業務の代金は金百八十万円であり、通知人は契約に従って印刷物を完成し、指定場所へ納品した」
「うん」
「第三。貴殿は納品書に受領印を押し、本件印刷物を受領した。また、代金額及び受領の事実についても認めている」
所長が頷きました。
「続けろ」
「第四。貴殿は、株式会社設立登記が未了であることを理由に、代金支払義務を否定している」
「うん」
「第五。しかし、本件注文書に記載された注文者は貴殿個人であり、注文当時、湖西総合商事株式会社は成立していなかった」
私は一度、息を吸いました。
「第六。会社設立を予定していたという事情のみをもって、貴殿個人が締結した契約上の債務が当然に消滅し、又は未成立の会社へ移転するものではない」
「よし」
相馬先輩が小さく言いました。
そして。
ここからが商法です。
「第七。貴殿は、営利目的の卸売業を開始するため、営業所を賃借し、営業車を購入し、転売目的の商品を仕入れ、対外的に営業準備を表示している」
「うん」
「第八。これらの事実は、特定の営業開始を目的とする客観的な準備行為であり、営業開始前の商人資格取得に関する判例法理に照らし、貴殿が既に商人資格を取得していることを基礎づける事情となる」
私は読み上げながら、少し胸が熱くなりました。
昨日まで。
商人という言葉は。
テキストに書いてある、ただの定義でした。
でも今。
この一文が。
「まだ商人じゃない」
と逃げる黒岩さんの主張を、正面から崩そうとしている。
「第九。本件印刷物の注文は、前記営業のための広告宣伝に用いるものであり、商人の営業のためにする附属的商行為として評価される」
「うん」
「第十。また、通知人による本件印刷業務は、営業として反復継続して行われる印刷に関する行為であり、商行為に該当する」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「両方書いたか」
「はい!」
「いいぞ」
私は続けました。
「以上のとおり、本件は商法の適用が問題となる商取引であり、貴殿が商人資格を有しないとの主張によっても、個人名義の契約に基づく支払義務が当然に否定されるものではない」
そして。
最後です。
「よって通知人は、貴殿に対し、未払印刷代金百八十万円の支払を請求する。到達後七日以内に、下記口座へ支払われたい」
私は一度、言葉を切りました。
「なお、支払がない場合には、通知人において弁護士への相談のうえ、訴訟その他の法的措置を検討する」
……。
読み終わりました。
静かです。
片桐所長は、しばらく原案を見つめていました。
「こはる」
「はい」
「最後の文言はいい」
「ありがとうございます!」
「だが、ここは直せ」
……あ。
赤鉛筆。
また来ました。
「『商人資格を取得している』と断定しすぎるな。客観的準備行為の事実は強いが、最終的な法的評価には争いがあり得る」
「はい」
「『附属的商行為である』も、前提事実に結びつけて書け」
「はい!」
「それから、遅延損害金については支払期日と商事債権の法定利率を確認して、別途計算しておけ」
「分かりました!」
私は書き直しました。
商人資格の取得。
営業準備の客観性。
個人名義の契約。
印刷という営業的商行為。
そして、双方的か一方的かを問わない商法の適用。
全部がつながっています。
「所長」
「何だ」
「すごい書面になりましたね」
「そうか」
「はい」
私は原案を見つめました。
相手を罵倒していない。
社長を悪党とも書いていない。
脅迫めいた文言もない。
ただ。
注文した。
受領した。
支払っていない。
会社はまだ存在しない。
本人は個人名義で契約した。
そして。
営業開始前でも、商人資格が認められる場合がある。
その事実と法律が、順番に並んでいる。
「先輩」
「何だ」
「これ、相手は嫌でしょうね」
「だろうな」
「何を言い返しても、注文書と納品書が残っていますから」
「そういうことだ」
先輩は椅子にもたれました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
私は顔を上げました。
「商法を守った奴が勝つんだよ」
……。
かっこいい。
