[民法・遺言]現場編 「夫婦で一枚に書いたから絶対有効」の罠。共同遺言の禁止と、死ぬまで奪えない最後の意思
人が死んだあと、その人の口は二度と開きません。
だからこそ。
生きているうちに残した、たった一枚の紙が。
家族を救うこともあれば。
家族を壊すこともあるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は知りました。
夫婦が仲良く書いた遺言書が、無効になること。
十五歳の子供でも、一人で遺言を残せること。
そして。
一度書いた遺言は、死ぬまで絶対に変えられない。
そんな約束こそ、民法が許していないことを。
今回の敵は、法律を知らない人ではありません。
法律の一部分だけを知っていて。
その一部分で、他人の人生を縛ろうとした男でした。
しかも。
その男が持ってきたのは。
死んだ夫婦の、二つのハンコだったのです。
◇
「祖母の家を、取られるんです」
朝九時。
事務所を訪れた若い女性は、そう言いました。
二十二歳。
名前は、藤沢春江さん。
小さな花屋で働いているそうです。
膝の上には、古い風呂敷包み。
指先が震えていました。
「おばあ様のお家ですか?」
私が尋ねると、春江さんは頷きました。
「祖母が、三日前に亡くなりました」
「……お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
春江さんは深く頭を下げました。
「祖母は、私が小さい頃から育ててくれた人なんです」
聞けば、春江さんの両親は早くに亡くなっていました。
母方の祖父母に引き取られ。
祖父が亡くなったあとも、祖母と二人で暮らしてきたそうです。
「家は古いんです。雨漏りもするし、冬は隙間風が入るし」
春江さんは少し笑いました。
「でも、おばあちゃんが庭に植えた椿が、毎年咲くんです」
私は黙って聞きました。
「祖母は、よく言っていました」
春江さんの声が小さくなります。
「この家は春江に残すから、心配しなくていいって」
「……はい」
「なのに、昨日……」
彼女は風呂敷包みを開きました。
中から出てきたのは、一枚の紙。
古い和紙。
そして。
二人分の署名と押印。
私は目を落としました。
――遺言書。
――私たち夫婦、藤沢栄吉及び藤沢キヨは、両名の死亡後、所有する土地建物その他の財産を、甥の藤沢庄一に譲ることとする。
――この意思は夫婦共通のものであり、互いに変更しないことを約束する。
昭和五十九年五月十日。
藤沢栄吉。
藤沢キヨ。
二人の名前。
二つの印影。
私は眉をひそめました。
「……夫婦で、一枚の遺言書?」
「はい」
「これを誰が?」
「庄一さんです」
庄一。
亡くなった祖父の甥。
地元で建材会社を経営する四十八歳の男でした。
「庄一さんは、この遺言書があるから、家も土地も全部自分のものだって」
「全部?」
「はい」
「でも、春江さんは?」
「私は関係ないって……」
春江さんは唇を噛みました。
「昨日、庄一さんが家に来て、言ったんです」
――遺言書に書いてあるだろう。
――お前は今月中に出ていけ。
――夫婦二人が署名してるんだ。文句を言うな。
私は紙を見つめました。
遺言書。
確かに二人の署名があります。
印鑑も押してある。
しかも。
夫婦共通の意思。
一見すると、かなり強そうです。
でも。
私の頭に、一つの条文が浮かびました。
「……民法九百七十五条」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「ほう」
私は勢いよく立ち上がりました。
「分かりました!」
春江さんが顔を上げます。
「本当ですか?」
「はい! これ、共同遺言です!」
「共同……?」
「二人以上の者が、同一の証書で遺言をすることはできないんです!」
私は六法を開きました。
民法九百七十五条。
――遺言は、二人以上の者が同一の証書ですることができない。
「だから!」
私は紙を指しました。
「おじい様とおばあ様が、一枚の紙で一緒に遺言しているなら、法律上の遺言として効力が認められないんです!」
春江さんの表情が、ぱっと明るくなりました。
「じゃあ、家は取られないんですね!」
「はい!」
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「早えよ」
「え?」
「まだ、相続人も確認してねえだろ」
「あ……」
先輩は新聞を畳みました。
「その遺言書が無効だとしても、それだけで春江さんが家全部を取得するとは限らねえ」
「そうですね……」
「祖母の相続人が誰なのか。家の所有者が誰なのか。ほかに遺言があるのか」
先輩は三本の指を立てました。
「そこを確かめる前に、安心させるな」
「……はい」
私は座り直しました。
危ない。
また一つの条文だけで、事件を解決したつもりになっていました。
片桐所長が口を開きました。
「春江さん」
「はい」
「お祖母様には、ほかにお子さんはいらっしゃいますか」
「母だけです。でも母は、祖母より先に亡くなっています」
「ご兄弟は?」
「母には兄弟はいません」
「春江さんにも、ご兄弟はいませんね」
「はい」
所長は静かに頷きました。
祖母の一人娘が先に死亡。
その娘の子供が春江さん。
