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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 親族

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574/701

[民法・遺言]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 死んだ人は、もう自分の財産を守れません。


 誰に残したかったのか。


 何を伝えたかったのか。


 本当に、その紙を書いたのか。


 誰かに無理やり書かされたのではないのか。


 本人に聞き直すことは、もうできないのです。


 だから。


 民法は、遺言について少し意地悪なくらい厳しい決まりを置いています。


 でも、その厳しさには理由があります。


 死んだ人の声を、生きている人間が勝手に書き換えないためです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……遺言って、怖いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「また何だ、いきなり」


「だって、紙一枚で家が取られそうになったんですよ」


「ああ。藤沢さんの件か」


「はい」


 私は、あの事件を思い出しました。


 藤沢春江さん。


 二十二歳。


 幼い頃から育ててくれた祖母が亡くなり、住んでいた家を失いかけた女性です。


 原因は、祖父母が連名で作成した一枚の遺言書。


 その紙を持ち出した親族の藤沢庄一は、


「夫婦二人が署名押印したんだから絶対に有効だ!」


 と主張していました。


 さらに。


「一度書いた遺言は撤回しないと約束している!」


 そんな念書まで持ち出したのです。


 でも、私たちは見つけました。


 祖母キヨさんが、亡くなる前に自分で書いた新しい遺言書を。


 そこには。


 ――春江が安心して暮らせることを願う。


 そう書かれていました。


 結局、庄一は内容証明を受け取り、弁護士に相談したあと、家の明渡要求を撤回しました。


「先輩」


「何だ」


「今日の事件、行政書士試験の論点が多すぎません?」


「そうか?」


「多いですよ!」


 私はノートに書き出しました。


 遺言の方式。


 遺言能力。


 共同遺言の禁止。


 自筆証書遺言。


 公正証書遺言。


 秘密証書遺言。


 遺言の効力発生時期。


 遺言の撤回。


 後の遺言と前の遺言。


 撤回権の放棄禁止。


「……十個あります」


「よかったな」


「よくありません!」


「一度に十個覚えられるぞ」


「鬼ですか!」


 相馬先輩は笑いました。


 そのとき。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「昨日の事件で、一番大事だったのは何だ」


 私は考えました。


「共同遺言の禁止です!」


「それだけか」


「……撤回できることです!」


「それだけか」


「ええっ!」


 所長は静かに言いました。


「なぜ、その二つの決まりがあると思う」


 私は少し黙りました。


 そして、答えました。


「……遺言を書く本人の意思を守るため、でしょうか」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 なるほど。


 今回の勉強は、条文を丸暗記するだけでは駄目なんですね。


 全部の決まりを貫く、一つの考え方。


 それを理解すれば。


 十個の論点も、一本の線でつながるはずです。


 ◇


「まず、遺言とは何か」


 私はノートの一番上に書きました。


 ――遺言。


 自分の死亡後に法律上の効果を生じさせるため、法律で認められた事項について、一定の方式に従って行う意思表示。


「……難しい!」


「自分で書いただろ」


 相馬先輩が呆れました。


「だって法律の定義って、どうしてこんなに硬いんですか!」


「簡単に言ってみろ」


 私は少し考えました。


「自分が死んだあと、財産を誰に残すかなどを、生きているうちに決めておくことです」


「まあ、基本はそうだな」


「はい!」


 もっとも、遺言でできることは財産の処分だけではありません。


 子の認知など、法律が認めた身分関係に関する事項もあります。


 反対に。


 遺言書に何でも書けば、すべて法律上の効力が生じるわけではありません。


 たとえば。


 ――私が死んだら、長男は毎朝五時に起きること。


 と書いても、それだけで長男に民法上の義務を負わせることはできません。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「遺言書に『相馬誠司は禁煙すること』って書いても?」