ちょっと悔しいくらい、かっこいいです。
でも。
私は一つ、気になることがありました。
「所長」
「何だ」
「内容証明を送ったら、必ず払ってもらえるんですか?」
「いや」
即答でした。
「内容証明は、それだけで強制執行ができる書類ではない」
「ですよね」
「受け取った相手が、必ず従うわけでもない」
「はい」
「だが、何を請求し、何を通知したかを証拠として残せる」
所長は続けました。
「そして相手に、自分の言い分を法律と証拠で見直す機会を与えることができる」
なるほど。
内容証明は魔法ではありません。
でも。
そこに書かれた事実を、一つずつ検討すれば。
争った先に何があるのか。
相手にも見えてくる。
それが。
書類の持つ力なのです。
◇
内容証明郵便を発送してから、三日後。
黒岩源蔵から、事務所に電話が入りました。
「片桐さんはいるか」
私は受話器を握りました。
「はい。少々お待ちください」
……。
なんでしょう。
あの偉そうな声ではありません。
少し、硬い。
所長が電話に出ました。
「片桐です」
『……あの、通知書の件だが』
「はい」
『弁護士に見せた』
私は思わず耳を澄ませました。
『会社がまだできていないというだけじゃ、俺個人の注文が消えるわけじゃないって……』
所長は黙って聞いています。
『それから、商人の件も』
「はい」
『まだ一つも売っていなくても、開業準備の仕方によっては商人と判断されることがあるんだな』
「そのような判例があります」
黒岩は沈黙しました。
そして。
『……七人、集めたのに』
私は首をかしげました。
七人?
『会社の発起人、七人そろえたんだよ』
「そうですか」
『でも設立はまだだ。弁護士には、今の注文を後から勝手に会社の借金にできると思うなって言われた』
……。
私は、心の中で頷きました。
そうです。
会社ができたからといって、設立前に個人で負った債務が何でも自動的に会社へ移るわけではありません。
その債務が誰に帰属するかは、取引の内容と法律関係によって判断しなければならない。
『しかも……』
黒岩の声が小さくなりました。
『印刷物を受け取ったのは認めてるだろうって』
「はい」
『注文書も俺の名前だし……』
所長は何も言いません。
『このまま払わずに裁判になったら、負ける可能性が高いって』
私は息を呑みました。
黒岩が続けます。
『個人の財産で払うことになるかもしれないって言われた』
……。
そうです。
法人が存在しないから、誰も払わない。
そんな都合のいい話にはなりません。
本人が個人として代金債務を負っているなら、判決などの債務名義を得た債権者が、必要な手続を経て個人財産への強制執行を求める可能性もあります。
もちろん、内容証明そのものに差押えの効力はありません。
でも。
訴訟になった場合の危険を、黒岩は理解したのでしょう。
『……払う』
私は顔を上げました。
『百八十万円、払うよ』
所長が静かに言いました。
「支払われるのであれば、田辺さんご本人にその意思をお伝えください」
『分かった』
「支払期限と方法についても、書面で明確にしてください」
『ああ』
黒岩は少し間を置きました。
『……あの印刷屋、まだ怒ってるかな』
「それは、田辺さんご本人にお尋ねください」
『そうだな……』
電話が切れました。
「所長!」
「何だ」
「払うって!」
「ああ」
「百八十万円ですよ!」
「そうだな」
「やりましたね!」
私は思わず拳を握りました。
でも。
相馬先輩が言いました。
「まだだ」
「え?」
「金が入るまで終わりじゃねえ」
「……はい」
そうでした。
相手が払うと言った。
それだけでは、まだ完全な解決ではありません。
でも。
少なくとも。
あの偉そうな黒岩さんが、自分の責任を認める方向へ動き始めた。
そのきっかけを作ったのは。
怒鳴り声でも。
力ずくでもなく。
商法と、証拠を積み上げた一通の書面だったのです。
◇
五日後。
田辺澄子さんが、事務所へ駆け込んできました。
「先生!」
私は顔を上げました。
「澄子さん!」
「入りました!」
「え?」
「お金が!」
彼女は銀行の通帳を取り出しました。
私は数字を見ました。
一、八〇〇、〇〇〇円。