つまり、代襲相続が問題になる立場です。
さらに戸籍と不動産登記の確認が必要ですが、春江さんが祖母の相続人となる可能性は高そうでした。
「では」
所長が聞きました。
「お祖母様が別の遺言を残していた可能性はありませんか」
春江さんは、少し迷ってから言いました。
「……あります」
「ほう」
「祖母が、亡くなる一か月くらい前に、何か書いていたんです」
「何を?」
「遺言書だと思います」
私と相馬先輩は顔を見合わせました。
「それは今、どこに?」
「仏壇の引き出しに」
「持ってきていますか?」
「はい」
春江さんは風呂敷の底から、もう一通の封筒を取り出しました。
薄茶色の封筒。
表には、震えた文字で、
――春江へ。
と書かれていました。
封筒は、まだ閉じられていました。
「開けてないんです」
「どうして?」
「庄一さんが、勝手に開けたら無効になると言ったので……」
私は眉をひそめました。
自筆証書遺言を勝手に開封したことだけで、当然に無効になるわけではありません。
ただし、封印のある遺言書の開封には、家庭裁判所での手続が関係します。
「春江さん」
片桐所長が言いました。
「この封筒は、そのままにしておきましょう」
「はい」
「家庭裁判所での検認が必要になる可能性があります。開封の手続も含め、順番を間違えないことです」
所長は封筒を見つめました。
「亡くなった方が、最後に何を望んだのか」
そして、静かに続けました。
「まず、それを確かめましょう」
◇
その日の昼。
事務所に、予想外の客が現れました。
「おい。春江はここに来たんだろう」
扉を勢いよく開けたのは、背広姿の男。
四十代後半。
金色の腕時計。
太い指に、いかにも高そうな指輪。
「藤沢庄一だ」
男は名乗るなり、机に一枚の紙を叩きつけました。
「余計なことを吹き込まないでもらいたい」
相馬先輩が立ち上がりました。
「何のご用ですか」
「行政書士なんだろ」
「そうですが」
「だったら遺言書くらい分かるだろ」
庄一は鼻で笑いました。
「二人分の署名と印鑑があるんだぞ。これ以上、何が必要なんだ」
私は言いました。
「二人分だからこそ、問題なんです」
「何?」
「民法では、共同遺言が禁止されています」
庄一は目を細めました。
「共同遺言?」
「二人以上が、同一の証書で遺言をすることはできません」
「馬鹿を言え」
庄一は机を叩きました。
「夫婦だぞ!」
「はい」
「夫婦が同じことを望んで、同じ紙に書いて、二人でハンコを押したんだ!」
「それでも、民法九百七十五条の問題になります」
庄一の顔が赤くなりました。
「じゃあ何か! 夫婦で相談して遺言を書いたら駄目なのか!」
「相談することが禁止されているわけではありません」
私は答えました。
「同一の証書で、二人以上が遺言をすることが禁止されているんです」
「屁理屈だ!」
相馬先輩が低い声で言いました。
「法律は、気合いで変わりませんよ」
「何だと?」
「二人分の署名があることは、必ずしも遺言の強さにはならないんです」
庄一は一瞬黙りました。
しかし、すぐに笑いました。
「なるほどな」
嫌な笑みです。
「そっちがそう来るなら、こっちにも考えがある」
「何でしょう」
「キヨ婆さんは、もう新しい遺言を書ける状態じゃなかったんだよ」
私は固まりました。
「……どういう意味ですか」
「八十を過ぎてたんだぞ。物忘れもひどかった」
「それだけでは――」
「それにな」
庄一は声を低くしました。
「遺言を書くには、親族の同意が必要なんじゃねえのか」
「え?」
「年寄りが勝手に財産を誰かにやるなんて、そんなこと許されるかよ」
私は思わず言い返しました。
「遺言は、本人が単独でする法律行為です!」
「何?」
「遺言能力があれば、親族の承諾は必要ありません!」
「そんな馬鹿な話があるか!」
その瞬間。
私は勢いに任せて言いかけました。
「成年被後見人であっても、医師二人が立ち会えば――」
「こはる」
相馬先輩の声が飛びました。
「……あ」
「今、何て言おうとした?」
「いえ、その……」
「成年被後見人?」
しまった。
またです。
現代の民法です。
昭和六十三年には、まだ成年後見制度はありません。
当時の用語は。
禁治産者。
準禁治産者。
ああ。
民法の改正という時代の壁が、また私の前に立ちはだかりました。
「今は禁治産の制度だ」
相馬先輩が言いました。
「はい……」
「それに、キヨさんが禁治産宣告を受けていたという話もない」
「はい」
「年寄りだから判断能力がないなんて決めつけるな」
そのとおりです。
高齢であることと、遺言時に必要な判断能力がなかったことは同じではありません。
それを確認するには、具体的な事実が必要です。
「それとも庄一さん」
相馬先輩が尋ねました。
「キヨさんが遺言を書いた時点で、意思を理解できない状態だったことを示す資料でもお持ちですか」
「……そんなものはない」
「では、まず事実を確かめる必要がありますね」
庄一は舌打ちしました。
「くだらん」
そして、もう一枚の紙を取り出しました。
「これを見ろ」
私は受け取りました。
そこには、こう書かれていました。
――藤沢栄吉及び藤沢キヨは、本遺言を将来にわたり撤回しないことを確約する。