「知らん」


「法的な強制力は?」


「ねえだろ」


「よかったですね!」


「何がだ!」


 私は笑いました。


 でも、ここは大事です。


 遺言とは、死後の希望を何でも実現できる魔法の紙ではありません。


 法律で認められた事項について、法律の方式に従って行うものなのです。


「では、ここで最重要条文」


 私は赤鉛筆を握りました。


 民法第九百六十条。


 ――遺言は、この法律に定める方式に従わなければ、することができない。


「つまり、方式を守らないと無効!」


「そうだ」


「内容が立派でも!」


「ああ」


「本人の気持ちが本物でも!」


「そうだ」


「家族全員が知っていても!」


「方式違反を補えるとは限らねえ」


 私は思わず唸りました。


「厳しいですね……」


 片桐所長が言いました。


「なぜだ」


「本人が亡くなったら、確認できないからです」


「そうだ」


 もし、形式が何でもよいとしたら。


 誰かが亡くなったあと、親族がこう言い出すかもしれません。


 ――おじいちゃんは、家を俺にやると言っていた。


 ――いや、私にやると言っていた。


 ――そんな約束はしていない。


 誰が正しいのでしょう。


 本人は、もう答えられません。


 だから、法律は厳しい方式を要求する。


 本人の意思を確かな形で残し、争いを防ぐためです。


「つまり!」


 私はノートに書きました。


 ――遺言は、気持ちだけでは足りない。法律の方式が必要。


「これなら覚えられます!」


「最初からそう書け」


「先輩、定義も覚えなきゃ試験に困るんですよ!」


「忙しい奴だな」


 私は苦笑しました。


 でも。


 最初の一本目の線が、引けた気がしました。


 ◇


「次は、共同遺言です!」


 私はページをめくりました。


 ――民法第九百七十五条。


 二人以上の者が、同一の証書で遺言をすることはできない。


「藤沢家の事件ですね」


「ああ」


 相馬先輩が頷きました。


「庄一は、何を自慢していた?」


「夫婦二人の署名と印鑑があることです!」


「そうだ」


「でも、それが逆に問題になった」


 祖父の栄吉さん。


 祖母のキヨさん。


 二人が同じ一枚の紙で、自分たちの財産を庄一に残す旨を記していた。


 まさに共同遺言です。


「先輩、どうして夫婦で一緒に書いちゃ駄目なんでしょう」


「昨日、話したろ」


「復習です!」


「便利な言葉だな、それ」


 私は笑いながら答えました。


「遺言は、本人が単独で行う法律行為だからです」


「うん」


「そして、本人が自由に撤回できる必要があるからです」


「そうだ」


 仮に。


 夫と妻が、一枚の紙に遺言を書いたとします。


 夫は、長男に土地を残したい。


 妻も、長男に家を残したい。


 二人とも納得して署名押印しました。


 ところが、五年後。


 夫が考えを変えました。


 やっぱり土地は次男に残したい。


 でも妻は、昔の考えのままです。


「さて、こはる」


 相馬先輩が聞きました。


「どうする?」


「夫だけ撤回すればいいんじゃ……」


「同じ証書に書いてあるぞ」


「あ……」


「その一枚の証書について、誰の意思がどこまで残るんだ?」


「……複雑です」


「だろ」


 それだけではありません。


 夫が亡くなったあと、妻が自分の遺言だけを変更したい場合もある。


 二人の意思を一枚に結びつけると、撤回や変更をめぐる問題が生じやすくなる。


 だから民法は、最初から共同遺言を禁止しているのです。


「でも先輩」


「何だ」


「夫婦で相談して、同じ内容の遺言を書くことはできますよね?」


「できる」


「それぞれ別の証書に、適法な方式で書くなら?」


「共同遺言の禁止には当たらねえ」


 私は大きく頷きました。


 ここが重要です。


 共同遺言の禁止は、夫婦で同じ希望を持つことを禁止する制度ではありません。


 夫婦であっても、一人ひとりの独立した意思を守る制度なのです。


「じゃあ、別々の紙なら絶対に大丈夫ですか?」


 私が尋ねると。


 片桐所長が首を振りました。


「絶対とは言えん」


「え?」


「形式的に紙が分かれていても、互いの遺言が一体のものとして作られていれば、問題になる場合がある」


「なるほど……」


「逆に、同じ書類に二人の名前が出ているだけで、直ちに共同遺言になるわけでもない」


 私は頷きました。


 たとえば。


 夫が自分一人の遺言書に、


 ――妻に土地を相続させる。


 と書いても、妻の名前があるから共同遺言、という話にはなりません。


 問題なのは。


 二人以上が、同一の証書でそれぞれ遺言をしているかどうかです。


「つまり」


 私は書きました。


 ――夫婦の気持ちは一つでも、遺言の意思はそれぞれ独立。


「……ちょっと格好いいですね」


「自分で言うな」


 相馬先輩が笑いました。


 でも私は、少し感動していました。


 夫婦だから。


 親子だから。


 仲がいいから。


 それでも。


 一人の意思を、もう一人の意思に縛りつけてはいけない。


 民法は、そこまで考えているのです。


 ◇


「では、遺言能力です!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――民法第九百六十一条。


 十五歳に達した者は、遺言をすることができる。


「先輩!」


「何だ」


「十五歳ですよ!」


「知ってる」


「十五歳!」


「二回言うな」


「でも、すごくないですか?」


 昭和六十三年。


 成年年齢は二十歳です。


 つまり、十八歳の私も、法律上は未成年者。


 ところが。


 遺言については、十五歳から単独で行うことができます。


「どうしてなんでしょう」


 私は考えました。


「普通の売買契約なら、未成年者は原則として親権者の同意が必要ですよね」


「ああ」


「なのに、遺言は十五歳から一人でできる」


 相馬先輩が言いました。


「遺言は、本人自身の最後の意思だからな」


「……はい」


 自分が死んだあと。


 誰に財産を残したいのか。


 それを、いつまでも親の判断に委ねるのではなく、一定の年齢に達した本人の意思として認める。


「民法第九百六十二条ですね」


 私は六法を開きました。


「未成年者などの行為能力制限に関する規定は、遺言について適用されない」


「そうだ」


「だから、十五歳以上なら親の同意は不要!」


「ああ」


「でも、何でも有効になるわけじゃない!」


「ほう」


 私は続けました。


「民法第九百六十三条です!」


 遺言者は、遺言をする時において、その能力を有しなければならない。


「つまり!」


 私は言いました。


「十五歳以上でも、遺言の意味を理解できる能力が必要です!」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


 たとえば。


 十六歳の少年が、自分の預金を妹に残す遺言を書いた。


 内容も理解している。


 方式も正しい。


 その場合、未成年者だからという理由だけで無効にはなりません。


 しかし。


 四十歳の大人でも、遺言を書いた時点で自分の行為の意味を判断できない状態だったら、遺言能力が問題になります。


「つまり、年齢だけじゃないんですね」


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 ――十五歳以上であることと、遺言時に必要な判断能力があることは、両方重要。


「では、キヨさんの場合は?」


 所長が聞きました。


「八十歳を超えていました」


「うん」


「でも、高齢というだけでは遺言能力がないとは言えません」


「そうだ」


「実際に遺言を書いた時点で、財産や処分の意味を理解できていたかが重要です」


 所長が頷きました。


 キヨさんの日記。


 家計簿。


 手紙。


 買い物の記録。


 遺言を書いた日の行動。


 それらを整理したのは、遺言能力をめぐる争いに備えるためでした。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「遺言能力って、本人の人生そのものを見る必要があるんですね」