……。
「百八十万円!」
「はい!」
澄子さんの目には、涙が浮かんでいました。
「全額、振り込まれました」
「よかった……!」
私は思わず立ち上がりました。
「本当に、よかったです!」
澄子さんは何度も頭を下げました。
「ありがとうございます」
「いえ、私は……」
「もう駄目だと思っていました」
彼女は通帳を握りしめました。
「銀行にも返済がありますし、紙屋さんへの支払もあって……」
「はい」
「息子にも、これ以上心配をかけたくなかったんです」
私は黙りました。
そうでした。
この百八十万円。
ただの数字ではありません。
小さな印刷所の、二か月分の苦労。
機械を動かす電気代。
紙とインク。
夜遅くまで手伝った息子さんの時間。
そして。
生活そのものです。
「息子がね」
澄子さんが言いました。
「昨日、言ったんです」
「何て?」
「お母さん、もう印刷屋をやめなくていいんだねって」
……。
私は胸が詰まりました。
澄子さんは笑いました。
「主人が残した印刷所ですから」
「はい」
「できれば、息子が大きくなるまで続けたかったんです」
その言葉を聞いて。
私は思いました。
商法。
商人。
商行為。
試験のテキストでは、硬い言葉ばかりです。
でも。
商法の規定が適用される取引を見極め、契約と責任を明確にすることで。
守れるものがある。
大きな会社だけではありません。
むしろ。
小さな印刷所。
個人商店。
町工場。
そういう人たちが、安心して商売を続けられるためにも。
取引のルールが必要なのです。
「澄子さん」
私は言いました。
「これからも、印刷所を続けてくださいね」
「はい」
彼女は、少し照れたように笑いました。
「今度、息子に言っておきます」
「何をですか?」
「法律の勉強をしなさいって」
私は思わず笑いました。
「それ、いいと思います!」
相馬先輩が横から口を挟みます。
「ただし、契約書は法律の勉強だけじゃ足りねえぞ」
「え?」
「誰が注文したか。いくらか。いつ払うか。それをちゃんと書いておくことだ」
澄子さんが頷きました。
「はい。これからは、もっと気をつけます」
「それとな」
先輩が言いました。
「小さな店だからって、遠慮する必要はねえ」
澄子さんが顔を上げました。
「ちゃんと仕事したなら、ちゃんと代金を請求すりゃいい」
……。
私は先輩を見ました。
口は悪い。
態度も大きい。
でも。
こういうところが、ちょっと好きです。
もちろん、本人には言いません。
絶対に。
◇
その日の夕方。
私は机の上に六法を広げていました。
商法。
会社法。
商人。
商行為。
まだ頭の中で、少し混ざっています。
「先輩」
「何だ」
「商法って、会社を作るための法律だと思ってました」
「そりゃ、だいぶ違うな」
「はい」
私は頷きました。
「会社だけじゃないんですね」
「ああ」
「個人商店も商人になる」
「そうだ」
「しかも、まだ開業していなくても、準備行為によって商人資格を取得することがある」
「うん」
「そして、商行為にはいくつか種類がある」
「そうだな」
私はノートを開きました。
絶対的商行為。
営業的商行為。
附属的商行為。
黒岩さんの事件では。
転売目的の商品仕入れ。
絶対的商行為。
澄子さんの印刷業務。
営業的商行為。
黒岩さんの事務所賃借や宣伝用印刷物の注文。
商人資格を取得していると認められれば、営業のための附属的商行為として問題になる。
「……なるほど」
私は呟きました。
「全部、実際の商売につながっていますね」
「そういう法律だからな」
先輩は煙草をくわえました。
「じゃあ、一問だ」
「はい!」
「お前が今度、八百屋を始めるとする」
「八百屋ですか?」
「ああ」
「私、野菜好きですよ」
「聞いてねえ」
「ひどい」
「市場で野菜を仕入れて、利益を乗せて売る。毎日続ける。お前は商人か?」
「はい!」
「じゃあ、自分の畑で採れた野菜を、道端で一回だけ友達に売ったら?」
「ええと……」
私は考えました。
業として行う。
反復継続。
自己の名で。
商行為。
「一回売ったというだけでは、当然に商人とは言えません」
「そうだ」
「自分で育てた野菜を売ることも、転売目的の仕入れとは違います」