――藤沢庄一は、右確約を信頼して両名の生活を援助する。
署名。
押印。
庄一自身の名前もありました。
「これは?」
「念書だ」
庄一は胸を張りました。
「二人には金を貸した。家の修理代も出した。その代わりに、遺言を変えないと約束させたんだ」
「……」
「だから、あとから遺言を書いても無駄だ」
私は息を呑みました。
なるほど。
庄一の狙いが見えました。
夫婦共同の遺言書。
撤回しないという念書。
そして、後から書かれた遺言は無効だという主張。
全部を組み合わせて、春江さんを家から追い出すつもりなのです。
「先輩……」
私が小声で言うと。
相馬先輩は、にやりと笑いました。
「庄一さん」
「何だ」
「民法千二十六条って、知ってますか」
「……何だ、それは」
「遺言の撤回権の放棄を禁止する条文です」
「は?」
「遺言者は、遺言を撤回する権利を放棄できないんですよ」
庄一の顔から、笑みが消えました。
「……何?」
「『絶対に撤回しない』という念書を取っても、遺言を撤回する自由を奪うことはできません」
「そんな馬鹿な!」
「民法です」
先輩は静かに言いました。
「それと、貸金の有無は別の話です。貸した金があるなら、契約内容と返済状況を確認すべきです」
「当たり前だ!」
「ですが、貸金があるからといって、相手が遺言を変えられなくなるわけじゃない」
庄一は黙りました。
私は思いました。
すごい。
遺言は。
死んだあとに効力を生じるものなのに。
それを書く人の自由は、生きている間ずっと守られている。
「庄一さん」
片桐所長が初めて口を開きました。
「お尋ねします」
「……何だ」
「お二人が、なぜ共同の証書を作ったか、ご存じですか」
「俺が書かせたんだよ」
庄一は吐き捨てるように言いました。
……え?
「一枚なら分かりやすいだろうが。二人の名前を書かせて、ハンコを押させた」
「それは、庄一さんが?」
「そうだ」
男は腕を組みました。
「俺が用紙を用意した。文面も考えてやった。老人に難しいことが分かるかよ」
私は、言葉を失いました。
この人。
自分で、自分の首を絞めていませんか。
所長は表情を変えませんでした。
「そうですか」
それだけ言いました。
「今日は、これで失礼します」
庄一は立ち上がりました。
「春江には言っておけ。月末までに出ていけとな」
扉が乱暴に閉まりました。
沈黙。
私はゆっくり相馬先輩を見ました。
「先輩」
「何だ」
「あの人……」
「ああ」
「自分で共同遺言を作らせたって言いましたね」
「言ったな」
「しかも文面まで考えたって……」
「言ったな」
「……大丈夫なんですか、あの人」
相馬先輩は煙草を一本取り出しました。
「大丈夫じゃねえだろうな」
そして。
例の口癖を言いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
「でも先輩」
「何だ」
「今回は、ハンコを押させたことが裏目に出てません?」
先輩は一瞬黙りました。
「……そこまで含めて覚えとけ」
「都合がいい!」
片桐所長が、小さく咳払いしました。
「二人とも」
「はい」
「仕事だ」
所長は春江さんから預かった資料を指しました。
「まず、遺言書を整理する」
そして。
「死人の意思を、勝手に書き換えさせるな」
その声は静かでした。
でも。
私は背筋が伸びるのを感じました。
◇
翌日。
私たちは、春江さんと一緒に資料を整理しました。
戸籍。
不動産登記簿。
祖父母の死亡日。
そして、庄一が持っていた共同遺言書の写し。
「所長」
「何だ」
「家と土地は、現在どうなっているんですか」
「登記上は、祖母のキヨさん名義だ」
「おじい様の持分は?」
「以前の相続で、キヨさんが取得している」
「なるほど……」
つまり、今回問題になっている家と土地は、キヨさんの遺産。
そして。
春江さんは、亡くなった一人娘の子として、代襲相続人となる立場でした。
「そうなると」
私は考えました。
「庄一さんは、法定相続人ではありませんね」
「少なくとも、確認された親族関係ではそうなる」
所長が言いました。
「庄一が取得する根拠として持ち出しているのは、あの遺言書だ」
私は共同遺言書を見つめました。
同じ紙に。
夫婦二人の意思。
二人の署名。
二人の印鑑。
共同遺言の禁止。
民法九百七十五条。
ここが最大の争点です。
「でも、所長」
「何だ」
「なぜ共同遺言って、駄目なんでしょう」
所長は私を見ました。
「どう思う」
「……形式が決まっているから、ですか?」
「それは答えの半分だ」
「半分?」
相馬先輩が口を挟みました。
「こはる。夫婦二人で一枚の遺言を書いたとする」
「はい」
「夫があとから、やっぱり息子に財産をやりたいと思った」
「はい」
「でも妻は、最初の遺言どおりにしたい」
「はい」
「どうする?」
私は考えました。
「夫が、自分の遺言だけ撤回すれば……」
「同じ紙に書いてあるんだぞ」
「あ……」
「一方だけ撤回したとき、もう一方の意思をどう扱う?」
「……難しいですね」
「だろ」
なるほど。
遺言は、一人ひとりの最後の意思です。
その人が、生きている間に自由に考え直せることが大切。
なのに。
夫婦二人の意思を一枚の証書に結びつけてしまうと。