 片桐所長は短く言いました。


「その時点の事実を見るんだ」


 私は頷きました。


 若いから。


 年寄りだから。


 病気だから。


 そういう理由だけで、機械的に判断してはいけない。


 大切なのは。


 遺言を書いた、その瞬間です。


 ◇


「ここで、時代錯誤問題です!」


 私は勢いよく宣言しました。


 相馬先輩が嫌そうな顔をします。


「また未来の話か」


「はい!」


「嬉しそうに言うな」


 私はノートに二本の線を引きました。


 昭和六十三年。


 禁治産者。


 準禁治産者。


 現代。


 成年被後見人。


 被保佐人。


 被補助人。


「この違い、最初は本当に戸惑いました」


「ああ?」


「現代の民法では、成年後見制度があるんです」


 相馬先輩は眉をひそめました。


「また知らねえ制度だな」


「昭和六十三年には、まだありません」


「だから今の話をしろ」


「でも、違いを理解すると覚えやすいんです!」


 私は続けました。


 現代の民法第九百七十三条。


 成年被後見人が、一時的に事理を弁識する能力を回復したときに遺言をする場合。


 医師二人以上の立会いが必要です。


 立ち会った医師は、遺言時に必要な判断能力を欠く状態ではなかった旨を付記し、署名押印する必要があります。


「でも、昭和六十三年は?」


 相馬先輩が聞きました。


「禁治産者です!」


「そうだ」


「当時の民法第九百七十三条にも、禁治産者が本心に復したときの遺言について、医師二人以上の立会いを要求する規定があります!」


「うん」


 つまり。


 制度の名前は変わりました。


 でも。


 判断能力を一時的に回復した人の遺言について、特別な手続で本人の意思を確かめようとする考え方は、古くからあるのです。


「ここ、面白いですね」


 私は言いました。


「制度が変わっても、人を守ろうとする考え方はつながっているんですね」


「まあな」


 相馬先輩が頷きました。


「それで、医者が二人いれば、どんな遺言でも有効になるのか?」


「なりません!」


 私は即答しました。


「よし」


「実際に遺言能力を回復していることが必要ですし、遺言の方式も守る必要があります!」


 私は胸を張りました。


 医師二人の立会いは、魔法ではありません。


 それだけで無条件に遺言を有効にする制度ではないのです。


「あと、先輩」


「何だ」


「現代の被保佐人や被補助人も、十五歳以上で遺言能力があれば、単独で遺言できます」


「そうか」


「昭和の準禁治産者についても、通常の契約とは違い、遺言に一般的な行為能力制限をそのまま持ち込まないんです」


 私はノートに赤線を引きました。


 ――遺言は、通常の契約とは違う。十五歳と遺言時の能力を確認する。


「よし」


 相馬先輩が言いました。


「覚えたな」


「はい!」


「じゃあ、次だ」


「もうですか!」


「十個あるんだろ」


「自分で数えたのを後悔しています!」


 ◇


「次は、遺言の三つの方式です」


 私はページをめくりました。


 ――自筆証書遺言。


 ――公正証書遺言。


 ――秘密証書遺言。


「普通の方式として、この三つがあります」


「そうだな」


 相馬先輩が頷きました。


「まず自筆証書から説明してみろ」


「はい!」


 私は書きました。


 民法第九百六十八条。


 自筆証書遺言。


 昭和六十三年では、遺言者が全文、日付、氏名を自書し、押印することが必要です。


「キヨさんの遺言ですね」


「ああ」


 キヨさんは、自分の手で全文を書いていました。


 日付も明確でした。


 氏名も書き、押印もしていました。


 だから、方式の面では重要な要件を満たしていたのです。


「でも、もし日付が『昭和六十三年六月吉日』だったら?」


 相馬先輩が聞きました。


「危険です!」


「どうしてだ」


「具体的な作成日を特定できないからです!」


 日付は、単なる飾りではありません。


 いつ遺言を書いたか。


 前後に別の遺言があれば、どちらが後なのか。


 遺言時の判断能力はどうだったのか。


 こうしたことを判断するために重要です。


 だから、日付が特定できない書き方には問題があります。


「じゃあ、ワープロで本文を書いて、最後に自分の名前を手書きしてハンコを押したら?」


「昭和六十三年の自筆証書遺言としては、方式を満たしません!」


「よし」


「本文まで自書しなければいけません!」


 ここで、私は思わず笑いました。


「でも先輩」


「何だ」


「現代では、少し違うんですよ」


「またか」


「はい!」


 平成三十一年一月十三日から、自筆証書遺言の方式が一部緩和されました。


 現代では、本文は原則として自書する必要があります。


 しかし、財産目録を添付する場合、その目録については自書しなくてもよくなりました。


 パソコンで作成した財産目録。


 不動産登記事項証明書の写し。


 預金通帳の写し。


 そうしたものを利用できる場合があるのです。


 ただし。


 自書によらない目録の各ページには、遺言者の署名押印が必要です。


 両面に記載がある場合は、両面についても必要になります。


「なるほどな」


 相馬先輩が言いました。


「昔より便利になったわけか」


「そうなんです!」


 昔の自筆証書遺言では、財産の内容まで手書きする負担が大きかった。


 土地が何筆もある。


 預金口座がいくつもある。


 株式もある。


 そうなると、財産目録をすべて書き写すのは大変です。


 書き間違いも起こりやすい。


「だから現代では、財産目録に限って方式が緩和されたんですね」


「ただし、本人の署名押印は必要、と」


「はい!」


 利便性を高める。


 でも、偽造や差替えを防ぐ工夫も残す。


 そこに、改正の意味があります。


「じゃあ、昭和六十三年に戻れ」


「はい……」


 私は苦笑しました。


 現代の知識は便利です。


 でも、昭和六十三年の実務では使えません。


 法律は、未来の改正を先取りしてくれないのです。


「もう一つ」


 所長が言いました。


「自筆証書遺言の訂正はどうする」


「あ!」


 私は鉛筆を握り直しました。


 ここも大切です。


 遺言書の中で、文字を消したり、書き加えたり、変更したりする場合。


 勝手に二重線を引いて書き直せばよいわけではありません。


「昭和六十三年でも、変更箇所の指示、変更した旨の付記、特別の署名、変更箇所への押印が必要です!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、訂正が多い遺言書は厄介なんだ」