「よし」
「でも……」
私は六法をめくりました。
「自分の畑の脇に、ちゃんと販売用のテントを構えて、継続的に野菜を売っていたら?」
「ほう」
「店舗その他これに類似する設備を使って、物品の販売を業とする人は……」
私は顔を上げました。
「擬制商人!」
相馬先輩が笑いました。
「正解」
「やった!」
なるほど。
商人の定義。
ただの言葉ではありません。
自分で仕入れて売る人。
自分で作ったものを店で売る人。
どちらも、取引の実態によって商法上の商人となる場合がある。
「じゃあ先輩!」
「何だ」
「商売を始める前に、車を買ったら?」
「それだけで必ず商人になるか?」
「……いいえ!」
私は答えました。
「ただ車を買っただけでは、何のためか分かりません」
「そうだ」
「でも、特定の営業を始めるための客観的な準備行為と認められれば、商人資格を取得することがあります!」
「よし」
私は嬉しくなりました。
今回の事件。
最初は、百八十万円の代金未払という、単純な契約トラブルに見えました。
でも。
黒岩さんが、
「まだ商人じゃない」
と言い出したことで。
商人とは誰か。
商行為とは何か。
いつ商人になるのか。
そうした問題が、一気に姿を現したのです。
「先輩」
「今度は何だ」
「商人って、商売を始めた瞬間だけで決まるわけじゃないんですね」
「そうだ」
「準備の段階から問題になる」
「ああ」
「じゃあ、営業をやめたときは?」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「いい質問だな」
私は少し身構えました。
いい質問。
ということは。
面倒な答えが来る。
「店を閉めた瞬間に、商人資格が消えると思うか?」
「え?」
「閉店したあとにも、売掛金の回収や仕入先への支払が残ってることがあるだろ」
「あ……」
「営業をやめるための残務処理が終わるまでは、商人資格が続くと考えられるんだ」
私は目を丸くしました。
「開業前にも商人になって、廃業後もすぐには商人じゃなくならない!」
「そういうことだ」
「なんですか、それ!」
「商売ってのは、看板を出したり下ろしたりするだけじゃ終わらねえんだよ」
……。
私は、しばらく考えました。
なるほど。
商人資格。
会社の登記や、店の看板だけで機械的に決まるものではない。
現実の商売を、法律がどう捉えるか。
そこが大事なのです。
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして答えました。
「商人かどうかは、社長という肩書や開店日だけでは決まらない」
「うん」
「誰の名で、どんな商行為を、どんな目的で行っているのかを見る」
「そうだ」
「それから、商法は大きな会社だけのものじゃない。小さな商店や個人事業者にも関係する法律です」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
――商人は看板で決まらない。誰の名で、何を、何のために続けるかで決まる。
今日の教訓。
これなら忘れません。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、最初に何て言った?」
「え?」
「一人で株式会社を作ればいいって」
「あ……」
「発起人は?」
「七人以上です……」
「取締役は?」
「三人以上……」
「監査役は?」
「一人以上……」
「よし」
先輩が満足そうに頷きました。
「もう忘れるなよ」
「はい……」
私は肩を落としました。
でも。
悔しいので、少しだけ言い返しました。
「先輩」
「何だ」
「いつか、一人で株式会社を作れる時代が来るかもしれませんよ」
「は?」
「発起人一人で」
「何言ってんだ」
「取締役も一人で」
「夢みたいな話だな」
「しかも資本金一円で!」
相馬先輩が、しばらく私を見ました。
そして。
「お前、熱でもあるのか?」
「ありません!」
「資本金一円って、駄菓子屋の釣り銭にもならねえぞ」
「それでも、法律上は設立できる時代が来るかもしれないじゃないですか!」
「変な夢を見るな」
……。
私は笑いました。