一方の撤回や変更が、もう一方の意思に影響しかねない。
「だから、最初から共同遺言を禁止しているんですね」
「そういう趣旨だ」
所長が頷きました。
「夫婦で相談するのは構わない。だが、遺言はそれぞれの意思で、それぞれ適法な方式で作る必要がある」
私はノートに書きました。
――夫婦仲が良くても、遺言まで一心同体にはできない。
「……何だ、その書き方」
相馬先輩が言いました。
「覚えやすいでしょう?」
「まあ、忘れねえだろうな」
私は少し得意になりました。
しかし。
本当の勝負は、これからでした。
◇
数日後。
家庭裁判所で、キヨさんの封印された自筆証書遺言について、所定の検認・開封手続が行われました。
検認は、遺言書の状態を確認し、保存するための手続です。
それだけで、遺言の有効無効が確定するわけではありません。
そこは重要です。
でも。
春江さんが持ち帰った遺言書の写しを見た瞬間。
私は、息を呑みました。
遺言書。
昭和六十三年六月二十日。
全文が、キヨさん自身の手書きでした。
そこには、こう書かれていました。
――私は、私の所有する土地及び建物を、孫の藤沢春江に相続させる。
――家の庭の椿は、亡き夫が植えたものである。
――春江には、これからもあの家で暮らしてほしい。
――なお、昭和五十九年五月十日に夫と連名で作成した書面による財産処分の意思は、これを撤回する。
――春江が安心して暮らせることを願う。
藤沢キヨ。
署名。
押印。
私は、しばらく言葉が出ませんでした。
「……おばあちゃん」
春江さんが、遺言書の写しを胸に抱きました。
「ちゃんと、書いてくれてた……」
私も胸が熱くなりました。
でも。
法律的には、ここからが大切です。
「所長!」
「何だ」
「これ、自筆証書遺言ですよね!」
「その可能性がある」
「全文が自書されています!」
「ああ」
「日付もあります!」
「ああ」
「氏名も自書されて、押印もあります!」
「そうだな」
私は勢いよく言いました。
「しかも、以前の遺言を撤回するって書いてあります!」
相馬先輩が頷きました。
「民法千二十二条だな」
「はい!」
遺言者は、いつでも、遺言の方式に従って、遺言の全部または一部を撤回できます。
そして。
仮に前の遺言が有効なものであっても。
後の有効な遺言と内容が抵触するなら、その部分については後の遺言で撤回したものとみなされる。
民法千二十三条。
「つまり……」
私は言いました。
「庄一さんの持っていた共同遺言書は、まず共同遺言の禁止に抵触する」
「そうだ」
「そして、キヨさんはその後、単独で新しい遺言を書いている」
「そうだな」
「だから、庄一さんが言っていた『一度決めたから変更できない』という理屈も通りません!」
相馬先輩が笑いました。
「やっと筋が見えてきたな」
「はい!」
ところが。
片桐所長は、遺言書の写しを見つめたまま言いました。
「こはる」
「はい」
「日付を見ろ」
「……日付?」
「もう一度」
私は目を落としました。
昭和六十三年六月二十日。
問題ありません。
「きちんと年月日があります」
「そうだな」
「何か問題が?」
所長は別の紙を取り出しました。
キヨさんの古いメモ帳です。
そこには。
――昭和六十三年六月吉日。
と書かれた、遺言の下書きらしいものがありました。
「……あ」
私は気づきました。
「吉日……!」
相馬先輩が言いました。
「遺言の日付は、いつ作ったかを特定できなけりゃ困る」
「はい」
「『六月吉日』じゃ、具体的な日が分からねえ」
「そうですね……」
私は背筋が冷たくなりました。
自筆証書遺言。
全文。
日付。
氏名。
押印。
たった一つでも、法定の方式を欠けば、大きな問題になります。
そして。
現代の知識が、また顔を出しました。
「あ、でも!」
「何だ」
「財産目録はパソコンで作って添付しても――」
「こはる」
「……はい」
「パソコン?」
相馬先輩が目を細めました。
「いや、あの、ワープロで……」
「それで?」
「財産目録については、自書しなくても……」
「誰がそんなことを言った」
……しまった。
これも未来の改正です。
現在の民法では、一定の方式を満たせば、財産目録について自書によらない方法が認められています。
でも。
昭和六十三年の自筆証書遺言は違います。
当時は、本文だけでなく、遺言書の一部をなす財産の記載も、原則として全文自書が求められる時代。
「未来の六法を持ち込むな」
相馬先輩が言いました。
「……はい」
「何回目だ」
「数えるのはやめましょう」
「数えきれねえんだろ」
そのとおりです。
民法。
改正の地雷原。
今日も絶賛爆発中です。
ただし。
今回のキヨさんの遺言書は、土地と建物の記載も含めて、すべて本人の手書き。
年月日も明確。
氏名も押印もある。
訂正もありません。
少なくとも、方式の面では有効性を支える事情が揃っています。
「所長」
私は尋ねました。
「キヨさんの遺言能力は、どう確認しますか」
「そこだ」
所長が頷きました。
「庄一は、高齢で判断能力がなかったと言い出している」
「はい」
「だから、遺言を書いた時点の状態を調べる」
私たちは、春江さんから事情を聞きました。
遺言書を書いた日。
キヨさんは、自宅で普段どおり暮らしていました。