「はい」


 そして、私は気づきました。


 キヨさんの遺言書。


 あれには訂正がありませんでした。


 震えた字でした。


 でも、一字ずつ、丁寧に書かれていた。


 春江さんへ家を残したい。


 その意思を、最後まで自分の手で書き切ったのです。


「……キヨさん、頑張ったんですね」


 私が呟くと、所長が頷きました。


「ああ」


 ただし、字が丁寧だから有効になるわけではありません。


 逆に、字が震えているから無効になるわけでもありません。


 法律が求めているのは、本人の自書と定められた方式。


 そして、遺言時の能力です。


 私はその区別を、ノートに書き込みました。


 ◇


「では、二つ目!」


 私は声を上げました。


 ――公正証書遺言。


「公証人が関与して作る遺言です!」


「そうだな」


 相馬先輩が頷きました。


「何が必要だ?」


「証人二人以上です!」


「うん」


「そして遺言者が、公証人に遺言の趣旨を口授します!」


「うん」


「公証人がその内容を筆記します!」


「うん」


「そして、読み聞かせて確認します!」


 私はそこで、ふと止まりました。


 あれ?


 現代の条文だと。


 読み聞かせ、または閲覧。


 そう書いてあったはずです。


「……先輩」


「何だ」


「昭和六十三年の民法九百六十九条って……」


「どうした」


「閲覧でもいいんでしたっけ?」


 相馬先輩は六法を開きました。


 そして、私の前に置きました。


「読んでみろ」


 私は条文を確認しました。


 ……。


 あっ。


「読み聞かせること、って書いてあります!」


「そうだ」


 私は頭を抱えました。


「また改正の地雷です!」


「お前は本当に忙しいな」


 昭和六十三年の公正証書遺言では、公証人による読み聞かせが要求されていました。


 現代のように、一般的に閲覧を選択できる規定にはなっていません。


 その後、平成十一年の法改正で、閲覧による確認も認められるようになったのです。


 さらに、聴覚や言語に障害がある人にも利用しやすいよう、通訳人による申述などの仕組みが整えられました。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「現代の制度って、単に簡単になっただけじゃないんですね」


 相馬先輩が聞きました。


「どういう意味だ」


「より多くの人が、適切な方法で遺言できるように変わったんです」


 昔の厳格な口頭主義には、本人の意思を確かめる意味がありました。


 でも。


 声で伝えることが困難な人。


 読み聞かせによる確認が難しい人。


 そうした人にも、自分の最後の意思を残す権利があります。


「だから、方式を整え直したんですね」


 私は言いました。


 所長が静かに頷きました。


「本人の意思を確かめることが目的だからな」


 なるほど。


 方式は大切です。


 でも、方式それ自体が目的ではありません。


 本人の意思を正確に残すために、方式があるのです。


「よし、続けろ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 昭和六十三年の公正証書遺言。


 証人二人以上の立会い。


 公証人への口授。


 公証人による筆記と読み聞かせ。


 内容を承認した遺言者と証人の署名押印。


 そして、公証人による方式遵守の付記と署名押印。


「ただし!」


 私は付け加えました。


「遺言者が署名できない場合には、公証人がその理由を付記して、署名に代えることができます!」


「そうだ」


「でも、印鑑まで何も要らないという意味ではありません!」


「うん」


 私はノートに大きく丸をつけました。


 公正証書遺言。


 自分一人で書くのではなく、公証人と証人が関わる。


 そのぶん手続は必要ですが、方式上の不備や遺言書の紛失を防ぐうえで利点があります。


「先輩」


「何だ」


「もしキヨさんが、公正証書遺言を作っていたら、今回の事件は違っていましたかね」


「争いが起きなかったとは言えねえな」


「……そうですよね」


「公正証書でも、遺言能力や内容をめぐって争われることはある」


 所長が言いました。


「ただ、作成の経過が明確になることには意味がある」


 私は頷きました。


 確実性を高める。


 でも、絶対ではない。


 それが、公正証書遺言なのです。


 ◇


「三つ目!」


 私はページをめくりました。


 ――秘密証書遺言。


「内容を秘密にして作る遺言です!」


「うん」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、封筒に入れて仏壇にしまえば完成か?」


「違います!」


 私は即答しました。


「秘密証書遺言には、民法第九百七十条の方式があります!」


 まず。


 遺言者が、証書に署名押印します。


 次に。


 証書を封じます。


 そして、証書に使った印章で封印します。


 さらに。


 公証人一人と証人二人以上の前に、封書を提出します。


 その際、自分の遺言書であることと、筆者の氏名及び住所を申述します。


 公証人は、提出された日付と申述内容を封紙に記載します。


 最後に。


 遺言者、証人、公証人が、封紙に署名押印する。


「……長いですね」


「自分で説明しておいて何だ」


 相馬先輩が言いました。


「覚えることが多いんです!」


「だから、実際の場面を想像しろ」


 私は頷きました。


 一人の男性が、遺言書を封筒に入れる。


 封をする。


 印鑑を押す。


 公証人と二人の証人の前に出す。


 自分の遺言書だと説明する。


 公証人が記録する。


 みんなで署名押印する。


「……なるほど」


 私は呟きました。


「儀式みたいですね」


「まあ、そんなもんだ」


 でも。


 この方式には意味があります。


 内容自体は秘密にできる。


 一方で、遺言書を提出した事実や、封印に関する手続を公証人らが確認する。


「つまり、秘密と証明を両立させようとしているんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく頷きました。