でも。
知っているんです。
いつか。
会社の設立制度は、大きく変わります。
発起人七人という壁がなくなり。
資本金の制度も変わり。
会社法という独立した法律ができる。
小さな事業を始めたい人が、昔より柔軟に会社を作れる時代が来る。
ただし。
その未来を知っている私にも、今日分かったことがあります。
会社を簡単に作れるようになることと。
商売の責任が軽くなることは、同じではない。
むしろ。
誰が契約したか。
誰に権利と義務が帰属するか。
誰が代金を支払うか。
そこを明確にすることは、どんな時代でも大切なのです。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「未来の話より、今の六法を読め」
「……はい」
私は慌てて六法を閉じました。
と、そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
年配の男性の声。
『少し相談したいことがあるんですが』
「はい。どうされましたか?」
『うちの店の名前を、知り合いに貸したんです』
……。
私は、手を止めました。
「店の名前……ですか?」
『ええ。相手が、その名前で商売したいって言うもので』
「はい」
『ところが、その人が仕入れ代金を払わずに逃げたらしくて……』
……。
私は、相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
『取引先から、私のところに請求書が来るんです』
「……なるほど」
『でも、私は名前を貸しただけなんですよ!』
……。
来ました。
今度は。
名前を貸しただけ。
です。
『私は何も売っていないんです! なのに、払わないといけないんでしょうか?』
私は受話器を握り直しました。
商人。
商号。
営業。
取引相手の信用。
……。
あ。
これ。
もしかして。
「先輩」
「何だ」
「名板貸です」
相馬先輩が、にやりとしました。
「ようやく商法らしくなってきたな」
「ええっ! 今日も十分、商法でしたよ!」
「まだ入口だ」
「入口!?」
「ああ」
相馬先輩は六法を手に取りました。
「商法ってのはな、会社を作るところだけの法律じゃねえ」
そして。
少し笑って言いました。
「名前一つ貸しただけで、厄介な責任を背負うことだってあるんだよ」
……。
私は受話器を握りしめました。
なるほど。
昭和六十三年。
商法の世界は、思っていたよりずっと広い。
株式会社。
有限会社。
商人。
商行為。
商号。
そして。
まだ開店していない商売人。
名前だけ貸した店主。
看板の向こうには、いろいろな人間がいる。
お金を稼ぎたい人。
夢をかなえたい人。
責任から逃げたい人。
真面目に働いて、家族を守りたい人。
法律は。
そんな人たちの取引を、誰の責任なのか分からないまま放っておくためにあるのではありません。
私は電話の向こうの男性に言いました。
「まず、お店の名前を貸したときの事情から、詳しく教えてください」
商法。
それは、会社のためだけの法律ではない。
商売という、人と人との約束を支える法律。
そして。
田辺印刷所の百八十万円を取り戻した、あの一通の内容証明が教えてくれました。
商売の信用は。
看板の大きさでは決まりません。
約束を守るかどうかで、決まるのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、相談票を取れ!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
私の商法修業は、まだ始まったばかりです。
ただし。
これからは、もう忘れません。
店が開いていないから。
会社ができていないから。
まだ社長じゃないから。
そんな言葉だけで、商売の責任から逃げられるとは限らない。
だって。
商法が見ているのは。
立派な看板ではなく。
その看板の向こうで、誰が、どんな商売をしているのか。
そして。
その商売のために、誰が約束をしたのか。
そこなのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