日記もつけていました。
買い物の家計簿も残していました。
しかも。
同じ日の夕方、近所の文具店で封筒と便箋を買っていたことが分かりました。
「店の人が覚えているそうです」
春江さんが言いました。
「おばあちゃん、私の誕生日の話をしたって」
「誕生日?」
「はい」
「どんな話ですか」
「春江がもうすぐ二十三になる。あの子には苦労をかけたから、家くらい残してやりたいって」
私は黙りました。
片桐所長は、記録用紙に書き込みました。
「それは大事な事情です」
「……はい」
「ただし、日常生活ができたことだけで、遺言能力が確実に証明されるわけではありません」
所長は続けました。
「遺言を書いた時点で、自分の財産と、その処分の意味を理解していたか。そこを事実で確かめる」
なるほど。
遺言の方式だけでなく。
遺言者の意思。
その判断能力。
そこまで確認する必要があるのです。
私たちは、家計簿の筆跡、過去の手紙、日記、当日の行動に関する記録を整理しました。
庄一の主張が争いになった場合に備え、関係資料を保存しておくためです。
そして。
ようやく。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「書面を作るぞ」
私は顔を上げました。
「内容証明ですね!」
「ああ」
先輩は机に一冊の六法を置きました。
「ただし、相手を脅すためじゃねえ」
「はい」
「春江さん自身の立場を、事実と条文で明確にするためだ」
私は頷きました。
いよいよ。
遺言書にハンコがあるから全部俺のものだ、と言い張る男に。
本物の民法を突きつけるときが来たのです。
◇
「まず、一つ目!」
私は原稿用紙に書き始めました。
「共同遺言の禁止!」
相馬先輩が頷きます。
「続けろ」
「二つ目。遺言の撤回!」
「うん」
「三つ目。後の遺言の優先!」
「うん」
「四つ目。自筆証書遺言の方式!」
「そうだな」
「五つ目。遺言能力!」
「よし」
私は鉛筆を置きました。
「完璧です!」
相馬先輩は原案を読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『庄一の遺言書は絶対に無効である』」
「はい」
「断定の根拠を具体的に書け」
「……はい」
「単に二人の名前があるだけじゃなくて、一つの証書で夫婦それぞれが遺言をしていることを明確にするんだ」
「分かりました」
「次」
「はい」
「『キヨさんは正常だったので遺言は絶対有効』」
赤線。
「……あ」
「正常って何だ。医者でもねえのに、適当な言葉を使うな」
「はい……」
「遺言作成時の判断能力を支える事実を書け。日記、手紙、生活状況、買い物記録。必要なら弁護士に引き継いで証拠を精査してもらう」
「はい」
「それから」
先輩は最後の一文を指しました。
「『直ちに強制執行する』」
「……」
「お前、何を強制執行するつもりだ?」
「……勢いです」
「勢いで差押えできたら、裁判所は要らねえよ」
私は項垂れました。
「すみません……」
「俺たちは弁護士じゃねえ。争いになれば、弁護士に任せる」
「はい」
「内容証明は判決じゃねえし、強制執行の根拠にもならねえ」
「はい」
「だがな」
相馬先輩は、原稿を机に置きました。
「事実と条文を並べれば、相手は自分の主張がどれだけ危ういか分かる」
私は顔を上げました。
「……はい」
「だから、余計な脅し文句は要らねえんだよ」
そこへ、片桐所長が来ました。
「できたか」
「もう少しです!」
「相馬」
「はい」
「最後の撤回の部分を確認しろ」
所長が言いました。
「一番大事なのは、そこだ」
私は原稿を見直しました。
共同遺言書が無効であること。
その後に書かれた、キヨさん単独の自筆証書遺言。
そして、撤回権を放棄できないこと。
「……所長」
「何だ」
「遺言って、契約とは違うんですね」
「どう違う」
「相手の承諾が必要ないんです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「遺言は単独行為ですから、受け取る人がその場で承諾しなくても、法定の方式で作れます」
「うん」
「しかも、原則として効力が生じるのは、遺言者が亡くなったとき」
「そうだ」
民法九百八十五条。
遺言は、遺言者の死亡の時から効力を生じる。
停止条件が付され、その条件が死亡後に成就する場合などには、別の扱いもあります。
でも。
大原則は死亡時。
だからこそ。
生きている間は、何度でも考え直せる。
その自由を、他人が契約や念書で奪うことはできない。
「分かりました」
私は頷きました。
「庄一さんが間違えているのは、一つじゃないんですね」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「共同遺言で一つ」
「はい」
「撤回権の放棄で一つ」
「はい」
「後の遺言を無視して一つ」
「はい」
「しかも、その全部を自信満々に主張している」
私は思わず笑いました。
「すごいですね……」
「悪党ってのは、強気なうちは条文を読まねえんだよ」
そして。
三時間後。
春江さん本人の名義で発送する内容証明郵便の原案が完成しました。
◇
宛先。
藤沢庄一殿。
通知人。
藤沢春江。