 そして。


「あっ!」


「何だ!」


「秘密証書遺言って、全文を自分で書かなくてもいいんですよね!」


「そうだ」


 自筆証書遺言とは違います。


 秘密証書遺言では、法律上の要件を満たせば、本文を本人がすべて手書きする必要はありません。


 ただし、本人の署名押印などは必要です。


「だからこそ、方式の違いを覚えないといけないんですね」


「そうだ」


 私は三つを頭の中で並べました。


 自筆証書は、自分で書く。


 公正証書は、公証人が関与して作る。


 秘密証書は、中身を秘密にしながら、公証人らの前で所定の手続を行う。


 ようやく整理できてきました。


「じゃあ、次の問題」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「秘密証書遺言を作った。でも公証人の前で必要な手続をしていなかった。どうなる?」


「秘密証書遺言としての方式に欠けます!」


「じゃあ絶対に無効か?」


「……あ!」


 私は六法を開きました。


 民法第九百七十一条。


 秘密証書遺言が方式に欠けていても、自筆証書遺言としての方式を備えていれば、自筆証書遺言として効力を持つ。


「これです!」


 私は指を差しました。


「たとえば、全文と日付、氏名を本人が自書して押印していれば、自筆証書遺言として有効になり得るんです!」


「そうだ」


「逆に、本文がワープロで作られていて、秘密証書遺言としても方式を満たしていなければ……」


「救われねえ場合があるな」


「はい!」


 ここ、試験で引っかかりそうです。


 秘密証書遺言として失敗したら、何でも自筆証書遺言に変身するわけではありません。


 自筆証書遺言としての要件も、きちんと満たしていなければならないのです。


「先輩」


「何だ」


「遺言って、失敗したら終わりだと思ってました」


「そうとは限らねえな」


「方式が違っても、別の方式の要件を満たせば救われる場合がある」


「そうだ」


 私は笑いました。


「法律って、厳しいだけじゃないんですね」


「今さら気づいたか」


 相馬先輩が笑いました。


 でも。


 本当にそう思いました。


 方式を厳格にする一方で。


 本人の意思をできる限り尊重するための規定も置いている。


 民法は、厳格さと柔軟さを、両方持っているのです。


 ◇


「次は、遺言の効力発生時期です!」


 私はノートに書きました。


 ――民法第九百八十五条。


 遺言は、遺言者の死亡の時から効力を生じる。


「これは分かりやすいですね」


「そうか?」


「はい!」


 私は言いました。


「遺言を書いた瞬間に、財産が相手に移るわけじゃないんです!」


「そうだ」


 たとえば。


 祖母が、


 ――私の家を孫に相続させる。


 と遺言を書いたとします。


 その時点で、家が孫のものになるわけではありません。


 祖母が生きている間は、原則として祖母自身の財産です。


 そして、祖母が死亡したときに、遺言の効力が生じます。


「ここ、庄一さんは理解していなかったかもしれませんね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「あいつは、遺言書を契約書みたいに考えてた節があるな」


「はい」


 庄一は、祖父母に生活費や家の修理代を出したと主張していました。


 その代わり、遺言を撤回しないと約束させた。


 そして。


 自分には、すでに家を受け取る確実な権利があると思い込んでいた。


 でも。


 遺言は、原則として死亡時に効力が生じる。


 それまでは、自由に撤回することができる。


「だから、書かれた人が『もう俺のものだ』と勝手に決めることはできないんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


「でも、所長」


「何だ」


「停止条件付きの遺言はどうなるんですか?」


 所長が顔を上げました。


「説明してみろ」


「はい!」


 民法第九百八十五条第二項。


 遺言に停止条件が付されている場合。


 その条件が遺言者の死亡後に成就したときは、その時点から効力が生じます。


「たとえば……」


 私は少し考えました。


 ――孫の春江が大学を卒業したら、預金を遺贈する。


 そんな遺言があったとします。


 祖母が亡くなったとき、春江はまだ大学生。


 卒業したのは、その二年後。


 その場合。


「停止条件が死亡後に成就したので、その条件が成就した時点から効力が生じるんですね」


「そうだ」


 ただし、条件の内容が法律上許されるか、どのような遺言事項について付されているかなどは、別途確認が必要です。


「試験なら、まず大原則と例外を押さえることですね」


「ああ」


 私は書きました。


 ――遺言は死亡時に効力発生。ただし、死亡後に停止条件が成就した場合は、その成就時。


 よし。


 覚えました。


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ、キヨさんの遺言は?」


「キヨさんが亡くなったときに効力が生じます!」


「よし」


「だから、庄一さんが後から共同遺言書を持ち出しても、それだけでキヨさんの最後の意思を消せるわけではありません!」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 遺言書は、書いたときと効力が生じるときが違う。


 この違いを理解するだけでも、かなり整理できます。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「今回、一番の急所だな」