私は完成した書面を読み上げました。
「第一。本通知人は、亡藤沢キヨの相続に関し、貴殿が昭和五十九年五月十日付の連名遺言書を根拠として、本件土地建物の取得を主張していることを確認している」
「うん」
「第二。右証書は、藤沢栄吉及び藤沢キヨの二名が、同一の証書においてそれぞれ遺言を行ったものであり、民法第九百七十五条に定める共同遺言の禁止に抵触する」
「続けろ」
「第三。仮に過去の証書について有効性を主張し得る余地があるとしても、藤沢キヨは昭和六十三年六月二十日付で、新たに単独の自筆証書遺言を作成している」
「うん」
「第四。右遺言書には、遺言者本人による全文、日付及び氏名の自書並びに押印が認められ、同書面において本件土地建物を藤沢春江に相続させる旨が記載されている」
私は一度、息を吸いました。
「第五。民法第千二十二条により、遺言者はいつでも遺言を撤回することができる。また、同法第千二十六条により、撤回権の放棄は認められない」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第六。さらに、民法第千二十三条により、前の遺言と後の遺言が抵触する場合には、その抵触部分について後の遺言による撤回が認められる」
「よし」
「第七。したがって、貴殿が主張する撤回禁止の念書は、藤沢キヨが適法な方式により遺言を撤回する権利を妨げるものではない」
私は最後の段落に目を落としました。
「第八。以上を踏まえ、本通知人は、貴殿による本件土地建物の取得及び明渡要求について、その法的根拠を争う意思を明らかにする」
相馬先輩が静かに言いました。
「最後だ」
「はい」
私は読み上げました。
「今後、本件土地建物について権利主張を継続される場合には、その具体的な根拠を書面で示されたい。必要に応じ、弁護士への相談及び適切な法的手続を検討する」
読み終わりました。
静寂。
片桐所長が書面を読み直しました。
そして。
「いいだろう」
短く言いました。
「……!」
私は思わず拳を握りました。
やった!
今回は、大きな赤線を引かれずに済みました!
「ただし」
所長が言いました。
「春江さんに内容を確認してもらえ」
「はい!」
「これは、あくまで本人の意思を伝える書面だ」
「はい!」
春江さんは、ゆっくりと内容を読みました。
読み終えると。
少しだけ、涙を浮かべました。
「……こんなに、きちんと説明できるんですね」
「はい」
私は答えました。
「おばあ様が残したものを、法律に沿って整理しただけです」
春江さんは、書面に署名しました。
そして。
印鑑を押しました。
朱肉の赤い色が、紙に残ります。
その瞬間。
私は思いました。
庄一が無理に押させた、夫婦二人のハンコ。
春江さんが自分の意思で押した、一つのハンコ。
同じ印鑑でも。
そこにある意思は、まったく違う。
「お願いします」
春江さんが言いました。
「はい」
私は書面を受け取りました。
これが。
おばあちゃんの家を守るための、法律の刃です。
◇
内容証明郵便が届いた翌々日。
庄一から電話が入りました。
「……片桐事務所か」
声が、前とは違いました。
小さく。
妙に丁寧。
私は所長に取り次ぎました。
「片桐です」
『あの……届いた書面のことなんですが』
「はい」
『弁護士に見せたんです』
私は思わず顔を上げました。
『そしたら……』
沈黙。
『あの夫婦の遺言書は、共同遺言だから効力が認められない可能性が高いって……』
「そうですか」
『しかも、あとからキヨ婆さんが書いた遺言があるなら……』
「はい」
『撤回しないって念書も、役に立たないって……』
庄一の声が震えました。
『そんな法律、本当にあるんですか』
片桐所長は静かに答えました。
「民法に定めがあります」
『……』
「お送りした条文をご確認ください」
長い沈黙。
そして。
『……春江には、出ていけとは言いません』
私は思わず顔を上げました。
『家も、もう要求しません』
所長は、黙って聞いていました。
『ただ……』
「はい」
『昔、家の修理に金を出したのは、本当なんです』
所長は答えました。
「それは、遺言の問題とは別に、事実と契約内容を確認する必要があります」
『……分かりました』
「金銭債権があるとお考えなら、その資料を整理してください」
『はい……』
電話が切れました。
私は思わず立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「折れましたね!」
「ああ」
「すごいです!」
相馬先輩が笑いました。
「まだ終わりじゃねえぞ」
「え?」
「本人が約束を守るか確認する。必要なら、本人同士で確認書を取り交わす」
「あ、はい」
「それに、自筆証書遺言の有効性を争われる可能性も、完全になくなったわけじゃねえ」
「そうですね……」
「ただ」
先輩は机の上の内容証明の控えを指しました。
「少なくとも、あいつはもう『ハンコが二つあるから絶対有効だ』なんて言えねえだろ」
私は頷きました。
その後。
庄一は、春江さんに対する明渡要求を撤回する旨の書面を本人名義で送りました。
共同遺言書及び撤回禁止の念書を根拠として、本件土地建物の権利を主張しないことも明記されていました。
相続登記については、必要資料を整え、司法書士に引き継ぐことになりました。
もし遺言の有効性をめぐって紛争が再燃すれば、その部分は弁護士の仕事です。
でも。
庄一が、あの古い遺言書を振りかざして春江さんを追い出そうとすることは、ひとまず止まりました。
裁判はしていません。
大声で言い争ってもいません。
ただ。
事実を整理し。
法律を確認し。
一枚の書面を送った。
それだけでした。
◇
一週間後。
春江さんが、事務所にやって来ました。
手には、小さな紙袋。
「これ、よかったら」
「何ですか?」
「庭の椿なんです」
袋の中には、赤い椿の花がありました。
「今年も咲いたので……」
春江さんは、少し笑いました。
「おばあちゃんが、毎年楽しみにしていた花なんです」
私は花を受け取りました。
赤い花びら。
厚い葉。
まだ少し、冬の名残を思わせる香り。
「……きれいですね」
「ありがとうございます」
春江さんは、椅子に座りました。
「先生」
「私はまだ見習いですけど……」
私は照れながら答えました。
「はい」
「私、ずっと怖かったんです」
「……はい」
「おばあちゃんが亡くなって、もう家族がいなくなったと思って」
私は黙って聞きました。
「家までなくなったら、本当に一人になっちゃう気がして」
春江さんは、目元を拭いました。
「でも、おばあちゃん……」
声が震えました。
「最後まで、私のことを考えてくれてたんですね」
私は頷きました。
「そうですね」
「遺言書なんて、難しいものだと思っていました」
「はい」
「でも、あの紙に書いてあるのは……」
春江さんは、少し笑いました。
「おばあちゃんの、いつもの言葉だったんです」
――春江が安心して暮らせることを願う。
私は、その一文を思い出しました。
法律上の遺言。
財産の承継。
自筆証書。
方式。
撤回。
難しい言葉はいくらでもあります。
でも。
その根っこにあるのは。
自分が死んだあと、誰に何を残したいのか。
その人の、最後の願いです。
「春江さん」
私は言いました。
「おばあ様の遺言書は、きちんと残されていました」
「はい」
「法律は、その意思をどう扱うか、厳しく決めています」
「はい」
「でも、それは意地悪だからじゃないんです」
私は、少し考えました。
「遺言を書く人は、もう亡くなっているからです」
春江さんが顔を上げました。
「亡くなった人は、自分の意思を説明し直せません」
「……そうですね」
「だから、本人が書いたのか。いつ書いたのか。どんな意思だったのか。そこを大切にするんだと思います」
春江さんは、ゆっくり頷きました。
「……はい」
そして。
「おばあちゃんの椿、これからも大事にします」
そう言って笑いました。
その笑顔を見たとき。
私は思いました。
民法九百六十条。
遺言の方式。
試験では、たった一つの条文です。
でも。
その条文が守ろうとしているのは。
もう声を上げられない人の、最後の意思なのです。
◇
夕方。
春江さんが帰ったあと。
私は机に向かっていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「遺言って、難しいですね」
「今さらか」
「だって、すごく自由なのに、すごく厳しいんです」
「ほう」
先輩が顔を上げました。
「どういう意味だ」
私は指を折りました。
「まず、誰に財産を残すかは、法律の範囲内で本人が決められる」
「うん」
「遺言は単独行為だから、相手の承諾がなくても作れる」
「うん」
「一度書いても、あとから撤回できる」
「そうだな」
「しかも、撤回しないって約束しても、撤回権は放棄できない」
「そうだ」
私は一度、息を吸いました。
「でも!」
「何だ」
「遺言の方式は、ものすごく厳しい!」
先輩が笑いました。
「当たり前だろ」
「夫婦で一枚に書いたら駄目!」
「ああ」
「自筆証書なら、当時は全文を自書!」
「そうだ」
「日付も氏名も、押印も必要!」
「うん」
「それなのに、十五歳から遺言できる!」
相馬先輩が頷きました。
「民法九百六十一条だな」
「はい!」
十五歳。
私は現代から来た十八歳の受験生です。
十八歳の私は、昭和ではまだ未成年。
当時の成年年齢は二十歳。
でも。
遺言については、十五歳に達していれば、原則として単独ですることができる。
「これ、最初はびっくりしました」
「何がだ」
「昭和六十三年って、二十歳まで未成年でしょう?」
「ああ」
「なのに十五歳で遺言できるんですよ!」
「そうだな」
「しかも親の同意も要らない!」
「そうだ」
私は感心してしまいました。
普段の契約については、未成年者として保護される。
でも。
遺言については、十五歳に達していれば、本人の意思を尊重する。
「不思議ですね」
私が言うと。
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「不思議か」
「はい」
所長は静かに言いました。
「遺言は、その人自身の最後の意思だからな」
「……はい」
「財産の処分について、いつまでも他人に決めさせるわけにはいかん」
私は黙りました。
そうか。
それが。
遺言という制度の根底にあるもの。
他人に勝手に決めさせない。
生きている間は、自由に考え直せる。