「遺言の撤回ですね!」


「ああ」


 私はページをめくりました。


 ――民法第千二十二条。


 遺言者は、いつでも遺言の方式に従って、その全部または一部を撤回することができる。


「ここ、すごく大事ですよね」


「そうだな」


 庄一は、祖父母に念書を書かせました。


 ――この遺言は、絶対に撤回しない。


 ――互いに変更しない。


 その念書を盾にして、キヨさんの新しい遺言を否定しようとしたのです。


「でも、遺言者はいつでも撤回できる」


「そうだ」


「しかも、一部だけ撤回することもできる」


「ああ」


 たとえば。


 最初の遺言書に、


 ――土地は長男に相続させる。


 ――預金は長女に相続させる。


 と書いたとします。


 その後、土地についてだけ考えを変えました。


 ――土地は次男に相続させる。


 という新しい遺言を作った。


「この場合、前の遺言は全部なくなるんですか?」


 相馬先輩が聞きました。


「いいえ!」


 私は即答しました。


「矛盾する部分だけが問題になります!」


 民法第千二十三条。


 前の遺言が後の遺言と抵触するときは、その抵触する部分について、後の遺言で前の遺言を撤回したものとみなされます。


 だから。


 土地については、後の遺言が優先する。


 でも、預金について何も変えていなければ、前の遺言の預金に関する部分まで当然に失われるわけではありません。


「なるほど」


 私は頷きました。


「後の遺言が優先する、って覚えていたんですけど」


「それだけじゃ足りねえな」


「はい」


 正確には。


 前後の遺言が抵触する部分について、後の遺言が優先する。


 ここが大切です。


「それと、先輩」


「何だ」


「あとから書いた紙なら、何でも優先するわけでもありませんね」


「そうだ」


 新しい遺言も、法律上の方式を満たしている必要があります。


 たとえば。


 古い遺言書は、適法に作られた自筆証書遺言。


 その後、本人がワープロで、


 ――やっぱり全部次男にやる。


 と書き、氏名だけ自署した。


 昭和六十三年に、その新しい紙が自筆証書遺言の方式を満たしていなければ。


 単に日付が新しいというだけで、有効な遺言として古い遺言を覆せるわけではありません。


「先輩!」


「何だ!」


「ここ、ひっかけ問題が作れます!」


「作るな!」


「後の遺言は、常に前の遺言全部を無効にする。正しいか!」


「誤りだ!」


「さすが先輩!」


「お前に試験を出される筋合いはねえ!」


 私は笑いました。


 でも。


 今回の事件で、最も重要だったのは、この撤回の自由でした。


 キヨさんは、最初の共同遺言書を作ったあと。


 自分の考えを変えた。


 最後には、春江さんに家を残したいと望んだ。


 その意思を。


 庄一が作らせた念書で、奪うことはできないのです。


 ◇


「では、最大の問題!」


 私は赤鉛筆を握りました。


 ――民法第千二十六条。


 遺言者は、遺言を撤回する権利を放棄することができない。


「これです!」


 相馬先輩が頷きました。


「ああ」


「今回、庄一さんを追い詰めた条文の一つです!」


 私はノートに大きな丸をつけました。


 遺言者は、いつでも撤回できる。


 そして、その撤回権を放棄することもできない。


「所長」


「何だ」


「どうして、ここまで自由を守るんでしょう」


 所長は少し考えました。


「人の気持ちは変わるからだ」


「……はい」


「まして、死後の財産の行き先だ」


 私は頷きました。


 人生は変わります。


 結婚することもある。


 離婚することもある。


 子供が生まれることもある。


 大切に思っていた人との関係が変わることもある。


 そして。


 最後に、誰に何を残したいか。


 それも変わるかもしれません。


 たとえば。


 若い頃、長男にすべての財産を残す遺言を書いた。


 でも、その後。


 長男とは疎遠になり、長女が長年介護してくれた。


 そこで遺言を変更したいと思った。


 もし。


「昔、撤回しないと約束したから変更できない」


 となったら。


 その人は、自分の最後の意思を自由に決められなくなってしまう。


「だから、撤回権そのものを放棄できないようにしているんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「人の最後の意思を、生きている間から他人が縛りつけるなってことだ」


 私は大きく頷きました。


 そして、今回の庄一を思い出しました。


 生活費を援助した。


 修理代を出した。


 だから財産を自分に残すよう約束させる。


 さらに、撤回もしないと約束させる。


 それでは。


 遺言者の自由な意思が、失われてしまいます。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「金銭の問題と混同するな」


「……はい」


「庄一が本当に金を貸していたなら、その貸金債権の有無は別に考える」


「はい」


 私は頷きました。


 遺言の撤回が認められることと、借金を返さなくてよいことは別問題です。


 有効な貸金契約があれば、返済義務が問題になります。


 でも。


 貸した金があるからといって、遺言者の撤回権を奪うことはできない。


 そこを分けて考える。


「民法って、本当に細かいですね」


「細かく考えねえと、人の財産を守れねえからな」


 相馬先輩が言いました。


 私は少し黙りました。


 確かに。


 遺言書だけでなく。


 貸金。


 契約。


 相続。


 所有権。


 全部を混ぜてしまったら、正しい答えにはたどり着けません。


「だから、所長は最初に相続人と登記を確認したんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「一つの条文で、全部を解決したつもりになるな」