でも、死んだあとは本人に確認できないから、方式を厳しくする。
なるほど。
自由と厳格さ。
矛盾しているようで。
実は、同じものを守っていたのです。
「所長」
「何だ」
「今日、分かりました」
「何がだ」
私は答えました。
「遺言の方式が厳しいのは、本人の自由を奪うためじゃないんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「本人の本当の意思を、死んだあとも守るためなんですね」
「ああ」
私はノートを開きました。
そして、今日の教訓を書きました。
――遺言は、一人で自由に決められる。だからこそ、方式は厳しく、最後まで撤回する自由も奪えない。
よし。
これなら忘れません。
共同遺言。
自筆証書遺言。
遺言能力。
撤回。
全部、一つの考え方でつながりました。
すると。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「こはる」
「はい?」
「じゃあ、一問」
「来ましたね!」
「夫婦が同じ紙に、それぞれ遺言を書いた。二人とも署名押印している。どうなる?」
「共同遺言の禁止に抵触します!」
「よし」
「ただし、具体的に二人が同一証書で遺言をしたものかどうかは、文面を確認します!」
「ほう」
「単に二人の名前が載っているだけで、何でも共同遺言と決めつけません!」
「……成長したな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
私は笑いました。
「次、お願いします!」
「十五歳の少年が、親の同意なく遺言を書いた」
「遺言能力があれば、親の同意は不要です!」
「よし」
「ただし、遺言の方式は守らなければいけません!」
「よし」
「次!」
「夫が妻に『俺の遺言は絶対に撤回しない』と約束した」
「撤回権は放棄できません!」
「よし」
「民法千二十六条!」
「やるじゃねえか」
私は得意になりました。
「もう一問!」
「じゃあ、昭和六十三年に、ワープロで本文を作って署名押印した自筆証書遺言は?」
「駄目です!」
「どうしてだ」
「当時の自筆証書遺言は、全文自書が必要だからです!」
「よし!」
やった。
今日は絶好調です。
「次!」
「……お前、何でそんなに元気なんだ」
「試験に出ますから!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい! 片桐行政書士事務所です!」
『あのう……遺言書のことで、お聞きしたいんですが』
年配の男性の声でした。
「はい。どうされました?」
『私、遺言書を書こうと思っていまして』
「はい!」
『でも、家族には中身を知られたくないんです』
私は頷きました。
なるほど。
遺言には、自筆証書遺言のほかにも、公正証書遺言や秘密証書遺言があります。
秘密証書遺言。
内容を秘密にしながら、法律上の方式に従って作る遺言。
もっとも。
自分で封筒に入れて、封をするだけでは、秘密証書遺言としての方式を満たしません。
公証人。
証人。
封印。
署名押印。
守るべき手続があります。
『それでね』
男性が続けました。
『遺言書を封筒に入れて、仏壇にしまっておけば、それでいいんでしょうか』
……。
私は、相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
そして。
小さく笑いました。
「こはる」
「はい」
「次の仕事だ」
「……はい!」
私は受話器を握り直しました。
「まず、どのような方式で遺言を残したいか、詳しくお聞かせください」
電話の向こうで、男性が安心したように息をつきました。
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も奥が深い。
人が死んだあと。
その意思を、誰がどう守るのか。
誰が何を受け取るのか。
そして。
他人が、その意思を勝手に書き換えてはいないか。
そこを確かめるのが、私たちの仕事です。
窓辺には。
春江さんが持ってきた赤い椿が飾られていました。
あの花を植えたおじいさん。
その家を守り続けたおばあさん。
そして。
これからも、そこで暮らす春江さん。
三人の時間をつないだのは。
たった一枚の、手書きの遺言書でした。
私はノートの最後の一行を、もう一度読み返しました。
――遺言は、一人で自由に決められる。だからこそ、方式は厳しく、最後まで撤回する自由も奪えない。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「私も遺言書を書いてみたくなりました!」
「お前、まだ十八だろ!」
「十五歳から書けます!」
「知ってるよ!」
「法律上は問題ありません!」
「だったら先に、今日の仕事を終わらせろ!」
「……はい!」
私は笑いながら、相談票を取り出しました。
そうです。
遺言は、十五歳から書ける。
でも。
今の私が書くべきなのは。
遺言書ではなく、相談票。
……残念。
法律上の遺言能力があっても。
見習いの仕事が減るわけではないのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