「はい」


 私はノートに書きました。


 ――遺言の撤回と、別の契約による権利義務は区別する。


 よし。


 これも忘れません。


 ◇


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はここまでのノートを見返しました。


 遺言の方式。


 共同遺言の禁止。


 十五歳からの遺言能力。


 自筆証書遺言。


 公正証書遺言。


 秘密証書遺言。


 遺言の効力発生時期。


 遺言の撤回。


 後の遺言による撤回。


 撤回権の放棄禁止。


 最初は、ばらばらの知識でした。


 でも。


 今は違います。


 全部が、一つの事件につながっています。


 祖父母が連名で書いた遺言書。


 庄一が取らせた念書。


 キヨさんが最後に自分の手で書いた、新しい遺言書。


 そこにあったのは。


 本人の意思を誰が守るのか、という問題でした。


「所長」


「何だ」


「今日の確認問題、お願いします!」


 所長が少し考えました。


「いいだろう」


 私は背筋を伸ばしました。


「はい!」


「遺言の方式について定める基本条文は?」


「民法第九百六十条です!」


「十五歳の者は、単独で遺言できるか」


「遺言能力があり、方式を満たせばできます!」


「未成年者だから親の同意が必要か」


「不要です!」


「では、夫婦二人が同一の証書で遺言をした場合は?」


「民法第九百七十五条、共同遺言の禁止に抵触します!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 所長が続けます。


「自筆証書遺言。昭和六十三年の基本方式は?」


「全文、日付、氏名を自書し、押印することです!」


「ワープロで作った財産目録を遺言書の一部として添付したら?」


「昭和六十三年の自筆証書遺言では、原則として全文自書が必要なので、問題になります!」


「現代では?」


「平成三十一年一月十三日から、財産目録について一定の方式緩和があります!」


「よし」


 私は得意になりました。


「次、お願いします!」


「公正証書遺言の証人は?」


「二人以上です!」


「秘密証書遺言では?」


「公証人一人と証人二人以上です!」


「秘密証書遺言が方式を欠いていたら、絶対に無効か」


「いいえ! 自筆証書遺言の方式を満たしていれば、そちらとして有効になり得ます!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は思わず笑いました。


「完璧です!」


「まだ終わってねえぞ」


 相馬先輩が口を挟みました。


「ええっ!」


「遺言はいつ効力を生じる?」


「原則として、遺言者が死亡したときです!」


「停止条件が死亡後に成就した場合は?」


「その条件が成就したときです!」


「遺言は撤回できるか?」


「いつでも、遺言の方式に従って撤回できます!」


「前の遺言と後の遺言が矛盾したら?」


「矛盾する部分について、後の遺言で前の遺言を撤回したものとみなされます!」


「撤回しないと約束したら?」


「撤回権は放棄できません!」


「よし!」


 相馬先輩が笑いました。


 私は思わず両手を上げました。


「やりました!」


「調子に乗るな」


「今日は全部答えられました!」


「まだ一問ある」


「……え?」


 先輩がにやりとしました。


「昭和六十三年の公正証書遺言で、公証人が筆記した内容を、遺言者に閲覧させるだけでいいか?」


 私は一瞬、止まりました。


 でも。


 すぐに答えました。


「当時は、読み聞かせが必要です!」


「正解」


「現代は読み聞かせ、または閲覧です!」


「よし」


「平成十一年の改正で――」


「そこまで言わなくていい!」


 私は笑いました。


 今回の民法改正の違い。


 もう忘れません。


 昔の制度を知ると、今の制度の意味が見えてくる。


 昔は、自筆証書遺言の全文自書が求められていた。


 だから、現代では財産目録について方式が緩和された意味が分かる。


 昔の公正証書遺言には、厳格な口頭主義があった。


 だから、現代では障害のある人にも利用しやすい方式が整えられた理由が分かる。


 昔は、禁治産者という制度があった。


 だから、現代の成年後見制度が、本人の意思をより尊重する方向で整えられてきたことが分かる。


「民法って、改正の歴史を知ると面白いですね」


 私が言うと。


 片桐所長が頷きました。


「そうだな」


 私は嬉しくなりました。


 でも。


 所長は続けました。


「ただし、こはる」


「はい」


「今使う法律を間違えるな」


「……はい!」


 また釘を刺されました。


 昭和六十三年。


 ここでは、昭和六十三年の民法で仕事をする。


 現代の知識は理解の助けにはなります。


 でも、未来の条文をそのまま使うわけにはいかない。


 それが、転生した行政書士受験生の、一番厄介なところなのでした。


 ◇


 私は最後のページを開きました。


 いよいよ。


 今日の一行です。


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓、決まりました」


「ほう」


 私は鉛筆を握りました。


 そして、ゆっくり書きました。


 ――遺言は「本人が一人で、厳格な方式で、死ぬまで自由に決め直せる最後の意思」。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「長くねえか?」


「一行です!」


「文字数が多いだろ」


「一行に収まってます!」


「そういう問題か?」


 私は笑いました。


 でも。


 これなら、忘れません。


 あの共同遺言書。


 夫婦二人の署名。


 二つの印鑑。


 庄一が得意げに見せた紙。


 そして。


 キヨさんが最後に自分で書いた遺言書。


 あの二枚を思い出せばいいのです。


 共同遺言の禁止。


 遺言の方式。


 遺言能力。


 撤回。


 効力発生時期。


 全部、つながっています。


 私はノートを閉じました。


「所長」


「何だ」


「遺言って、財産を分けるためだけの制度じゃないんですね」


 所長が顔を上げました。


「どういう意味だ」


「自分の人生の最後を、自分で決めるための制度なんだと思います」


 所長は、少しだけ目を細めました。


「そうだな」


 私は続けました。


「そして、本人がもう何も言えなくなったあと、その意思を守るために方式がある」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は、ほっとしました。


 今日も一つ。


 条文の向こう側にあるものが、見えた気がしました。


 ◇


 そのとき。


 相馬先輩が、机の上に一枚の紙を置きました。


「ところで、こはる」


「はい?」


「お前、遺言書を書いてみたいって言ってたな」


「はい!」


「じゃあ、練習してみろ」


「えっ!」


 私は目を輝かせました。


「本当ですか!」


「ああ」


「いいんですか!」


「練習だぞ」


「分かってます!」


 私は紙を取りました。


 そして、鉛筆を握りました。


 ――遺言書。


 昭和六十三年。


 某月某日。


 私、朝比奈こはるは――。


「……」


 止まりました。


 相馬先輩が聞きました。


「どうした」


「……財産がありません」


「だろうな」


「預金もほとんどありません」


「知ってる」


「土地もありません」


「あるわけねえだろ」


「車もありません」


「見習いだからな」


 私は少し考えました。


「じゃあ、私の六法を先輩に……」


「要らねえ」


「ひどい!」


「俺も持ってる」


「じゃあノートを!」


「それも要らねえ」


「どうしてですか!」


「お前の字、読みにくいんだよ」


「失礼ですね!」


 私は腕を組みました。


 でも。


 ふと、窓辺を見ました。


 そこには。


 春江さんが持ってきた赤い椿が飾られていました。


 私は、その花を見つめました。


 キヨさんは、何を残したかったのでしょう。


 家。


 土地。


 庭。


 椿。


 でも。


 たぶん、それだけではありません。


 春江さんが安心して暮らせる場所。


 亡くなった家族の思い出。


 そして。


 自分がいなくなったあとも、孫が笑っていられる未来。


 きっと。


 それを残したかったのだと思います。


「……先輩」


「何だ」


「遺言書って、財産がある人だけのものじゃないですね」


「ほう」


「もちろん、法律上の遺言として効力を持つ事項は決まっていますけど」


「うん」


「でも、何を残したいか考えることは、自分が何を大切にしているか考えることなんですね」


 相馬先輩は、少し黙りました。


 そして。


「まあな」


 短く言いました。


 私は笑いました。


 今日の勉強は、これで終わりです。


 そう思った、その瞬間。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「練習は終わったか」


「はい!」


「なら、机を片付けろ」


「……え?」


「書類を整理して、床も掃いておけ」


 私は固まりました。


 またです。


 また掃除です。


「所長!」


「何だ」


「私には、十五歳から認められる遺言能力があります!」


「そうだな」


「十八歳なので、当然、年齢要件は満たしています!」


「うん」


「ですから、自分の最後の意思を自由に決められます!」


「そうだ」


 私は勢いよく言いました。


「よって、私は自分の意思で掃除をしないことを――」


「こはる」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「それ、遺言じゃねえぞ」


「……!」


「お前、今から死ぬつもりなのか?」


「違います!」


「だったら、ただの掃除嫌いだ」


「ぐっ……!」


 私は言葉に詰まりました。


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「遺言は死んだあとに効力が生じるんだろ?」


「……はい」


「じゃあ、今生きてるお前は掃除しろ」


「……はい」


 完敗です。


 私は箒を手に取りました。


 そのとき。


 先輩が、さらに追い打ちをかけてきました。


「そうだ、こはる」


「何ですか!」


「明日も掃除を頼むぞ」


「嫌です!」


「じゃあ、明日の掃除をしないって遺言を書いとけ」


「効力が生じません!」


「分かってるじゃねえか!」


 相馬先輩が笑いました。


 私も、つられて笑いました。


 でも。


 今日の勉強で、一つだけはっきりしたことがあります。


 法律は、死んだ人を直接助けることはできません。


 亡くなったあとに、その人の気持ちを聞き直すこともできません。


 だからこそ。


 生きているうちに、その意思を正しい形で残すことが大切なのです。


 そして。


 残された人たちが、その意思を勝手にねじ曲げないこと。


 それも、同じくらい大切です。


 私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――遺言は「本人が一人で、厳格な方式で、死ぬまで自由に決め直せる最後の意思」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、今日の遺言の論点は全部覚えました!」


「そりゃよかったな!」


「だから、もう勉強は終わりです!」


「じゃあ掃除しろ!」


「……はい!」


 私は笑いながら床を掃き始めました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 あのどこかで。


 春江さんは、祖母が残してくれた家に帰っているのでしょう。


 庭の椿を眺めながら。


 おばあちゃんが最後に残した言葉を、思い出しているかもしれません。


 人は、いつか死にます。


 財産も、家も、土地も。


 いつか誰かに引き継がれていく。


 でも。


 その引継ぎを、誰かの欲望だけで決めさせない。


 自分が大切にしてきたものを、最後まで自分の意思で託せるようにする。


 それが、遺言という制度なのです。


 私は窓辺の椿を見ました。


 赤い花びらが、夕日の中で静かに光っています。


 そして。


 ひとつだけ、思いました。


 遺言書に必要なのは、署名とハンコだけではありません。


 その人自身が、何を願っていたのか。


 その意思を、正しい方式で残すこと。


 そして、生きている限り、その願いを変える自由を守ること。


 だから。


 夫婦で二つのハンコを押しても、共同遺言は禁止される。


 一度書いた遺言でも、適法に撤回できる。


 撤回しないと約束しても、その自由を奪うことはできない。


 すべては。


 一人の人間の、最後の意思を守るためにある。


「……民法って、優しいですね」


 私が呟くと。


「こはる!」


 相馬先輩が叫びました。


「はい!」


「優しい民法も、掃除は代わってくれねえぞ!」


「分かってます!」


 私は箒を握り直しました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日もまた、私は法律を一つ覚えました。


 そして。


 明日もきっと、誰かの大切なものを守るために、六法を開くのでしょう。


 ただし。


 その前に。


 今日の掃除を終わらせなければなりません。


 ……残念ながら。


 掃除をしないという私の意思だけは。


 遺言書に書いても、守ってもらえそうにないのでした。

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